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日本文学文化学会二〇一四年度大会講演録 歴史の窓から見通した高橋虫麻呂の軌跡 利用統計を見る

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(1)

日本文学文化学会二〇一四年度大会講演録 歴史の

窓から見通した高橋虫麻呂の軌跡

著者

大久保 廣行, 菊地

雑誌名

日本文学文化

14

ページ

2-25

発行年

2014

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007701/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

︿ 日 本 文 学 文 化 尚 早 会 一 一

O

一 四 年 度 大 会 講 演 録 ﹀ 日 所 時 二

O

一四年七月五日(土) 東洋大学白山校舎六号館

6202

教室 場

﹁歴史の窓から見通した高橋虫麻呂の軌跡﹂

菊地それでは、講演に移らせていただきます。本日は御案 内申し上げましたように、大久保慶行先生に、たいへんお忙 しい中、講演をお引き受けいただきました。 改めてご紹介するまでもないことですが、大久保先生は、 一九九四年、平成六年に都留文科大学を退職後、本学に教授 として着任され、二

O

O

七年、平成一九年まで勤務いただい た先生でいらっしゃいます。この問、東洋学研究所所長、学 科主任、大学院専攻主任をお務めになり、大学及び学科にた いへん御尽力いただきました。 御研究では、上代日本文学を専門とされ、﹃万葉集﹄にお いて、山上憶良、大伴旅人、高橋虫麻巴など、様々な個性が 開花した﹃万葉集﹂の第三期を中心に研究を進めていらっし ゃ い ま す 。 御案内にございますように、御研究の成果は﹃筑紫文学園 論山上憶良﹄、﹁筑紫文学園論大伴旅人・筑紫文学園﹄、 ﹃筑紫文学園と高橋虫麻呂﹄という大著、三部作をはじめと 講演者

大久保

行(都留文科大学名誉教授)

!

して、﹃老病死に関する万葉歌文集成﹄、﹃万葉集研究余滴﹄ など多数おまとめです。また、現在でも様々な論文を発表し て い ら っ し ゃ い ま す 。 本日は御研究の一端を﹁歴史の窓から見通した高橋虫麻巴 の軌跡﹂と題して御講演いただきます。それでは、先生に御 登壇いただきますので、盛大な拍手でお迎えください。 先生、どうぞよろしくお願いいたします。

-2-大久保大久保でございます。過分なご紹介をいただきまし て大変恐縮です。今お話にありましたように、私は二

OO

七 年まで本学科で上代文学を担当し、定年退職をいたしまし た 。 その間専ら﹃万葉集﹄を研究対象としてきましたが、最近 の﹃万葉集﹄研究は、写本そのものに遡つての再検討とか、 あるいはテキスト論とか、さらには学際的・国際的なものに まで大層拡大化し、極めて多岐に百一っています。その中にあ

(3)

って、私自身は、文学研究の根幹として作品と作者の問題は 決してゆるがせにできないと考えて取り組んできました。 私の関心は、今菊地先生が触れてくださったように、正統 の宮廷和歌の縛りから脱して独特の個性を発揮した万葉第 三 期にありまして、大伴旅人に始まり山上憶良へ、またその総 合的な文芸活動としての筑勝手手圏の問題、さらには高橋虫 麻呂へと移り進みました 。 その考察結果はさきほどご紹介いただきましたような数冊 の論集にまとめて公刊しましたが、その後の多少の考察も含 めて、最後の 主 要 一 ア 1 マであった高橋虫麻日の問題を今日は 取り上げてみたいと思います 。 ところが虫麻呂という人は、実は万葉作品以外には 何 も残 されていないので、まったく謎の歌人というほかはなく、研 究するにははなはだ勝手が悪いのです 。 そのため、私はこれ まで彼の作品論を課題と し て、とりわけ伝説歌論を重点的に 取り扱って参りました。 ですが、今日は敢えて作品の中身は脇に置いて、当時の歴 史の袋に分け入 っ て虫麻日を眺めたらどうなるかという、い わば虫麻呂の外枠の問題に視点を変えて考えてみたいと思い ま す 。 その中心に藤原字合という高級律令官人(官僚)を据え て、いわばそれを鏡として虫麻呂の全体像を写し出してみよ うとい う 試みであります 。 そこで、プリントを二種お手元に差し上げてあるかと思い ますが、ーの方はこれからお話する内容の順に沿ったもの で、ご覧になりながらお聞きください。 E の方には虫麻呂の 全作品を掲げてありますので、一々は触れませんが、適宜ご 参照ください(本稿では割愛) 。 それでは早速、お話に移りたいと思います。 ︹ 高橋虫麻巴作歌 ︺ ( ﹁ 万 葉 集 ﹄ 目 録 )

3

-A 詠 一一不尽山一歌一首空軍吉三一九 i 三 一 一 一 ) 惜 レ 不 レ 登 一 一筑波山 -歌一首 ( 8 一 四 九 七 ) 歩 一 上 総 末 珠 名 娘 子 一 一 首長歌 ( 9 一 七 三 八 ・ 一 七 三 九 ) 詠 二水江浦島子 二 首 静 止 短 歌 ( 9 一 七 四 0 ・ 一 七四二 見 二 何内大橋独去娘 -歌一首主

E

2

一 七 回 二 ・ 一 七 四 三 ) 見 二 武蔵小埼沼鴨一作歌一首 ( 9 一 七 四 四 ) 那賀郡曝井歌 一 首 ( 9 一 七 四 五 ) 手綱演歌一首 ( 9 -七 四 六 ﹀ 1 b l i p-bl 春三月諸卿大夫等下一-難波一時歌二首珪幸吉 一 七 四 七 ・ 一 七 四 八 、 一 七 四 九 ・ 一 七 五 O ) 難波経宿明日還来之時歌一首弁車工日一七五 一 -一 七 五 二 ) B C D E F G H J

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K 樹樹倒対側側、登一一筑波山一時歌一首弁題歌(9・一七五三・一七五四) 詠二審公鳥二首益敵(9 一 七 五 五 ・ 一 七 五 六 ) 登 二 筑 波 山 -歌 一 首 弁 短 歌 ( 9 一 七 五 七 ・ 一 七 五 八 ) 登 一 一 筑 波 嶺 -為 ニ 熔 歌 会 一 日 作 歌 一 首 基 地 骸 ( 9 一 七 五 九 ・ 一 七 六 O ) 鹿 百 田 郡 刈 野 橋 別 一 一 大 伴 卿 一 歌 一 首 韮 歎 ( 9 一 七 八 0 ・ 一 七 八 一 ) 詠二勝鹿真間娘子 一歌一首革歓(9一八 O 七 ・ 一 八 O 八 ) 見ニ菟原処女墓 -歌一首 ( 9 一 八 一 0 ・ 一 八 一 一 ) L M N

P Q R ︿以上﹁高橋虫麻呂歌集中出﹂﹀ l u l i p -p l l u l 四年壬申、劇周引制刷遺一-西海道節度使-之時、副樹湖到刷副阿川歌 一 昔 自 覚 領 厭 ( 6 九 七 一 ・ 九 七 一 一 ) プリントの官頭にお示ししたこの表は、﹃万葉集﹄の目録 に収められた虫麻呂作歌の題詞を抜き出したものです。この ように目録や題詞はすべて漢文で書いてあるのですが、 A か ら R まで、合計 一 九編三六首(長歌一五首、短歌二

O

首、旋 頭歌一首)が現存の虫麻呂作品のすべてで、巻二了六・八・ 九 に 収 め ら れ て い ま す 。 この表から知られることは何かといいますと、虫麻日とい う作者名といっ作ったかという作歌年次を明示したものは最 後 の R の歌だけで、他の A か ら

Q

までの歌はすべて高橋虫麻 呂歌集から摘出したものだということです(それはプリン ト E を見ていただくと、各歌の左注に﹁右何首は高橋虫麻呂の 歌の中に出づ﹂とか﹁右何首は高橋虫麻呂の歌集の中に出 づ ﹂ と あ る こ と で 分 か り ま す ) 。 これらの歌集歌は

A

-B

以外はすべて、多くの個人歌集を 集めた巻九に集中しております。 これらのことから、この表からは、①高橋虫麻呂という万 葉歌人が(天平)﹁四年壬申﹂時には確かに存在したという こと、@自分の作を個人歌集として編んだということ、③そ れが﹃万葉集﹂編纂資料の 一 つとして用いられたというこ と 、 こ の 三 一 点 が 辛 う じ て 知 ら れ ま す 。 虫麻呂について

4-(一) 最初に申し上げました通り、虫麻呂がどういう人物であっ たのかはさっぱり分かりません。出身はどこか、いつ生まれ ていつ死んだか、どういう閲歴をたどったか、何もかも不明 な の で す 。 ただ、後でお話することからご理解いただけると思います が、どうも彼は、都の割と位の低い官人であったことが考え られます 。 これらのことがすべて分からないということは、 官人であったとすれば、﹃続日本紀﹄(﹃日本書紀﹄の後を受 けた第二の正式な歴史書)などの史書に登場しないので、位 が五位にも達しない下級官人だったことが想像できるわけで

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す 。 それに関して、契沖という江戸時代の学者は﹃万葉代匠 記﹄(精撰本)の K の歌の注釈で、養老年中に藤原宇合が常 陸守であった時に、虫麻旦 口 が嫁・介といった属官(配下の 官)であったろうと推測しています。 この推論が現 在 でも通説化して、大体動かないだろうとい うことになっています 。 そこで、このことの検証からまずは 始めてみたいと思います。 そのために、これら の歌の中から 常陸固に関わる歌はどれ く らいあ るかを抜き出してみますと、八編 一 三首 ( B -G -H-K ・ L -M -N ・

O

)

もあるのが目を 引き ます 。 これら は養老三年川七月以降に成立したというのが私の推定です が、これは後で触れます 。 この常陸固に関わる歌をさらに分類しますと、 川 筑波山関 係歌が九 首 ( B -K-L -M -N ) 何 筑波山以外の常陸 の 地の歌が四首

(

G

-H

-O

)

ございます 。 このうち

K

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の 二 首 ずつ計四首は大伴卿との結びつきで詠まれていますが、 大伴氏の高 官 と関係があったということは彼が官人でなけれ ばありえないことです 。 官人で あ ったとすると、常陸の国府 の役人、つまり国司の一員だったろうと考えられるわけで す 。 ザ ︼札れ U h リ この国府といいますのは 、 茨城郡、今の石岡にありまし た。筑波山はその西方おおよそ一五キロほどに位置してい て、年中見ることができる山なのです。そればかりでなく、 川の歌から考えますと、彼は少なくとも三 一回は登っているこ とが分かります 。 筑波山以外の地の歌

(

G

-H

)

は、多分国司の囲内の巡行 の義務とつながるのでしょう 。国 司は、その国の人民の状況 をきちんと掌握する必要があったので、そういう役回りで水 戸 ・ 高 萩 方面を訪れた持の 歌なのだろうと推察されます 。 では国司だとすると、虫麻呂はとんなランクだったでしょ うか 。 この時の守は、後で詳 し く申しあげますけれども、正 五位上・藤原字合でした 。 守 というのは国府の長官、今でい えば県知事に当たります 。 当時は四等官制で、官位が四段階に分かれていました 。 { 寸 の次が介(正六位下)、つまり次官で、副知事に当たります 。 じよう さ か人 この時の介はだれか不明です 。 その下が捻 ( 二 一 官 ) ・ 目 ( 四等 官)となります 。 国は上国 ・ 大 国 ・中国・小固と四 等 級に分かれていて、ラ ンクによ って国司 の人数が定められています 。 常陸はそのう ちの大国に当たるので、抜は大橡 ( 正 七位下 ) ・ 少 橡 ( 従七 位下)と二つあります 。 後でご説明いたしますが、私はこの 時虫麻呂は介でもなく少橡でもなく、大橡であったろうと推 察しております。

-5

(6)

その下が日で、これも大国の場合は、大目(従八位上)と 少日(従八位下)の二種類があります。

に)

字合につ い て さて、この時に字合が固守であったことはどのようにして 分かるかということになります。{子合はこ存知の通り、藤原 不 比 等 の 第 三 子です が、この人については、プリント I の 最 後に略年譜と簡単な系図を掲げておきましたので、適宜参照 なさってください 。 この宇合が﹃続日本紀﹄に初めて登場するのが、第八次遣 唐使任命の記事なのです。元正天皇の霊亀一一年前八月二十日 のことです 。 たじひのまひとみがたもり それを見ますと、丹比真人県守を遣唐押使(大使の上の高 官 ) 、阿倍朝 臣安麻日 を遣唐大使(翌月大伴宿祢山{寸に交替) と し て 、 三番目に﹁正 六位下藤原朝臣馬養を副使とす﹂と出 て参ります(字合は、最初﹁馬養﹂とい、ユ表記で史書に登場 します ) 。 字 合 は この月に 早 速従五位下とな って、遣唐使 に 加わるのです 。 この時の遣唐使の目的は、まず唐のいろいろな文物(書 籍・器物など)を輸入したり、儀式や律令や制度あるいは礼 についても学んでこようというものでした。ちなみにこの時 は留学生として吉備真備や、例の﹁ 三 笠の山に出でし月か も ﹂の阿倍 仲麻呂、留学僧として後でいろいろ問題となる玄 肪などが一緒に渡唐しました 。 この翌年、霊亀三年二月に 一 行は天皇にお目にかかり渡 唐、十月に唐で朝貢して、養老二年前十月にたった 一 年で帰 国します 。 そして翌年正月十日に天皇に拝謁、十 三 日 に は 三 人の位階のランクが 上がって います ( 県 守は正四位下、山 { 寸 ・馬養は共に正五位上 ) 0 そこで私が注目したいのは、養老 コ 一 年 川 七 月 十 三 日 、 帰 つ あ ぜ ち てから 一 年足らずのうちに按察使(本来は﹁あんせちし﹂) が設置され 、 一一名が任命されたことです(﹃続日本紀﹂ ) 0 この記事から抜き書きすると、遠江田守の大伴宿祢山{寸には 駿河・伊豆 ・ 甲斐の三国を治めさせる、常陸国守の藤原朝臣 かみつふさしもつふさ 字合には安 一房・上総・下総の三国を治めさせる、そして武蔵 か み つ け の し も つ け の 国の丹比真人県守には、相模・上野・下野の三国を治めさせ るとあります 。 この按察使以前には地方官を監督する巡察使というのがあ りましたが、臨時の 官でし た 。 それが、唐に行って 一 定 期 間 在駐する按察使制があることを知り、それに倣って、帰国後 ただちに新設したのだろうと考えられています 。 これは、国 司の上に置いて、人民を掌握し、律令行政を辺境の末端まで 浸透させる役目を負ったいわば行政監督官なのです 。 え み し とりわけ、このころいろいろ問題となっていた蝦夷を緊急

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-6-の重要課題と認識して、不比等たちが考え出した対蝦夷政策 の一環と言っていいでしょう 。 さて、この 三 名は大変おもしろいことに、さきほどの遣唐 使と名前が全く重なります 。 つ ま り 、 一 一 一 名 とも遣唐使であ っ た者が、ここでそのまま按察使に任じられているわけです 。 しかも、この按察使たちの守備範囲というのは、 一 番西が 遠江、それから武蔵、 一 番東側が常陸なので、遠江から東の 東海道・東山道をすべて含むことになります 。 このことか ら 、いわば東国防衛圏の強化を図ろう したと考 えてよいかと 思います 。 あづ主ヴた ち な み に 、 ﹃ 万葉集 ﹄ の巻十四に ﹁ 東 歌 ﹂ が収められてい ますが、その中の国名の分か っ ている歌のほとんどはこの遠 江から常陸までのものです( 一 部陸奥歌を含む) 。 二 例共東 国の範囲をとう考えていたか、当時の東国意識を反映してい る こ と が 知 ら れ ま す 。 そこで、この ﹃ 続日本紀 ﹄ の記事でちょ っ と引 っ かかるの は 、 常 陸 国 { 寸 で あ る 藤 原 字 合 が 安 一 房 以 下 三 一 国 を 治 め る と い う 記述の仕方です 。 このまま素直に読めば、彼らはまず 国守に 任命されて、その後に按察使の官に就いたということになり ます 。 と こ ろ が 、 一 一 名 の 按 察 使 の う ち 、 一

O

年 以上前から美濃 国守とな っ ていた笠麻 呂 を除くと、後の 一

O

人は前任が国守 であった形跡が全くありません 。 それから、国司に任じられて一日 一 任国へ赴き拝命のために 再び都との間を往復するのは時間的にかなりの無駄が生じ、 緊急時には不向きな人事です 。 こ れ らのことから私が考えたのは 、何々の 守と按察使とは 同時任命だったのではないかということです 。 こ の 三 名につ い て 言 えば、まず東国の按察使として選ばれ、次に常駐すべ き国が決められて、その国の国守として任じられた、という ことになろうかと思います 。 それが史書の文章としては、ど こそこの国の守が按察使にな っ た という書き方になるわけ で す 。

-

7-こ れ で、この時字合が正五位上で常陸国の国守であったこ とは、まず間違いない ことと し て 抑 えられます 。 虫麻 目の上 司 の 守とし て 字合 がいたことが実証されることになります 。 私がさらに注目したいのは││これはどなたも全然触れて いませんが││按察使が任命された六日後 ( 七月十九日 ) に ﹁按察使の典を補す﹂(﹁続日本紀 ﹄ ) と あ る ことです 。 ﹁ 典 ﹂ というのは補佐官のことで、この時誰がなったかは 一 切書か れていません 。 それは、この典なる人物たちがやはり五位よ り下の下級官人だったからでしょう 。 こ の 典が翌年には﹁記事﹂に改められますが、 こ の 記事の だいさかん 待遇は大宰府という役所の、大典の正七位上に近いという歴

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史家の指摘があります。そうしますと、さきほど申しました 大国の大捻とほぼ同等と言っていいかと思います。となる と、この時に虫麻呂が常陸の大橡と同時に按察使典にも任命 された可能性が十分考、えられます 。 ところで常陸介は按察使典にはなれません。なぜなら介は 守が按察使としてほかの国に行った場合、自分が留 守官とし て固守の代理を勤めなければいけないからです。守とは同道 で き な い の で す 。 これらのことから按察使典には、大橡クラスが考えられる わけです。虫麻巨は多分この時常陸国大抜と共に按察使典と して任じられたであろうというこの想定を起点として、これ からお話を進めたいと思います。 虫麻呂がなぜそんな大役に選ばれたのか、全く分かりませ ん。大体都でどのような官にあったかということすら不明な ので、想像するしかないのですが、虫麻日の伝説歌を分析し ますと、彼が時間や空間を飛び越えて、非常に鋭く物事を見 通す力を持っていることが察せられます。目に見えないも の、耳に聞こえないものをキャッチする、いわば超能力や情 報収集能力に優れていて、それが評価されたのではないかと 思 う の で す 。 これで、養老三年別七月に、虫麻呂が国{寸字合の下僚とし て大橡と按察使典の大任を担って宇合と共に常陸固に下向し たことにたどり着きました。これは単なる守と大橡以上の関 係であるだけに、のちの 一 人 の 親 密 度や信頼感を深める大き な要因になったものと思います。 従って常陸の囲内の歌々が大橡に在ったことで詠まれたこ とが納得されますが、常陸回以外の四編入首の東固に関わる 歌 ( A ・ C ・

F

-P

)

はどうなるのかということを次に考え たいと思います 。 弓 常 陸 国 以 外 の 虫 麻 呂 の 東 国 関 係 歌 さて、普通固司は、自分の勤務地以外の国へは行かないの で、これらの歌は都から常陸へ行く途中か、あるいはその帰 りに詠んだのだろうと軽く考えられているのですが、どうも それでは解けない歌が中にあります。そこで私はこんなふう に 考 え て み ま し た 。 まず C の上総国の場合ですが、これは上総の周准に住んで いた、珠名というきわめて特異な評判の女性を詠んだ歌で す。周准は上総の周准郡(今の君津や富津の辺り)で、国府 は市原郡にありました 。 あ は こ の 歌 は ﹁ し な が 鳥 安 房 に 継 ぎ た る 梓 弓 周 准 の 珠 名 は﹂と歌い出されますが(﹁しなが鳥﹂や﹁梓弓﹂は枕詞)、 ﹁ { 女 房に継ぎたる ﹂ ﹁周准﹂をどう解釈するかが問題です。説 は分かれますが、安房固につながった上総国の周准郡と解す

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-8-るのが一番穏当だろうと思います。 ここで注意すべきは、{女房がなぜ詠みこまれているかとい うことです。実は宇合らが常陸固に赴任する前年、養老二年 へ く り あ さ ひ な 々 が さ 市の五月に、上総固の中から平群・安一房・朝夷・長狭の南四 郡を分割して、安房固を独立させています。大和朝廷の東北 進出のための補給地として重視して、当時の右大臣藤原不比 等が対蝦夷政策としてこの分立を断行したとされています。 み ち の く 常陸の先は全部﹁道の奥﹂つまり陸奥で、大きな陸奥固 と、越後から分立した出羽国があり、そこに蝦夷の人たちが 住んでいました 。 それを完全に大和朝廷の支配下に置きたか ったわけです 。 そういう分立が前年に行われたので、宇合たちは成立後間 もない安一房国(国府は平群郡)に直行し、状況を把握するこ とが急務だったと思います 。 安房と珠名は何の関係もないの で、歌としては最初から﹁上総周准の珠名は﹂と詠み出せ ばいいはずです 。 {女房をわざわざここに持ち込んだ背景に は、今申しましたような事情があったのではないでしょう カ しかも安房、その北側の上総という順でこれらの地名が取 り上げられていますが、どうも安房から上総へという旅の行 程をここに刷り込ませているような気がいたします。 また、二番目に下総国の歌 ( P ) の場合ですが、これも按 察使である字合に典である虫麻呂が同行し、その時に詠んだ ものと考えてよかろうかと思います。この歌には 、 中に ﹁ 勝 鹿の真間の手児名﹂と出て参ります。﹁真間﹂は下総国の 真間郡のことで、国府の所在地でもあります。最終的にはそ こに行ったわけですが、そこにかつて手児名(呼び名)とい う伝説的な美女がいて、その悲劇を詠んだのがこの歌です。 これも、安 一房から上総に入り、さらにその北側の下総へ行 って、そこから常陸へ戻るというコ l スが考えられます。す ると、これらの国々は実は宇合が按察使として監察・監督す べき固なので、所轄 三 国がすべてこれらの歌の中に含まれる ことになります 。 それから三番目に武蔵国の歌

( F

)

があります。ここには 武蔵国守の丹比県守が按察使としておりましたので、そのも とに虫麻巴が派遣された折の作ではないかと思います。 さ き た ま を さ き は ね お の それは、﹁埼玉の小埼の沼に鴨そ翼きる己が尾に降り置 ける霜を掃ふとにあらし ﹂ という歌ですが、 ﹁ 埼玉 ﹂ は武蔵 国の埼玉郡で、国府はずっと北の多磨郡(現在の府中の辺 り)にありました(小埼の沼は今の行田付近)。 か み つ け の そうすると、これは常陸から 上 野の方に出て武蔵固に入り、 埼玉郡を通って多磨郡へ向かうその途上で詠んだわけです。 この武蔵固というのは、実は当時は東山道の 一 国で、東海 道に編入されたのはずっと後の宝亀三年

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の こ と な の で す 。

-

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9-東京湾が深く入りこんで湿地帯がずっと拡がっていたので、 通 行 で き な か っ た の で す 。 そのため、都から東海道を相模固まで来ると、後は例のヤ はしりみず マトタケルが通ったコ l スをたどって、三浦半島の走水から 船で上総に渡り、上総←下総←常陸へと向かったわけです。 よって、この歌が東海道往還の時に詠まれたということに はなりません(東山道経由なら可能ですが)。すると、どう してこんな離れたところを通ったのかということが説明でき な い と い け ま せ ん 。 虫麻旦口は多分按察使典として字合の命を受けて武蔵国へ赴 いたのではないでしょうか。その用務は、自分たちが管轄す る、常陸を中心とする=一国の監察の結果を県守にもたらし、 県守からも、相模・上野・下野に関する結果報告を受ける、 そうした情報交換を中心とする諸連絡にあったと思います。 もともとこの三人の遣唐使たちの結束は固く、こうした緊 密な連携プレーをしばしば行ったことでしょう。虫麻口白はそ の情報連絡役として派遣されたものと考えます。 果たして、養老四年加九月には蝦夷が反乱を起こして陸奥 か み つ け の の按察使上毛野広人が殺害されます 。 この時県守は既に播磨 の按察使に代わっているのですが、持節征夷将軍(蝦夷を制 圧 す る た め の 大 将 ) に 任 じ ら れ て い ま す ( ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ ) 。 県守が三人の中心だったので、字合がどうしても県守に情 報を伝えたいのであれば、この歌の成立は養老三年の冬(歌 中の鴨と霜で明らか。十一 1 十二月ごろか)としか考えられ ません。それに間に合わなくて県守の後任だった場合には、 翌年の冬ということになります(末尾付注①参照)。 ふ じ の や ま さらに、四番目に﹁不尽山﹂の歌 ( A ) があります。いろ いろ問題のある歌ですが、今はそれに触れないで、一応、通 説通り虫麻呂の作と考えてお話を進めます。遠江田には大伴 山守が按察使として常駐していたので、そこへ武蔵国の場合 と同様に虫麻呂が特命を受けて派遣された、その時の歌では な い か と 考 え ま す 。 これもやはり山守の所轄国をまず取り上げて、﹁なまよみの 甲 斐 の 国 う ち 寄 す る 駿 河 の 固 と こ ち ご ち の 国 の み 中 い た か ね ゆ 出 で 立 て る 不 尽 の 高 嶺 は ﹂ と歌い出されるのですが (﹁なまよみ﹂やでっち寄する﹂は枕詞)、甲斐固と駿河国、 その両方の国の真ん中からそそり立っている富士の山はと、 実に堂々とした歌いぶりです(末尾付注⑦参照 ) 0 せ さらにその先には、﹁石花の海と名づけてあるも:不尽 河と人の渡るも﹂という海や川の名前が出て参ります。ず っと後のことになりますが、貞観六年拙の富士山の噴火でこ の﹁石花の海﹂は分断され、現在の精進湖と西湖になりま す。また﹁不尽河﹂は富士山から流れ出た川ではありません が、甲斐固と駿河国を貫流して駿河湾へ注ぐ大きな川です。 日 U

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それらの地名がここに詠み込まれていることを考えます と 、 この時も虫麻呂は

F

歌と同じ用務で遠江に赴き 、 その結 果を共に翌年の一月に中央へ報告する必要があったのではな いでしょうか。すると、これも養老四年の後半ごろの作に絞 れるのではないかと思います。 そ の コ l スとしては武蔵国を経て 、 甲斐固に入り、さらに 富士山の北側を通って石花の海の脇を過ぎ、富士川の方へ出 てそれに沿って駿河国に入り、そこから目的地の遠江に向か ったと考えられるわけで、そのル l トが道行き風にこの歌に 詠みこまれているのではないかと思います。 そういうわけで、この C ・ P-F -A の四編の裏には、こ の三人の按察使たちの緊密な連携が秘められていて、情報の 伝達と共有のための使者として虫麻邑が役割を遂行する 中 で 詠まれたものと考えられるのではないかと思います。上総や 下総の歌は字合と同道し 、 武蔵や富士の歌は宇合の命によっ て遣わされた折のものということになるでしょう。 そうしますと、これらの旅の歌はすべて官旅つまり公の旅 に在つてのもので、地名は訪問地や経由地の証しであり、そ の時の旅の行程や役割を暗示した、いわば記念スタンプ的な 記録と言ってよいかと思います。よく虫麻呂は旅の歌人ある いは漂泊の詩人などと称されますが、決して物見遊山の旅を したわけではなく、重要な官命や用向きを帯、びた旅であった わけです。虫麻日の歌には、他の歌人に比べて、飛び抜けて 地名が多い理由もこれで納得がいきます。山を神として崇め た虫麻日のことですから、新しく足を踏み入れる地に対して も、深い尊崇の念をそこに込めようとしたのでしょう。 そして、これらの歌々は訪問先の国府で国司たちに披露さ れたものと思います。勿論帰国後の常陸でも報告を兼ねて歌 われたことでしょう。 従って、以上の常陸の歌や東国関係歌は、虫麻呂の常陸で の在任期間、すなわち養老 三 一 年川秋から養老七年末(次項) の聞に成ったものと推察されます 。

(

句 E ム 唱a A 宇合の遷任 さて、こうした任務を終えて宇合たちが都に戻ったのはい つかということになりますが、選任・帰京の時期は﹁続日本 紀﹄に記録がないので不明です。しかし、少なくともっ一年は 在駐したことが、﹃懐風藻﹂の中の宇合の詩から知られます。 実際、歴史家の指摘によれば、養老年中(川秋

l

m

)

に は 按察使の所期の目的を達成したのではないかということで か れ め す。字合がいよいよ上京しようとした時の宴席で遊行女婦の 贈った惜別の歌

(

4

五二一)が伝えられています。 養老人年加 二 月に改元して神亀元年となりますが、三月に こ や は再び蝦夷が反乱を起こして、今度は陸奥国の大抜佐伯児屋

(12)

麻巴が殺害されます。帰京して式部卿(式部省の長官。文官 の人事や行賞を掌る)となっていた字合は、その鎮定のた め、四月に持節大将軍を拝命して陸奥へ参ります 。 十一月 末に帰還して、その功に よ り 翌 年の閏正月に従 三 位 勲 二 等を授けら れます ( ﹃ 続 日 本 紀 ﹂ ) 。 ところが 、この間の虫麻 呂の動静は全く不 明です 。 多 分 、 字合と一緒に養老末年(七年中)には帰京していて、都の官 に復していた かと考えられます 。 ( 以 上 少 々 長くなりま したが 、ここまでがお話の第一ステ ー ジ で 、 いわば基礎固めです 。 次に第 二 ステージである聖武 天 皇 の難波 宮 改修の問題に移ります 。 ) 国 聖武天皇の難波宮の改 修 お び と 文武天 皇 の 皇 子、首 皇 子が神亀元年間 二 月に即位して聖武 天皇になり ました 。 天皇は、まず初めに難波宮を改修しようという大事業に取 りかかり ます 。 この難波宮の 跡は、現在の 大阪府中央区の大 阪城のすぐ 南 側にあります 。 古くはここに 仁 徳天 皇 が難波高津宮を造 っ た とされていますけれども、これはいわば伝承の存在です 。 そ わ ゆがらとよさきのみや の後、孝徳天皇の時に難波長柄豊碕宮を造 っ て(前期難波 宮 ) 都としたのですが、朱鳥元年蹴に全焼してしまいます 。 それから四

O

年近く経って、すっかり荒廃していたのです 。 この難波 宮 を再建 し て 、 首都に対して副都 としたか っ た の でしょう 。 実 際 に は 、 一 時首都として使 っ た時期もあるよう ですが、最初の思惑は副都であ っ たようです。これを後期難 波宮と呼んでいます 。 その経緯は、次の通りです 。 即位した翌年 の神亀 二年十月 に天皇は難波宮に行幸し、さらに一年後の神亀三年の十月十 九 日 に も 再度行幸しま し て 、 その一週間後、十月二十六日に 式部卿従三位であった字合を知造難波宮事に命ずるのです ( ﹁ 続 日 本紀 ﹄ ) これは宮都造営に関わる最高指揮官、最高責 任者という大変 重 要な役目なのです 。 そして、後のことになりますが、この事業と関わ っ て、虫 麻邑は都と難波を往復する歌(難波 往 還歌群 。 ー ・

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)

を 一 一 一 編六首詠みました 。 も ろ も ろ ま へ っ き み た ち そこで

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の歌の題詞を見ます と 、 ﹁ 春 一 一 一 月 に 諸 の 卿 大 夫 等 の難波に下りし時﹂と出て参ります 。 この﹁春三月﹂はいつ か と い う ことになるのですが、 ﹃ 続日本紀 ﹂ 天平四年 間 三 月 二 十 六日の記事 に、上は 知造難波宮事の字合 から下は力役な どに携わ っ た人たちまで天 皇 からご褒美をいただいたとある ので、造営工事の完成を祝う式典行事の折だろう と指 摘され ています 。 これは旅の歌ですが、 円 L 守 E 4 み その中に﹁旅行く君が ﹂ ﹁ 君が御行

(13)

き ﹂ ( I ) とか﹁君が見む﹂

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)

とか、﹁君﹂という表現が 出てきます。これは誰を指すのかということになりますが、 題詞の﹁諸卿(ごく上級の官人たち)大夫(五位を中心とし た中級の官人たちこの中の中心人物である藤原字合であろ うと伊藤博氏は指摘しておられますが(﹁万葉集釈注五﹄)、 その通りであろうと思います 。 つまりこの歌は、都が出来上がって、完成の式典行事のた めに難波へ赴いた、非常に公的な旅の折のものと考えられる わけです 。 それに虫麻巴も随行して

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の 歌 を 詠 み 、

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は何 ら かの理由で翌臼 一 人帰京した時に詠んだものです 。 歌の制 た っ た や ま 作・諦一誌の地は、共に歌中の﹁龍田山﹂山麓の、大和と河内 の国境です。ーはそこで宴などを催して詠まれたものでしょ 、 ﹁ ノ O こ こ で 一 番の問題は、虫麻呂がどういう形でこの難波宮造 営事業 に 関 わ っ た か ということです 。 そこで想起されるのは、このような宮都や大きな建造物を 築く場合には、国家的な機関や組織が設けられたことです。 新たに平城京を造営しようとした和銅元年明九月三十日の ﹃ 続日本紀﹄の記事は、 一 大プロジェクトである﹁造平城京 おおとくみ 司﹂を設置して、長官二名 、 次官三名、大匠(建築技術関係 の長)一名、判官七名、主典四名を任命したことを伝えてい ます 。 また、大寺造立の折も﹁造東大寺司﹂や ﹁ 造西大寺 司﹂が設けられました 。 これらの例から、史書には出てこないのですが、この難波 宮造営という大工事に際しでも﹁造難波宮司﹂という機関を 立ち上げたであろう ことは容易に考えられるわけです 。 そして、おそらく長官・次官・大匠・判官・ 主 典なども任 命され、字合はプロジ ェ クトの総括的な立場に在って、いわ ばその日最高指揮官を勤めたのでしょう 。 その時虫麻日は再び 字合に用いられたのではないかと私は思っています。七位ク ラスですから、この 四等官(大匠 以外 ) に 配 し ますと、最後 の主典辺 りに 対応するので、造難波宮司の 主 典として参画し たのだろうと考えられます 。 そうでもなければ、この晴れが ましい一行の中に加わることも出来ないし、ましてやそこで 公的な歌を詠むことも出来なかったでしょう 。 このように考 えると、作歌した由縁が納得いくわけです 。 ところで、役所そのものはどこに存 在したの か、はっきり とは分かりませんが、都には勿論本部的なものがあったので しょうが、現場である難波の方にはなんらかの公的施設が設 けられていて 、 これらの 官 人たちはそこに常駐していたのだ ろうと思います。字合は都の高官ですから、行ったり来たり していたものと思います 。 さて、この時に字合自身の詠んだ歌

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3

一 二 一 一 一 ) が 伝 え ら ま へ っ さ み み や こ れています 。 それは題詞に ﹁式部卿藤原宇合卿の難波の堵を -

(14)

13-改め造らしめらえし時に作れる歌﹂とあることで明らかです 。 歌は、ここは昔こそ難波田舎と 言 われたろ 、つけれど、今は 都のあれこれを引いて来て 、 す っ かり都らしくな っ たことよ と、都の再生を誇らしげに讃美しています 。 これも諸卿大 夫 たちの大勢 居 並ぶ、造営完成を祝す宴席で披露されたもので 1 レ ト ﹂ 匹 、 ﹁ ノ 。 さらに、これと直接関わるわけではありませんが、どうも この時期に詠んだと思われる虫麻呂歌が三編六首

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ご ざ い ま す 。 このうち

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の 歌 は 、 ﹃ 丹後国風土記 ﹄ の中に出てくる浦島 伝説の舞台を住吉 ( 摂津国住吉郡 ) に移して、虫麻呂が作り 替えた歌です 。 摂津国は大阪、一部は兵庫辺りにも及、びま す 。 二 番目の

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の歌は、河内の国府付近に新しく素晴らしい橋 お と め ができて評判だったのでしょうか、その大橋を独り行く娘子 に対する想いを詠んだものです 。 河内は大阪府の東部に当た ります 。 う は ら を と め ま た

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の歌は、摂津国菟原郡に住む﹁菟原処女﹂という深 ち ぬ 舎 と こ 窓の美女を﹁血沼壮士﹂と ﹁ 菟原壮士 ﹂ の 二 人が争って、壮 絶な闘いを繰り広げた、いわゆる妻争い伝説に基づいた歌で す 。 場所は今の芦屋の辺りです 。 これらの歌の舞台はすべて大阪から神戸の範囲に含まれる ことから、虫麻呂が難波に滞在したり、都と往復したりする 聞に伝承などの取材が可能にな っ たのではないかと考えられ ます(特に

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と Q は伝説歌 ) 。 そう し ますと、この

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の歌は、神亀三年初十月か ら 天 平四年四 三 月までの宮都造 営 期間に作られたものでしょ う 。 それらは宮の造営に関わる官人集団の前で披露され、大 いに喝采を博したものと思われます 。 ( 以 上 が 第 二 ス テ ー ジですが、第三ステージでは字合の節 度使任命の問題を取り上げます 。 ) ( 六)

度使の任命と虫麻呂歌

- 14 -天平 三 年加入月、式部卿の字合と民部卿 ( 民部省の長官 。 民政・財政を担当)の県守らは共に参議になりました( ﹃ 続 日本紀 ﹂ ) 。 参議というのは 、 大納言・中納言に次ぐ重職で、四位以上 の高官に限られます。参議となることによって、初めて朝政 に参画でき、いよいよ政治の中心に入っていくわけです 。 ふささき 翌天平四年八月十七日には、{子合の兄である房前(第二 子)が東海・東山 二 道の節度使、県守が山陰道の節度使、字 合が西海道(九州地方 ) の節度使に任じられます 。 これは、元々唐五代で置かれた辺境の司令官です 。 この年 つ の の や か ぬ L の正月に遣新羅使を拝命した角家主が八月に帰朝し、その報

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告に基づいてこれらの道ごとに設置した新しい地方監察官な の で す 。 目的は、これも軍事態勢の確立と海辺の防衛強化にあった のですが、今度はいろいろと関係が問題化してきた新羅が相 手で、いわば対新羅政策の一環なのです 。 この時、聖武天 皇 が節度使たちに酒を賜わ っ て 、 ﹁ あだお ろそかに思って行 っ て 来るのではないぞ、おおしい男子のも のどもよ﹂と、彼らを激励している歌

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6

九七回 )が﹃万葉 集﹂に残されています 。 一方、この場での作ではないと思いますが、これと関連し た﹁西海道節度使を奉ずる作﹂という字合の詩が ﹃ 懐 風 藻 ﹄ に収められています 。 えどち たび それには、昔は ﹁ 東 山の役 ﹂ 今度は﹁西海の行﹂というわ けで、自分は 一 生辺境での戦に明け暮れてしまうのだろうか と、いささか﹁大夫﹂らしからぬ心境が吐露されています 。 虫 麻 口 口 の R の歌は、実はこの時に詠まれたものです 。 題詞 に、四年壬申の年に西海道の節度使として宇合が遣わされた 特に高橋虫麻 日 が作った歌と、は っ きり断っていますし、左 注にも、﹁右は補任の文を検ふるに八月十七日に東山山陰西 海の節度使を 任 ず ﹂ と あります 。 最初に触れました通り、これは制作年次と作者名を明記し た 唯 一 の作で、虫麻旦口歌集には含まれてお り ません 。 こ の こ とは、この歌が決して個人的なものではなく、きわめて公的 な要請があって公的な場で詠まれた作であることを示してお り、虫麻日の強い意気込みが伝わってきます。 その内容は字合を送り出すためのいわば壮行歌なのです が、これもやはり龍田の国境まで字合を見送って、そこで催 した大きな送別の宴で披露されたものと考えられます 。 一 行 は龍田から難波に出て、そこから船で瀬戸内海を西に向かっ て九州を目指すわけです 。 当時虫麻呂は京官でしたが、所属 等はわ か りません 。 この歌には公的な儀礼性しか見られないという人もいます が、それと合わせてその中には宇合に対する深い親密感が熱 く込められていると思います(今は歌の分析は控えますが ) 0 しかも注目すべきは、この歌が虫麻呂の最新の作であ り 、 かつ最後の作となったということです 。 すると、これ以前の 歌はすべて虫麻呂歌集歌ですので 、それとの関 連性が問われ ねばなりません 。 以 上の流れから考えます と、この虫麻 呂歌集の最終的な完 成は、難波の往還 ( 天平四年 三 月)から節度使任命 ( 同八 月)までの問、それもかなり八月に近いころと抑えられるの ではないかと思っています。 その内容は、虫麻巴の東国時代の歌群

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に難波時代の歌群

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を加えた ﹁ h d 可E

(16)

もので成り立っています。これを送別歌

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合への銭別として献呈したのだと考えます 。 すると、この虫麻呂歌集の意義は、虫麻呂の任務と公旅を 裏に秘めた記録 的なもの であり、いわば 二 人の聞の思い出の 歌のアルハムとでも 言 えそうです 。 ですから、歌の排列はほ ぼ制作順に並んでいたものと思います 。 以上を表にまとめま す と 、 注 目の通りです 。 これらの歌集歌は、個人の歌集を中心に編んだ巻九に集中 的に収め られて い ま す が ( A -B は他の巻に切り出されてい ます ) 、巻九には巻九なりの編 纂の原理が働いているので 、 そっくりそのまま載せることはなくて、一部は解体されて、 現在見るような形になったのでしょう( 一 首 ずつ元の位置に 復元するのはおそらく不可能に近いのではないでしょうか ) 。 に添えて、字 (七)

さ て 、 二人はその後どうなったかというのが次の問題で す c まず字合に関しては、天平五年間十二月、その年の正月 に亡くな っ た県犬養宿祢橘 三 千代(不比等の妻 ) に 従 一 位 の 位を追贈する使者の 一 員 となっております( ﹃ 続日本紀 ﹄ ) 。 ということは、{子合は節度使の任を 一 矢示りで終えて、既に この時点で九州から都に帰京していたと考えていいと思いま す 。 現に翌年の正月には県守と共に正三位を授けられただけで はなく、四月には節度使を停止していますので ( ﹃ 同 ﹄ ) 、 字 合もここで解任されたのでしょう 。 字合については、その後四年間 何の 記事も見当たりませ ん 。 そして天平九年市八月五日に、いきなり﹁参議式部卿兼 大宰帥正 三 位藤原朝臣字合愛しぬ ﹂ と死去 ( ﹁ 懐風藻 ﹄ に 四 十四歳 。 五十四歳誤記説も)の記事が出て参ります(﹃同﹄ ) 0 その中の﹁大宰帥﹂というのは筑前国に置かれた大宰府の 長官ですが、字合の場合初見の任です 。 大宰府は九州全体を 統括する大きな地方府で、九国 三 島の内政はもとより国防・ 外交などにも深く関わったので、大和朝廷の出先機関として と ほ み か と 重要視され、﹁遠の朝廷﹂と称されるほどでした 。 実は大伴旅人が神亀四年初末ごろから約三年間帥として大 宰府に在ったのですか、帰京すると天平三年初の七月に亡く なってしまいます 。 その後任人事として九月に大納 言 の藤原 武智麻呂(藤原四子の第一子 ) が帥になりました 。 ところが 大納言は台閣の中心人物なので、都を離れるわけにはいきま せん 。 ですから帥は職名だけで任 地に赴かない、いわ ゆ る ﹁ 遥任の官﹂でした 。 そこで宇合が任じられることになったのでしょうが、それ は節度使を解任されてからのことで、実際に大宰府に赴いた ものと思われます 。 それが記事の空白期間に当たるでしょ r o 噌 E ム

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、 司 ノ 。 一 方 、 虫 麻 呂 の 場 合 で す が 、 { 子 合 が 節 度 使 と な っ た 天 平 四 年 八 月 以 降 は 、 虫 麻 自が字合直属の下官となる ようなことは もうありませんでした 。 二 人 の 職務上の近接関係はここで途 絶してしまうの で す。そのため 、歌を作 っ た り披露したりす る機会や場を失って、虫麻目は先ほどの R の歌を最後に ﹁ 歌 わぬ歌人﹂となってしまいます 。 そ れ ど こ ろ か 、 その後大変なことが起こります。天平七年 わ 人 加の夏から 冬にかけて、西海道諸国に ﹁ 一 腕 豆 癒 ﹂ ( 天 然 痘 の は く せ い こ と ご と わ か こと)が大流行して 、 ﹁ 百 姓 悉 く臥﹂し 、 ﹁ 天 く し て 死 ぬ る 者 多 し ﹂ と い 、 ユ 亭 態 に な り ま す ( ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ ) 。 さ ら に 二 年 後 、 えき さう やはり大宰府管轄内の諸国に﹁疫魔 ﹂ ( 疫 病 つ ま り天然痘) が流行り 出 し 、 す ご い 勢いで東へ蔓延して行っ た の で 、 天 下 の ﹁ 百 姓 ﹂ ﹁ 百 官 ﹂ の命が多く奪われました ( ﹃ 同 ﹄ ) 。 虫 麻呂 も 多 分 こ れに擢患 し て 、 このころ亡くなってしまったのだろ うと思わ れます ( 四 十歳前後か ) 。 し か も 、この疫療は政府 中枢にまで及 ん で 、 都 の 古 同 位 高 官 が 次 々 と 死 去 す る 羽 目 に 陥 る の で す 。 つまり天平九年初四月に は参議 民 部 卿 の 房 前 が 、 六 月 に は中納 言 の県守が、七月に は 民部卿の麻呂(第四子)が 、 さらにこと もあろうに左大臣(太政 官 の諸務を統括 ) の 正 一位武智麻呂も亡くなり ます 。 そ し て 八月五日、参議式部卿であった字合が最後 に 没 し た こ と で 、藤原四子による政権体制 はあえなくついえてしまうのです 。 f一一ーーλーーーーー「 百 知 ( 主陸国常守 言茜

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歌 差歌 養 は 老 五 年 夏 作 踊 詠 所 収 の 地 ヴ , , 1E A (J¥) 宇合と虫麻呂歌との関係 以 上の流れに沿って、最後 に 字 合 と虫麻 呂歌との関係を整理したいと 思います 。 両

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者の官人としての対応関係や歌の詠まれた場を考慮して、も う一度 一 覧表にまとめ直すと前頁のような表が得られます が、これが今日のお話の集約ということになります 。 ご覧の通り、虫麻自の作は、字合の要職とすべて対応して いて、常陸に赴任した養老 三 年七月から、字合が節度使に任 命された天平四年八月までの間に全部収まります。 すると、字合という人は虫麻日から見れば、作歌活動の理 解者であり促進者であったということになります。虫麻呂は 字合と共にあることで、作歌活動が保証され実現したので す 。字 合が征夷大将軍 ・ 西海道節度使 ・ 大宰帥といった役職 にある時は、当然のことながら属官となって同道・近侍する ことがないので、従 って歌作もありませんでした。そういう わけで、{子合の存在と字合との遭遇が、歌人虫麻自の誕生を もたらしたと 吾 一 中 え る で し ょ う 。 ですから、虫麻呂は字合に対して、恩顧を受けた感謝の念 と律令官人の上下関係を超えた親密感を懐いていたに違いな いと思います。{子合には虫麻呂に直接宛てた作はないのです が、虫麻呂の作にはそれがよく穆み出ています。 しかも字合は、詩歌に対して高い関心と卓抜な技量を持ち 合わせていました 。 ﹃ 懐風藻﹄には詩が六編、 ﹃ 経国集﹄には 日 本 で 最 古 の 賦 ( 韻 文 ) 一 一 編 、 ﹃ 万葉集﹄には和歌が六首残 されおり、さらに漢詩集﹃字合集 ﹄二巻 を著したという記録 もあるのです。まさに当代一流の文人でもあったわけです。 詩人や歌人を発掘・評価する確かな目も備えていました。 字合は、大和朝廷に揺さぶりをかける厳しい内 外情勢に直 面して、常にその対処の最前線にあったので、きわめて多事 多仕でした 。 また、報われぬ境遇にあ ったようにも伝えられ ますが、そうした辛い心境を晴らすものとして、詩歌があっ たのではないかと思います 。 自分の憂いやもやもやした思い を晴らす、いわば遣悶の具として詩歌が機能したのです。 憂悶は主として辺境に在って重責を果たすことから生ずる のでしょうが、それを振り払うために詩歌を詠み、いわば字 合文学園とでもいうべき文芸集団を形成したのではないかと 考 え ら れ ま す 。 字合はそれを主宰し、虫麻呂はその集団の歌の方の中心人 物だったのではないでしょうか 。 大変おもしろいことに、当時九州では大伴旅人を中心とし た筑紫文学園が形成され、山上憶良をはじめ多くの人々が参 加して詩歌や文章を競作しているので、二つの文学状況はき わめて近似していると言えます 。 これは万葉第三期の新しい 文学のあり方を示すものとして、大変興味深いことだと思い ます 。 0 6 唱 ' ム このように、虫麻 自の歌は、すべて字合との官人的なつな がりの上で制作されていて、官人としての役割遂行を背景と

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して詠まれていると言ってよいかと思います。自己と向き合 って純粋に個人的叙情を表出した作は在常陸時代のわずかな も の ( 例 、 B ・ L-M ) に限られます 。 ですから極言すれ ば、虫麻自は官人としての自己の任務を文芸として昇華し た、とさえ 言 えるように思います 。 ( 以 上 で 第 三 ス テ ー ジを終えて、最終ステージに移ります が 、 二 つの問題を補足したいと思います 。 )

大伴旅人と虫麻目歌集の行方 K の歌の題詞に﹁検税使大伴卿﹂とありますが、これは一 体誰なのかということが古くか ら 問題とな っ ています 。 契沖 は大伴旅人と考えていたようですが(注 1 参照)、私も最終 的にはそれでよいかと判断いたします ( 他に大伴道足説、大 伴牛養 説 も ) 。 旅人は霊亀元年市に中務卿 ( 中務省の長官 。 天皇の国事行 為や後宮事務を担当)(時に従四位上)、さらに養老 二 年明に 中納言となりますが、大事なことは、養老四年三月に征隼人 持節大将軍となって(時に正四位下)隼人の反乱征庄のため に九州まで出向いたことです 。 八月に右大臣正二位の不比等 が病に倒れて都へ召還されますが、翌養老五年加に従 三 位 に 昇進します 。 三 位以上の人に対する敬称として ﹁ 卿﹂が用い ら れるので、この時点で﹁大伴卿﹂と呼ばれてしかるべき人 は、旅人しかありえないわけです 。 この時{子合も上京して県守と共に正四位上を授けられるの ですが、同時に按察使の任務(養老 三 、四年の結果)を報告 したであろうと考えられます 。 それが検税使旅人の派遣につ なが っ たのではないでしょうか 。 旅人が常陸国を訪れたのは、その年つまり養老五年の夏

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K

歌参照 ) だろうと私は考えております 。 養老四年は九州 に行っていたし、六年の夏は隼人征討の行賞のために在京し て い る か ら で す 。 一般に検税使とは、諸国の国産に蓄えられた米穀(正税) の蓄積状況を調査するために中央から派遣された臨時の特使 を言います 。 天平六年初ごろから制度化したようで(初見は 宝 亀七年前 ) 、ふつう五位クラスの者が務めます 。 この通例とは異な っ て、従 三 位ともあろう都の高官 、 が、そ のために常陸まで下向するのはおかしいということで、旅人 以外の説が出てくるわけです 。 しかしそうではなくて、私はこの時旅人でなければならな い別の理由が生じたのだろうと考えます 。 それは、当時対蝦 夷政策が最重要課題であったので(前述の養老四年九月の反 乱などてとりわけ東国の食料の備蓄状態は、固としては正 確に把握しておく必要がありました 。 そこで、遠江・武蔵・ 常陸の按察使たちのところに行けば、管轄諸国の現状が明細 n y 唱 EA

(20)

に 分 か る わ け で す 。 それだけではありません。蝦夷と接触した場合にはどう対 応したらよいかという対策も、具体的に検討したことと思い ます 。 それには、前年九州で征隼人持節大将軍の大役を務め たばかりの旅人が最適任者であったと考えられるのです。果 たしてこの持の旅人の教示と助言は、字合にとって三年後の 神亀元年の蝦夷反乱の鎮圧時に大いに役立ったことでしょう。 これらのことを勘案いたしますと、三位である旅人が検税 のために常陸へ(同時に武蔵・遠江へも)派遣されても一向 に問題はないことになります。ここの ﹁検税使﹂は後にいう 職務名ではなくて、東国の正税検察のためにこの時特別に遣 わされた役目を称したものと考えるべきかと思います 。 そうしますと、ここに虫麻日と旅人の出会いが考えられま す。それが

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と O の歌なのです

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は、一緒に筑波山に登っ た 時 の 作 で 、 夏 の盛りに都の貴顕と登頂を果たした喜びに溢 れています 。 それは国霊のこもる神の山での国見であり、天 皇に代わって蝦夷に呪みを利かせる意味合いもあったことで し ょ 、 っ 。 また

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の歌は、旅人が帰京する際に鹿島の崎(今の波崎の 辺り)まで送ってきて、そこから下総方面へ船で向かう時の 送別の歌で、そこには旅人への限りない惜別の情が濠み出て い ま す 。 こういう歌が残されているということは、虫麻呂が、終始 旅人の世話役・案内役を懸命に勤めたからでしょう 。 遠く都 から訪れた高貴な官人に対する丁重な接待は、按察使典とし てきわめて大切な役割であったと考えられます 。 虫麻呂はその折に、それ以前(養老二一、四年)の自作歌を 旅人に見せ、旅人から高く評価されたので、 K や O の歌を作 って呈上したのではないでしょうか。旅人は虫麻呂の歌才を 認め、その存在を都人に伝えたろうと思います 。 さて、旅人はその後、神亀元年間に正 三 位に昇叙、四年末 から五年初めのころ大宰帥として大宰府に着任するのです が、天平二年初九月に都の大納言多治比真人池守が没したた めに、旅人は大納言に任じられて、帥兼任のまま十二月には 帰京します 。 ところが、明くる天平三年加正月に従 二 位を授位したと思 う間もなく、七月には亡くなってしまいます( 六 十七歳 ) 0 で す か ら 、 天平二 年の十 二 月から翌年七月までの間は、間違 いなく在京していたことになります 。 私が想像しますに、この期間に昔のよしみで宇合が旅人を 訪ねて二人の接触があったとすれば、文学談義なども交わさ れて、筑紫文学園の活動や宇合文学園の話、さらに虫麻呂の その後の作歌活動など、話に花を咲かせたことでしょう 。 そして、その当日もしくは直後に字合は虫麻呂歌集と

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(21)

の全作品(またはその写し)を旅人邸にもたらしたのではな いでしょうか。それが家持の手元に残り、﹁万葉集﹄編纂資 料 の 一 つとして用いられることになったというふうに思われ るのですが、いささか話としては出来過ぎているでしょう 4U 川 間 ﹁ 常 陸 国 風 土 記 ﹄ 宇合らの へ の 関 与 和銅六年泊五月二日に元明天皇は﹁風土記﹄選進の詔を発 しますが(﹁続日本紀 ﹄ ) 、 そ れ は ①国郡郷名に好字を 、②特 産物の品目 、 ③土地の沃培、④地名の由来、⑤古老の伝承や 異事などについて調査し、地誌を編集して報告せよというも のでした。現在、出雲・常陸・播磨・豊前・肥前の五国の古 風土記が残されています 。 このうちの﹁常陸国風土記﹄は、字合たちが常陸に在った ことから、彼らが編纂したのではないか(宇合が編述者、虫 麻呂が筆録者)ということが古くから言われ、これまで通説 化 さ れ て き ま し た 。 私 が 考 え ま す に は 、 { 子合たちはふ?っの国司と違って、初 の按察使という大役を全うすることに専念したはずですの で、風土記編述のための資料蒐集作業など時間的にきわめて 困難だったかと思います。虫麻呂の作品を見ても 、風土記と の直接関係を示すような内部徴証は見当たりません(唯 一 か が ひ ﹁ 擢 歌 会 ﹂の行事が重 な り ま す が 、 扱 い 方 が 全 く 別 で す ) 。 実は、宇合たちの前任の国司が分かっています。和銅七年 目正月に石川朝臣難波麻呂が従四位下となり、十月に常陸守 お び と に任じられています(﹃続日本紀﹄ ) 0 また、春日蔵(椋)首 必 ゆ 老が同時に従五位下となっていますが、常陸介に任じられた のはやはり十月かと考えます。二人共撰進の詔のあった翌年 に任命されたことが注目されますが、すると、彼らは養老三 年に宇合たちが赴くまで五 年 近く常陸にいたことになりま す 。 となれば、風土記編纂のための、資料の蒐集・整理・編述 といった、大変時間のかかる基礎作業に従事することは十分 可能だったはずです 。 彼らはそれを自分たちに課せられた第 一 の使命と受け止めて専心したことでしょう。 すると、宇合たちは風土記とどう関わったのかということ になるのですが、﹁養老二年以前の(難波麻呂の)筆録を基 とし、字合の在任時代に至って編述が完了した﹂とする説 (秋本吉郎氏校注﹃風土記﹄)がありまして、基本的にはこれ に賛同したいと思います。つまり難波麻日の筆録資料(第一 次稿本)を引き継いで、最終的に字合らが補足・整理を加 え、まとめ上げて完成させたものと考えられます。ただし、 その編述の中心は守である字合と介(不明)で、虫麻呂は補 佐的な役割を果たしたように思われます 。 ' E ム 円 L

(22)

その作業期間としては、養老末年、つまり帰京直前の一、 二 年 、やっと按察使の任務に見通しがついてきたころが適当 かと考えられます。そして、養老七年四末に帰京した際に中 央へ完本を提出したことでしょ う 。 ところが、ここで改めて虫麻呂作歌と風土記の関係を考え 直してみますと、虫麻呂の伝説歌群や ﹁ 擢歌会﹂の歌は、撰 進の詔の第 五 項に触発されて生み出されたのではないかと思 われるのです 。 A るおき タ ふ る こ と ﹃ 常 陸国風土記﹂の冒頭に ﹁ 古老の相伝ふる旧聞を申す事 ﹂ とあることは、明らかにそれに呼応していることを示すもの で、内容的にも全体に﹁古老﹂の伝承を重んじる姿勢が顕著 で す 。 具体的には童子松の悲恋説話をはじめ古伝承をいくつ も取り上げています。 こうした傾向に興味と関心を喚起され、虫麻呂は ﹁ 旧 聞 ﹂ に類する

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の伝説歌や、﹁異事﹂に類する

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の 作を生み出したように思われるのです。あるいは宇合から民 間伝承に取材した歌作を促されたのかもしれません 。 それも風土記が漢文で記した散文であるのに対して、虫麻 日 歌は大和ことばで表現した和歌(韻文 ) である点に独自性 が認められます。それは形式・内容共に新しいスタイルを打 ち出したものとなりました。伝説歌人とも称される所以です。 以上、これまであまり表には取り 上 げてこなかった藤原宇 合をめぐる歴史的事実を手掛か り として、官人虫麻 呂 の文芸 活動のありようとその全体の整合性を、一つの可能性として いささか大胆 に 術隊してみました 。 いわば、虫麻呂ミステリーの謎解きに挑んだようなもので すが、試論の域を出ないので、細かな検 証 は今後に委ねるも のがあるにしても、通説を超えるためにはこういう攻め方や 思考法もあるのかと、おもしろく受け止めていただけたら大 変あ り がたいと思います 。 長時間の御清聴を感謝いたします 。 菊地大久保先生、ありがとうございました 。 高橋虫麻口口について、藤原宇合との関わりから、先生なら ではの精綴な分析を御講演いただきました 。 たいへん内容が豊かで、示唆に富んだお話でしたので、お 尋ねしたい事柄をお持ちの方もいらっしゃると思いますが、 時間の関係がございますので、御質問については先生に直接 お尋ねいただくということにいたしまして、先生の御講演に つきましては、これで終了とさせていただきます 。 大久保先 生に、もう一度盛大な拍手をお願いいたします。 ありがとうございました。

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注 ( l ) ﹁ 推量スルニ養老年中藤原字合卿常陸守ナリシ時ノ事ニテ、 虫丸ハ嫁介等ノ属官ニテ、旅人ノ検税使ナルニ y キテ筑波山 ニ登レル歎 o ﹂ ( 9 一 七 五 三 ・ 一 七 五 四 の 条 ) ( 2 ) 藤原字合略年譜(﹃続日本紀﹄による) ︿ 守 ︺ ︽ 飼 引 M A N ︺ O 霊 亀 二 ご 守 八 ・ 二 O 霊 亀 一 二 三 下 二 。 益 老 三 コ ? 七 ・ 一 一 -養 老 五 斗 ど ・ 正 ・ 五 ( 神 亀 元 吋 H A a 二 O 神 亀 元 叶 M T 四 ・ 七 神 亀 一 瓦 叫 N T -了 二 九 神 亀 ニ ロ 凶 ・ 閏 王 ・ 二 二 O 神 亀 三 叶 M A W -- 0 ・ 二 六 神 亀 六 芯 ? 二 ・ 一 O 天 平 三 3 -・ 八 天 平 三 司 ︼ ・ 一 天 w r 四 叶 回 二 ニ ・ 二 六 ﹁ 正 六 位 下 藤 原 朝 臣 馬 益 を 剛 使 ( と す ) ﹂ ︿ 第 八 次 遣 唐 使 任 命 ﹀ i 八・二六従五位下 拝 朝 l 一O 唐で朝貰 i 益 老 二 叶 ︼ 曲 一 O 婦 問 凹 ← 餐 老 三 三?正拝謁正五位上 あん雷、ー 、 ﹁始めず接察使を置︿。:常陸自守正王位上藤原朝臣宇 e s A u は 安 房 上 総 ・ 下 総 の 一 二 国 ( を 管 め し む } ﹂ 正 四 位 上 え み し 忌む ﹁ 海 道 の 蝦 夷 反 き て 、 ( 陸 奥 因 ) 大 接 従 六 位 上 佐 伯 宿 怖 こ や 児 屋 麻 8 を 殺 せ り ﹂ ) ﹁式部卿正四位上藤原朝臣宇合を持節大将軍とす。 海 道 の 蝦 夷 を 征 た む が 為 な り ﹂ 重 う 付 ﹁ 征 夷 持 節 大 使 正 四 位 ト 藤 原 宇 合 、 ・ 来 帰 り ﹂ ﹁ 正 四 位 L L 藤原朝臣字合に従三位勲二等を授く ﹂ ﹁式部卿従三位藤原朝臣宇合を知造難波宮事とす﹂ 切 ︿ a b i ﹁式部卿従三位藤原朝臣字合らを遣して六衛の兵を ゐ l v b ︿ 将 て 長 屋 王 の 宅 を 凶 ま し む ﹂ ︿ 長屋王の変 ﹀ ﹁ 式 部 卿 従三位藤原朝臣字合,並に参議としたまふ﹂ そ f t ﹁ 始 め て 後 内 の 態 管 : を 置 く y ' 従 = 一 位 藤 原 朝 臣 字 合 を 副 惣 管 ( と す ) ﹂ U ・h a 宇 う ﹁ 知 造 難 波 宮 事 従 三 位 藤 原 朝 臣 宇 合 ら 巳 下 、 仕 丁 巳 上 、 O 天平四ヨ M ・ 八 ・ 一 七 天平五斗出・二工一八 天 平 六 a h ? 正 ・ 一 七 O 天平九ヨア八・五 ︿ 藤 原 氏 系 図 ﹀ お の お の L a 物賜金﹂ど各差有り﹂( 一 応の完成に伴う獲賞) ﹁従三位藤原朝臣字合を西海道節度使(とすご ー天市六芯十四諸道の節度使停 止 i 大宰帥拝命か 県犬益橘宿紘三千代心持)の莞により一品舎人親王ら と 共 に 従 一 位 を 贈 る 使 者 ど な る 。 正三位 ﹁参議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣字合発しぬ L ﹃ 懐 風 車 ﹄ 三 十 四 議 、 ﹃ 篤 卑 分 脈 ﹄ 四 十 四 議 、 五 十 四 車 の 輯 記 と も )

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前 ︿ ← 北 家 ) ぷ〉、 口 ︿ ← 式 家 ﹀ 呂 ︿ ← 京 家 ﹀ 五百重娘 ( 3 ) ﹁ 従 四 位 下 多治比 真人県守を造唐押 使とす 。従五 位上阿 倍朝 臣安麻呂を大使( 筆 者注 ││室 月従五位下大伴宿祢山守に交 替)。正六位下藤原朝臣馬養を副使。﹂( ﹃ 続日本紀﹄) ( 馬 養 は 同 月従五位 下 )

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( 4 ) ﹁始めて按察使を置く。遠江国守 正 五位上大伴宿祢山守は 駿河・伊豆 ・ 甲 斐 の 一 二国(を管めしむ)。常陸国守正五位 上 藤 原 朝 臣 宇 合 は 安 一 房 ・ 上 総 ・ 下 総 の 三 国 0 ・武蔵国守正四 位下多治比真人県守は相模・上野下野の三国。﹂(﹃続日 本 紀 ﹄ ) ( 5 ) ﹃ 和名抄﹄(巻五)には﹁常陸国 男 円 接 持 問 ﹂ と あ る こ と か ら すると、往復の行旅だけでも少なくとも一ヶ月は費やし、事 前の準備や都での滞在期間を加えると、三ヶ月近くの日程を 要 す る こ と に な る 。 ( 6 ) ﹁ 上 総 図 の 平 群 ・ 安 一 房 ・ 朝夷長狭の四郡を割きて安房国を 置く 。 ﹂ ( ﹁ 続 日 本 紀 ﹄ ) み や ニ い ま ( 7 ) ﹁常陸に在るときに、倭判官が留りて京に在すに贈る﹂(却) という作で、序に﹁君が千里の駕を待つこと 一 一 一 年 。 ﹂ と か、詩に﹁雲端の辺国我は絃を調ふ。清絃化に入りて 一 一 一 歳 を経﹂などとある。 まへっさ み み や ニ ぞ と め ( 8 ) ﹁ 藤 原 字 合大夫の選任して京に上りし時に、常陸娘子の贈れ る歌一首﹂と題する歌(﹁庭に立つ麻手刈り干し布さらす あづまそ み な 東 女 を 忘 れ た ま ふ な ﹂ ) ( 9 ) ﹁式部卿正四位上藤原朝臣 字 合を持節大将軍とし・海道の蝦 夷 を 征 た む が 為 な り ﹂ ( ﹁ 続 日 本 紀 ﹄) ( 凶 ) ﹁ 知 造難波宮事従三位藤原朝臣宇合ら己下、仕 丁 巳上、物賜 ふ こ と 各 差 有 り 。 ﹂ ( ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ ) み や こ ( 日 ) ﹁ 昔 こ そ 難 波 田 舎 と言はれけめ今は京引き都びにけり﹂ ( 3 三 一 一 一) ( ロ ) ﹁ 正 三 位 藤 原 朝 臣 房 前 を 東 海 -東山二道節度使とす。従 三 位 多治比真人県守を山陰道節度使。従三位藤原朝 臣 字合を西海 道 節 度 使 。 ﹂ ( ﹁ 続 日 本 紀 ﹂ ) み き ま ヘ っ き み た ち (日)﹁天皇の、酒を節度使の卿等に賜へる御歌一首﹂と題する長 歌と反歌 ( 6 九 七 = 一九七四)で、その反歌に ﹁ 大夫の行く といふ道そおほろかに思ひて行くな大夫の伴﹂とある。 い に し と し え ど ち ニ の と し た び う ち い く た び ( 日 ) ﹁ 往歳は東山の役、今年は西海の行。行人一生の裏、幾度か 辺 兵 に 倦 ま む ﹂ ( ﹃ 懐 風 廿 注 目 ) (日)﹁四年壬申、藤原字合卿の西海道節度使に遣さえし時に、高 橋連虫麻 呂 の作れる歌 一 首 ﹂ ( 6 九 七 一 九 七 二 ) ( 凶 ) 虫 麻 白 歌 の 制 作 順 序 A

f 一 一 人 一 ー 「 官京 核 使 典 察

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Q 天 天 神亀 養 養 養 養老 聾老 平四 平四 老 若 老四 三 三 五 年 八 年三 年十 半 年 年夏 年秩 月 月 月 た 1 I:i: 四 養 老 天 平 年冬 老四 七 四 年 月 半 (口)介であったことは﹁懐風藻﹂の詩(日)に、﹁従五位下常陸 介春日蔵首老 。 一 絶 ﹂ と あ る こ と で 判 明 す る 。

参照

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今までの少年院に関する筆者の記述はその信瀝性が一気に低下するかもしれ