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青楼絵本考 ――『吉原青楼年中行事』の出版効果―― 利用統計を見る

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(1)

青楼絵本考 ――『吉原青楼年中行事』の出版効果

――

著者

岩城 一美

著者別名

IWAKI Hitomi

雑誌名

東洋大学大学院紀要

53

ページ

1-19

発行年

2016

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008802/

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はじめに   慶長八(一六〇三)年に徳川家康が将軍に就き、江戸の建設が始 まると、大量の労働力として男たちが集まり、彼らを相手に各地に 妓楼ができた。庄司勝富の 『異本洞房語 園 (注 1 ) 』 によると、 「慶長の頃迄、 御城下定まりたる遊女町なし、傾城屋所々ありし中にも、軒をなら べ集りたる場所三四ヶ所あり麹町八町目に十四五軒、鎌倉河岸に同 斷、大橋の内柳町に廿餘軒」と記されている。このように江戸市中 に散在していた遊女町を一箇所にまとめようと慶長十七 (一六一二) 年頃、 小田原出身の庄司甚右衛門が幕府に願い出、 元和三 (一六一八) 年日本橋葺屋町あたりに葭原(のちに吉原と改名)という幕府公認 の遊廓が造られた。   やがて幕府は、八百八町の大都市となった江戸城下の中心に近い 吉原に遊廓を置くのは風紀の乱れと判断し、明暦二(一六五六)年 に吉原の移転が通達された。明くる明暦三(一六五七)年正月にい わゆる振袖火事という明暦の大火で江戸の町は烏有に帰し、吉原も 焦土と化した。焼け出された遊女らは仮宅営業の後、同年七月浅草 千束村の日本堤に遊廓の普請が終わるとそこへ移転した。前出の旧 地を元吉原、移転後の新地を新吉原と称し、吉原は江戸遊廓の代名 詞とされた。昭和三二(一九五七)年の売春防止法の施行まで、吉 原の歴史は続いた。   遊廓吉原の客層は、元吉原から新吉原時代初期は、大名や大身旗 本などの武士が主であったが、元禄期(一六八六~一七〇三年)に は 豪 商 に、 享 保 の 頃 に は 札 差 町 人、 寛 保( 一 七 四 一 ~ 一 七 四 三 年 ) 以降は一般町 人 (注 2 ) というように推移し、遊廓はより大衆化し殷賑を極 めた。このように多くの客で賑わう廓の様子は戯作や浮世絵などに も描かれており、これらの作品は一般庶民にも手の届くものであっ たと思われる。   それら遊廓や遊女らを描いた数々の作品のなかに、廓内での行事 を 主 題 に し た『 吉 原 青 楼 年 中 行 事 』( 享 和 四( 一 八 〇 四 ) 年 ) と い う絵本作品がある。年中行事は本来公家や武家の公的行事であった

青楼絵本考

 

――

『吉原青楼年中行事』の出版効果

――

文学研究科日本文学文化専攻博士前期課程2年

 

岩城

 

一美

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が、江戸時代に民間でも行う行事・祭礼へと広まり、町人らの生活 にも浸透した。吉原の廓内でも「新吉原時代、それも享保年間以降 になって、 吉原年中行事は体系化さ れ (注2 ) 」催された年中行事によって、 より多くの客を遊廓へ誘ったと考えられる。小森隆吉氏の研究成果 を踏まえ、 『吉原青楼年中行事』が、 先行して吉原を取り上げた『絵 本青楼美人合』 (明和七 (一七七〇) 年) 、『絵本青楼美人合姿鏡』 (安 永五(一七七六)年)らの絵本作品と合わせ、その出版物としての 位置付けおよび、廓の宣伝効果を大いに担った点について考察して みる。 一、新吉原年中行事についての小森氏の先行研究   小森氏は、新吉原で行われた年中行事の数々について、酔郷散人 の『吉原大全』 (明和五(一七六八)年) ・ 秀山人の『柳花通誌』 (天 保 一 五( 一 八 四 三 ) 年 自 跋 )・ 寛 閑 楼 佳 孝 の『 北 里 見 聞 録 』( 文 化 一四(一八一七)年自序)などを参考に、一月から十二月までの行 事を順に並べて考察している。遊廓は艶冶で華麗であったので、吉 原 の 廓 内 の 年 中 行 事 は「 遊 女 遊 客 の あ や な す 独 特 の 情 緒 に 包 ま れ (注2 ) 」 ており、その結果、表舞台にあたる年中行事は「あくまでも光のあ たる部分であって、その裏には影の部分があった。影の部分があっ たからこそ、 光の部分が華やかな色彩に包まれ得たの だ (注2 ) 」と主張し、 さらに吉原年中行事について、 その内容性から三つに分類している。   (1) 一般的行事を取り入れ、遊里吉原の情緒を付加したもの ―年礼・雛まつり・丹後の節句・更衣・七夕・月見など。   (2) 吉原独特の行事―三大景容といわれた仲の町桜 ・ 玉菊燈籠 ・ 俄、そして内証花見・八朔・紋日・仕舞日など。   (3) 付 近 の 行 事 に 便 上 し た も の ― 富 士 権 現 祭 礼・ 酉 の 市・ 浅 草 四万六千日と歳の市な ど (注2 ) 。   吉原遊廓は、客が登楼して落とす金銭で経済的基盤を成立させて い る。 つ ま り、 ( 1) か ら( 3) ま で 分 類 し た 行 事 は す べ て 客 寄 せ の手段なのである。特に(3)についてはその傾向が最も濃く、吉 原の近くに人々が集まるのにかこつけて何か行い、客を寄せてさら に 金 銭 を 稼 ご う と い う の で あ る。 小 森 氏 は、 「 吉 原 年 中 行 事 は、 楼 主 側 の 商 魂 た く ま し い、 客 寄 せ の 手 段 (注 2 ) 」 だ と 論 じ、 「 商 品 で あ る 遊 女に対し、常時よりもさらに苛酷な、ノルマが課せられていたとみ なしていいだろ う (注2 ) 」と推測している。   小 森 氏 が 論 じ る と お り 、 艶 や か な 演 出 の 裏 に 遊 女 ら に と っ て 、 暗 い 部 分 が あ る こ と が 認 め ら れ る 。 確 か に 、『 吉 原 青 楼 年 中 行 事 』 に 描 か れ て い る 禿 が 新 造 に な る と き の お 披 露 目 の さ ま の 「 新 【図 1 】 造 出 し の 図 」 や 、 遊 女 ら が 皆 白 無 垢 を 装 う 「 八 【図 2 】 朔 の 雪 」 は 美 し い が 、 そ れ に は 厳 し い 裏 事 情 が 隠 され て い る 。 新 造 出 し の 披 露 目 は 派 手 で 多 額 の 費 用 が か か り 、 こ れ ら は す べ て 姉 女 郎 の 遊 女 の 負 担 で あ っ た 。 川 柳 に 、

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八朔の雪ハ質屋に流れ込ミ 舛丸    天保四 ・ 一二一編・ 9 (注3 ) 二日にはしちやの蔵へつもる雪 しんほり   若松    宝暦十二年・梅 3 (注 ) と、 遊 女 ら の 内 証 は 火 の 車 で、 「 八 朔 」 の 翌 日 に は 質 屋 に 白 無 垢 が 持ち込ま れ (注5 ) 、質屋の蔵には白無垢の雪の山ができると詠まれている。 二、青楼絵本作品 二―一、鈴木春信の『絵本青楼美人合』   年中行事が行動を通した直接的な客寄せの手段であるというのな ら、その一方、間接的な客寄せも考えられる。これについては、吉 原を描いた絵本の類を以って視覚に訴え、遊客の心をつかんだ文化 的作品について試論する。   江戸時代の多くの書物の中で単なる絵入り本ではなく狭義の絵本 の分野において、推定される初出は宝暦一三(一七六三)年正月に 山崎金兵衛により刊行された『絵本古金襴』で、この本は墨摺の半 紙本であった。錦絵の技術が開発され浮世絵版画が一挙に色彩豊か になったのに対し、絵本は成立当初から墨摺り本という状態が続い ていた。彩色摺りの技術が導入されたのは明和七 (一七七〇) 年なっ て か ら で あ る。 同 年 正 月 に、 一 筆 斎 文 調( 生 没 年 不 明 )、 勝 川 春 章 ( 一 七 二 六 ~ 九 二 年 ) 合 作 の 三 冊 組 役 者 絵 本『 絵 本 舞 台 扇 』 が 鴈 金 屋伊兵衛で刊行され、次いで、鈴木春信(一七二五~?年)の『絵 本青楼美人合』が江戸駿河町の舟木嘉助により上梓されている。   これらの本は、 いずれも、 当時の流行の発信地である「二大悪所」 と称された歌舞伎と遊里という遊楽地から、誕生したということは 注目すべき点である。   遊 里 に お い て は、 吉 原 の 地 図 や 遊 女 の 名 を 掲 載 し た「 遊 女 評 判 記」や「吉原細見」などが廓遊びの手引書に属するもので、多くの 遊客に愛読されていた。春信の『絵本青楼美人合』は、全五巻総計 一六七図にわたり、明和末期(一七七〇年代)の吉原に実在した遊 女の図を描き、さらに、遊女の上部には遊女自作の俳諧が添えられ て い る。 な お、 第 一 巻 に は、 書 初 め を す る 遊 【図3 】 女、 七 福 神 の 摺 り 物、 羽子板、鞠を手にする遊女らが描かれており、これらは全て新春の 風 物 で あ る こ と か ら、 「 春 」 の 巻 と 認 め ら れ る。 続 い て 第 二 巻 は 時 鳥の俳諧に団扇を持つ遊女で「夏」 、第三、 四巻は虫籠を持つ遊女や 紅 葉 の 俳 諧 で「 秋 」、 第 五 巻 は 白 雪 の 俳 諧 で「 冬 」 と、 各 巻 の 風 俗 はそれぞれの景物にふさわしい季節の風物と共に描かれていること から、五巻で「四季」を示しているという特徴があ る (注6 ) 。   なお、おそらく、大名や大身旗本の武士階級や、金銭に余裕のあ る豪商らが、青楼(よしはら)を描いたこの絵本を手にしてお気に 入りの遊女を選ぶのに活用した可能性がありうる。つまり、春信の 『絵本青楼美人合』という絵本は、 「遊女評判記」や「吉原細見」の

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類の手引書の流れを汲んでいると考えられる。 二―二、 勝川春章と北尾重政による『絵本青楼美人合姿鏡』   前 掲 の 春 信 絵 本 が 後 の 浮 世 絵 界 に 与 え た 影 響 は 大 き く、 『 絵 本 青 楼美人合』の刊行は、次の勝川春章・北尾重政画『絵本青楼美人合 姿鏡』や、喜多川歌麿(一七五三?~一八〇六年)の『吉原青楼絵 本年中行事』 など、 吉原を舞台とした彩色摺絵本の流れを新たに作っ ていった。   『 絵 本 青 楼 美 人 合 姿 鏡 』 は、 安 永 五( 一 七 七 六 ) 年 に 勝 川 春 章 と 北尾重政(一七三九~一八二〇年)の合作で山崎金兵衛により刊行 された三巻本である。   第 一、 二 巻 は 四 節 に 分 け ら れ て い て、 各 節 の 冒 頭 部 分 は 季 節 の 植 物の自然表現で始まっている。それに続いて、四季にふさわしい活 動に携わる遊女らの姿が配置されている。第三巻は、吉原の大門と 年中行事の五枚の絵で始まり、その後に絵に描かれた遊女らの詠ん だ俳諧が続 く (注 7 ) という構成になっている。この絵本には、四季におけ る吉原の妓楼を舞台とした主題選択や、遊女自賛の俳諧を寄せる文 学的構成がなされている諸点において、春信絵本の影響が色濃く表 れている。特に、図様について、春信の『絵本青楼美人合』に描か れた 遊 【図 4 】 女らの図像が数多く転用されており、 『絵本青楼美人合姿鏡』 の 遊 【図5 】 女の群像の中に、春信の『絵本青楼美人合』と類似するポーズ をとった遊女二名が認められ る (注6 ) 。 三、吉原遊廓における行事の模様 三―一、 十返舎一九と喜多川歌麿による『吉原青楼年中行事』   『 国 書 総 目 録 (注 8 ) 』 に よ る と、 吉 原 の 年 中 行 事 に つ い て 著 さ れ た 書 物 に『吉原青楼年中行事』という絵本作品がある。書名は『青楼絵抄 年中行事』 、『青楼年中行事』 、『曲中年中行事』とさまざまあるが、 『繪 本年表三   自文化至天 保 (注 9 ) 』 には 『吉原青楼年中行事』 が頭項目となっ て記されているので、以降は『吉原青楼年中行事』で統一し、底本 として古典文庫の『青楼絵本年中行 事 )(注 (注 』を資料に論じる。   『 吉 原 青 楼 年 中 行 事 』 は、 十 返 舎 一 九( 一 七 六 五 ~ 一 八 三 一 年 ) が編集し喜多川歌麿が絵を描いており、上下(乾坤)巻の全二冊で ある。刊記によると、享和四(一八〇四)年、東武日本橋通四町目 の書房、上総屋忠助寿桜が刊行したとなっている。この点は前掲の 『繪本年表三   自文化至天 保 (注 9 ) 』で同様に確認できた。   まず、上(乾)巻を開くと匡郭に相撲の見立てであろうか、 軍 【図 6 】 配 団 扇 に 題 名( 行 司 )、 画 者 名( 東 )、 著 者 名( 西 ) が 記 さ れ て い る。 さらに、 上 【図 7 】 下(乾坤)巻の目次は吉原の入り口の大門に並べられて いる。   なお、表紙を開くと扉絵に上(乾)巻は梅と椿が描かれ「春」を 表し、 千 【図 8 】 穐庵三陀羅法師の「きぬきぬの情をしらは今ひとつ   うそ をもつけや明六つのかね」という和歌が添えられている。      一方、下(坤)巻には楓と菊が描かれ「秋」を表し、十返舎一九 の「 乙 【図 9 】 鳥干柳彼上あまつ雁」という俳諧が添えられている。このよ

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うに冒頭が季節感を漂わす自然の植物であったり、和歌や俳諧が寄 せられている構成は前掲の春信の『絵本青楼美人合』や、春章、重 政らによる『絵本美人合姿鏡』の文学的構成の手法に倣ったのであ ろう。   また、この本の序に、 新吉原の四つの時。をりふしの花紅葉あハれにおかしきを集め て。 堤のなげふし歌麿かはなやぎたる筆を。 ふるへるものなり。 さるは初名代の臨時客中の町の花の宴対のしきせの更衣。れん じにまつわる乞巧奠。 八朔の風俗ハさらなり。 居続の雪の見参。 丸市から夜神楽まで―中略―月次の屏風ひきいでつゝ。廊下障 子 の あ な ぐ り も と め て。 扨 ぞ 突 き 出 し の 新 板 と ハ な せ り け る。 まことに人間の別世界。この春秋のゆきかひを見ん人ハ。養老 不死の気の薬となり て )(注 (注 。 と、遊女と遊廓でのさまざまな行事の様子が描かれ、廓内は特別の 世界であり、ここでの年月の移り変わりを観れば不老不死の気付薬 と な る と い う 遊 び 目 的 の 大 人 に と っ て、 吉 原 遊 廓 は 不 思 議 な 楽 園 だったといえよう。   小森氏は、この作品について「吉原関係風俗書としては、延宝六 年(一六七八)刊、菱川師宣の『吉原恋の道引』とともに、その評 価は高 い (注2 ) 」と述べている。   『 吉 原 青 楼 年 中 行 事 』 は、 廓 内 の さ ま ざ ま な 行 事 と 遊 女 を 描 く こ とで、 前掲の 『絵本青楼美人合』 、『絵本青楼美人合姿鏡』 と同様に、 「遊 女評判記」ならびに「吉原細見」などの廓遊びの手引書の流れを踏 襲していると考えられる。 三―二、遊客を魅了する三大廓行事   吉原には元旦から大晦日まで、さまざまな行事があり、それら年 中 行 事 は 江 戸 市 中 と 共 通 す る も の も 多 か っ た が、 「 遊 里 風 俗 を 基 調 にし た (注2 ) 」吉原独特の催事でもあった。そしてこれらの催事は、遊客 を ひ き つ け、 高 い 金 額 を ふ っ か け る 手 段 で も あ っ た と 考 え ら れ る。 廓内で単調な仕事を繰り返すばかりの遊女たちにとって、四季折々 に趣向がこらされた行事の数々は、日常の「ケ」とは違う非日常的 な「ハレ」の楽しみでもあったのではないか。 (一) 仲 】(注 【図 の町花盛之図 一 説 に よ る と、 八 代 将 軍 吉 宗 は 享 保 の 改 革 の 一 環 と し て 墨 堤・ 飛 鳥山・小金井に桜を植え行楽地としたので、江戸の庶民らに花見行 事が広まったと言われている。このような「風潮に対応して、吉原 にも桜が植えられたのではないだろう か (注2 ) 」と小森氏は推測している ことから、庶民に遊廓内の夜桜見物に来させて、さらに登楼させ金 銭を落とさせようと妓楼の主人たちは計ったのではないだろうか。

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  「中之町佐久良之記」の文中に、 今此さとに花を植るハ。 寛保元年より初りて。 年々繁栄し。 歳々 に 超 過 し。 日 毎 の 貴 遊 湖 海 の 賓。 花 に 酔 ふ 中 の 町 の 夕 景 色 は。 えもいふべくもあらず。名所の芳野のはつ瀬は。少妓の名に奪 れ。 飛鳥日暮の遊客も。 此に掠られて夜桜の本にうかれ。 (中略) 風情。寔に春宵一刻の価。千金をして此に抛銷金の窟とやいふ べ し )(注 (注 と、 こ の 仲 の 町 に 桜 を 植 え る こ と は、 寛 保 元( 一 七 四 一 ) 年 に 始 ま っ た よ う で あ る。 ま た、 岡 山 鳥 の『 江 戸 名 所 花 暦 』( 文 政 一 〇 年 (一八二七)年)の「新吉原」の項に、 毎年三月朔日よし、大門のうち中の町通り、左右を除けて中通 りへ桜数千本を植うる。常にはこれ往来の地なり。としごとの 寒暖によって、花遅ければ朔日より末に植込むこともあり。葉 桜になりても、人なほ群集 す )(( (注 と 記 さ れ て い る。 「 花 に 酔 ふ 中 の 町 の 夕 景 色 は。 え も い ふ べ く も あ ら ず )(注 (注 」、 「葉桜になりても、人なほ群集 す )(( (注 」と、灯をともすころ、雪 洞の明かりに照らされた 満 】(( 【図 開の桜の下を静々と進む花魁道中は、妖 艶であり、実にため息が出るほどの美しさだったに違いないであろ う。この時期、桜の名所の上野、飛鳥山もかすみ、仲の町の夜桜見 物に訪れる人は多く、吉原は殷賑を極めた。夜桜の見物客は本物の 桜よりも、人間の花、すなわち遊女らを見物しに足を運んだ可能性 が高い。   (二) 燈 】(図 【図 篭之図(*以下、 燈篭 ・ 灯篭 ・ 燈籠 ・ 灯籠は引用原文まま)   七月一日から月末まで、 仲の町の引手茶屋は遊女玉菊を追悼して、 軒に趣向を凝らした灯籠をつるした。これを 「玉菊灯篭」 といった。   「文月の記」の文中に、 水無月晦日の夜より。 中の町に綺れる燈籠の美麗星の如く輝き。 白 昼 を 犯 す に 似 た り。 ( 中 略 ) 中 万 字 屋 に 名 た ゝ る 全 盛。 玉 菊 といへるハ。悠にやさしく情ありて。人の覚も深かりしが。あ る文月の上旬身逝りて後追福の儲にとて。 兼て好意を通じたる。 茶屋毎にさばかりのきりこ燈籠を出せしより発り。享保にいた りて。破笠が被誉の細工より。次第に増過し。今に華美著色を 競をもつて例となすに究れ り )(注 (注 。 と、 「 玉 菊 灯 篭 」 に つ い て 述 べ ら れ て い る。 玉 菊 は 角 町 の 中 万 字 屋 抱えの名妓で、才色兼備で諸芸に秀で、特に「河東曲の三絃をよく

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ひ き し )(図 (注 」 と 河 東 節 の 名 手 だ っ た と い う。 山 東 京 伝 の『 近 世 奇 跡 考 』 ( 文 化 二 年( 一 八 〇 五 ) 年 ) に よ る と 享 保 一 一( 一 七 二 六 ) 年 三 月 二十九日に二五歳で亡くなったと記され、 始て灯籠をともせしも享保元年といふは妄説也。玉菊死せし享 保十一年七月新盆の節。新霊を祭るため。中の町俵屋虎文。揚 屋町松屋八兵衛等。発起せし事 也 )(図 (注 。 とのことから、引手茶屋の面々らがお盆に灯籠を飾って玉菊の霊を 弔ったのが、この行事の始まりになったようである。なお、灯籠追 善は廓内の茶屋で、客寄せをもくろみ灯籠飾りの趣向に凝ったに違 い な く、 後 の 明 治 時 代 の『 芳 原 沿 革 史   全 )(注 (注 』 の「 芳 原 沿 革 史 付 録   第一編芳原風俗沿革」の「第十二   七月燈籠の濫觴」に、 其茶屋々々も玉菊を最惜みけれバ。云合すともなく家々挑灯を 點しけるが。其後元文元年にハ箱挑灯にて。裳へ青黒の筋を付 た る を 掛 列 ら ね。 其 翌 年 よ り 切 子 燈 籠。 廻 燈 籠 な ど 作 り 出 し。 次第に潤色して華美になれるな り )(注 (注 と記されている。 (三)   仁 】(注 【図 和哥の図   「俄」とは、 『日本国語大辞典』によると、 「俄狂 言 )(注 (注 」を指し、 「座 敷や街頭などで行なわれた即興的で滑稽な寸劇。 享保年間 ( 一七一六 ~ 三 六 )、 大 坂 住 吉 神 社 の 夏 祭 の 行 列 で 素 人 が 行 な っ た 即 興 の 寸 劇 を起源とするという。後には京都でも行なわれ、江戸の吉原俄など も あ る が、 大 坂 で も っ と も 盛 ん に 行 な わ れ た )(注 (注 」 と 定 義 さ れ て い る。 「 俄 」 は も と も と は 大 坂 で 起 こ っ た も の だ が、 江 戸 吉 原 で も「 明 和 四 年( 一 七 六 七 ) 以 来 毎 年 八 月 一 日 か ら 一 か 月 間 行 な わ れ、 夜 桜・ 玉 菊 灯 籠 と と も に 吉 原 三 大 景 物 の 一 つ )(注 (注 」 と あ り、 「 吉 原 の 茶 屋 桐 屋 伊兵衛という者の思いつきで、同好の士とともに即興の狂言をこし ら え て 吉 原 中 の 町 を 演 じ 歩 い た の が 評 判 と な り、 引 き 続 い て、 二、 三日、趣向を替えて演じたのが始ま り )(注 (注 」である。   斎 藤 幸 成 の『 東 都 歳 時 記 』( 天 保 九( 一 八 三 八 ) 年 ) の 八 月 の 項 に も、 「 当 月 中 頃 よ り 吉 原 町 俄 始 ま る。 踊 り ね り 物 等 花 美 風 流 を こ らし、 九月中旬まで毎夜出 す )(注 (注 」と記され、 さらに明治時代(一八九五 ~九六年)には樋口一葉の『たけくらべ』に「秋は九月仁和賀の頃 の 大 路 を 見 給 へ、 さ り と は 宜 く も 學 び し 露 八 が 物 眞 似、 榮 喜 が 處 作 )(注 (注 」と描写されており、物語の主人公の廓に住む美登利は「俄」を 目にしていたと暗示されている。   『吉原青楼年中行事』の「文月の記」の文中に、 毎年八月朔日より。祭式おこなハれて。練物。にわか等を出す

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事。連綿と怠慢なし。此節燈篭客。仁和哥客と号して。恒に倡 門に履を納ざるものも。倶に倡行せられて。来往の錯乱美賎混 じ。夜毎に涌出するがごと し )(注 (注 。 と、 八 月 一 日 よ り 晴 天 三 十 日 間、 廓 内 仲 の 町 で 俄 は 賑 々 し く 行 わ れ た。 俄 で は、 幇 間 や 芸 者 を 中 心 に、 茶 屋 や 妓 楼 の 人 々 も 参 加 し て、踊りや芝居を演じながら、にぎやかな鳴物付きで行列し、車の ついた舞台を引いてまわり、その上で歌舞伎の名場面などの所作を 演じた。この俄を観ようと、お祭り好きの江戸っ子たちや女性の見 物 人 も 大 勢 つ め か け、 さ ら に 吉 原 は 賑 わ っ た。 歌 川 芳 幾 が 明 治 二 ( 一 八 六 九 ) 年 八 月 の「 俄 」 を 三 枚 続 き の 浮 】(注 【図 世 絵 に 描 い て お り、 妓 楼の二階の遊女らや、また多くの詰め掛けた見物客の様子から遊廓 内での行事が集客作用に大いに関わっていることがわかる。   したがって、お祭り好きな江戸の庶民は、登楼目的以外に派手な 廓行事の数々を見物しに吉原遊廓内へ足を運んだと推察できる。   と こ ろ で、 吉 原 の 三 大 景 物 と 言 わ れ る「 夜 桜・ 玉 菊 灯 籠・ 俄 」 の 行 事 が 行 わ れ る よ う に な る 以 前 の 吉 原 の 遊 廓 を 形 容 し て、 其 角 ( 一 六 六 一 ~ 一 七 〇 七 年 ) が、 延 宝 九 / 天 和 元( 一 六 八 一 ) 年 頃 に 詠んだ発句が『五元集』にある。     闇の夜は   吉原はかり   月夜 哉 )(注 (注     この句を詠んだ頃は「其角はまだ二十二の遊び盛 り )(注 (注 」であったとい う。なお、俳諧師である其角の門下には「其角は禄を食んだと見ら れ る 伊 予 国 松 山 藩 主 松 平 定 直( 三 嘯 ) の ほ か、 安 藤 信 友( 冠 里 )・ 仙 台 因 幡 守( 玉 芙 ) ら の 大 名・ 旗 本、 紀 国 屋 文 左 衛 門( 千 山 )・ 伊 勢屋七郎兵衛 (大町) らの豪商がおり、 その遊興に従うことが多かっ た )図注 (注 」「 紀 文 に 誘 は れ て、 し ば し ば 廓 に 遊 び )図( (注 」 と、 其 角 が 吉 原 に は 幾 度も通っていた放蕩面がうかがえる。   其角のこの句は、夜間営業を許されていた吉原が「闇の夜の真っ 暗な江戸の町の空に吉原だけが丁度ぼうっと明る く )図図 (注 」浮かび上がっ て い る。 す な わ ち、 「 ほ か は 闇 の 夜 だ が、 こ こ 吉 原 の く る わ ば か り は、煌々と燈火がともって月夜のごとく、さすが豪勢なにぎわいで あ る )(注 (注 」と解釈できる。   三田村鳶魚は『目を驚かした吉原の明り』に、 「新吉原の夜景は、 上方の人が見ると仰天するほど明るく見えたので、其角もいささか 江戸自慢のような心持があって、この句を作ったらし い )図注 (注 」 と記している。   つ ま り、 行 事 で 賑 わ う 以 前 に す で に、 浅 草 の 裏 あ た り が 暗 い 中、 吉原遊廓だけは、ぽっかりと浮かび上がるほどの明るさの不夜城で あったのであろう。そのうえで季節ごとにさまざまな廓風俗独特の 行事が賑々しく催されれば、人々はこの吉原という不夜城に群がっ たと考えられる。

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三―三、 『吉原青楼年中行事』の刊行の位置づけ   前 章 ま で 青 楼 を 題 材 に し た 絵 本 作 品 の 三 作 品 の 特 徴 が、 「 遊 女 評 判記」 ならびに 「吉原細見」 などの廓遊びの手引書の流れを踏襲し、 廓内へ多くの客を誘ったと考えられると論じてみた。最後に、これ らの絵本作品の出版事情について試論したい。 (一) 『割印帳』による確認   江戸時代の書物の出版記録を所載したものに 『割印帳』 がある。 『割 印帳』は江戸時代中期(享保年間)以降における、江戸の出版書誌 の開版販売許可の公的記録簿と言えるものであり、当時の出版情勢 の 大 略 を 窺 い )図注 (注 知 る こ と が で き る。 な お、 『 割 印 帳 』 に は 一 般 的 な 商 業 目 的 の 出 版 物 の 出 版 記 録 が 記 載 さ れ て い る の で、 こ の『 割 印 帳 』 の記載の有無により、その書物が公的に出版されたものなのか、私 的なものなのかを推測できる。   藤 澤 紫 氏 は、 鈴 木 春 信 の 絵 本 作 品 に つ い て、 「 現 存 す る 春 信 絵 本 十六点のうち十四点までが、 ここに出版記録を残してい る (注6 ) 」が、 『絵 本青楼美人合』 の項で 「本書刊行の経緯については、 (中略) 『割印帳』 の出版記録に該当するものはなく、また出版目録等にも確認されて いな い (注6 ) 」と述べ、この作品は春信の絵本作品のなかでも一線を画し 「遊女評判記」の流れを汲む「私的な「絵俳 書 (注 6 ) 」」に価すると主張し ている。   では、 『絵本青楼美人合姿鏡』 と 『吉原青楼年中行事』 について 『割 印帳』で確認してみたところ、勝川春章と北尾重政による『絵本青 楼美人合姿鏡』は「安永五年   美人真姿鑑   同六十四丁   耕書堂作   全三冊   版元売出し   山崎金兵衛」 (注25、 26)という記載があ り、書名の異同はあるが、公的に出版許可を受けて『絵本青楼美人 合姿鏡』は刊行されたようである。その一方、十返舎一九と喜多川 歌麿による『吉原青楼年中行事』の出版記録は『割印 帳 )図注 (注 』には見出 せなかった。つまり、 藤澤氏の論をたどると、 『絵本青楼美人合姿鏡』 は 「遊女評判記」 の流れを汲む公的な手引書で、 『吉原青楼年中行事』 は「遊女評判記」の流れを汲む私的な手引書とみなされる。 (二) 『日本木版挿繪本年代順目綠』による確認   前掲の『割印帳』とは別に、漆山天童による『日本木版挿繪本年 代順目綠』で三作品の出版記載を確かめてみたところ、全ての作品 の出版が次のように確認できた。   『絵本青楼美人合』について、 明和七庾寅年   よしはら美人合   春信の筆   序柳垣にちかき田 中庵のあるし   大本四巻八十五丁半   庾寅之年六月   江戸駿河町 舟木嘉助版   刻刷氏   遠藤松五郎 ○当時吉原の遊女の絵姿を画き、俳句一句つゝをのせたり

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青楼美人合と題せるものあるか又八十三丁本あるか   富武き彩 色入らせ り )図注 (注   『絵本青楼美人合姿鏡』について、 安永五丙申年 青楼美人合姿鏡   浮世絵師北尾花藍重政 勝川酉 爯 春章 序安永五歳丙申正月書肆耕書堂主人誌」 刻刷氏井上進七   大本彩色入三巻 四十六丁半 墨付六十四丁 丙 申 春 正 月 発 鬻   江 戸 書 林 本 石 町 桧 軒 店 山 崎 金 兵 衛 新 吉 原 大 門口蔦屋重三郎合 板 )図注 (注   『吉原青楼年中行事』について、   文化元 吉原青楼年中行事   半紙本彩色入二冊 十九丁 享和四歳甲子落陽発兌   江戸絵師喜多川舎紫屋歌麿筆 校合門人喜久麿 秀麿 竹麿   十返舎一九著 彫刻藤一宗。摺工鶴松堂藤右衛門 「曲中年中行事」序。于時享和四甲子落陽日千首楼識 書房東都日本橋通四町目上総屋忠助寿 楼 (注9 )   前述のように『絵本青楼美人合』については藤澤氏が「 『割印帳』 の出版記録に該当するものはなく、また出版目録等にも確認されて いな い (注 ) 」と述べている論をあげたが、 『日本木版挿繪本年代順目綠』 に は 三 作 品 と も 記 載 が あ る こ と で、 出 版 事 情 は 判 明 し た。 し か し、 その出版目的が、一般的な営利販売目的であるのかについては、不 明である。 (三) 『雪有香蒐集書目』 (『近世出版広告集成』 )による確認   前節の『日本木版挿繪本年代順目綠』による確認で三作品の出版 事情は確認できたが、出版目的が商業出版であれば、より多くの利 益を得るために販売広告があるのではないかと、朝倉治彦氏が国立 国会図書館蔵 『雪有香蒐集書目』 (江戸~明治時代) を編成し直した、 『近世出版広告集成』 (昭和五八 (一九八三) 年) を用い調べてみた。 この書物は近世中期以降の草紙類も含む書物についての広告を、第 一巻から五巻までは版元別に、第六巻は版元不明のもを排列した史 料である。   たとえば、第三巻の版元蔦屋重三郎の項には、 繪本虫えらみ   虫并草花の生うつし   狂歌入歌麿画   彩色摺筥 入全二冊 繪本武者鞋   北尾氏筆   さんしきずり   大本全二冊 通言總籬   山東京傅作   よしわらのことを目のまへにミるやう

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なる本   全一 冊 )図注 (注 という広告が並べられ、いかに客の購買意欲をわかせようかと宣伝 文、すなわち、現代でいうところのキャッチコピーの工夫が表れて いる。   吉 原 を 題 材 に し た 青 楼 絵 本 作 品 が 営 利 を 目 的 と し た 出 版 で あ れ ば、広告が付与されている可能性があると考え、この史料で確認し てみたが、結果的には三作品についての広告は無かった。   藤 澤 氏 に よ る と、 『 絵 本 青 楼 美 人 合 』 の「 出 版 に か か る 経 費 の 算 出は、妓楼主、あるいは掲載された遊君の入銀であろうとした鈴木 氏 )注注 (注 の指摘が示唆に富み、 本書のように利潤を度外視した書物の企画、 刊 行 は、 や は り 私 的 な 出 版 物 (注 6 ) 」 と 指 摘 し て い る。 し た が っ て、 『 吉 原青楼年中行事』の出版は『割印帳』の記載が無いという点と、藤 澤氏の論点を合わせると、私的に妓楼が配りものとして刷らせたも のという推論が生じる。その一部は趣味人が手にしたのか、もしく は吉原に出入りをしていた貸本屋にも出回った可能性があるかもし れ な い。 い ず れ に せ よ、 『 日 本 木 版 挿 繪 本 年 代 順 目 綠 』 で 出 版 さ れ た 事 実 は 確 認 で き た の で、 こ れ ら の 青 楼 絵 本 は 多 く 世 間 に 流 布 し、 吉原遊廓の宣伝冊子として位置づけられるのではないかと考える。   なお、これらの三作品が出版された後の何らかの評判記述の有無 について、 『甲子夜話』 (東洋文庫版、昭和五二~五八(一九七七~ 一 九 八 三 ) 年 ) や『 藤 岡 屋 日 記 』( 近 世 庶 民 生 活 資 料 版   昭 和 六 二 (一九八七)年)を紐解いて調べてみたが、発見できなかったので、 この点については今後の研究課題として検討したい。 おわりに   吉原では、時代の流れとともに太夫らの高級遊女の存在は無くな り、また、幕府が江戸市中にはびこる岡場所の売笑婦や湯女ら私娼 を幾たびか取り締まって、吉原遊廓へ送りこんだため、吉原の遊女 の品格も変化した。さらに、吉原は何度も火災を起し、そのたびに 別替地にて仮宅営業を行ったことで、以前の格式ばったお大尽遊び は減少し、江戸時代中期以降大衆化した吉原はより一層庶民にも手 がとどく遊興地となった。   本論の第二章では、幕府公認の吉原遊廓を指す「青楼」を舞台に し た 鈴 木 春 信 の『 絵 本 青 楼 美 人 合 』、 勝 川 春 章・ 北 尾 重 政 ら の『 絵 本 青 楼 美 人 合 姿 鏡 』、 十 返 舎 一 九 と 喜 多 川 歌 麿 に よ る『 吉 原 青 楼 年 中行事』の絵本作品の特徴について述べた。そして、これらの作品 は「遊女評判記」や「吉原細見」などの遊里の手引書の流れを汲む こ と が 認 め ら れ、 な お、 と く に『 吉 原 青 楼 年 中 行 事 』 に つ い て は、 描かれている遊女たちと遊廓風俗独特の行事が、遊廓内の諸事情を 紹介し、遊客の心を魅了し、より多くの遊客を廓内へいざなった作 品であると考察した。   続いて第三章では、これらの三つの絵本作品の遊廓への手引書の 効果の有無について、 『割印帳』 、『日本木版挿繪本年代順目綠』 、『雪 有 香 蒐 集 書 目 』 な ど の 史 料 を 用 い、 出 版 事 情 を 追 っ て み た。 ま ず、 出版の有無を確認し、さらに、それぞれの作品が公的な商業出版で

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あ っ た の か、 私 的 出 版 に よ る も の か 考 察 し た 結 果、 『 日 本 木 版 挿 繪 本年代順目綠』 で三作品すべての出版事情は確認できた。 しかし、 『割 印帳』の出版の記載の有無で区別すると、記載のある『絵本青楼美 人合姿鏡』は、商業目的の公的出版で、その一方、記載のない『絵 本青楼美人合』と『吉原青楼年中行事』は私的出版という推論に達 したものの、研究課題が残った。   近世の文化は、庶民が創り上げたものである。とくに江戸の文化 は、文学作品や、川柳、狂歌、落語、さらに歌舞伎に至るまで吉原 を取り上げていないものは少なくなく、吉原を抜きにして庶民文化 は成り立たなかった。すなわち、庶民文化の成立に欠かせない吉原 を主題にした青楼絵本の類は、吉原の宣伝冊子として人々の視覚に 訴えた作品である。   喜多川歌麿が吉原を題材にした作品に、寛政六(一七九四)年頃 蔦屋重三郎が売り出した『青楼十二時』という大判十二枚揃いの浮 世 絵があり、この作品からは廓内での遊女らの二十四時間の常々の 生活の様子が認められる。同じく歌麿の作品の 『吉原青楼年中行事』 は、第三章でとりあげた三大廓行事の図の他に「 仲 】(注 【図 の街年礼之図」 、 「 夜 】(注 【図 具 舖 初 之 図 」、 「 夜 】(注 【図 見 世 之 図 」、 「 狎 】(注 【図 客 之 坐 舖 」 な ど で 廓 内 の 営 業 の 様 子 が 窺 が え る。 つ ま り、 江 戸 の 一 大 遊 興 地 で あ る 吉 原 遊 廓 を、 娯 楽 の 一 大 企 業 と 看 做 す な ら、 『 吉 原 青 楼 年 中 行 事 』 は、 宣 伝 冊 子 の効果をはたした青楼作品であると同時に、現在において企業が配 布する企業案内や企業宣伝誌の先駆けとも言える。 謝辞   本論文の執筆にあたっては、主査である中山尚夫教授に、細かい 点までご指摘ご指導いただき、なお、鈴木重三編完全復刻版の『青 楼絵本年中行事』をお貸しいただき、 参考にさせていただきました。 また、藤澤紫先生に、二〇一五年度のゼミ発表に続き的確なアドバ イスをいただき、先生の著書を参考にいたしました。先生方にご教 示 い た だ き ま し た お か げ で 本 論 を 執 筆 す る こ と が で き、 中 山 教 授、 藤澤先生に心より感謝いたします。 引用・参考文献 注1 庄司勝富(小宮山綏介標註) 『異本洞房語園』   岸 上 操 編 『 近 古 文 藝 温 知 叢 書 第 壹 編 』 一 九 頁   博 文 館   一 八 九 一 年 注2 小 森 隆 吉「 「 新 吉 原 年 中 行 事 」 考 」  日 本 風 俗 史 学 会 編   日 本 風 俗 史学会会誌 通巻五四 『 風 俗 』 第 一 六 巻   第 一 号   五 三 頁 ~ 六 五 頁   開 明 堂   一 九 七 七 年 注3 岡田甫校訂『誹風柳多留全集   九』   三省堂   一九七八年 注4 宮 田 正 信 校 注『 誹 風 柳 多 留 』( 新 潮 日 本 古 典 集 成 六 三 )  新 潮 社   一九八四年 注5 渡辺信一郎『江戸の生業事典』   東京堂出版   一九九七年 注6 藤澤紫 「鈴木春信の絵本― 『絵本青楼美人合』 」 山口桂三郎編 『浮 世絵の現在』 一一四頁~一四五頁   勉誠出版   一九九九年 注7 ジ ュ エ リ ー・ ネ ル ソ ン・ デ イ ヴ ィ ス「 『 青 楼 美 人 合 姿 鏡 』」 に お け ( 注 31、 32)

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る浮世絵の出版及び吉原のネットワーク」 鈴 木 淳・ 浅 野 秀 剛 編『 江 戸 の 絵 本 ― 画 像 と テ キ ス ト の 綾 な せ る 世 界』一九九頁~二一〇頁   八木書店   二〇一〇年 注8 国 書 研 究 室 編『 補 訂 版   国 書 総 目 録   第 七 巻 』 九 二 〇 頁   岩 波 書 店   一九九〇年 注9 漆 山 天 童『 日 本 木 版 挿 繪 本 年 代 順 目 綠 』  漆 山 又 四 郎『 日 本 書 誌 学大系34(3)絵本年表三 自文化至天保』 九頁   青裳堂書店   一九八三年 注 10 十 返 舎 一 九『 青 楼 絵 本 年 中 行 事 』  吉 田 幸 一・ 倉 島 須 美 子 編 『 狂 月 坊 』 二 七 頁 ~ 八 一 頁、 一 九 一 頁 ~ 二 四 一 頁、 二 四 七 頁 ~ 二 五 二 頁   古典文庫   二〇〇一年 注 11 岡山鳥 『江戸名所花暦』   小泉吉永解題 『江戸時代庶民文庫53 【地 誌】 』一六六頁~一七〇頁   大空社   二〇一五年 注 12 山東京伝(小宮山綏介標註) 『近世奇跡考』   岸 上 操 編『 近 古 文 藝 温 知 叢 書 第 八 編 』 一 四 六 頁 ~ 一 四 七 頁   博 文館   一八九一年 注 13 遠藤淳助『芳原沿革史 全』   百新舎   一八九一年 注 14 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編 『日本国語大辞典 第二版 第十巻』小学館   二〇〇一年 注 15 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編 『日本国語大辞典 第二版 第十三巻』小学館   二〇〇二年 注 16 斎 藤 幸 成 編 『 東 都 歳 時 記 4 巻 付 録 1 巻 』  須 原 屋 伊 八   一 八 三 八 年 国立国会デジタルコレクション   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369318   25 / 78コマ 二〇一六年八月一〇日一四時五分閲覧 斎藤幸成編『東都歳時記   秋之部』櫻井庄吉編 『 日 本 圖 會 全 集 六 回 東 海 道 名 所 図 会 下 巻 東 都 歳 時 記 』 二 〇 七 頁   日本随筆大成刊行會   一九二八年 注 17 樋口一葉 『たけくらべ』   『岩波文庫31―025―1   にごりえ ・ たけくらべ』   五一頁   岩波書店   一九九九年第一刷改版 注 18 宝井其角『五元集』 石 川 八 郎・ 今 泉 準 一・ 鈴 木 勝 忠・ 波 平 八 郎・ 古 相 正 美 編『 宝 井 其 角全集   編著篇』四六七頁   勉誠社   一九九四年 注 19 麻生磯次『俳句大観』   明治書院   一九七一年 注 20 尾形仂編『俳文学大辞典』   角川書店   一九九五年 注 21 石 川 八 郎・ 今 泉 準 一・ 鈴 木 勝 忠・ 波 平 八 郎・ 古 相 正 美 編『 宝 井 其 角全集   年譜篇』一八二頁   勉誠社   一九九四年 注 22 今 泉 準 一『 五 元 集 の 研 究 』  六 七 〇 頁 ~ 六 七 二 頁   桜 楓 社   一九八一年 注 23 三田村鳶魚「行燈・挑燈の話 目を驚かした吉原の明り」 森 鉄 三 編『 三 田 村 鳶 魚 全 集 第 七 巻 』 二 八 三 頁 ~ 二 八 四 頁   中 央 公論社   一九七五年 注 24 朝倉治彦・大和博幸編『享保以後江戸出版書目―新訂版』 解説一頁~一三頁   臨川書店   一九九三年

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注 25 朝倉治彦・大和博幸編『享保以後江戸出版書目―新訂版』 安永四年十二月―五年三月   二一四頁   臨川書店   一九九三年 注 26 朝 倉 治 彦 監 修『 書 誌 書 目 シ リ ー ズ 8 3 割 印 帳 東 博 本 影 印 版 第 二巻 従宝暦8年至安永7年』 五九二頁   ゆまに書房   二〇〇七年 注 27 朝 倉 治 彦 監 修『 書 誌 書 目 シ リ ー ズ 8 3 割 印 帳 東 博 本 影 印 版 第 四巻   従宝暦8年至安永7年』   ゆまに書房   二〇〇七年 注 28 漆 山 天 童『 日 本 木 版 挿 繪 本 年 代 順 目 綠 』  漆 山 又 四 郎『 日 本 書 誌 学 大 系 3 4( 2) 絵 本 年 表 二 自 宝 暦 至 享 和 』 一 四 六、 一 九 五 頁   青裳堂書店   一九八三年 注 29 朝 倉 治 彦 監 修『 書 誌 書 目 シ リ ー ズ ⑪ 近 世 出 版 広 告 集 成 第 三 巻 』 三五二頁~三五七頁   ゆまに書房   一九八三年 注 30   鈴 木 重 三「 絵 本 青 楼 美 人 合 」( 『 近 世 日 本 風 俗 絵 本 集 成 』 第 九 回 配 本解説)臨川書店   一六八一年 注 31 藤 澤 紫「 喜 多 川 歌 麿 」  小 林 忠 監 修『 別 冊 太 陽 浮 世 絵 師 列 伝 』 六九頁~七八頁   平凡社   二〇〇六年 注 32 国 際 浮 世 絵 学 会 編『 浮 世 絵 大 事 典 』 二 七 〇 頁   東 京 堂 出 版   二〇〇八年 鈴 木 春 信『 絵 本 青 楼 美 人 合 』  藤 澤 紫『 鈴 木 春 信 絵 本 全 集   影 印 編 1』 一頁~一九六頁    勉誠出版   改訂新版二〇〇三年 藤澤紫『鈴木春信絵本全集   研究編』   勉誠出版   改訂新版二〇〇三年 漆 山 又 四 郎「 鈴 木 春 信 」『 日 本 書 誌 学 大 系 3 3   近 世 の 繪 入 本 』 三 〇 頁 ~三三頁   青裳堂書店   一九八三年 漆 山 又 四 郎「 勝 川 春 章 の 逸 話 と 作 品 」『 日 本 書 誌 学 大 系 3 3   近 世 の 繪 入本』三四頁~三九頁   青裳堂書店   一九八三年 喜 多 川 歌 麿『 青 楼 年 中 行 事 』  日 本 名 著 全 集 刊 行 会 編『 日 本 風 俗 図 絵 集 』 六七一頁~六九六頁   日本図書センター   復刻版   一九八三年 内 藤 正 人「 第 二 章   勝 川 春 章 の 伝 記 と 画 業 ― 春 章 に 関 す る 記 録・ 史 料 を 踏 ま え て 」『 勝 川 春 章 と 天 明 期 の 浮 世 絵 美 人 画 』 五 一 頁 ~ 一 五 三 頁   東京大学出版会   二〇一二年 長 友 千 代 治『 佛 教 大 学 鷹 陵 文 化 叢 書 7 江 戸 時 代 の 図 書 流 通 』 思 文 閣 出 版   二〇〇二年 長友千代治『近世楷貸本屋の研究』   東京堂出版   一九八二年 鈴木俊幸『書籍流通史料論   序説』   勉誠出版   二〇一二年 石 川 八 郎・ 今 泉 準 一・ 鈴 木 勝 忠・ 波 平 八 郎・ 古 相 正 美 編『 宝 井 其 角 全 集   索引篇』七〇二頁   勉誠社   一九九四年 石 川 八 郎・ 今 泉 準 一・ 鈴 木 勝 忠・ 波 平 八 郎・ 古 相 正 美 編『 宝 井 其 角 全 集   編著篇』五〇三、 五六三~五六五頁   勉誠社   一九九四年 石 川 八 郎・ 今 泉 準 一・ 鈴 木 勝 忠・ 波 平 八 郎・ 古 相 正 美 編『 宝 井 其 角 全 集   資料篇』二〇頁   勉誠社   一九九四年 石 川 八 郎・ 今 泉 準 一・ 鈴 木 勝 忠・ 波 平 八 郎・ 古 相 正 美 編『 宝 井 其 角 全 集   年譜篇』四頁~六頁   勉誠社   一九九四年 鈴木棠三・小池竜太郎編『近世庶民生活史料 藤岡屋日記 第一巻 文化元 年―天保七年』   三一書房   一九八七年

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松 浦 静 山 中 村 幸 彦・ 中 野 三 敏 校 訂『 東 洋 文 庫 甲 子 夜 話 1 ~ 6』   平凡社   一九七七、 一九七八年 松浦静山 中村幸彦 ・ 中野三敏校訂『東洋文庫 甲子夜話続篇1~8』   平凡社   一九七九、 一九八〇、 一九八一年 松 浦 静 山 中 村 幸 彦・ 中 野 三 敏 校 訂『 東 洋 文 庫 甲 子 夜 話 三 篇 2、 4、 5、 6』平凡社   一九八二、 一九八三年 朝 倉 治 彦 監 修『 書 誌 書 目 シ リ ー ズ ⑪ 近 世 出 版 広 告 集 成 第 一 巻 ~ 第 六巻』   ゆまに書房   一九八三年 増田太次郎『引札絵ビラ風俗史 新装版』   青蛙房   二〇一〇年 鈴 木 重 三『 絵 本 と 浮 世 絵   江 戸 出 版 文 化 の 考 察 』  美 術 出 版 社   一九七九年   台 東 区 役 所 編『 新 吉 原 遊 廓 略 史 』  吉 田 昌 志 編『 コ レ ク シ ョ ン・ モ ダ ン 都 市 文 化 3 4   遊 廓 と 売 春 』 四 九 七 頁 ~ 六 〇 七 頁   ゆ ま に 書房   二〇〇八年 国 書 研 究 室 編『 補 訂 版   国 書 総 目 録   第 二、 六、 八 巻 』 岩 波 書 店   一九八九、 一九九〇年 鈴木重三編完全復刻版   十返舎一九編・喜多川歌麿画『青楼絵本年 中行事』全二冊(乾・坤)実業之日本社   一九七五年 鈴 木 重 三 編『 青 楼 絵 本 年 中 行 事 別 冊 解 説 』 実 業 之 日 本 社   一九七五年 白倉敬彦『江戸の吉原   廓遊び』   学習研究社   二〇〇二年

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【図2】八朔の図 【図4】遊女らの図像 【図3】正月風俗の遊女の図 【図5】遊女らの図像 【図6】行司見立題目 【図7】書目 【図8】上巻扉絵 【図1】新造出しの図

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【図9】下巻扉絵 【図10】仲の町花盛之図 【図11】新吉原仲之町夕景之図 【図12】燈篭之図 【図13】仁和哥之図 【図14】「新吉原角街稲本楼仲之街仁和賀一覧之図」

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【図1、 2、 6~ 10、 12、 13、 15~ 18】鈴木重三編完全復刻版   十返舎一九編 ・ 喜多川歌麿画『青楼絵本年中行事』より 【図3、 4】藤澤紫『鈴木春信絵本全集   影印編1』より 【図5】藤澤紫「鈴木春信の絵本―『絵本青楼美人合』 」より 【 図 11】 二 代 歌 麿・ 奈 良 県 立 美 術 館 蔵   白 倉 敬 彦『 江 戸 の 吉 原 廓 遊 び 』 より 【図 14】歌川芳幾「新吉原角街稲本楼仲之街仁和賀一覧之図」 酒井好古堂所蔵木版画   二〇一六年十一月十七日撮影 ( 東 京 都 千 代 田 区 有 楽 町・ 帝 国 ホ テ ル 前 酒 井 好 古 堂 酒 井 店 主 の ご 好 意を受け画像撮影) 【図15】仲の街年礼之図 【図16】夜具舖初之図 【図17】夜見世之図 【図18】狎客之坐舖

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A study about "blue house (brothel)" picture books

The effect by publication of the book

"Yoshiwara blue house annual events"

IWAKI,Hitomi

 On the Edo Period, various books were published with development of printing technologies.  There was a book named "Yoshiwara blue house annual events" which wrote about prostitutes and annual events in the red-light district(Yoshiwara). This is a publication of a kind of picture books in which Ikku JUPPENSHA wrote sentences and Utamaro KITAGAWA drew pictures. "Yoshiwara blue house annual events" introduced fascinating prostitutes, and charmed people by popular events of the red-light district, and invited more visitors to there.

 If the whole Yoshiwara is regarded as a grave entertainment enterprise, the book "Yoshiwara blue house annual events" is regarded as a herald of advertising books.

参照

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