〔
資料紹介︺
「永
禄
六
年
北
国下り遣足帳﹂
小山
島本
道光
裕正
「永禄六年北国下り遣足帳」一
作成者と旅の行程
「永禄六年北国下り遣足帳﹂と﹁田中穣氏旧蔵典籍古文書﹂ 「永禄六癸亥年九月廿日北国下リノ遣足﹂という表題を持つこの帳面 は、近年当館の所蔵となった﹁田中穣氏旧蔵典籍古文書﹂の中の一つ ( 二 三 八号︶である。 ﹁田中穣氏旧蔵典籍古文書﹂︵以下﹁田中本﹂︶と は 京都に在住した田中勘兵衛︵教忠︶氏によって収集され、御子孫の忠 三郎・穣氏によって保管されてきた著名なコレクションであり、そのか なりの部分は東京大学・京都大学に所蔵される影写本などによって知ら れ て いるが、一般には知られていないと思われる史料も多く含まれてい る。その全体は一応の整理を終えてすでに公開昔されているため、中か ら興味深い一点を取り上げて紹介を試みることとした。 *原本の閲覧も申請によって可能だが、全史料の写真が仮目録と共に図書室に 排 架されているので、まずこれを御利用いただきたい。 体裁と内容 縦二二・五㎝、横三六㎝、七丁の横小帳で、こよりで綴じたのみのご く簡単な帳面である。一頁を二〇行ほどに使い、基本的には上段に金額、 下 段 に 使 途 を 記している。途中に略記された部分もあるが、記載は日付 の 順 を 追 い、また﹁○○ヘツク﹂といった行程を示す記述も随所に見ら れ、全体として旅行のはじめから終りまでの記録ともなっている。末尾 で は 旅 行 に要した費用の集計を行なっており、おそらく、旅行が終わっ た時点で手控えを整理して作成したものと思われる。中世の旅の一面を 詳 細 に 記 録した史料として貴重であり、また宿泊地など当時の都市的な 場 が判明する点からは都市史研究に、様々な支出の金額がわかる点では 物価史研究にも重要な材料を提供するものと言えよう。 作成者と旅の目的 この記録を作成した人物︵旅の当事者︶が誰であり、いかなる目的の 旅 であったのかは示されてはおらず、またコレクシ。ン中の一史料とい う性格上、伝来や関連史料についても不明だが、しかしいくつかの手が国、∼歴史民俗博物館研究報{ll第ハ9集 (1992) かりから、ある程度の推測は可能である。 ① 旅 の行程を見ると、最初の宿泊︵逗留︶地が京都府宇治市内に比定 される﹁笠取西庄﹂、最後が現大津市内の坂本であることから、この
講
羅
麟薩灘羅鞭
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購囎蓑−聡灘.騰
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購難難獺灘
ま べ ぺ の醸灘雛殿講噛雛・礁灘
永禄六年北国下り1貴足帳(〔1オ〕と〔7ワ〕)両 地よりも西・南方面の一日行程の範囲が出発地とまず推定される。 ②下野国小俣の鶏足寺でいったん﹁下り﹂の分の集計か行なわれ長期 滞 在 をしており、ここが一つの目的地であったと思われる。そして 他 にも寺院︵坊︶名が散見されること、また同行者に﹁行真﹂とい
う人物かいることから、作成者は僧侶ではないかと思われる。 ③笠取西庄は醍醐寺領であり、鶏足寺も醍醐寺と同じ真言宗である。
④田中本には醍醐寺関係の史料がかなりまとまって含まれている︵他 の 寺 院 の史料に比へ、群を抜いて多い︶。
以上から、作成老は醍醐寺の僧侶であり、この史料は醍醐寺から流出 して田中勘兵衛氏の手に帰した史料の一部であると考えるのが妥当かと 思 わ れる。旅の目的も何らかの寺務に関するものと思われるが、この史 料 を見る限りでは、具体的な目的は不明と言うほかない。また、これほ と細かな算用の記録かなぜ必要だったのか、 ﹁公務出張﹂のゆえと一応 考えられるが、これも一つの問題であろう。 史料の年代など
こ の 史 料 が表題の通り永禄六年︵一五六三︶当時のものてあるかにつ い ては、以下のような点から見て特に疑問はなく、中世の旅の記録とし て 信用しても問題はないと思われる。
①書体・紙質が当時のものと見て不自然ではない。 ② 「 悪銭﹂が使用され、撰銭が行なわれている。 ③通行路、宿泊地なとが近世のものとかなり異なる。
たとえは、永禄六年九月二三∼二四日に宿泊した﹁石寺﹂は近江
「永禄六年北国下り遣足帳」 南 半 の 戦国大名六角氏の城下であり、近世以降は街道筋からはずれ て 農 村 化しているし、翌年一〇月二三∼二四日に宿泊した﹁ミノ井 ノロ﹂は、言うまでもなく織田信長入部以前の岐阜の呼称である。最 後の部分に見られる近江の﹁下坂﹂も近世に用いられた交通路とは異 なり、秀吉による長浜城下町形成以前の様相を示すものと思われる。 ④冒頭の﹁笠取西庄﹂も実際に醍醐寺の荘園として機能していたゆえに 逗留したものと思われ、これも中世的な様相を示すものと言えよう。 旅 の 行なわれた永禄六∼七年︵一五六三∼四︶という年の状況だが、 織田信長が桶狭間に今川義元を破ったのが永禄三年、美濃の斎藤氏を逐 っ て 岐 阜 に 移るのが同一〇年、近江の六角氏を破り義昭を奉じて入京す るのは 一年のことである。京都では将軍義輝の暗殺されるのが永禄八 年、関東では後北条氏がほぼ全域を版図に納め、上杉謙信がこれを攻め る一方で武田信玄とも争っていた。三河では徳川家康が一向一揆に悩ま されている。総じて、戦国大名が領国支配を固めながら相互の潰し合い が 激しさを増し、戦国動乱の最終局面を迎えたころと言えよう。 しかし、意外なことに、この旅は戦乱による危険や大名権力による規 制を受けた形跡が全くと言ってよいほど見られない。東海道ではなく北 陸を経由して関東に入っているのが東海地方の混乱を避けたためと見ら れなくもないが、これもむしろ北陸の方が伝統的に京都との結びつきが 深く、交通も発達していたゆえと見るべきなのかもしれない。僧侶の旅 という性格もあろうが、戦国期においても、旅は意外に自由かつ盛んに 行なわれていたと考えるべきなのであろう。 行程︵図−を参照されたい︶ 永禄六年︵一五六三︶九月二〇∼二二日に現京都府宇治市内の笠取西 庄 に 滞 在した後、近江の草津に抜け、後の中山道・北陸道と思われるル ートで北庄︵福井市︶へ出る。加賀へは船で渡ったと思われ、以下馬を 使いながら陸路で越後府中へ向かい、一〇月=日に到着する。その後 一 一月四日から再び移動をはじめ、湯沢から上野へ抜け、沼田を通って 一 一月一六日に下野国小俣の鶏足寺に着く。前述のようにここが一つの 目的地だったと思われ、ここで冬を越して翌年の春まで滞在したらしい。 この後福島県方面に向かい、記述が完全でなく行程を追いにくいが、 「 五月=日二田村ヨリ長井へ越ス﹂という記述があり、板谷峠を越え て山形県の長井まで足を延ぽしたように見える。その後現在の福島市・ 郡山市・相馬市・いわき市付近を巡回して会津に現れ、そこから越後へ 出て六月二八日には乙法寺に着いてこの付近でしぽらく滞在する。この 間﹁駄賃﹂の記載が多い。そして八月一二日から二二日まで新潟の旅籠 に い た後、ようやく帰路に着く。現富山市付近までは往路と同じコース だが、そこから今度は飛騨方面へ南下し、美濃へ抜け、近江に入って琵 琶 湖 を船で渡り、坂本へ着く。記録はここまでだが、おそらく今度は山 科 をまわって醍醐寺へ戻ったのであろう。 以上、なお明らかにしがたい部分や比定に確証を持てないものも多い が、地名辞典などによって一応の比定を試み、↓覧にまとめてみた︵表 1︶。お気付きの点などは御訂正いただけれぽ幸いである。 ( 小島 道裕︶
(N訟ご ひ “う 黒、 ぷ蕊ぽ忘題蕊埜造田叔塗べ芭 ▽響池・一・麟 、卍乙法寺 ジダ山上 笠 取西庄 、 新 庄 金山
福
横山 高原 イト井郷 イトイハ ケ麦松崎 神沼横越 村撃津 宇津宮 多劫 小松 ヒホコ シン山 凡 例 ・宿泊地(旅籠・逗留)を○、その他の地名 を△で表設した。 ・ 原本がカナ表記で漢字を宛てられるものは、 適宜現行の漢字を用いた。 ・行程の線は厳密な通行経路を添すものでは ない。 図1 「永禄六年北国下り遣足帳」の行程N
q⊃一「永禄六年北国下り遣足帳」 表1 r永禄六年北国下り遣足帳』行程および所出地名一覧 日
付1地
名 比 定 地 備 9.20∼22 22 22∼23 23∼24 25∼26 26∼27 27∼28 10. 1∼2 2∼3 ︶4⊂U678
∼ ∼ ∼ ∼ ∼ ∩﹂4567
︵ 8∼9 9 9∼10 10 10∼11 11 10.11∼ 11 4 11. 4 4∼5 7・8 8∼9 9∼10 10 10∼11 11∼12 12∼13 13∼14 14 笠取西庄 草津 守山 石寺 木ノ本 ツハイ坂 越前ノ今庄 越前浅生津 北庄 キレト 湊 加州 ? 加州湊 湊川 ? 越中国安養寺 ? 越中金山 越中ヲイ庄 ヲイ庄∼ 市ブリ 越後国イト井郷 イト井郷∼ ノウ 越後ノウ ∼名立 ∼ アルマ川 アルマ川 越後ノ府中 (宝積寺・善光寺) ? 松ハシ ハナカサキ (ノウ峯大善坊) 田麦 松平 犬伏 麻畠 湯ノサワ アサカイ 上野国アイ 沼田 京都府宇治市 滋賀県草津市 〃 〃 〃 〃 守山市 安土町石寺 木之本町 余呉町椿坂 福井県今庄町 〃 福井市浅水 〃 福井市 ? 〃 三国町? 石川県 ? 〃 美川町湊? 富山県小矢部市安養寺? ? 〃 9 〃 〃 いちぶり 新潟県青海町市振 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 糸魚川市? 〃 能生町 〃 名立町 上越市有間川 〃 上越市(直江津) ? 〃 ? 〃 頸城村花ケ崎 〃 〃 〃 〃 〃 〃 大島村田麦 まつだい 松代町(松平村) 松代町犬伏 十日市町麻畠 湯沢町 湯沢町浅貝 (越後・上野国境の意か) 群馬県沼田市已留
昼休 旅籠 1旅籠 旅籠 、昼休 1(旅籠) {旅籠 1橋賃(九頭竜川か) 舟賃 船賃 橋賃 1旅籠 ⋮ 旅籠 船賃 1旅籠 旅籠 、旅籠惨籠
:旅籠 駄賃籠賃
旅 駄籠賃賃籠
旅駄駄旅
籠 旅 i小遣い 1旅籠 逗留 旅籠 旅籠 小遣い 旅籠 旅籠 旅籠 旅籠 昼休み以下 考日 付 14∼15 15∼16 ?.? 5.11 (11∼)12 14∼ 6. 2 12 17 6.22 (22∼)23 地 名
∼
先
ぽ ぽ ナ 幻 幻∼
麓
繕賢㌫嘱晶繊⑭襟㌻滉墓㌘㌢當期稔・
国立歴史民俗博物館研究報告 第39集 (1992) 比 定 地 備 考 群馬県赤城村南雲 ? 〃 栃木県足利市小俣 栃木県宇都宮市 茨城県結城市 栃木県上三川町多功 ? ? 福島県いわき市湯本 〃 〃 中好間? 〃 郡山市 山形県長井市? 福島県福島市 〃 〃 (板谷峠?) 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 郡山市 〃 相馬市 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 双葉町新山 郡山市 いわき市薬王寺? ? 小野町 〃 三春町 〃 ? ? ? ? 〃 ? 〃 〃 会津若松市黒川 会津若松市 柳津町籠籠賃
旅旅駄
逗留 1送.人。齢 駄賃 遣足 駄賃 「越ス」 駄賃 駄賃 旅籠 「越ス」 旅籠 「越ス」 酒(シン山より送り衆へ) 「越ス」 馬中間二遣ス 駄賃 駄賃 「越ス」 礼、両夜逗留 駄賃 駄賃 籠 賃 旅 駄 立着籠
出到旅
「永禄六年北国下り遣足帳」 日 付 地 名 比 定 〃 地 (23∼)24 (24∼)25 (25∼)26 (26∼)27 28 8.12∼22 23 9,(11∼)12 (12∼13) 1柳津∼ 1柳津 ∼ 野尻 野尻 ∼ 津川 ㌧カ。 ∼マオロシ i マオロシ マオロシ∼ 村松 村松∼ 横越 ヨココシ コクラクワタリ ∼対馬屋 対馬屋 ∼神原 神原 ニイカタノワタリ 、∼神原 上原 ∼ノツタリ 乙法寺 池ノハタ 金蔵(坊) ヤス田 山上 山一ヒ ∼新方 パ大福坊) ? ニイカタ ヤピコ ? 1 ?
i・
{カルイ川 ∼ 山上 (大福坊) 出雲崎 カルイ川 北条 ハツサキ ? i ? ‘ 〃 〃 〃 〃 西会津町上野尻ト“ “
i新潟県津川町 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 五泉市馬下 〃 〃 村松町 〃 横越町 〃 ? 新潟市津島屋 〃 〃 〃 蒲原 〃 〃 〃? 新潟市蒲原 〃 〃9 くロつたり 〃 沼垂 中条町乙 ? ? こやずたラ 神林村宿田? 蒲原郡奥山庄北条の内? 〃 新潟市? ? 〃 新潟市 〃 弥彦村 〃 柏崎市軽井川 備 1駄賃 船賃 駄賃 旅籠 駄賃 1旅籠 船賃 1 旅籠 駄賃 駄賃 駄賃 |駄賃 酒(宿ヨリ送衆) (阿賀野川か) 駄賃 旅籠 案内者二遺ス 酒 : 船賃 酒 1船賃 …到着 …船賃 酒手、礼 舟賃 案内者 1舟賃 |樽 1舟賃 1旅籠同礼 昼休み 駄賃 …旅籠 旅籠 旅籠 〃 蒲原郡奥山庄北条の内?i「越ス」 〃 〃 〃 〃 ? 出雲崎町 柏崎市軽井川 柏崎市北条 柏崎市・柿崎町鉢崎 中二日逗留、礼 行真ら二人逗留 旅籠 旅籠 旅籠 .昼休み …駄賃 考日 付 (13∼14) 9.14∼ 10. 2 10.2・3 (3∼)4 (4∼)5 (5∼)6
789
︶︶︶
∼ ∼ ∼678
︵︵︵
(9∼)10 (10∼)11 (11∼)12 (12∼)13 (13∼)14 (14∼)15 (15∼)16 (16∼)17 (17∼)18 (18∼)19 (19∼)20 (20∼)21 (21∼)22 (22∼)23 (23∼)24 (24∼)25 (25∼)26 地 名 府中 (大館殿) 府中? 府中? アルマ川 名立 ノウ イトイ川 ? 市ブリ ? ? 三日市 大津 ? ? ? 新庄 舟ノクラ 横山 ? 高ワラ ? ? フル川 大野 ? 山ノロ ? 湯ノ島 アサウ ? 濃州勝田 ? ミノ井ノロ 同井ノロ ? ∼下坂 下坂 大ハマ 坂本 江州下坂∼坂本 国立歴史民俗博物館研究報告 第39集 (1992) 比 定地1備
考 〃 上越市 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 有間川 名立町 能生町 糸魚川市 〃 青海町市振 富山県黒部市三日市 〃 魚津市 〃 富山市新庄 〃 大沢野町船倉 岐阜県神岡市横山 〃 神岡市・上宝町高原郷 〃 古川町 〃 高山市内? 〃 萩原町山之口 〃 下呂町湯之島 〃 七宗町上麻生・下麻生 〃 市 阜 〃 岐 〃 〃 9: 滋賀県長浜市下坂中・下坂浜 〃 〃 〃 びわ町大浜? 〃 大津市坂本 宿ヘノ礼 酒(樽) 旅籠 旅籠、五人逗留み みみ
み み み み み み み籠休籠籠休籠休籠籠籠休籠休籠籠籠休籠籠休籠籠籠籠休籠籠休籠休籠籠籠賃籠籠籠賃
旅 昼 旅 旅 昼 旅 昼 旅 旅旅昼旅昼旅旅旅昼旅旅昼旅旅旅旅昼旅旅昼旅昼旅旅旅駄旅旅旅舟
「永禄六年北国下り遣足帳」
二
旅
行
費用に関する若干の分析
O
旅の記録について 中世の旅というより、古代から近世にかけての旅を扱った業績として ︵1︶ 『 新 稿 社寺参詣の社会経済史的研究﹄がある。現段階において中世の旅 を 考える上で、本書は基本的文献であり、研究もそれ以降あまり進めら れ て いないというのが現状である。 前 掲書においては、中世に盛行した社寺参詣とその社寺の持つ意味を はじめ、旅の実際についても詳細に言及し、第二章第二節の二において は 「 貨幣の流通﹂ということで、旅と費用について論じている。しかし 現 存史料の関係からと思われるが、実際の費用については述べられてい ない。 右 のような研究情況からみると、ここに紹介する﹁永禄六年北国下り 遣 足帳﹂は中世の旅の具体的様相を見る上で、重要史料といってよかろ う。 ﹁永禄六年北国下り遣足帳﹂︵以下本論の便宜上﹁遣足帳﹂とする︶は その名の通り旅行中の費用を記したものであるが、一見すると近世中後 期における旅の小遣帳かと錯覚をおこしてしまう。現存する中世以前の 旅日記といえば、ほとんどが歌などを詠みこんだ紀行文学的作品である。 ここに紹介する遣足帳のように、旅の費用を記したものに﹃願神軒存 ︵2︶ 爽 算用状﹄がある。この記録は願神軒が伊達氏の命により、朝廷をはじ めとする人々に献上物を運んだ時のもので、旅の途次出資をいちいち記 入したものではなく、旅行後に出費報告をしたものである。そのため支 出内容から旅の具体像をみることは難しい。 これに対して遣足帳は旅行をしながら支出を記入していったもののよ うであり、 ﹁頭神軒存爽算用状﹂に較べて記入内容も細かく、旅の様相 をある程度具体的に知ることができる。 遣 足 帳 や 「 頓神軒存爽算用状﹂のように旅の経費を示す記録は数多く 現 存しないというだけで、作成されなかったということではないだろう。 少くとも上からの命令により旅に出た場合、必ず何らかの方法により収 支報告をしたものと考えられる。そのためにも旅行中の支出をメモして おく必要があったであろう。 こうした小遣帳の類は紀行文学的な旅日記に較べ、後世に残すという 意識は薄く、漉き返し紙などとして利用されていったと考えられる。 遣 足帳の筆者の旅の行程や旅行者の身分については、前章において小 島が考察を行っているので、本章においては遣足帳の内容を若干分析し て みることとする。 ⇔ 筆者の旅の様相 まず遣足帳をもとに、遣足帳の筆者がどのような旅をしたのかをみる ことにしよう。旅行者は小島の指摘する通り僧侶であるが、 一人で旅を したものかどうかは定かでない。国立歴史民俗博物館研究報告 第39集 (1992) 永禄七年九月七日頃と思われる項に 百 五 十 文 ハタコ 行真同山城二人出雲崎二 逗留ノ分 とあり、遣足帳筆者以外に、二名の仲間と思われる人物の記載がみられ る。さらに永禄七年十月二日の項に、 壱貫四十三文 ハタコ 九月十四日ヨリ十月二日迄 五 人 ノ分府中二逗留 とあり、宿泊費として五人分もの支出をしている。遣足帳の記載内容か らみて、筆者は基本的には一人で旅をしていたが、時折りなんらかの理 由で仲間又は配下の老達と合流、接触していたものであろうか。さらに 仲間と接触した場合、遣足帳の筆老は少くとも一同の宿泊費を支払う立 場 にあったといえる。 府中逗留中には出雲崎の時に同一人物とみられる行真のために箕代四 五 文も支出している。 遣 足 帳 の筆者は一人旅であろうと前述したが、まったくの単独行であ っ たとも思われない。従者を連れていた可能性が高いがその関係の支出 は 見当らない。 遣 足帳からは旅をした僧侶の地位を知ることはできないが、支出内容 からみてある程度の地位にあったものと思われる。そのことを示す事例 をいくつか挙げてみよう。 永禄六年十月十一日の項 宝 積寺、善光寺等ヘノ案 内者二酒以下の入目也、 永禄六年十⋮月九日の項 廿 五 文 ノウ峯ヨリノ送ノ 人二遣ス 永禄七年五月下旬頃 十 五 文 送ノ衆ニサケ 相馬迄人数五人 以上のように案内者や送ノ衆などが付いてくれる場合がある。このよ うな待遇は下級身分の僧侶ではほとんどあり得ないのではないだろうか。 遣 足帳からは旅をした僧侶の全貌を窺うことはできないが、ある程度 の身分を持った者ということは間違いなかろう。 ⇔ 費用に関する分析 遣 足帳をもとに作成したものが﹁旅中支出一覧﹂ ︵表二︶である。こ のうち宿泊費は厳密にいえぽ宿に着いた翌日の支出になるが、翌日の支 出にすると表が複雑になるため、宿に到着した時支払ったように処理し た。 遣 足 帳 は諸経費を洩れなく記載したものではなく、記載洩れもかなり ある。たとえば永禄七年六月二七日から二八日は宿泊地も不明であるし、 二 九日から八月一一日までは一切記載がない。
「永禄六年北国下り遣足帳」 少額の支出ではあるが草鮭の記事は二度だけである。消耗品である草 鮭 は かなりの量を必要とした筈である。安政六年︵一八六〇︶六月に富 ︵3︶ 士 登山をした時の日記によると、登山のために一〇足の草鮭を用意して いる。 また安政三年二月二〇日から四月五日まで伊勢・金毘羅方面を旅した ︵4︶ 静岡県掛川近傍の人の日記によると、合計一七足の草鮭を必要としてい る。日数合計は四四日であるが、一般旅人と比較するとゆったりした旅 であり、船も利用しているので草鮭は二日弱に一足を必要としたようで ある。 遣 足 帳 に 記 載された旅費の総額は、 下り 三貫八二八文 上リ 七貫六一〇文 総 額 =貫四四〇文 となっている。しかし遣足帳に計上された実際の金額合計は、 下り 三貫七八二文 上り 七貫五↓○文 総額 ↓一貫二七五文 となっており合計が合わない。ここでは実際に計算した数字に基いて稿 を 進 め て いくことにする。 費用の内訳を宿泊費、昼食費、交通費︵船賃・橋賃・駄賃︶、その他に 分 け て そ れぞれの比率を見ると次のようになる。 宿泊費 五貫八五五文 約五二% 昼 食費 六八六文 約 六% 交 通費 一貫七一六文 約一五% そ の 他 三貫 一八文 約二七% 右の内訳のなかで、最も比率の高いのが宿泊費、ついでその他である。 その他の中でも礼銭が一貫一八七文で総費用の約一一%を占めているが、 こ れ は 滞 在した寺院や送ってくれた人への謝礼で、この旅の特長を表わ しているといえよう。また酒代の大半も謝礼金の代りであるため、実際 に 謝礼金の占める割合はかなり大きくなる。 ここで参考までに近世後期における農民の旅日記からの旅行経費を掲 ︵5︶ げておこう。筆者は安政六年︵一八六〇︶六月一一日に現在の千葉県君 津 市 大 谷 を出発し、江戸ー富士山−伊勢−金毘羅ー京都ー善光寺を巡っ て同年八月二日に帰村している。 宿泊費 飲食費 交通費 社寺関 係 費 そ の他 合 計 七貫七一〇文及金一分 四貫 四五文 一貫六二九文及金二朱 一貫九四六文及金二分二朱 五 貫 七 三 四 文 及 金 二 朱 銀 六 匁 二 分 二一貫六四文及金一両二朱銀六匁二分 右のうち飲食費は昼食代を含んだものであり、社寺関係とはお札や費 銭等、その他は土産品及び富士登山の装備代などである。 安政六年の支出貨幣は金銀銭が混じっているため、単純にその比率を 69 出すことはできないが、宿泊費が最も多く、次いでその他、飲食費、社
国立歴史民俗博物館研究報告 第39集 (1992) 寺関係費、交通費の順になっている。 諸 経費の中では宿泊費が双方とも最も大きな比重を占めるが、長期旅 行の場合、基本的には現在も同様といえよう。但し遣足帳の場合は筆者 の み の宿泊費ではなく、仲間または配下の分も含まれているが、すべて の 支出が記されているわけではないので、結果的には宿泊費の優位にか わりなかろう。 遣 足帳に記された宿泊費は、特別の注記のない限り一人分とみられる が、永禄六年下りの宿泊費をみると、ほぼ四〇から五〇文の間である。 一 〇月一一日から二月三日の逗留分一貫一四〇文も、一日当りに直す と約四九文となる。なかでも四八文が最も多く一六回に及び、石寺から 有間川まではほぼ連続している。 一方下りをみると、宇都宮から府中までは宿泊費がばらばらで一定し て いない。ところが有間川からは若干の高下はあるものの、宿泊費のほ とんどは六〇文になっている。 同一地域に泊りながら上りと下りでは宿泊料金が異るという現象もみ られるが、宿泊料金が偶然同一であったとは考えられない。それも地域 的に連続してである。料金が一定しているということは、それぞれの宿 が 協 定を結ぶか、支配者側の交通政策によるものと思われる。それも支 配 者 が 異 れば領国を越えた統一がなされていたことになる。 料金一定区間におけるこの時期の伝馬制度などについて調べる余裕も 力量も筆者にはないが、料金一定は交通制度が整備されていたという傍 証の一つとはなるだろう。 最後に一つ関所の通行について述べておきたい。遣足帳には関所通行、 関銭についての記述がみられないが、 ﹁願神軒存爽算用状﹂にはしばし ば関所についての記載がみられる。その一例は次の通りである。 三 貫 文 是ハ北近江関所十二ヶ所御座候、七頭之面々、御奉書不 被致信用候間、重而御雑色衆三人申請、御奉書依申下、 為 礼儀相渡候 遣 足帳の中に関所関係の記事がないのは、遣足帳の筆者が関所を問題 なく通行できる立場にあったためであろうか。遣足帳の内容からみて、 関銭を支払う‖支出がなかったため、記述がみられないのであろうか。 この時期における旅行経費を遣足帳のように記したものを筆者は不勉 強ゆえ他には知らない。そのため比較検討をすることができず、的外れ な解説になってしまった。しかし本史料が今後の交通史研究に果す役割 が 大きいことは確信できる。さらに記載内容から、交通史研究のみなら ず、他の分野においても重要な史料となりうるであろう。 註 (1︶ 新城常三著﹃新稿社寺参詣の社会経済史的研究﹄ ︵昭57︶塙書房 (2︶ ﹃×日本古文書﹄家わけ第三伊達家文書之一 (3︶ 千葉県君津市大谷 朝生家文書 原標題﹁道中日記帳﹂ (4︶ 国立歴史民俗博物館蔵。同館研究報告第四集に山本が紹介醗刻をしてあ る。 (5︶ 註︵2︶に同じρ ︵山本 光正︶
「永禄六年北国下り遺足帳」 表2 旅中支出一覧 年月日
宿泊地1旅籠代嗣⇒莚圃願駄賃小遣瞬草礒の備
考 笠守石宿木今浅
宿
安宿金ヲイ能右
越 花能留田松麻湯浅
ロロロロ 年 ∼ 21 22620
禄月 永 9瑚
畑
細
拙
烈
ヨ
細
”朗
賄肛∼舳∼肋盟胡胡
1
0 0 0 01
﹁⊥ 1 1 ¶⊥日
田
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相
聞
聞
四
聞
田
旧
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雷瑚日畑闘賭勾調田相聞田朋田囲
卜
6取西庄
山 泊
寺 泊
泊地不明
ノ 本泊庄 泊
生津泊
泊地不明
加 州 湊 泊 〃養寺泊
泊地不明
山
イ 庄
ト井郷泊
生 泊
間川泊
80120 48 2942
48 48 20 48 3717
22
097
5222 9細
888888
4‘444︽λ14与
88884444
0 4 1 1 8 400008
54亡044
※52 20 1328
1 8 16 ユ5 ※ 100 16 ※24 ※1305
4 −Q︼12
1 6 ※05033233
0∨20
849
7371132
177 ※25 ※52 ※樽代とあり ※杉原紙代 ※小遣共 ※5日の記事に記載 ※酒代共 ※餅代共 ※能生峯よりの送り 人へ国立歴史民俗博物館研究報告 第39集 (1992) 年月日
宿泊地旅籠代昼食惨莚㌔鰍酬遣礼銭草輻の備
考 13日 14日 15日 16日 永禄7年力?
?
?
?
?
?
5月11日 〃 14日力 6月2日 12日 17日∼ 18日力 19日力 〃 20日力 22日 23日〃
24日 25日 26日〃
〃
27日〃
28日〃
?
?
?
上野国アイ
南 雲 泊
タ ルイ 泊鶏 足 寺
宇都宮逗留
結城∼多功
? ヒホコ∼小松岩城湯本
川原コ∼ ? シ ノ ブ 泊 相 馬 泊 坊 泊 仙 路 東 中明泊泊
不 地津尻
泊宿柳野
津 馬 津 川 泊下 泊
島屋泊
池 ノ ハ タ030
∠154
15 20 3606
FO3
560433
12 104▲5
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10470111
※15 ※30 30 ※30 15 8 ※24 25 30 60000
5つ﹂3
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﹂4 5080345
000435
005372
4 16 17 7 8 4 20 0 0 1 0 5 ※ ※10 100 ※ 100 ※25 ※16 ※送り人へ礼銭 ※遣足 ※5人分 ※シン山よりの送り 衆5人へ ※馬の礼銭力 ※宿より送り衆へ ※宿への礼 ※神原迄の案内者へ ※金蔵寺へ酒手 〃「永禄六年北国下り遣足帳」
⊂・1宿泊地旅籠代昼食⇒莚酒橋鰍賃小遣礼銭韓孟の備
考 田 ス ヤ 潟 新 ∼ 上 山 留 逗 潟 新泊留留
ー逗逗
刀 坊 崎 井福雲
泊上泊 泊中
川 井 条崎
軽 大出 軽山北 鉢府
留 逗 中 府???????㌔叉?㍍????朋
月
月 月∼8
0﹂ Q﹂四
田
??囲??畑???酬???∴娼
∼ 9・・ ∼14月
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月109
360 24 351 150 1 281
651 50 61 ※ 1043 22 5 1 24 10 100 85 17 ※ 200 30 50 0 2 24 ※31 25 50OJ1
ーウ一 26 1903
(δ2
580135
18 31 ※ 200 200 ※ 200 11 ※10 ※45 22 ※金蔵坊へ礼 l I※大福坊へ樽 i 1※宿への礼 1※大館殿へ樽 ※餅代 ※箕代 宿の下女に 5人分国立歴史民俗博物館研究報告 第39集 (1992) 考 備 の ぞ他
宿泊地罐代已獺倒酒橋鰍酬遣ネL銚鮭
年月日 6 26 15 13 24 13 12 22 46 14 24 30 80 8 300 20 32 26 30 36 33 27 18 18 60 60 60 60 60 50 60 60 50 50 60 60 60 50 30 50 40 70 60 60 60 60 60 60 60 60有間川逗留
泊 生 能糸魚川泊
泊 振 市宿泊地不明
三日市泊
泊 津 魚宿泊地不明
泊泊泊泊 泊泊
庄倉山原〃川野
新 船横高 古大
明泊泊
不 。 嶋 地 之 之 泊 宿山湯
泊泊
生 田麻勝
井ノロ泊
〃宿泊地不明
泊泊泊
坂浜本
下 大 坂 日口H日23
1∼明
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〈 付記V
この史料は田中本の購入と整理の過 程 で そ の 存 在 に 気 が 付き、検討を始め たものである。過日逝去された田中稔 教授もこの史料には大変興味を示して おられたが、紹介に際して内容につい て の 御 教 示 を得ないままになってしま っ た の はまことに残念である。御元気 なら指摘を受けたであろう不備を覚悟 の 上で、御霊前に捧げることとした い。「永禄六年北国下り遣足帳」 〈 釈 文
V
.ーオポ禄六耀九月F
北国下リノ遣足 百 文 廿 文 八 十 文 十 五 文 廿 九 文 四 十 八 文 四十二文 四 十 八 文 十 六 文 廿 文 四 十 八 文 廿 七 文 笠 取 西 庄 越中二 樽代、廿日ヨリ廿 二日迄逗留ノ礼 ヒ ル ヤ ス ミ草津 ハタコ銭守山 廿 二日夕・廿三日朝 ム シ ロ 昼 休以下 廿 三日・廿四日ハタコ 石 寺 に て 昼 休 以 下 廿 五日ノタ、同廿六 日朝、木ノ本三ア ハタコセソ サ ケ 以 下 ヒルヤスミ ッハイ坂 廿 六日ノタ・廿七日朝 越前ノ今庄 昼休サケ以下 (ーウ︶ 四十八文 四 十 文 十 二 文 十 七 文 八 文 廿 二 文 五 文 四 十 八 文 廿 文 四 十 八 文 八 文 廿 九 文 四 十 八 文 五 十 二 文 廿 七 文 四 十 八 文 ( マ マ ) 六日 六十一文 廿 四 文 四 十 八 文 十 六 文 ハ・・薔舗肪
越州浅生津 北 庄 橋 賃 キ レ トノ舟ちん 昼 休 湊船チン ヒ ル ヤ ス ミサケ以下 橋賃加州 ハ・・銭詰緬
昼 休以下 ハタコ銭二日.三日朝 加州湊 湊川船チン 昼 休 小 遣 以 下 ハタコ銭三日.四日ノ朝 杉原 昼 休以下 ハ・・難鶉にて 駄賃 小遣共、サケ以下 ハ・・銭語靭 舟ちん (2オ︶二 六日 廿 五 文 四 十 八 文 七日 五 十 二 文 四 十 八 文 八日 廿 文 廿 文 四 十 八 文 九日 廿 五 文 十一文 四 十 八 文 十日 廿 文 廿 九 文 廿 三 文 四 十 八 文 昼 休 以 下 ハζ縮〃蛎
越中金山 昼休サケ以下 ハタコ七日夕.八日朝 越中ヲイ庄 駄賃召庄
市ブリマテ ヒ ル ヤ ス ミ以下 ハタコ八日夕.九日朝 越 後国イト井 郷 イト井 駄賃郷ヨリ ノウ迄 小遣 ハタコ九日.十日 越後ノウ 駄賃名古テ 小 遣 ア ル マ川迄 駄賃 ハタコ アルマ川 十日夕・十一日朝国立歴史民俗博物館研究報告 第39集 (1992) 十一日 十 三 文 餅・サヶ 十月十一日ヨリ越後ノ府中ニ ック (2ウ︶ 八 十 九 文 十月十一日ヨリ同 十 八日迄ノ小遣 四 十 二 文 十 九日ヨリ廿一日マテ 小遣之分 川豊方ヨリ長井方ト申仁 宝 積寺・善光寺等ヘノ案 内者二酒以下ノ入目也 九 十 文 小遣トモ 廿 二日ヨリ十一月四日 マテノ分也 壱 貫 百 四 十文ハタコ十月十一日ヨリ 十一月 四日 七 文 四 十 八 文 六日 十 三 文 十一月四日迄ノ分 小遣松ハシニテ 四日・五日 ハタコハナカサキ ニテ 昼 休以下 百 七 十 七文ノウ峯大善坊へ 礼ノ出銭分、七日・八日 両日逗留 五 十 文 四 十 文 廿 五 文 十日 十 三 文 五 十 文 十一日 廿 七 文 (3オ︶三 四十文 十二日 廿一文 四 十 八 文 十 三日 四 文 四十文 十 四日 十 二 文 五 十 三 文 十 六 文 四 十 文 世 文 ハタコ田麦ニテ 九日ノ朝マテ ハ
・・譜゜吉
ノウ峯ヨリノ送ノ 人二遣ス コ ツ カイ犬伏 ハ・・罐゜+百
小 遣 以 下 ハタコ十一日・十二日 湯ノサワニテ コ ツ カイトモ ハタコ十二日.十三日 ア サカイニテ コ ツ カイ ハ・・麩卵錫,
昼 休以下 沼田 ハ・・汁謂.+吾
コ ツ カイ ハ・・バ精.+六, タルイヨリヲマ 田 迄 ノ駄賃 タルイヨリヲマタノ 鶏足寺ヘツク 十一月十七日 惣 已 上 三貫八百十八文 此 分 下リノ路銭分也 (3ウ︶ 永禄六年十一月 日 遣 足 百 文 五 十 文 七 十 〉 文 六 十 文 十 六 文 五 十 文 五月十一日二田村ヨリ長井へ 廿 文u
七 文 廿 文 宇 津宮二逗留ノ間 ︵カ︶︵カ︶ 礼二遣ス、深長方へ 結城ヨリ多劫 マ テ ノ送ノ人二遣ス コ ツ カイ 駄鳥埜戸リ
岩 城 湯本ニテ 遣 足 駄賃川原。。リ 越ス ・チ・彰▽ヨ コ ツ カイ 駄賃 板屋ヨリ「永禄六年北国下り遣足帳」 シノブマテ 十 五 文 ハタコ十二日 シノブニテ 十 四日ヨリ田村ヨリ相馬へ越ス 廿 文 ハタコ 十 五 文 送ノ衆ニサケ 相 馬 迄 人 数 五 人 六月二日ヨリ相馬ヨリ岩 城ヘコス (4オ︶二二 廿 文 サヶ、シソ山ヨリ 送 衆 五人ニサケ 六月十二日岩城ヨリ田村へ越ス 十 文 薬王寺ヨリ馬 中間二遣ス 四 十 五 文 ミサコヨリ小野 マテノ駄賃 五 十 文 小野ヨリミハル 迄ノタチン 同十七日ニミハルヨリ大平へ 越ス 百 文 東仙坊へ礼 両 夜 逗留 世 文 四 十 八 文 廿 六 文 八 文 五 十 文 太タイラヨリ タカタテ迄ノ 駄賃 高館ヨリ中 路迄ノ駄賃 ハ
ζ中箕
コ ツ カイ 中路ヨリ黒河 迄ノ駄賃 六月廿二日会津ヨリ立 ヤ ナイツニツク (4ウ︶廿三日 五 十 文 四 十 文 十 文 廿 文 廿 四日 廿 六 文 四 文 五 十 文 廿 五日 四 十 五 文 廿 文 五 十 四 文 廿 六日 廿 六 文 ハタコ 駄賃柳津ヨリ 船賃柳津 (賃︶ 駄 任 野尻マテ ハタコ ノシリ コ ツカイ 津川迄駄賃 ハタコ ツカワ サ ケ フ ナ チ ン マヲロシマテ ハ・・㌻。シ 廿 文 世 文 七 十 文 廿 文難,
十 五 文 廿 五 文 廿 七日 廿 文 廿 五 文 十 五文 十 文 (5オ︶五 廿 八日 百 文 同廿八日 十 四 文 八 文 十 七 文 コ ツ カイ 駄慕塞シ。リ
駄轟禦リ
ヨココシ サ ケ ニテ フ ナ チ ン コ クラク ワタリ 駄賃対謹
ハ・・対謹 神原マテノ 案内者二遣ス サ ケ神原にて ニイカタノワタリ 宿ヘノ礼 ︵カ︶ 宇 路 与助 船賃麟へ 上原ニテサケ ノッタリへ 船賃 越 時 廿 八日二乙法寺ヘツク 十 文舟ちん池ノハタ
甚文金蔵所へ酒手
廿 五 文 同国立歴史民俗博物館研究報告 第39集 (1992) 十 文 舟ちんヤス田 廿 二 文 昼休 弐 百 文 金蔵坊へ礼 百 文 十 七 文 山上迄ノ案内者 山上ヨリ新方 迄 ノ舟ちん ム シ ロ 弐 百 文 大福坊へ樽 八 十 五 文 舟ちん 八月十二日ヨリ廿二日マテ 三 百 六 十文ニイカタの 廿 二日 十 五 文 ハタコ同礼 ヒルヤスミ ヤ ヒ コ ニ テ 廿 五 文 駄賃 廿 四 文 ハタコ (5ウ︶ 八月廿三日 廿 四 文 ハタコ 十 九 文 小ツヵイ 九月二日 廿一文 小遣トモ
廿 五 文
ハタコカルイ川 九月五日又山上へ越ス 弐
蔓謹,大福坊へ礼
百 五 十 文 ハタコ 行 真同山城二人出雲崎二 逗留ノ分 廿 六 文 小遣 廿 八 文ハタコカルイ川 廿 文
サカテ山上
六 + 五 文蛸日ハζ北条
十 九 文 小遣 五 十文+四日ハタコハッサキ 廿四文 昼休 五 十 文 駄賃 廿 四 文 弐 百 文 廿 文 世一文 廿 三 文 廿 文 十 五 文 廿 八 文 (6オ︶六 五 十 文 五 十 文 サケ 府中ニテ 宿ヘノ礼 小 遣サ・篇殿へ 十 七日 コツカイ ム シ ロ コ ツ カイ 同拙信迄ノ コ ツ カイ ム シ ロ 六十一文ハタコ 十 八 文 小遣廿九日迄 十 文 四十五文 餅 箕行真 十一文 ワラチ 廿 二 文 ヤトノ下女 壱貫四十三文 ハタコ 九月十四日ヨリ十月二日迄 五 人 ノ分府中二逗留 廿一文 コツカイ 六 十文ヨ朋゜三日 ハタコァルマ川 廿 文 六 文 四日 六 十 文 ヒ ル ヤ スミ 名立 ワラチ ハタコ ノウニテ 廿 六 文 小遣 六 +文五日ハタコイ才刀 廿 二 文 六日 六 十 文 廿 六 文 七日 六 十 文 十 五 文 八日 五 十 文 (6ウ︶ 十 三 文 ヒ ル ヤ ス ミ以下 ハタコ市ブリ 昼 休以下 ハタコ 小 遣 ハタコ三日市 コ ツ カイ
「永禄六年北国下り遣足帳」 六 +文九日ハタコ大津 廿 文 ヒルヤスミ 十日 六 十 文 ハタコ 廿 六 文 ヒルヤスミ以下 十一日 五 十 文 ハタコ新庄 廿 四 文 小遣 十二日 五 十 文 ハタコ舟ノクラ 十 三 文 小遣 十三日 六 十 文 ハタコ横山 廿 三 文 昼休以下 十四日 六 十 文 ハタ三局ワラ 十五日 六 十 文 同 廿 七 文 昼休以下 十六日 五 十 文 ハタコフル川 十 二 文 コッカイ 十七日 廿 文 ハタコ大野 十八日 五 十 文 ハタコ 廿 二 文 小ッカイ 十九日 四十文 ハタコ山ノロ 十 八 文 昼休 七 十 文 ハタコ湯ノ嶋 六 十 文 アサウハタコ 十 八 文 昼休 (7オ︶七 廿二日 六 十 文 ハタコ 濃州 勝田にて 四 十 六 文 昼休小遣以下 廿三日 六 十 文 ハタコ、、、ノ井ノロ 廿四日 六 十 文 ハタコ同井ノロ 十 四 文 小遣 廿五日 六 十 文 ハタコ 廿四文 コツカイ 八 + 文