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[The Le Government and Its Regional Administration System in the Newly Reclaimed Land under the Regin of Le Tanh Tong : The Analysis of the Inscriptions in Yen Hung Sub-Prefecture]

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(1)

東南 アジア研究 33巻2号 1995年9月

繁朝聖宗期 の新開拓地を巡 る中央政権 と地方行政

-

安興碑文 の分析

-八

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InYenHungsub-prefecture,AnBangprovince(now QuangNinhprovince),Vietnam,two inscriptionsfrom thefifteenthcenturyrecordasurveyofnewlyreclaimedlandandthe dealingsoftheLegovenment.

DuringthereignofemperorLeThanhTong,anadministrativesystem wasestablished consistingofthecapital,provinces,prefectures,sub-prefectures,andvillages.

Theseinscriptionsrecord two interesting matters.Oneisthesignificance ofthe governorofthesub-prefecture.Anotheristhesignificanceofthehigh-rankingofficials sentfrom thecapital.Littlementionismadeofthegovernoroftheprovince.

AnBangwasoneoftheoutlyingprovinces,andbecauseofthis,thecivilgovernorof theprovincewasengagedin many military affairs. Thissituation isreflectedin the inscriptions.

Inthispaper,Iexamineonlyoneprovince,butaccordingtoVietnamesechronicles,the sametendencycanbeseeninthewholestate.Solwouldliketoproposethefollowing interpretation.

DuringthereignofemperorLeThanhTong,large-scalereclamationplanswerecarried outinmanyprovinces,andthisledtomanysmallreclamationworksbyaristocratsand peasants.Sothegovernorsofsub-prefectureshadtodealwithmanyandvariousproblems. Butthegovernmentdidnotwanttoempowerthem todoso.Moreover,theprovincial governorscouldnotadequatelysupervisethem becauseoftheirheavyworkload.Tosolve thesituation,thegovernmentsenthigh-rankingofficialsfrom thecapital.

じ め

ヴェ トナムの年代記 『大越史記全書』(以下 『全書

)

1

)

は各本紀 の冒頭 にその皇帝 に対 す る論

評 を載せ る。

*大阪外国語大学地域文化学科 ;DepartmentofArea Studies,Osaka University ofForeign Studies,8-1-1,Aomatani-Higashi,Minoo,Osaka562,Japan

1)陳剤和校合本 (全3巻, 東京大学東洋文化研究所附属東洋学文献 セ ンター刊,1984-1986年) を以 下使用。

(2)

東南 アジア研究 33巻2号 帝創制立度,文物可観,拓土関東,板葺孔厚,真英雄 ・才略之主。難湊之武帝 ・唐之太宗, 莫能過失。 繁朝

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代皇帝聖宗 に与え られた辞であ る。光順年間

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)に次 々に うちだ された諸政 策 とチ ャンバ親征 の成功 を承 けて洪徳2年

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1) に 「校定皇朝官制」 の詔がだ され, ヴェ ト ナム史上初 の,整備 された国家体制 が彼 の治下 で実現す る。そ して この体制 は,後 に混乱 した, いや混乱 してい るか らこそ後期繁朝下 にあ って も従 うべ き模範 とされたのであ る。 まさに 「創 制立度」 の皇帝であ った。 筆者 は, こうした官制 の完成 に至 るまでの繁朝政権内外 の動 きに注 目 してい くつかの論稿 を 発表 した [八尾

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8;

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8

9

a]

。そ して聖宗期 の官制 につ いて も軍事機構 の面 において は若干 の 考察 を試 みた事 がある [八尾

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b]

。 しか し前近代,特 に

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8

世紀以前 の ヴェ トナム史研究 において は史料 は編纂物が大半 を占め, 一次史料 は 日本 で は殆 ど見 る事 は出来 ない。 また本国 において も長 く続 いた戦乱 と気候 の問 題, さ らには統一後 の経済悪化,国際的孤立 に伴 って新史料 の収集 ・整理 も十分 に進 まず, ま たいかなる努力が ヴェ トナム人史家 によ ってなされているのか,外 か らは十分 な情報が得 られ なか った。 幸 い

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年代 の後半 か ら経済活性化策,対外開放策が採 られたおかげで,筆者 は- ノイ留 学中 に多 くの専門家 と意見 を交 わす機会 に恵 まれ,専門分野 である15世紀 の史料 もい くつか 収集す る事が出来 た。本稿ではそれ らの中か ら洪徳年間

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)

のデー トを持っ土地開拓 に関わ る2基 (6面)の碑文 を もとに,繁朝型宗期の行政機構,特 に地方 のそれを考察 し,中 央 との関係 を探 ってみたいと考え る。 しか し,何故 その様 な問題設定 が可能 なのかをまず最初 に説 明す る必要 があろう。 聖宗期 は上記 の様 な行政制度 が完成 した時期であ り,地方行政制度 も高度 に画一化 された も の とな った。 同時 に この時期 は繁朝開国後半世紀が過 ぎ,土地制度 もよ うや く均 田制 とい う形 に統一 された時期で もあ った。 しか しそれで もなお多 くの例外があ り,開拓 自体 も種 々の形 を とって進展 して いた。 そ もそ も行政区画 を設 ける目的 は何か。様 々な事が挙 げ られよ うが, 中 央 の地方 に対す る支配 を 「水平 ・垂直」両面 で確立す る事がその究極 の目的であると言 えよ う。 で は 「水平 ・垂直」 とはどうい う事か。「水平」的 とは,少 しで も国家の領域 を拡大 し,よ り遠 くまで中央 の力 を及 ぼそ うとす る動 きである。 それに対 して 「垂直」的 とは,社会構造 を垂 直 的 に捉 え,最上位 の中央 (その トップが皇帝)か らよ り下へ下へ と村落, さ らにその中の個人 へ と支配 を浸透 させ よ うとい う動 きであ る。地方行政制度 はまさに この二方向の目的に奉仕す るもの と して作 られた ものである。 従 って, こうした地方行政制度 と開拓 とはどうして も密接 な関係 を持 たざるを得 なか ったのであ り, そ こに筆者 は問題設定 の根拠 を兄 いだすのであ る。 144

(3)

八尾 :繁朝聖宗期の新開拓地を巡る中央政権 と地方行政 今 回分析 す る碑文 は,新 たに開拓 され た村落 と, その処 置 を巡 って中央 の官僚 と地方官僚 と が ど うい う行動 を取 ったかを伝 えて い る。 但 し, この碑文 1組 で当時 の社会 の全体像 が措 ける とは筆者 は考 え て いな い。 そ もそ も同碑文 が立 って い る地 は中央 か らほど遠 い新 開拓地 で あ り, あ くまで一 つ の ケースス タデ ィの段 階で あ ると しな けれ ばな らない。 ただ,聞 くところに よ ると, ハ ノイ国家大学 史学科 で もフ ァン ・フイ ・レPhan Huy Le,フ ァン ・ダイ ・ゾア ン Phan D争iDoan教授等 を中心 と して, 紅河 デル タの開拓 ・移民史研究 の為 の フ ィール ドワー クや史料 収集 が急 ピッチで進 んで い るとの事 で あ る。最近, ヴェ トナムの人 口 ・発展研 究 セ ン ターTrungtam Nghiencd'uDans6vaPhAttrieJnが刊行 した研究報告書 [TTNCDSVPT

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4

]はその概要 を伝 えて くれ る もので あ るが,個別論文 も続 々 と発表 されっっ あ る。2)こうし た研究 の積 み重 ね に よ り, 当時 の紅 河開拓 の全体像 とその行政 との関 わ りが明 らか にな る日が や って くる事 を切 に願 う次第 で あ る。 Ⅰ

紅河 テリレタ開拓史 の回顧 と展望

1 治水 の歴史 紅河 デル タの開拓史 につ いて は桜井 由窮雄 の一連 の研究 が あ る [桜井

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9;1

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a;1

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b;

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9;1

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2

]。 それ に基 づ き,繁朝以前 のデル タ開拓 の過程 を振 り返 ってみた い。 農業地 開拓 にお ける発展段 階論 と して,作付 け品種 の改良等,主 に農法 の改良 によ って生産 をあげよ うとす る 「農学 的適応」 と,築堤等大規模土木事業 によ って収穫 の向上 を図 る 「工学 的適応」 とい うモデル 3)に依拠 した氏 は, ヴ ェ トナム最初 の長期王朝 で あ る李朝 の段 階

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)

で は通説 が述 べ るよ うな統一 的水文思想 に基 づ く築堤作業 な どは未 だ行 われて お らず, 「農学 的適用」 の段 階 に とどま って いた事,続 く陳朝期

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)

に至 って初 めて紅 河右岸 の馬蹄 形 大堤 防が国家 的規模 で築 かれ, それが

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世 紀初頭 の属 明期 に確認 されて い る事 を指 摘 し

,

「李朝 -水利 に基 づ く中央集権 的専制国家」とい う説 を否定 す る。この桜井説 と表裏一体 なのが桃 木至朗 の李 陳朝期国家体制 の研究 で あ る。 氏 は桜井 が李朝 が豪族連合体 と も言 うべ き 存在 で, デル タ中枢部 に さえ半独立勢 力が存在 して いた事 を指摘 したのを承 けて,李朝 が ウォ ル タース

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]

のい う 「マ ンダラ国家」で あ り,中国的 な中央集権国家 な どで はな く,行政単位名 を帯 びた沢 山の小半独立権力 が存在 す る とい う,東南 ア ジア的 な性格 の色濃 い 2) Nghie-nC仇 Lich

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f(以下NCLS)誌の

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4

号には 「歴史の中の開拓の問題」の特集が組まれて いる。 3) この農学的適応,工学的適応の概念を提出 した石井米雄は,水利事業における国家の関与の有無 でタイ史の小国家の性格を明らかにしようとした [石井

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5:2

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]。 タイの小国家 とヴェトナ ムの陳 ・繁朝 とではその規模において格段の差があるが,桜井 も村落を越える国家による水利事 業を工学的適応の産物としている [桜井

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b:

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]。

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(4)

東 南 ア ジア研 究 33巻 2号 政権であ った事 [桃木 1987;1988],そ して陳朝 に至 ると,宗室 がそれ ら半独立勢力の上 に通婚 等 によってかぶ さ り,よ り安定 した政権 をたて る事 に成功 した事 を陳朝の人脈 [桃木 1982]と 行政区画 の変遷 [桃木 1983] の両面か ら明 らかに した。 陳朝 に続 く繁朝期 にどのよ うな治水事業が為 されたのか残念 なが ら桜井 は持論 を公表 してい ない。 ただ,李朝期 に入 ると 『全書』等 には大規模築堤 に関す る事項 は一切現れず,代 わ りに 堤防の維持,修築 に関す るものが大半 を占め る事 か ら,統一 的思想 に基づ く紅河大堤防 は陳朝 末期 には既 に完成 した というのが氏 の推定である [桜井 1989:279-286]。 そ うした国家 による (築堤 を伴 うよ うな)大規模開拓 の一方でそれ と並行す るよ うに,チ ャン ・テ ィ ・ヴィンTIもn Th享Vinh [Vinh 1981:128]や桜井が繰 り返 し述べ るよ うな小規模 (県以下 の レベルの)開拓 が続 け られた。 その中には大雑把 に言 って李朝期の農学的適応段階の開拓 の タイプ もあれば, 大規模築堤 を前提 として利用す るもの もあ った。 この小規模開拓 はその開拓主体 の違 いによっ て三つの タイプに分 けるのが ヴェ トナム人史家 の常 (レ [Le1987:28-30] や グェ ン ・ドゥ ク ・ギ ンNguyさnDtrcNghinh [Nghinh 1987:4ト42]な ど) とな っている。 以下 それを紹介

す る。

2 3

タイプの小規模開拓 1)田庄 これに関 して は際限な く多 くの史家 に引用 された以下 の陳朝期 の史料 がある。 a)詔王侯 ・公主 ・鮒馬 ・帝姫,招集漂散無産人為奴蝉,開墾荒関田,立為 田庄。王侯有庄, 実 自此始

。(

『全書』5 紹隆 9年 (1266)冬 10月の条) b)詔限名 田.大王 ・長公主 田無限,以至庶民 田十畝,多者許従便購罪,腔勅亦如之。余者 上進入官O初,宗室諸家,毎令私奴婦於瀕海地築堤堰障嚇水。二 ・三年後,開墾成熟,互 相嫁衆居之,多立私庄 田土。故有是命

。(

『同書』8 光泰 10年 (1397) 6月 の条) 大堤防建設 の傍 らで,陳朝宗室やそれ と密接 な関係 を結んでいる一部 の有力者が私奴婦等 を 役使 して防潮堤 をっ くらせ,4)臓水 の影響 がな くな った地 を田地化 し, 私有地 とす る事が認 め られた とい う。桜井 はこうした械水 の潮上 して くる点 に着 目 し, こうした田圧が沿岸砂丘列 の 続 く下部 デル タや新 デル タ強感潮帯 に属す る南策地方等 に存在 した [桜井1980a:625-631] と 4) 注3) で述 べ た様 に, 小規模築堤 の よ うな家族 ない し村落規模 で出来 る事業 は, 桜井 の言 う工学 的適応 の範 噂 には入 らない。 146

(5)

八尾 :繁朝聖宗期の新開拓地を巡る中央政権 と地方行政 推定 した。 そ して さ らに諸史料 に散見す る陳朝期 の重要地点 (王族 の封地 な ど) を リス トア ッ プ し, それぞれの立地状況 を縮尺 5万分 の 1の地 図等 を用 いて分析 した上 で, それぞれの地 に つ いてそれが 田庄 の可能性 が あ るか ど うかを推定 し,前稿 を補 強 した [桜井 1992]。 この田庄経営 はまさに陳朝宗室 の家産制 的 な性格 を如実 に示 して いると言 えよ う。 つ ま り公 の資格 で開拓 の特権 を得,その果実 は しっか り私 の懐 に入 れて い るわ けで あ る。b)の詔 はそ う した私有地拡大 を制限 しよ うと, 時 の権力者胡季斧 が陳順宗 に出 させ た ものであ る。 こうした 田庄 は,短命 の胡氏政権 (1400-1407)と明の支配 (1407-1427)による田庄主 の撲滅 のため, 繁朝期 に はい るとネガテ ィヴな存在 で しか なか った とい うのが通説 とな って い る。5) しか し筆 者 はネガテ ィヴな存在 で あ った とい う事 が,社会 へ の影響力 (善悪 は別 に して) が小 さか った とい う事 の証 明 にはな らない と考 え る。抗 明戦 で活躍 した開国功 臣の土地所有体制 につ いて は 筆者 は何度 か レの研究

[

Le

1981]を引用 し,功 臣の所有 田 (もしくは占有 田)の大 きさを指摘 して きた。6)抗 明戦後 の荒廃 した国土 を回復 す る責務 を負 った新王朝 に とって は, 仮 に田庄 が 私 田ゆえ にその収穫物 が国庫 に入 って こな くとも,一定 の人 間 を集 めて とにか く働 く場所 を提 供 し,荒廃 した土地 の回復 や新 開地 の開拓 に寄与 した とい う点 で, か な りの影響 力が あ った と 考 え る。 ちなみ にTTNCDSVPT [1994:651汀]は15世紀 の紅河 デル タ海岸地方 開拓 を叙述 す る部分 で,それを開国功 臣 によ る もの と,富裕 な農民 によ る もの とに分 けて論 じてい る。今後, 家譜等 の新発見史料 の分析 によ って彼 ら田庄主 の活動 を明 らか にす る必要 があ る。 2)屯 田 これ は国家機関が主導 して行 うものであ る。 ヴェ トナムにお いて屯 田策 が いっ始 ま ったのか 筆者 は寡 聞 に して知 らない。繁朝期 に入 ると,聖宗 の光順

3

年 (1462)に天候異常 の為 に臣下 の直言 を帝 が求 めた際 に, 門下省右司郎 中 の黄清 が 「屯 田を置 きて,以 て辺億 を実 たす」事 を 進言 して採用 された

(

『全書』 12 同年春4月 の条)。実際 にそれが政策 と して採用 され るの は 洪徳 12年 (1482)の事 であ り,7)聖宗 の文集 『天南飴暇集

官制典例武 には太僕寺 に所属す るデル タ内の屯 田所 が

3

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カ所記載 されて い る。この リス トを もとに,ギ ンはそれぞれの位 置比 定 を試 みて い る。氏 の指摘 で興味深 いの は,こうした屯 田所 の多 くが大河川 の沿河地 にある事, 19世紀 の 『各鎮総社名備覧』 に載 る所名 ・社名 も しくは総名 と同 じ名 を もって いる 「所」が多 5) この傾向はクイン [Quすnh1994・.2-3]をみる限り,現在に至ってもあまり変わっていない。 6) 但 しレは, 功臣の封地の大きさを認めた上で, それらが分散 していた事, あくまで手にしていた のは占有権であって所有権ではなかった事を指摘 し,国家サイ ドの力の強さを強調する[Le1981: 15-18]。 7) 但 しもっと聖宗期の早 くから屯田策が行われていた可能性をギン[Nghinh1986・.30]は指摘する。 確かに光順元年に凶作による収穫減から売爵策がとられた事を考えると,氏の推定は肯首出来る。 147

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東南 ア ジア研究 33巻2早 い事 であ る

[

Nghi

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6:

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3

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]。8)氏 の指摘 に従 えば,その 「所」のサイズは県以下 の レベ ルのか な り小 さい もので あ った事 にな る。国家 によ る農 地 開拓 が屯 田 とい う形 を取 って行 わ れ,実 際の労働力 として は近 隣 の農民9)や犯罪人 (徒刑囚 な ど)10)が役使 された。なお屯 田の立 地 に関 して は別稿 で詳述 したい。 3)民 によ る自発的開拓 これ は一定期間の免税,国庫 か らの援助等 の優遇措置 を得 て,一般 の民 が 自発的 に開拓 を行 うものであ る。但 し先 に述べ たよ うに,残 された史料 の殆 どが国家 の編纂 による ものであると い う状況 の中で, この種 の事業 が記録 と して残 る可能性 は極 めて少 ない。本稿 で扱 う安興 の例 や

TTNCDSVPT

[1994:

6

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-

づ7

]

の記す麓冷 ・里仁 ・茶里 での例 はその点で極 めて稀 な もので あ る。 以上,開発主体 を もとと した分類 の中身 を概観 した. 開発 の方 向 は大 き くい って二つ ある. 一 つ は内向的, つ ま りデル タ内の,条件 は既存 の村落 よ り悪 いが工学 的技術 によ って とにか く 開拓可能 にな った場所 に向 いてい る場合で あ る。 今一 つ は外 向的, つ ま りデル タ中枢部外 の未 開拓地 に向いて いる場合 であ る。 しか し, この開発方向 の違 いは,例 えば屯 田方式 が前者 で, 田庄方式 が後者 とい うよ うな,開拓主体 の違 いに ダイ レク トにつなが るもので はない。 そ して 次章 で考察す るよ うに,建国 当初 の政治的 ・経済的混乱 を収拾 して中央政府 が安定 し, その地 方 の掌握度 を増 そ うと した ときに,誰 が開拓 を行 ったのか とい う事 が一番問題 にな って くるの で あ る。なぜな ら,繁朝期 に入 って も17世紀 まで は田圧 や功績 に基 づ く賜 田な どの私 田 は原則 として非課税 であ り,国庫歳入 には全 く寄与 しなか った。一方,独 自に農地 を開拓 した新開拓 地 の農民 も, 占有権 を盾 に容易 に納税 に応 じない事 が多 か ったか らである。今回 の舞台,安興 県 の場合 が まさに この タイプに属す る。 8) この 『各鎮総社名備覧』の各総の下に社と並列 して出てくる 「所」 と15世紀の屯田 「所」 とが性 格上同一であるという証拠は無い。 そもそも 『天商銀暇集』 天下版圏 にも各県に属する 「所」 の数が記載されているが, これと屯田 「所」 との関係も不明である。 ギン [Ngh主nh1986:31 -32]は 『同書』官制典例武 には他にも典牧 「所」や蚕桑 「所」 といったものが出ており,かな り混乱 していたのではないかと推定 している。 9)桜井 [1989:285-286]によれば,陳朝期には堤防建設の際,軍の機構を通 じて在地の農民の労働 力が動員された。繁朝期にも同様の事があったことは容易に推定される。 10) 『李朝刑律』では徒刑に男女それぞれ3種類あり,最 も重い刑である 「種田兵」 は農耕労働に従事 した。片倉はその原初的形態として国有田に犯罪者が 「徒」 された例を紹介 している。 また, こ の種田兵は他の文献では屯田兵 ・植田兵 という別称で記録 される事 もあったらしい [片倉 1987: 196-197

]

148

(7)

八尾 :拳朝聖宗期の新開拓地 を巡 る中央政権 と地方行政

3 安邦 東 宝海 菓 府 安興 県 (地 図 1参 照)

問題 の碑 文 はハ ノイの漢 文 チ ュノム研 究 院 にその拓 本 が あ り (拓本 番 号 10523-10528),ll)安

興 YenHIJng県 中本 TrungBan社 の亭 内 に現存 す る。 この碑 文 は早 くか らヴ ェ トナ ム人 史家

の興 味 を引 いて いた よ うで あ るが,最 初 に纏 ま った報 告 を行 ったのが フ イ ・ヴHuyVu, チ ャ ン ・ラムTrh Lam両 氏 で あ る [HuyVuvaT{anLam 1977]。これ は論 文 タイ トル に も 「通 報

Th6ng

b

a

o

」 とあ るよ うに,歴 史考察 を行 った論 文 とい うよ りは, フ ィール ドワー クの報 告 書 とい う色 合 いが濃 い。 中 に は筆 者 が現地 で耳 に しなか った伝 承 な ど も利 用 され て い るが,残 念 な事 に この論 文 に は注 が全 く無 く, デ ー タの根 拠 を確 か め る事 が 出来 な い。 今一 つ は著名 な ′\ ′河 川 一・・一- 山 地 ∈∋ 段 丘 (∋ 自然堤 防 ① Floodpl8in(1) ⑳ Floodplain(2)((1は り深 水 ) GSB 古 デ ル タ ⑳ 析 デ ル タ強 惑 溺 耕 1)⑳ 斬 デ ル タ強 感 細微 2)(乾期麟 書 の危険 ) ⑳ 海岸砂丘 . 京 師 ■ 安典 イエ ンフ ン 地図 1 紅河 デルタ地形区分 と安興県 出所 :[桜井 1989:図1] に加筆 ll) ヴェ トナム漢文 チュノム研究院所蔵拓本 の整理番号。拓本 には採取者 による墨書 の位置説明があ る。 以下がそれである。(10524)亭内左辺三面之前, (10525)亭内左辺三面之後, (10527)亭内 右辺三面之前,(10526) 亭内右辺三面之右, (10528) 亭 内右辺三面之後, (10523)亭内左辺三面 之左。 同院所蔵の拓本 についてはVNCHN [1992] を参照 の事。 筆者 は 1993年 と 1994年の 2度 にわた って この碑文 を実見 した。

(8)

東南 ア ジア研究

3

3

2

号 土地 制度史家 で あ るギ ンの研究 [Nghinh

1

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8

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]

で,碑文 の中身 の解釈 を行 って い るが,氏 も 新 開拓地 に対 す る国家 権 力側 の力 が強 か った とい う概 括 的文脈 の中で この碑文 を解 釈 してお り, 中央 の政策 とこの碑文 に現 れ た出来事 とが ど う関連 す るのか とい う点 に関 して は答 えて い な い。 また一方 で こう した開発 が進 む中で,安邦地方 が ど うい う政治状況 に置かれて いたのか とい う問題意識 が無 い。TTNCDSVPT

[

1

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4:

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]

も同様 で あ る。そ こで まず は この安邦 と い う地 に拘 って み る。 ピェ-ル ・グル ーの名著 『トンキ ンデル タの農民達』[Gourou

1

9

3

6

]

に抗元戦 で有名 な自藤 江 の左岸 に関す る記述 があ る。 氏 は, この地方 には干潮 にな ると姿 を現 す小洲土 が あ り,堤 防 の建設 で開拓 が可能 であ る事 を指摘 す る [ibid.:207]。 さ らに氏 は実 際 そ う した試 みが院朝期 に為 されて いた事 を紹介 す る。確 か に 『大南塞録』正編第

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期 明命

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(

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)

秋閏

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月 の 条 に は当時海安 署菅 で あ った院公署 が

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丈 あ ま りの防潮堤 防 を築 く事 に よ って

3,

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0

畝 の 可耕地 が出来 る事 を奏上 して裁可 されて い る。周知 の如 く院公署 は タイ ビン大輪 中 を完成 させ た水利 の プ ロで あ り,安興 に開拓 の可能性 が十分 あ る と判 断 したので あろ う。 グル ーは院朝 よ りさ らに遡 る

1

5

世 紀 に この地 区 で開拓 が始 ま って いた事 を知 らなか ったせ い もあ って,紅河 本流 に比 べて タイ ビン河 デル タの開発 が なぜ遅 れ たか とい う疑 問 を提 出 し,人 口圧 力 の弱 さを その原因 と して い る。12)実際, グルーの時代 はお ろか現在 に至 って もこの周辺 に は海水 の遡 っ て くる沼沢地 が多数残 ってお り,築堤 によ る田地 へ の転換 とと もに,最近 で はえ びの養殖池 と して利用 されて い る.ただ,この小洲土 の一 つで あ るハ ナム

HaNam

島の存在 は案外早 くか ら 中央 に知 られて いた らしい。 先 に紹介 した フイ ・ヴとチ ャン ・ラムによ る報告

[

HuyVuva

Tfan

L畠m 1

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]

は同島 に残 る神南 の本尊 の多 くが

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世紀 の抗元戦 の英雄 陳興道 で あ る 事 を報 告 して い る。 その 島 の西 側 の 白藤江 は古来 よ り水 路 で- ノイ に向か う際 の要地 で あ っ た。属 明期 には安興県 と, 同 島の南部 にあ った安老県 に塩課 司が置かれて いた。陳朝期 には未 だ農業地 で はなか った ものの, その農業地 と しての可能性 は知 られて いたので あ る。13) ママ 時代 は くだ り,繁朝初期 の開拓前後 の状況 を,開拓者 の子孫 で あ る武氏 の家譜 『武氏花譜』14) は以下 のよ うに伝 え る。

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グルー [Gourou

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参照。一方桜井

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2:4

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は逆に開拓による人口増加が既に陳 朝後半期か らあった事を指摘 し,同時にそれではなぜ紅河本流の下部デルタやタイビンデルタの 開拓が遅れたのかを問題にしなければならないとした。

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)

或いは桜井

[

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2:4

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]

の如 く, 商業ルー ト上にこの安興があった事を考慮するならば, 商人や 船乗 りがそうした安興に関する情報を京師にまで もたらした事 も考え られる。特に水脈に関する 点など,その可能性が高い。

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)

最初の開拓者 とされる十七先公の子孫 という家々を

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年夏に

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0

軒以上訪問 したが,その所有 する家譜の内容は15世紀に限っていえば似たりよったりであった。 その中で最 も情報量に富んで いたのがヴ ・ディン・チエウ Ⅴqf)主nhChieu所蔵のこの家譜である。 家譜によっては開拓開始の 時期を李朝期 とするものもあったが,おそらく誤写であろう。なお,ヴ ・トゥ・ラップVtiTぜL牟p [L尋p

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1:

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]

は開拓開始の年を

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年 (元軍の侵略のあった年)としているが,典拠不明。 150

(9)

八尾 :繁朝聖宗期 の新開拓地 を巡 る中央政権 と地方行政 ママ 花譜先祖有伝来,云原前懐徳府寿昌県金蓮坊環近近昇龍城之南 (原注 :今改為河内省)。繁 朝紹平間,広開城字,包入此地,準許往各省地韓,係見何処可堪墾 田立 邑,聴其即弁我 先祖輪往,至安邦鎮 (今改為広安省),己有安興業民居。望鎮之南 ・自藤江岸二帯浮土柴槻 叢雑,嚇水升降,四顧,皆河中有土堆。高峻,械水不至。其可居即行,包築墾治.将有兄 弟参入,長 日武一功,次 日武隻,季 日武三省。同移居東海,叶力広開,培築堤唄,居得参 年,惟武一功回龍城存。祖武隻在登穀村,武三省在安東村。二始祖与十五先公並太平府茶 里人黄確 ・黄玲二先公,於洪徳年間,開拓 田土,墾治成。甘報徴受税,立成一社四村, 自 乗共立廟芋,奉事。 (以下略) もちろん この家譜 は原本ではな く,何度 もリライ トを繰 り返 した もので,散見す る地名 も後 世 の ものが多 い。 よって記載 されている事 を全て鵜呑みにす るのは危険であるが,当時の開拓 の状況 をかな り妥当に表現 していると考えて良 さそ うである。 それによると,第2代皇帝太宗 の紹平年間

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に京城 の拡張工事 にともな って土地 を収公 された農民 に,適地 に移住 して開拓 を行 う事が許可 されたのである。彼 らはやがて安興 に至 り,-ナム島にわずかに高み があ って海水 をさえ ぎる事が出来 るのを知 ってその地 に移住 し,故郷 の人々を リクルー トして 防潮堤防を築 いて農地開拓 に成功 した。 その後聖宗 の洪徳期 に新村 として登録 され る事 にな っ た とい う。15)次 に章 を改めて,洪徳期碑文の分析を行 いたい。

安異県洪徳期碑文の分析

1 その全文 と概要 まず拓本 に基づいて全文 を掲 げる (この碑文の引用文 に限 り極力正字体 を用 いる。 更 に訓点 を施 し,行論 のため記号等 をぶ った。 "」" は改行 を表す)。

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洪徳武年参月初拾 日。」 勅遣参江道監察御史(a)院輝耀 ・錦衣衛校尉(b)院宗貴,牲安邦道海東府安興蘇」 風流社板洞虞,同承司官(C),照如黄金棟等,勾集府蘇官(d)・杜村長等,端扶査勘,風」 15) 但 しここに この家譜 の事実 の歪 曲があ るよ うで あ る。つ ま り, この十七先公 の開拓地 は- ナム島 の西北部分 にあた り, その子孫 の家 もその地域 に集中 して いる。 一方, この碑文 に見え る風流 ・ 洞陽 ・良規 ・海塵杜 は中南部 に位置す る。 しか も碑文 には十七先公 の子孫 の名 は一切 出て こない。 よ って, イエ ンフ ン県人民委員会文化担 当室室長 レ ・ドン ・ソンLet)8ngSo'nは, ほぼ同時代 に 二 つの開拓集団が存在 して いたので はないか と推測 して い る。 この家譜 には, そ うした二 つ の開 拓事業 を一つ と してみなす作為が感 じられ る。

1

51

(10)

東南 ア ジア研究 33巻2号 流社板洞鹿 田坪千武拾畝五高五尺参寸。即牲勘度,取宜逐一得度,題本明白

,

絢私失茸,邦意孔厳,-勘得板洞境内武所田辞千武拾畝五高給尺武寸,査

賓。滑陽社黄金梼 ・同徳費 ・風流社真髄 ・黄等 ・良規社陶伯麗 ・杜度等,率」 使開創成水成 田,慮私給 田,毎人五畝 田 ・土園五高。」 -,給滑陽杜黄金梼 ・同徳費等,本田西南鹿田童千参百辞拾参畝式高四尺五」 寸,堤路捌百玖拾参杖四尺参寸。人教戒百四拾染人。」 -,給風流杜貴簡 ・黄答等,本 田東西北鹿 田壷千五百玖拾玖畝捌高拾参尺捌寸

,

堤路玖百玖拾渠杖五尺参寸。人数陸百韓拾渠人。」 -,姶良規杜陶伯麗 ・杜度等,本 田東南虞 田童千捌拾架畝参高参寸,堤路」 陸百武拾参杖樺尺染寸。人数壷百四拾武人。」 (10525) 洪徳武拾年拾壷月初渠 日。」 欽差官,同給海塵杜。安邦道等虞承」 政使司勘度風流社板洞虞 田畝,効均給人及本社附近無少 田人,同耕納税

,

如例事。」 一,勘得板洞虚境内武所 田韓千参百渠拾畝五高拾尺武寸。」 -,給滑陽社黄金梼 ・同徳妻等,開耕本 田西南鹿 田童千参百韓拾参」 畝

高津尺五寸。堤路捌百延拾参杖辞尺参寸。人教戒百錬拾渠人.」 一,給風流社貴簡 ・黄苓等,開耕本 田東西北鹿 田童千五百延拾延畝捌」 高拾参尺捌寸。堤路延百捌拾渠杖五尺参寸。人数陸百辞拾染人。」 一,姶良規社陶伯寛 ・杜度等,開耕本 田東南鹿 田壷千捌拾渠畝参高参」 寸。堤路陸百武拾参杖辞尺渠寸。人数壷百辞拾武人。」 一,給海塵社無少 田人指汝操等,開耕本 田西北虞 田参百参拾畝五高拾尺」 五寸。堤路辞百捌拾萱杖参尺辞寸。人数妻百集拾延人。」 (10527) 洪徳武拾韓年式月拾韓 日,送出量本。本年参月拾掛 目

,

朝廷参議(e)・戸部尚書(f)兼東閣(g)・都御史墓 (h)・六部 (i)・六科 (j)・提刑拾参道(a)・ 掌司頑 (k)」 劉光進 ・襲文弘 ・花環 ・院昭 ・院桂林 ・陳造 ・部克遵等衝門官,烏給 田事。」 欽奉」 勅 旨,侍許等衝門,欽差官。司穆太監(k)院敦 ・花公虞 ・杜惟新 ・陳克篤等

,

152

(11)

八尾 :繁朝型宗期の新開拓地 を巡 る中央政権 と地方行政 牲安邦道海東府安興蘇洞陽 ・風流 ・良規等社,輿同府蘇官,責令」 社村長,責勘板洞鹿 田度干畝高田,効先給滑陽社黄金梼 ・同徳」 費等,毎人田五畝 ・土園五高。本田童千参百韓拾参畝武高辞尺」 五寸。又給風流社黄龍 ・黄苓等,毎人田五畝 ・土園五高。本田在板洞虞」 参段壷千五百延拾延畝捌高拾参尺捌寸。次姶良規社陶伯麓 ・杜」 度等,毎人田五畝 ・土園五高。本田壷千捌拾渠畝参高参寸。依如所」 給等社耕居,逓年常納税如例。今給付 田。」 一,立滑陽杜地分。上 白井鼓寺苗馬,下至□西,角界砥。」 (10526) -,立風流社地分。東 自婆弄廟,直至西井鼓寺,西北接巡司白騰,西」 南至高車苗馬,角界硯。其海塵社在西北虞,耕居只有一区跡,在巡」 珠,無有地分。」 -,立良規杜地分。上 白婆弄廟浬郷,下至浬撒澄口,烏界唱。」 (10528) 洪徳武拾五年玖月拾量 目,御史毒院益就記 知府院公議記」 同府杜進記 知麻縄允恭記 麻丞武用記」 安邦道本虞賛治承宣便院公記 右参政花克招記」 承憲使司 (1)16)院必忠記 典簿(m)院進記」 ? 欽差前送安衛波賀司指揮校尉(n)陳戟 ・」 欽差三江道監察御史進功郎院輝耀 ・」 欽差錦衣衛清刑司府校花宗貴 ・欽差翰林院(o)陳碕 ・」 ママ 安邦道本虞賛治承政使司茂林院郎院 ・ 参議院惟明,謹事。」 戸部馬抄送事。」 洪徳武拾五年拾月初拾 日,戸部抄送。本年拾童月武拾 日

,

安邦道賛治承宣使司忠貞大夫郭公墳 ・茂林郎」 安邦道清刑意察使司院洋等, 謹題罵

,

奉再公同,勘噺田土。給輿等社,耕居納税如例事。」 16) 前行 に承宣使 があ るので この 「承憲使司」 は 「意察使司」 の誤刻 であろ う。

(12)

東南 アジア研究 33巻2号 (10523) 洪徳武拾陸年参月拾五 日,刻碑。」 風流社黄寵 ・黄苓需刻南碑,在板洞虞

,

流侍後世,倖各週知,永馬渡式.」 拓本 の番号 は必 ず しも年代順 に はな って いない。以上 の内容 を まず要約 す ると,洪徳 2年 (1471)に,中央 か ら御史台官 と禁軍 の将校 が派遣 され,承宣 の官 を伴 って現地 に行 き,府県官 に社村長 を勾集 させ, まず田地 や堤防 な どの面積 ・距離17)を社長 らに報告 させ,次 に実測 して はぼ報告通 りであ る事 を確認 した後, かつて私的 に分配 していたのを改 めて,三 つの社 の民 に それぞれ5畝 (マ ウ) の田地 と5高 (サオ) の園宅地 を給 した。 その際,各社 の民丁 の数 も確 定 させ た。次 に 20年近 く経 った洪徳 20年 に,残 った土地 を測量 して,新 しく設立 された四つ めの社 に分給 した上 で,再 び前回の田土受給確認 を した。 この土地 (板洞処) は もともと風流 社 の ものであ ったのを (或 いは分割 して)四つの社 に分配 した と考 え られ る。24年3月 18日, 勅命 によ り中央 か ら複数 の高官 が派遣 されて再度勘度 して確認 を とり,4社 の区域割 りを確定 させた。 そ して最終確認 が25年9月11日に為 され,関係者 のサイ ンが列挙 された。 そ してそ の書類 が戸部 に送 られた後, 同年 10月 10日に戸部 が最終決定 の書類 を再 び安邦 に送 り,新任 の承宣使 と憲察使 が それ を題写 した。但 しこの手続 きは官 の もの故,社村長側 のサ イ ンは無 か った。 その後,一連 の作業があ った事 を後世 まで伝 え る為 に,風流社 の有力者達 が 2基 の碑 文 を刻 んだのが翌 26年

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日の事 であ った。 この文面 は読者 に様 々な問題点 を提供 して くれ るが,筆者 は田地開拓 と行政 とが どのよ うな 関係 を有 していたか に焦点 を当て,その手続 きと,それ に関わ った人物 につ いての考察 を行 う。 2 新村萱韓 に至 るまでの手続 き まず,手続 きの開始 か ら終了 までの期間 につ いて。碑文 に従 うと,手続 きは洪徳 2年か ら 26 年 まで行 われた事 にな るが,筆者 は 「式年」 はおそ らく 「武拾年」 の誤刻 と考 える。 2年 に田 地 を受給 された農民代表 の名 (黄金梼 ・同徳妻 ・貴簡 ・黄苓 ・陶伯麗 ・牡鹿等)が,20年以上 17) 1マウを仮に仏領期北部の換算値 3,600平方メー トルとすると,この4,000マウは1,440ヘクター ルに相当する。 一方, 堤路の方は同 じく1丈-4.25メー トルとして 2,500丈は 10.6キロメー トル に当たる。前述 ソンの話によると,現在のハナム地区の耕作地は2,364ヘクタール,堤防網の総延 長は約 37キロメー トルとの事である。 実に現在の約半分の規模の開拓がこの時期に既に出来てい たのである。 この数字を基に, この開拓を工学的適応によるものと速断するむきもあろう。 しか しフイ ・ヴとチャン・ラム [HuyVuvAT{anL急m 1977:347-349]が示す様に, この開拓は一 朝一夕に達成されたのではなく,高みから徐々に小さな堤防 (現在は島内の道路 となっている) をめぐらして,少 しずっ耕作地を増やしていったものであって,「統一的水文思想」等は存在 しな かった。よって工学的適応によるものとは言いがたい。 154

(13)

八尾 :繁朝聖宗期の新開拓地を巡る中央政権と地方行政 も後 にな って一人 も欠 けず にい るのは常識 と して考 え られない。 次 に勘度 (土地 測量) につ いてであ るが,最初 の公 の勘度 の前 に農民達 が私 的 に勘度 を行 っ た形跡 が あ り,18)実際の公 の勘度 も同様 の結果で あ った とされ る。 そ して この数字 はその後 の 数次 の勘度 で も正 しい もの と して承認 されてい るのであ る。 そ してその後 の公権力 による田土 給付 が行 われ るが, それ もまた結局 はそれ以前 に農民達 が私的 に行 っていた分配形式 をそのま ま追認 してい るのであ る。これ は桜井 [1987:95-140]が分析 した洪徳均 田例 による分配方式 と は全然別 の原理 による ものであ る。『全書』13 洪徳 13年8月-9月 15日19)の条 で は 造戸籍。厳琳奏言,造戸籍時,社長詳註官員各職高下 ・資爵多寡。如不詳註明 白,戸科検 秦,府県官及社長一体治罪。 とあ り,社長 は社 内の民 のみな らず,社 内 に籍 のあ る官吏 の官 品その他 を把握 して戸籍 を造 る 義務 があ った。本来 な らば均 田例 に沿 ってそれぞれの民及 び官 の持分 の確定及 びその持分 の通 分作業 が行 われなければな らないのだが, ここで はそれが無視 され,社 の農民全員 (おそ らく は成年男子 だ けだ ろ うが) に一律均等分配 が行 われた。官 の側 が民 の側 に譲歩 した結果 と言 え _よ う。 しか し一方で (10525)碑文 に見え るが如 く, 公権力 は- ナム地 区 に四つ 目の新社 の分立 を 行 って いる。「本社 附近無少 田人」に対す る給 田について は,太祖 の順天2年 (1428)に以下 の よ うな旨拝 が出 されてい る。 旨揮各府県州社官,係本社有 田土,人民少而留荒者,聴本管等官,与別社人無 田老耕種, 若本社 田主不得執 占留荒,達者以強 占罪論

。(

『同書』10 順天2年12月 19日の条) 太祖順天2年 といえば国初 に当た る。 戦後 の国土回復策が急務 とされていた時代 で, とにか く 生産 を上 げ る事 が至上命令 で あ ったので, このよ うな別社 の人 に給 田を認 めた り, 田土 を荒廃 させ た本社 の民 を罰 す る命令 が出 されたので あ るが,洪徳期 に もその基本 的姿勢 は受 け継 がれ てい る。 『同書』13 洪徳 17年 (6月)18日の条 には 令各府県杜,有海岸荒関 田而少 田人,情願培築 ・開墾 ・納税,府県勘実給掩。 18) ギ ン [Nghinh 1987:42]は,文脈からこの最初に社長等がもたらした数字はそれ以前の私的な勘 度であろうとする。筆者 もこれに従 う。 19) 『全書』等は繋月日のはっきりしない場合が間々ある。 従って甲月の条と乙月の条の間にある記事 は 「甲月一乙月」と引用部分を示す。なお

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「末」は年末を示す。 155

(14)

東南 アジア研究 33巻2号 とあ り,受給 田地 の少 ない者 によ る海岸地方で の開墾 が奨励 されていた。安興 のケースで も, 人 口 と土地 の量 を案配 して上か ら再編成 を行 い, それを社 の境界 を示す界鳩 で確定 した。 この よ うな社 の枠 を超 え る命令 は, しば しば論者 によ って,社 に対 す る国家権力 の優位性 を表 す も の と して理解 されてお り

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2

0

)民 の側 に一定 の譲歩 を しつつ も, 公権力を浸透 させ よ うとい う権 力側 の努力が見 て取 れ る。更 に洪徳 2年 にはヴェ トナム史上初 めての本格 的 な人丁税制度 が導 入 されてお り [藤原 1968:392-397],田土分配 に関す る譲歩 は田粗 と人丁税 によ って埋 め合 わ されていたのであ る。 この一連 の業務 は最終 的 に戸部 で裁決 され, その命令 が新任 の安邦承宣使 ・意察使 に届 いた ことで決着 す るのだが, ここで一 つ重要 な問題 が残 っている。 それ は,肝 腎の この新開拓地 が その後 いか な る性格 を有 す る田土 と認定 されたかであ る。 『同書』続編2 保泰 3年 (1722)冬 10月一末 の条 にみえ る 「租庸法」 によ って,1722年 に 初 めて私 田に も課税 され るよ うにな った とい う言 に従 うな ら,納税す ると決 ま った この土地 は 当然国有地 の はずであ る。 しか し国有 田 (公 田) な らば適用 され るはずの均 田例が ここ安興 -ナ ム地 区 で は行 われて いな いわ けで,話 はそ う簡単 で はな い。 ここで ギ ンと ブイ ・ク ィ ・ロ BBiQuチL今の紹介す る 「占射 田」 に言及す る必要 があ る. 「占射 田」とは李朝後期 の土地 開拓関係史料 に新開拓地 の 1タイプと して散見 され,その起源 は洪徳期 まで遡 るとい う. ギ ンとロ [Ngh inh

v

a

Lや 1981:263-264]は この 「占射 田」の性格 につ いて,納税が義務付 け られ る一方 で, その土地 の一部 が私 田 と して開拓者 に与 え られ る事 を指摘 し,完全 な る私有 田で も完全 な る国有 田で もない複雑 な性格 を有 して いた とす る。民 ら は明言 して いないが, この唆味 な性格 の原因 は, おそ らくその土地土地 その時 々の公私 の力関 係 による ものだ と筆者 は考 え る。この安興 の土地 も 「占射」の文字 こそ史料 には出て こないが, そ うした性格 を付与 されたのであろ う。『全書』等 によると海岸部 での開拓 は賓初 か ら推奨 され てお り (後述),各新聞拓地 でかな り普遍 的 に この様 なケースバ イケースの処置が採 られた事 が 推定 され る。洪徳均 田例 が どの地 で どの レベルまで実効力が あ ったのか,簡単 には結論 は出せ ないのであ る。 3 関係者 につ いて この一連 の手続 きの中で,最 も目につ くのが数多 くの中央官僚 の派遣,府県官 の実務 レベル での活動, そ してその上 の最高地方行政官 た る承宣司官 の形骸化 であ る。 まず中央官 の方 か ら 20) 他によくあげられる例として,洪徳21年に出された析社令がある。 これによると,一つの社で戸 数が500戸を越え, 越えた戸数が100戸以上になると, 新社を作る事とした。 -ナム島のこの三 つの新社の戸数はすべて500戸以下だから, この条項に沿 ったものと言えよう。 否, むしろこれ に合わせる形で分析されたと言 うべきか。 156

(15)

八尾 :繁朝聖宗期 の新開拓地 を巡 る中央政権 と地方行政 考察 してみよ う。

1

)監察御史 (a)・都御史台(h) 『歴朝憲章類誌』(以下 『類誌』)14 官職誌 官名沿革之別 によると,御史 の職 は陳朝か ら あ り,御史台 を構成す るメ ンバ ーにつ いて は改変 があ った。監察御史 は繁初 か ら設 置 された と あるが,『全書』等 による限 り,活動が盛 んにな るの は聖宗 の時代 か らである。『同書』 13 洪 徳4年6月一 秋7月の 「定御史台該道,監察衡史該知」 の条 によると,各監察御史 (各道毎 に 2名ずっ) の管轄 が定 め られ,海陽 ・安邦両道 の監察御史 は禁軍 の神曹司壮士 ・金吾衛副軍 ・ 神策四衛,五軍都督府 の一 つ東軍府 の他 に海陽 ・安邦等処三司軍民 の監察 を受 け持 った。 とこ ろが今回安興 にや って来 たのは三江道 (-山西道 または匡Ⅰ威道)監察御史で あ った。 これ につ き

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『同書』13 洪徳 17年春正月 12日の条 によると,例 えば安邦 で多事 な場合 はまず隣接 す る 海陽道監察御史 を派遣 す る。 もしそれで も足 りな ければ別 の道 の監察御史 を派遣す る事が規定 された。御史台か らどの御史が派遣 されたか は不 明だが,監察御史 だ けで は足 りないほどの多 忙 な状況 が安邦 に発生 していた と考 え られ る。 これにつ いて はⅡで も論 じる。 ?

2

)錦衣衛校尉 (b)・送安衛蕗等司指揮校尉(n) 錦衣衛 は禁軍 を形成 す る衛 の一 つで,校尉 はれ っきと した武人であ る。 中国明朝で はこの機 関が東巌 と並 んで秘密警察 的役割 を演 じた。 ヴェ トナムの場合 も同様 で,重大刑事事件 の際な ? どは,皇帝 の勅命 によ って彼 らが特派 され る事 が あ った。(n)の送安衛 は不明だが,済考 司 は錦 衣衛 に属 す る。 3)朝廷参議(e) 『天南徐暇集』官制典例童 の官品表 には見 えない。元老 に対 す る呼称 か。 4)戸部 (f)・六部 (i) 六部 は中央 にお ける最高行政機関であ る。 その内の戸部 は,言 うまで もな く財政 を扱 う最高 機関であ り,均 田事務 の最高責任担 当機関であ った。但 し新村落承認 の際 には, 田地 の面積 だ けで はな く人 口の調査 も行 われた。繁朝 は造籍 と田簿 の作成 をセ ッ トに してお り,戸籍簿 は徴 税 だけでな く,徴兵制度 であ る開運法 とも密接 に関係 していた [藤原 1968:392-397] 。 この制 度 で は,一戸 に存在す る黄丁 の数 によ って個別 に身分 (壮項 -現役兵,軍項 -予備役 など) 杏 定 めた。 この点 で特定 の家 を兵戸 に指定 して軍務 に当た らせていた明 の制度 と違 いがある。 当 然 この閲選 には兵部 が大 き く関与 した。 この様 に,戸部以外 の六部 も地方行政 に深 く関与 した のであ る。 157

(16)

東南 アジア研究 33巻2号 5)東閣(g)・翰林院(o) ヴェ トナ ムで も科挙 制度 が整 い, そ う した将来 の エ リー トに与 え るポス トと して設 け られ た。本来 は皇帝 の プ レー ン的な存在 で あ ったが,聖宗 はクーデ タによ って帝位 に即 く前か ら自 らの教育係 で あ った彼 ら科挙 エ リー ト達 とのつ なが りを重視 し,即位後 も文芸 サ ロ ン (騒壇) を主催 してその関係 を維持 した。 6)六科 (j) この六科 も聖宗時 に設 け られ た機 関であ る。 明制 と同様,各科 は中央 にあ る該部 のチ ェ ック にあた るはか,地方行政 にまでその 「言官」 と しての役割 を果 た した。 その長 た る都給事 中 は 官 品 こそ低 い ものの,枢要 の職 とされて いた [小野

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3:2

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]。21) 7)司礼太監(k) 明制 で は嘗 官 の職 で, 内閣 が形 骸 化 した後,国 家 を動 か す宰 相 以 上 の権 勢 を誇 った [谷

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4:

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]が,ヴェ トナムの場合 はかな り趣 を異 に して いる。『天南飴暇集』官制典例武 の官 品表 に はその名 が見 えず,職責 その他 の事 も明記 されていないが, 『同書』傭律 洪徳

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年 の 条 によ ると,司礼監 同知院郭 が 「もし地方 の有力者 が土地 占奪 を はか る様 な事 が あれば,憲 司, 御史が協力 して これ に対処 す るべ きであ る」 と奏上 して裁可 されて いる。 また 『官制典例

3 内殿官制 に司礼総太監以下 の官 が列挙 されてい る。 しか し聖宗治下 で この機関が明朝 の様 な 威勢 を振 る った形跡 は無 い。『類誌』15 官職誌 庶司職掌之殊上 司礼監 の項 には繁朝末期 の 事 と して 司礼監,職掌用璽用 印勅命勅 旨,及欽頒諸公務 ・並逓御定各本。 と述 べて いるところをみ ると, それ以降 も同様 のまま本来 の職務 (その中 には下 か らの奏上文 を皇帝 に送 る任務 が含 まれてお り, その為 に このケースのよ うに自己の機関か ら現地 に赴 く事 を命 じられた可能性 があ る) を遂行 していた事 が知 られ る。 以上 の如 く,単 に監察機能 を掌 った官 だ けでな く, あ らゆ る分野 の高位 の文武 中央官がや っ て来 たわ けで あ る。 しか も, これ らの職 の中 には聖宗及 びその一代前 の賛宜民 の時代 に初 めて 設 け られ た ものが多 い事 に気 が付 く。22)聖宗が明の制度 を多 く導入 した事 は周知 の通 りだが, 国家 のサ イズがあ ま りに も違 うため,地方官吏 の絶対数 が少 なか った。 その為 ヴェ トナムの官 21) 『全書』13 洪徳12年春正月19日の条 によると,都給事中武夢康が田地問題 に閲 し,他人 の土地 を不法 占拠 した り,田界の標識 を勝手 に移動 させた りした者への厳罰を奏上 している。 22) 聖宗の官制改革 については藤原利一郎 [1980;1982] を参照の事。 158

(17)

八尾 :繁朝聖宗期 の新開拓地 を巡 る中央政権 と地方行政 僚制度 は中国のそれに比 して,中央官 の相対的な比率が高 い頭で っかちの ものであった。 それ が この様 な中央官僚 の大量派遣 の一因 ともな った。 ともあれ この事か ら, この作業 に対す る国 家側 の熱意を汲み取 る事がで きよ う。 次 に地方官 について。繁朝聖宗期の地方行政制度では,最大行政区画 たる承宣 (最初 は十二 道。後,チ ャンバの故地 を広南 として加 えて十三道。「処」 とも称 され る。地図2参照)には軍 事 を司 る都指揮使司 (都司), 行政 を司 る承政使司 (承司)

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)

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検察一般 を扱 う清刑憲察使司 (憲司)(1)の三つの機関が存在 した。この三つを統括す る機関は地方 には無 く,各司 は関係す る 中央機関か らの命令 を受 けた。承宣 の下 には府一県 (州)(d)一村落 (社) とい う系統があ り, 軍事以外 の事 を担 当 した。但 し,安邦 の場合 は1府 しかな く,承司 と知府 の管轄 は重 な りあ っ ていた。 三司の内最 も官位 の高 いのが都司である。 しか し今回のケースは軍務 に直接関係 ないので, 典簿 (m,外衛 た る安邦衛 の属官。安邦衛がおそ らく-ナム島対岸 の現在 のイエ ンフンの街付 近 に置かれた事 と関係があるのか。詳 しい事 は不明。後考を待っ) を除 き,登場 しない。中央 か ら行政面 の命令が下 される場合,真 っ先 にそれを受 けるのが承司である。最後 に最 も官位が 低 く属官 も副官 しかいないのが憲司である。但 し

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『類誌』14 官職誌 官名沿革之別 憲司の 項 に 憲司之任,陳時間為安撫副使。繁初因之。職事蓋未詳也。聖宗洪徳二年,始置諸承宣按察 r ,J,trV Y J'・\、%-、 「、 一>†」 太 く 広南 地図2 聖宗期の 13承宣

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東南 アジア研究 33巻2号 司。有意察使 ・意察副使等職。四年,校定憲司職事,主陳言 ・糾劾 ・勘理 ・蕃謝 ・会同 ・ 検刷 ・詔刷 ・考課 ・巡行等務凡三十二候。職事頗劇。凡意使有映,必用科 ・台 ・六寺歴練 久任,為之。憲副官亦択進士与中場歴任,奉公幹事,不避強豪者。除任方面風稜之為閲重 也。 とあるよ うに,憲司官 は中央 の台官 ・寺官 ・科官 と人脈 の上で も密接 な関係 を有 し,地方有力 者等 に も強 い態度 を とって地方行政 を取締 まる事が期待 され, その任用 に も格別の注意が払わ れた。但 しその理想 とは裏腹 に,憲司が十分 な活躍 を したか と言 えば疑問符が付 く。監察制度 の中で,地方 の憲司 はやがて中央 の台官 の下 に甘ん じる事 となるのである。 この点,明の制度 と同 じ歴史をたどった と言 えよ う。23) この安興での手続 きを見 ると,中央か ら派遣 された高官 はまず承司を訪れ,民事問題 ゆえ承 司官 を伴 って現地 に向か った。 もちろん中央か らの命令 は承司官 に伝え られるわけだが,実際 に現地で実務 を担当 して民衆 を動員す るのは府県官であ った。 しか もこれは決 して異例 の事 で はなか った。事実,桜井 [1987:95-112]が分析 した洪徳均 田例 の手続 きで も村落での測量 ・人 口調査等 の結果 をまとめて給 田田簿 を作成 し,中央 の戸部及 び承司 ・憲司に送 るのは府県官が その責任を負 った。 こうした承司官 の空洞化 (オブザーヴァー化 と言 うべ きか) と府県官 の重要性 を如実 に示す のが (10528)中の 「記」の順序である。まず中央 の御史台官,次 いでその命令 を直接受 けた府 県長副官 (知府 ・同府 ・知県 ・県丞)が続 く。 そ してや っとその上 の承司官 (賛治承宣使 ・右 参政) ・憲司官 (承意使司) ・典簿 の名が見え る。 これは彼 ら承司官が この一連 の作業 に直接 には係わ っていない事 を示 していると考え るべ きである。 そ うでなければ当然下級官である府 県官 よ り先 に承司官 の名があるはずである。次 に最初 (洪徳2年或 いは20年)に この地 にや っ て きた2人 の中央官 (阪輝耀 ・花宗貴) とおそ らく共 に活動 した中央 ・地方の官吏が 「謹事」 した事が記 され る。 この様 な,直接現地 に関係 を持 たない地方高官 の影響力の減退 と,頻発す る中央官僚 の派遣, そ して府県官 の実務での実権掌握24)は何 を意味 し,何 を原因 としているのだろうか。 その点 を 23)小川尚 [1976:17-20;1990:220-224]によると,明の場合も,中央からの御史及び名義上侍御史 の名を帯びた高官が地方におりてくるようになり,またその巡按期間が徐々に長 くなってついに は常設の逗留施設が設置されるに及んで按察使 (ヴェトナムの意察使に相当する)の権威は殆ど 失われてしまった。 24) もうーっ興味深い事がある。 治水 ・勧農の為に,陳朝期に最大行政区画 「路」 に,勧農 ・河堤の 二司が置かれた。 これらの官は地方有力者の中から選ばれたらしいが

,

「工学的適応」段階の開拓 に積極的に関与 したと桜井 [1989:283-285]は推定 している。繁朝聖宗期の 「承宣」は,陳代の 「路」に相当する 「道」を幾つかに分かって設置されたもので,当然 「路」より小さい。 しかもこ の勧農 ・河堤の二司は洪徳6年に知府の属官として設置されたのである。 統一的水文思想に基づ / 160

(19)

八尾 :繁朝聖宗期の新開拓地を巡 る中央政権 と地方行政 Ⅱで論 じる。 Ⅱ

個別性 と普遍性

1 安邦 をめ ぐる問題 本碑文 は農業不適地 での開発 に関す る史料 なのだが, Ⅱで示 した碑文 に現 れた手続 きと安邦 の現実 との関係 は どの様 な もので あ ったので あ ろ うか。 まず, 李朝 中央 の持 っ 「内鎮」 ・ 「外鎮」 とい う概念 を問題 に してみたい。京師 を とりま く デル タ四承宣 (国威 ・山南 ・京北 ・海陽)を内鏡,それ以外 を外鎮 とす る呼称 は,

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5

世紀初 の 功 臣院薦 の 『抑斎集』

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地輿誌 に もでてお り,筆者 も前稿 [八尾

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b]

で引用 した。桃 木

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91:

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4

-8

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]が指摘 す る様 に,この史料 が果 た して

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世紀 の オ リジナルに近 い もので あ る か ど うか は疑 わ しい。一方,聖宗 の文集 『天南飴暇集

天下版 圏 には 「藩鎮」 とい う言葉 が 数 カ所 で使 わ れて い るが,漢 文 チ ュノム研 究 院所蔵 本 もオ リジナ ルで はな く,後世 の加筆 が あ った事 は明 らかで あ る。 に も拘 わ らず, や は り当時 の為政者 の中で も内鎮 と外鏡 を区別 す る 意識 はあ った と見 るのが正 しい 。25)安邦 もそ う した外鏡 の一 つで あ った。 で は中央政権 はその 外鏡 に何 を期待 したので あろ うか。 『明史

』3

21

外 国伝

2

安南 国 の条 に載 る中国側 の聖宗 に対 す る評価 は 「雄架 で はあ るが, 国富兵強 なのを 自負 して尊大 で あ る」 と厳 しい。実 際, 明 の ヴェ トナ ムか らの撤退後 の中越関 係 は必 ず しも良好 な もので はなか った。 その初期 か ら既 に国境紛争 が発生 して い る上 に, その 国境 付 近 の少 数民族 が どち らの側 に帰属 す るかで ます ます混 乱 に拍車 がか か って いた。藤原

[

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5:1

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-1

1

7

]

が述 べ る様 に, ヴェ トナムの安邦 ・諒 山 ・北平 と中国 の雲南 ・広西 当局 との 間 で は断続 して小競 り合 いが あ った。聖宗 は国境警 備 の官 や明 に使者 と して赴 く者 に

,

「尺寸 の 地 も譲 るな」 とい う意 味 の事 を数次 にわ た って厳命 して い る。 必然 的 に辺境 で は慢性 的 に軍事 的緊張 に悩 ま され る事 にな った。 光順 7年 前 後 の官 制 改革 に伴 う改編 で成 立 した五軍 都督 府 制 の下 で,五府軍 が最 初 に組織 だ った行動 を取 ったの もこの安邦 の地 で あ った。光順 8年,都督余事 の屈打 が五府軍 を率 いて この地 の草城追討 にや って きた。最初 の動員兵数 は 500ばか りで あ ったか ら, 中央 もこの騒乱 を軽視 して いたので あ ろ うが,結局屈打 は敗北 し,彼 と総兵官 (おそ らく安邦都 司 の長官)辛 悔 は引責下獄 した。 そ して敗 因 は補給 にあ った とされ,元老 らの会議 の後,南軍府都督 で聖宗 \ く開拓が少な くなり,小規模の開拓や既存の施設の維持管理に目が向けられる様になり,より注 意深いケアが要求され,承宣ではなく,直接には府の属官 となったのであろう。 25) 例えば内鏡の各衛には都司は存在せず,中央の各五軍都督府に直属 し,内軍 とされたのに対 し, 外鏡の各衛軍は外軍 とされた [八尾

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b:

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]。

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東南 ア ジア研究 33巻2早 后の父 にあた る院徳忠 が同地 に赴 き, とりあえず平定 に成功 した。次 いで,禁軍 の総知院勲を 安邦鎮守副総兵 (安邦都司の副官)兼承宣使司承宣使 に,翰林院侍読で副都御史 の陶筒 を承宣 参政 (副官) と し,本衛軍事 を 「知」せ しめた。 しか も院徳忠 自身 も更 に暫 くこの地 に留 まっ たのである。現地 で一種 の軍政が成立 した と言 って もよ く, ここに文武職 の分離 とい う中央 の 理想 (官制改革) は地方 の現実の前 に,当初か ら崩壊 したのである。 そ して この事件が一段落 ついた後,一つの奏上がなされて裁可 された。『全書』13 光順 8年 9

20日の条がそれであ る。 勅各鎮守副総兵兼承宣使,但 由武途出身,不暁文学,兼司両職,恐妨軍政。今副総兵宜停 兼承宣使,若承宣副選文学官,其参政 ・参議当省一員,辺方有事,則総兵 ・承宣並得商議。 従鎮殿将軍繁文之言也。 地方 において武官が文官 を兼任す る際の問題点 を指摘 し, その禁止 を求 め る奏上がなされて裁 可 された とい うものである。前稿 [八尾

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b:

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]で はこの奏上 を,文武両職 の兼任 による地 方での地方官 の権力拡大 を中央が恐れたため と解釈 したが, この事件 との関連で考えた場合, 文職 を兼 ね ると武官 は本職 たる軍務 がおろそかになるとい う繁文 の言 を額面通 りに受 けとるべ きである。 中央 に とって辺地 の最重要問題が防衛 にある事 を明言 したわ けである。但 し, この 勅一 つで地方行政 が劇 的 に変化 した とは考 え られない。人員不足,26)緊張 の続 く対 中関係 と いった要因がその後 も解決 されていないか らである。 そ して明の警戒心 を更 に煽 ったのが聖宗 によるチ ャンバ ・盆蛮 (現 ラオス, シエ ンクア ン地方 の勢力)への親征である。 チ ャンバ は林 邑と呼 ばれていた頃か らの対 中朝貢国であ り,一方 の盆蜜 は明 とは地続 きであ った。 繁朝政権 にとって問題だ ったのは,安邦 な どの こうした軍事優先であるべ き辺境 の地 にまで 農業地開拓 の波が押 し寄せて きた とい う事 なのである。 ただで さえ人員不足 の上 に,軍事優先 とい う事 で承司官 まで もが前引の史料 によると軍務 に参与 しなければな らないとい う状況 にあ り, それが中央派遣 の官 の増加 の一因 にな ったのである。 2 国家 レベルでの概観 前節 で は安邦 のケースを分析 して,碑文で見 られたよ うな事態が既存 の年代記等 の伝 える当 時の状況 に合致 してお り,軍事 に絡 む多事,人員不足 とが中央官 の大量派遣 を もた らしたと推 定 した。但 し, この分析 は国全体 に果 た して妥 当す るものか どうか は疑問であ り,後 の更 なる 研究 を得 たねばな らない。 しか し, その前 に年代記等 に見え る関連情報 を見てお く事 は無駄で 26) そ もそ も承司 の場合,副官 の定員 は内鏡 が3人 なのに対 して外鏡 は2人 であ る。 162

(21)

八尾 :繁朝聖宗期の新開拓地を巡る中央政権と地方行政 はあ るまい。 まず中央官 の地方-の派遣 であ る。 親風海水滋。 戻,親風大作。南策 ・峡山 ・太平 ・建 昌等府海水大i張,堤 防決裂,禾穀滝浸,民多餓死, 又安源東海瀕等県,多被水害.命御史丁仁甫 ・紹惟精分行沿海東西南三道,履勘堤岸,飯 所在承司培築,且免沿海軍 明年大集。(『欽定越史通鑑綱 目』正編 20 光順 8年 (9月)の 秦) これ は洪水 ・飢餓 の被害 にあ った海岸部 (現 - ンビン省 か らクア ン- ン省) の調査 の為 に御史 官 を派遣 し, 同時 にその地方 の軍務 を緩 め る命 を出 した ものであ る。 その災害対策 の為 に軍 が 利用 されたか らで あろ う。 また 『同書』正編 24 洪徳 21年春 2月の条 には 東道磯,遣使賑貸。 辰,久早,東道諸府不能耕稼,民多餓死。帝通翰林 院 ・科 ・台 ・錦衣衛校尉,分往各府県, 発倉粟賑貸之。 とあ る。 これ は飢鐘 の発生 した東通 (海陽 ・安邦) に科 ・台官 や禁軍軍人 を各府県 に派遣 して 対策 を講 じさせ た ものであ る。 この二つ のケースで は派遣 の方面 が特定 されてい る。 しか し, 時代 を下 って洪徳年間末 にな ると,御史官 だ けでな く,前記 の安興 の場合 と同様 に六部官,六 科官,翰林官,禁軍 の軍人 な どが地方 に派遣 され る例 が多 くな って くる。例 えば 『全書』13 洪 徳 23年夏 4月 の条 には 命翰林 ・科 ・台等官,往十二承宣,審識獄。以楊 直源為海陽承宣意察司憲察使。直源事件 旨,尋下遷,還翰林院校理。 とあ り,前半部分 で は中央高官 が 12の承宣 (おそ らく唯一 の例外が広南で あろ う)に派遣 され た事, また後半部分 か らは,前述 したよ うに憲司官 が中央 の高官 (楊直源 は洪徳 21年 の進士) か ら採用 されていた事 が知 れ る。同様 の命令 は 『同書』13 洪徳 25年秋 8月初7日の条,28年 11月- 12月 24日の条 に も見 出 され,聖宗末期 に こうした措 置が増加 して い る。 これ は何 が原 因 なのか。安興 やその他 の外縁 の地 で は既 に論 じた様 に,災害 ・軍事的問題 の処理 を通 して中 央 の権威 を高 めたい とい った意図 もあ ったであ ろ う。 しか しデル タ中枢部 (例 えば海陽等)で も同様 の措 置が行 われている様子 が うかがえ る事 を どう理解すればよいのか。 その原因 の一つ と して,筆者 は土地開拓 ない し管理 の問題 があ ると考 え る

『全書』や 『李朝事例』の中か らそ 163

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東南 ア ジア研究 33巻2号 うした事例 を幾っか列挙 しよ う。 勅 旨,上 田不得積水,下 田量得耕作原防堤堰,積水。訪有弗遵,奪其入官

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『繁朝事例』 田畔積水令 洪徳 6年 6月 19日の条) これ は水 の分配 を巡 って,下流側 の田の引水 を妨 げるほどの貯水 を上流側 の田に認 めないとい う勅 旨であ る。 培築 田畔湊滴不動。 勅 旨,訪有官員不動,培築不定,以致 田畔溶滴,後斬[乾者,公田奪給,私 田入官。府県官 社村長,杖八十,田畔培築不動,以致乾者,罪亦如之

。(

『同書』洪徳8年 10月初9日の条) これ は農閑期 の作堤等土木作業で手抜 きを した者 やそれを放置 していた監督官 (府県官)や社 村長 を処罰す る規定 であ る。 定築 田界蓄水令。勅 旨各処承憲二司府県州等官,継今其処該 内有破決防隈,秋 田掩浸,輿 可蓄水以作夏 田,承憲二司葺令府県州河堤 ・勧農等官,合於凍水稗退之時,預為小民救飢 之計。相視地勢,随其便宜,督責郷民,培築 田界,要令書水以作夏 田,不可避棄職司,視 常民疾,坐視無策,以致阻飢者

。(

『全書』 13 洪徳 15年秋 8月初 4日の条) これは雨期 に堤防を破 って秋 田を水没 させた滞留水があれば, その水 を排 出せずに溜 めておい て,夏 田に利用 しよ うとい うもので, それを府県州官,河堤 ・勧農等 の官 に監督 させ よ うとい うものであ る。陳朝時の河堤 ・勧農官 に比 べ, その作業 が極 めて微細 である事 がわか る。 定農際時興作。建 昌府野地県知県陳汝為奏言,天下各処 田野高下不同,農隙秋夏有異,秩 田則二 ・三月播種,夏 田則十一 ・十二月耕種,是夏 田之急於冬尾也。今有司偶退役作,不 審民 田便宜,一概以冬尾為農隙,是独便於秋務之民,而夏 田之民有妨,伏乞継今培築等務, 二司査勘其処秋 田,冬尾興作,夏 田春月起作,以為民事便宜。従之

。(

『同書』13 洪徳 17 年 (夏4月)21日の条) この記事 は桜井 [1989:280] も引いている。堤防網 の完成 によ り,従来乾期作 (夏 田) しか出 来 なか った低地 で も雨期作 (秋 田)が出来 る地域 が増 えた為 に,別 々の農事暦 に従 って土木作 業 を課すべ きであ るとい う上奏である。国土 の多様 な開拓 (再開拓 を も含 む) が進むにつれ, 164

参照

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