東南 アジア研究 第6巻 第4号 1969年3月
中 部 ジ ャ ワ の 仏 教 遺 跡
- 北 プ ラオ サ ンの方 位 に つ い て
-野
口
英 雄Am analysisofthestructureofdirectionsshown by theposition ofshortinscriptionsatTjandiPlaosam Lor
by
HideoNoGUCHI
は
じ め にチ ャ ンデ ィ・プ ラオ サ ン TjandiPlaosanは 中部 ジ ャ ワ州 ク ラテ ン郡 プ ラオ サ ン村 (Propinsi DjawaTengah-Kabupaten Klaten-Kampong Plaosan)に在 って , い わ ゆ る プ ラ ンバ ナ ン 仏 教 ヒ ンズ ー教 遺 跡 群 の北 東 の 隅 に位 置す る石 造 の仏 教 僧 院 で あ る。1)そ の うちの チ ャ ンデ ィ・ プ ラオ サ ン ・ロール TjandiPlaosan Lor (Lorは北 の意 味 で あ って , これ を 北 プ ラオサ ン と 呼 ぶ) は,2枚 の 小心 建 物 を 囲 ん で 174個 の小 ス トゥパ と 小 両堂 (bijtempeltje)2)か ら成 る 小 建 築 群 を 内外 二 重 の周 壁 (ringmuur)3)に よ って 囲 まれ た, ま とま った一 群 の建 築 で あ る。 本 論 文 の主 目的 は この小 雨 堂 群 の建 築 部分 か ら発 見 され た 多 くの小 碑 文 か らこの建 築 群 の示 す 潜在 的 表 享兄と して の方 位 の構 造 と, そ の意 味 を見 出す こ とで あ る. この碑 文 群 につ いて は, ∫.G.deCasparis博士 の報 告 書4'に全 面 的 に頼 った。 な お, この潜 在 的表 現 と して の方 位 の構 造 の説 明 と して , 「付 諭 :仏 教 的 超 越 と現 実 との対 ITL717'-_」を加えて , そ の理 解 の- 可 能 性 を示 した。
1) K.With,Java,B7;ahmanische,BuddhistischeundEigenlebigeArchitekturundPZastikauf Jaya(Leipzig,1920),pp.28-29. ジャワの建築を分類 して sttipa,tjandi,vih豆raの3種類 とす
る。 そのうちtjandiは発生的には埋葬物が建築の中に建て込め られたことか らも分か る通 り聖人の廟
建築 Grabbauteであるが, しか し純粋に神々にささげ られた寺院建築を も意味 している。だか ら,ジ
ャワでは S佃paを除けばすべてが tjandiである。vih豆raは僧院で,チャンデ ィ ・サ リとプラオサ ン (中部ジャワではこの 2例だけである)のように 1階に礼拝の場を持 った,基本的にはWohnbaute
であるとする。
2) N.
J
.
Krom,(nleiding totde Hindoe-Javaansche Kunst('S-Gravenhage,1923),ⅠⅠ,p.5;Soeharsono,A ShortGuidetoPrambananComplex (Jogjakarta,1964),p.13;
J
.
G.deCa-sparis,"Shortlnscriptionsfrom TjandiPlaosan-Lor,"BeritaDtnas Purbakala (Djakarta,1958),No.4.
3) )bid.
4)
J.
G.deCasparis.東 南 ア ジ ア 研 究 第6巷 第4号 Ⅰ 位 置 図 1の通 り国道 ジ ョクジ ャカル タ- ソロ線 は現 在 プ ラ ンバ ナ ンの ラ トゥ ・ボ コの丘 に さ しか か るあた りで そ の向 きを約 4km にわた って ,東 北方 か ら東方 に変 え,再 び東 北方 に戻 して い る。 この東西 約 4kmの遺 とそ の 再 に延 び る ラ トゥ ・ボ コの丘 , そ して チ ャ ンデ イ ・セ ウ, チ ャ ンデ ィ ・ロ ロ ・ジ ョンダ ラ ン, チ ャンデ ィ ・サ ジ ワ ン, チ ャ ンデ ィ ・プ ラオサ ンと丘 の暫 定 に点在 す る小 遺跡 群 を抱 きかか え るよ うに して , オパ ック川 とカ ンク ラ ンガ ン川 が北 か ら南 1 2 3 4 5km 1010 図 1 プ ラ ン バ ナ ン - 3
40-野 口 :中部 ジャワの仏教遺跡 へ 流 れ て い る。 チ ャ ンデ ィ ・サ リとチ ャ ンデ ィ ・カ ラサ ン とは西 の オパ ック川 に ほ と/Lど国 道 に而 して接 して い る。 チ ャ ンデ ィ・プ ラオ サ ンは東 側 の カ ン ク ラ ンガ ン川 に近 く,国 道 と,それ に直 交 す る ロ ロ ・ジ ョング ラ ン とセ ウを貫 く南 北 の道 路 か ら各 々1.5km北 ∴ 束の 位 冊 こあ る。 H 敷 地 本 論 で扱 う北 プ ラオ サ ンは図 2の よ うに 東西 約 87m∴ 南 北約 14 8 m の 長方形 o川 明 で囲 ま れ た敷 地 に あ って , この敷 地 の束 と西 のf別 ヒ方 「旬の 緑 ,JL,そ のま ま7i,巨 \ 約 80m延 長 すれ ば, 辛 地 で は あ るが南 側 を 周壁 の 延 長 部 分 で 限 られ て い る。 北 プ ラオ サ ン と同 じ幅で この 空地 の 南 に さ らに 約 80m 接 す るの が南 プ ラオ サ ン Plaosan Kidulで あ る。 摘 プ ラ オ サ ンは もと3像 を持 つ -一室 の堂 を 囲 ん で , 中 岡 堂 とス トItjパ とが 里 位 とな って 周 壁 で 囲 まれ て い る05)一 方 ,
北
プ
ラオ サ ンに 北 接 した,
北 方 向 に約 50m は, や は り周
岬 に 囲 まれ た 中 に ス トりパ を 写 真 1 南 の 侶 堂 形 成 す る と思 わ れ る円い 表面
を持 つ 切石 が 散 在 して い る。 そ の申
央 に,上 に 何 も載 せ な い テ ラスが あ って ,この上 に は,Ijzerman博
士 の調 査 時 に は Dhijanibudha6'(Buddha Dhyani)7)と菩 薩 Bodhisattvaの 像 が あ って 8), この テ ラス を J・G・deCasparis博士 は 図 の説 明 申 二 MANDAPA と記入 して い る。 この全 休 で 南 北 約 360m, 東 西 約 87m の南 北 に長 い 長 方 形 の4部 分 か ら成 る敷 地 の西 に隣接 して 同 じ 広 さを石 工 事 を した 道 が 巡 っている。9) この酉 前山
の 空 地 は 先 の北 プ ラオ サ ン と 南 プ ラオサ ン とに は さ まれ た 空地 と同 じ く儀 式 の場 で あ った と思 わ れ る。 Ⅲ 調 査 と 保 存 の 歴 史 調 査 と保 存 の歴 史 を か いつ まん で 記 す と10),1845年 ミュ ン- ンで プ ラオ サ ンにつ いて 初 めて 報 告 され て か ら,1867年 に地 震 で 破 壊 され , そ の年 に Brumund博士 が,1885年 に は Ijzerman5) R・AIKoesnoen,TjandiPrambanandanTjandt-TjandiSekitarnja(Bandung,1962),p.76.
6) R・A・Koesnoen,.p・75・
7)
∫
.
G.deCasparlS,p.3. 8) R.A.KoesnoeTl,p.75.9) N.
I
.
Krom,Znleiding,III,pl.41;R.A.Koesnoen,p.76.10) N.
J
.
Krom,Inleiding,II,p.5;Soeharsono,p.13;J
.
G.deCasparis.東
南
ア
ジ
ア
研
究
第
6
巻第
4
号
1012-3
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野 口 :中部 ジャワの仏教遺跡
博士 が破壊 の状況 を詳細 こ報告 した。1889年 に Groneman 博 士 が 碑石 の一つ を ジ ャカル タの
博物館 に運 ん だが,現在 プ ラオサ ンに, それ につ いて Bosch 博 士 の報告通 りの碑石 が あ るの
で, これ は再 びプ ラオサ ンに返 され た ら しい01891年 に出所不 明の pre-Nagariscriptで書 か
れ た碑 文 が発見 され た。1915年 に Bosch 博士 は これ を プ ラオサ ンの もの と した。J.G.deCal sparis 博士 は pre-Nagari碑 文 はおそ ら く9世紀 前半 の ものな ので, プ ラオサ ンの創建 にで は な く, 占 い某壇 の拡 張 に関す る もの と思 われ る とす る。11)しか し,建設年 代 は,N.J.Krom 博
士等 が一般 に915年 頃12)とす るの に対 して,∫.G.deCasparis,A.∫.B.Kempers13)両 博十 は 850年 頃 と して い るのは,pre-Nagari碑 文 の年 代 とほぼ一 致す るので,博j:の
「
古い基壇の拡 張」 が何 を意 味す るか不 明で あ る。結局,1885年 の Ijzerman博 士 の報告 が最 も秀れ た もので, それ以 後何 もなか ったのだが, 1909年 に Oudheidkundige Commissie (考 古学協会) が プ ラオサ ンに関 して これ以上 の調査 を打 ち切 る こ とを 公表 してか らは,二 つ の像 と寺 番 (skt
.Dwa-rapalal4',tempelwachter),多少 の隔壁 (tusschenmuur)以外 はすべて,小 再堂 も周壁 も隅畔 も分 か らな くな り, あ るいは消 え失 せ た。 そ して南 プ ラオサ ンはす べて住 人達 が土 台石 と して 取り去 り,北 プ ラオサ ンは 1像 だ け とな るほ ど無残 で あ った。 しか し,な お復元 の可能性 が あ ったの は幸 いで あ った と N.∫.Krom 博士 は報告 して い る。15)1925年 第 2の碑文 が発見 され た。 1940年 に計 画 的な発掘調 査 が始 め られ, 1941-1947年 には 多 くの資料 が得 られて, Soehamir によ る仮転 写が付 け られて, それを J.G.deCasparis博士 が保存 して いた。1952年 と53年 に, 博士 は現地 で さ らに資料 を得 た。16) 1958年 と, ∫.G.deCasparis博士 の報告書 出版 2年 後 の 1960年 とには,北 プ ラオ サ ンの南 の 1堂 が復元 され て17),現 在 に至 って い る。 Ⅳ 建 築 構 成 北 プ ラオサ ンは中央 に2棟 の僧 堂 (skt.Vihara) を持 つ .約 49m 〉く39m の各敷地 はその 各 々の西前 面 に門 (Indn.gopura,gapura18))を持 った,壁 厚約90cm 高 さ約 2m の内側 の 周 堰 と, 中央 に門 の あ る隔壁 とに よ って 囲われて い る。 そ して周 壁 の隅部 と,周壁と隔壁 との 出 会 う部分 には, 門 とよ く似 た,わずか に戒 の低 い正方形平 面の塔 が 周壁 を完結 させ て い る。 そ の外 周 には,第一 列 に50個 の,基壇 で 5m弱四方 の中 岡堂 が, 隅部 で は各 々西 と東 を向 き,四 ll) J.G.deCasparis,p.3. 12) N.J.Krom,Inleid3'ng,II,p.3.
13) A.J.BernetKempers,AncientIndonesianArt(Massachusetts,1959);J.G.deCasparis,
p.20.
14) Soeharsono,p.12.
15) N.J.Krom,InZeiding,II,p.5. 16) ∫.G.deCasparis,pp.3-4. 17) Soeharsono,p.12.
18) gopura:J.G.deCasparis,p.23;gapura:J.M.Echols&Hassan Sha°ily,An Indone -sian-EnglishDictl'onary (Djakarta,1966),p.117.
東 南 ア ジ ア 研 究 第6巻 第4号 方外側 を向 いて配 置 されて い る。 その間隔 は1m強で あ る。小向堂前面 の階段から 1m強外側 に54個 の,基壇平面約 4.9m X4.9m のス トゥパ と隅部 に 4個 の中 岡堂 が と りまいてい る。 その4m外側 には,西前面 に 2門を持 った壁厚約 75cm の外側 の周壁 が,約 87m X 148m の 敷地 を囲 って い る。問題 の碑文 は これ らの小 向堂 と一 部 ス トゥパ を構成 す る建築 部分 の石 に見 出 され た もので あ る。 一方 同 じ形 式 の二 つ の僧 堂 の建築構成 は,下 か ら2.10m の基壇 (skt.medhi:下 か ら plinth,
ogief-ogiveと半 円繰形突 出,装飾パ ネル,そ して一組 の cornice よ り成 る) がその最上面で
14.20m x21.60m で,前面 に 3.50m 〉く9.00m の突 出部 を持つ。 その突 出部 に 9段 よ り 成 る階段 を と りつ けて い る。 この基壇 の上 に2層 よ り成 る身部 が乗 る。 その プ ロフ ィル は基本 的 に基 壇 の プ ロフ ィル と同 じで,菩 薩 の レ リー フと装飾 の あ る壁
面
が主体 とな る。 その戒 は 1 層 目の plinth (台座)下面か ら antefix (軒鼻飾 り) の あ る cornice (じゃば ら) の上面 まで で 3.50m, その上 は 2層 目の cornice上面 までで 3.00m で あ る。そ して全体 の高 さは地上 か ら最 高部 で 20.50m で あ る。内部 の平面 を見 ると,Kala-makaraの装飾 のあ る幅1.26mの入 口に姑合 して前室 (pendopo19',
写真 2 西の正面 か らプ ラオサ ン遠望 写真 3 南 の僧堂か ら北 を望む。 メ ラビ山 は中央左 よ り
写 真 4 南 の僧堂 か ら南 を望 む。 森 の手前 は 南 プ ラオサ ン, その向 こうに ラ トゥ
・ボコの丘
19) R.A.Koesnoen,p.73.英訳 porchは
J.
M.Echols& HassanShadi15,,p.273によるo4-野口:r拍 ロジ i・ワの 仏教 遺跡 voorportaal,porch) 2.60m ∴ 2.20m
が あ る
。
前 室 の 両 脇 f昭 二は niche (lllETI が ん )を つ け る 。そ して人 目,niche,窓 枠前l仙 こは 必 ず Kala-makara20)の裳 飾 が つ い て い て ,プ ラオ サ ン0
J
Kal a-head に は 両 側 に鳥
ま た は Kinnara, kinnariとよ ば れ る半 人 半 鳥 が 彫 刻 さ れ て いて, Kala一makara と」甘二装飾の 部 分 を 成 して い るの が 特 徴 で あ る。 (写真 8) この Kala-headの上両脇
o
j
三J(jの部分 は , も しそ C')上 部 にせ りILH Lて い る梁 を支 え る等 の 多少 と も構 造 上 の 意 味 が あ る場 合 に は , この 部 分 が 何らか の 装 飾 を ほ ど こ され て い て,取 り去 られ て は い な い。21) 写真 5 南 僧 堂 正 面 入 口 図 3 僧 堂 (身祁)平 面 L、呈l 写真 6 両 僧 堂 正面
上 郡20)
A.
J
.
BernetKempers,p.122.k豆la:a monstrous head,makara:mythologicalaquatic animal,k51a-makara:combinationofk云1a-headandtwomakara,kinnara,kinnari:myt h-ologlCalfigures,halfbirdhalfhuman,heavenlybeings.21) カ ラサ ンに は天 人の例 が あ る。
東 南 ア ジ ア 研 究 第 6巻 第 4号 「 1 ′ ノ 融 製 」 トi .; ノ 叶う 「 t JJ 1 2 j ∼rn ■二二-1 -_ - -._ _ _-.1■ 」S J .-1 1t L ▼ ・:J こ
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)- J.-図 4 僧 堂 断 面 図 写真 8 前 室 の ニ ッ チ - 3 46-1016 E i L も ー 卜 m ・ -し く ー .. ト ト . . メ 写真 7 中 央 室 入 口野 [1:中部 ジ ャワの 仏 教 遺跡
-3
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7-写真 9 号1央 室 正 面 写真 11 在 室 lT:. 育 写真 10 中央室左壁を通 して左圭 写真 12 左 室 正 面 上 部 1017東 南 ア ジ ア 研 究 第6巻 第4号 写真13 左宅か ら通路上部 内部 には 3.50m x5.80m の3室 が作 られ,堰 に開 い た幅86cm の入 口を通 って 両 側 の 部屋 に入 る。3室 と も同形 で あ って中程 よ り奥 はわずか に珠 が高 くな って,さ らに最 も奥 には奥行 -1.001m高 さ 0.75m で3像 を備 えた祭壇 が あ る。 その手前 の堰 には,傘 を さ しか け られ た貴人 の レ リー フとniche さ らに 両 脇 の 部屋 で は,成 の低 い レ リー フが あ っ て,1人 また は 2人 の貴人 が合 掌 して い る。 階高 は 1階 が 3.50m, 2階 は 梁上 で 2.60m,最 高部 で 4.60m で あ る。 1階梁上 には 壁 との 問 に厚 さ 15 cm の板 が挿 入 出来 るほ どに溝 が掘 られて いて ,盟 も突 出 して い るので 2階が あ っ た と 思 わ れ る。 Soeharsono氏22)は僧 侶 の居 住 また は 祭 式 用具 置場 を想定 して い る。 床板 も 構 造上 可能 で あ る し, 罪 降用 には梯子 も 可能 で あ り, 下 階 の 祭 壇上 部 にあ た る上 階壁 部分 に も1また は 2個 の窓 が開 いて いて, この推定 は正 しい と思 う。 ただ し,後述 の通 り, この遺跡 が ピカ タ ン王 と親族 の6人 に関係す る こと, 3体 の Buddha 像 と 6体 の菩 薩 像 が祭 られて い る こと,dhara扉 (陀羅 尼 ,総持 ・能 持 ) の書 かれ た小 さい金板 の発見 が あ
り,1階 の長 押 全体 に円い花 の模様 の 中 に烏 を彫 り, Kala-head 両 脇上 の kinnara と共 に, それ とな く天 国 を イメー ジ して いて, な おかつ天 井高 はそ う高 くな く,祭壇 に近 い およそ部屋
の半分 の床 が一 段高 い こと,等 の状況 を考 え ると, ここが一般 の僧 院 (vihara)で あ るよ りは
∫.
G.deCasparis博士 の推論 の よ うな statesanctuary と して , またそれ な りの最 高 の 人 が 冥 想す る堂 と考 え られ るので ,や は り上 階 は法 具 の置場 か何 かで あ ろ う。Ⅴ 碑 文 の 構 成
問題 の碑 文 は図5, 6の部分 で,主 に壁 まわ りの横材 の anteBⅩ の間, あ るいはい くつ か に
また が って発 見 され た もので あ る。
∫.
G.deCasparis博士 によ って報告 されて い るの は, 60個 とその他 に発 見場所 の不 明な dharmmaGrima- を含 む 5個 と, 北東 隅の塔 でみつ か った
赤字 の palarhyang の タイ トル, ジ ャカル タの考 古局 にあ る Nos.2881と 2882の番号 の あ る
もので ak!ara (音 綴文 字) の タイプ と大 きさか ら明 らか に北 プ ラオサ ンの もの と思 われ る も
の とで あ る。
22) Soeharsono,p.13.
-野口 :中部 ジ 1・ワの仏 教 遺跡 碑文 は次 の構成 を採 る。 は じめ の言葉 dharmma (13回) stupa (2回) anumoda (46回) gawai (2回) タイ トル の 部分 Grlmaharaja・-・・・ (大王) rakai・ -(貴 人 に対 して) Sang Grikahulunnan (女王) anumoda の anu は一般 に他者 に対 す る 二喜びを表 わ し,菩 薩 が衆生 の功を喜 び,あ る い はBuddha が菩 薩 と して専 念 して いた時 の ことを振 り返 って の喜 び,また 自 らの業 績 の完 了 に対 す る喜 びを表 わすoanumodaは 判 こ大 乗 仏 教 あ るい は 仏 教 に さえ限定 され な いで,puPyanumOdana(anuttarapdja)と
い う合成語 か ら分 か るよ うに, 一般 に信仰 表 現 の最 高 形 式 を表 わす 。結 論 的 に言 って , 王 には現 わ れ な い等 稗 文 全体 か ら 得 られ る 事 実 を総 合す ると,王 が 申 し\の 建 物 その他 dharmmaや S佃 pa の現 われ る重 要 な建 物 を建設 す るに際 し, 宮 廷高 官 ,諸 侯 (local vassalprinces) あ るい は個人 が,Buddhas へ の帰 依 , あ るい は王 - の忠 誠 を示 して 自 らの喜 びを表現 した。 そ して 碑 文 の用語 の 相 異 は
建
物 の種 類 の 相 異 によ るので は な く 施 主 の 相 異 に よ るので あ って , そ の 点 で anumoda は独立 して い るので はな く,坐 休 の施主 で あ る王 に従 属 し, 寄進 を した こ とを示 す 。 一方 dharmma は王 の碑 文 に現 名 前 の 部 分 そ の他 の記 事 pu.-.◆ (一般に貴人に対 して) dyab (壬 の 親族 に対 して)/
図5 碑文の位置 (1) 王に幽係する(.Lit' -丈とその示す方
位□
dharmma(ま たは stdpa)GriMaharajaj anumodaRakaiGurunwahi
因
anumodaGriKahutunnan図
arrumodaSangWatuhumalang ゎれ て ,創 設者 の独_;r_した建 設 意志 に関係 して い るよ うで あ る。しか し, 中 岡堂 Ⅰ・32,Ⅰ・39 に anumOda で はな く gawai(- work,activities) が現 ゎ れ る理由は分 か らな い。 Ⅰ・32は,minulan(- to lay the fundaments of・ to begin
東 南 ア ジ ア 研 究 with)23)に始 ま る一 人 sang tawanとい うタイ トル の pu p的ulとい う人 に続 いて , gawaiの 後 に 同 じタイ トル で pukais-sawaとい う人 の名 が現 われ るので ,前者 の死 か何 か の理 由で後者 が 建 設 を受 け継 い だ もの と思 われ る。そ して一 つ前
Ⅰ.31の [anumodasangdatirip] pu kaisawa
と同一 人物 だ と 思 われ るが タイ トル が 異 な るの
で pu kaisawaが pu pihulの死 後 その タイ ト ル を も引 き継 い だ ことを推 定 す る。 しか し,Ⅰ.39
は状 況 が異 な る。 2人以上 の名 が 同一碑 文 に現 われ る例 は い くつ か あ る。 ⅠⅠ.19に [anumoda sang dawruluk]punadiと pu candraとの2
人 の名 が あ って,ma舶 1ihi(<k豆1ih-two,todo (make)something with twomen together,cf. 現代 ジ ャワ語 nalihi)が あ り,2人 が共 同 した こ
とが分 か る。 Ⅰ.5には [anumoda]rakaiwanwa
gal
uタt
i
nuZ
us
akan
に続 い て 【dai] rakaigur-u
nwahidya々 r
a
-
甲u
と後 の王 と同 じタイ トル を 持 つ2人 が現 われ る。 また,Ⅰ.41
は お も しろい 第6巻 第4号 図6
碑文の位置 (2) 他の碑文によって 方向が示 されるもの[
]
anllmOdasang- ・-(
同一文は関係深い人物による碑文 例 で あ って ,王 と他 の3人 によ って建 設 され た よ うだ。碑 文 の構 成 は次 の よ うで あ る。 ante丘Ⅹ t 壁 の 中 央 † anumoda sanghagu/ † lawang Sang
-pu -ralih
gangpu † dilarmma Grlmah豆r豆ja†
h
a
b
a
t
k
i
n
a
p
a
t
annira lawan -sangma血as6dharmma CriMaharaja (8世 紀 中頃か らの 中部 ジ ャワの王 の称 号 ) を壁 の 中央 の 二 つ の
ante丘Ⅹの間 に して ,他 の 3人 は kinapatannira (-doneby four)と共 にその両 側 に配 置 さ れて い る。 た だ し,Sanghagu/lawanは名前 が ante丘Ⅹで切 断 され , また puだ けで 名前 の
23)
∫
.
G.deCasparis,p・14・0-he whoexertsthe fullrights)は 碑 文 中 央 の 王 に 関 係 す る こ と で ,
結
局 3人 の 共 同建設 に対して 王 の名 が 貸 与 さ れ た と す る。
lTf 人 名 と タ イ ト ル
1.
王
GriMaharaja RakaiPikatanと女王
CriKahulunnanGriMaharaja RakaiPikatanは 外側 の門の直前 ⅠⅠⅠ.14(b),15(a) に あ っ て 外 側 を 向 い て
い る。 碑 文 の 位[;'J.'Iが 建 築 群 の 外 側 をrlLTJi、て い る の は 他 に2例 , そ して 向 か い あ っ て い る
0
)が 2 例 あ る が い ず れ も二重要 な 位 置 に あ っ て 重 要 な 人 物 で あ る ら しい 。 こ の 人 物 は 明 らか に 表24) cJ)の属 す る王 朝 ,婚 姻 関 係等 の問題 は, 仁と王 朝 の宗 教,地理 的 中心地 ,寺 院建 設 の年 代,当時 の精神構
造 等の問題 に さえ密接 に関係 す るので重要 で あ る。 バ リ トゥン三仁の碑文 の8王 の属 す る王朝 につ いて さえ, マ タ ラム と シ ャイ レン ドラ2朝 に分 かれ る とい う説 が あ るほ どに問 題 で あ る。 さ らに, 仏教 と
of Indonesia,TheHagueand Bandung,1957,TheKingdomsofJavaandSumatraで は 存定 して い る) と, 仏教 の進 路- あま り定 着 しなか 一)た中部 ジ ャワ北 岸 か ら商 都ケ ドゥとグ ラ ンパ ナ ン- の- , デ ィエ ンか らプ ラ ンバ ナ ン- の ヒ ンズ ー教 の進路 , 特 に. プ ラ ンバ ナ ンにお け る仏教 と ヒ ンズ ー教 の闇 係 (B.H.M.Vlekkeは従 って両宗 教 の年 代のず れ を 仮定 す る)。 さらに シ ャイ レ ン ドラ朝 系 (仏教 ?) の 酉遷 とマ タラム系 (ヒ ンズー教 ?) の東遷 の問 題等が残 る。 (B.Schrieke,
"TheEndofClassicalHindu-JavaneseCultureinCentralJava:A StudyinEconomic Geography,"IndonesianSociologicalStudies,TheHagueandBandung,1957.は シ ャイ レ
ン ドラ朝 の 中郡 ジ ャワ放棄 と東 遷 を政 治 経済 的理 由 に求 め る。) そ して, シ ャイ レン ドラ(-kingof mountainsあ るい は mountain)は地 理 的 な 山, す なわ ちデ ィエ ンを 中心 とす る北 西部 を意 味 す る U)か, それ と も, む しろ密教 と観 係 して単 に山 々を精 神的 に表 わ して い るのか, とい う問題 が あ る。 中 部 ジ ャワ南 都 に関係 す る メ ラビ山 には遺跡 はあ ま り近 づ いて いな い よ うで あ る。 そ して ケ ドゥもフ ランバ ナ ン も前 述 の 山 岳地 方 に比 べ る と丘 が あ るだ けで, これ らに精 神的,地 理 的 な王 の 山, あ るい は山 々を見 出す とす れ ば, ラ トゥ ・ボ コ宮 か ら南 に連 な る丘, その 各突 IL侶 二は 個有 の gunung(山) U)/呂が つ け られ て い るそU)山 々に求 め る ことは 出来 よ う。 これ らの諸 問題 が 関連 Lあ 1て,解 決 の 糸 口 とな ろ うo ー 3 5 1 1021
東 南 ア ジ ア 研 究 第6巻 第4号
中の, サ ンジ ャヤ (マ ク ラム) 系 の第6の王 で, この王 は シャイ レン ドラ王 朝 の最 後 の王 サ マ
ラ トゥンガ (ca812-ca832) の娘パ ラモ ダ ヴ 7ル ダ ニ - Paramodavardhani と結婚 した。
CriMaharaja (大 王) の碑文 は その他 に図 4の位 置 にあ るがす べて王 名 はない。 これ は,棉
文 の形 式 が 同 じことか ら建設 は短期間 に成 され,従 って 名 を省 略 して も分 か るとい う理 由 によ って ピカ タ ン王 で あ ろ う。別 に RakaiPikatan は TjandiPerotの碑文 (850A.D.) に もあ るo GriKahulunnan (Ⅰ.18,19,ⅠⅠ.21,22) は大 王 GriMaharaja と同 じ く, 単 に Griを
用
いて い るばか りで な く,pu あ るい は dyab に続 く名前 が省 略 されて いて王 につ いで 4回 と頻 出 し, しか も北西 隅 にか た ま って い る。 そ して ⅠⅠ.21,22 の二 つ は 外 側 を向 い た 3例 の う ちの一つ で, この間か らは gold plate,銘 の あ る silverplate,bronzepot,bronzechain 等 の発見 が報告 され, しか も Ⅰ.17,ⅠⅠⅠ.24 と王 の碑 文 が隣接 して い る。 また GriKahulunnan は842年 に二 つ の碑 文 が あ る等 の理 由か ら女 王 のパ ラモダ ヴ ァルダ ニ ーで あ るとす る。
2. 第 1王子 RakaiGurunwahiDyab Sala
く
匝
(RakaiKayuwaniPu Lokapala),妻 Rakai GurunwahiDyah Ranu と母 RakaiWanwaGaluhtinulusakanRakaiGurunwabiDyab Saladd は ⅠⅠⅠ.14(a) と 15(b) に, この 同一 ス トゥパ に先 の王 の 碑文 が外側 を向 いて位 托 して い たの に対 して ,北側 の入 口の両 脇 で向か い あ って位 置す る。 こ
れ は Ⅰ.41に王 にな らんで 3人 が従 属 的 に琴拍っれ た の とは異 な って王 と対等 で,特 に rakaiと
dyab が使 用 され ,こ こで は 3人 に限 られ るので おそ ら く王子 で あ ろ うとす る。そ して商 内門 の 南前 の両側 に向か い あ って あ るこれ と同 じタイ トル の RakaiGurunwa血iDyab Ranll(Ⅰ.5,6)
を その配偶者 とす る。
∫.
G.deCasparis 博士 は 古代 ジ ャワ語 の明 らか に性 を示す語 尾や 付加語 の例 を列 挙 して , この Ranu がその仕事 (Ⅰ.5) を受 け継 ぐことにな った RakaiWanwa
Galubtinulusakan を ラヌの母 または姉 と考 えて い る。一方 RakaiGurunwahiの タイ トル は
銅 板 (886A.D.) にあ って他 の碑文 で は見 出 され て いないので,RakaiKayuwaniPu Lo
ka-pala (Argapura碑 文,863A.D.と碑 文 882A.D.で は RakaiKayuwaniのみ で, これ は 表 の ご と くピカ タ ン 王 に続 く王 で あ る。) は RakaiGurunwahi と同一 人物 か も しれ ない と
し, 古代 ジ ャワの タイ トル と名前 に多 い SynOnym の例 を列 挙 し, 両者 の最後 の碑文 の882年
と886年 との近 い ことを理 由 に して い る N.∫.Krom 博士 を支 持 して い る。Balitung 王 の碑文 (907A.D.) に RakaiGurunwahiを カユ ワニ王 の次 に王 と して付加 す るの は問題 で あ る し, RakaiGurunwafliが ピカ タ ン王 に密接 して い る ことは ここ北 プ ラオサ ンの 碑文 で示 され たか
らで もあ る。
3. 第 2王子 RakaiLayuwatang Dyah Maharnnawa
これ は Ⅰ.23 にあ って,rakaiと dyab とを持つ 王 の親族 と思 われ る 3人 の うちの 1人で あ
る。 この ことか ら第2王子 に 想定 して い る。
∫.
G.deCasparis 博士 は 同 じ タイ トル を持 つ2-Kadiluwih碑文 (845/6A.D.)レ) Sang Layuwatang Pu Mananggungとは別人で あ るよ う だ が関 係 は あ って Mananggung(-二hewhoguarantees,warrants cjj意 味 ) は この 第2王十
の 代理 者 と推 定す る。 代 理 者 の例は 多 い。 別に838年25)から842年を申心 と して この845年-6年
前後 が北 プ ラオサ ンの建 設 年 の決 定 に役 jT/'つ と思 うc sangwatuhumalang pu tguh(Ⅰ.9)は
カユ ワニ王 の次 の り 卜(77マ ラ ン王 と同一 人 物 で あ るか も しれ な い が この碑文 に関 す る限 り何
ら特 筆 す べ き特徴 は な いo しか し位 胃 が西 山 吊O 申央 で あ る こ とに注 目す るC この 王 の治世は
碑文 で あ った ojで は なか ろ うか0
4. 2個以
上
の碑文- 2人 の 闇 係 あ る人物前述の他 に2桐 以 上 の 碑文 あ るい は2人 の 関 係 あ る人 物 uJ現 わ れ る碑文 は次 の2例で あ る。
(1) Sang Sirikan Pu Stiryya(Ⅰ.15,16) (skt.Sdrya-sungod)は男性.Sang Sirikan Pu Anggさhan(I・26)は その 妾 。 Sang Sirikanは最 高 の官 位 の一 つ で RakaiSirikanの代 理 で あ ろ う。
(2) Sang Ramraman Pu Singha(I・7,8)
5. その他 の タイ トル- 代理 者
古代項部 ジ ャワ0)土 地 には2種 類 あ って , 寺院 に 寄進 され た sima(-free teritory)とそ の他 ,す な わ ち,wanua(-二desa:行 政的村)26)の集 合 した watさk(-group)か ら成 る村 の行
政的某 合体 によ って f師友され る王 国 の飢土 とで あ った。27)J.G.deCasparis
博士
によれ ばrakaiあ るい は pam巨g巨tに続 くタイ トル は このrJL政
即位
と して0J wat芭k で あ った こと, そ して碑文 の示 す と ころで は, クラテ ン郡 で 27watek が52の村 (wanua)か ら成 って , そ の うちに は Wat6k Kiniwangの よ うに12村 か ら成 る もの もあ った こ とが知 られ て い るO 従 って ,こ0) wat6kの 代理 者 とは村 集 合 の代理 者 で あ .'), 実 質 的 に は それ以上 に 干 間 の 権威 oj代理 者 で あ
等 の高 官 が 報告 され て い るが
,
北 プ ラオ サ ンに は 見 られ な い。 次 に北 プ ラ オサ ン碑 文 に現 わ れ る watさkの 名 と, それ らにつ いて 分か って い る事 実 とを列 記 す るC(1) (Ⅰ.2) Kalunwarak:ロ ロ ・ジ ョンブ ラ ンに kaluflWarak と して明らか に 古い 形で あ る。
(2) (I・10)Mada再 ar:Wawaと共 に壬 の次 の 第10)椎 威 で , 王 の命 令は11封こ彼 らに下 さ れ る。
25) D.G.E.Hall,A Historyof South-EastAsia(1955).
26) desaに対 してkampongも村ではあるが,kampongは労働と供給の場を含んで,人家でコ とかた ま りになった,行政的な レベルを抜きに したkampongplaosanレ)ように精神的な集落である。
27) 下 車邦彦 『ア ジア暦史事典8』 (平凡社,1960), p・352.マ タ ラム (仲 冊浩三)
県 南 ア ジ ア 研 光 第6巻 第4号
(3) (I.22)Tahunan:ロロ ・ジ ョンダ ラ ンで は北 の門 (Indn・gopura)28' に赤で。 ここ で も北 中央一つ西 。
(4) (i.30)Dalinan:中 部 ジ ャワの権威 の リス トに しば しば見 られ る。 村 の名 (バ リ トゥ
ン王碑文)0
(5) (i.24)Puluwatu:pamさgさtに続 くタイ トルで, Nagarakrtagama 77.3 で は仏教 の 根拠 地 。
(6) (i.32)Tawan:カ ラサ ンのサ ンス ク リッ ト碑 文 に もあ るC
(7) (Ⅰ.35)Wurutundal:Sikiと同 じ 1を意 味 す る. ク ラテ ン郡 (東方 ) にあ る。 ここで
(8) (Ⅰ.36)Pahgumulan:Kさmbang Arum 碑文 に銅 鍛治 の村 と して あ る。 東方 (
?)
(9) (Ⅰ.50)Tiruranu:セ ウに もあ る。東方 に位 置す る (
?)
(10) (ⅠⅠ.29) Kalangwatu:ソロの ス リヴ ィダ リ博物館 の銅板 の Kalangwuflkal と同一 と す る。
(ll) (ⅠⅠⅠ.55)Pagarwsi:詳細 な リス トに頻 出。
(12) (Ⅰ・ 12) I?a-wka :RakaiWka の代理 O (Perot850A・DHArgapura863A・D・の碑 文) (13) (I・28) I?a-halu :RakaiHalu の代理 o (14) (Ⅰ・31) I?a-tirip :RakaiTirip の代理 O (カ ラサ ン碑文 778A・D・) (15) (Ⅰ・33) Pa-pahkur:RakaiPahkurの代理 。 (同上) Ⅶ 方位 の構 造- 現実 と超 越 との対極 .既に N.
J.
Krom 博士 は, ロロ ・ジ ョンブ ラ ンにつ いて, 「71心 の建築 群 の まわ りに在 る224 の建築群 の配列 は王 国 の 多 くの場所 に対 応 す ることを主 張 し,全体 を王 の廟 で あ り王 国 の聖所 で あ ることを考 えた。 そ して ,J.
G.deCasparis 博士 は以上 紹介 したよ うな碑文研究 の成 果 に基づ いて, 対 角線 の方 向 を王 の権 力 の及 ぶ精神 的 な,普 遍 的 な方 位 と した. そ して,北西方 向 に何 らか の意 味 が あ るだ ろ うとい うことに対 して ボ ロブ ドゥル- パ ウ ォン- ム ン ドゥ ッ トの関係 か ら言及 し, さ らに西 正面 の2門 の前面 の重 要性 を指摘 した。 さ らに現 実 的 に碑 文 の 位 置 とその意 味す るもの の存在 す る方 向 との関係 を ロロ ・ジ ョンダ ラ ンの碑 文 との関係 か ら若 干見 出 した。私 がプ ラ ンバ ナ ンの現地調 査 の際 にまず 注 目 した ことは, その地形 の 中におけ る 寺院群 の ま とま りで あ った。 寺院 は,仏 教 とヒ ンズ ー教 に分 かれ建設年 代 も異 な った に もかか わ らず, その地形- 北北 東約 25km に Merapi山 (火 の山)を遠望 し, 南 に ラ トゥ ・ボ コ28) gopllra:J.G.deCasparis,p.23;gapura:
∫
.
M.Echoュs& HassanSha°ily,p.117.4-野 口 :中部 ジ ー√ワの仏教遺跡 の宮 殿 の あ る丘 が ひ ろが って い る。 そ の 間 の平 野 の
r
Llに束 酉 の ダ イ ナ ミックな動 きを淀 ませ る 力 を感 じさせ る地 勢 (topography)- の中 に, 各 々の建 築 が外 部 に広 が るユ ニバ ー サル な触 域 を持 ちな が ら自 ら完 結 した世 界 を持 って , そ して 各 々東 と西 とを 向 きあ って い る こ とに驚 い た。 (図 1) ロ ブ ドゥル で あ る。 そ して プ ラ ンバ ナ ンの セ ウは240の小 両堂 群 を 正方 形 に配 して ,十 字形平 面の中央 堂 の主 室 が束 に入 口を持 つ ことだ けで そ の方 向 を正面
と決 めて い る。 それ らに比 べ て 北 プ ラオサ ンは全体 の入L
lも西 に2門
を 開 き, 中央 の2堂も西 に入「」の突 出を持 って , 厳 と し て 西 の正面を示 して い る。 だ か らその二 つ の入 口に重点
が 置 か れ るの は当然 で あ る。 その意 味 で は ボ ロ ブ ドゥルや セ ウよ りは は るか に人 間 との両 接 的で 日常的なか か わ りを持 と うとす る姿 勢 が あ るO しか し同時 に碑 文 の配 吊が示 す よ うに, 建築 の潜在 的 な表 現 と して, 普壷 的な8方 向を示 して い る こ とに注 目す る。 それ らの方 向 は,他 の碑 文 が村 の方 向 を示 す ことに よ って一 定 の先 方 に存在 す る村 の伽 域 を さ し示 した の に対 して ,精 神的 な. 超越的な柳 城 を象 徴 して い る。 さ らに 0.F.Bollnow 博士 29'の言 うよ うに, 人間 に と って いか に行 動 して も変 わ らな い 鉛宙 の軸 が加 わ る。 そ の軸 は単 に上 あ るい は天 空 を志 向す るのみ で は な く,地 輪 に達 して 地 球 を さ さえて い る 軸 で もあ る。30) そ の軸 を 定 めて で もい るか の よ うに, 中央 の <-ス ト .,ペ 形 ニ (dagob)31)に は小 さい仏 像 が異 常 な上 には め込 まれ て い た ら しい窪 み が あ る。 (写 真6参照)
これち の9方 向 はす べて が一 体 とな って , 付論 で述 べ る仏 教 的 超越 の極 を示 し, 他方 ,銅 鍛 治 の村 を は じめ とす る村 々の方 向 は無 数 の現 実 を さ し示 す も う一 方 の極 を表 わ して い るo そ して , 東 北 隅 で異 常 な位 tT;lLTtを占 め る女 工 の碑 文 とヨ三の もの は現 実 の両メ ラ ビに, 地 の 火 を観な が ら, 王朝の祭 火 を受 け る32)源 の象 徴 を志 向 して い るの で あ る。 1Ⅱ 付 論 -仏 教 的超 越 と現 実 との 対 置 仏 教 芸 術 が表 現 の モ チ ー フを経 典 の申
に持 って い る ことが11封こ指 摘 され る。 その ことか ら仏29) 0.F.Bollnow,MenschandRaum(Stuttgart,1963),S.46,S.60.
30) BenjaminRowland,TheArtandAychitectureof India(Maryland, 1956), p.247;W .F. Stutterheim,StudiesinIndonesianArchaeology(TheHague,1956),p.39;り叫寸元 「仏典
口」『世界古典文学全集7』 (筑摩 書房,1968),p.445.
31) -thestapa-Shapedelementsofthemonumentsand theirdecoration (A.J.B.Kempers, p.37,note);A.K.Coomaraswamy,HistoryofIndianandIndonesianArt(London,1927), pp.159-160.によれば,d豆gaba はス トゥパのセイロン名であるC 博土は,全体がス トゥパである
と考え られるボ ロブ ドゥルJ_)ような場 合に,単に装飾のエ レメン トとしてではな く,それ 自体完結 し た沢山のス トゥパの出現する場合の定義に迷 っているが (pp.204-205),--・万 Kempers
博
土は, dagobは skt.dh豆tugarbha(Pali語 dhatugabbho)を語源としてス トゥパ と同義語であるが,全 体 としてのス トゥパ と,そのエ レメン トと_してのス トゥパ 土の区別の必要か ら,W .F.Stutterheim 等オランダ学者の例に従 って,上記の定義を下 し,sttipa と dagob とを使い分ける。32) B.Schrieke,pp.305-307.
東 南 ア ジ ア 研 究 第6巻 第4号
数芸 術 は仏教 哲学 の視覚 的表 現 だ と も言 えそ うだが, しか し, この ことは哲学 が芸 術 を一方 的 に規定す るとい う意 味で は正 し くな く,両 者 には,特殊 の働 きが あ る。 それ は例 えば,< 言葉 や芸 術 作品 が,表現 す る者 の意 図を担 い なが ら,直接 (仏性 ) を さ し示 す> よ うな働 きで あ る。 われ われ はその時,言 葉や芸 術 作品 によ って仏性 を志 向 して い るので あ る。 Edmlユnd Husserl
博士 は, 「何 かを意 味 しよ うとす る志 向 (Meinung) が言 葉 の外 に 言 葉 とな らんで あ るわ けで はな く,む しろ話す ことによ って絶 えず志 向 と言 葉 との内的融合 を果 た して い るので あ る。 い
わ ば志 向が言 葉 を生気 づ け るのだが, この生気 づ けの結 果,言 葉 はす べて の言葉 がいわ ばおの
れ の うちに志 向を 肉体 化 し, そ して ひ とたび肉体 化 され るや , その志 向を おのれ の意 味 と して 担 うので あ る。」33)と言 う。 さ らにM.Merleau-Ponty博士 は 「画 家 の視覚 は, もはや<外 な る もの>- 向 け られ た まな ざ し,つ ま り世 界 との単 な る<物理 的 ・光 学 的> 関係 で はない。世 界 は, もはや画家 の前 に表象 されて あ るので はない。 む しろ画 家 の ほ うが, いわ ば<見 え るも の> の集極 化 と< 自己- の到 達> とによ って, 物 の あいだ に生 まれて くるの だ。 そ して最 後 に,画 像 が経 験 的事物 のなか の何 ものか にかかわ るとす れ ば, それ は画 像 その もの が まずく 自 己形 象化 的> (autoBguratif) だか らにはか な らない。画像 は,何 ものの光景 で もない ことに よ って のみ, つ ま り, いか に して物 が物 とな り, 世 界 が世 界 とな るか を示 す た め<『物 の皮』 を 引 き裂 く> ことによ って のみ, あ る物 の光景 なので あ る。」34)と言 う。 仏教 は, 多 くの哲学 的な発 見 を した。紀元 前6世 紀 の イ ン ドにおいて新 しい反バ ラモ ン的宗 教者 達 の 出現 は, それ以前 の イ ンダ ス流域 よ りは東 の ガ ンジス河流域 で あ って, そ こで はす で に犠牲 式 の廃 止 , カー ス トの無 視, カル マ によ る転生 の意 志 的変換等 を説 いて い る。35) しか し 仏教 に特 有 な着想 は再 往 の終 了 と して の nirvana(淫楽)36)で あ る。nirvana は,バ ラモ ン教 に もまた 同時代 の反 バ ラモ ン的新宗教 に もあ ったが37), それ らは生存 の消減 で はな く,死 を転 機 と して別 の存在 状 態 に移 る ことで あ った。一・万 仏教 では,必ず しも死 が転 機 にな るので はな く (生 きて いて さえ可能 な,何 らか の存在 に相 当す るか, あ るいは全 くの絶 滅 で あ るか を知 る ことは無 用 な)38),永遠 な生存意志 の消滅 ,一切 か らの解脱 (skt.vimukti)で あ る。 そ して, 空(skt.畠dnyata)の概念 は解脱 を説 明す るの に最 も有 力 で あ った と思 われ る。 空 は, (有存在) と無 (非存在)との対 立概念 の どち らか に属す るので はな く,有 か無 かを問題 にす る次元 を超越
した (transzendental)次元 で, ただ,可能 にす る働 き (Ermdglichung) を もつ ので あ る。
仏 教 は この よ うな,壁,解脱,nirvana を究極 的 な超越 の極 に設 定す る ことによ って,極 め
33) EdmundHusserl,FormaleundtranszendentaleLogik(1929),S.20;M.Merleau-Ponty『眼 と精神』 滝浦 静雄 ・木 田元訳 (みすず 書房,1967),p.73. 34) M.Merleau-Ponty,p.288. 35) D.D.Kosambi『イ ン ド古代史』 山崎利男訳 (岩 波書店,1966),p.164. 36) HenriArvon『仏教』 渡辺照宏 訳 (白水社,文庫 クセ ジ ュ 147,1967),pp.56-57. 37) D.D.Kosambi,第5章,部族社会か ら階級社会へ 38) HenriArvon,pp.57-58. 1026 - 356
-野 口 :中部 ジ ャワの仏教遺跡
て 楽 天 的 に現 実 (世 俗loka-dhatu)を 肯定 して ,現 実 か ら絶 対 の極 - の, 申道 (skt.madhyama pratipad)39' と して の見 方 ,行 動 ‥思索 か らな る実 践 の哲 学 に社 会性 を持 たせ る ことが 出来 た。 実 は,現 実 と超 越 とを対 立 概 念 と して で は な く, 超越 を あ くまで , 現 実 -相 対 と絶 対 と
の
対 立 の超 越 と して 一 方 の極 に設 定 しな が ら,他 方 の極 に現 実 を あ い対 す る ことに お いて 初 めて ,汰
(skt.dharma) の体 系化40)を頂 点 とす る, い っ さい の体 系 的 仏 教 文 化 の発 F譜の 可能 性 が あ った の だ と思 う。 この超 越 (Transzendenz)は, 自然 科 学 的 (あ るい は心 理 学 的) と神話 的 との両 方 の 超越 者 の措 定- 明証 的41)で な い認 識 , す な わ ち, 観 念 的 に, あ るいは自然 現 象 か らの連 想 で 対 象 的 存 在 者 と して 確 か に思 念 な い し措 定 して は い るが, しか し対 象 そ の もの を寓 親 して い な い-を しりぞ けて は い るが, 対 象 性 (dasGegenstandlichkeit) を直観 42)し, 対 象 を現 出 させ るけれ ど も (そ の意 味 で は現 象 学 的), 対 象 性 事 体 が 空 で あ るよ うな超越 で あ る。 空 は先 に有 か
無
か を 問 題 にす る次元 を 超越 した次 元 で , た だ Ermdglichung を持 つ と言 った の は, 今退 け よ うと している神 話 的超 越者 の措 定 で は な くて , 特 に再 観 され る もので あ る。 空 は否 定 の運 動 , 空 は空 を さえ空 ず る。 あ るい は, 空 を空 じて 有 とな る43), とい う時 , それ は単 に, 無 (leer) を意 味す るの で は な くて , あ くまで, 認 識 の対 象 性 の 働 きを もつ 空 で あ るよ うに思 え る。 し か しな が ら,再 び空 は あ るか な いか を問 題 にす る こ と さえ無 用で , た だ,求 め られ るべ き もの で あ る44)とい わ れ る時 , わ れ わ れ に と って それ - の的 申 は絶 望 的 に思 え るけれ ど も,求 め る と い うこ とを思 東 と実 践 と に具体 的 に示 し, 言 い か え る とそれ - の 的中は,六 根 に よ る識 (skt. vij舶 na) を超 え, 般 若 (skt.prajfは) に よ る全 体的直
観 的把捉 45'だ と説 く。最
後 に, ジ ャ ワの仏 教 ヒ ンズー 教 文化 に関 して,両宗 教 の 亜存 の問 題 が注 視 され て きたO す で に肌」注24で ふ れ た通 り, 歴 史的 甘美 と して の定 説 は未 だ得 て い な い が , この 問 題 を解 くこ と は ジ ャ ワ 古代 史 に と って 重要 で あ る。 イ ン ドに お い てす で に これ ら両 宗 教 が時 代 の要 諦 に従 っ 39) D.D.Kosambi,第5葦 40) 和辻哲郎 仏教哲学に於ける「法」の概念 と空の弁証法,『人格 と人類 性』(岩波.封書,1938);Edmund Husserl,DieIdeedeyPhd'nomenologie(Haag,1958),S.56 は体系化の中に現われ る普遍 省の個
別
性についで
言う.JederreelleTeildesErkenntnisphanomens,dieserphanomenologi -schenEinzelheit,istwiedereineEinzelheit,undsokanndasAllgemeine,dasja keine Einzelheitist,nichtreellim AllgemeinheitsbewuBtseinenthaltensein は消極的にではある が,仏教に現われ る無数の普遍的仰 木が,仏教本来 として且 神話的払 越者 として措定 されたJ7では ないということを可能にす る。41) 明証的- 「絶対的で明断な所与性, 絶対的な意味でのEl己所 与性」を行し, 「正当な懐疑をすべて排 除」 し 「思念 された対象件その ものをあるがままに端的に甫接的に直観 し把捉す ることが」出来,7J c
EdmundHusserl,Die/ndeederPhdnomenologie,S.35:立松弘孝訳 詞l象学の1-lHJL_T:』 (みすず LZ‡二))i,1967), p・54.
42) EdmundHusserl,立松弘孝訳 苦,p・54. 43) 和辻哲郎
44) HenriArvon,pp.57-58.
45) 中村元監修 『新 ・欄 教辞 典 』 (誠 信書吊,1962), pl431.
東 南 ア ジ ア 研 究 第6巻 第4号 て力 のあ った事実 が指 摘 されて い る。 その役割 りは 「民 間信仰 を実 際 に統一 す るた めの仕事 」 で あ って , 「一一万 は,統一 の とれ た抽象 的哲学 的思 想 を求 め,他 方 は地方 の祭 式や神話 を復 活 させ よ うと し」
,
「村 のバ ラモ ンたち は彼 らの技術 の知 識で村落 経済 の手 助 けを し,一方 で は民 間 信仰 を認 め,他方 で は知 的運 動 とのつ なが りで, これ らの信仰 を哲学 的体 系 の 中に統一す るよ うに しむ け」46) る もので あ った。 さ らに東南 ア ジア,特 に ジ ャ ワの ヒ ンズー教化 は 「宗教 的 と い うよ りも政治 的」 で あ って, 「これ らの国 々の君主 と支 配 階級 に とって重 要 だ った ことは, イ ン ドの風 習 を模倣 す る こと, あ るい は人民 にそれ を強 制す る こと, また はイ ン ド教 の理 想 に かな う君主 政体 を採用 す る ことで あ った。 この理 想 とい うの はバ ラモ ン- クシャ トリヤ とい う 一組 の階級 , リンガの崇拝 , シヴ ァ派 で い う君主 の概念 な どで あ る。
」 47)とい う指摘 が あ って, さ らに政 治社会経済 史的研究 の必要 さえ示 唆 されて い る。 お わ り に 私 の イ ン ドネ シア留学 と現地調査 の テーマにつ いて御理解下 さ り, 貢重 な御指導 を下 さ った 岩村 忍 教授 に, 本 間武教授 と石 井米雄 教授 に, そ して 師宗増 田友也教授 に感謝 します。 そ し て J.G.deCasparis博士 の報告書 を下 さ り,The UniversityofLondon の同博士 に紹介 して 下 さった イ ン ドネ シア共和 国考 古局長 Drs.氏.Soekumono氏 の御好意 に心 か ら感謝 します。46) Jean Boulie-Fraissinet『イン ドの哲学』渡辺重朗訳 (白水社,文庫クセジュ355,1966),p.46. 47) LouisRenou 『インド教』渡辺照宏 ・美田稔共訳(白水社,文庫 クセジュ289,1967),pp.40-41.