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日本西蔵学会々報 (57) 005日高 俊「1927~28年におけるポユル・カナム領主の反乱について : ガンデンポタン政権による「近代化」とその影響」

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(1)

Japanese Association for Tibetan Studies Japanese  Assoolatlon  for  Tlbetan  Studles

1927

28

に お

反 乱

ポ タ

政権

に よ る

近 代 化 」

影響

高   俊

 1927

28

に か

, チベ ッ ト南 東 部の ポユ ル

spo 

yul,

ポ ウォ

ポメ

で領主 ワンチェ ン

ドゥ ドゥル

dbang

 chen 

bdud ’

dul

− 1931)

の反 乱が お こっ た。 この 乱はガ ンデ ンポタ ン

dga’

ldan

 

pho

 

brang

)政権軍

(1)に よ

即 座に鎮 圧 さ礼 以 降ポユ ル は政

側が

任命

した

官吏

に よ り

治 され る こと となっ た。 こ の反 乱 は 小 規 模で は あっ たが

,清朝崩壊後,

ダ ラ イ ラマ

13

thub

bstan

 rgya mtsho

1876

−1933)

2

度 目の亡 命よ り帰 還 した 1913

に おい て

,記

録の残る

ない

チベ 」 内ωで の 武 装 衝 突の

1

つ である。

 

こ の

時代

, ガンデンポタン政 権 は, チ ベ

代」化

を 目

指す改革

を 限

的 なが

っ てい た。 そこか ら

Smith

1996

218)

この

動乱

をガンデ ンポタン政 権に よる中

央集権

対 す

る反

と意 味づ ス ミ ス氏の説に依る な ら ば

こ の反 乱はチベ ッ ト

代」化

運 動の地 方へ の 影 響と

それへ

勢力

反 応

れ てい る重 要 な もの とい る だろ

 

そ れに もか か わ らず

この

事件

対す

研究

く ない 〔3)。 従っ て

ス ミ ス氏の主

仮説

の域 を 出てい の で ある。 そこで

本稿

で は, これ につ い て分

その上で

チ ベ ト 「近 代 化 」 史 に お ける この反

位置

い 。

 

事件

関す

る史 料 は 少 ない の理

と し て は

,反乱

その ものが 小 規

であっ たこ と ポユ ルがラサ か ら も英 領 イン ドか らも中 国 本土 か らも辺境の である ことなどが 考 えら れ る。 その よ

な 中で数 少 ない 同 時 代 史

と し て

,1925 年

か ら英 領 イン ド

カ リンポン で

発行

さ れたチ ベ ッ ト語

聞 YSM3

巻 1−2 号 (

6−7)

(4}の記

が ある。 以 下に全 文 和 訳 する

まで

各国

平和

と混 乱 が あっ た

またあ り

けてい て

も,

チベ ッ ト

とい

う〕

法 を 具 え る土 地は

平和

っ た が

,前年

チベ ッ ト

兎年)7 月

西

暦 1927 年 8 月

 

9

月)中

チベ ッ ト

ガンデ ンポタン政

の支 配 下に属 す るポユ ル の

首長

カナム

が そ こ に お られ る 貴 族タナン (5)将 軍

mda ’

dpon)

に反 乱の あ

さ ま を 示 して

然に

し たの で

ラサ から

12

月 27 日

1928 年 2 月)

に ラ ク シ ャ

rag sha) 大 将 軍(6〕が兵士 と共に ポメ

面に調 査に出 た。

軍は

で御 病

になっ た た め ポユ ル に到

来ず,

サ ゲ ン

sa ngan

(7) 守 護の

57

(2)

1927〜 28

に お け る ポユ ル

カナム領主の 反虱につ いて

デモ ン

bde

 mon

と カ

khams )

(9>

か ら

僧官

な ど が ポユ ル に

い て小 規 模 な戦い

が 起こっ たとい われ る。 現

ポユ ル 人 が 降

して以

に は

に反し た

けれ ど

も,

これ か らは 〕 反 乱 を し ない とい う約 束 を

け 入れたとい われる情

が 聞こえて

たの で チベ は 以 前のよ うに平 和であ る とい え よ

〔9)

 

こ の よ

に, 記 事に よっ て事 件の概 要 をつ か むこ と は出 来るもの の

,伝

聞の

の で

ら れ る

情報

は 少 な く, 注で示 す よ うに不 正 確 な 記 述 も存 在 する。 従っ て

の研

究書

を用い て

補足

及 び

証 を

る必 要がある。

 

究 書 類の

ち, 中 国 出版の もの と しては

ま ず

PLG

が あ げ られ る。 こ の書は

管見

の 限 りポ ユ ル につ い て唯

の歴

史研 究

単著

であ

件につ いて最 も詳 細 な記 述 が あ る。

 

こ れ に

えて

CHMO

1984

)所収

の β

P

PLP

2

報 告 も

使

用 する。 β

P

丼には ポユ ルに 関

る チベ

文書

か ら

抜粋

と思 われ る

箇所

あ り , これ らは

PLG

に も採 用 されてい る。

PLD

は カ ナム

主の

反乱鎮

後 設け

られた ポ ト

spo stod rdzong 初 代

rdzong  sdod

〔1°)を

め た 人

に よ る

報告

る。 この ほ か,中 国 政 府によっ てそ れ ぞ れ

1951

61

に行わ れ た 現 地 調査の 報 告 書

P1

 

ZC

なども用い る。

 

チベ

ト語

書籍

と し , ま

チベ ッ トの戦

につ いて の研

BCM

のポユ ル

戦争

に関

を用い る。 こ の 中に は, 戦い に参 加 した 元 兵 士の報 告 も含 ま れ てい る。 ポユ ル

戦役

に将 軍と し て

参加

したケ メ

ー ・

ソナムワン ドゥ

khe

 smad  

bsod

 nams

dbang

dus

1901

− 1972)

の自

である

khe

・smad

1982

) も使 用 す

 

英文

とし て は公 文 書 類のほ か

Bailey

1957

 

Kingdon −Ward

(1937

),

Hanbu エ

y −

Tracy

1938

Kaulback (1938

 

Taring

1970

) など当 地 を訪れ た外 国 入に よ る

紀行,

チベ ト人 に よ る

類 を用いる。

 

これ らの

チベ ト語の史 料

研 究 書 類は同 時 代 性に欠 けるもの が

い が

ポユ ル戦

関係者

述 も

る。

性格

の違いか ら記 述 が 異 なること も多い 中 国 側お よ び亡

チベ ッ ト人 側の

史料 も,

この

事件

し て は差 が わ

かであ

り,

英 語 史 料

漢 語 史 料 など と 比

し て

も矛

ない 。 これ ら か ら み て チベ ッ ト語 史 料は, ある程 度 正 確 な歴 史

実を示してい る と み て よい だろ う。 そこ で 本 論で は

最 も詳しい

PLG

本 史

と し

ほ か の

史料

な どと著 しい 違い が ある場 合のみ

その旨 特 記 した 上で

,複

数の

史料

を 比

較検討

して正しい と思わ れ る記 述を示 すこと とする。

1

 

カ ナ

 

ポユ ル は

在 中 国の地 理 区 分で チベ ッ ト

治 区

東南

部に

るニ ンテ ィ

林 芝

地 区 ω) 波 密 県 の領 域 とほ ぼ

致 する。 その呼 称は

ポ地

と言

う意味

ポ ウォ とい

もある

。伝

統 的にポ ト

ー (

上 ポ

東 部

と ポメ

下ポ

西

部)

に分 け られる。 地 域

全体

を ポメ あるい はボ ミと

するこ と もあ り

漢 語

の波

はこれ か ら

られた もの と思わ れ る。

本論

で は主にポユ ルとする(12>。

 

こ の地 を支 配 してい たのは

地の カナム

主{IS)である。

主 はモ ン ツォ

smon  tsho

ラダ

(3)

Japanese Association for Tibetan Studies Japanese  Assoolatlon  for  Tlbetan  Studles

1927〜 28

年 に お け る ポユ ル

カナム領 主の反乱につ い て

lha

 

gra)

(14)

統 治

してい た(15)。 カ ナム領 主につ い ては

ヤル ル ン

吐 蕃

朝第 6

代テ ィ クム

ツェ ンポ

gri

 

gum

 

btsan

 

po)

が大

ロ ン ガム (

long

 ngam

さ れた

後,

ヤルル ンか らコ ンポ

に逃

3

人の

子の

1

人を

BPN

 

52

な ど

。 とはい え

その系 譜は不 明

であ り

伝 説

域 をでない 。

 

こ の カ ナム

主は

1833 年 3

4

道光

十三

十三 日

)作

博 窩

滋 事 派 員 査 辮 折 」 に

その地は

を ポウォ とい い

こ れまで

々 がその 地 を耕 し

各々が その民 を 子と し

チ ベ の管 属に帰 順 してい かっ た( 且6>

 

とさ れ る よ

,19

まで ラサにも

清朝

属し てい なかっ た と

え られる。 こ の地 がガ ン ン ポ タン

政権

属す

ること となっ た

契機

1821 年

のニ マ ノル ブ

死後,

ポユ ル で ワンチュ

ク ラ プテン

dbang

 

phyug

 rab 

brtan

とタ ン ト

ー ・

タポ

thang stod 

kra

 

po)

の間で起こっ た

後継

い である。 こ の

い に よ る

乱で

ポユ ル の周 辺 も

略奪

さ れ た

こ れ に

ガン デ ン ポ タン

清朝

,1834 年

に と もに

を 派 遣 して その解 決にあたっ た。 その

果t ポユ ル はガ ンン ポ タン

政権

帰属

り,

小 規 模のバ タ

ー税

をラサに

るこ と となっ た

には タ ポ に よ る反

こっ た ものの

,1836 年

には 鎮 圧 さ れ

ワ ンチュ ク ラ プテ ンが カ ナム

主となっ て い るc17)。

 

ガ ンデ ン ポ タン政

属 し たカナム領 主だが

その後 も大 幅な

治が認め ら れてい た

ラサへ

つ い て は

毎年,

か な 穀 類 とバ タ

払 う

のみで

そ れ さえ も納めない 時 も あっ た と さ れ る

BPN

53)

。 こ の後, た び た び起こ っ た ポユ ル人に よ る周辺 へ

略奪

し て

も,

ガ ンデ ン ポ タン政

,清

側と ともに消

極 的

な干

し か

わなかっ た

 

況に

変化

が起こっ たの は

,清朝

最 後の 近 代 化 改 革で ある

清末新

政の な か で

チベ ッ トへ の 統 治 強化を 目

し た

政策

,20 世紀

初 頭か ら

階 的に始め ら れて か らで ある。 こ の

僧侶制

な ど

仏教

軽視

した もの であ り

そ れに反 発 するか たちで カム

チベ

,現在

四 川

西

部)

な どを

心に

地 人

院 などの反 乱が

発 し た。 こ れ に

,清朝

側は 四川 軍

川 軍

を派 遣 して反 乱 を 鎮 圧 する とい

強 硬

っ て 臨み

その過 程で

,多

くの 寺 院 が 破 壊 さ れ,

地 民 が 殺

さ れ る こ とと もなっ た

 

こ の

後,1910 年

には 川 軍 部 隊 がラサ 入 りし

ダライラマ

13 世

1913

まで英 領 イン ドに亡

し た。 この

清朝

支 配に対し, 早 くか ら抵

を 開

したのが カ ナム

主であっ た。

 

カ ナム

主の

抗につ い て

清 朝 側 档 案 史 料では

1910 年

,周

辺で

掠奪行為

い た と

TS

62

, 

BCM

65−66

で は,

穀物類

皮革類

徴収

などで

清朝

側が ポユ ル を 抑 圧 した ことを 原 因と して い る。

徴収

清朝

国 家

けての統 治 強 化 策の な かで起 こ っ た

の と

えら れ る

。従

っ て

こ の乱は

「近 代 化 」に付 随 する 「中 央 集 権 化 」に対 する

勢力

抵抗

っ た と も

位置付 け

られ よ

 

反乱

ラサ

び四川から清 朝 軍 が 派 遣 さ れ た

漢 文 档 案 史 料では

1911

7

宣 統三

六 月

ご ろまで に ポユ ル が

圧さ れ た とさ れ てい る

カ ナム

主ペマ

pad

 ma

が 逃 走 し

ロ ユ ル

klo

 

yul

(18)で

地 人に殺 されて い る こ と か ら

圧は

成功

して い たと

てよい (]9) 。

59

(4)

1927

 

 

28

年にお ける ポユ ル

カナム領 主の反 乱につ い て

PK (

282 )

などでは

,在

地の

首長

多 く

保障す

るとい

う約

束の も と降

した が

その後

処刑

さ れた とさ れ る

 

清朝

側は反 乱

圧 に

成功

し た

し か し

革命

が勃 発 し

朝 が 崩 壊 すると

ポユ ル遠 征 軍

にも反乱が起こるこ と となっ た。 その 反 乱の なか遠 征 軍 指 揮 官 羅 長 碕 が 殺 害 さ れ

,統

率を失っ た 軍はラサへ と遁 走 し た これに よ

清 朝の ポユ ル支 配 は 短 期 間で失 われ た とい える。 その

後,

ラサで

チベ ッ ト側 と 旧

清朝

軍の 戦

ま り

チベ ト翻 が 勝 利

,1912

12

に は ラ サか ら

清朝

軍の

党 全

が追

さ れ た

  清朝

追放後,

ポユ ル は

早期

自治

を回

した

ベ イリ

1913 年

にこ の地 を訪 れ た 際 「ポ バ の女 王 た ち

Poba

 

queens)」

紙を送っ てい る こ と か ら

そ れ は

らか である

Bailey

 

1957

70

など

。 その後, 正

なカナム

主にはペ マ の

娘婿

ワ ン チェ ン ドゥ ドゥ ル が 就い た (PL (],

26−27)

 

こ の

ラ サへ の納 税 も再

され た。 これにつ い て は

ドメ

)総督 (

mdo  smad  spyi

khyab)

(20)

チ ャ ムパ ン タ ル

byarns

 

pa

 

bstan

 

dar,1893− 1922)

にポユ ル か ら

使者

が送られ

以 前

の税の

続に加 え

糧確保

のため政

か ら

遣 さ れる

官吏

へ の

協力

らが

承諾

したこ とが

BCM

66

)に見 える。

2

 

 

に よ る

央集権

」策

失敗

わっ た

し か し

追 放 後

ガンデンポ タン政 権 側 も比 較 的 早 くか ら,

地で土

地直轄化

中央集権化」

開始

してい た。 その 中でも ボユ ル は, 断 続 的に続 くカム

面で の ガン デ ンポ タン政

諸 軍

との領 域 争い の な かで

側 か らカム へ の

行路,補給

地 として重

要視

さ れた

 

そ れ らの理

か ら開

さ れ た ポユ ルへ

中 央 集 権 化 」

そ れ は 当 初 消 極 的 な もの

であっ た

ガン デ ンポタン政 権の 中心 人 物ツ ァ ロ ン

ダサンダドゥ ル

tsha rong zla 

bzang

 

dgra

dul

 

1886−

1959

1922 年

ご ろ にポユ ルが 地 形 峻 険であること な どで 攻

しがたい と して

,平

和的

に この

問題

解決

しよ

と し た

。彼

は ま

ず,

実 妹ツェ リン ドルマ

tshe ring sgrol ma

をカ

ナム

主 に

がせてい る(21〕

。続

い て ツァ ロ ン は

1924 年

ころ にカナム領 主 に

領主氏と

が た

2

人 は ポ ウォ に お ら れ ることが 必 要 あるか 否 か。 私 が 思

にあ なた が た

2

人 はラサ に来ら れ るこ とこそ 最 良である。 最 良の政 府か ら

えら れ るのみ ならず

相 癒しい

地 とし てのゾン

荘 園 も与 え られる{n >。 とい

う手紙

を 送っ た。 これ は 私 的 な 関 係 を 利 用 して

カナム

主の ポユ ルか らの

り離 し を 図っ た

の とい

るだろ

う。

 

た だ し, これら はツ ァ ロ ンの

私的

試み 以上の もの で はなかっ た。 同

1924

カ ナム

妻 がラ サ を

れ た

ガンデ ン ポタン政 権 側 は 彼 ら を歓 迎 し

イ ギ リス

えるな ど してい る。 しか し

カ ナム

主が 以

の よ

にポユ ル地 方の首 長 となっ て

徴税 ・

を 行

ことと

税 の

毎年

ガ ンデ ン ポタン 政 権に送 るこ と につ いて は

簡単

論議

し か さ れ な かっ た。

Taring

(5)

Japanese Association for Tibetan Studies Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

1927〜28

に お ける ポユ ル

カナム主の反 乱につ い て

1970

48)

ガ ンデン ポ タン 政

がカ ナム領 主 をい つ で も

出来

小物

軽視

ッァ ロ

ン の

懐柔

にも

しなかっ たことに よ

り,

こ の

題 が 後 まで尾 を引

こと と なっ た とし てい

るQ

 

立 は間 もな

く表面化

し た

。第

2

ドメ

総 督ティ ム ン (  ri smon  nor 

bu

 

dbang

 rgya1

1874− 1954

ル ツ ァ

ケンチュ ン

ゴン ポソナム

ru tsha m   an chung  mgon  

po

 

bsod

 nams

をポユ ルに

遣 し た。 また, メン ト

sman  stod  

pa

 rdo

mam  rgyal

− 1931)

が 第

3

代ド メ

になると

護 衛 部 隊 なども

拡張

さ れ た

BCIV,

 

66

。加

えてル ッ ァ は 約

3

年のあい だ

ポユ ル及 びモ ン ツ ォ

smon  tsho

, ラダ

lha

 

gra

の地

勢,

人口

な どの 調 査

登 記 を

っ た。

 

こ の ル ツ ァ の

赴任

調

査 が, 反 乱の原 因となっ た。

PLG

30−31),

 BPN

54

には

ル ツ ァ の開

し た

調

査 を

カナム

主 が 自

の力 を奪

ものと理

し た た め

,領

主がル ッ ァを 殺

し よ

と し た と さ れ

,BCAr

66

にも無 理に兵士 など を

設置

し たこ とが

戦闘

がっ た と されて い る。

 

で は何

故,

こ の

時期

に なっ て

調

査が

開始

されたの で あろ

か。

1924 年

にラサ を訪

したベ イ

1924 年 10 月 28

報告 (

JOR

, 

LIP

S

lO

lI13

に は, 軍

事改

革の た めに ガン デ ンポ タン

政 権 が 深 刻 な 資

不 足 に 陥っ てい た こ とが

さ れ てい る。 これに

し, ベ イ リ

徴税制度

改 革 して, 税 収 を 上 げる こ とを

対策

と し て

提案

し たと

る。 ポユ ル へ の調 査 が その よ

な 状 況 の中で開 始 さ れ た もの である可 能 性は高い とい

 

さて

カナム 主 に よっ て立 て ら れ た

画である が

ポユ ル内 部 から密 告が な さ れ た こ とで

ル ッ ァ の

と に

ら さ れる こ と となっ た。 彼は

らの

駐屯

地で

る チュ ム ド

chu  mdo

に軍

を 立て て

軍がい るこ とを装い 現 地の服 装を

げる とい

う策略

に よっ て チャ ム ドへ

成功

し た

 

この

事件直後,

ツァ ロ ン はカナム

主に ラ サ に来る よ

紙 を送 り

カナム

主は

と と

も にポユ ル のタン メ

ー (

thang smad

で進んだ。 しかし, そこ でイ オ ン

yid

 

ong

ゾン の

使

者 など に

慰留

され たこ とで

,結局

は その妻ツェ リン ドルマ のみ がラサへ と帰る こ と となっ た。 こ に より

ポユ ル とガ ン デ ンポ タ ン政

権両者

の衝

可 避となっ た とい える。

3

 

反 乱

と そ の

経緯

 

に成

したルツ ァの

報告

けた ドメ

ー総督

ラサへ の

報告後

ジャ

Ga

,第 7)

部 隊 将 軍タ ナ クを

500 名

の兵 士と ともにその

収拾

か わ せ た。 タナク は

ダ シン

m (

la

’  zhing

を 開 き

そこ で ポユ ル地

の農 地, 人口 の調 査

継続

えて

,種

1カル

  al

(23)

ご とに ト クプ

thog 

phud

(24 )として

穀物 1

bre

〔25 )をカナム

経 由

で ガンデ ン ポタン政

に納め させ る とい

う方

針を決

し た。

 

その上で タナク は カナム領 主 など を召

して

宴会

を 開

き誓約

んだ

。加

えて

,領

主の

大臣

イオ ン

ノ ルブ ドン ドゥ プ

yid

ong  nor 

bu

 

don

 

grub)

自身

書記

る ことな ど も

取 り決

め た。 しか し, 和 解は表 面 的 な もの に過 ぎ なかっ た。

 宴会終

後,

ショ

ワに

っ たカ ナム

主の も とに タ ナ ク将 軍か ら

(6)

1927〜 28

お け

つ いて

こ こ に

院 と地 域の

有力者

たちを召 集 したこ と と合わ せ て土 地の調 査 を 始 めるの で領 主 本 人が

ら れ る こ と に

わ せて貴 方たちに多 種 多 様 な 升と秤 が あるの を 統

し な ければ な ら ない ので

緒に持っ て くる上で領 主 自身 が

決 定され た

日 に調 査 地に

か に

しい と

し 上げる飼 。 とい

う手

紙が送ら れ た。 こ こ で示 されるの は 土 地 調 査 と 度 量

の統

につ い て で

,税制改

環と して な され た要 求とい える。 こ の 要 求に対 し

カ ナム

主は

書簡

けた

使者

4

人を殺 害t 西 暦

1927

(チベ ッ ト暦 火 兎 )

9 月 (コ7)

タ ナ ク将 軍に急

仕掛

けた

その 際

ル ッ ァ ケンチ ュ ン の配 下の 役 人 数 入 も殺 さ れ てい る

 

タナク将 軍はダシンに おい て

2

日間 抗 戦 を行っ た

。彼

らは

戦した もの の

,先頭

に立っ てい た将 軍 が

2

日 目に

殺 さ れると

軍は

統率

っ て カン ユ ル

  ang 

yul)

リウ ォチェ

ri 

bo

che

に逃 走 し た

この 戦 闘に よ る

双方

被害

史料

によ り

してい い が, こ こ で は

BCM

66)

及 び

BPA

57

さ れ る

傷者

ユ ル軍

200

ジャ連 隊

90

名とい

数 字 を あ げて お く

 

タナ ク将軍の 戦死 を 受けて

ガ ンデ ン ポタン政権 側は ドメ

総 督メ ン ト

パ の計 画の もと

南 北か ら軍 を派 遣 して ポユ ルに包 囲戦 をかけるこ と となっ た

この軍

の具

内容

につ い て

史 料 を比 較

検 証 し た

えで述べ な ら ば

ョパ ド

sh。 

pa

  mdo

)・

タ ク

stag

)・

lho

)3

ゾンなど から地 方 軍

1000

人 を召 集 して ケ ンチュ ン ダワ

mkhan  chung  zla 

ba)

の配 下 と し

キュ ン トル峠 (

khyung

 

gtor

 

la)経

由で北

面か ら チュ ム ドに

軍さ せ た

軍ドカル ワ

ク シ ャ

配 下の ニ ャ (nya

第 8

部 隊 500

が ガ ン リン マ

sgang  ring  ma

)経 由

で 送ら れる

方,

テ ィ ン リ

ding

  ri) 軍ガ

ga,

3)部

隊 500 人は百 人

隊長

ア ウ

a

u

)氏

な どの

指揮

もと ポ ト

ー ・

ドゥ ン峠 (

dung

 

Ia

) 経 由でユ リ

g−yu

 ri

)方

面へ と進ん だ

将 軍タ ナ

ジャ部 隊には新 任の将 軍ツ ォ ゴ (mtsho  sgo  

bsod

 nams  

dbang ’

dus,

1891

1939?

が 配 さ れ

ゴ ッェ

峠 (

sgo 

brtsegs

 

la

でチュ

ゾ ン

chos  rdzong )方 面に派 遣 さ れ た

南 西 方 面 か らは将 軍ケ メ

配 下のダ シ

grwa

 

bzhi

500

名 がコ ンポ

ル ナン (

klu

 nang

経 由で タン メ

に入っ た

BCM ,

66

 

BPN ,57,

 

PLG ,35−36)

 

で ガ ンデ ン

ボ タン政 権 が 動 員 した兵 士 は

ガ部 隊

部 隊 ダシ部 隊の そ れ ぞ れ

500

人に

加え,

1000

人と ジャ部 隊の残 存 兵 力 を合 わせ た

3000

名 弱ほ どであっ た。 これ は 人 口 の少 ない チベ ッ トで はか な りの 大 部 隊とい え

政 権 側の 比 較 的 高い 動 員 力

統 率 力 がみ て と れ る。  

ポユ ル側は兵の召 集 す ら ま ま な ら な かっ た。 カナム領 主の 大 臣で も あっ た イ オンゾン の長 ドン ドゥプ は

の 解 決 交 渉の た めに ラサに行っ た ま ま 帰っ て きてお らず

指 導 者 不 在 の イ オ ンゾンは戦

参 加 を見 送っ た。 チュ

ゾンなども

自分 た ちは ガンデ ンポタ ン政 権に所 属し てい る と し て

戦 闘に干 渉しなか っ た。

 結

果と して

カナム

主 側はまとも な抵

も 出 来 なかっ た。 チュ ム ド

ユ リ

寺付

近で テ ィ ン リ

軍とユ リ

俗の あい だで戦 闘 が

わ れ

テ ィ ンリ

83 名

と ポユ ル側

40

人 が 死

し た もの の

そ れ 以 外に戦い はなかっ た  。 その他の部 隊は ほ ぼ無 抵 抗で シ ョ

ワに入っ てい る

 

敗 北 を うけて カナム領

はロ ユ ルへ と

逃走

した。 ケメ

精鋭

100

を率

い て

,彼

追跡

(7)

Japanese Association for Tibetan Studies Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

1927〜 28 年

に お け る ポユ ル

領 主の反 乱 につ いて

あたっ た もの の

,領

主はイン ド

ア ッ サムへ の逃 走に

成功

し た

khe

 smad  

1982

, 

12

)。彼

ア ッ サムに おい て英 国の保 護 を受 けて生 活 し

,3

年 後の

1931

年 にロ ユ ル に引 き

げたの ち

飲暴

の果て病 死 した とさ れる。

4

 

結 果

 

戦い はガ ンデンポタン政 権の 圧 勝 に

わっ た。 政

側は

カナム

主こそ

した

の の

そ の配 下の首 長 た ち を捕 ら え た。 彼 らは 処 刑 さ れ な かっ た が

ラサへ と連 行 され た。  ワンチェ ン ドゥ ドゥ ルには 娘 がいたが

カナム領主の位は ガ ンデ ンポ タン政 権によっ て廃 止 さ れ

彼 女 や その

族 に継 承 さ れ ること は な かっ た。

Kaulback (1938,133)

に は

彼 女 が 土 地 の支 給と

定の待 遇 を受 けてポユ ル で生 活 して いた もの の

人 質の よ

な 状 態にあっ た とされ てい る。

 

戦 後

ドメ

総 督メ ン ト

自 身 が ポユ ル地 方 を訪 れ

兵 士たち を 労っ た。 直 後

将 軍ツ ォ

僧 官ム パ (ram  

pa

 thub 

bstan

 

ku

 1 mkhyen )

2

人の手で 地 勢 調 査 が 再 開 さ れ た。 護 衛 に は

ジャ部 隊

500

人 が あ た り

その 他の部 隊 は ポユ ルか ら撤 退 した

BCM

, 

68

, 

BPN

58)

。 早 期に調 査 が 開 始 され たこ とか らみて も

ガ ンデ ンポタン政 権 側 が ポユ ル にお け る徴 税 法の 切 り替 え を 急 務 と してい こ とが 見て取 れる。   政 権 は 同 時にポユ ル の再 区 分 を行い

ポ ト

ンと

チュ

ゾン

イ オンゾン の

3

ゾンを設 け た。 これ ら

3

ゾ ンは チャ ム ド統 轄 とさ れ

その長ゾンポンはガ ンデ ンポタ ン政 権 か ら直 接に 任 命 さ れ

そ れ まで の在 地 領 主 はゾ ンポン の下 に 置 か れる こ と となっ た。 これ らゾ ンポンは

3

年の任 期 制であ り

民 衆の要 請 が あっ た場 合に任 期 延 長 が 認め ら れ た。 こ れ に よ り

政 権 側が ポユ ル を 直 接 支 配 する体 制 が 整っ た といえる。 調 査 終 了 後 には

ポユ ル長

の職 も新 設 さ れ

それ に は チュ

ゾ ンの元 財

務官

シェ

bshad

 sgra

が任

さ れ た。

 

この

ちポユ ル長

ポユ ルの僧 俗か らの要

けて

1932

に廃止 され た。 その の ち

ガンデンボ タン政 権 側は

ゾ ン ド

の み にポユ ル を統 治 させ る こ と に

守 護 隊 もジャ 部 隊

50

入のみとした。

1951 年

の段 階におい て

チ ュ ム ドゾ ンには チ ャム ドか ら派 遣 さ れた ゾン ポン

チュ

ゾ ン と イ オン ゾンに はその代

赴任

し てい た こ とが

PK

288−289)

に記 され てい る。 この

制は中 国 軍 進 駐 まで継 続 し てい た とい

る。

  調

決定

さ れた

税制

につ い て述べ る。 ボユ ル の

3

ゾン と

モ ン ッ ォ な どの地

と し て は

ト クプ

とし て

種 1

カル

の土 地ごとに

穀物

3

デと

ディ と

ラニ

ra   nyag

(29>とし てゾモ類(3ωごとにバ

ー 2

nyag

ギ ャプド

rgyab  

dod )

(3D とし て

雌牛

ごとに

1

ショ

zho

(32)な ど をチ ャ ム ドの

兵糧 局

に納め る こ とが

め られ た。 モ ン ッ ォにつ い て は 上 述の

えて

,穀物

570

カル ほど も

わせ て

払 う

こと とさ れた。 ロ ダ地

で は人ごとに

毎年

1

タ ム カ

Tam

dkar

セ ラ

byes

)学

堂の

理 と

チ ュ ム ド

の代理

2

人を経

し てラチ ャク

bla

 

phyag)局

(33 )に入れ ることが

決定

さ れた。 この よ

に し て

ガン デン ポ タン政

の 目

っ た ポユ ルの

徴税

シ ス テム

直轄化

現し たとい

 

た だ し

ポユ ルの

各寺

院の

領に

対す

特権

はある

程度維持

さ れ てい た。

例に即し て

ト ク

種 1

カル

の土 地そ れ ぞ れ で

1

か ら

2

穀物

えば よい と さ れ てい たのである。

(8)

1927〜 28

お け

主の反 乱につ い て

一方.

ラニ ャ ク と ギ ャ プ ド

は ほ か と同じ よ

に払

こ と とされ た。

結論

  反 乱の原 因は

大 幅 な 自治 権 を持っ て い たカナム領 主に対 し

軍 事 力 強 化のた めに深 刻 な 財 政 難に陥っ て いた ガ ンデ ンボ タン政 権 が 税 収 確 保のための土 地 調 査 などを行っ たこと にあっ た。 こ こ か ら

反 乱 をガンデ ンポ タン政 権の 「中 央 集 権 化 」へ の在 地 勢 力の抵 抗 とするス ミ ス氏の 説 も妥 当とみて よいだ ろう。   その

この反 乱を即 座に鎮 圧 したのは強 化 さ れた軍 事 力で あっ た。 制 圧 後

ガンデンポ タン政 権は任

制の官 吏 を 配 置

税 制 も整 備 して

在 地 勢 力の権 限 を大 き く制 限 し た。 こ こか らガンデンポタン政 権の統 治 強 化 策 は

定の成 果 を 挙 げてい た とる。   換 言 す れ ばこれ は

「領 域 」 を 守るた めの 軍 事 改 革に必 要 な 資 金 を

税 制 改 革 を 中 心 と し た 「中 央 集 権 化 」によっ て確 保 する。 そ れに対 して起 き た 在 地 勢 力の反 発は強化 され た 「政 府 軍 」によっ て抑 止 し

更 なる領 域の直 轄 化 を す す めるとい

世 界

地の近 代 化に共 通 する構 造 が チベ ッ トで も見て取 れるとい こ とである。   さて

こ こで疑 問 点 と して残 るのが

ガ ンデンポ タン政 権 が 確 かに 「中 央 集 権 化 」 を進 めて い た にもか かわ らず

そ れに対 する地 方 勢 力の反 乱につ い て の まとまっ た記 述 がポユ ル以 外に み られず(34 }

その乱 も小 規 模 な ま ま終 結 して い る ということである。 これは同 じ く 「中 央 集 権 化 」 を 目指 した清 朝の改 革 が

ポユ ル の み な らずチベ ッ ト各 地で の反 乱 を 引 き起こ したのと対 照 的である。 こ れ につ い ては

双 方の仏 教へ の態 度の違いが その差 を生 ん だので はないか と思 わ れ る。

清朝

革とそれへ の チベ ッ ト側の 反 応 を みる こ とで

こ れを 分

する こ と を

今後

の 諜 題とす る。

地 図

西 蔵 自治 区 測 絵局 『西 蔵 自治 区地 図冊 』 中国地図出版社

,1996

p

163

を も と に 著 者 作 成

(9)

Japanese Association for Tibetan Studies Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

1927

28 年ユ ル

カナム領主の反乱につ い て

考文献

略号表

チベ ト文 BCM

BPN

DG 鉱 矼 ∬

M

dwang slob  mda

 spyi

thus rgyahtse  mam  rgya置

dbang

dus,

 

bod

 ,

gyal

 

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2003

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 In CHMO  l984

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CHMO

 

1984.

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CHMO

西 藏

治 区政協 文史

料研 究

員 会

 

1984

 

うα絢 φ 畷 鰰 1” o励 伽 訪

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。曲 eng   西 藏 人民 出版 社。

  esmI 雌

 

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1901−1972

 

1982

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 Library of

         Tibetan WorkS and Archives

中国文

π ” PK 西 藏 社会歴 史 調査 資料 叢 刊 編輯組 編 『藏族社 会歴史調査

四)』西藏人 民出 版 社

1990

西 藏 社 会 科 学 院 西 藏 学 漢 文 文 献 編 輯 室 編 『西 藏 地方志 資 料集 成 第二 集 』 中 国藏学 出 版社

1997

。 王輔仁

林 耀 華 「波 密 簡述 ⊥ 朱 麗主編 『王輔 仁 與藏 学研 究』 中央 民 族 大 学出版社

,2006

所 収

初 版 : 『中 国 民 族 問 題 研 究 集 刊』 第 2 輯 中央民 族 学 院 研 究 部 編 印

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1985

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  2004 

「波密 史料礼 記」 『西 藏 研 究亅 2004 年

3

pp

51−

60。 欧

IOR

     

lndian

(〜

fice

 Reeerds

Bai

且ey

 

F.

M .

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fibet

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Davis

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R

 

1926

 

The Riddle ・

fthe

 Tsangp・ G・rges Edward Arnold &Co

.(

訳 :金 子 民雄訳 『ツ ア ンポ

峡 谷の

     

謎』岩 波 文 庫

2000

Lazcano,

 

Santiago

 

Rita

 

Gr

εmda (

Tr.

  2005  

Ethnohistoric Notes on the Ancient 

Tibetan

 

K

血gdom  of sPo 

bo

 and 

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重s 

Infiuence

 on 

The

 

Eastern

(10)

1927〜

28 年

領 主の反 乱 につ い て

      Hima !ayas

 

Revue

 

d ’

Etudes

 

Tib6taines

 7

 UMR  8047 Tibet)

 pp

41

63

Petech

 Luciano

  l973 

濯厂競 oc厂α (:y and  Government in Tibe’1728

−195

Istituto

 

Italiano

 

per

 

il

 

Medio

 ed 

Estremo

 

Oriente

Sangyay,

 

Thupten,

 

Tsepeg

 

Rigzin

TL

  1986  

Glossary of the

Govemmcnt

 Monastic alld Private Taxation 

ln

 Tibet

 The 7ぎわθ’」∂urnal  6

1,

         pp

41

47

Schwiegar

 

Peter

 

2002

 

‘‘APreliminary

 Historical 

Outline

 ofthe 

Royal

 

Dynasty

 ofsPo

−bo”,

 

In

 Tractata Tibet’ca et Mongo ”c

         (eds

K

 Kollmar

Paulenz y C

 Petcr

 Harrassow董tZ Verlag

 

pp.

215

229

Smith

 

jr,

 Warren W

 

2009

  Tibetan Nαtion:1d 

History

励 θ’oη/肋 ”o砌

lism

 and  

Sino−Tibetan

 

Rela

iolls

 Rupa

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 Rinchen Dolma

  l970  

Daughte

厂ofTibet

 J

 Murra} 

(1) (2) (3) (4) (

5

) (6) (

7

) (8) (

9

) ダ ラ イ ラマ

5

世 時 代 に 成 立 し た ダイ ラマ を 中 心 と す る 政権。 ダライラマ政庁な ど と呼 ば れ

現 代 中 国で は西 藏地方 政 府ともされ る。 本論で は伝 統 的呼 称に従い ガンデ ンポ タン政権とする。 こ こに お け る 「チベ ト」 は

雍 正 ト分 割マ の所 属 と さ れ た 地 域 と す る。 こ れ は現 在の 「西 藏 自 治 区 」 にほ ぼ相当する。 チベ ッ トが どの範 囲を指 すの か は

政治的問 題と なっ て お り規 定 困 難である。 また

本 論で述べ る 通 りポユ ル 自体

1928

年まで高い 自治 を維 持 してお り

ガンデ ンポタン政権の完全統治 下 とい い 切れ ない 部分もある

そのた め本稿で は 「」付きの 「チベ ッ ト」とし た。

この戦 争につ い て は

ポユ ル に関する通史的 研 究の な か に記 述がある。 英 語の もの と して は

Schwieger

(2004 )及び

Lazcano

2005

)がある

両 者ともに英 語 史料は多 く用い られ てい るもの の

前者は

PLG

を チベ ト語 史 料 と して 比 較 的 無 批 判 に 使 用 し

後 者もチベ ッ ト語史料 を 用い

前 者を その 代 用として い る た め

PLG の記 述に 関 し漢 語 史 料など に よ る検証 が な さ れてい ない 部 分がある

漢語のものとし て は嘉措 頓 珠 (

1985

楊 (

2004

)など がある。 この ほ か

チベ ト語の もの

史 料 的 性 格の強い ものにつ いては別 記 する。 本 新聞は月刊

,1925

年か ら

1963

年までキンノウル生 ま れの タルチン Tharchin 1890

1976)に よっ て刊 行さ れ た。 この号は西 暦 1928 年

4

21

日 (チベ ッ ト暦 土竜 年 3月 1日

但 し土竜年の 記 載は な し)発 行。 同年 5 月 20 日 (4 月 1 日)の 日付 もあ り

こ の号は2 ヵ月分 まとめ て出 さ

れ たと考 え られ る。 原 本 は ダラムサラの Library ofTibetan  Works and  Archivesの所蔵である。 な

コ ロ ン ビア大 学の サ イ ト (http:〃www

columbia

edu /indiv/eastasian/tibetan/

tharchin

html

2011

年 7月 11日 ア ク セ ス)に おい て本新 聞の紹 介と

デジタ ルフ ァイ ルの公 開が な さ れ てい る (た

だ し

今回 用い た号は収 録され てい ない

文 中 で は タ ナン (rta nang )と 表 記 さ れ る が

発 音の類 似 お よ び 役 職

行 動の

致 か ら タ ク ナ

stag naとみて 間違い ない。

ラ クシ ャは家 名

ドカ ル家とも さ れ る。 本 名 は テンジ ンナム ギャ ル (

bstan ’

dzin

  rnam   rgya1

1886−1935

)である (

Petech

 

1973,77−78

こ こ で彼は健 康 面で の問題のため戦 闘に出な かっ た と さ れ る が

これ は

ダ シ部 隊の将 軍が

前 任 者の健康 不 安のた め ケメ

に代え られ たこ と (khe smad  l 98211)と誤解し たもの と考え られ る。 現在の チペ 治 区ゴ ン ジョ県の

地 方。 カ ム は チベ ッ トの伝 統 的地 理区分の

1

現 在の地 理区分におけるチベ ッ ト 自治区東部 か ら四 川 省西部を中心 とした 地 域

(11)

Japanese Association for Tibetan Studies Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

1927〜28

に お け る ポユ ル

カ ナム領 主の反 乱 につ い て

(10) (

ll

12

13>

14

15

16)

(17) (

18

19>

20

) (

21

22

> ) )

3422

( ) ) 562 ウ 6 ( ( (

27

) (28 )

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dug

 

Pa

zhu 〃 ゾンは行 政 区

地 方 区 分 名。 ゾ ン ド

は ゾン駐 在 官の 意 味で, ゾ ンポン (rdzong  dpon,ゾン長 官) あるい は その代 理の ことを指 す。 ニ ンテ ィ地区はチベ ッ トの伝 統 的地 理区分におけるコ ン ポ (

kong

 po )を中心とし た地域。 ポユ ル および 周 辺の地 名に関し て は本 文 末の地 図参照

カ ナム は ポユ ル地方の古 都

ショ

ワとい う別名もある (正確には

カナムはショ

ワか ら わず か に 離 れ た場 所に あ る

。 本 論では ショ

ワを用い る。 カ ナム領主の称 号は多 くデ パ (sde pa )と さ れ

これ は 「領 主」

「首長」な ど と訳 さ れるが

「王」

rgyal  

po)

と称 さ れるこ と も ある

本 稿ではカナム領 主の称号 を 「領主 」とす る。 モ ン ツォ

ラ ダ は現在のペ マ

墨脱 )

部 にあた る。 ペ マ

コ は ポユ ルの南

イン ド との 国境 地 帯にある広 大 な未 開発 地。 そ の統 治は

地方の デパ を 領 主が統 轄 する 「封建的」な もの であっ たと考えら れ る

こ れ につ い ては

,Carras

◎o (

1959

137−138

) 参照。 名日 博

窩,

向来

耕其地

,各

子其 民

不 帰唐古武管属

TS

84

事 件につ い て は ZC (132)に まと め られて い る ほか

「道 光十三年至 光緒二 十 六年間 波密事件奏 牘二 件 」 (

TS,8

102

) 中に档 案 史料が ある。 

PLG

にも記 述 が あるが

漢 文 史 料の 記 載とは 大きく異なっ てい る。 ロ ユ ル は ポユ ル よ り南部 に 位 置 す る

イン ド と 中 国 間の国境 未確 定地 域

劉 賛 廷 著 「波 密 日記」

TS,34

42 )

及び 「波密 事件 奏 議公牘 」 (TS

62

76 )な ど参 考

ドメ

総 督はカ ム地方の統 括 を目的と し て

1913

年ごろ に 設 置 さ れ た役職。 1918 年に ガンデンポ タン政権が中国 系軍閥からチ ャム ドを奪 還し て 以降は

その 地 を駐 屯地とした。 こ の ことにつ い て は 1923

24 年にポユ ル を 探 検 したキング ドン ウォ

ド が記 述 を残し てい る (

Kingdon−Ward

 

1926,146

)。 また

ツ ァロ ン家の

員タ リン の Taring

1970,48

な ど に 嫁 入 りの 顛 末が記さ れてい る。

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BPN

54

質量の単 位

1カル

13.

6

キロ。 トクプ

は土 地の収入 と は無関係に な さ れ る穀 類 税

あるい は 私 的 な 地

管理者あ るい は臣民か ら僧院及び 地域の首長へ と納め ら れ る総 収 入か ら取ら れ る税 (Sangyay 1986 , 45)。 こ こ では前 者 を指 すか

質 量 単位

,1

カ ル

≡20

デ なので約

680

グ ラム。

di

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BPN ,

 

55

タ ナ ク殺 害 事 件の発生年につ い て は諸説 あるが

同時代 性の高い rSM の ほ か

 PLG

 BCM な ど

1927

年と してお り

1927 年で間違い ない と思 わ れる

PLG

36)

のみ はこの際

ダシンにおい て も2 日間ほど戦 闘があっ た とするが 将軍タナ クと カ

ナム と の戦闘と

交戦 場 所 及 び 期 間 が

致 しており

そ れ と混 同してい る可能 性が高い。

(12)

1927〜 28

る ポユ ル

カ ナム主の反 乱 につ い て

(29 )

30

) (

31

> (32 ) (

33

) (

34

) 動物の角

1

つ ご とにバ タ

ー 1

ニ ャ クを支 払 う税。 ニ ャ クは 重 量 単 位で約 120 グラム 。 デ ィ は雌 ヤ ク

ゾモ はヤク と牛の混血種の 雌。 ギャプ ド

とは

負 担 を金銭で肩 代わ りする こと。 ショお よ び以下に で るタムカ は チベ ッ トの通 貨 単位。 ラ チ ャク は肉

バ タ

ー,

金 銭による税 金 収 入 を様々 な 政権組 織に分 配する機関。 モ ン ラ ム祭の 時 の寄付 を各所 に 分 配 す る任 も負う (Sangyay 198644 )。

こ の ような直轄 化の事 例と しては

パ ン チ ェ ンラマ

6

9

) 世 (

blo

 

bzang

 thub 

bstan

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kyi

 nyi

ma

,1883− 1937

)の

1923

年 中 国亡命 後にお ける

その所領のガンデ ンポ タン政 権 に よ る 「没収 」 などがあ げられ る。 な お

ポユ ル な ど東チベ ッ トは も と も と反 乱 が多い地 域で あるが

13世帰 還後

その死 没 まで

ガンデンポ タン政権に 対 し ての乱 は少ない 。 清 末の川 軍占領で

在 地 勢 力 の

くが損 害を受け てい たこ とが その背景 に あっ たのかもし れ ない 。

謝  

 

本 論 文の成 に おい て は

ツ ルテ ィ ムケ サン先生, 荒 牧典俊先 生

,Monica

 

Bethe

先生

福田洋

三宅 伸

郎 先生

手 塚 利 彰 先生ほ か の御教 示を受 けた

ま た

YSM を 始 め とする史 料の収 集 には

松 下 幸之助 記 念 財 団の御 助成 があっ た。 こ こに記して謝す。

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