Japanese Association for Tibetan Studies Japanese Assoolatlon for Tlbetan Studles
1927
〜28
年
に お
け
る
ポ
ユ
ル
・カ
ナ
ム
領
主
の
反 乱
に
つ
い
て
一
ガ
ンデ ンポ タ
ン政権
に よ る
「
近 代 化 」
と
そ
の影響
一
日
高 俊
序
1927
〜
28
年
に かけ
, チベ ッ ト南 東 部の ポユ ル(
spoyul,
ポ ウォ,
ポメ〉
で領主 ワンチェ ンドゥ ドゥル
(
dbang
chenbdud ’
dul
,?− 1931)
の反 乱が お こっ た。 この 乱はガ ンデ ンポタ ン(
dga’
ldan
pho
brang
)政権軍
(1)に より
即 座に鎮 圧 さ礼 以 降ポユ ル は政権
側が任命
した官吏
に よ り統
治 され る こと となっ た。 こ の反 乱 は 小 規 模で は あっ たが
,清朝崩壊後,
ダ ラ イ ラマ13
世(
thubbstan
rgya mtsho,1876
−1933)
が2
度 目の亡 命よ り帰 還 した 1913年
以降
に おい て,記
録の残る数
少
ない「
チベ ッ ト」 内ωで の 武 装 衝 突の1
つ である。こ の
時代
, ガンデンポタン政 権 は, チ ベ ッ トの「
近代」化
を 目指す改革
運動
を 限定
的 なが ら行
っ てい た。 そこか らSmith
(1996
,218)
は,
この動乱
をガンデ ンポタン政 権に よる中央集権
化
政策
に対 す
る反抗
と意 味づ けてい る。 ス ミ ス氏の説に依る な ら ば,
こ の反 乱はチベ ッ ト「
近代」化
運 動の地 方へ の 影 響と,
それへ の在
地勢力
の反 応が現
れ てい る重 要 な もの とい える だろう
。そ れに もか か わ らず
,
この事件
に対す
る研究
は多
く ない 〔3)。 従っ て,
ス ミ ス氏の主張
も仮説
の域 を 出てい ない もの で ある。 そこで本稿
で は, これ につ い て分析
し検
証す
る。
その上で,
チ ベ ッ ト 「近 代 化 」 史 に お ける この反乱
の位置
づけ
を行
い たい 。事件
に関す
る史 料 は 少 ない 。 その理由
と し て は,反乱
その ものが 小 規模
であっ たこ と, ポユ ルがラサ か ら も英 領 イン ドか らも中 国 本土 か らも辺境の 地である ことなどが 考 えら れ る。 その よう
な 中で数 少 ない 同 時 代 史料
と し て,1925 年
か ら英 領 イン ド・
カ リンポン で発行
さ れたチ ベ ッ ト語新
聞 YSM3巻 1−2 号 (
6−7)
(4}の記事
が ある。 以 下に全 文 和 訳 する。
今
まで各国
で平和
と混 乱 が あっ た,
またあ り続
けてい ても,
チベ ッ ト〔
という〕
法 を 具 え る土 地は平和
であ
っ た が,前年
(
チベ ッ ト暦
火兎年)7 月
(
西暦 1927 年 8 月
一
一
9
月)中
に チベ ッ ト大
ガンデ ンポタン政権
の支 配 下に属 す るポユ ル の首長
カナム氏
が そ こ に お られ る 貴 族タナン (5)将 軍(
mda ’dpon)
に反 乱の あり
さ ま を 示 して突
然に殺
し たの で,
ラサ から12
月 27 日(
1928 年 2 月)
に ラ ク シ ャ(
rag sha) 大 将 軍(6〕が兵士 と共に ポメ方
面に調 査に出 た。〔
将
軍は〕
道中
で御 病気
になっ た た め ポユ ル に到着
出来ず,
サ ゲ ン(
sa ngan)
(7) 守 護の一
57一
一
1927〜 28
年に お け る ポユ ル・
カナム領主の 反虱につ いて一
俗
官
デモ ン(
bde
mon)
と カム(
khams )
(9>方
面か ら僧官
な ど が ポユ ル に動
い て小 規 模 な戦いが 起こっ たとい われ る。 現
在
ポユ ル 人 が 降伏
して以前
に は法
に反し た〔
けれ ども,
これ か らは 〕 反 乱 を し ない とい う約 束 を受
け 入れたとい われる情報
が 聞こえてき
たの で チベ ッ ト は 以 前のよ うに平 和であ る とい え よう
〔9)。こ の よ
う
に, 記 事に よっ て事 件の概 要 をつ か むこ と は出 来るもの の,伝
聞のも
の で得
ら れ る情報
は 少 な く, 注で示 す よ うに不 正 確 な 記 述 も存 在 する。 従っ て,
現在
の研究書
を用い て補足
及 び検
証 をす
る必 要がある。研
究 書 類のう
ち, 中 国 出版の もの と しては,
ま ずPLG
が あ げ られ る。 こ の書は管見
の 限 りポ ユ ル につ い て唯一
の歴史研 究
の単著
であり
,事
件につ いて最 も詳 細 な記 述 が あ る。こ れ に
加
えて,
CHMO
(
1984
)所収
の βP
賦PLP
の2
報 告 も使
用 する。 βP
丼には ポユ ルに 関す
る チベ ッ ト文
公文書
か らの抜粋
と思 われ る箇所
があ り , これ らはPLG
に も採 用 されてい る。PLD
は カ ナム領
主の反乱鎮
圧後 設け
られた ポ トー
ゾ ン(
spo stod rdzong )の初 代ゾ ン ドー
(
rdzong sdod)
〔1°)を勤
め た 人物
に よ る報告
であ
る。 この ほ か,中 国 政 府によっ てそ れ ぞ れ1951
年,
61年
に行わ れ た 現 地 調査の 報 告 書P1
(,
ZC
なども用い る。亡
命
チベ ッ ト人側
が出版
したチベ ッ ト語書籍
と しては , まず
チベ ッ トの戦争
につ いて の研究
書
BCM
のポユ ル戦争
に関す
る章
を用い る。 こ の 中に は, 戦い に参 加 した 元 兵 士の報 告 も含 ま れ てい る。 ポユ ル戦役
に将 軍と し て参加
したケ メー ・
ソナムワン ドゥー
(khe
smadbsod
namsdbang
’dus
,
1901
− 1972)
の自伝
であるkhe
・smad
(
1982
) も使 用 する 。英文
史料
とし て は公 文 書 類のほ か,
Bailey
(1957
),
Kingdon −Ward
(1937),
Hanbu エy −
Tracy(
1938)
,
Kaulback (1938
),
Taring
(1970
) など当 地 を訪れ た外 国 入に よ る紀行,
チベ ッ ト人 に よ る伝
記 類 を用いる。これ らの
う
ち,
チベ ッ ト語の史 料・
研 究 書 類は同 時 代 性に欠 けるもの が多
い が。
ポユ ル戦争
の関係者
の記
述 もあ
る。性格
の違いか ら記 述 が 異 なること も多い 中 国 側お よ び亡命
チベ ッ ト人 側の史料 も,
この事件
に関
し て は差 が わず
かであり,
英 語 史 料,
漢 語 史 料 など と 比較
し ても矛
盾
は少
ない 。 これ ら か ら み て チベ ッ ト語 史 料は, ある程 度 正 確 な歴 史事
実を示してい る と み て よい だろ う。 そこ で 本 論で は,
最 も詳しいPLG
を基
本 史料
と し,
ほ か の史料
な どと著 しい 違い が ある場 合のみ,
その旨 特 記 した 上で,複
数の史料
を 比較検討
して正しい と思わ れ る記 述を示 すこと とする。1
ポ
ユ
ル
地
方
と
カ ナ
ム
領
主
の
来
歴
ポユ ル は
現
在 中 国の地 理 区 分で チベ ッ ト自
治 区東南
部にあ
るニ ンテ ィ(
林 芝)
地 区 ω) 波 密 県 の領 域 とほ ぼ一
致 する。 その呼 称は,
ポ地方
と言う意味
であ
り,
ポ ウォ という
別称
もある。伝
統 的にポ トー (
上 ポ,
東 部)
と ポメ(
下ポ,
西部)
に分 け られる。 地 域全体
を ポメ あるい はボ ミと称
するこ と もあ り,
漢 語名
の波密
はこれ か ら取
られた もの と思わ れ る。本論
で は主にポユ ルとする(12>。こ の地 を支 配 してい たのは
在
地の カナム領
主{IS)である。領
主 はモ ン ツォ(
smon tsho>
,
ラダJapanese Association for Tibetan Studies Japanese Assoolatlon for Tlbetan Studles
一
1927〜 28
年 に お け る ポユ ル・
カナム領 主の反乱につ い て一
(
lha
gra)
(14)も統 治
してい た(15)。 カ ナム領 主につ い ては,
ヤル ル ン(
吐 蕃)
王朝第 6
代テ ィ クムツェ ンポ
(
gri
gum
btsan
po)
が大臣
ロ ン ガム (long
ngam)
に殺
さ れた後,
ヤルル ンか らコ ンポ地
方
に逃げ
た3
人の息
子の1
人を祖
とす
る説
があ
る(
BPN
,
52
な ど)
。 とはい え,
その系 譜は不 明確
であ り伝 説
の域 をでない 。こ の カ ナム
領
主は1833 年 3
月4
日(
道光
十三年
正月
十三 日)作
の「
博 窩
滋 事 派 員 査 辮 折 」 に,
〔
その地は〕
名
を ポウォ とい い,
こ れまで各
々 がその 地 を耕 し,
各々が その民 を 子と し,
チ ベ ッ トの管 属に帰 順 してい なかっ た( 且6>。
とさ れ る よ
う
に,19
世紀
まで ラサにも清朝
にも
属し てい なかっ た と考
え られる。 こ の地 がガ ン デン ポ タン政権
に属す
ること となっ た契機
は,1821 年
のニ マ ノル ブ死後,
ポユ ル で ワンチュク ラ プテン
(
dbang
phyug
rabbrtan
)
とタ ン トー ・
タポ(
thang stodkra
po)
の間で起こっ た後継
者
争
い である。 こ の争
い に よ る混
乱で,
ポユ ル の周 辺 も度
々略奪
さ れ た。
こ れ に対
し,
ガン デ ン ポ タン政権
と清朝
が,1834 年
に と もに軍
を 派 遣 して その解 決にあたっ た。 その結
果t ポユ ル はガ ンデン ポ タン政権
の帰属
となり,
毎
年
小 規 模のバ ター税
をラサに送
るこ と となっ た。
翌年
には タ ポ に よ る反乱
が起
こっ た ものの,1836 年
には 鎮 圧 さ れ,
ワ ンチュ ク ラ プテ ンが カ ナム領
主となっ て い るc17)。ガ ンデ ン ポ タン政
権
に帰
属 し たカナム領 主だが.
その後 も大 幅な自
治が認め ら れてい た。
例え
ば,
ラサへ の税
につ い て は毎年,
わず
か な 穀 類 とバ ター
を払 う
のみで,
そ れ さえ も納めない 時 も あっ た と さ れ る(
BPN
,53)
。 こ の後, た び た び起こ っ た ポユ ル人に よ る周辺 へ の略奪
に対
し ても,
ガ ンデ ン ポ タン政権
側,清
朝
側と ともに消極 的
な干渉
し か行
わなかっ た。
状
況に変化
が起こっ たの は,清朝
最 後の 近 代 化 改 革で ある清末新
政の な か で,
チベ ッ トへ の 統 治 強化を 目指
し た政策
が,20 世紀
初 頭か ら段
階 的に始め ら れて か らで ある。 こ の策
は僧侶制
限案
な ど仏教
を軽視
した もの であ り,
そ れに反 発 するか たちで カム東
部(
東
チベ ッ ト,現在
の 四 川省
西部)
な どを中
心に現
地 人・
僧
院 などの反 乱が続
発 し た。 こ れ に対
し,清朝
側は 四川 軍(
川 軍)
を派 遣 して反 乱 を 鎮 圧 する という
強 硬策
を持
っ て 臨み,
その過 程で,多
くの 寺 院 が 破 壊 さ れ,現
地 民 が 殺害
さ れ る こ とと もなっ た。
こ の
後,1910 年
には 川 軍 部 隊 がラサ 入 りし,
ダライラマ13 世
は1913
年
まで英 領 イン ドに亡命
し た。 この清朝
支 配に対し, 早 くか ら抵抗
運動
を 開始
したのが カ ナム領
主であっ た。カ ナム
領
主の抵
抗につ い て,
清 朝 側 档 案 史 料では彼
が1910 年
に,周
辺で掠奪行為
を働
い た とす
る(
TS
,62
)
。一
方
,BCM
(
65−66
)
で は,穀物類
と皮革類
の徴収
などで清朝
側が ポユ ル を 抑 圧 した ことを 原 因と して い る。徴収
は清朝
の「
近代
国 家」
に向
けての統 治 強 化 策の な かで起 こ っ たも
の と考
えら れ る。従
っ て,
こ の乱は,
「近 代 化 」に付 随 する 「中 央 集 権 化 」に対 する在
地勢力
の抵抗
であ
っ た と も位置付 け
られ よう
。反乱
に対
し,
ラサ及
び四川から清 朝 軍 が 派 遣 さ れ た。
漢 文 档 案 史 料では1911
年7
月(
宣 統三年
六 月)
ご ろまで に ポユ ル が制
圧さ れ た とさ れ てい る。
カ ナム領
主ペマ(
pad
ma)
が 逃 走 し,
ロ ユ ル(
klo
yul
)
(18)で現
地 人に殺 されて い る こ と か らも
,鎮
圧は成功
して い たと見
てよい (]9) 。一
59一
一
1927
一
28
年にお ける ポユ ル・
カナム領 主の反 乱につ い て一
PK (
282 )
などでは,在
地の首長
の多 く
が命
を保障す
るという約
束の も と降伏
した が,
その後処刑
さ れた とさ れ る。
清朝
側は反 乱鎮
圧 に成功
し た。
し か し.
辛
亥革命
が勃 発 し清
朝 が 崩 壊 すると,
ポユ ル遠 征 軍内
にも反乱が起こるこ と となっ た。 その 反 乱の なか遠 征 軍 指 揮 官 羅 長 碕 が 殺 害 さ れ,統
率を失っ た 軍はラサへ と遁 走 し た。 これに より,
清 朝の ポユ ル支 配 は 短 期 間で失 われ た とい える。 その後,
ラサでも
チベ ッ ト側 と 旧清朝
軍の 戦争
が始
ま り,
チベ ッ ト翻 が 勝 利,1912
年12
月に は ラ サか ら清朝
軍の残
党 全員
が追放
さ れ た。
清朝
の追放後,
ポユ ル は早期
に自治
を回復
した。
ベ イリー
が1913 年
にこ の地 を訪 れ た 際 「ポ バ の女 王 た ちく
Poba
queens)」
に手
紙を送っ てい る こ と か らも
そ れ は明
らか である(
Bailey
1957
,70
など)
。 その後, 正式
なカナム領
主にはペ マ の娘婿
ワ ン チェ ン ドゥ ドゥ ル が 就い た (PL (],26−27)
。こ の
際
ラ サへ の納 税 も再開
され た。 これにつ い て は,
ドメー
一
(
カム)総督 (
mdo smad spyikhyab)
(20)チ ャ ムパ テン タ ル
(
byarns
pa
bstan
dar,1893− 1922)
にポユ ル か ら使者
が送られ,
以 前の税の
継
続に加 え,
兵糧確保
のため政権
か ら派
遣 さ れる官吏
へ の協力
を彼
らが承諾
したこ とがBCM
(66
)に見 える。2
反
乱
の
原
因
清
朝
に よ る「
中央集権
化」策
は失敗
に終
わっ た。
し か し,
川軍
追 放 後,
ガンデンポ タン政 権 側 も比 較 的 早 くか ら,各
地で土地直轄化
=「
中央集権化」
を開始
してい た。 その 中でも ボユ ル は, 断 続 的に続 くカム方
面で の ガン デ ンポ タン政権
と中
国系
諸 軍閥
との領 域 争い の な かで,
政権
側 か らカム へ の行路,補給
地 として重要視
さ れた。
そ れ らの理
由
か ら開始
さ れ た ポユ ルへ の「
中 央 集 権 化 」であるが,
そ れ は 当 初 消 極 的 な ものであっ た
。
ガン デ ンポタン政 権の 中心 人 物ツ ァ ロ ン・
ダサンダドゥ ル(
tsha rong zlabzang
dgra
’
dul
,
1886−
1959
>
は1922 年
ご ろ にポユ ルが 地 形 峻 険であること な どで 攻略
しがたい と して,平
和的
に この問題
を解決
しよう
と し た。彼
は まず,
実 妹ツェ リン ドルマ(
tshe ring sgrol ma)
をカナム
領
主 に嫁
がせてい る(21〕。続
い て ツァ ロ ン は1924 年
ころ にカナム領 主 に,
領主氏と妹
が た2
人 は ポ ウォ に お ら れ ることが 必 要 あるか 否 か。 私 が 思う
にあ なた が た2
人 はラサ に来ら れ るこ とこそ 最 良である。 最 良の政 府か ら位
が与
えら れ るのみ ならず,
相 癒しい領
地 とし てのゾン,
荘 園 も与 え られる{n >。 という手紙
を 送っ た。 これ は 私 的 な 関 係 を 利 用 して,
カナム領
主の ポユ ルか らの切
り離 し を 図っ たも
の といえ
るだろう。
た だ し, これら はツ ァ ロ ンの
私的
試み 以上の もの で はなかっ た。 同1924
年,
カ ナム領
主夫
妻 がラ サ を訪
れ た。
ガンデ ン ポタン政 権 側 は 彼 ら を歓 迎 し,
イ ギ リス製
の銃
を与
えるな ど してい る。 しか し,
カ ナム領
主が 以前
の よう
にポユ ル地 方の首 長 となっ て徴税 ・
司法
を 行う
ことと,
税 の一
部
を毎年
ガ ンデ ン ポタン 政 権に送 るこ と につ いて は簡単
な論議
し か さ れ な かっ た。Taring
Japanese Association for Tibetan Studies Japanese Assooiation for Tibetan Studies
一
1927〜28
年に お ける ポユ ル・
カナム領主の反 乱につ い て一
(
1970
,48)
は.
ガ ンデン ポ タン 政権
がカ ナム領 主 をい つ で も制
圧出来
る小物
と軽視
し,
ッァ ロン の
懐柔
策
にも協
力
しなかっ たことに より,
こ の問
題 が 後 まで尾 を引く
こと と なっ た とし ているQ
両
者
の対
立 は間 もなく表面化
し た。第
2代
ドメー
総 督ティ ム ン ( ri smon norbu
dbang
rgya1,
1874− 1954
?)
は,
ル ツ ァ・
ケンチュ ン・
ゴン ポソナム(
ru tsha m an chung mgonpo
bsod
nams)
をポユ ルに
派
遣 し た。 また, メン トー
パ(
sman stodpa
rdo巾
mam rgyal, ?− 1931)
が 第3
代ド メー
総督
になると,
護 衛 部 隊 なども拡張
さ れ た(
BCIV,
66
)
。加
えてル ッ ァ は 約3
年のあい だ,
ポユ ル及 びモ ン ツ ォ(
smon tsho)
, ラダ(
lha
gra
)
地方
の地勢,
人口,
産物
な どの 調 査,
登 記 を行
っ た。こ の ル ツ ァ の
赴任
と調
査 が, 反 乱の原 因となっ た。PLG
(
30−31),
BPN(
54)
には,
ル ツ ァ の開始
し た調
査 を,
カナム領
主 が 自身
の力 を奪う
ものと理解
し た た め,領
主がル ッ ァを 殺害
し よう
と し た と さ れ,BCAr
(
66
)
にも無 理に兵士 など を設置
し たこ とが戦闘
に繋
がっ た と されて い る。で は何
故,
こ の時期
に なっ て調
査が開始
されたの で あろう
か。1924 年
にラサ を訪問
したベ イリ
ー
の1924 年 10 月 28
日報告 (
JOR
,LIP
&S
!lO
/lI13
)
に は, 軍事改
革の た めに ガン デ ンポ タン政 権 が 深 刻 な 資
金
不 足 に 陥っ てい た こ とが記
さ れ てい る。 これに対
し, ベ イ リー
は徴税制度
を 改 革 して, 税 収 を 上 げる こ とを対策
と し て提案
し たとす
る。 ポユ ル へ の調 査 が その よう
な 状 況 の中で開 始 さ れ た もの である可 能 性は高い といえ
よう
。さて
,
カナム 領主 に よっ て立 て ら れ た暗
殺計
画である が,
ポユ ル内 部 から密 告が な さ れ た こ とで,
ル ッ ァ のも
と に知
ら さ れる こ と となっ た。 彼は自
らの駐屯
地であ
る チュ ム ド(
chu mdo)
寺
に軍旗
を 立て て,
軍がい るこ とを装い , 現 地の服 装を着
て逃
げる という策略
に よっ て チャ ム ドへ の逃走
に成功
し た 。この
事件直後,
ツァ ロ ン はカナム領
主に ラ サ に来る よう
に手
紙 を送 り,
カナム領
主は妻
と とも にポユ ル のタン メ
ー (
thang smad)
まで進んだ。 しかし, そこ でイ オ ン(
yid
’
ong)
ゾン の使
者 など に慰留
され たこ とで,結局
は その妻ツェ リン ドルマ のみ がラサへ と帰る こ と となっ た。 こ れに より,
ポユ ル とガ ン デ ンポ タ ン政権両者
の衝突
は不
可 避となっ た とい える。3
反 乱
の
勃
発
と そ の
経緯
逃
走
に成功
したルツ ァの報告
を受
けた ドメー総督
は,
ラサへ の報告後
ジャGa
,第 7)
部 隊 将 軍タ ナ クを500 名
の兵 士と ともにその収拾
に向
か わ せ た。 タナク は,
ダ シン(
m (la
’ zhing)
に兵
営
を 開 き,
そこ で ポユ ル地方
の農 地, 人口 の調 査継続
に加
えて,種
1カル(
al)
(23)分
ご とに ト クプー
(
thogphud
)
(24 )として穀物 1
デ(
bre
)
〔25 )をカナム領
主経 由
で ガンデ ン ポタン政権
に納め させ る という方
針を決定
し た。その上で タナク は カナム領 主 など を召
喚
して宴会
を 開き誓約
を結
んだ。加
えて,領
主の大臣
イオ ン・
ノ ルブ ドン ドゥ プ(
yid
’
ong norbu
don
grub)
を自身
の書記
とす
る ことな ど も取 り決
め た。 しか し, 和 解は表 面 的 な もの に過 ぎ なかっ た。宴会終
了後,
ショー
ワに戻
っ たカ ナム領
主の も とに タ ナ ク将 軍か ら,
一
1927〜 28
年にお けるポユ ル・
カナム領主の反乱につ いて一
こ こ に寺
院 と地 域の有力者
たちを召 集 したこ と と合わ せ て土 地の調 査 を 始 めるの で領 主 本 人が来
ら れ る こ と に合
わ せて貴 方たちに多 種 多 様 な 升と秤 が あるの を 統一
し な ければ な ら ない ので〔
升
と秤
を〕
一
緒に持っ て くる上で領 主 自身 が〔
決 定され た〕
日 に調 査 地に確
か に来
て欲
しい と申
し 上げる飼 。 という手
紙が送ら れ た。 こ こ で示 されるの は 土 地 調 査 と 度 量衡
の統一
につ い て であ
り,税制改
革
の一
環と して な され た要 求とい える。 こ の 要 求に対 し,
カ ナム領
主は書簡
を届
けた使者
と護
衛
兵4
人を殺 害t 西 暦1927
(チベ ッ ト暦 火 兎 )年
9 月 (コ7),
タ ナ ク将 軍に急襲
を仕掛
けた。
その 際,
ル ッ ァ ケンチ ュ ン の配 下の 役 人 数 入 も殺 さ れ てい る。
タナク将 軍はダシンに おい て
2
日間 抗 戦 を行っ た。彼
らは奮
戦した もの の,先頭
に立っ てい た将 軍 が2
日 目に射
殺 さ れると,
軍は統率
を失
っ て カン ユ ル(
angyul)
と,
リウ ォチェ(
ribo
che)
に逃 走 し た。
この 戦 闘に よ る双方
の被害
は史料
によ り一
定
してい ない が, こ こ で はBCM
(
66)
及 びBPA
「(
57)
で示
さ れ る,
死傷者
ポユ ル軍200
名,
ジャ連 隊90
名という
数 字 を あ げて お く。
タナ ク将軍の 戦死 を 受けて
,
ガ ンデ ン ポタン政権 側は ドメー
総 督メ ン トー
パ の計 画の もと.
南 北か ら軍 を派 遣 して ポユ ルに包 囲戦 をかけるこ と となっ た。
この軍隊
の具体
的内容
につ い て各
史 料 を比 較・
検 証 し たう
えで述べ るな ら ば,
まず
シ ョパ ド(
sh。pa
mdo)・
タ ク(
stag)・
ロ(
lho
)3
ゾンなど から地 方 軍1000
人 を召 集 して ケ ンチュ ン ダワ(
mkhan chung zlaba)
の配 下 と し,
キュ ン トル峠 (khyung
gtor
la)経
由で北方
面か ら チュ ム ドに進
軍さ せ た。
将
軍ドカル ワ(
ラク シ ャ
)
配 下の ニ ャ (nya,
第 8)
部 隊 500名
が ガ ン リン マ(
sgang ring ma)経 由
で 送ら れる一
方,
テ ィ ン リー
(ding
ri) 軍ガ(
ga,
第3)部
隊 500 人は百 人隊長
ア ウ(
a’
u)氏
な どの指揮
のもと ポ ト
ー ・
ドゥ ン峠 (dung
Ia
) 経 由でユ リ(
g−yu
ri)方
面へ と進ん だ。
将 軍タ ナクを失っ たジャ部 隊には新 任の将 軍ツ ォ ゴ (mtsho sgo
bsod
namsdbang ’
dus,
1891−
1939?)
が 配 さ れ,
ゴ ッェ峠 (
sgobrtsegs
la
)
経由
でチュー
ゾ ン(
chos rdzong )方 面に派 遣 さ れ た。
南 西 方 面 か らは将 軍ケ メー
配 下のダ シ(
grwa
bzhi
)
軍500
名 がコ ンポ・
ル ナン (klu
nang)
経 由で タン メー
に入っ た(
BCM ,
66
,
BPN ,57,
PLG ,35−36)
。戦
闘
で ガ ンデ ン’
ボ タン政 権 が 動 員 した兵 士 は,
ガ部 隊,
ニ ャ部 隊 ダシ部 隊の そ れ ぞ れ500
人に加え,
地方
兵1000
人と ジャ部 隊の残 存 兵 力 を合 わせ た3000
名 弱ほ どであっ た。 これ は 人 口 の少 ない チベ ッ トで はか な りの 大 部 隊とい え,
政 権 側の 比 較 的 高い 動 員 力・
統 率 力 がみ て と れ る。一
方,
ポユ ル側は兵の召 集 す ら ま ま な ら な かっ た。 カナム領 主の 大 臣で も あっ た イ オンゾン の長 ドン ドゥプ は,
紛争
の 解 決 交 渉の た めに ラサに行っ た ま ま 帰っ て きてお らず,
指 導 者 不 在 の イ オ ンゾンは戦争
参 加 を見 送っ た。 チュー
ゾンなども,
自分 た ちは ガンデ ンポタ ン政 権に所 属し てい る と し て,
戦 闘に干 渉しなか っ た。結
果と して,
カナム領
主 側はまとも な抵抗
も 出 来 なかっ た。 チュ ム ド・
ユ リ寺付
近で テ ィ ン リー
軍とユ リ寺
の僧
俗の あい だで戦 闘 が行
わ れ,
テ ィ ンリー
軍83 名
と ポユ ル側40
人 が 死傷
し た もの の,
そ れ 以 外に戦い はなかっ た 。 その他の部 隊は ほ ぼ無 抵 抗で シ ョー
ワに入っ てい る。
敗 北 を うけて カナム領
主
はロ ユ ルへ と逃走
した。 ケメー
が精鋭
100
人を率
い て,彼
の追跡
にJapanese Association for Tibetan Studies Japanese Assooiation for Tibetan Studies
一
1927〜 28 年
に お け る ポユ ル・
カナム領 主の反 乱 につ いて一
あたっ た もの の,領
主はイン ド,
ア ッ サムへ の逃 走に成功
し た(
khe
smad1982
,12
)。彼
は,
ア ッ サムに おい て英 国の保 護 を受 けて生 活 し,3
年 後の1931
年 にロ ユ ル に引 き揚
げたの ち,
暴飲暴
食
の果て病 死 した とさ れる。4
反
乱
の
結 果
戦い はガ ンデンポタン政 権の 圧 勝 に
終
わっ た。 政権
側は,
カナム領
主こそ逃
したも
の の,
そ の配 下の首 長 た ち を捕 ら え た。 彼 らは 処 刑 さ れ な かっ た が,
ラサへ と連 行 され た。 ワンチェ ン ドゥ ドゥ ルには 娘 がいたが,
カナム領主の位は ガ ンデ ンポ タン政 権によっ て廃 止 さ れ,
彼 女 や その一
族 に継 承 さ れ ること は な かっ た。Kaulback (1938,133)
に は,
彼 女 が 土 地 の支 給と一
定の待 遇 を受 けてポユ ル で生 活 して いた もの の,
人 質の よう
な 状 態にあっ た とされ てい る。戦 後
,
ドメー
総 督メ ン トー
パ 自 身 が ポユ ル地 方 を訪 れ,
兵 士たち を 労っ た。 直 後,
将 軍ツ ォゴと
,
僧 官ラム パ (rampa
thubbstan
ku
1 mkhyen )2
人の手で 地 勢 調 査 が 再 開 さ れ た。 護 衛 に はジャ部 隊
500
人 が あ た り,
その 他の部 隊 は ポユ ルか ら撤 退 した(
BCM
,68
,BPN
,58)
。 早 期に調 査 が 開 始 され たこ とか らみて も、
ガ ンデ ンポタン政 権 側 が ポユ ル にお け る徴 税 法の 切 り替 え を 急 務 と してい たこ とが 見て取 れる。 政 権 は 同 時にポユ ル の再 区 分 を行い,
ポ トー
ゾンと,
チュー
ゾン,
イ オンゾン の3
ゾンを設 け た。 これ ら3
ゾ ンは チャ ム ド統 轄 とさ れ,
その長ゾンポンはガ ンデ ンポタ ン政 権 か ら直 接に 任 命 さ れ,
そ れ まで の在 地 領 主 はゾ ンポン の下 に 置 か れる こ と となっ た。 これ らゾ ンポンは3
年の任 期 制であ り,
民 衆の要 請 が あっ た場 合に任 期 延 長 が 認め ら れ た。 こ れ に よ り,
政 権 側が ポユ ル を 直 接 支 配 する体 制 が 整っ た といえる。 調 査 終 了 後 には,
ポユ ル長官
の職 も新 設 さ れ,
それ に は チュー
ゾ ンの元 財務官
シェー
ダ(
bshad
sgra)
が任命
さ れ た。この
う
ちポユ ル長官
は,
ポユ ルの僧 俗か らの要請
を受
けて1932
年
に廃止 され た。 その の ち,
ガンデンボ タン政 権 側は,
ゾ ン ドー
の み にポユ ル を統 治 させ る こ と に定
め,
守 護 隊 もジャ 部 隊50
入のみとした。1951 年
直前
の段 階におい て,
チ ュ ム ドゾ ンには チ ャム ドか ら派 遣 さ れた ゾン ポンが,
チュー
ゾ ン と イ オン ゾンに はその代行
が赴任
し てい た こ とがPK
(
288−289)
に記 され てい る。 この体
制は中 国 軍 進 駐 まで継 続 し てい た といえ
る。調
査後
決定
さ れた税制
につ い て述べ る。 ボユ ル の3
ゾン と,
モ ン ッ ォ な どの地税
と し て は,
ト クプー
とし て種 1
カル分
の土 地ごとに穀物
3
デと,
ディ と,
ラニ ャク(
ra nyag)
(29>とし てゾモ類(3ωごとにバ ター 2
ニ ャク(
nyag)
,
ギ ャプドー
(
rgyabdod )
(3D とし て雌牛
ごとに1
ショ(
zho)
(32)な ど をチ ャ ム ドの兵糧 局
に納め る こ とが定
め られ た。 モ ン ッ ォにつ い て は 上 述の税
に加
えて,穀物
570
カル ほど も合
わせ て払 う
こと とさ れた。 ロ ダ地方
で は人ごとに毎年
1
タ ム カ(
Tam
・dkar
)
をセ ラ寺
チェ(
byes
)学
堂の代
理 と,
チ ュ ム ド寺
の代理2
人を経由
し てラチ ャク(
bla
phyag)局
(33 )に入れ ることが決定
さ れた。 この よう
に し て,
ガン デン ポ タン政権
の 目的
であ
っ た ポユ ルの徴税
シ ス テム直轄化
が実
現し たといえ
よう
。た だ し
,
ポユ ルの各寺
院の寺
領に対す
る特権
はある程度維持
さ れ てい た。先
例に即し て,
ト クプ
ー
は種 1
カル分
の土 地そ れ ぞ れ で1
か ら2
デ分
の穀物
を払
えば よい と さ れ てい たのである。一
1927〜 28
年にお けるポユ ル・
カナム領主の反 乱につ い て一
一方.
ラニ ャ ク と ギ ャ プ ドー
は ほ か と同じ よう
に払う
こ と とされ た。結論
反 乱の原 因は,
大 幅 な 自治 権 を持っ て い たカナム領 主に対 し,
軍 事 力 強 化のた めに深 刻 な 財 政 難に陥っ て いた ガ ンデ ンボ タン政 権 が 税 収 確 保のための土 地 調 査 などを行っ たこと にあっ た。 こ こ か ら,
反 乱 をガンデ ンポ タン政 権の 「中 央 集 権 化 」へ の在 地 勢 力の抵 抗 とするス ミ ス氏の 説 も妥 当とみて よいだ ろう。 その一
方,
この反 乱を即 座に鎮 圧 したのは強 化 さ れた軍 事 力で あっ た。 制 圧 後,
ガンデンポ タン政 権は任命
制の官 吏 を 配 置,
税 制 も整 備 して,
在 地 勢 力の権 限 を大 き く制 限 し た。 こ こか らガンデンポタン政 権の統 治 強 化 策 は,
一
定の成 果 を 挙 げてい た とい える。 換 言 す れ ばこれ は,
「領 域 」 を 守るた めの 軍 事 改 革に必 要 な 資 金 を.
税 制 改 革 を 中 心 と し た 「中 央 集 権 化 」によっ て確 保 する。 そ れに対 して起 き た 在 地 勢 力の反 発は強化 され た 「政 府 軍 」によっ て抑 止 し,
更 なる領 域の直 轄 化 を す す めるという
世 界各
地の近 代 化に共 通 する構 造 が チベ ッ トで も見て取 れるとい うこ とである。 さて,
こ こで疑 問 点 と して残 るのが,
ガ ンデンポ タン政 権 が 確 かに 「中 央 集 権 化 」 を進 めて い た にもか かわ らず,
そ れに対 する地 方 勢 力の反 乱につ い て の まとまっ た記 述 がポユ ル以 外に み られず(34 },
その乱 も小 規 模 な ま ま終 結 して い る ということである。 これは同 じ く 「中 央 集 権 化 」 を 目指 した清 朝の改 革 が,
ポユ ル の み な らずチベ ッ ト各 地で の反 乱 を 引 き起こ したのと対 照 的である。 こ れ につ い ては,
双 方の仏 教へ の態 度の違いが その差 を生 ん だので はないか と思 わ れ る。清朝
の改
革とそれへ の チベ ッ ト側の 反 応 を みる こ とで,
こ れを 分析
する こ と を今後
の 諜 題とす る。地 図
西 蔵 自治 区 測 絵局 『西 蔵 自治 区地 図冊 』 中国地図出版社,1996
年,
p,
163
を も と に 著 者 作 成Japanese Association for Tibetan Studies Japanese Assooiation for Tibetan Studies
一
1927〜
28 年におけるポユ ル・
カナム領主の反乱につ い て一
参
考文献
・
略号表
チベ ッ ト文 BCMBPN
DG 鉱 矼 ∬M
dwang slob mda
’
皿,
spyi’
thus rgyahtse mam rgya置dbang
争dus,
bod
,gyal
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’
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’ba
’
idmag
don
lo
rg ソ粥 (deb
phreng
gTO
,ispa
),
bod
dmag
myingpa
’
iskyid
sdug,
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byams
pa
ye
shes,
‘‘bod
sa
gnas
sridg2hung
dang
spobo
ka
gnam
sdepa
gnyis
nang’
khrug
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’
u rta ra thubbstan
dar,‘
‘
spobo’
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spo
bo
rdzong 置o rgyus rgyu cha legs sgrig tsho ohunggis
bsgrigs
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カナム領 主の反 乱 につ い て一
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(1) (2) (3) (4) (5
) (6) (7
) (8) (9
) ダ ラ イ ラマ5
世 時 代 に 成 立 し た ダライ ラマ を 中 心 と す る 政権。 ダライラマ政庁な ど と呼 ば れ,
現 代 中 国で は西 藏地方 政 府ともされ る。 本論で は伝 統 的呼 称に従い ガンデ ンポ タン政権とする。 こ こに お け る 「チベ ッ ト」 は,
雍 正のチベ ッ ト分 割の際にダライラマ の所 属 と さ れ た 地 域 と す る。 こ れ は現 在の 「西 藏 自 治 区 」 にほ ぼ相当する。 チベ ッ トが どの範 囲を指 すの か は,
政治的問 題と なっ て お り規 定 困 難である。 また,
本 論で述べ る 通 りポユ ル 自体1928
年まで高い 自治 を維 持 してお り,
ガンデ ンポタン政権の完全統治 下 とい い 切れ ない 部分もある。
そのた め本稿で は 「」付きの 「チベ ッ ト」とし た。.
この戦 争につ い て は,
ポユ ル に関する通史的 研 究の な か に記 述がある。 英 語の もの と して は,
Schwieger
(2004 )及びLazcano
(2005
)がある。
両 者ともに英 語 史料は多 く用い られ てい るもの の,
前者はPLG
を チベ ッ ト語 史 料 と して 比 較 的 無 批 判 に 使 用 してお り,
後 者もチベ ッ ト語史料 を 用い ず,
前 者を その 代 用として い る た め,
PLG の記 述に 関 し漢 語 史 料など に よ る検証 が な さ れてい ない 部 分がある。
漢語のものとし て は嘉措 頓 珠 (1985
),
楊 (2004
)など がある。 この ほ か,
チベ ッ ト語の もの,
史 料 的 性 格の強い ものにつ いては別 記 する。 本 新聞は月刊,1925
年か ら1963
年までキンノウル生 ま れの タルチン (Tharchin, 1890−
1976)に よっ て刊 行さ れ た。 この号は西 暦 1928 年4
月21
日 (チベ ッ ト暦 土竜 年 3月 1日,
但 し土竜年の 記 載は な し)発 行。 同年 5 月 20 日 (4 月 1 日)の 日付 もあ り,
こ の号は2 ヵ月分 まとめ て出 され たと考 え られ る。 原 本 は ダラムサラの Library ofTibetan Works and Archivesの所蔵である。 な
お
,
コ ロ ン ビア大 学の サ イ ト (http:〃www.
columbia.
edu /indiv/eastasian/tibetan/tharchin
.
html,
2011年 7月 11日 ア ク セ ス)に おい て本新 聞の紹 介と
,
デジタ ルフ ァイ ルの公 開が な さ れ てい る (ただ し
,
今回 用い た号は収 録され てい ない)。文 中 で は タ ナン (rta nang )と 表 記 さ れ る が
,
発 音の類 似 お よ び 役 職.
行 動の一
致 か ら タ ク ナ(
stag na)とみて 間違い ない。ラ クシ ャは家 名
.
ドカ ル家とも さ れ る。 本 名 は テンジ ンナム ギャ ル (bstan ’
dzin
rnam rgya1,
1886−1935
)である (Petech
1973,77−78
)。 なお,
こ こ で彼は健 康 面で の問題のため戦 闘に出な かっ た と さ れ る が,
これ は,
ダ シ部 隊の将 軍が,
前 任 者の健康 不 安のた め ケメー
に代え られ たこ と (khe smad l 982,11)と誤解し たもの と考え られ る。 現在の チペ ッ ト自治 区ゴ ン ジョ県の一
地 方。 カ ム は チベ ッ トの伝 統 的地 理区分の1
つ。
現 在の地 理区分におけるチベ ッ ト 自治区東部 か ら四 川 省西部を中心 とした 地 域。
Japanese Association for Tibetan Studies Japanese Assooiation for Tibetan Studies
一
1927〜28
年に お け る ポユ ル・
カ ナム領 主の反 乱 につ い て一
(10) (ll
>(
12)
(
13>
(14
)(
15)
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(17) (18
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19>
(20
) (21
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22
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( ) ) 562 ウ 6 ( ( (27
) (28 )bde
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Ziiib
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skadkyi
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pasbod
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bde
yin’
dug
Pa
zhu 〃 ゾンは行 政 区
,
地 方 区 分 名。 ゾ ン ドー
は ゾン駐 在 官の 意 味で, ゾ ンポン (rdzong dpon,ゾン長 官) あるい は その代 理の ことを指 す。 ニ ンテ ィ地区はチベ ッ トの伝 統 的地 理区分におけるコ ン ポ (kong
po )を中心とし た地域。 ポユ ル および 周 辺の地 名に関し て は本 文 末の地 図参照。
カ ナム は ポユ ル地方の古 都,
ショー
ワとい う別名もある (正確には,
カナムはショー
ワか ら わず か に 離 れ た場 所に あ る)
。 本 論では ショー
ワを用い る。 カ ナム領主の称 号は多 くデ パ (sde pa )と さ れ,
これ は 「領 主」,
「首長」な ど と訳 さ れるが,
「王」(
rgyalpo)
と称 さ れるこ と も ある。
本 稿ではカナム領 主の称号 を 「領主 」とす る。 モ ン ツォ,
ラ ダ は現在のペ マ・
コ (墨脱 )の一
部 にあた る。 ペ マ・
コ は ポユ ルの南,
イン ド との 国境 地 帯にある広 大 な未 開発 地。 そ の統 治は各
地方の デパ を 領 主が統 轄 する 「封建的」な もの であっ たと考えら れ る。
こ れ につ い ては,Carras
◎o (1959
,137−138
) 参照。 名日 博窩,
向来各
耕其地,各
子其 民,
不 帰唐古武管属(
TS,
84
)
事 件につ い て は ZC (132)に まと め られて い る ほか,
「道 光十三年至 光緒二 十 六年間 波密事件奏 牘二 十二件 」 (TS,8
←102
) 中に档 案 史料が ある。PLG
にも記 述 が あるが,
漢 文 史 料の 記 載とは 大きく異なっ てい る。 ロ ユ ル は ポユ ル よ り南部 に 位 置 す る,
イン ド と 中 国 間の国境 未確 定地 域。
劉 賛 廷 著 「波 密 日記」(
TS,34−
42 ),
及び 「波密 事件 奏 議公牘 」 (TS,
62−
76 )な ど参 考。
ドメー
総 督はカ ム地方の統 括 を目的と し て1913
年ごろ に 設 置 さ れ た役職。 1918 年に ガンデンポ タン政権軍が中国 系軍閥からチ ャム ドを奪 還し て 以降は,
その 地 を駐 屯地とした。 こ の ことにつ い て は 1923〜
24 年にポユ ル を 探 検 したキング ドン ウォー
ド が記 述 を残し てい る (Kingdon−Ward
1926,146
)。 また,
ツ ァロ ン家の一
員タ リン の Taring(
1970,48)
な ど に 嫁 入 りの 顛 末が記さ れてい る。sde pa
lags
dang
gcung mo rnam gnyis spobor
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rgyur dgos pa’
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就enrdzong
gzhis
,
os,
tsham zhig kyanggnang
gi
red(BPN
,
54
)質量の単 位
,
1カル=
約13.
6
キロ。 トクプー
は土 地の収入 と は無関係に な さ れ る穀 類 税,
あるい は 私 的 な 地所
管理者あ るい は臣民か ら僧院及び 地域の首長へ と納め ら れ る総 収 入か ら取ら れ る税 (Sangyay 1986 , 45)。 こ こ では前 者 を指 すか。
質 量 単位,1
カ ル≡20
デ なので約680
グ ラム。’
diga dgo叩 1騨 o魄 s
bskongs
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sde pa ngo madus
tshes su zhib sar nges phebs yod pa zhu (BPN ,
55
)タ ナ ク殺 害 事 件の発生年につ い て は諸説 あるが
,
同時代 性の高い rSM の ほ か.
PLG,
BCM な ども
1927
年と してお り,
1927 年で間違い ない と思 わ れる。
PLG
(
36)
のみ はこの際,
ダシンにおい て も2 日間ほど戦 闘があっ た とするが 将軍タナ クと カナム氏 と の戦闘と
,
交戦 場 所 及 び 期 間 が一
致 しており,
そ れ と混 同してい る可能 性が高い。一
1927〜 28
年における ポユ ル・
カ ナム領主の反 乱 につ い て一
(29 )(
30
) (31
> (32 ) (33
) (34
) 動物の角1
つ ご とにバ ター 1
ニ ャ クを支 払 う税。 ニ ャ クは 重 量 単 位で約 120 グラム 。 デ ィ は雌 ヤ ク,
ゾモ はヤク と牛の混血種の 雌。 ギャプ ドー
とは,
負 担 を金銭で肩 代わ りする こと。 ショお よ び以下に で るタムカ は チベ ッ トの通 貨 単位。 ラ チ ャク は肉,
バ ター,
金 銭による税 金 収 入 を様々 な 政権組 織に分 配する機関。 モ ン ラ ム祭の 時 の寄付 を各所 に 分 配 す る任 も負う (Sangyay 1986,44 )。こ の ような直轄 化の事 例と しては
,
パ ン チ ェ ンラマ6
(9
) 世 (blo
bzang
thubbstan
choskyi
nyima