Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 駒澤大學佛教學部論集 第
20
號 平成元年10 月 ( 1 ) 公開 講 演 会
私
の
北 米 仏
教
学
三
十
年
一囲
み
を
破
って
生
き
る
一 )飯
田
昭 太 郎
只
今平井副学長
が御紹介
下さい ま した よ うに ,駒
大 とUBC
の姉妹 校
の御縁
を 深め る為に, こ の講 演の機 会 を与 えて頂 き ま した所, か く も多数おい で頂 き まし て誠
に 光 栄で ご ざい ます。 私は 北 米に おい て, い つ も新 しい聴
衆に お 話 しす る時 に は ,次
の よ うな枕
をもっ て始
め ます .即
ち も う三十年
も前
に なるで しょ うか、 私が初め て北 米の ペ ン シ ル バ ニ ア へ参
り ま して , 小 さ なカ レ ッ ジで初
め て英
語の ス ピーチ をや りまし た 。初め て で あ りますの で心配 し て い ま し た ら, 私の 十 分の 話の後
に ご婦 人が参
りまし て , “Mr
.
Iida
.I
enjoyedyour
talk very much , ” (あ なたの 話 しは大変面白か っ た ) と こ う言われた の で , 私は 大変喜
ん で また私の 話 し の どこが 面 白か っ たの か と こ う聞き ま した ら, その マ ダム の 日 く 「本 当に今
の今 まで 日本語
と英語
が こん なに 似て い る とは思わ な か っ た 一 と … …。即
ち その ご婦人は私が英
語で は な くて , 日本
語 を話 して い た と錯 覚
(あるい は 正 確か もしれ ま せ ん が)され た わ けで ござい ます。その よ うに 物
事
は リズム とい うの が一番 大事
で ござい ま して , 私が今
か ら仏 教 の 話 しを す るの であ り ます け れ ど も, こ こ に キ リス ト教
の リ ズム と仏教
の リズム とその リズム の違
い が よ く分かれ ば, 私の 話 しが よ く分
か る ことで あ ります。そ の リズム がよ く分か らない と今か ら私の 話す話は分か らない … … と, い つ もこ う い う枕
を もっ て話
す の で あ り ま す が, 実は その ジ ョ ー ク は 実 話で は ござい ませ ん。創
作
で あ ります。 しか し残念
なが ら, そ れが創作
であろ うと疑
わ れ た人は今
まで 一人 もお りませ ん。 私の英 語 を聞 きます とそれ が もう実 話以外に は あ り得
な い と,皆
さん が確 信 され る よ うなわ けです。 しか も, こ うして何年
間 もその ジ ョ ー クを言 っ てお り ますと私自
身が , それ が実
話なの か創作
なの か今
は自
分で も分 ら な くなっ て きてお ります。 とい うこ とを 申 しま すの は やは りリズム が大事
で,(
2
) 私の 北 米仏 教 学三 十年 (飯田) カ ナ ダの “自己主張
と対決
, の リズム と 日本
の 応へ り くだ る. リズム と大部
違い ますの で , 私の これ か ら申し上 げる話 しの リズム が少
しは しゃ ぎ す ぎた り, あ るい は ハ ッ ス ル しす ぎた り して, ち ょ っ と 日本 式
の講
演 とチ ャ ン ネル が合
わ な い か も しれ ませ ん。 そ れ を 心配 した もの で すか ら, こ うして初め て マ ッ キ ン トッ シ ュ の コ ン ピュ ー ター を使い まして, 講 演の草稿
を用意
しお配 り したの であ り ま す。 半 分は バ ン ク ーバ ーの私 の研 究室
で や りまして , 半 分は東
京に来
てす ませ よ うと思い ました ところ が ,IBMpc
は あ ります が 、 な か な か マ ッ キ ン トッ シ ュ プ ラス が な くて困 っ て お り ま した。 ところ が , これ もバ ン クーバーUBC
の即
ちブ リ テ ィ ッ シ ュ コ ロ ン ビァ大 学の 私の 同僚
の高 島 教 授が東 大の 東 洋 文 化研 究
所に2
年ほ ど客員教
授 と して来
て お り まし て, 彼がマ ッ キ ン トッ シ ュ プ ラス を担い で来 て お りましたの で , 夜,彼
の研 究室
に お邪魔
しまして,残
りの半
分 をタ イ プ した わ けであ り ますの で誤 りが多い か と思 い ます が其 点は御 寛容
の程
お願
い申
上 げ ま す。それに して も, 日
本語
で講
演 出来
るこ と は何
と 心の安
ま るこ とで しょ うか。 も う “ 二 十年
. も英 語 で講 義 し て 生活 し て い るの で すが, “自他
。x 共に 御 苦 労 な こ とです。 (さて , 前 置きは これ位に して テ キ ス ト に まい り ますが。)1
.挨 拶 〈日本一 の 仏 教 学 部 に 〉 こ れ は学
部 長 就任
直後
, 私の 問 (挨 )〈登竜
の意
,如
何 ?〉 に対す る平 井 俊栄博士 の 答え (拶 )で した。 (挨拶 とい うの は , 実は禅語か ら来てい る とい うこ とを精 し く説 明 する だ けで も, カナ ダ に おい て は ち ょ っ とL
た講 義に なり ま して,最 近 日本 語 教育が非 常に 盛ん で あ り ますが , その 日本語の 挨拶が禅か ら来て い るこ と をご存 じの 日本文 学の 専 攻の学 者は あ まりい ない ので す。)誠
に遙
か , カ ナ ダで,駒
沢 大 学 仏 教学
研 究 紀 要 及 び論集
と駒沢
大 学 大 学院
仏教学年
報の 質量
共 に優
れ た論 文に よ っ て ,絶
えず啓発
さ れ て い る私で あ れ ば, 仏 教 学の 新 資 料や意解
釈, 又は学会相
手の 論 争の 震 源 地, 駒 沢の 諸竜象
を前
に して は ,寅年
生ま れ “ バ ン クー バーの 一匹狼. と の 異 名の あ る私 も, 恥ず か し なが ら屠
場の 囲い の 中の 匹羊 。 の様
に震
えてい るの で す。 (本 当に震え て お り ます。)さて, こ の 囲み を
破
っ て生 き延び る ために は, 所 謂 satya −kriya
, パ ー リで は 一553
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 私の 北米仏教学三十 年 (飯田 ) (
3
) sacca −kriya
と申 し ますが2) ,良
きに しろ悪
しきに つ け あ りの まま をそ の ま ま行
え, そ うする とそこに adhis1hana (加護) が働
い て , その 囲み を破 る わ けで あ り ます。 こ うい うイン ドの古い し き た りで , こ れ は イン ドだけで な くて ス コ ッ ト ラ ン ドそれ か らア イル ラ ン ドに も そ うい うよ うな しき た りがあ るの です。 satya −kri
一堕
即ち あ りの ま まに 述べ る 以外
に は,名
手は 無い の で , 只 その 為に , 私の悪戦
苦闘
の状
況を報告
さ せて頂き, ご高 教 を賜 りたい の です。 又, その時
の 呪文は何
時
も,(
マ ハ ー トマ ・ガン ジ ー が断 食
を した時に い つ も, こ の バ ガバ ッ トギ ー タ ーの句
を唱 えてい たの であ り ま す 。)一
τπ嘯
珊1
や可 可
榊
滸
禰
鹽s繍
瞳廳
嘱の 窰丶辻
直四郎
博 士は 「汝 の 関心 をただ行 作の み あ ら しめ よ。 決 して {その }結 果に あ ら しむ るなか れ。行作
の結果
を動機
に た ら し無る なかれ .{され ど}
汝
は 無作
{akarman }に も執着
す る なかれ, (47
)一 と,niSkrama −
karman
の 秘 密 を訳され まし た が , 一言で言 えば , 只管 打坐の 只管 なの で , 囲み を破
ろ うと, じ た ば たする事 さ え もい け ない の で , 無 所 得 空, 只 ひ た す ら にj
葩 na − yoga の 為, 私のdharma
を遂行
すべ き なの です 。 以 上の naya (実践原理)に よっ て私の 北 米仏
教
学30
年を述
べ る前に , その背 景と し ての 北 米 と 日本の 大 学 を対
照 して描 く必要
があ り ます。2
. 日米大学
の差
は, 天国と 地獄こ の
疑問
は , 千栄子 = ム ル ハ ー ン , イ リノ イ大 学教
授に よ っ て出さ れ たの です が (中央公論 ,6
,1988
)こ れは 大 学だけの比 較で は な く して , 底 辺で あ る社会
の構造
の反映 であ り, どの社
会に も天国 と地 獄があっ て も, 共 通 項 と異 類 項の 区別 の問 題なの です。例え ば, 日
本
は, 圦 り難
く して ,住
みや す し。 , 北 米は , 沃 り易
くして 、 住 み に くし. とい え ま す 。 す な わ ち, お 互い に 厳 しい 評 価 世 界 で , o 甘え, no まあまあ.。L の 世 界で , 学 期 末に 学 生か ら遠慮会釈
な く採
点さ れ る地 獄 か ら這い 上 が っ た私に は, 日本の教授
は五衰
は必然で し ょ う が 天人に見え るの で す。 また北(
4
) 私の 北 米 仏教 学三 十年 (飯田) 米は 、 〔これは こ れ, そ れは そ れ 〕の社会
で, 〔これは , こ う だ が … … 〕 とい うこ とは ありませ ん。 勿論
,地獄
一定
と覚 悟 すれば何
で もあ り ま せ ん 。 しか し , 確か に 〔ア メ リ カの教
授生
活は永
続 的 頭 脳 労働
の自転
車 操業
〕 なの で , 倒 産 すれ ば, “ ほ ん まに あかんの や . で して, 助 けて くれ る “ 恩 師. もボス もい ない の です 。広々 と した キ ャ ン パス の 芝生 は, 学 生 も
教授
に は , 〔 一 匹 狼の自
転 車 操業
の グ ラン ド〕で , それ こそ 一所 懸命 なの で す 。 こ の厳 しさが生 来 怠 惰 な私 をして研 究 に駆 り立 た し て い る事
は間 違い あ りませ ん。 テ ニ ュ ァ ー (終身雇用契約) が取 られ る まで に は, 学 会で認 め ら れ た著 書 が, 多 くの 論 文の外に1
冊は必要で , 正 教 授は2
,3
冊は最 低 限 度、 要 求 さ れ るの で すか ら。 著書
な しの 正教
授は 例外
です。 千 栄子 = ム ル ハ ー ン教 授 の 例 を見 て も 〔東洋 学
科に 同時
就任 した6
人の うち,5
人が消
えて い っ た〕そ うで, 研 究と講
義
の 両方
か ら ふ るい に か け られ るの で,私
の経 験
と し て も, この確 率
なの で す。 私の場 合は その 上 に イ ン グ リ ッ シ ュ ス ピ ー キン グの 難 関が 控 えてい るの です 。論 文は なん と か 書けて も, 発 音 は その 場の 待 っ た無 しの 勝 負で すか ら… …。 竹下 (元 )総 理は 、 〔自分の高
校 英語 教 師の 学 生に 同情
して や っ て くれ 〕と ジ ョ ー クに出
来 ますが , 私の場 合
は 生 活が直
ちに か か っ て くるの ですか ら。 仏 教の コ ー ス は 別に 必修で は ない の で話が通 じな け れ ば学 生は来な く, エ ン ロ ール メ ン トが低け れ ば, 契約破 棄
の 一 因に なるの です。 この 囲み をい か に破
っ たか ?そ れ だ けで も長い 話に な りますの で , 次に急 ぐこ とに します。 さて, 津田真 一 博士の (大 法輪
9
,1988
)A
.仏教
と言 う一 つ の 思 想に 関す る事 実の学
B
.思 想 と し て の仏教
の学C
.実践
哲学 と し て の 仏 教学
との , 分 類に従 っ て述べ ましょ う。 但 し、 私は単に 分 類 に 従っ てい る だ けで , S ”’ 敢て極 端な
言
い方
を す れ ば,仏教
とい う思 想 を今
日の 誤 りに導
い た契
機は , こ の竜
樹の お陰で , 仏教
は 空の 立 場で , 有をい うの は外
道だ とか 大乗
の流
れは有
と 無の2
つ あっ て, 有の 立場は 如 来 蔵 思 想 で, そ れ は 仏 教 じゃ な い とか , 今 日 の 諸々 の 愚論が出て きて い るわけです。 最 もこれは必 ず しも竜
樹だけの罪で は あ り ませ ん が … … (p25 )彡 と言
う極
端な. 説に 賛 成 して い るの で は ない こ とは 勿論
です
。A
.仏 教 とい う一 つ の 思想に関
す る事実
の 学 一551
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 私の北米仏教学三 十年 (飯田) (
5
)も う
30
年の昔1959
年の9
月, 故Richard
Robinson
博士 に よっ て , 北 米で 最 初 の 仏 教学 博
士課 程の設
け られ たWisconsin
大 学に 入学
した私は, “30e
: して学
に 志 した. の です。翌 年
,故
Edward
Conze
博 士 が来 講 され, “ 図 書 館 の 主. として カ タ ロ グされて い ない
Buddhist
Thought
ofIndia
とPrajfiaparamita
Lite
−rature を ,
地
下室
の 一 隅に 見つ け, “ 般 若 経の 三 性 説 如 何 ?. 3) との 私の質 問
(挨 )に 対 し て ,驚
きと喜びの反 応 (拶)を示 され たの です。 と申 し ますの は , 山 ロ益博
士 の 「仏教
に於け る有 と無の 対 論」 を下 敷 き と してBhavaviveka
の 中観 心 論,第
五章
, 唯 識 説批
判の サ ン ス ク リッ ト原
文校訂
と英訳
を私
の博
士論文
にす ると い う身
に 過 ぎた野 望 を抱い て居た か らです 。問 題は所 謂, 二 万 五千頌 般若
の弥勒
請 問 章で山口 博士 は ,Obermiller
も注 意 して い る が, ミ専門
的 な攻 究を待た な ねば な らぬ の か も知れ ない hN;(p153 ) と述
べ てい ら れ たか らです。 般 若 経の 世界
的権威
Conze
博
士 で さ え も未知
の事実
で あ り, サ ン ス ク リッ ト原 文 を苦心 し て, 入 手の 上 , 解 説を私の ゼ ミの テ ーマ に さ れ た の で す 。 さて , そ れ か らとい う もの は “ 寝て は夢, 起 きて は 現つ ・盆 も正 月もあら ば こそ、s、ク リス マ ス もな しに解 読
に 勤め ました。 何 しろ a,a
, u, a も皆目見 当
がつ かず, た だ, あ 一, あ 一 と, 溜息
をつ くばか りなの で , 漢 訳に は勿論
, こ の章
は あ る筈
は な く, チ ベ ッ ト大 蔵 経 も図 書 館に 無か っ たの で すか ら。 ”tomake a
long
story short .1968
年 パ リ を訪
れ た と き, ソ ル ボ ン ヌ の前
の出版 社
で , この校訂
文が載 っ たRenou
記念論
文集
を著者割 引
で買
っ た喜
びは終 生 忘 れ られ ません 4) , しか しこ の 論 文は苦
労 した わ りに は , 学会の 注 意 をひ き ませ ん で した が, 袴 谷 教 授に よっ て 和訳 さ れ 5) , 最近
, 長 尾博
士の magum OPus 「摂大乗
論 和 訳 と注 解6) 」 の 中に お い て数ペ イ ジを費
や して論
じて頂
い て い るこ とは,望外
の光 栄で あ ります。 またA
.Way
− man 博士 のSravakabhnmi
7)も出版 さ れて, マ ニ ス ク リプ ト校 訂
か ら研 究
を始 め る醍 醐 味 を知っ た の で す。 と同時に , フ ラ ン ス 語の 試 験, 哲 学 科の マ ス ターコ ー ス資格
(これは専攻 分野の 基礎 を広 げると共に , 就 職の とき有 利な条件 を作 る為),1
週間
に わ た る梵 蔵漢
巴の 語学試験
, 仏教
の 歴 史 と教 理等
の 試 験 をす ませ たの は ,1965
年
,6
月の こ とで した 。ただ ちに
家
族 と共にAmerican
Institute
ofIndian
Studies
の研 究 員
と して ,バ ン ク ーバ ー, 日
本 経 由
イ ン ドに む か っ たの です。途 中
UBC
のDr
.Arthur
Link
を尋
ね,彼
の 〔梁
の高僧
伝 〕の英
訳
を三 日三晩
か か っ て読破
し10
数
ペ イ ジ(
6
) 私の 北 米仏 教学三 十年 (飯田) 始 まりで した。 その後, 大 著, 「中 国般 若 思 想 史研 究 」 8)を 片 手に 世 界一周 研 究 旅 行を され た 平井 博士 が リン ク教 授に面 会 さ れ た ご縁 も あい まっ て ,1981
年
に不慮
の死に あ わ れた教授
の遺稿
を駒沢
一UBC
姉妹
校提携
を記念
し て ,平井
ゼ ミ の努
力に よっ て数冊 に わ た っ て刊 行 され る運びに なっ た事は, 教 授 も草 葉の 影 か ら お 喜 びの事 と思い ま す。さて ,
10年
目の 日本は , 新 幹線
が開通 し, 三等
の 切符
を買
お う と して今 浦島
と 笑わ れ ま した 。ニ ュ ー デ リーに 行 き デ リー大 学, 仏 教 学 科, 科 長 室に ゴーカ レ ー教 授
を尋
ね 〔中 観心 論 第五 章 (唯識 説 批 判
)八偈
は , na ( 〜 で ない ) か nab(
我
々 に と っ て は)
か ?〕
との私
の〔挨〕拶
に,破顔
一笑
, nab だ と即 答
さ れ た の で す。 こ れで論理 至 上主義
とい わ れ た,Bhavaviveka
の 経証 に対
す る態 度
が明
確に な り, 山口博士の , 〔如 来の 一 切 の教 言は我等の 量に あらず 〕は , 〔量で あ る〕と肯
定 に訂
正 せ ね ばなら ない こ とに な り,Bhavaviveka
の 三 性 説の解
釈 が 新たに 考 究 され る端 緒に な っ た わ けです 。 しか し, 大谷大学
出身
の菊
池法 純
氏が 第五 章 を博 士 論文に すべ くゼ ミで 読ん で い る最 中との事, 奈 落の 底に 落ちた気が し たの で す 。 しか し,Karmapyeva
と イン ドパ キ ス タン
第
一 次戦 争
の中
を ゼ ミに で た の です。 菊池氏
に絶対
に不可能
とい わ れ た第
三章
の マ ニ ス クプリ トをゴ ー カ レ ー教 授 か ら頂
き , それ こそ, 天に も昇る心地で ヒマ ラ ヤ の 麓の イ ン ドの チ ベ ッ ト , ダ ラ ム サ ー ラに行
っ たの です。 そ し て 〔Madhyamika
の 三 性 説に つ い てJ
ダラ イ ラマ との 法 論 (Maitreya
Chapter
と,
Legs
bshad
snyingPo
を中
心と して)ご
挨
拶 と した若
きB
の 一 日 は ヒ マ ラ ヤの夢
の よ うです。 サン ス ク リッ ト 校 訂に 日に 夜 をつ い で雨季 を過
ご し気 分 と体力
の限界
に一人で挑戦
と病院
に かつ ぎこ まれた り しま した が, 其 後の 私の 研 究の 方 向を規定
す る もの と して得 難い 経 験で した。何
故 なら, マ ッ クス ・ ウエ ーバー も 「或 る写 本の 或る箇 所の 正 しい 解釈
をう
る」 に夢 中
に な る とい うよ うなことの出
来 ない人は , 先づ学 問に は縁
遠い 人々 で あ る 。」 と云 っ てい るか らです 。 ま た梵
文 校 訂 中痛切 に 感 じたこの 校 訂の 秘訣 は , 〔原文 を校 正 し訂 正 すべ きだ が,変
え過
ぎ る と長い 注 記を 必要
とするのみ か ,
誤
りが多
い〕
と言
うこ とで, これは今
で も私の educationprinciple
(naya )で もあ るの です。 す なわ ち, 学生 一人一人 の
持
ち味
を 〔正 し く活 かす〕 こ と なの で す。 即ちゼネ レ ー シ ョ ン ギ ャ ッ プ どころか人 種 的, 言 語 的ギ ャ ッ プの ある学 生 を教育
す る等
とい う大そ れ たが , 如 何に 仕 事 と は い え ど う し て 出来
るの だ ろ う か ?と
不安
と疑 問
に怖
れ を な したの です が, 夫々 の学
生 諸 君が, マ ニ ス ク リ プ 一549
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 私の北 米仏 教 学三 十年 (飯田) ( 7 ) トの
様
に 唯一 して価 値 ある もの を具えてい る一 しか し其儘
で は 社会
に通用
しな い の で, しか るべ きプ ロ セ ス を通 じて持 味 を生か し, 誤 りは直 し, 不 足な所は補
足 され ね ばな らず
, コ ン サル タン トと しての ヘ ル プ を す るの が 自分の役
目なのだ と悟 り ま して ,10
数 人のPh
.D
取 得 者 と研究
を続け て来
たの で す。 具 体 的 な成 果 と して , その 一 人,Ms
.Anne
Macdonald
が, こ の6
月
の卒業 式
に , カ ナ ダ総督
の金
賞 をUBC
の 代 表 (200 人の修 士の ) と して受領
した ばか りで私の 方法
が社
会 的に も認
め られ たの です9) 。さて ,
Bhavaviveka
の自
注で あ る とされ て い る思 択 炎に , 〔こ こ で師
い わ く〕 と20
箇所
ちか く もあ り, 江島
博士 の 説 もあ り ま すが , こ の 師は誰
なの か ?私の
未
だに 疑 問 とす る所で す。 袴 谷 教授
は今 演習
で の この書
を読
ん で お られ ます が, 先 生の 御 意 見 をお聞き したい もの です 。般 若 経に 三性 説 ら しき もの が出
てい る歴 史的背景
は ?般
若
経 と仏教
に お け る新 説 との 関係は ?疑 問 と興 味は 深 q と して 尽 きない の で す。 ちなみ に ,第
五章
は その 後ネ パ ール の カ トマ ン ズの 日本 人 大 使 館 に 外 交官
とな られた 菊池 氏 を尋ね サ ン ス ク リ ッ ト校訂
文 と英
訳の 原 稿を頂 き参 考に させ て もらい , 菊 池 氏に よ る 出版を まっ て い ま した が, その うち デン マ ー ク のLindtner
博
士 とEckel
が菊池氏
の 校 訂 文 と英 訳に手 を入 れて い た私の 原 稿 を もとに して, そ れ ぞ れ原文校 訂 と英
訳 を準 備 中で , 完 成の 暁に は3
人で 出版
す る約
束で した。 とこ ろ が,Lindtner
は最近
,中国
か らサ ン ス ク リ ッ トの マ ニ ス クリプ トを入 手 され校 訂 し,
Malcom
David
Eckel
(Harvard
Univ
.)博
士 が英 訳 して
Iida
抜
きで出
版 する と,2 年前
に バ ン クーバー で 告 げられ た夜は , #16
For
those whose souls are
disturbed
by
day
by
various notions of sense objectsthe
terriblepoison of vfisanAdue
to theirinfluence
is
atleast
as vehementin
adream .. とのLindtner
が校 訂 したkambala
のAlokamata
1°)の 一 説 をその ま ま
夢
を見
た こ と を彼
に告
げ, ユ ーモ ア と皮肉
を混
ぜ て交
渉 して, よ うや く私
が概
説をつ けて デ ン マ ー ク か ら出版す るこ とに決め たの です11) 。 まことに ,厳
しい義
理も人情
もない仏教 学
の オ リン ピッ ク と言
え そ うです。 か く して私
の博
士論文
と して, 第五章に 目 をつ け, 以 来 も う23
年の 星霜 が流れ て しまい ま した。また , 般 若 経の 三 性 説の 研 究は , 長 安で
名
を成 し た学 僧
, 円測 (613 〜696
) に 巡 り会
うことに なっ たの でず 2) 。彼
を〔
え んそ く〕 と読
ん で は , 一遍
に 素 人で あ る こ とを告 白 するこ とに な り ます が,何
故なの で し ょ うか。韓 国語でW6nch
’ u−k
と呼ぶ の と関係
が あ るの で しょ うか。 お教
え願い ます。 そ れは兎
も角、 慈恩(
8
) 私の 北 米 仏教 学三十年 (飯田) 大師 さ え も気がつ い て い な いMaitreya
−Chapter
を円測が問 題 と して 取 り上 げ, 深 く論 及 して お り, その 論 旨がツ オ ン カバに 大 な る影響
を 与 えてい るの です。 し か も漢
訳 され なか っ た 『中観
心論
』 の偈
を引
い てい るの で す。 中観心論入真甘露 品 言 ,離六 識外 無別阿頼耶識 眼 等六識 所 不摂故 猶 如空華故 如彼 宗唯立 六識 (解 深 密経疏, 第三)。 まこ とに , 円測の 原 典に 肉迫 する学 問
的 方 法に は, 頭が下が る思い がするの で す。現
在
, 西安の郊外
, 興教 寺
に 玄奘
,窺基
そ して円測の 塔が残
っ てい るの です か ら,彼
の唐
代仏
教 史上に お け る正当
な地位
は大書
さ れ るべ きで す 。 しか し,彼
の名
が, ス タン レ イワ イン シ ュ タ イン博
士の近 著
Buddhism
Under
theT
’ang に
も, シカ ゴ大 学か ら出た
Encycl
・Pedia
・f
Retigion
に も出てい ない こ と は大 きなミ ス で あ り ま す。 冖
唐代
の 仏教
」 は 「中 国 ・日本の 文献
を網羅
した、 仏 教に 対 す る イ ン ペ リア ル ・ポ リシ イーの 歴史的
サ ーベ イ と して秀
れ た もの であ る と., と,UBC
の オー バーマ イ ヤ ー博
士 も賞賛
してい ますが、 同 時に 彼の 短い書
評の 約1/3 を費 して, 「唐代
の 仏教
の 文化 的,社
会的 な諸 要 素は 論 じ ら れ てい な く, この 研 究が仏教
とス テー トとの関係
を十 分に 論 じて い る と もい え ない 」 と断
じて もい ま す13) 。 「仏教
思 想 を 理解す るの に は い つ も その 歴史
的背景 或
い は政
治 との関
り合 い を考
慮 しなけれ ば な らない … …つ ま り, 文学 ・芸術 ・哲 学 ・その他
の 宗教
か ら の 影 響もある筈で す。 言い換 え れば, 仏 教は 一種の 孤立 した現 象で は あ り ませ ん。 14) 」 との 結 城 令聞先
生の 言葉
を肝
に銘
じて い る著者 と して は ,Buddhist
“Chu
−rch ”under the
T
’ang な ら と もか く ミ
Buddhism
under the
T
’ang . は, 仏教
だけで な く中 国 文 化の 黄 金
時代
の 唐代
の 仏教
を扱 っ た もの と して は 少 し 「針
小棒 大」 であ る と思い ま す。さて 私は
北米
でBhavaviveka
Studies
に先
鞭 を 付 けた様
にW6n
−ch ’uk (円 測 )研 究の パ イ オニ ア であ る事
を嬉 し く思 っ て い ます。 何 時 迄た っ て もエ トラ ン ゼ と して無い と は云 え ない偏 見 と戦い乍 ら, 仏 教 学で 生 きて い る自分の 情 念 を批 判 的に 円測の 上 に投
影 さ せ, 文献
上の 記録
を 自伝で さ え も絶 対 的 な 史料 と しない と同 時に , その 反 面, 典 拠がな く 一 見史料
的に は 無価 値の 様に 見え て もそれ を虚
構
と直
ちに きめ つ け ず,後代
に言
わ れ事
で も再吟 味
して 15) , 少 しで も円測の 実 像 を浮
上 させ たい もの で す。例
え ば , 『続 高
僧 伝 』 の 円測 の 門 番買
収 説 をワ ィ ン シ ュ タ イ ン は,虚構
であ る と, きめつ け るの で すが IG) , 私は , よ しそ れが虚構
に せ 一 547 一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 私の 北米仏 教 学三十年 (飯田) (
9
) よ, 円仁が都 を離れた 太原に て も, それ を風聞
して い るの は向故
か と問
い たい の で す。も しそ れ が, 偏
計
された もの で あれば, その根拠
,依他起性
は何
か ?と
問
い たい の です。 即 ち, まこ と し や か な真
実 ら し き もの を 一皮
は ぐ と虚
妄 な もの が現 れ , 一見虚
妄と み ら れ る もの , 底に真
実が往々 に し て秘め られて い るの で す。 文 献 的に は 慧 沼の 了義
燈が円測 を批
判 して い るの を学
ぶ と共 に , 普寂
の成唯識論略
疏の い う, 〔西 明等
,甚
だ道
理 あ り〕 とい う事情
を も明
か に し た い の で す。 その ため に , 申 賢 淑 教 授 (東
国大 )の 駒大 博士 論 文の 「 円測の 研 究」, 又 , 日本に お け る円 測 法 師 評 価につ い て の太田久 紀 教 授の 労 作に 導か れて研 究の 牛 歩 を進
め て い ます。 カナ ダか ら 日本
に参
り まして さっ そ く映 画 “敦煌
一s を観 ま した が,私
の円測の 本の タイ トル もシ ル ク ロ ー ドの ロ マ ン を
感
じ さ せ るThe
Three
Stapas
璽
(中 央に 玄奘, 右 に 窺基, 左 に 円測の 塔が有
り ま して) ℃ ntheo − utskirts ofHsi
−an,the capital city of
Shanhsi
province
andindustrial
city ofthe
people
’s
Republic
ofChina
, three stUpas standin
Hsing
−chiaotemple ヤ
と始め
“
Thus
as
I
readthe
above story about these three stitpasin
Ch
’angAn
,I
think
we shouldbe
grateful
to those whobuilt
and maintained the stfipas , w −hich
contain aninside
picture of thelearned
society ofT
’angChina
, with allits
gloom
andglory
. と終わ る予
定で す。 驚 くべ きこ とは , 仏 教 学の 先 端的研 究をするに あ た っ て,
資料
は勿論
,現
に斯
界の 第1
人 者は すべ て お世辞
で は な くこ の駒
沢の キ ャ ン パス に 居ら れ,冒
頭に掲
げ ま した元平井仏教学部長
の抱 負
は , 円 測研究
に おい て は , 実 現 され た とい うべ き事で す。さて, これ らの 仏 教
学
の 事 実の 追 及に未 校 訂の マ ニ ス ク リプ トか ら始
め る とい う前述
の如
きコ ン ゼ博
士 か ら習
っ た方法
は ,学
生の 論 文指 導
必 要 とあい まっ て ,中
国仏 教史
上の 則 天 武 后の 研 究の為
に 私 を敦煌
文書
の研究
に向
か わ せ ました。 即ち
1969年
の夏
, バ ン クー バ ーのUniversity
ofBritish
Columbia
に奉職
二年
目の私は, ロ ン ドン の 大
英
博 物館
の敦
煌文書
の 研 究に 行 き、 偶 然に も矢 吹 慶 輝博
士の 、 大 著〔三階 教 の 研
究
〕に もない敦煌 文 書
、Stein
6502
番
を発 見
し,、急 遽 解読
し、 その
秋
American
Oriental
Society
の 大 会で報告
したの ち、10年
かけ て本 にする
準備
を して居
ました ところ、 ナ ポリか ら同じ敦 煌 文 書に か んする研 究が出
たと聞 き ま したの で 、 せめ て イ タ リア
語
で あ っ て欲 しい と祈 りました が、 私が一
(
10
) 私の 北 米仏教 学三十年 (飯田)を設 け た大 雲 経の イ ン ドに 於 ける背 景 とイ ク シ ュ パー グ王
朝
の宮
廷の女性
との関
係の 言及はない もの の立 派 な英 語の 本で、
10
年
の 努 力が水 泡に帰
した ク リス マ スは本 当に 苦 しみ ま した。 しか し、
英 国
の後
、 パ リの 国 会 図 書 館で、 ペ リ オ将 来の慧 超往五 天 竺
国伝
の コ ピ ー を した の を、「
The
Hei
ch ’eDiary
:Memior
of thePilgrimage
to
the
Five
Regions
ofIndia
」((
1984
)ls)と して
出
せ たの は、 せ め て もの ことで した。 この よ うに 、 英 語で 研 究 発 表せぬ ば な ら ない 私 は 〔佛教
学オ リ ン ピッ ク版
〕とい っ た所で す。B
.思想
と しての 仏教学
20
世紀
の 大 事 件は キ リス ト教
と仏教
の対 話で ある と トイ ン ビ ーが宣 言
した そ う ですが、 そ う大袈裟
に言
わ ない に して も、各宗教
の対
話が、UBC
におい て私の責
任の 一 つ で あ り、仏教学
の1
分 野に隠
れ て い る こ と は 出 来ないの で す 。 私の専
門
は バ ーバ ヴ ィベ ー カ だ と 云 っ て居 られず、 博士 、 修 士 論 文の 審 査や、 各種
の ゼ ミと か workshop で 、仏教
の立場か ら多 くの問 題につ い て発 言 させ られ るか ら です。即
ち今 日世 界の 宗教
が直
面 し て い る深刻な問題は 、1
).聖 典理解、2
).世俗化
の問
題、3
)
.宗
教間
の 対 話である と、 石田慶和教授
も主張
されて い ますが、 ’9) 仏 教の テ キ ス ト の 確 定や個々 の 文意の 理解を超え た真
理性 を も問わ ねば な らないの で す。
従
っ て そ れ まで聞
い た こ と もなか っ たhermeneutics
(science ・f
interpret−ation 解釈学 )を一
夜 漬
けで勉 強
して富永 仲基
の〔 加 上 説 〕を発 表 した り 、 〔仏
教
と肉食
に就
て 〕とか〔聖
典 と論理 〕の ゼ ミで 、〔 聖 典へ の 盲従は宗
教の 命 を枯
渇 し聖 典 抜 きの論 理は 空転 する 〕こ とを前掲
の na とnab の 例で議論
す る か と思 え ば、 ツ ル タ、 キ ン ヤ博
士と佐伯彰
一教授
の 日本 文 学のゼ ミで 、 〔三島 由紀 夫の 豊 饒の海に おけ る唯 識 思想
〕2n) を発 表 す るな ど少
し範 囲
を拡 げ過
ぎ ますが、 これ ら の論
文集
Facets
ofBuddhism
と して近
くイン ドか ら出 ます。21 )さて
駒
沢 を震 源 地 と し て最 近、新 しい 、仏 教にお ける有 (dhtitu
− garbha .又sv − abhfiva vada ) と無 (9Unya
・vada )の 対 論が熱を発
して い る よ うです が、 こ れ も、hermeneutics
の一大
問題
で しょ う。存在
の (有
)の 空 (無
) 的 あ り方の解
明と、その 実 践が、 かの 、
Maitreya
−chapter の 課題で あ り、 仏教
の 思想的 貢献
の エ ッ セン ス と私 は絶えず
他
と対
論 して い るの で す。22)Maitreya
が〔
yadi
bhagavann
abh −avasvabhavab sarvadharmas tad δ
Bhagavan
prajfiaparamitarp
cavat δbodhisatt
−vena mahasattvena
bodhisattva
−6ik
§ayalp6ik
爭itu
k
亘mena rロpe
kathalp
≦ik
爭ita
−vyam ? (
袴
谷教授
の 日本語
訳に よ り ま す と)〔 世尊
よ、 もしもすべ ての 存 在 (sa一
Komazawa University
Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
私の北米 仏教学三十年 (飯田) (
11
)rva −
dharma
)が無
存在
の 性質
(abhavasvabh5va )の もの で あ る な ら、 世 尊 よ、知恵
の完
成 (prajfia
−paramita
)に つ い て実践
し、菩
薩の学道
(b
・dhisattva
−≦ik
爭a )に つ い て
学
ぼ う と欲 する菩薩
大 士 は、体
(色 rapa )に つ い て どの よ うに学
ぶ べ きで しょ うか ?)23)と疑 問
を発
したの も、実
に 仏教
の中
心問
題が、 こ こ に横
たわ るか らで す。 世尊
は答
えて〔 仮構
さ れ た物
体 (parikalpitarp
rapa ・n)で あ り、 こ れは 分 別 され た物 体 (vikalpitarp rapa 皿)で あ り、 こ れは もの の本 性 (法 性 と し ての 物 体 (dharmata
−r卯 a)であ る 。〕と 三 性 説が と か れ てい るの で す。 しか も、仮 構
された もの は無実 体
です が、 分 別 され た もの は 、 分 別 (vikalpa ) なる有 実
体
性
(sa−dravyata
)に 基ずい た もの であ る か ら (rnam par rt・g pa rdsas yod pa’i
p ・hyir
) 有実
体 な もの と考察
され るべ きであ る が、 しか しそ れ自体 で起 こ る もの と して (svatantra v;ttitah) 〔考
察 され るべ きで は 〕ない (P
.15
)… …」こ うな り ますと
仏 教学専攻
でない方
に は、 うや む や に な る わ けで あ り ますが、 こ れ も私は 吉 蔵の 中観 論疏 そ して安 登のCommentary
中 論 疏記 をUBC
仏 教 学 ゼ ミで研究
した時
に 思 っ たの であ りますが24 )、 こ の うや むや と言
うの は、 けっ し て、 うや むや とい うの で は な くて実に 、 「有耶 無
耶 」 即ち何が本 当の 実 体 的 な も の で あ り何
が空
(虚
無 ) なの か ?何
が本 当の 存在
であ り、 そ うで は ない の か。 有耶
無耶
と三論
の 学 僧 が白 熱の議 論
を してい たの を、 そ れ を 回 りの 人 た ち が見 て、何
と坊さ ん わけの分
か らない こ とを言
っ てい るの か と、 それで有耶無耶
とい う言葉
が作
られ たの だと思い ます が、 チベ ッ トで もち ょ う ど同様
の こ とが あ りま して、 セ ラ僧 院の 学 僧が 「カ ン サ (一我 , gang zag )が有る や、 否や」 で討 論 し てい るの を聞い てい た農民 が、 「そ ん な争
は な い で 、 私の カ ン サ (キ セ ル 、 gang zag ) をお使
い 下 さい 」 と。 この よ うに 何が sat (有 )で あ り、 何が asat (無 )であ るかは イン ド哲 学 及び 佛教
思 想の 根本
話 題 と して、 リ グ ・ヴェ ー ダの有名
な 「 天地創
造の 歌」 (X12
9
)の nasadasitya は 「その (天地 創造
の時
に は )非有
(asat ) も有
(sat) もなか っ た」 と始 まっ てい るの で す。 そ して佛
教
が新
しい パ ラダ イム と して提
起 した もの こ そ が、 ミ縁起
の思 想
、 なの で あ り、 こ の根本思 想
に対 す
る種
々 の解 釈
が佛
教の各
学派
を生ぜ しめ たの で 、 前回の ハ ン ブル グでのICANUS
の 国際 学会
で イ ン ド人の学者
が、 こ こ らで異っ た佛教
の各学派
の説
を整
理 して佛教
の根本
思想
を探
し出
す 必要
がある との提言
に対
して 、貴 方
は仏教 史
を勉強
しなおす必要
があ る と迫っ た私で した 。(
12
) 私の 北 米仏 教学三十年 (飯田)勿 論、 ℃ ranted that the controversies may seem to
be
aproduct
of“
the el− oquent
lndian
mind 。 whichpiles
on argument to another argument ’ と申 しました が、 私の
専門
とするBhavaviveka
の論書
を勉
強 す る時 に もフ ッ とその不 安 が頭 をかすめ る事
が あ るの は否定 出来
ない事実
です。あ まりの
彼
の精 緻
な議 論
に 、 チ ャ ン ドラキ ール テ ィ も彼
を批
判 して云 う如 く… いんBhavaviveka
. は 論理 に 淫 し て い るの で は ない か。、 と思 うこ と も あ り ま す が、 イン ド哲
学の 論理 を体 現 し た様な イ ン ド人に 会い ます と、 そ れ が杞憂
と悟
るの も事実
で あ ります。 実は これは 最 近、UBC
で出
した・J
・冊
子で あ りますが、 25) こ こ に機
械工 学の 世界
的な権 威で 、 モ ー デ ィ とい うイ ン ド人の 学 者がい ます 。 ち ょ う ど一緒の パ ーテ ィで話 しをい た しま して、 私は非 常に 感銘 を受けた の で す。 なぜ なら、彼
は機
械工 学の世 界 的権威
で、 人工 衛 星か ら出て くる手な どを発 明 した 人 で、 日本
の瀬
戸 大 橋の バ ァ イブ レー シ ョ ン をコ ン トロ ール方法
と か も発明
した人 で 、 日本に も数 度 来られ ま し た。 し か し、 彼は 一切 の 発明 に 関 して 特許 を絶対 に と らない の で す。 で すか らUBC
の 総 長は 、絶
えず研 究費
の 心配を しなければな らない の で 、 そ ん な こ と を言
わ ない で 、 あなたの発
明の特
許 を早
くとっ て、 大学
を楽
に して くれ と言い ますが 、 そこ で彼の 言 うに は 、 バ カ バ ッ トギ タ ーの前述
の 句を唱 え、 こ れ は 私の 義 務で ある。 研 究 して発 表 するこ とは 自分の 義 務であ るか ら、 それに よ っ て、即
ちその 結 果に よっ て特許
をとっ て お金
を儲
ける こ となん て で きない と頑強
に言
い続
けて特許
をと らない の で す。 そこで私が彼
に会
っ た時
に 、 も しそれ が 日本の 会 社が特 許 を とっ て しまっ た らど うな るの か と質問
し ま し た ら、 そ れは自分
の 関係
した こ とで は ない 。 自分は あ くまで もバガパ ッ トギ ー タ ーの あの精神
に従
う迄で ある とこ う言
い ました の で 、 私 も非常
に感銘
を 受けて、 やは りその よ うに イ ン ド哲 学の 精 神は脈々 と し て流れて い る と思 っ たの で あ り ま す。さ て
本 論
の “佛教
に 於 け る有
と無の対 論
。 26) に もどります が、 否定
し得
なか っ た “ 実体
性. へ の要請
はPudgala
vadin の勢
力が 大 で あ っ た歴 史 的事
実に つ け て も、後
世 ア ラ ヤ 識へ の要
請、 如来蔵
説の 興 起等
の 歴 史的事
実が あ り、 縁 起 説か らの批判
と共に学 際 的考察
が 必要
で は ない で せ うか。 例えば 。 日本に お け る国際ペ ン ク ラブの 大 会に おい て 、3
、4
年 前で したか遠藤周作会 長
が キ ーノ ー トス ピーチ で 、文学
にお け る潜
在意 識
の重要
さにつ い て強
調され ました 。 又宣 伝 技 術の 上で は、 潜 在 意識
に 呼 びか け な くて は な らない とい 一543
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 私の北米仏教 学三 十年 (飯 田 ) (
13
) うこ とは常 識
で あり、 それを否定
するこ と は 、 ど う言
うこ となの か 、 仏教
の熟 語
の背後
に隠
れ て 、 わ か っ た気に ならない 対 話が必 要 なの です。 この 問 題 につ い て 、過 去3
年 間
Franceska
Hollander
と い う名の ご と くオ ラ ン ダ出身
の 心 理 学 を専
攻 した女
性の 修士論
文 を指導
して い ます が、William
S
Waldron
氏 が博士 論 文を執筆
中で あ る こ とを知
っ て安
心 した所
です。 27似
上、 思 想 と しての 私の 仏 教 学へ の ア プ ロー チ は 、 先 ず 原 典 校 訂か ら始 まり、 文献
解釈 一般の問 題に も通
じ る聖 典理解
、 そ して その 成 果を学
際 的、宗
教 間の 対 話に 迄及ぼすべ きで あ ると牛歩
の す すみ を述
べ させて頂
きま した 。 2B)C
.実 践哲学
と しての 仏 教学
もう
33
年 も前、今は その メ ン バ ーで あ るUBC
のA
ク ラス の ホ テル の様 な教
授 ク ラブの 眼 前、朝
霜の ジ ョ ー ジア 海 峡 をバン ク ー バー港
に進
む氷 川丸
の デ ッ キ に 私は たたずんでい ました。希
望 と不
安の 目で眺
め た半島
の突端
、 ポイン トグレ イ の キ ャ ン パ ス に は 、 ア ジ ア関
係の 講義
は た だ 一 つ 、 日本
語そ して仏教
学に 至 っ て は論 外で した。 日本の 面 影 とい え ば片 隅の 小 さな和 洋折
衷の庭
の み であ り、真
ん中
の 、 高 さ五 メ ー トル の石 燈 籠の プ レ ー クに は 、 〔 平 和の 使 徒 〕(Ap
・sde ofG
…dwill
Am
・ngNati
・ns )、新渡
戸稲造
(1861 〜 1933) 記念
とあ りま した。 す なわ ち今
は、 日本
人観光客
で賑 うバ ン フ ・ス プ リン グ ホテ ル に お け る太 平洋
会 議に 、 日本 側 理事
長 と し て満
州 権 益の 正 当さ、 カ リフ オル ニ ア の排
日移
民法
の撤去等
を、精
魂 を費
して主 張 され た博
士 は 、 ブ リ イ テ ィ ッ シ ュ コ ロ ン ビァ (B
.C
.)州
の首
都、 ヴ ィ ク ト リア で 、10
月15
日、 日本 を偲びつ つ 客死 され た の です。 時の 晩 香 坡 日本国
領事
石 井 康 氏は一 高時
代、 博士の ts 衣 服 哲 学. (カ ーラ イ ル著)を中心 とす る教養講座
を開
かれ博
士 に 心服
した せい もあっ て 、葬儀
万端
を取
り仕
切 り、東
京 の 日加協会
の協賛
を得て 、 大 阪製
の 当時では “ 日本
一高
い . 石 燈 籠が製
作され海 を渡 っ た の で し た。 し か しそれ を市 内の ス タン レ ー ・パー ク (今は 日本人観 光客で 賑 う)に安置
しよ う と した所
が猛
烈な反対
に会
っ た挙句
、 か ろ う じてUBC
の人 目に つ かない 片 偶に お かれたの です。地
元の新 聞
に は 、 「折に ふれ て 、 と も しび がつ けら れ る」 と報道
され た が、 その機会
も な く、6
年後
の真珠湾
攻撃
の暁
、 石 燈 籠に は ロ ー プで引きず り回 さ れ た後、港湾要
塞 地帯
に な っ た附近
の藪
の中
に 捨 て去
られ たの です。側
に は 三基
の 海岸
砲 を 中心 とする本格
的 な要塞
が築
かれ、25
0名
の将兵
が守備
してい たの です。 しか し日本の 潜 水鑑は一度 もこの 海 峡に は侵入 せず終 戦 とな り、 キ ャ ン プの 跡( 14 ) 私の 北 米 仏教学三 十年 (飯田) は
学
生寮
と な っ たの ですが 、終戦後数年間
も日系
人は 、 カ ナ ダ人市
民で あっ て も バン クーバ ーに 居住禁止 とな っ た の で す 。 (この 不 法な行 為に 対 し、 本 1989 年カ ナ ダ政 府は正式に謝 罪 し、補償 金が支 払わ れて いる最 中 なの ですが……)。 石 燈 籠は
国
際 聯盟事
務 次長
だ っ た新渡 戸博
士 とジ ュ ネ ーブ時代
か らの友
人 であ っ たノ ー マ ン ・ マ ッ ケ ン ジ ー総 長の 先 見の 明 と決断
力に よ っ て 、大 学の 内 外の強 力 な 反対
即ちア ジァ か らの
脅威
(す なわち日本) を防 御 する要 塞 地 帯の跡 に、 日本の庭
園を作
る こ とは 歴 史の皮 肉
である 一 を打 ち破っ て作 られ た庭園
の 中に 移転
さ れ今
日に 至 っ てい るの で す 。 しか し1989
年のfirst
quarter のB
.C
.州の輸 出
総額
Ca
.$4
.5billion
dollars
の40
% がU
.S
.A
.に 、16%
がEEC
に 、3
% が其
他、そ して ライ オ イズ ・ シ ェ アーの