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真宗研究49号 002藤元雅文「本願における欲生心と唯除の意義」

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Academic year: 2021

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本願、における欲生心と唯除の意義

大谷派

は じ め まず、この小論において私が何を課題にしているのか、明確にしておきたい。 ﹁本願における欲生心と唯除の意義﹂というテ 1 マのもとで考察しようと思っている問いは、本願における欲生 心の意義は﹁唯除﹂の文を欠くことのできない事柄として明らかにせねばならないのではないか、又もしそうであ るなら、本願の欲生心究明において、﹁唯除﹂の文は、どのような意義を開示するのかという課題である。﹁信巻﹂ ﹁欲生釈﹂は、﹁唯除﹂の意義を積極的に明かす箇所ではないために、本願における欲生心究明という課題におい の文の必然性が課題的に考察されるということはほとんどなかったと言ってよいであろう。しかし、こ て ﹁ 唯 除 ﹂ の問題は親鷺聖人にとって本願および本願成就における﹁唯除﹂という課題の考察に不可欠な視点であり、決して 忽せにできない問いであると考える。 そ こ で 、 具体的に、この課題を考察するにあたって、本論では、﹁信巻﹂における欲生心究明の意義をまず押さ 本願における欲生心と唯除の意義

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本願における欲生心と唯除の意義 えて、欲生心と唯除についての聞いの核心を探りあてたい。その上で、﹁信巻﹂において﹁唯除﹂の課題がどのよ うに表現、展開されているのかを確かめ、 さらに﹁唯除﹂という課題がいかなる内実を有するのかを明らかにした ぃ。そして、最後にそれまでの考察を踏まえて、﹁本願における欲生心と唯除の意義﹂について明らかにできたら と 思 っ て い る 。 で は 、 早 速 、 その次第にそって﹁信巻﹂における﹁欲生釈﹂の課題についての考察から、論を進めていこう。

まず、﹁信巻﹂における﹁欲生釈﹂の課題を確かめておきたい。 親鷺聖人は、﹁欲生釈﹂官頭の御自釈に ト セ ウ ク ワ 〆 シ タ マ フ ノ ヲ ナ リ F 4 ︶ 言ニ欲生一者則是如来招ニ喚諸有群生↓之勅命 と表現される。ここで、﹁至心信楽欲生﹂という本願三心のうち、その言葉の端的な定義として、至心は如来の ﹁真実心﹂と、また、信楽は如来の﹁信心海﹂として確かめられ、そこに衆生という契機が直裁示されないのに対 して、欲生心は明確に衆生との関わりをその根本的な意義として持つことが明示されていることに注目すべきであ つまり、本願の欲生心とは、﹁本願信、い願成駅﹂として明かされる真実信心を衆生に成就させようとしては ろ ﹀ フ 。 たらく、知来の根源的な願心なのである。 このように、衆生に根源的にはたらく如来の願心として、欲生心の意義を見定める聖人は、さらにその深義を尋 ねられていく。それは、﹁欲生釈﹂の御自釈における 如来持ニ哀一切苦悩群生海一行二菩薩行−時三業所修乃至一念一利那・回向心馬首︸得三成ご就大悲心一故 オ ホ キ ニ ア ワ レ ム

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という一匂に見て取ることができる。この御自釈は、その背景に、﹃浄土論﹄﹃論註﹂の ンタマヘルスシテテノヲニニスラクヲシテトエタマへルカコトヲタニ︵叩︶ 云何廻向不三捨二一切苦悩衆生一心常作願廻向局ニ首一得三成=就大悲心−故 という表現を有し、さらにこの言葉を確かめるように、それにもとづいて、聖人は和讃を作られている。それは、 ﹃ 正 像 末 和 讃 ﹄ ﹁ 草 稿 本 ﹂ に 如来の作願をたづぬれば み た に よ ら い の ひ ︿ わ ん を お こ し た ま ひ し こ と を 一 ま ふ す な り 苦悩の衆生をすてずして 廻向を首としたまひて か し ら と し 砿 し め て 大 悲 心 お ば 成 就 せ り ︵ 日 ︶ み た の た い し た い ひ し む を え た ま へ り と し る へ し と な り と著されている和讃である。この和讃で聖人は、知来の作願︵発願︶そのものに、苦悩の衆生を捨てずという誓願 その苦悩の衆生に対して、回向を﹁慈悲の首︵はじめごとして、苦悩の衆生を捨てないという の 根 本 を 見 出 し 、 大悲心を成就されたという、本願の根源的なはたらきを見出している。要するに、苦悩の衆生を捨てないという如 来の本願は、知来の廻向という根源的なはたらきによって成就するというととである。このような如来の発願の根 本的な意義を究明するという課題が、ここでの和讃、﹃論﹂﹃論註﹄の文、そして﹁欲生釈﹂を貫く問題となってい る。したがって、欲生心の究明は、本願そのものを発起されたその意義を、もっとも根源的な願心に遡って究明し ようという課題と受け取ることができるのである。そうであるなら、﹁本願欲生心﹂という聖人の表現は、本願三 心の中における如来の願、むを意味するとともに、苦情の衆生をたすけんとする本願そのものが起こされたもっとも 根源的な願心を指し示しているのであって、そのもっとも根源的な願心の究明とその願心の成就の内実を明かす ﹁欲生釈﹂﹁本願欲生心成就文﹂において、なぜ﹁唯除﹂の文が明示されねばならないのかということが、本論の 問 題 の 核 心 で あ る 。 本 願 に お け る 欲 生 心 と 唯 除 の 意 義

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本願における欲生心と唯除の意義 四 このことを﹁信巻﹂そのものにおける﹁唯除﹂という課題の解明と共に以下考察していきたい。

では、﹁信巻﹂そのものにおける﹁唯除﹂ の意義について考えていこう。 の物語、あるいは﹁論註﹂ 従来、本願および本願成就における﹁唯除﹂の文についての究明は、﹁信巻﹂所引の﹁浬繋経﹂における阿閤世 それを受けての善導大師の﹁抑止門釈﹂についての考察、又﹁尊競 の ﹁ 八 番 問 答 ﹂ と 、 真像銘文﹂における本願文の﹁唯除﹂についての聖人自身の注釈などによって考察されることが多く、またその結 果として﹁唯除﹂の意義とは、﹁本願の機﹂を明らかにする文という理解と、﹁抑止門釈﹂にもとづいた掻取抑止の 二義を示すという理解がその大半を占めているように思われる。また、そのような理解の仕方とは一線を画する形 で、いわゆる﹁三願転入﹂という視点から、特に第二十・至心回向の願との関係において、至心信楽の願における の意義の解明が行われている。このような﹁唯除﹂についての了解・研究を踏まえた上で、親鷺聖人が ﹁ 唯 除 ﹂ ﹁信巻﹂において明らかにされている﹁唯除﹂の意義を厳密に考察するためには、﹁信巻﹂そのものの文脈および 構成からの究明が不可欠なのではないかと考える。 ﹁ 信 巻 ﹂ の文に対する課題の確かめは、 の文脈および構成に大きく関わっていると考えることができるからであり、具体的には、本願成就文の引 それは、親鷺聖人の﹁唯除﹂ き方および﹁信巻﹂の論述展開を不可欠な視点として取り上げた時、 そこに見出すことのできる﹁唯除﹂ の 意 義 が 存在するからである。 で は 、 その視点のもとに、﹁信巻﹂において﹁唯除﹂とは一体どのような意義を持つのかに ついて考察していきたい。 そもそも、親鷺聖人が、﹁信巻﹂において明らかにしようとするもっとも根本的な事柄は、﹁至心信楽之願 正定

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緊之機﹂と標挙細註されるように 設 我 得 悌 十 方 衆 生 至 心 信 楽 欲 生 我 園 乃 至 十 念 若 不 生 者 不 取 正 鶴 見 唯 除 五 逆 誹 誇 正 法 と誓われた﹁至心信繁之願﹂ の 意 義 と 、 その願が成就する﹁正定衆之機﹂である。聖人は、 その第十八・至心信楽 の願の意義を明らかにしようとされる際に、本願文と同時に、 その本願成就文の意義を明確化することに、大きな 重点を置かれている。殊に、﹁正定取水之機﹂を具体的に明らかにするには、本願成就文、 つ ま り 願生彼園即得往生住不退轄 と説かれる経言の意義をどのように開顕することができるかということがもっとも根本的な課題となる。 諸有衆生 聞其名競信心歓喜乃至一念 至心回向 唯除五逆誹誘正法 し た が つ て、﹁信巻﹂において、この本願成就文をどのように引文されているのかという視点は、当然﹁信巻﹂の課題の究 明そのものと深い関係があり、同時に、 その引文の仕方は、本願および本願成就における﹁唯除﹂ の意義の解明に 対しても、大きな示唆を与えるのである。では、その点を具体的に究明していこう。 聖人は、﹁信巻﹂において、﹁至心信策本願﹂の成就の文を冒頭に﹁本願成就文﹂として、﹁唯除﹂まで引文され ている。また、﹁三心一心問答﹂における﹁第二問答﹂では、その本願成就文を二つに分けて﹁本願信心願成就文﹂ 及び﹁本願欲生心成就文﹂として引かれるが、その際にも本願成就文は﹁唯除﹂の文まですべて引文されている。 それに対し、同じ﹁信巻﹂において﹁信の一念釈﹂直後における本願成就文の引き方は、﹁唯除﹂の文が引かれ の文を記さない引文の仕方は、その箇所に、﹁唯除﹂の文が ない形での引文である。しかしながら、この﹁唯除﹂ 単に必要でないから引文しないということではない。なぜなら、﹁信巻﹂そのものの課題と文脈を踏まえるなら、 聖 人 が ﹁ 唯 除 ﹂ き る か ら で あ る 。 の文を引かずに本願成就文を引文されるのは、明確な確かめの上でなされていると考えることがで つまり、この﹁信の一念釈﹂後における本願成就文の引き方は、﹁難治機﹂を説く﹃浬般市経﹄か らの引文を終えた、直後の御白釈に呼応しており、 し た が っ て 、 その御白釈に﹁唯除﹂の文を引かない本願成就の 本願における欲生心と唯除の意義 五

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本願における欲生心と唯除の意義 ム ノ 、 意義を聖人は明確に教示しているのである。それは 大悲弘誓一師二利他信海−持ニ哀斯一治憐二欄斯一療 オ ホ キ ニ ア ハ レ ム ア ハ レ ミ ア ハ レ ム 時 如 三 醍 醐 妙 薬 療 二 一 切 病 − 濁 世 庶 類 積 悪 群 生 雁 = 一 求 ニ 念 金 剛 不 壊 真 心 − 可 三 執 ニ 持 本 願 醍 醐 妙 薬 一 也 臆 知 一 モロ/︷\ ヲ テ ヨ ル 是以今描 ニ ノ ノ ハ タ ノ ミ 大 聖 員 説 一 難 化 三 機 難 治 三 病 者 懇 ニ という箇所である。ここで、聖人ははっきりと逆諒闇提という﹁難治機﹂ つまり、本願における﹁唯除﹂の機は、 大悲の弘誓において治癒したまうことを明言しており、この確かめに、﹁唯除﹂ の文を記さずに本願成就の文を引 文される聖人の意図を見定めることができるのである。 その上で、聖人はこの御自釈のすぐ後﹁信巻﹂ ニ ケ リ ノ ヲ ニ ハ 夫描ニ諸大乗一説ニ難化機−今﹃大経﹂言ニ の 最 末 尾 に 唯除五逆誹詩正法一或言=唯除造元間悪業誹誘正法及諸聖人一 と 記 さ れ 、 再 度 ﹁ 唯 除 ﹂ の 文 の 意 義 を 、 ﹃ 論 註 ﹄ ﹁ 八 番 問 答 ﹂ 、 ﹃ 観 経 疏 ﹄ ﹁ 抑 止 門 釈 ﹂ 、 ﹁ 法 事 讃 ﹄ 、 ﹃ 往 生 拾 因 ﹄ に 拠 の文を引いて、尋ねていかれるのである。これが、本願成就文の引き方を注目する時に見出される﹁信 る ﹁ 溜 州 ﹂ 巻﹂の大きな流れである。 さらに、聖人にとって、﹁唯除﹂という課題が、どのような質の問題であるのかを明らかにするために、﹁信巻﹂ の論述展開について考察したい。それは﹁悲嘆込慨﹂に結ばれ、﹁難治機釈﹂にはじまる﹁信巻﹂の転開である。 ﹁信の一念釈﹂から、﹁信巻﹂は、本願成就において生み出される機の内実を具体的に究明する論述が重点的にな その本願成就の機が明らかになることによって、その究明の最後の一点において明瞭にされ さ れ て い る 。 さ ら に 、 願に反逆するほかない衆生の現実を、 ねばならない事として、﹁誠知悲哉﹂と表白せざるをえない仏弟子の自覚の収飲する事実がある。ここで聖人は本 わが身の事実において問われ、悲嘆されているのである。また、ここに、悲

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喫されている内実は、決して﹁定衆之敷﹂に入ることへの不可能性でも、﹁真謹之謹﹂に近づくことへの絶望でも ない。一切の衆生に、無上仏道として開かれる本願念仏の仏法こそ、煩悩具足の凡夫に﹁定衆之数﹂に入ることを 成就するのであり、そのような本願の教えに出遇い、その教えの根源である仏願を聞信することをのみ課題とする 仏弟子が、必ず自覚せざるをえない﹁不喜﹂﹁不快﹂という﹁機﹂の事実を、﹁悲嘆述懐﹂は語り告げている。この 悲嘆にこそ、﹁難治機﹂と仏が説き明かさねばならない衆生の課題的在り方の質が教え示されているのである。し たがって、﹁難治機﹂つまり、本願および本願成就における﹁唯除﹂の機とは、本願そのものに出遇うという事実 のただ中に見出される衆生の現実、換言すれば本願に背くものとしての衆生の在り方をこそ課題として表現してい る言葉なのである。そうすると、﹁信巻﹂における﹁唯除﹂の意義とは、本願に反逆するほかない衆生の在り方そ のものを、本願の﹁ことば﹂のうちに明確化し、﹁唯、除く﹂と言い切ることにおいて、衆生における本願への目 覚めを待ち続ける大悲の﹁ことば﹂であると言いうるであろう。

本願欲生心成就における﹁唯除﹂

の意義 以上のように﹁信巻﹂における﹁唯除﹂の意義を確かめることができるなら、本願の欲生心という如来のもっと も根源的な願心の推究において、確かめられねばならない﹁唯除﹂の意義とは何か。 今までの確かめを踏まえて、そのことを考察するなら、一切苦悩の衆生を捨てずして、その衆生に、 を施与し、あらゆる生死に流転する苦悩の衆生をたすげんがために、その生死の世界へと、回向したまう知来の願 一 切 の 功 徳 心のうちに、﹁唯、除く﹂と知らせねばならない如来の大悲の内実を開示する言葉が﹁唯除﹂の意義と考えられる だ ろ う 。 本願におげる欲生心と唯除の意義 七

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本願における欲生心と唯除の意義 }\ そうすると、本願の欲生心のうちに確かめられねばならない いのであり、本願招喚の勅命である欲生の願心のうちに、本願に久遠劫来反逆しつづける衆生の現実を、妥協する ﹁唯除﹂とは、端的に﹁本願の唯除﹂にほかならな 一点の余地無く、絶対否定の﹁ことば﹂によって徹底して批判・吟味し、その衆生の在り方を白目の下に曝すはた らきを持つ厳格な﹁ことば﹂が﹁たずのぞくといふことば﹂としての﹁唯除﹂であると、 一度どうしても確認しな くてはならないと考える。したがって、﹁唯除﹂という大悲の言葉は、 いかなる在り方をしている衆生も、本願に 反逆するという一点において、 どこまでも妥協することなく、 その衆生に﹁唯、除く﹂と言い切って、衆生の在り 方そのものの重き﹁つみ、 とが﹂を知らせんとしてはたらきつづける大悲の﹁ことば﹂だということである。 こ の こ と を 踏 ま え 、 さらに考察を進めるなら、﹁唯、除く﹂という言葉は、根本的には本願の欲生心つまり、如 来が発願されたその根本的な願心のもとで、 はじめて明瞭に確かめることができるような如来大悲の﹁ことば﹂な の で あ る 。 つまり、本願の欲生心成就のうちに﹁唯除﹂という如来の大悲の﹁ことば﹂を確かめねばならないとい うことは、如来の根源的な願心のうちに、﹁唯、除く﹂という﹁ことば﹂によってのみ知来の大悲がはたらく衆生 の存在そのものの課題が見出されたということである。その課題を親鷺聖人は自らの外において推究するのではな く、﹁信巻﹂における﹁悲嘆述懐﹂のうちに、本願に出遇った一人の事実において本願に反逆する衆生の在り方そ さらに﹁唯除﹂という﹁ことば﹂が、本願の大悲の言葉であることを、身をもって究明されて の も の を 悲 嘆 さ れ 、 いくのである。その究明が﹁難治機釈﹂以降の﹁信巻﹂の課題であり、さらには﹁化身土巻﹂全体を貫ぬくものと 考える。したがって、﹁本願欲生心成就文﹂における﹁唯除﹂の意義は、﹁信巻﹂における﹁悲嘆述懐﹂の意義と、 質を同じくする事柄なのであり、いわば﹁信巻﹂における﹁悲嘆述懐﹂の内実を生み出す、根源としての﹁こと ば﹂が﹁本願欲生心成就文﹂のうちに確かめられる﹁唯除﹂の意義と押さえられるのではないかと考える。 以上の考察から、欲生心成就のうちに、﹁唯除﹂ の文を確かめている聖人の引文の仕方は、﹁信巻﹂そのものの展

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聞においてなくてはならない視点を示しているのであり、 また同時に、聖人にとって﹁唯除﹂ の文の意義を推究す るもっとも根源的な基点を明示するものなのである。

誰一人もれることなく、皆に斉しく同じく誓われ、喚びかける如来の願心こそ、親鷺聖人が﹁誓願一悌乗﹂と開 顕し、﹁大乗のなかの主配﹂と領かれた浄土真宗の根源である。その具体性を﹁本願欲生心成就﹂の中に、﹁唯除﹂ という大悲の﹁ことば﹂にまで確かめられた聖人の聞思の内実を考えるなら、﹁唯除﹂という﹁ことば﹂とは、徹 頭徹尾、虚妄・虚偽を生き、本願に反逆しつづけるほかないわれら衆生に、本願が成就する一点を指し示しつづけ ているのである。したがって、﹁本願欲生心成就﹂において、﹁唯除﹂の意義を究明するという課題は、明らかにし なくてはならない必然的課題なのであり、ここにこそ本願および本願成就における﹁唯除﹂の意義を考察していく 基本的視点が存在するのである。 なお、本論において一言触れたにすぎず、これからの課題ということになるが、﹁信巻﹂と﹁化身土巻﹂との連 の意義の究明の展開として考えることができないかという問題提起をした。特に 闘 を 、 ﹁ 信 巻 ﹂ に お け る ﹁ 唯 除 ﹂ この問題に関しては﹁信巻﹂の最後、﹃論註﹄﹁八番問答﹂から、﹁往生十因﹂による﹁溜州﹂の文における﹁五逆﹂ の確かめまでの展開で、聖人が何を課題とされていたのかということを明らかにしなければならない。さらにその 上 で 、 そこでの課題と﹁化身土巻﹂において展開される課題とが必然的な連関を有しているのかが問われよう。そ の問いに対しては、﹁信巻﹂における﹁唯除﹂ の機つまり逆語という課題と、﹁化身土巻﹂における課題の質がどこ まで明らかになるかということが、究明すべき最大の点であるが、このことについては今後の課題としたい。 本願における欲生心と唯除の意義 九

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設 ︵ 1 本 願 に お け る 欲 生 心 と 唯 除 の 意 義

是ヲ親 以テ驚 本 聖 願ノ人 欲 は 生

1

i

説巻

文 「 「 欲 経ニ生 』 釈 言マ」 2の 至 御 心 自 回 釈 向シの 3後 願ハ 生ト 彼ノ 園ニ llP 得ェ 往 生ヲ 住セ ニ ム 不 退 縛ニ 二 唯 定除ず

本云

P

整蓮ト

T

I

誹 信 誘

法ト /¥ 頁 と記され、﹁本願欲生心成就﹂に、﹁唯除﹂の文を明確に確かめられている。 ︵ 2 ︶﹃定本教行信設﹄一一一七

1

一 一 一 一 一 一 頁 。 ︵ 3 ︶たとえば、﹁教行信証講義集成第六巻信証 H ﹄︵仏教体系刊行会編二七六

1

二七八頁︶に見られる深励、道 隠の理解や、鳳嶺﹃広文類聞書﹄︵﹃真宗大系﹄第十六巻一五九頁︶などの理解を参照。 ︵4 ︶﹃定本教行信証﹄一二七頁。 ︵ 5 ︶斯心則是不可思議・不可稽・不可説一乗大智願海回向利益他之異質心是名ニ至心−︵﹃定本教行信証﹄一一九頁︶。 ︵ 6 ︶ 言 − 一 信 楽 一 者 則 是 如 来 満 足 大 悲 園 融 元 号 信 心 海 。 ︵ ﹃ 定 本 教 行 信 証 ﹄ 一 二

O

頁 ︶ 。 ︵ 7 ︶﹃定本教行信証﹄=二頁。 ︵ 8 ︶言ニ欲生一者則是如来招コ喚諸有群生一之勅命即以ニ員賓信樹木戸国局二欲生鐙−也、誠是非ニ大小凡聖定散自力之 マ ネ キ ヨ プ 回向−故名工不回向一也、然微塵界有情・流ヱ縛煩悩海−粛ニ波生死海−元ニ異質回向心−元ニ清浄回向心−是故如 来持ニ哀一切苦悩群生海−行ニ菩薩行−時三業所修乃至一念一利那・回向心局首−得三成ニ就大悲心−故以ニ利 他員賓欲生心一廻ニ施諸有海一欲生即是廻向心斯則大悲心故疑蓋元二雑− ︵ ﹁ 定 本 教 行 信 証 ﹄ 一 一 一 七

1

一 二 八 頁 ︶ 。 ︵ 9 ︶ ︵ 川 ︶︵日︶ ︵ 口 ︶ 廻る苦サ口~rr

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一 二 七 頁 。 一 五 一 頁 。

(11)

大 悲 心 お ば 成 就 せ り ︵ ﹃ 定 本 親 驚 聖 人 全 集 ﹂ 第 二 巻 和 讃 篇 一 七 七 頁 ︶ 。 と著されて、﹁廻向を首としたまひて﹂の左訓に、﹁しひのはしめとしかしらとして﹂と確かめられている。 ︵ 日 ︶ ﹃ 定 本 教 行 信 謹 ﹄ 一 二 八 頁 。 ︵H ︶たとえば、法住﹁教行信証金剛録﹄︵﹁続真宗体系﹄第八巻九

O

頁 ︶ を 参 照 。 ︵日︶深励の﹁康文類曾読記﹄︵たとえば、﹁真宗体系﹄第十五巻四二頁︶や道隠の﹁教行信証略讃﹄︵たとえば﹃教 行信証講義集成﹄︵仏教体系刊行会編︶第五巻一三六

1

一 三 七 ︶ に お け る 理 解 を 参 照 。 ︵同︶贋瀬呆著﹁真宗救済論﹄一八四

1

コ 二 八 頁 。 ︵ 口 ︶ ﹃ 定 本 教 行 信 謹 ﹄ 九 五 頁 。 ︵日︶﹁真宗聖教全書一﹂九頁。 ︵凹︶同右二四頁。 ︵ 却 ︶ ﹃ 定 本 教 行 信 謹 ﹄ 九 七 頁 。 ︵ 幻 ︶ 同 右 。 ︵泣︶ノタ茨経﹄一三口諸有衆生聞ニ其名競信心歓喜乃至一念至心廻向願三生三彼固即得三往生住二不退時又 言 ・ : : ・ ︵ ﹃ 定 本 教 行 信 設 ﹂ 一 三 七 頁 ︶ 。 ︵ お ︶ ﹁ 定 本 教 行 信 設 ﹄ 一 五 三 頁 。 ︵但︶同右一八二一

1

一 八 四 頁 。 ︵お︶同右一八四頁。 コ ト ヲ ニ サ ル コ ト ヲ ︵却︶誠知悲哉愚禿鷲沈三波於=愛欲康海−迷三惑於ニ名利太山一不三喜−一入ニ定衆之数一不周快三近=員護之謹一可ニ 恥 一 一 弘 一 鼠 ブ ム 失 ハ マ マ ︶ ︵ ﹃ 定 本 教 行 信 証 ﹂ 一 五 三 頁 ︶ 。 ︵ 幻 ︶ 具 体 的 に は 、 ﹁ 現 生 十 種 の 益 ﹂ ・ ﹁ 横 超 断 四 流 釈 ﹂ ・ ﹁ 真 仏 弟 子 釈 ﹂ ・ ﹁ 便 同 弥 勅 釈 ﹂ ・ ﹁ 仮 偽 釈 ﹂ な ど 。 ︵却︶﹃定本親鷺聖人全集第三巻﹄和文篇七五頁。 ︵ 却 ︶ 同 右 。 ︵ 却 ︶ ﹁ 定 本 教 行 信 護 ﹄ 七 六 頁 。 ︵訂︶﹁定本親驚聖人全集第三巻﹂ 本 願 に お け る 欲 生 心 と 唯 除 の 意 義 書簡篇 六 二 頁 。

参照

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