――目次――
1,
とう
頭の考証(下):宮座の一問題として, 小野祖教, Historical Analysis of Usages of To–With reference
to Miyaza, Soky
ō ONO, pp.1-11.
2,
如来蔵思想のシェリング哲学に対照さるべきもの, 玉城康四郎, The Thought of Tathāgatagarbha and
the Philosophy of Schelling, K
ōshirō TAMAKI, pp.12-34.
3,
エマソンの宗教思想, 宮田元, Religious Thought of Ralph Waldo Emerson, Gen MIYATA, pp.35-52.
4,
宗教社会学における機能主義理論(上):現代の宗教社会学の frame of reference, 柳川啓一, The
Sociology of Religion and A Functional Theory (1), Keiichi YANAGAWA, pp.53-67.
5,
西欧と日本の宗教の歴史的発達にみられる並行現象, ラファエル・ペッタツォーニ, pp.68-72.
6,
ラファエル・ペッタツォーニ教授を憶う, クラース・J.ブレーカー, pp.73-74.
7,
ペッタツォーニ教授の業績, ゲオ・ウィデングレン, pp.75-77.
頭 の 考 証 ( 下 ) (1 帖 ) で
に 々 い 司 、 し
りこ
" れがに然の令
" よし長制
頭 " と 寮 " 憤 ら 文 る " 官 の 火役 前 も の
手上役
に と の び 四 は い は ュ 長 男 、 の の 矢 坪 が 上 ふ 制 官 役 や で で 、 が あ そ れ に は に ム は な 督 因 る の て 於 普 関 そ な い 、 別 の や 置 け 連 係 れ い と 顕 さ で ぅ く る ほ の が か し 、 れ ば に 私 案 は あ 顕 と て 守 て な 名 要 の 特 も や れ 多場 的 あ
今上
首 でれふ
呼 合 性 る そ 丁 と 去 る 以 んれのい
。
ら階ふば
へ節外
もに
だの と 強 の 級 や 悉 あ と 一 な う く る 格であ
字をっは様ミ
にす
々」
由 い 用 る つ に の と を も の で ゐ
あ る 味 し 宛 通 る す い て の る 正 る や ら 呼 るも 力 親 い う ね び の と ね て 者 サま 正 ま 出 ゐ で 無
小野
祖教
頭の考証
ミ
正 、園池
正
、諸陵王、
、織部
正 、隼人
工 、
までは
従
六位上、主
頭
、玄蕃頭、主計
、陰陽頭、主殿頭、
といふ
、いはば
登竜門にある役である。
とは比較にならな
にあり、その母屋は
ある所であった。
司
と変うない性格
の役所である。
11 ㏄ ) 2頭 の 考 証 ( 下 )
に
原形が出来て
居
Ⅵ
のであらうが、一般
3 無稽であるとは考へられない。 五、仏教と種々の
頭ものを抱へて居る 点 てゐるそうに思はれ る 。
事 に関連して用ひ
証明出来ないのに、 ソス は、次節で取扱 以上のそうに見て来る ぬ ることが知られる。 極端な考へ方は許され てゐたこと二関聯して 考 れない。 頓 といふ言葉の 意味は含まれてゐなかっ 私は寮の特色は 、例へ 暦生、天文生、守 辰が居 り 、雅楽寮には、歌師、構 師 僻土、 笛師 笛生、 たのではないか。 は 技術的な職務と深い関係をもって選ばれて 、法顕といふそうな称呼が一般的に用ひられ 念 と非常に懸離れた 使ひ 方であったとは思は も 、非常に高い身分を連想させる程の尊敬の 、造畢手が居り、陰陽寮には陰陽師、陰陽 生 、 笛工 、唐楽師、楽生、高麗楽師楽生、百済楽
に 感じられてゐる 程純 日本的なものでほない。
のではないかと 思 はれる節がある。 0
名であるのだ
営 面を担当して ゐ
つが Ⅰ神社の神職に
してゐるそうであ
来の役割とを考へる である。
を
感ずるけれど
鎌倉時代に輸入され 沢山あらはれてゐる。 、延寿、堂頭、浄に 、 湯頭 、番頭、米
、禅林家親筆等に ょ る 事が記されてゐる じ
は、 令に見られた
ゐて、 全く前代との 連りをもってゐないものでもないや ぅ である。 Wl ㏄ ) 4
頭 の 考 証 ( 下 )
番頭、米 頭 、表顕、麻 頭 、 穀頭 、火頭、柴 頭 、 炉頭、鈍頭、及び
偉観である。
が 殆ど明瞭なのだ
、生活に関係ある仕事に携はってゐる。
の 担当責任者をさしてみると見てよい。
ふ ものがある。 同
︶ 材卜
次郎貫主数頭
又御供添の次郎貫主御供
添 の教頭取扱 ふ 役であったのであらう。
もって ぬ た天台の
﹂上に用ひられた 次
さして ぬ るのであら うかと思はれる。
ぬ る。
年 二月十五日︶に 掻頭 5 (1 ㏄ )
六
、季の御読経と頭人
差 当って得られ 事 が先決である。太平記に 多聞 院 五十三文講頭
観 教坊五十二支め る。
的な仕事に当 つ
に 近いものなの あらう。
考える事は出来
も、 頭といふ名が ひられる場合が少くない事をあらはしてゐる。
係員、役の人と
たのであらうが、
ひられてよかった であらう。 ナ、 0 合 い 円 な で ナ, ヒ ィ 110 Ⅰ 6
頭 の 考 証 ( 下 )
と事
見の
「有タ
メテ此レ柄宛
"彼ソ
"副官
各局
雙フ床テ
ナノ
"通所大二会
誉領巾。
家 リ 。某千
" " も、 仏1
く輯 二星
袈 皮名神
計 方相 ノ 少シテ
民 で る(Ill)
ら 豪華な遊戯にふ
ものであって、王朝
、類聚国史に 、嵯
僧都大志 が手 づから
大師が 唐 より将来し はいへない。
経は大般若 会 で、
和 天皇の貞観四年、
て 行ことになった。
僧 一同に茶を賜 は 6 式である。
源が 聖武天皇の百
、 恐らく、嵯峨天皇 の 弘仁の茶の植栽以後の事であるだら ぅ 。 のは、季の御読経
身をかざり、四玉 頭
は 、衆僧の威儀を真 ィ 112 Ⅰ 8
頭 の 考 証 ( 下 )
一十余人の頭人の運ぶ
のばかりである。 太
、 玉を淵に沈めたる
試 しての嘆きである にちがひない。
会 その他の法会に
へてゆく事であ
阿蘇文書に、神事
なく、もとは、法会
の 意味では役人であ
といふそうなものと
もう 。
を 分担する義務を
嬰 がある。それは 又
箸 である。 / Ⅰ 13 Ⅰ
、神役といふ やぅ
考へるべきものでも
ものとの関連に 於い
、 凡そ以上の諸 側 か ら見て疑 ふ 余地はない。
はみないといふ 事
して、供養する際の
である。
はれる。神事の供
改めて取扱って見た
ある。これは正月
行事は平安の初期に
めて ぬ た。石清水仕
上 によって紹介され
ある。
取扱 ふ べき問題で セ
Ⅰむすび
ィ Ⅰ 14@ Ⅰ 0頭 の 考 証 ( 下 )
勿論十分には明らか
して、不明であった
一一四、一一、一一︶
汝
とォ
J;
塞、
ヲ。
但毯
;
佳幸
鷲 に ソ グなくは
忠行、
抵にすはっ
討と
二l
一は
想ては
お、 態て的て題
のいに
キに少は)
。
想四ソ
ド 9 " 景後抵い神ス
根なはりつく
いと時十
"はに
お 如 に に 。 に ト て も 代 入 い世紀
し、
な考 考察 の間 離れ の未世
乗仏五
学」神とな語
に支 と、
思、
るば ら十か
け
る 自なく、
互い ( て の差 の構 力 p こ、
心 に 仏 、 た ・ た
玉
の あ 大 差 景 主 る に ろ 乗 遠 に 義城
康
四
且口 ぅ し 、 で 交 で ンし て
他面
渉 あ グ如来蔵思想の
対
シェ
昭
リング
哲
さる
べ学に
き
もの
(116) 12如来 蔵 思想のシェリソバ 哲学に対照さるべ き もの た 六 一 が に シ げ シ 部 問 題 て 教 か してみよう。
伝えられていない
いろ。すな ね ち、
、貧家の珍宝、
によってつくられ ︵ く Ⅰ︶ の 如く述べられている。 払 出世、 若 不出 ︵ 4 ︶
れる。既成宗教の
ぇ るであろう。そし
、両者は同一の 間
について、同一の
或はまた 未 展開の
想 の一典型である
て 如来蔵思想にお
が 知られる。また
リスト教義の事実
あろう。 一 一 13 く 1 Ⅰ 7))
あり、如来が世に
しれを、前にあげた
れている所の 、な
である、という 性 を 与え得るであろう。
盤 経にも示されている。すな ね ち、 プリ・ せゅ Ⅰらとの対比 、 是 攻衆生不。 能 。 ハ 8 ︶ 真金蔵者 即 仏性 也 ﹂ 云われている。
であり、遍満し モ 。手目 舌 ︶安穏
定 している。つま て 、無分別宮田 r
ラ
、如来蔵は 、い わ 荻恭而族 ︵笘でⅡ p とネⅠ 昌 ︵の︶ いかなる学派のものに属するか明かでないが、 外道の我論に対す な ば 守 り 宜 て に と 格 に 九 山 下
性 が存し、それは㎜︵ 世 、一切衆生如来文蔵、常住不変﹂︵ 6 ︶
思想 蔵 来 女 シ,リソク 哲学に対照さるべ き もの 。 一 @l?l@ 忠 さ 識 ら 論 に 的 甥 に 伽 超 経 越 に 的 っ で ぃ あ て る 校 註 索 り し で て な み
る、
く と 存 、 在 ア 的 ラ v= ヤ も 謝 ま と た 如 対 来 象 蔵 ィヒ と し は 得 同 な 一 い な もと ォ巴 し 捉 て し 捕 縛 え な ち い れ も て の お と り ( し 、 ピて ア ト の さ よ れ ぅ て な い 攻口
来
る 15 人ヱ 19 Ⅰ ︵は︶すると、如来蔵は 、
・ づ 舛田・ 0 プ 0 の・ ガぢぁ田デ ︵ 乾 ︶
仁ま , ㏄ 田か ・ づ 0 ︶ 、 出 世
6 所ではなく、 思
のとして存在的に内
なものとして示され ︵Ⅱ︶ の でせ つ 倖 ・ つり日ゅ ・ ず 的の由 巴 ︶ と 云われており、チベット訳では、 ることは、 とができず 了得し
・内のケア
界
、非,一切声聞
縁覚
所サ知
、如来蔵
如
説,堅調義
ロ ︵ 0
︶
とは云えないであろ
くともこれによって
あるから、存在的に るであろう。 つぎに 隣 里経には、
臓 篠
、
︵ 巧 ︶
ヱ ・
Fpq
︵どである﹂
と
云われている。
勝挺 経にも、
﹂
帝
ぅ 明瞭に、如来蔵は
体主
無 あ
生
o
許
@ ガ ッ
(120 Ⅰ 16如来 蔵 思想のシェリンバ 哲学に対照さるべ き もの ︵ 幼ご
を 照合すると、無生
あろう。そして如来 - め ︶
は 無生の心より外に
0 せゅか ・ 倖曲的 ・で 燵マ幅体の ㏄の・ ︵ 担 ︶
寂 不動、無生左心であ
外 ならないであろう。
生滅愚知 相 、隠。
蔵は生滅の 、 心の蔵
性 は空ハ き串 ・ 田 ︶であって不動︵三目せ 0 臣と である、相が知られ
来蔵は 、その自性が ︵ 羽 ︶
ついてシナ訳では、 ︵㎎︶
とあり、これも 意
目 , qEp. す らも存しな
空でありつつも千恵
が 本性の相 宙ゴゑ ・ 日 。
︵Ⅱ㏄ 田笘の ・の 0 ︶﹂と一ム 、 ︵ 3 2 ︶ われている。
関 わる場合には、
る 場合は 、 種々の 心 Ⅰ 7 (12 ⅠⅠ
と 答えている。チベット訳を 0OO ﹁諸仏如来はつねに一党を ぬのの・ 口 arc ゴロ 伍 ・りし、なんと 行じて、諸の衆生をして覚 ることによって空であり、 転ずることがないから、 本 とある。右の両訳を照合して 見ると、
とによって 浄誠 に入る 宙 ︵の pp. 隼 pm. ロゅ田 ・
うて ずⅡ ョ ・ 日 0. 口曲の ︵の す 0q. す 笘の︶つ み 侭に一党 たへ
・ すド ︶を得しめて、諸の心と意とを覚す
性宙ずニ
・ 日 0 ミ ・ 下 0, ヴ 0. ぎ色はまさしく
︵ お ︶ 来 動ずることがない﹂瞭 である。如来が衆生に 仙い て衆生の本 寛 が 極 象 の 相
。従って﹁是非﹂
長 する、という 具
れており、従って
られる。
う な 斬 らしい性格 何か、という問題に対して、
は 故、一切衆生本覚、常 以 ,﹂ 覚 - 覚 :諸衆生 - 、 令 , 彼 衆生音律: 本
心 が増大してくる、 甘
ており、起信論にお ︵ 舛 ︶
ある。そして生滅の
明白ではない。ここ
相
︵衆生から如来蔵
いるということがで
﹁ 一
覚を行ずること﹂令旨
0
︵・ ヴ
p.mn
田
m.
の
ョ
村田
つ
し
を 暗示していることである。
p.
日
0. コの
の・ 円 ㏄ ず
。Ⅱ・ サら
︶
い
く 、同時に認識根拠
う 趣旨を一歩進め
ような性格の存する
は
﹁所謂
随レ如
﹂といい、㎎
れる。
来
蔵経にお
蔵経や浬
盤
はあり得な
廻の根拠
た
怪
めよ
う
、不動、無
体
となるも
、この根源は
口才
汀
Ⅰ
色 。 の
づく。︶
いう
0
巾ぺ
ロロ。
Ⅰ
し子輻
m,
︵ づ
㍉の
0 Ⅱ
づア出
0 の 0
㌧ け
∼ e.
と
は 、﹁転変する 智 ﹂ 四 よって 催 破する﹂︵ 目 きの㏄ざの
日扶俺
・ 廣 甘し と 云われている。す幽
て 支配されているこ如来 蔵 思恋 ︵ 0 ︶ ほのシェリ ソ
(
()
)gU
9 グ 哲学 : こ 対照 ま べ き もの大 ) し 21
の仁 コネ コか ︵ 目 Ⅰ ま
寺下
ぎ 。も 隼串 しぎ 港 、お 0 ダ などがある。の ㌧ 巳 二の︶Ⅰ由の㍉
圧 Ⅰ㏄二のいの㌧由の ロ ・
の 5%, などは
著 に現われてぎた後期の作品、・安土色目お田 往の ㌧ ず出 0 のつつ ア @ つ・
して示されて
と 云い︵Ⅹ︵・
る、とム 述べ ている︵Ⅹ二・二 8 。 大 ﹂ エハ ・ か 寒つ右の レ
の 箇所の ヂベ ツト 訳を示すと、
内赤 0 幅の・㌧ 建す丁
のプソ臣 ・ 幅払 0% や七・
ぬ来藏 であ
か ︶ あ ・の1 3 ︵以下円円 こ 新誌参照。 天一二・ Ao ∼ し
四大コ
ハ ・ぅ のは、何れ
取 するため ぬ来 藏を説く、と附加されている。
︵ 二リ ︶ ︵。 0 ︶ ︵Ⅰ 1 ︶ ︵ Ⅹ ハ リ ︶ ︵ Ⅱ ハ ノ ︶ ︵ Ⅱ ハ リ ︶ ︵ 1 す Ⅰ︶ ︵ ノア︶ ク ︵ く か し ︶ ︵ 2 4 ︶ ︵ⅠⅠ︶ ︵ つク ︶ ︵ 1 3 ︶ ︵ 1 4 ︶
﹂︵太一二・ NN ︶ e という趣旨は強調されている。 天一二・ S 揺 、円円 フ ㎏ ケ Noo@@T ム
識 と名づ け
卸的由 ︵由伸 斡 Ⅱ ヴア曲 ・迂曲 逼丘古ひ日 ・ 沖 Ooa 母 ・Ⅰ㏄いい︵ ト・ ︶どなど。
る 。 天一二・は㏄いり 0 チベット訳には
アハす mH ︶ e Ⅰ 由 0 ︶
11㏄Ⅰ ゆ くか ー ト ︶ 0 づ ・ 由 ︵・ 口 S び ︶ 0. ㍑・四巻 崩伽 天一六・ 目 。 の
た 。印度 学 仏教学研究 巻 六二三九頁以下。 大丸・ ま のの 口曳内の由 円 z0. おの・ 憲 ㏄ 酊 l 馬を - 0 や・ n ざ ・︶付か aql め 0 や勘 ︵, 憲母キの
三四・ ゅ 00 こ
ているのは、
ろ う 。
ると云える
べて同義五皿 で
ら 三者が何れ
煩悩 纏 不清浄 Ⅰ: 円 , 巾 ・㎏ か ・ ハり の㏄ 1 ㏄1の ノ c ー ハ付句 ゅ |ト ・ ー1トン
ことは、如来蔵の内容に
相互に関連は存する。
前提されるべ き ﹁一者﹂ 為
要素を取り出していぎたいと思 う 。
C ロサ の 田コ 咀のⅠあるいは いった。しかしここに 如 の 哲学的傾向のすべてに 我 について﹂のなかに 指 を 払いながら、かれの 会 の
しとげてきた。初期の代
類似している と 云えるであろう。 元 ︶大丸・ お田 ︵ 托 ︶ 0 づ ・ 缶 ︵・ HN 蓮 ".0 ︵㌘︶大丸・の べ ㏄ 下
は シナ訳も同様であ るから、ここではチベット訳に従う方が正しい。 一 一
は な れ ず 意
ぎという命題が生 ︵ 5 ︶
0 表象作用から 離
ぎダ 隼の コオ のには
あるいは﹁自我の愛著﹂ 妄 由井 ヱ 。コネ 8% こ が 残るが、 ぎァまコ
る 。かれは、同一
怯
﹁根源的に自己を @4 ︶が 強調されており、 超越的であると云い得るのである。 おいて述べられている よう に、﹁存在する﹂ ならない。その意味に は﹁思惟する﹂という
が
﹁対象的な証明
可
ハ 制約者は、客観に
岸 コ卍 ソ 9% 局 的付 e のⅠの互に
なり得ないものだか
も 無制約者とも呼ばれている。とこ る。主観はただ客観に関してのみ、 約者﹂は両者の何れにも含まれてい ぅ までもなく主観と客観とであ 得るという理由によって、﹁ 無制0% コ洩 じは、いかなる意味にお
グ
によって絶対者
と
く 128 Ⅰ の ﹁一切の知の実在性 ぬろ う 。 田ひ 来
絶対者は、後期の Ln 。 女
リ ソグ哲学に対照さるべ き もの
られているが、しかし
の 観念をも超え進ま ずにはいない。
ら 、自己意識を支
我の認識﹂ C 目籠 コ 0 口
め Ⅱの︵じではなく、 そ ハ ツ なかにはす ネヒ に﹁本来 の 存在﹂︵救の艦のの コ ︵・
、もとより認識作用
しであって、﹁自己
倖 0 Ⅱロロロ目﹁ 0 二の俺 @ 隼の㏄
我が自我として成立
であるが、しかしこ
者によって創造され
口々は自己自身が創造
口々はつねに﹁永遠の原初し 宙圭 存目トコ す 局も であるといい得るで
なわちそれは、﹁ あ
﹁ 無
制約的な実存
対比において触れる @O
あるということは 識の場を離れないとい 右の点から、この ょ
私の哲学体系の叙述﹂
述べているのは、 右 であろう。 えるが、そのなか ﹂れに従えば、﹁自己 自我自体が生ずるの
らないからである。
ている。このような 口の コ カ の 巳 ︶をなして
である。それが知的 に 伴われている。 か
ような直観は、それ
かしこの﹁ 肋き ﹂は (130 Ⅰ 26
如来 蔵 思想の シ,リソク 哲学に対照さるべ き もの
純 な本性
宙拐ぉ巨
お田田口のぎ
守 斗の毛のののし
絶対性﹂
雀 ざおぎの
︵
レ
︶
ムぅ のである。さらに
弓 学 実に
き
し
半 さ
云
則 宙 )
.
27 ( Ⅰ 31 Ⅰ
前提 し 得る唯一のも ︵Ⅱ @
的 直観は、﹁全く 単
ぎであるという 性 ぜなら、先験的思惟
︵ 3 こま 、 v 沖 註 ︵ 1 ︵ 2
の
Ⅰ・
トの
㏄
まれている・三万
る
物し
盆ぎ
のである。
o
や
c
ぃ
︵・︵コふ
アルバ
ソド
に
絶対的自我
の
0 三市
く串コ一
口ロ
せ のⅡの
コロ
のⅡ︵の
0 日
廷
㏄ 、
のなか
が
、﹁根源的
とは明かであ
はもとより、
からおおい
隠
の
帰結として含まれていると考え得るであろ
︵
4う 。Ⅰ
︶
C132) 28如来蔵 思想の シ,リ ソグ哲学に対照さるべきもの の目 29
12 11
10 9 8 7
6
" Ⅰ・ の ト Ⅰの 。 ず ず い ロ 二 @@" % " 目 Ⅰ ィ '" Ⅰ @" " る 。 毛 0 . 「 5
0
0 0の
目
プ Ⅱ ) 0 ず の Ⅰ 目の目
Ⅱ しい 凹 毛0%
何 佑づ Ⅱ円月 艦月 庁ア ァ汀 巾 のの 器 ) 宮・ 用 梓 ト と 党 一 。 の才の㍉0
Ⅰ りの曲 薫 仁 「 も は っ 。 ヨ円 五絶。 の。 の 曲の 圧へ 名わ対
。 絶 。 Ⅱ 隼 れ曲。 対 。 0% トのヰ ) 隼 0 てな。 的。 い作 。 力 ㎏ の - 。る 。 用 。 つ 自 。 。 戸 0
Ⅰ事由。
Ⅰ な。
由 Ⅰ 。 作 。 仁 ㌧たプ
臣
叢 (Ⅰ (出
な
㏄ 宇 対性る限OO
なり 隼 曲 りく 133 Ⅰ
々の傾向との共通性を考えてみよう。 こ 間 景、 と う を シ が て 有 ェ 認 い し り わ に で ソ と
め る て ソ ら
れとる
こい
グ 哲 る が に 学 四 。 知 拘 に 知 ら ら おの で シ 絶 諸 あ ェ 対 性 ろ り 者
につ
ラ。格に
ソ グ つ 従 の い い っ 絶 て て て 対 は先考とれ
両者
こ に の 如 ま 十 間 来 で 項 に 蔵 論 目 は は じ ヤァ し て綜す
相 き め で 互 た た に に 所こ し し 見 れ た た れ に 所 間 は 照 か 題
仏教
合し 見 ら 意識 て て の 居、 右 も 下 僧、 に い で と 論 く 或 は じ つ る 全 た か 共 く 絶 の 遊 興 対 類 の な老仏
智 った
哲
に 関 点 の 学的 す 拝領掌
る す 域 の 種 る を 背十月 ? 田田仁一 性であるという見解 即
叱 ・︶ ざ 0. 苗 ・の oN. おか 30
れる、いわば 一そ
らゆる﹁実在性﹂
第二に如来蔵は
、 我 ﹂︵のプト 曲サの 。 甘卜 ︵ 0 の別 、理論の領域を越
な 証明可能性の全 領
的に超越的であると
ハ生、無住、不動、無
く 管的直観を強調し
本覚であり一覧であり、 の
のであり、認識作用それ
﹂ ? ぎ 自由のの 去 りしである
仙き ﹂ ? 日弗ニリ の。 ざ ︵ ヰ Ⅰの ノ のの
と 考えられている。第七
目 沃田︶の観念が含まれ 。そして右に述べた セっ ヱ ていることは、先に寸言した如くである。
て 、両者それぞれにお け 弔ひ
ての内部連関にあるもの 女 3 Ⅰ ( Ⅰ ;31,i Ⅰ
︵ 90 ︶
つぎの︵の 目
ことの対立
申すの。 ト屈 ⅠのⅠ コ宙 出京 e Ⅰの局ぬ
というのではなくて、
田の隼の口のの 壷 このの し で
、この本体の持ち得
そうかと云って 、決
というような対立の
目 の 孟コ N Ⅰもしくは﹁無頓着﹂ 律蚕臼め田 ︵
こ
の 態度をとるのであ無著と云われる如来 ︵Ⅰ イ ︶
無底 はすべての﹁ 対
歩みよっているもの
という推定にまでも 駆られるのである。
れており、ことに
別されていることは
ろうかということで てみよう。
在するもの﹂ 雀援
の 已に遭遇している。 [1 ㏄ ) 32
如来蔵 思想の 、 ンェリ レ アレ Ⅰ 哲学に対照、 さ る べぎ もの
存在ほ、自己の﹁ 否
﹂ 宮む 牛車村田︵︶あるいは﹁ 力 ﹂ 匂 。 3 目︶で あり、従って﹁素材﹂
Ⅰ 0 Ⅰ。二︶と、﹁ここ
して離れ合 う ことは
S でも、第二の肯
って めへ 措定するもの
00 二︶であると答え 田口の。きなのである。 右に述べたシェリ ソグ の見解は、否定と肯定、
神となっており、
という事態を 、 余す
、それぞれの内容の
有 である所の神は 、 33 (137)
極めて単純ではある が、 少くともこれらの表現の指示する方向は 、
ろ う 。 、かれは神存在の
乙甲 はぎ ︶において
﹂ 谷援 トレ口目田川 ノ田 Ⅰ 0 ト卍ソ 目の 現実態へ移行すること
かも第一の存在にお
3 2 的 な 女 来 蔵 が , 同 時 Ⅴ ラ し P 空 。 l 年 払 せ曲 で あ る と ム わ れ て い る 意 味 と 可 少 @ と も
原理
㌧。零下
草笛 形 式 的 ヰブ ヒ は 同で あ る と 公水 考 七万 「 え博 る で
あ ろ (138)@ 34
をもってくる。 そ
謁 しているからであ
よ う 。
か 、また、その 宗
ない。
なるものであるか
0 流れの申で、どの
宗教は、どのような
てい ぎたい。
古本 の ( Ⅰ 一
じめ、アメリカ最初の ピ
じめに
はェ
マソンの宗教
思
想
田
だ呂
フ百
35 7139 ト
、コ,
ⅠⅡ
︵
4
︶
ユ ーリタ ソ たちは、この地に植民している。 年 、ニューイソ グラソドトン第一教会の ュニテリ
六才で、ボスト ソ 第二 一年、牧師職を去る決意を 立つ。 決心をする。そして、 一 ︵ 2 ︶ 表 、翌年には、アメリカの﹁知的な独立 め旦苗 ﹂ と う たわれた﹁アメリカの
て 、﹁神学校講演﹂を
口を発したものである。 そ ヴァー ド に招かれなかった トラソセソ デンタリズム その思想活動を続けていった。 以上が 、ェマソソ の簡単な紹介である。次に 、 ェマソソ が、宗教思想の かほ ついて、簡略にふれていきたい。 的 自由主義派と、 力 ルヴィニズムの流れを 、教義について、人間の能力を認めてお の ボスト ソ に生まれた。家は、致仕にわた アソ の牧師であった。 教会の牧師に就任する。しかし、三年後、 ︵ Ⅰ︶ ヰ 固める。牧師職を後にした ェ マソンは 、そ 八三六年には、最初の著作﹁自然論﹂を 発 学者﹂を講演した。 行った。これは、 ェ マソンの宗教を卒直に ︵ 3 ︶ の 反響は大きかった。そのため、 ェマソソ といわれる。 の 一指導者として、著作、講演等を通して、 流れの中で、どのような態度をとっていた <l40)@ 36
ヱマソソ の宗教思想
しむべき罪深さと、
とみる。これに対し
徳的 摂理のしるしに
違 について、簡単
義 をとるに至った 過
自分の上においか ュ
たと思 う のである。 は、 怒れる神に全く
ルギーは、逃避、 即
別の信仰に、非常に
深いという意識か
な 力を失い、人問と
を 認め、神を親しく ている、とする。
教会の状態に対す
他的 独善的であると ︵ 7 ノ いうことである。﹂ 37@ <@r
論争にふれている
﹂とを、強く恐れてい たのである。 あれとも、 力ルヴ
新しい党派となるの 々は 、 我々の眼を用
とに参ずる。宗派と
に 、個人の宗教を高
スト教への批判にも 連なるものである。 は 心の魂の教義で @9 ︶ なく、人格、実在、儀式の誇張であった。﹂
る 。また、﹁権威に
る 。
も 、内的、個人的な魂を強調するものである。 ェマソソ は、個人 要素と考えていた。
らすのであって 、外 (142) 38
ヱ% ソソ の宗教思想 39 (1% )
神学とか、教会主
示教の線にそって 、ジ
と 理解する点におい ︵ 眩 ︶
を 試みている。
ムス の規定を借用 しておきたい。
によって 、 魂の法
、空間を超え、環境
5 人は 、 直ちに、 貴
れば、その人は 、そ
入りこむ。諸法則の 中の、この法則を知覚することは、心の中に 、
ませる。で、この感
のである。それは、 @ 悟 ︶
﹂
らであった。このよ
この点について、 考 察 をす ュ めたい。 ("" Ⅰ "- @ 一
こされる、宗教的 の 宗教の、主要部分を構成している。 ついて、考察をすすめてぃ年
晃ぃ
。 ︵Ⅱ︶の 確かさを信じ、 こ キハ 。
いるよ う に、天文
によって真理性を強
、報償の思想に表現
で 行われるのでない
れそれに、あの世で
ていないということ を容認してしることである﹂ マ
Ⅹ。
0 花 Ⅰ ︶、あの世で論じられ、
思想体系を再構成す るにあたって、現在に力点をおいて考える。
くものであり、も
然 現象を観察して ぃ
臓 拡張と心臓収縮﹂ ︵ 甘 @ ︶
足の原因となり、 甘 (1%) 40
ヱ% ソソ の宗教思想 の と 冷 の
次 核 師 ま は 知 で 苦 あ 、 報 た い に で た 、 り 起 し る 苦 い い る む に し ら 全 小 ェ し み れ て 幸 マ か の 、 は は ( ソ 過 家 全 矢巴ソ ぎ を て 親 り は な み の 償 す 、 い せ 犠 の
芝后ピ乙弗持紫
ほ オ て っ で ど の い ぐ あ 知 と つ き力し
る
ょ、
なわ。
て の も れ 」 い 日 の る つ た 記のこ
り @ @ さⅠ ヘ Ⅹ 」と O 幼 ( )こ
o
百ン 甲ミv--
@ ト目 宇 若 と の し 宙 い に ェ て の ェ お マ い 半 マ い 分 ソ てソる
ソ。
し ソ な を ェ か は さ 文 て え ソ 知 、 れ ら 報 た て ン な 噴 火 い は い の 陥 ナ、 甲 0 目楽系、
。
体は
は 分 し を 別自
み 求 の 報 身 と め 面 償 の 平 て で の 不 和 い 、で み 知 な あ な る わ っ ・ ら べ れ た ず き る と " 人 ぃ 芽 生 全 え 向 の て 41 /145 Ⅰ
、
恰も、洋服の雪
ハ
行動にも、あては
中で、具体的な
、中
心的役割を果していたと思われる。
生活に
肋
ぎかけるも
永遠性、無限性をも
のは、この報償の体系であった。
という。 ものであった。 いものは酸っぱえる
ない﹂ @9 ︶Ⅰ
よ う 。
冷さのようなもの
存在し得るものであ ︵ 茄 ︶
在しなかった。﹁ ど
、 善の蔭にかくれた もので、善を積極的に 肋 かすものなのである。
の 堕罪の思想は 、片 ︵ 折 ︶ 鱗 もうかがうことはできない。徹底的な悪は 、
である。 悪 的な存在
不幸としてだ け 存在
あった。
ム桁的開発の目的 ︵一 あ ︶
ぅ とした。﹂と、 ェマ
、悲劇の中にとどま
解決を指示していた からではなかろうか。
もっていたのであ る 。
報償の体系を通し
き 、分割となって 生
な 沈黙があり、あら < Ⅰ 46 Ⅰ 42
ェ% ソソ の宗教思想 これは、 エ% ソ ﹁神学校講演﹂の ソ 自身の表現に お 一 い 節 て で
あ
神 るも , し の ム は て
多 個 様 人 で 的
な宗
ある 。 教 そ 体 れ 験 は な 、 通 あ し る てと
き 実 は 感 の知、 の 慧 、 把 と待握 表 じを 規 生 さ 張
あ い
43 Ⅰ 147@ ゆる部分が等しく関連し合って 力は 、その時、その時において に、 一つ一つにみる。しかし、 べているよ う に、また、この 法 にも求められるのである。自然 宇宙の部分であって、宇宙の表 ある。 人間が、自然が、ともどもに であり、魂の群がっている場で ある。と、同時に 、 個々の魂の ﹁魂は、真理を見出すもので り 、﹁法則中の法則﹂を捉える た 。しかし、宇宙の根底にあっ た 。かくて、人間が 、 魂を通し ェマソソ が 、 魂の機能を 、よ もが、銘々神であると信ずるこ い 模範というのは拒むのだ 0 た 在するのである。宇宙は、法則の表現 造の中心部をしめる、究極的な法則で ︶が、根源的なものとして存在する。 ソン は 、 魂が、法則を見出すものであ 、法則は 、 魂の対象となるものであっ ァ ー・ソウル︶とは、一体をなしてい
究極的な対象となる。 ず 、自分独自で進み 結 え。そして、 ょ ︵㌍︶
ヴエイル をはがれた神を愛し 結 え。﹂ がある。で、我々が存在するその深 い
弄を、太陽、月、動物、樹木等のよ う @% ︶
体は 魂 ︵ソウル︶なのである ピと、述 魂 、﹁大憲﹂︵オーヴァー・ソウル︶
共通で、平等である。それぞれは、
り 、同時に、法則に従っているもので
、、力生きた宗教, ノ母
︵ ソ I
︶
であった。
ない。それは、現在に生きている宗教の中に
、
宗教の生命を感じ
るのである
ピと、主
に
語る神は、人間の
在を確かめることを
強く主張していたのである。
ェマソソ
は、宗教感情を重視していた。
ないものといえよ をあわせもっものと に 違いない。 きは、 らは、 ヰハこ 。 エ 生きた
%
台
亜 %
援り
、あるときは、
訃訃が齢絆
い
づれも、直観を通して、その限りに
マソンにとっては、その表現の対象が
神
なるものとなるのであった。
︵ 5 ︶ であり、ある おいて得られ 、宗教的感情 とぎ は、大憲であり、また たものであって、根底には となって反応を示す限り、 、法則と 、究極的 それは、 なった。しかし、それ なるものが存在してい ェ マソンの捉え得た 、 Ⅰ 148 Ⅰ 44は 、人間の中に輝 想 真なる人間は
、
常に首尾 は 、彼自身の命令に明ら を 語り、白からの思想を く、 我々全ての中にある @ る 上 に た で げ る、支配する力があ
吸と、 湿っていな
強調しているもの ある。
ソは 強く感じてい
感情の表現は 、他
訴えに、強力な 、 合力、支配 力 、神聖性を感じとる。
ってひきおこされ 宗教感情が、その基盤となっていたのである。
みていたか、とい 点 にふれてみたい。 ㈹ 45@ (1491
示の必要なときはな ︵の ノ
今なる現在の啓示に 神の精神という 優 ︵㏄︶ する 0 ﹂ ェマソソ れた普遍的理性と ている。 同様な言葉が 、 最も高級な啓示は って 、 更に 、 強め 全ての歴史の申で 知った。イェスは る 。神をみたいと よヒ といった。 か スは、 我々の中に 命 をもった神とい ︵㏄︶ る 。﹂ このェ% ソソ の 偉大さを認めた 人 が 、偉大な人間の
の で、それ故、 ヱマソソ の尊敬する人であった。
ス
啓
証明
優
描い
にょ
十八 - Ⅰ。
とを
ドは襄油
をみ
エ
と生
あ Ⅰ 150 Ⅰ 46
ヱ% ソソ の宗教思想
のである。
共通の魂、宇宙の
様に神の側に立ち得
くなってしまうのである。
間の中に持ち上
は 、なにもなくなって
@ 蝸 ︶
、 神の部分となる。﹂
人
分
時 も 人 間 、 由 て っ
47 /15 Ⅰ )考えたからである。
(152) 48 さ と め
史的、伝統的、制
面 化された宗教は 、
えることによって 生
つ 人間も 、 一つの 個 考える。
を 考える。﹁我々
えられている。自由
間が 、自由をもって
ェ マソンは、人間 た 存在である。 こ めに、自由をもっと考えていた。
の 自由意志をもっ
、こュ に 、 神に従属
独立した存在を与え
であった。
リスト教の人間観 と 思想を明確に特徴づけるものであった。
エ% ソソ の宗教思想 註
11@ -10@ 9@ 8@ 7@ 6@ 5@ 4
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づ 宗 想 魂 ェ 、 報 基 と 教 を の マ 昇 償 盤 明 恵 、 所 ソ 華 の を か 想 更 有 ソ さ 体 お に
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唆 は、 能 す 人 理 の 想 力 ム 間 性 域 の に 流
め お 0 % の 的 て い と ソ 解 傭 お て 考 ソ 決 9- き み え は を 性 た る
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人、
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の 49 ( Ⅰ 53J
Ⅹ 寸 0 Ⅰ ぃ e 戸 ce ︵紙の宙のぺリド 田ヴペ 0 Ⅰ ぜ ︶・いの母 の,って ・㏄Ⅰ | ㏄ の
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の ⅡⅩ づ 0%0 目のの
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︵ 0 Ⅰの﹁ コ ﹁ い す︵ ar せ ︶ PP. 鮒 1 お話 ﹂︵一エ八八上八年︶
の op, 中の︵ ro.
教義の修正、
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㏄ ノセ ・ か ㏄
︵ 約 0 ⅠのⅠ 臣 Ⅰ ざ Ⅰ P Ⅱ こ,の 0 ヨ つの目の曲 ヱ 0 コ,ロ ・ ト Ⅱ ト ︵Ⅱ︶Ⅰヴ田ロ・・Ⅰ り ・︶ べ ㏄ ︵は︶︵ヴ田・・ セ ・ H べの ︵㎎︶︵ 呂隼 ・。 b. ︶のの ︵ 初 ︶Ⅰ ヰ山仁 ・・
ぺ 0 ︵ ガ、 ︶ ゆ かめ。で︶︶の
0 口 ・ く 0 一 ・ 目 :や田の。
のように 受 げとっ ている。
私が同じよう
ので、私は 、
レ年・ , ㌧ つ ・㏄かか l めか り
目 ︵ 緯 o Ⅰ e Ⅱ コ Ⅰ ま Ⅰ 曲 Ⅰ こ、 、トコ心肝 倖笘 Ⅰ 0 のの: , Ⅰ・の の ︵ 為 ︶ ロダ日 : 、、の 0 目つ 。 ヰ の 曲ヱ 0 臣 ,・ ,つ ・ ト Ⅱ㏄
ヱマソソ の宗教思想
に 考えている。
なるものにと
ぐに歩むもの
たぐいで、 こ
、この ょう な
斎藤光﹁ き目, Ⅱ ヨ 辞の 0 上 昭和三二年一三 0 頁 土釜 昭
ガ, い の のの, づ ・い い
︵ 旨絃 0 甘 Ⅰ ぎ ㍉ 曲 Ⅱ ち : 円アの ハレ せ の q1 の 0 三ニ ⅠⅠ・ い のめ "" ︶・。 田 ・・。・。。 " ︵㎝︶︵ 匡 ㌢ あ 匹で 勾凹 む コ 。 曳 ,やしの ︵㌍︶ 畢日 :,下臣下ロ 才 0 お : っ ・ 田 ︵ " " . 。 田 ・・。・。。 ︵ 綴 ︶Ⅱすヰ 由 : ︵ 訪 ︶Ⅰ ヴ乙 ・ 、 Ⅰ・ ぺ 目 ︵㏄︶Ⅰ ヴ乙 ・ @ つ ・Ⅱ。 ︵ 舘 ︶Ⅱ す田笘 : ︵㏄︶Ⅱすぎ・・ ︵㏄︶︵ ま & . ︵ 如ン目ヰ @ 隼 ・・
している。
・︶ の のの、 T ⅩⅩⅩ く
︵ 旨 0 Ⅰ 0 Ⅱ㌧Ⅰ ぎ Ⅰ 由 Ⅱ ユ、 、トコト隼斗Ⅰ e のの, ,,や ・㏄ 0. お ︶ , 。 ミ ・ , 。・。。 ︵ 皿 ︶Ⅱ す田倖 : つ ・ づ 。 51 (1 品 )
ての最後の説教である。
ダ巾 0 の︵ 0 下目 ゆ ㏄㏄・ つ Ⅰ・ ト のめ 1 目㏄ の
ダ p. ぺゆ
巨 ︵ 紙 o 宰 e Ⅰ コ Ⅰ ぎ Ⅰ め Ⅰ し, :中ら下卑 由 Ⅰの の の ,、 ・㌧ つ ・ づ ㏄ 1 べ㏄ ︵ 麓 ︶︵ す乙 ・・ づ,べの ︵㏄︶︵すご 、づ ・ つ め ︵ 目 ︶∼ 昨 ⅠⅠ 隼 .@ --z 林ト ︵ Eq 人い ・ , ・ っ ・ネリ ︵ 戒 ︶ 宇ぎ : ,円ァ 0 ト 日 0 ︵ ざがコ ㏄ 0 ず 0 下 ∼ , 。 b つ ・ か切 1 かの ︵㏄︶︵ヴレ ム ・・ ロ ・ かの
︵ ee 宙 o ョ 0 ︵ セ くぎ・ 目 べのⅡ , Ⅰ・㏄
とめたものである。 ⅠⅠ 564 52
宗教社会学における 機能主義理論
あるデュルケム
環 として宗教を研究
スタソ ティズ ム の 倫
歩みは決して順調で
Ⅰたしかに、一九二 をとり上げ、 ヨュ| ︵ ま目 , p お e の中で コ Np ︵らしの傾向とと 項目さえない。 リソ めずらしいといって ついても ヰ ハ レ得 スリ﹂ 53 ⅠⅠ 57 )
義理論︵上︶
目 のの
啓
ば 、 毛 ・のの す 日出︵の 諸
年代の後半から一九
ストに、少数の先駆的業績はあるが、概論とし てはわずかに、 ヮッハ 戸 ︶の ,の 0 住 oPo ㏄ ず とが、この間の研究の実情を物語っている。
学的研究への興味
社会の宗教に対する
らないが、とにか
みることができるだ メリカに移住した ワッ 90 ︶ 0 幅ノの Ⅰの目的︶の目ののⅠ 中心の一つとなって 、 ぎ日 。 田 ・ パ ・︶の ,オの ・
主 1レ コ ︵ コ ︵ ro 隼ノ しⅠ c ︵ 山 0 コ ゅ ののの数種を数える 本数社会学の一領域と
情の記述にすぎず、
宗拙
0 ぬせ,い 9 か 0 ︶。宗教学 瑚
それに、関心が主と
毛 p 。︵ 社 教 ︶ ゅか の: h 古ホ 全学における 機能主義理論
表るパ には的、
学の
会 ウ現い
ク、現
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ヱ。 方 そ ソ が に し そ な れ ソ こ す ま れ よ が ズ の ぐ ナ, し が り こ ( 論 れ 新 し い 分 O "@ せ " 動 つ 野、 課
題
潮 の あ の あ る の 研
分 ち 半 ょ は 後 す o 仁 Ⅰ
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も 社 れ ら と が の 会 " 会 な っ宗学
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表ま な 向 学 、 に の 統 け 55 む (159 Ⅰ
学は 、もちろん、・ デ
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ての著書、 ぎ目岸日 目 の アージャ 論文はさ
い農調究デい
る村がす
ュラ会いが教学
学はこ社で
宗めは
てず
現い う ものもある
三つの点にまと みたい。
な 行 う 経験 科
ってⅡ ト なⅡ い 0 古本
0 轄 。仏教社会学
できない、ある
対して、宗教 社
ればならないと
ないであろう。
て 資料をえて 研
る 口調査 L の 強
移動のために、
っ たといわれて
査 によらない 宗 一 一
︶ののの,の 一 onF 、 5
︶, 0.&p セ : 0&. ヴせプ ロ 0 ﹁︵ oH ︶。 サ ハ・︶ののめ 6O Ⅰ
宗教社会学における 機能主義理論 数社会学の研究はあり得ないほどに強まった。 張を唱える学者もあ 査 あるいは資料採集 それぞれ存在する。 的に異なった宗教学 たやり方があるか ︵︵ qp 目ヲ の り与 Ⅰの︵のⅠの君の レ の 普遍性、客観性を 類 学、心理学ととも 全科学であるからで れば、宗教学に近 い なく、興味の相違で かにふくまれ得るも るものが、歴史的研 のであろう。 、宗教の社会心理 示教社会学の内容を豊 存在が大きすぎて、 った 。前者の系統を 57 nei)
0% ㏄︶ 0 目曲コ 宙の で の ni 巾の イ ソ グ の編集で示して
ず のの on 山笘 ︶㌧の せ の す 0 ︶ 0 ぬせ
五︶宗教と社会成層 コ 曲コ伍の 0 の田主の ゴ檸コむこ
篤学︵ 目 0q 吝 o ︶ 0 旺の
ィ ( オ
自 Ⅰ の
個 汀 ょ ) ︵ ノメ ︶
た 研究は、現代の社
理論に無関心であっ
響 、社会の宗教に及
関係、宗教が原因と い 分野を開拓しょう
0 課題としてあげた としたものであった。 は、 二︶農村調査 ︵ 内 ︵ ず田 0 Ⅰ 力臼俺ぃ 0 目の (162 ) 58
宗教社会学における る だ 状 傾 げ や 宗 向 で 変 数 の な 化 の
もくを科
の、
記学
( 面 述 的 京 者 す 研 教 の る 究 の 境 家 の 発 果 毅 諸 展 は 誌 種 段 重 " の 階 な 宗 ぅにり
つ令史、
教 ち い っ と 宗 て て 匡 救 の い 別 社 一 る さ 会 般 。 れ 字ろ O は 、 丈 に も 普 の 宗 ち 遍 こ 教 ろ 的 と 史 ん な で が 、 経 は 、 宗 験 な 歴 教 法
りの
く、貝
社会史的 い 法 学 究 わ 別 と 見 ゆ の 宗 を る 発 散 日、 と あ の で す る 現 59 ィ Ⅰ 63 Ⅰ 機能主義理論 特 ず も と 研
税所社債た教先じ
、 と お う 会 が 体 い お ち 学 拡
系 ぅ よ で に 大 他 宗 そ 、 ふ し へ 教 確 宗 く た 0 社 宅 教 ま と 道
会す
社 ね い の 学 る 会 る っ 第 の 必 学 と てで 体 あ ど の か あ 糸 る の は っ る の 。 よ 、 て 。 棲 ま う か の 想 た な え デ
を 宗 領 っ ュ 形 教 域 て ル
づ 社 の 宗 ケ 社 「 知 く 会 研 教 ふ ら 学 究 社 学 な の に 会 派 く 中 あ 学 の て に た の よ は お る 性 ぅ な げ も 格 に
ら る の を な 各 で あ 宗
ぃ 専 あ い 教 。 門 る ま が ;
こ
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分かい
に 社会 が は ど し 現、 め て 象 現 い よ し で
行ヒタ
。を
八 九 代 か ぅ ま あ た ( 四 の な な う る 宗 る 独 。 か
内
教ャ 藤苫 会 に 視 を 宗 学 も , 点 、 対 教 ィヒ目
万繭 の と を 象 の
あれば、両者の区別は一層困難である。
学 、宗教心理学と
便利だろう。宗教
が 、個人の心理的過
によってその文化が ︵ 2 ︶
㌧すの 臣 0 Ⅰ︶の コ opo ぬ阿 0 ヰ
0 コと 呼ばれる︶であ
を 受けもっ。宗教 社
いうことができるだ
宗教社会学にも宗教 ︵ 4 ︶ ︵ く 4 ︶
社会に残存する民間
扱い方に よ る上の三
できるものである。
としている。しか
必要である。それに
部面がどこであるか
響 、宗教集団という
・個人﹂において、 め不
しいかに影響を及。 ほ (164) 6 ヵ
宗教社会学における 機能主義理論
㈲﹁意味の問題﹂からみた 宗 教 と社会 ㈹社会の型と宗教 (7) (3)
と の 辻社 全学 会 階
論
(2) 社 会 に け 不軋扶 機 ム H ヒ ヒ
(2) 不轄払 道
徳、
計 ミ十 学、 呪 律 汀 ・( 打 ) 不皓玖 に け 他 文 @ イ 借 用
㈹宗教組織
宗教集団
㈲宗教の制度化と分化 ㈹宗教と社会内のヴァリ ヱ |シコ ソ ㈲宗教組織 ㎝宗教の変化と社会の変化 ㈹会報 捜即鮒| ダーシップの 社 ︵その一部︶ 序 論( Ⅰ )
社 テ
全学
白 9 レ ア( Ⅰ ) 序
論イ
ガ く Ⅰ ) (2)ヘウ
の社会
アフ 、 円み示教と社会は相互 学と 、﹁宗教を全体 社
の 観点の柑 違 がある 示教の組織すなわち 宗 の 関連の研究 二こ宗
立てられるのではな
が、 こ う い う 各分野 一つの分野によって 、 てみると次のように 61@ ( 165
宗教社会
T
該当する、アメリカ 分けることは見当はずれでないであろう。
察 、すな ね ち、 宗 ィ 0 社会心理的側面の 研究を行 う 社会科学であると規定できる。
をおこなお うとす
軽視する風潮もある
ろ う という考えは強く反 ︵ 8 ︶
テクニックに加えて、 調 肯
査の結果をもとにしてで
﹁体系化 目 と並んであげ 礼 ・ た 同理論化 口 はこのことを指すのであり、
して考えてみたい。
(4) (7) ホ黍 払 人 罰 『 に の け お ボ教 (4) W@ (9)@ (8) (5)
石て 刀 。 示廿笘 宗教教 教 と と の 政経 友治 済 勘判 と度 札 仕人 ク Ⅰ 変 動
㈹㈹ (1 Ⅲ 10 ㈲ 科数 階 経政 字育 層済 、 治 と と
秩秩秩
宗宗 陣陣陣 教教ととと
古山山
打 。 打て "' 。 教 教教 :166) 62宗教社会学に 示教 社 会 こ @ 子 Ⅰ み " の 分 野 を
委四
と 社 会 の関 係 と 規 定 し さ ら ケア し そ れ を 冊 @ J 鬨 ・ が の よ スノ サナ し つ ケ ア "- 区 分 し ナ - Ⅰ ナ " Ⅰ げ で @, ま ま ナ " Ⅰ 間 63 (1W ) る ︵ Ⅹ ハ リ ︶ け 機能士義理論。 , ( ) ︵ 3 ︶ ︵ 人杖︶ 4 ︵ 5 ︶ ︵ h ト リ ︶ソの,円す e の三 ︵ 口 ra 一口い 串 gro 目口 oh 下品 ona 臣ぜ,お ㌫︵邦訳
この箇所の文
規定は不足の
乙ノ -oU
仰の類型の研
ので、宗教 規
化人類学の分
1 0 批判官のの づ ・ b. ︶⑤参照。
要 はない。
ア笘 ㍉ 笘 @ の o の ぃ 舛田
いとも云われ
民族を主たる 対象とする点では相違はない。
独立し、そこ
と 考えること
八 やり 目 。
同じ問題の追
9 以下Ⅰ ま た心ロ俸一 % 呂どづ ・ 0 と。
宗教学にお け
歩み﹂宗教研究一四 ゼぢ 一九五六 でに 。
る ばあ い が屡々であ られたかを、アト・ をおさえる︵タブー に 対する宗教の態度 清酌活動のなかに 宗 ぅ 情緒的不安をやわら 社会と農耕儀礼︶
支持しない 二 0 ︶ 変動する︵宗教社会史 のうち、﹁宗教と他の ﹂のように多種多様で それはないだろうか。 まうのでは物足りな
れない。もちろん、 ︵ 1 ︶ ほ 邦雄氏の所説を借
つの違った意味に使 社会進化理論、階級 (] ㏄ ] 64