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はじ めに 近世の 村 に つ い て の 理 解を 深 め た い と考 え 、 本 誌 掲載 の拙稿「薬師寺周 辺 地域におけ る 新田開発村 の 成立をめ ぐっ て 」 (第一号) 、 「村の要件ー 添下郡矢田 村 と新 村の 争論 から ー」 (第二 号 ) を 発 表 し た のだが、い ず れも 新 たにみい だ さ れ た 史料 のな かから基 礎 的 な事 実 の 確 定 作 業を行 っ たも のにすぎず 、 な お 一定 の結論を得る に至っ てい な い 。 右 二 稿 に 続 く 小 稿 も ま た 近世 大 和 の 農 村に 関 するデー タを一つ付け加え るだけ で しかないが、 こ うし た考察を積み重 ね ながら 、 目 標 に接近して い き た いと 思 って い る 。 今回 取 り 上 げ た の は 、 大和 国 宇 陀郡 石田村 ( 現 宇 陀市 榛原区 石 田 ) で庄屋 を つ と めた 笹 岡 家の 文 書 群 の な か に ① ある 、 同 家の 年 中 行事 や親戚と の交 際などについ て 記 録 した史料 である。その なかの村の 治 安維 持 に あたった非 人番 に 給 され た飯 米について 記 述 さ れ た 部 分 に注 目 し 、 紹介を 行 うととも に 若 干 の 考察を 加 えて みたい 。 一、 対象史料の 性 格 取り 上げた 史 料は 横 長 の 料 紙 を 綴じた も の で 、 一 帖目 から二一帖目まで 記載があ る 。表紙は綴 じ の部分をわ ず かに残 し て 破 損 し て お り、残 存 箇所に「 三月 」と 読め る 以外に 、 こ の 文書 の内容や性格 に関する情 報 を 得 ること がで き な い 。 二 一 帖 の うち 、一 帖目は下部 の 三分 の一ほど が 破損し て 読め ないが、他の 二 〇帖 につい て は若干の 虫損がある も の の 、 ほ ぼすべて の内容 を 把 握 できる。 以下 に内容を紹介 し て 、まず 、 こ の 史料 の性格を おさ えて お こ う 。 一帖 から 一 一 帖 ま で は 、正 月 一 日から は じ まっ て 五 節句 や、九 月 の祭礼 な ど 、 年中の 特 別な行事の 行われる 日の献立が記 され ている 。 一二帖表に は 記載がな く 、同裏 に は 「 味噌こ し らゑ の 事」 、 一 三帖表には「 こうの も の つ け 事 」 と し て 味 噌 や 漬け物の 作り方 が 記 さ れ て いる。 一三帖 裏 には 「御祝 儀 并 歳 暮もの ひ かへ」とし て 、一 五帖 表にかけ て 宇陀郡内の藤 井 村 や見田村などにある親 戚への祝いや 季節 の贈答品 など について 記 さ れ て いる。 一五帖 裏 と 一 六帖表 に かけて は 「 山 々 寺 々 初 穂 米 扣」 とし て、宇 陀 郡 内 の社寺 や 、 金 剛山 、 吉 野山、 奈 良の 春 日社など に差 し出す夏と秋 の 初 穂を 書き上げ て い る。 一六帖裏から一七帖表に か けて は、 の ち に詳しく みる よう に 、 「 非 人番 飯 米 覚」 と し て 正 月から十二 月 ま で の 折節に非人番 に渡す飯米が 記 され てい る。 一七 帖裏には記載がなく、一 八 帖表には「車杓板并ニ 杓之 柄共寸尺荒 木 取之 覚 」 と し て 、 荷車かと思わ れる 車 両の 補 修 に つ い て 記 さ れ 、 同 裏 に は 「本 宅 屋 根 岸 ふき 替 之時扣置 」 と し て 、 同 家の 屋 根 葺き替 え の 際 に用 いられ た材 料や そ の 経費 な ど につい て の、そ し て 一 九 帖 表裏 に は醤 油 の 仕込 みに 関 し て 小 麦や 大豆 の量な ど について の 記録が残 され て い る 。 二〇 帖表には記 載 が な く 、 同 裏から二一 帖 表 裏 にか け て、 「 御 氏 神 六 社 権 現 様 御 当 営 方 扣 」 と し て 、 石 田 村 の 氏神の 神 事 に お け る膳 や 酒 の準 備のことなどが記さ れ て い る 。神事を 担当する当屋とな った と き の心構えを 説 い たも の と 思わ れ 、 最後に「右之外営 方諸 式代物之儀 者 前 年営 の人ニ尋而 い たス事 、 是者其時 々 人 之 多 少ニよる故 」 とあっ て 、前 年に「 営 」にあたった 家の者に、よく話を 聞く ことを求め て い る 。 こ うし た記 述や 、 親 戚へ の贈答 、 「本 宅 」 の 屋 根の 葺き替 え の こ となどを記し ている こ と から 考え ると 、こ の文 書 の 全体的な 性格と し て は 、笹岡 家の 当主 が 、 家の 行事 や 親 戚 と の交際、 村氏神の神事へ の対応など に ついて 、 子 孫 が 誤 りを犯 さ ない よう に私的 に書き 残 した文書 である と いえるだ ろ う 。 史料 の 作 成時期につい て は 、前 述のよう に、表紙の 破 損 も あっ て確か な ことは い えないが、一八帖表の 車両 の
補修に関する 記 事 の な か で 弘 化 四 年 (一八四 七)九 月 か ら十 月に車 の 板 張 り替え の 作 業 を行ったことが、また 、 一八帖裏 の屋根葺 き替えの記事には、安政 六 年(一八五 九)の修覆について 記 され てい るの で 、 少なく と もこ の 時期以 降 の幕末から 、非人番 制度 が 終 焉を迎 え る明治時 代初 期まで の 間に作 成 され たも のと 思わ れる。 な お 、笹岡 家 文書によ ると 、同家は 天明期(一七八一 ~八九)や 文 化 期 (一八 〇 四~一八 )に石田村 の 庄屋を つとめ て いる 。幕末の状況 はよく わ からないが、 同 家文 書中 の 弘 化 二 年( 一 八 四 五 ) 一 月 の 「 大 和 国 宇 陀 郡石 田 村明 細帳」 で は、宇陀 郡藤井村庄屋が石田 村 庄屋を兼 帯 して い る こ と が 記 さ れ て い る の で 、 幕 末 期 に は 庄 屋で は なかった 可能 性が ある。 以上 のよ うに、幕末 か ら明治時代 初 期に作 成 された私 的性格 の 強い文書 の な かに、非人番 への飯米給付が 記 さ れて い た 。 そ の内 容や 意 味 について は以 下で 考え て み た いと 思うが、そ の 前に、 江 戸 時 代 の 石 田 村 の 概況 をつか んで おきた い 。 二、 石田村の 概 況 石田村は、宇陀盆 地を 形成す る 河 川 の一つ で ある芳野 川の流域にある。村の 北東に は 神武伝承 で 知 られる伊那 佐山の姿を の ぞむことが で きる 。 江戸 時 代 のはじめは 松 山藩領で あ っ たが 、 元 禄八年 ( 一 六九五) 以降 は幕領と な っ て 明 治 維 新を迎え た 。 同十 六 年(一七〇三)に旧松 山藩領 で 検地が実施され た が、 こ れによる と 、村 高は二四 四石三斗七升 一合 とな っている 。 石田 村には 一 三 町 余の 水 田 が あ っ た が、 前 述 の 弘 化二 年 ( 一八四 五 ) 一 月の 「大和国宇陀郡石田 村 明細帳」に よる と 、 こ の うち五町余は、 「 用 水 掛 リ 候 ヘ 共天 気 之 節 ハ川水 無 数候故旱 損仕候、洪水之節者水損 仕 候、水損第 一場所ニ御座候 」 で あ る と し、残り八 町 余は「天水場 ニ て御座候故天 気之節ハ旱損第一場所 ニ御座候、雨 ふり 之 節ハくさり青立ニ成候」という状態で 、 旱損 ・ 水 損の被 害を 被りや す い 、 必ずしも 耕作 条件 に恵 まれ た土 地柄 で はな か っ た 。「作間 之 稼」 につ いて は 、「 男 ハ 芝 薪 取 雨天 之 節 ハ縄俵莚 拵申 候、女ハ 麻苧木綿 仕 候 、売買 仕 候 程 儀 ハ 無 御 座 候 」 と 記 し て お り 、商品 経 済の発 展 も見 込みに くい 村で あ っ た。
こうし た 背景が あ っ た た め か 、 笹 岡 家文 書 中 の 享 保六 年(一 七 二一 )九月の 村況 を書き 上 げた史料によ る と 、 百姓 の家は二〇軒 、人口は九 七 人(他に僧尼二人) で あ ったが 、 寛政十年 (一七九八)三月の「家 数 人別寄帳」 によると 、 一 七軒 、 八 五人 (他に尼 一人) と な っ て お り 、 さら に 前 述 の 弘化二 年 の明 細帳 に よ ると 、一二 軒 、六七 人(他に尼 三 人)にまで 減 少し てい る。享保六年から の 一二 〇年 余で 戸 数 ・ 人 口 が 約三 割減 じ た わ け で あ り 、 け っし て豊 か と は い え な い 村 柄 で あっ た と い え るだ ろう。 小稿 の 主 題 で ある 非 人 番 は どの よ う に な っ て いた だ ろ うか。 享 保六 年 の 村況書上に は 「非人 番 給 分 」とし て 米 五斗が 出 され て お り、少 な く と もこ の時期には石田村か ら 給 与 を 受 け る 非 人 番 が 存 在 し たこ と が わ か る 。 ま た 、 寛政 十年 の 「 家数人別寄帳 」に も 一 七軒の高持百姓の 家 以外に非 人番屋敷があ ったこと が 記 され て い る 。 ただし 、 そこ に住 まう はず の非 人番 について は 、 「萩 原村 源兵衛 兼帯 相 勤 居 申 候 」 とし て い る。 つまり、 戸数 ・人口の 減 少が続く石田村 の 経済状態 によるため か 、村専属 の 非 人 番がいた わけ で は なく、石田村の 北 方にあっ て伊勢街 道 沿い の宿場 と し て 栄え ていた萩原村 の非人番源兵衛が 石 田村を兼帯し ていたの であ る。 三、 「 非 人番 飯米覚 」 に つ い て 以上を 踏 まえ て 、 一 六 帖裏から一七帖表にかけ て 記さ れて い る 「 非 人番 飯 米 覚」 に 注 目 し て み よう 。 内 容 は 以 下の とお り で ある。 非人番 飯 米 覚 一壱盃 と いふ ハ弐合宛 也、た ゝ し 弐 合 正月 三ケ日 六盃 六日七日 弐盃 十六日 壱盃 廿日 弐盃 二月 朔日 壱盃 十五日 同断 ひか ん 同断 三月 節句 同断 四月 れん そ う 弐盃 五月 節句 壱盃 六月 休ミ 弐盃
七月 七日 壱盃 十四日 同断 十五 日 弐盃 廿日 同断 八月 朔日 壱盃 十五日 同断 九月 よみ や 壱盃 まつり 同断 十月 いの こ 壱盃 十一 月 ゑひ すまつり 壱盃 十二 月 仏名 壱盃 十三日 同断 年越 同断 壱盃 弐合 宛 〆三拾六 盃 七升弐合 又月 飯米 と し て 七升 弐合 麦月 ニ 六 合宛 又せう 米 弐升 惣〆壱斗 六升四合 右者 半平時代取 扱 ひ 写 置 右に よる と 、 「月 飯 米 」 あ る い は 「 麦 月 ニ 六 合 宛 」 な どと 記された毎 月 の定額支給 の ほかに、正月の 三 が日 に はじ まり、十二 月 の 年 越しに 至 るま で 、 季 節 の時 々 の 二 四回 に わ た っ て 一 盃あ たり二 合 の飯米を 、 一 な い し二 盃 ず つ 給付し て いるようすが わかる 。 それ ぞれ の日の も つ 意 味 につ いて は、正 月 の「三 ケ 日 」 や 三 月や 五 月 の「節 句 」などあ え て 説 明を 要し ないも の もあるが、それ以外 について は 地 域的な特性 も あると 考 えられるの で 、そ の 内容 をみ て お きた い。前 に 述べた よ うに、 こ の 史 料 の 一 帖か ら一 一 帖 にか け て 特 別 な献 立 を 用 意 す る 日 が 記さ れ ている 。 こ れ を仮 に 献 立 記 事とよ ぶ こ と とし て、 この献 立記事 に 記され て いる月日と の 関係にも 注 意 しながら確 かめ て み た い 。 ② 正月の 六 日は、献立記 事 で は 「 と し こし 」と 記し てい る。七草 の 行 事を行う 前日の六日は神が年をと る 、 神 年 越と し て 正 月 の重要な 節 日 とな っ て い た 。十 六日と二十 日について は 献立記事に は 記載がない が、十 六 日 か ら二 十 日 まで がヤ ブ イ リと され て い たこ と と 関 係 があ る と 思 われる。 二月の 一 日 と 十五日は献立記事に も 記 載 はある が 、 日
の意味 に つ い ては記さ れ て い な い。昭和 三 十 四 年 (一 九 五九 ) 刊 行 の 『 榛 原 町 史 』 民俗編は 、 一 日 は 「二ノ 正 月 」 とし て休日 と さ れ 、 十 五日 は釈 迦の 入 滅 の日 とし て涅槃 会が行われていたこ と を記し て いる 。 「 ひか ん 」 は彼岸 であ ろうが、献立記事には記 載 はない。 三月 と五 月の「節句 」 は、いうまでもなく、そ れ ぞれ 三 日 と 五 日 の 行事で あ り 、 献 立 記事 に おいて も と くに 記 載が多い 。 四月 の 「 れ ん そ う 」は 、 レ ン ゾ と も よば れ、 大 和 国内 の 各 地で 春 の 農 休 みと され て い た 。 献 立 記事 にも 「 れ ん そう」とあ り 、 「 白 も ち 」 や 「たん こ」などが あ がっ て いる。 六月の「休ミ 」は、 献 立記 事 で は 十 八日が「やすみ 」 と 記 さ れ てお り 、 この 地 域 では この こ ろ が 六 月 の 農 休 み とな っ て いた と思われ る。 七月の 七 日・十四 日 ・ 十五日に ついては献立記 事 に も 記載がある。七日は七夕 、 十 四 ・ 十五 の 両 日は 盆であろ う。 二 十 日 に つ い ては 献 立 記 事 は 何 も記 し て い な いが 、 十六日か らはじま る ヤ ブイ リ の 最終 日 と し て 、 正 月 二 十 日と 同 じ 意 味 をも つ 日 で あ っ た と 思 わ れ る 。 八月 の 一 日 は 八 朔 、 十 五日は 芋 名月 など とよ ば れ る行 事が行われる日と し て 知られている。献 立記 事に も十 五 日は 「いも の名月」と 記 されて い る。 九月は秋の 祭 り、十月は亥の 子 の 日 に飯 米が給さ れる ということであろう 。 十一月の「 ゑ ひすま つ り 」 に つ いては よ く わ から ない が、県内各 地 で二十三 日に 二十三夜とよばれる行事があ り、 こ の 日には鯛 や 大 根を恵比寿や 大 黒 に供 えるといわ れ、 これ と 関 係 が あ る か と 思 わ れ る 。 十二月 の 「 仏 名」は 長 谷 寺 ( 現 桜井 市 初 瀬 ) で行 われ る仏名会の ことであろうと思われる。 十 三 日は正月の準 備をは じめる「コ トハジメ」にあ た ること と 関係するの だろ う か 。 献 立 記 事 に は十 三 日 につ いて は何 も 記 して い ないが、前日の 十二 日には「いも めし 」など を作る こ と が記 載され て いる。 以上 、簡単 に で は あるが 、 飯米の給 される月日に つい て ま と め て み た。な ぜ 、こ れら の日に 非 人番 に 飯 米が給 されたの であろうか。献立記 事にお い て 常 とは違 う 特別 な 日 と 認 識 さ れ て い る 日と 飯 米 の給付 日 と の 異同 をど の よう に考えればよ い か 、検討 す べき課 題 は 多 いが 、こ れ
につ い て は稿を改 め て 考 察 し て みた い 。 なお、 史 料の 末尾 近く に 「 〆三拾 六 盃 」 と合 計 を 記 し てい るが、一 年分を合算すると三五盃にしか ならない 。 給付 し た 盃数を 誤 っ て 記したか 、も しくは 実 際 に は右 の 二四 回以 外に も給 付 の 日 が あっ たの だ が 、 書 き落 とさ れ てし ま っ た 可 能 性 が 考 え ら れ る だ ろ う 。 四、 家と し て の 支 給 大和国の非人 番 制 度は、当初は 各地 で 独 自の形式 をも っ て い た よう だ が 、元禄年 間 ( 一六八八 ~一七 〇 四) 以 降は奈良奉行所に よっ て 管 轄されるようになり、 や が て 奈良町 の 芝辻町にお か れた長 吏 役 所 が大和国 全体の非人 番を統括 し て 各村に 派 遣 す るよう に な っ た。こう し て 制 度が整 備 されるな かで 、非人番 の治 安維持 の 業 務 に 対 し て、 各 村 で は 給 米 や屋 敷の 提 供 を 行 う と い う 仕 組 み が 完 成し ていった。 ③ こ のように整 えられて い っ た大和国の 非人番 給 の内 容 につ いて は、早 く に前圭 一 が 、 奈良県に よる調査に対 し て、 式 上 ・ 式 下 ・ 十 市 三 郡 の 各 村 が 明 治 三 年 ( 一 八 七 〇 ) に回答した 史 料の 紹 介 と分 析 を 行っ て い る。 これによる ④ と、定期 的 な 月扶 持 や 年中 給米の ほ か に 、 正 月 や 盆、五 節句などに「時寄 物 」 とし て 米 ・麦・銭が 給 付さ れ て い る。小稿の事例でも 定 期的な支給以外に、季節ご と の 「盃」 を 単位 とした給 付があり、 後 者は「時寄物 」の一 種で あ る と い え る だろ う 。 こ う し た 点に限 れ ば 、 小 稿 は 、 前圭 一報 告 に 屋を 重ねて 新 たな 事 例 を 一 つ 増 や し ただけ ということ に なっ て し まう。 しかし な が ら 、前 圭一 報告が紹 介した史料が、 村 と し て の 非人番への給分を 書き上げた も の で あるのに対し て 、 小稿の場合は、笹岡家 と い う個 別の家による支給を 記したも の で あると思わ れ る。そ の 理由 と し て は 、①第 一節 で み たように、 当 主が子孫 の参 考のため に家事につ いて 書 き 残 し たと 思 わ れ る 、私 的 な 性 格 が 強 い 文 書 の な か に 「 非 人番 飯 米 覚」 が 記 されて い たこ と 、 ② 一 回 あ た り の 支給分 が 二 合 や 四 合で あ り 、年 間総計も 「 月 飯米」 な ど とあ わせて一 斗六升四合 で し か な く 、前 圭一報告の 各村が 年 間 五 石 か ら九石 て い ど の 米 や麦 を支給し て い た こと を 考 えると 、 石田村 の 非 人 番が兼帯で あ った こと を 考え て も 過小で あ るこ と 、を あ げ る こ と がで き る だろ う 。
な ぜ 、個別 の 家が非人番に 飯米を給して いるの で あ ろ うか 。笹岡家に関し て は、今 の ところ 、 非人番に関して これ以 上 の 史 料を み い だす ことが で きず、確た る 答 え を 出すこ と は で きな い 。 和 泉 国の 非人番を 研 究 した坂口 由 紀は 、個 別の 家 か ら収 入 を 得 る 非人 番の 姿 を 史 料 か ら 明 らかにし 、 「 志 と し て 個 々 の 相 対 で 物貰 いをする 」こと が、 「 本 来 」 の 「 勧 進 の あ り方 」とし 、 こ れ が 村 とし て の定額支給 へ 移行する ので はない か と の 見通 しを 述 べ て いる 。 で あ る とす る な ら、笹 岡 家 の 事例 は 非 人 番 給の 古 ⑤ 態をとどめた も の といえる のか もしれ な いが、 こ れにつ いて は兼 帯と い う 条件も 勘 考 し な が ら 、 な お 慎 重 に答 え を探っ て いきた い 。 おわ り に 大和国 で は 、 江戸 時代後半 から 地域 の町村と 非人番と の間の軋轢が 強まるよう に なり、非人番 制度への不満が 募 っ てい った 。ついに明治二年 (一八 六 九)十二 月 八 日 には 、宇陀郡のほかに宇智 ・ 吉 野・葛上・高市、 あわ せ て五郡の 奈 良 県 領 の 惣 代 が 、非 人 番 は 「 諸入用 等 多 分 」 にか かり、 「 村方 混 雑 之基 」である か ら 廃 し てほし い と 歎願 に及ん で い る 。 ⑥ 「非人 番 飯米覚 」 が記さ れ たと思 わ れる幕末期 に は、 右の ように制 度の 矛 盾 が あ ら わ に な っ て い た は ず である が 、 そ れ で も な お 守 る べき 家 の 仕 来 りと して 、子孫 に 申 し送りが 行わ れて い た 。維新 の う ね り の 一つと な る 動 態 とともに、地域の 静謐を保 持し よ う とする 静態が 共存し ている。 こ の 双方を統 合する視座が 地域史研究に求めら れて いると思 う。 【注】 ① 同 和 問 題 関 係史 料 セ ンタ ー架蔵 デ ジ タ ル 画 像 に よっ た 。 ②以 下の記述は、宇 陀 郡内の 町 村史( 榛 原 町 史 編 集委 員会編『榛 原町史 』〔 榛原町 、 一 九 五 九年 〕、 土 井 実他編 『 大 宇 陀町史 』〔 大 宇陀 町 、 一九 五九年 〕、 菟 田野町 史 編 集 委員会 編 『 菟 田 野 町史 』 〔 菟 田 野 町 、 一九六八年 〕、 室 生村 史編集委員会編 『 室生村 史 』 〔室生 村 、一 九六六 年 〕) の 民 俗 編 や、 今の宇 陀 市菟田 野 区 入 谷の 民 俗 を 記 録 し た、 保仙 純 剛 『 入 谷民 俗誌』 ( 一 九 六 一 年刊 、 のち『日 本民俗誌 集 成 』一 四 巻 〔三一 書 房、一 九 九八年 〕 に所 収) 、 岩 井宏 美 編 『 奈 良 県 史 一 二 民俗 (上 )』 (名 著出 版、一 九八六年 )、 田 中 宣 一 『 年 中行事の研 究 』( 桜 楓 社 、 一九九 二 年 ) を参 照した 。 また 、 谷 山 正 道 「 商品 生産地帯の生活ー奈 良 盆地 」
(塚 本学編 『 日本の近世八 村 の 生活文化 』〔 中 央 公論 社、一 九九二 年 〕所収 ) が 、 文 政 六年( 一 八二 三) に 山 辺郡乙木村 の 山本 喜三 郎 が 著した 農 書 『 山本家 一 切 有 近道 』 の 記 載 をもとに 、 山本 家の 一年間の ハレの 日 の献立 を 整理し て 解説して おり 、小 稿に おいて も 学ぶ とこ ろが 多かった。 民 俗 的 な観 点からの 分析 はなお 深 め て い か な け れ ば なら な い が、 筆者 の力 量も あっ て 多 くを 述べる こ と が できな か っ た 。 今 後 の 課題 と し た い 。 ③谷 山 正 道「 大 和 におけ る 「 非 人番」 史 料ー 「非 人 番 」 統 制機 構 を中心に ー 」( 『 部 落 問題研 究 』五 二号、 一 九七 七年 )、 溝口 祐 美子 「近世 大 和における非人番制 度 の成 立過程」上・下( 上が 『奈 良歴 史通信』 三九 号 、 下が 同 誌 四 〇 号、 いずれも 一九 九 四 年) 、 拙 稿 「 大 和 の 「 非 人 番 」 覚 書 」( 同 和 問 題 関 係 史 料 セ ン タ ー『研 究紀要 』 一 号 、一 九 九 四 年 ) ④前圭 一 「大和におけ る「 非 人 番給」 史 料 」(上・下 。 上 が 『 部 落 問 題研 究』 五六 号、 下が 同 誌 五八 号、い ず れも 一九七 八 年 ) ⑤坂 口由紀「和泉国在方非人番に ついて 」( 『 部落問題研究』一 六 五号、二〇 〇 三 年 ) ⑥ 「 宇 陀 郡外四 郡 惣 代 から 非人 番廃 止 な どに つき 再願 」( 大 宇 陀 町史編集委員会編『 大 宇陀 町史』 史 料 編 第三巻〔大宇陀 町 、 一 九九二 年 〕所収 )。なお、大和国におけ る 非 人番 制 度 の解体 過 程については、 拙 稿「 明治 初 期 大和国 に おける 非 人番制度 の改 革と 戸籍編成 」( 同 和 問題関係史 料 センタ ー 『研 究紀要 』 一三 号、 二 〇 〇 七 年)参照。 (同和問題 関 係史料セン タ ー 係 長)