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曹 洞 宗 に お け る ﹁ 食 ﹂ と 修 行

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一  はじめに   道元の説いた仏道修行に欠くべからざる食の有り様は︑仏教の戒律に則った食べ物であるため﹁精進料理﹂と呼 ばれ︑﹁日本料理の原点﹂と評価されている 1︒肉や魚はもとより︑小魚や鰹節の出汁を使わない﹁精進料理﹂と︑

坐禅をとりつつ応量器を用いて行う厳粛な作法とが一体となった禅僧の食事は︑美食に明け暮れ︑肉食偏向の現代 じき そう どう はん だい じょう にん

辿︑﹁

『宗教研究』90巻輯(2016年)

曹 洞 宗 に お け る ﹁ 食 ﹂ と 修 行

││  僧堂飯台︑浄人︑臘八小参︑﹁精進料理﹂をめぐって  ││

徳   野   崇   行

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人の食とは対称的な﹁清貧さ﹂を具えた﹁粗食﹂として際立った存在とされ︑メディアなどで注目を浴びることも 少なくない︒若し能く食に於て等なれば︑諸法も亦た等なり︑諸法等なれば︑食に於ても亦た等なり 2︒ これは︑道元著﹃赴粥飯法﹄の冒頭に掲げられた﹃維摩経﹄からの引用である 3︒道元は食と法とを﹁等﹂として一 体のものであると説き︑仏道修行における﹁食﹂の重要性を主張する 4︒本文後段にある﹁法は是れ食︑食は是れ法なり﹂の語は 5︑日本料理研究において﹁法食一等﹂の思想として広く注目を集めるものとなっている 6︒料理の食べ

手の心構えを説く﹃赴粥飯法﹄は︑料理の作り手の心構えを説いた﹃典座教訓﹄と並んで︑日本における﹁食﹂に

ついて体系的に思索した最初期の文献として位置づけられている 7︒道元自身﹁我が日本国﹂の話として︑﹁僧食如 法作の言︑先人記せず︑先徳教えず︒﹂と述べており 8︑仏法に則った﹁僧食﹂の書がないとの認識を示していることはその証左の一つであろう︒

  このような道元の思想が今なお息づいているとされる永平寺での﹁食﹂の有り様を本論前半では取り扱う︒具体 的には禅宗における食事や料理の呼び方︑﹁僧堂飯台﹂と呼ばれる応量器を用いた僧堂での共食儀礼を中心とし︑食べ手である修行僧と食事を給仕する浄 じょうにんの身体的所作や偈文︑鳴らし物︑食器の扱いや食事をめぐる禁忌を儀礼

論的視点から考察する︒禅宗の食時作法に含まれる偈文や展鉢法の歴史的変遷については︑松浦秀光や尾崎正善が

既に検討しており 9︑﹃赴粥飯法﹄における﹁食﹂の思想については古山健一が﹁法是食・食是法﹂﹁恭敬受食﹂という語を中心に考察しているので A︑それらを参照されたい︒

  本論後半では︑こうした禅宗の食と関連の深い﹁精進料理﹂という言葉の歴史について試論的に検討する︒端的

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曹洞宗における「食」と修行

に言えば︑﹁精進料理﹂の言説史であり︑大きな枠組みとしては﹁精進料理﹂は﹁精進物﹂と呼ばれていた古代から戦前期まで﹁他者表象﹂の語であり︑禅院の食に代表されるような寺院という宗教空間で完結されていた仏教的

な﹁食﹂から︑儀礼や世界観の多くを濾過して﹁料理﹂を抽出し︑食という局面において仏教の世俗化をもたらし

たのではないかという見解を提示する︒

二  永平寺における食時作法と﹁食﹂を巡る禁忌   まずはじめに現在の永平寺における﹁食﹂の有り様について触れていきたい︒福井県に所在する曹洞宗の大本山

永平寺は周知の通り︑現在もなお禅僧たちが厳しい修行に精進する日本仏教を代表する修行道場である︒永平寺に

﹁掛 志願書﹂を提出して安居を許された僧にとって︑日々の様々な生活や行動は﹁修行﹂の一部とされる︒洋服

の持参・着用は禁じられ︑白いパンツ・U首のTシャツ・襦袢を常に着用し︑その上に着物と衣を羽織るか作務衣

を着用する︒朝の坐禅である暁 きょうてん坐禅の終わりから袈裟または絡子を付け︑就寝の合図となる開 かいちんれいが鳴ると袈裟・絡子を外すことが日々の習慣となる︒洗顔や歯磨きでは︑洗面手巾という布を用い︑洗面の際には白山妙理大

権現への礼拝︑東司での用便の際には烏枢沙摩明王への礼拝︑浴司での入浴の際には跋陀婆羅菩薩への礼拝︑僧堂

での睡眠の際には文殊菩薩への礼拝が義務となる︒このように洗顔︑用便︑入浴︑睡眠といったほとんどの生活的な行為は︑伽藍の各所に祀られた仏像・神像への礼拝によって儀礼的性格を帯びる︒

  日常的な行為が儀礼性を帯びる最たる例は﹁食事﹂である︒新米の修行僧にとってまず習得しなければならない

のは︑﹁食べる﹂という行為に関わる様々な言葉を﹁禅語﹂に変換︑上書きすることである︒食事は応量器を用い

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て行うため﹁行 ぎょうはつ﹂または﹁飯台﹂と言う︒朝食を﹁小 しょうじき﹂﹁朝粥行鉢﹂と呼び︑昼食を﹁中 ちゅうじき﹂﹁午斎行鉢﹂︑夕食 を﹁薬 やくせき﹂と呼ぶ︒こうした食事の呼称は時間を表す言葉にも組み込まれ︑朝食後の時刻を﹁粥 しゅく﹂︑昼食後の時刻を﹁斎 さい﹂と呼び︑これらの語は雲水たちが日常的に使う用語となる︒加えて食事で提供される料理の呼称も一

般社会のそれと異なっている︒小食の﹁お粥﹂を﹁浄粥﹂と呼び︑中食・薬石の御飯は﹁香 きょうはん﹂︑中食・薬石に提 供される味噌汁やすまし汁は﹁香 きょうじゅう﹂︑漬け物は﹁香 きょうさい﹂︑応量器を洗うために用いるほうじ茶を﹁香 こうとう﹂︑中食・薬石に付くおかずを﹁別 べっさい﹂と呼ぶ︒このように食事の呼称だけでなく︑料理の呼称もまた一般社会とは異なって

おり︑朝食︑晩御飯︑味噌汁といった世俗的な表現は戒められる︒中国禅院において調理を﹁調菜﹂と呼ぶことに

も見られるように B︑飯台で摂る粥・飯以外の食べ物は肉魚を使わない野菜料理となるため︑﹁菜﹂の語が︑食事や 料理を示す表象となる︒永平寺における食事一切を管轄する大庫院と小庫院の雲水が務める﹁菜 さいじゅう﹂という役名にもそれが表れており︑彼らは典座の指示に基づいて修行生活のほとんどを料理に費やすのである︒

  ﹁菜﹂と同様に禅宗独特の﹁食﹂に関わる表現に﹁香﹂と﹁浄﹂がある︒﹁香﹂を付す語句には︑先述した香飯・

香汁・香菜・香湯などがある︒﹁浄﹂の例としては︑浄粥のほか︑応量器を置く﹁浄縁﹂や︑浄縁を拭く﹁浄巾﹂︑洗鉢に用いる﹁浄水﹂︑僧堂飯台の給仕役である﹁浄人﹂があり︑戒律に則った正しき食事は禅に限らず﹁浄食﹂

と呼ぶ︒この﹁浄﹂の対置概念が﹁不浄﹂ないし﹁邪﹂であることは︑道元著﹃知事清規﹄の﹁四不浄食︵四邪

食︶﹂﹁五邪食﹂の中に見出すことができ C︑浄食は﹁正命食﹂という正しい生活態度に根ざした﹁食﹂を意味する D︒永平寺では︑このように一日三時の食事や料理の呼称が禅宗様式に読み替えられるのである︒

  これに加えて︑応量器を用いることが食時作法の特徴となっている︒周知の通り︑応量器は漆塗りの大小五重の

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曹洞宗における「食」と修行

木鉢を指し︑最も大きい器は頭 はつ︑次に第 だいいつくん︑第二鐼︑第三鐼︑頭 くんと呼ばれる︒﹁応量﹂は仏の制定した器の作成法に応じるという意味と︑人によって異なる食の量に応じるという二つの意味がある E︒頭鐼は頭鉢の土台とな り︑応量器の下に敷く鉢 はったんの上に直接置かない仕様となっている︒器以外のものには料理を口に運ぶ筯 はし・匙 さじ︑応量 器を洗うために用いる刷 せつ︑それら三つを納める匙 じょたい︑水 みずいた︑応量器を拭く鉢 はつしき︑応量器を包む袱子がある︒普段応量器は袱子に包まれて運搬に適した形に整えられ︑所属する部署の机の上などに置かれる︒

  永平寺などの修行道場において︑応量器は経典とともに最も丁寧な取り扱いが求められる︒それは﹁擎 けいはつ﹂と呼 ばれる独特の持ち方に表れている︒﹁擎鉢﹂とは︑﹁不 じょう﹂とされる薬指と小指を折り畳んで︑両手の親指・人 差し指・中指の六指を蓮華印のように広げて︑その上に応量器を載せる持ち方をいう︒この擎鉢という持ち方の教

理的な基盤となっているのは︑﹃正法眼蔵﹄﹁鉢盂﹂の巻における道元の説示である︒本巻において道元は︑鉢盂

︵応量器︶とは﹁仏祖の身心﹂﹁仏祖の正法眼蔵涅槃妙心﹂かを問うといった参学のあり方を紹介しつつ︑鉢盂を

﹁石瓦といふべからず︑鉄木といふべからず﹂と説いて物として扱うことを﹁未具参学眼﹂として戒める F︒そして袈裟とともに応量器を仏仏祖祖の正伝せる涅槃妙心と一体のものと見る︒このような道元の思想︑つまり﹃正法眼

蔵﹄の経典的文脈に規定され︑応量器への取り扱いは修行においてとりわけ重要なものとなる︒

  応量器で最も大きな器である頭鉢は釈尊の頭と教わるため︑擎鉢の際に不浄指で応量器に触ることは禁忌とされ︑不浄指を折り曲げて持つこと︑肘を左右に張り︑応量器の上部に挟みこまれた水板が目線の位置に来るように

持つことが求められる︒応量器を擎鉢する上で問題とされるのは︑まるでタイのワイ︵合掌︶における手と同じよ

うに︑その﹁高さ﹂である G︒擎鉢を低くすることは︑釈尊の頭たる頭鉢を自分の頭より下に持つこととなり︑﹁釈

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尊に対する帰依の欠如﹂の身体表現となるため禁忌とされるのである︒応量器を巡る禁忌が際立っているのは僧堂

飯台の場面においてであり︑以下の三つが存在する︒

  一点目は擎鉢と同様︑飯台で頭鉢などを持つ際に不浄指で触れてはならないという点︑二点目は応量器の淵に指

を掛けてはいけないという点︑三点目は応量器を床などに落としてはならないという点である︒一点目・二点目

は︑古参の雲水より注意される程度のものであるのに対し︑三点目はその禁忌を犯すと﹁罰 ばつきん﹂を伴う﹁参 さんじゃの拝﹂という明確な罰則規定があり︑応量器を巡る最大の禁忌となっている︒

  罰油金とは五百円硬貨を﹁罰油金﹂と筆書した和紙で包んだもので︑これを僧堂の聖僧龕に納めて三拝し︑以

後︑各寮舎を巡って謝罪のための三拝を行うのが参謝の拝という罰則である︒このように応量器という食器を巡っ

て現代の僧堂修行においても明確な禁忌が設けられており︑応量器は釈尊の象徴であって単なる食事に使われる道具ではない︒

  以上︑永平寺の食事や料理の呼称︑応量器をめぐる禁忌についてみてきた︒以下では︑これらを儀礼論的な視座

から考察を加えたい︒まず食事の呼称の変更や︑食べ物に﹁香﹂﹁浄﹂を付して呼ぶ様式は︑日常世界と修行空間とを差異化し︑﹁食﹂を聖化させる働きがあると言ってよいだろう︒﹁浄﹂は聖化を示す一つの記号であり︑浄巾は

綺麗に水で濯いだ布巾ではあるものの︑特別な薬品やアルコールを用いる訳ではないし︑洗鉢に使われる浄水は水

道水を湧かした熱湯である︒また白檀や沈香といった香木を添加物に用いる訳でもない︒しかし︑僧堂では水や巾

︵布︶に﹁浄﹂という語句を付して呼ぶ︒これは一つの差異化の表現である︒一方︑﹁香﹂は飯︑汁︑漬け物︑茶に

付される語となっているが︑これらに特別な芳香をもたらすような香料等を用いていないため﹁よい香り﹂がする

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曹洞宗における「食」と修行

という意味よりも︑仏典で解かれる経典的世界観に顕れる﹁芳香の奇瑞﹂といった神話的文脈をもたせる意味合いが強いと言えるだろう︒このように﹁浄﹂であれ︑﹁香﹂であれ︑これらの語は日常的なお粥やご飯︑汁︑おかず︑

漬け物を﹁浄食﹂という﹁聖なる食べ物﹂へと変換する記号なのである︒

  こうした香・浄による聖化と表裏を為しているのが︑応量器をめぐる禁忌の存在である︒先述した通り︑永平寺では現在もなお食事や料理を禅宗独特の言葉で呼んでいる一方︑指し箸︑迷い箸︑刺し箸といった一般家庭におけ

る食事の禁忌だけでなく︑応量器をめぐる禁忌が現行のものとなっている︒これは応量器を神聖視するために他な

らない︒

  応量器をめぐるこれらの禁忌のもつ意味について考える時︑擎鉢に示されているように︑高さが重要な要素を占めている︒応量器の水板を目線の位置に保つことは︑まさに自らの頭より釈尊の頭を上に持つことの基準なのであ

る︒翻って言えば︑雲水は日々の食事に際し︑応量器の擎鉢を通じて仏への帰依を身体的に表現している︒応量器

のもつ意味はこうした頭鉢による﹁釈迦﹂の象徴というだけではない︒禅宗の﹁衣鉢を嗣ぐ﹂という表現に示されるように︑鉢︵応量器︶は受け継がれる﹁法﹂の象徴物でもある︒つまり︑﹁僧﹂が持つ応量器は﹁仏﹂と﹁法﹂

の象徴物であり︑擎鉢とは仏法僧の三宝が収斂した形で︑﹁仏﹂﹁法﹂への帰依が食器を通して身体化される儀礼な

のである︒

三  僧堂飯台と浄人   次に曹洞宗の食時作法を特徴づける﹁僧堂飯台﹂という共食儀礼に目を向けてみたい︒僧堂飯台の大まかな流れ

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は次のようなものである︒僧堂で飯台を摂る雲水は︑雲版を等間隔に打つ長 ちょうはんという音を合図に搭袈裟の威 で応 量器を擎鉢しつつ僧堂へと集まる︒自身の単の前に到着すると︑単に上がり︑応量器を函 かんという据え付けの箪笥の上に置き面壁坐禅する︒梆 さんに続く下 はつばんの音に合わせて函櫃から応量器をおろし︑浄縁側に一八〇度回転す

る︒続く大擂という太鼓に合わせて応量器を浄縁に置く︒そして﹁展鉢之偈﹂を唱えて応量器を頂き︑展開する H︒ 展鉢之偈とは︑﹁仏 ぶっしょう︒成 じょうどう︒説 せっぽう︒入 にゅうめつ︒如 にょらいおうりょう︒我 こんとくてん︒願 がんいっさいしゅう︒等 とうさんりんくうじゃく︒﹂という偈文であり︑釈尊の四大聖地を唱え︑自分がこれから広げる応量器が如来のものであると讃

え︑布施における施者と受者と施物の三輪の間の執著がないことを祈るものである︒応量器を食事に適した形に展

開することを﹁展 てんぱつ﹂と呼ぶ︒維那の挙唱に順い︑十仏名を唱え︑その後小食の場合は粥 しゅくしゅがん︑中 I食の場合は斎 さい

しゅがんと出 すいさん︵生 ︶を唱える J︒出水之偈は﹁汝 てんじんしゅう︒我 きんきゅう︒此 へん︒一 じんきゅう︒﹂という偈文で︑これを唱えつつ︑香飯の数粒をとって刷の先に置く︒刷に置かれた米粒は後で浄人が回収する︒粥時・

斎時の呪願は浄人による給仕の開始の合図となる︒浄人によって給仕された食を受けることを﹁受食﹂と呼び︑そ

れを食べることを﹁喫食﹂または﹁行食﹂と呼ぶ︒全員の受食が終わると同時に︑食時五観之偈と擎鉢之偈を続けて唱えて全員の雲水が頭鉢を擎鉢し︑行食となる︒擎鉢之偈とは︑﹁上 じょうぶんさんぼう︒中 ちゅうぶんおん︒下 きゅうろくどう︒皆 かいどうよう

いっだんいっさいあく︒二 いくいっさいぜん︒三 さんしゅじょう︒皆 かいじょうぶつどう︒﹂というもので︑仏法僧を仰ぎつつ︑四恩と六道を

思い︑それらの衆生皆の供養と仏道を成ずることを願う偈文となっている︒

  飯台の際に箸をつける順番は決められており︑まず後堂︑単頭︑維那などの役寮が箸を付け︑次いで三年目︑二

年目という順に安居暦の長い古参和尚が食べ︑最後に一年目が食べる順番となる︒その後︑浄粥・香飯・香汁など

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曹洞宗における「食」と修行

の再 さいしん︵御代わり︶をする︒役寮が食事を終えるのに合わせて古参和尚と一年目も箸を置く︒食べ終えると洗 せんぱつに入る︒中食・薬石の場合は香湯・浄水の両方を用いるが︑小食の場合は浄水のみを用いる︒頭鉢に浄水か香湯を浄

人から注いでもらい︑頭鉢から第一鐼へ︑次いで第一鐼から第二鐼へと大きい器から徐々に小さい器へと移してい

く︒その後︑頭鉢に注がれた浄水と綿布を先に付けた刷を用いて応量器を大きい順に洗っていき︑器を洗った後に箸・匙・刷を洗う︒洗鉢に用いた浄水は一飲み分を残し︑﹁我 せんぱつすい︒如 にょてんかん︒施 じんしゅ︒悉 しつりょうとくぼうまん

おんさい︒﹂という﹁折水之偈﹂を唱えながら浄人が持って来る折水桶に流し︑残りを飲む︒その後︑鉢 拭で水滴を拭いて︑応量器を重ねて袱子で包み︑展鉢前の状態に戻す︒これを収 しゅうはつと呼ぶ︒収鉢が終わると︑後 ばい

という偈文を唱えて飯台は終了となり︑単から降りて︑応量器を持った状態で待機する︒役寮︑古参︑一年目の順

に僧堂を出て︑各自帰寮する︒以上のように僧堂飯台は︑擎鉢して入堂︑展鉢︑受食︑行食︑洗鉢︑収鉢︑擎鉢し

て退堂という流れとなる︒

  このような僧堂飯台という僧衆の共食を成立させているのが﹁浄人﹂の存在である︒浄人は︑主に衆寮という部署の雲水が務める︒浄人の主な役割は大庫院で作られた料理を桶に移し︑それを僧堂に運搬し︑給仕することであ

る︒また応量器を置く浄縁を浄巾で拭いたり︑浄縁に落ちた米粒を拾ったり︑鬼神に供える生飯や浄水を回収す

る︒料理を運ぶことを﹁擎 けいばん﹂と呼び︑僧堂への擎盤には木製の桶を用いる︒浄人の役割は大庫院で料理を桶に移すことから始まる︒永平寺では小食・中食・薬石によってそれぞれ基本的な献立が決まっており︑その献立に沿っ

て僧堂飯台で食事を摂る人数分の料理を桶に移す訳だが︑僧堂飯台の人数は絶えず山内の状況によって流動的であ

るため︑人数に応じて桶数を準備する形になっている︒また給仕の効率化・迅速化を考慮して︑だいたい一つの料

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理に六つ前後の桶が準備される︒全ての桶を調弁し終えた後︑僧 そうじききゅうはいという儀礼が営まれる︒   僧食九拝とは︑庫院前に置かれた机に粥飯等を供えて︑僧堂に祀られた﹁聖 しょうそう﹂と呼ばれる文珠菩薩像に向かって︑中庭を隔てて典座ないし大庫院の寮員が搭袈裟し大展して九回五体投地の拝をする儀礼をいう K︒これは道元著

﹃典座教訓﹄の﹁斎粥︑如法に弁じ了 おわらば︑案上に安置し︑典座は袈裟を搭け坐具を展 べて︑先ず僧堂を望み︑香 を焚きて九拝し︑拝し了りて乃ち食を発すべし︒﹂との言葉を承けたものであり L︑永平寺の小食と中食には欠くべからざる儀礼となっている︒永平寺での僧食九拝では﹁壱﹂と書かれた﹁壱番桶﹂を用い︑僧食九拝を終えるま

で︑この壱番桶以外の桶を大庫院から搬出することは許されない︒つまり︑料理を運ぶある特定の器物に﹁聖僧﹂

という僧堂の祭祀対象との関係性を﹁壱番﹂という番号によって持たせることで差異化しているのである︒そし

て︑この壱番桶を用いて営まれる僧食九拝は︑料理を調弁した僧から料理を供える仏菩薩への最も正式な挨拶の儀礼となっている︒僧食九拝を終えると同時に︑浄人の長たる﹁送 そう﹂という役の雲水が︑僧食九拝を行った者に

﹁僧堂飯台擎盤よろしう﹂と合掌低頭して挨拶し︑それに﹁どうぞよろしう﹂との返答をもらう︒

  これを合図として︑壱番桶を先頭に回廊を通って僧堂へと料理が擎盤される︒禅院の庫院には︑僧食九拝を行う位置の背面に韋駄天が祀られており︑韋駄天の足の速さが聖僧へ飯台をいち早く届ける理想的速さとして意味づけ

られている︒

  僧堂へ桶が届けられると︑聖僧に供える献膳に壱番桶から料理を取り分ける︒飯台の準備が整った後︑太鼓にて雷の音を模した大擂が三会鳴らされる︒太鼓の音に合わせつつ︑侍 しょうという配役の僧が聖僧への献膳を行う︒永平

寺において侍聖は安居暦の長い古参和尚がつとめる配役で︑献膳をもって僧堂に入り︑結界を破らないように歩み

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曹洞宗における「食」と修行

を進めながら献膳を行う︒各寮舎の当番所等で食事を摂る﹁各 かくりょうはんだい﹂の場合においても︑聖僧への献膳は厳修され︑しかも献膳の終了が各寮での飯台を始める起点となっている︒僧堂飯台における浄人の役割はまず浄巾で浄

縁を拭き︑浄粥や香飯︑香菜などを給仕し︑生飯や浄水を回収して︑最後に浄縁を拭くというものである︒中食に

集められた生飯は︑後架洗面所奥・僧堂脇の野外に設置された石台に供え︑折水桶で洗鉢に用いた浄水を集めた浄人は僧堂を一度出て僧堂脇にある水道に浄水を流す︒浄人たちは給仕等を終えて僧堂で食事を摂った雲水を最後ま

で見送る︒その後︑﹁二番飯台﹂という形で大庫院や各寮の当番所で飯台を摂ることになる︒

四  臘八小参の喫粥   日々営まれる僧堂飯台とは異なるものの︑永平寺の年中行事の中で︑﹁食﹂が主題化する儀礼が一つある︒それ

は臘八小参の際に仏殿で営まれる﹁喫粥﹂である︒十二月一日から八日までの臘八接心の期間︑雲水たちは日々の

公務から離れ︑坐禅三昧の修行に打ち込む︒これを締め括る行事が﹁臘八小参﹂であり︑修行僧は小参師をつとめる老僧に対して自ら考えた問いを発し︑その答えを受ける︒臘八小参は毎月一日と十五日の祝祷日に営まれる﹁小

参﹂と異なり︑﹁聖号唱和﹂﹁配粥﹂﹁喫粥﹂という儀礼が組み込まれている M︒﹁聖号唱和﹂とは﹁南無本師釈迦牟尼

仏﹂と釈迦の尊称を唱える儀礼であり︑﹁配粥﹂﹁喫粥﹂は仏殿の本尊に供えられた浄粥を長跪した僧衆一人一人の右手に配り︑それを全員で食すという儀礼である︒言うまでもなく︑この粥は単なる仏前に供えられた食という意

味合いだけではなく︑スジャーターSujātāの献粥というエピソードに彩られた神話的な食べ物なのである︒臘

八小参の喫粥はまさに釈尊の悟りの物語の神話的再現にほかならない︒スジャーターが献粥して成道したという釈

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尊の体験を︑接心という修行と重ね合わせて雲水が追体験しようとする儀礼が臘八小参の喫粥なのである︒   以上︑僧堂飯台と浄人の役割についてみてきた︒永平寺における﹁食﹂の特徴として最も明らかなのは︑在家の食事でも唱えられる五観の偈だけでなく︑数多くの偈文や身体的所作が﹁作法﹂として儀礼化されている点であ

る︒しかもそれは浄人の所作と幾重にも折り重なって成立している︒このような永平寺の食時作法が示すのは﹁食

べ物﹂と﹁食べ方﹂とが不可分な関係にあることである︒しかもこうした食時作法は明確な仏教的世界観を提供している︒例えば︑生飯や折水をめぐる浄人の行為は﹁下及六道﹂の衆生たる鬼神・餓鬼の観念を持つ︒出 すいさん︵生

飯︶と折水の二つの行為は﹁食物﹂を象徴する﹁飯﹂と﹁水﹂を僧堂で修行に打ち込む雲水が鬼神たちに施す儀礼

なのである︒それは生飯を集める際に唱える出水之偈の﹁汝等鬼神衆︒我今施汝供﹂という偈句と︑折水之偈の

﹁施与鬼神衆﹂という偈句において︑いずれも﹁鬼神﹂との表現が見られることに表れている︒つまり︑禅院で修行に勤しむ雲水の周辺には﹁鬼神﹂という存在が想定されており︑しかも僧による施しの対象となる﹁下及六道﹂

の衆生として位置づけられている︒

  それに対し︑他の桶と差異化された壱番桶という﹁聖なる桶﹂︑僧食九拝や聖僧への献膳︑応量器を如来とし四大聖地を讃える偈文︑擎鉢によって︑釈迦や文殊菩薩が僧の﹁上分﹂の存在として表象される︒この上・下という

縦軸の意味づけは仏菩薩と鬼神との対称性を示すものである︒つまり︑禅宗の﹁食﹂をめぐる儀礼のあり方は︑釈

迦・文珠という仏菩薩を上位とし︑下位の存在としての鬼神︑その中間に大衆と呼ばれる﹁僧﹂という三区分からなる垂直的な世界観の枠組みを提供している︒食べ物を﹁供える/施す﹂という行為はいずれも﹁食べ物を与え

る﹂という意味のものでありながらも︑差異化されるのは﹁与える﹂という行為の対象のもつ上位・下位という地

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曹洞宗における「食」と修行

位性にほかならないだろう︒日々営まれる食事に伴い︑四大聖地を呼称する展鉢の偈を唱和し︑擎鉢・展鉢・行食・洗鉢・収鉢・擎鉢という応量器を巡る一連の動作を繰り返し日常的に行うことを通して︑修行僧は仏・菩薩︱

僧侶︱鬼神という垂直的な仏教の世界観を身体化していく︒

五  他者表象としての﹁精進料理﹂   以上︑永平寺の食をめぐる営みから現代の修行道場における﹁僧食﹂﹁浄食﹂の世界をみてきた︒以下では︑こ

うした禅宗の食を一つのモデルとして展開されてきた﹁精進料理﹂という言葉の歴史を紐解いてみたい︒先に述べ

た永平寺の食時作法に関する考察と繋がらない議論のように思われるかもしれないが︑﹁精進料理﹂をめぐる言説は︑自覚的であれ︑無自覚的であれ︑仏教的な食のあり方を寺院のもつ世界観や種々の儀礼から切り離し在俗者の

食に適応させるといった働きを持っていたと筆者は考えている︒しかも﹁精進料理﹂なる語は近世に料理が商品化

する過程の中で創出され︑西洋料理が本格的に伝来した近代以降︑﹁日本料理の源流﹂として表象されることにより︑食をめぐるナショナリズムの文脈を帯びることとなっていく︒﹁精進料理﹂をめぐる言説の諸相を問うという

ことは︑実は﹁食﹂をめぐって日本仏教の世俗化やナショナリズムとの関連を検討することになる︒こうした問題

意識から﹁精進料理﹂を巡る言説の諸相を捉えてみたい︒

  日本の食文化や日本料理を対象とした諸研究において︑﹁精進料理﹂という語の起源は︑古代に仏教の在家信者

が一族の命日等に肉食を避けて食べる﹁精進物﹂に始まるというのが定説である︒故人の忌日だけでなく︑六斎日

といった戒律に則った生活を送る特別な日にも﹁精進物﹂を食べる習いであったという︒文献に載る早い例として

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平安時代の﹃枕草子﹄や﹃新猿楽記﹄の記述が挙げられ N︑﹁精進物﹂と呼ばれる食は単に仏教的な禁忌に規定され た食という意味合いだけでなく︑魚鳥料理という﹁美物﹂の対義的な﹁粗食﹂という意味を内包するものであったようだ O︒清少納言の執筆した﹃枕草子﹄であれ︑藤原明衡が世相をうつした﹃新猿楽記﹄であれ︑いずれも在家者

の目線から仏教的な食を﹁精進物﹂と呼んでいることは注目してよい︒

  僧侶の目線から食を論じた道元の﹃典座教訓﹄﹃赴粥飯法﹄では︑料理を作るという行為において﹁精進﹂が必要であることは明言しているものの P︑﹁精進料理﹂なる語は一度も出てこない︒これは﹃正法眼蔵﹄においても同

様である︒また仏教的な食を世俗の食とは根本的に異なるとする考えは︑道元の次の文に表れている︒

禅苑清規に云く︑須 すべからく道心を運 めぐらして時に随って改変し︑大衆をして受 じゅようして安楽ならしむべしと︒昔 そのかみ︑ 潙 さんとうざん等これを勤め︑その余の諸大祖師も曾 かつて経 きたれり︒ゆえに世俗の食 じきおよび饌 せん等に同じからざるのものか Q︒

これは﹃典座教訓﹄の前半において典座をつとめて悟りに至った潙山・洞山をあげて︑典座の要職たることを述べ

る部分であるが︑道元は典座と﹁一般の料理人や国王に仕える給仕役﹂とを明確に分け︑しかもそれらが道心を運らし大衆に安楽をもたらせるという点において全く異なると明言している︒しかも﹁精進物﹂の語に含意されてい

た﹁粗食﹂という意味だけでなく︑﹁上﹂とされる食の調理についても説いている︒

いわゆる謂︑醍醐味を調うるも︑未だ必ずしも上と為さず︒莆菜羹を調うるも︑未だ必ずしも下と為さず︒莆菜を捧げ莆菜を択ぶの時も︑真心・誠 じょうしん・浄潔心もて︑醍醐味に準ずべし R︒

菜っ葉汁といった粗末な食事を調理する時も︑醍醐味というご馳走を調理するような心構えで臨むべきことを説い

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曹洞宗における「食」と修行

た本文は︑道元の思想が仏道修行者の﹁食﹂を粗食だけに限定するものではないことを物語っている︒このように法と食との一体を説く道元にとって︑仏道を歩む者が食べる物は﹁食 じき﹂または﹁僧食﹂﹁浄食﹂といった語で表現 され︑それを食べる行為は﹁喫食﹂﹁行食﹂︑それを作る行為は﹁作 じき﹂﹁造 ぞうじき﹂なのである︒   道元の著作に限らず︑中国禅宗の代表的な禅語録である﹃景徳伝灯録﹄︑﹃祖堂集﹄

﹃碧巌録﹄においても﹁食﹂は数多く用いられているのに対し︑﹁精進﹂の語は﹁勇猛精進﹂﹁勤行精

進﹂﹁大精進人﹂﹁精進心﹂といった熟語が見られる程度であり︑そもそも﹁料理﹂なる語は記載されていない S︒時

代は下るが無著道忠が刊行した寛保元年の序をもつ禅宗の百科事典﹃禅林象器箋﹄の﹁第廿五類飲啖

門﹂という節には︑粥に始まる五二の食に関する項目が列挙されているが﹁精進物﹂﹁精進料理﹂といった語は確 認できない T︒禅語録に限らず中世から近世に編まれた禅宗の清規の中に﹁精進料理﹂の語を見出すことはできない

のである︒つまり︑﹁精進料理﹂は仏僧たちが自らの食の有り様を表象した語ではなく︑在家者が僧侶や寺院の食

のあり方を外部から表象した語という性格が強い︒﹁精進料理﹂は仏典や祖録に典拠のある﹁仏教語﹂としての性格がほとんどないのである︒とすれば仏教的な食のあり方を仏教語・禅語ではない﹁精進料理﹂なる言葉で概念化

することは︑仏教者への他者からの眼差しに依拠した他者表象ということになるであろう︒

六  商品化される仏教的な﹁食﹂   鎌倉期の道元の著作に見られるような﹁食﹂をめぐる思想は近世禅宗においても受け継がれている︒江戸時代

の曹洞宗を代表する学匠として知られる面山瑞方は享保二〇年刊行の﹃受食五観

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訓蒙﹄において五観の偈の各句を一句ずつ説明している︒第三偈﹁心を防ぎ︑過を離るるは貪等を宗と為す﹂の

﹁心﹂を﹁三毒の心﹂と説き︑僧侶・在家者両方の食を次のように戒める︒僧俗共ニ食欲ニ溺ルヽコト太   タハヅベシ︑諸仏賢聖ヲヨビ上界諸天ノ︑無トコロナルコトヲ︑三毒ト云ハ︑上食美 膳ニ値テハ︑貪心ヲ生ジテ︑重テ幾 イクタヒモカクアリナン︑食ヲト︑一度喰 クヒシ味ヲ死スルマデモ︑忘レザルナリ U

本文において面山は豪華で贅沢な食膳によって三毒の貪心が生まれることを論じ︑僧俗が食欲に耽ることへ警鐘を鳴らしている︒﹁下食鹿糲ノ膳﹂であれ︑﹁中膳平生ノ食﹂であれ貪心を防ぐためには︑味わうことなく︑好き嫌い

という差別の念を無くすことを説いており︑いずれも﹁食﹂という語を通して食べ物とそれに相対する人の心構え

を述べるのである︒安永四年に刊行した﹃洞上伽藍雑記﹄において面山は朝粥・午斎・食法・十仏名・

出生・折水・後唄・施餓鬼といった僧堂飯台の偈文を挙げており V︑道元が﹃赴粥飯法﹄で示した禅院における食時作法のあり方が近世においても受け継がれ︑参学の対象になっていたことがうかがえる︒

  近世の在家料理人たちはこうした禅院に代表される仏教の食のあり方をモデルとし︑﹁精進﹂という言葉におい

て仏教的な文脈を残しつつも︑それを洗練させて﹁料理﹂として商品化していく︒近世に出版された料理書・献立集には︑﹁精進料理﹂の名を冠した書籍が含まれており︑これらは﹁精進料理﹂の語を普及させる原動力となった︒

今日の﹁精進料理﹂という言葉のもつ意味内容は︑近世料理人たちの目線に立ったものである︒

  その先駆的な役割を果たしたのは一七世紀の刊記をもつ﹃和漢精進料理抄﹄に他ならない W︒本書は現代においてもなお人気を博している﹁精進料理﹂のレシピ本のルーツとされている︒著者は浪華住・吉岡氏で京二条通の永沢 平兵衛︑大阪心斎橋筋北久太郎町の小島勘右衛門による出版である︒本書の序には﹁それ精 しょうじんとうりょうは旧来流布

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曹洞宗における「食」と修行

する所の印 ゐんに見えず書 しょりんれんねんのぞむ事甚 はなはだたへずして今秘 けつの正 ただしき書を求む﹂とあり X︑精進料理本の出版がないためそれを望む声に応えたことを出版の動機として挙げる︒﹁ねがはくは予 が手 なれたる和 りょうを後 しりへに添 そへて梓 に鋳 ちり

ばめむ﹂との言にあるように︑本書は﹁精進料理﹂を﹁唐﹂と﹁和﹂に分けてその献立を季節・献立に応じて列記

する内容となっている︒本書跋文に﹁恐らくは日用の重宝ならんと広むる事しかり﹂とあるのは Y︑在家者の追善仏事での設斎といった﹁日用﹂の場面を想定していたことを示唆している︒

  この﹃和漢精進料理抄﹄と並んで江戸時代の代表的な精進料理本とされるのは文政二年刊の山音亭 著﹃精進献立集﹄である︒その序文には︑﹁また風雅なる面白き献立并二之膳  三之膳等の分は後篇にゆづりて只 手近き退夜料理より百年の遠忌法事に心安き献立をあぐるのみなり﹂とあり Z︑寺院で作食を担う僧侶ではなく︑在

家者の自宅における法事料理のレシピ集として出版されていることが分かる︒それは跋文の中に﹁右精進献立は料

理たんれんの人へ備ふとの書にあらず誠に素人手細工りようの便りともなれかしとおもふのみなれば鍛錬の人見て

わらふことなかれ﹂とあることからも示されている a︒   近世に刊行された精進料理本を代表するこれら二書は典座などの僧侶の著作ではなく︑料理に精通した在家者が

逮夜や年忌仏事の料理を担う﹁素人﹂に向けて書かれたものである︒そこでは︑五観の偈といった偈文などの食時

作法は一言も触れられておらず︑包丁の入れ方や献立といった料理法のみを詳説している︒﹁魚肉を除き﹂たる食を﹁精進料理﹂と呼称することで仏教的な意味を残しながらも︑そこには本論前半に述べた作法や仏教的世界観は

微塵も存在しない︒﹃和漢精進料理抄﹄や﹃精進献立集﹄によって仏道修行者の﹁食﹂が様々な儀礼や寺院のもつ

世界観から切り離された家庭料理としての﹁精進料理﹂という世界が創出されていく︒そうした認識を梃子にしつ

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つ︑﹁精進料理﹂は﹁素人﹂の家庭料理だけでなく︑仕出しやゲストの接待を担う京や江戸などの料理屋によって︑ 洗練され商品価値を高めていく b︒近世の宗教政策において決定的な影響を与えた寺檀制度の展開が c︑﹁精進料理﹂のもつ領域の拡大と符合することは︑おそらく葬送儀礼や死者供養と密接な関連をもった﹁食﹂の受容が急速に拡

大していったことを示すものであろう︒

七  ﹁精進料理﹂の近代化   文明開化によって﹁西洋料理﹂が伝来し︑食生活が肉食化していく近代︑﹁精進料理﹂は近代以前の﹁和料理﹂

という意味づけを基盤に﹁日本料理の源流﹂の一つとして表象されるようになる︒熊倉功夫が﹁西洋文化が入って

きてはじめて日本が意識されたように︑日本料理も明治時代の国民文化の所産といえよう﹂と指摘するように︑

﹁西洋料理﹂が伝来したインパクトは﹁日本料理﹂とは何かという問いを喚起した︒その答えの一つは石井泰次郎

が明治三一年に出版した﹃日本料理大全﹄であり︑本書は﹁日本料理﹂という言葉を定着させるのに

大きな役割を果たした書とされている d︒   こうした西洋料理を支那や日本と比較しながらいち早く論じたのは吉田正太郎である︒明治一七

に秩山堂より刊行された吉田正太郎編﹃日本支那西洋料理独案内﹄では︑近世以降江戸の懐石料理の名店として知

られる八百善の料理が﹁支那料理﹂の易牙と﹁西洋料理﹂の青陽楼と比較される形で書かれている e︒本書は東京を代表する三つの老舗のレシピから︑﹁日本﹂﹁支那﹂﹁西洋﹂の料理を紹介する内容のものだが︑第一編の﹁日本﹂

では︑料理を﹁動 なまぐさめし﹂と﹁精 しょうじんめし﹂に大別して季節の献立を列記する︒本書でとりわけ興味深いのは第三編の西

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曹洞宗における「食」と修行

洋に﹁精進料理﹂が含まれていることである︒第三章料理法として﹁鳥肉料理の部﹂﹁獣肉料理の部﹂﹁魚肉料理の部﹂とあり︑これに続くのが﹁精進料理の部﹂で︑胡椒や牛 酪で炒め︑煮た野菜料理を列記している︒本書におい

て﹁精進料理﹂は単なる﹁野菜料理﹂の同義語であり︑仏教的な文脈が捨象されている︒

  精進料理のもつ﹁菜食﹂と﹁粗食﹂の意味の両方を含め使う例も見られる︒例えば︑大正二年に刊行された﹃乃木大将景慕記念録﹄の﹁精進料理の将軍﹂という節では︑善通寺師団長に赴任した乃木の食をめぐる エピソードが紹介されている f︒乃木は善通寺本坊に下宿することを願い出た際に︑肉食妻帯の禁を理由に寺側は断

ろうとするも︑﹁肉食を為ねば生きて居られん様な身体が何になる︒⁝精進料理何より結構︑是非頼んでくれ﹂と

いって豆腐汁︑湯葉︑椎茸の煮染め︑塩昆布などを日々食したとしている︒重要なのは︑この前段に﹁明治天皇崩

御まして後︑将軍は流石に世の人の鑑と仰がれし程ありて邸内においては鳥獣の肉は更なり︑魚肉をも食膳に上さ

ず︒麦飯のしかも往々稗の現はるゝことあるが如き粗飯に野菜物のみを食してこれに甘んじ︑些かも奢る気色な﹂

しと︑精進料理と粗食とを結び付ける形で乃木の生き方が賞賛されていることである︒本書において﹁精進料理﹂は﹁修養﹂とも共鳴するような﹁粗食﹂の食生活を服喪と重ね合わせて紹介することで︑﹁世の人の鑑﹂と乃木大

将を顕彰しているのである︒

  これに対し永平寺六十六世貫首の日置黙仙は大正九年に刊行した﹃現代生活と禅﹄の中で﹁精進料理﹂の﹁粗食﹂という意味を前面に押し出している︒本書では︑当時の﹁米價騰貴﹂﹁物価騰

貴﹂とともに﹁精神的修養を努めるものが稀になった﹂ために﹁道心あるものが一層乏しくなった﹂とし︑これを

﹁道心の騰貴﹂と名付けて﹁米價調節の代りに道心の調節﹂への尽力を誓っている g︒その一つの具体策として︑禅

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宗の質素な生活を﹁禅的簡易生活﹂と呼び︑五観の偈を念ずれば﹁贅沢な念は生ぜず︑極めて質素なものを以て甘 んじて居られる﹂とする h︒   肉食を主とする﹁西洋料理﹂が流行し︑台頭していく明治期の日本において i︑その対抗文化として﹁和食﹂論を

基調としつつ﹁日本料理﹂なる対置概念が﹁創出﹂され︑その歴史観を支える仏教的な食として﹁精進料理﹂とい

う概念が活用された︒﹁精進料理﹂が単なる菜食ではなく﹁粗食﹂という意味をも内包していたが故に︑日本人の

﹁精神性﹂を表象し︑﹁修養﹂を啓蒙する語として魅力的な言葉であった︒そこでは︑﹁仏教とともに段階的に中国

から伝来した﹂という要素は捨象され︑﹁日本の食文化﹂という大きな潮流の周辺に位置づけられる︒米を中心と

する食の様式であれ︑野菜料理を中心とする食の様式であれ︑﹁日本の食文化﹂という潮流が歴史を通じて連綿と

日本には存在し続けていたのだという前提は︑﹁食﹂という局面に展開される文化ナショナリズムの文脈を色濃く内包している︒仏教料理研究会が編集した﹃精進料理大事典﹄では︑﹁精進料理﹂は﹁世界に類のな

い数々の食生活の伝統﹂を生み出した﹁日本人﹂の﹁すぐれた料理の遺産﹂であり︑﹁大自然の心︑人間の心︑も

の︵料理の素材︶の心の三位一体の結晶﹂と表している j︒一方﹃日本料理秘伝集成﹄では︑﹁精進料理﹂は﹁日本菜食主義の原点﹂であり︑永平寺や大徳寺のものは︑﹁中国から持ち帰った料理法や食品加工技術を 日本の食材を使い︑日本の風土と嗜好に合わせ︑時代とともに純化した日本式精進料理﹂と位置づけられている k︒

﹁精進料理﹂や﹁日本料理﹂をめぐる言説では︑他国にはみられない季節観や調理の技巧︑うま味の感性といった点から︑その優位性が主張される︒こうした語りは近代日本で﹁西洋料理﹂と対峙した﹁日本料理﹂の語り手たち

の論法と重なり合っている︒﹁日本料理﹂ないし﹁日本の食文化﹂とは何か︑という問い掛けそのものが国際交流

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曹洞宗における「食」と修行

の産物である料理や食文化を﹁日本﹂という国に一元化する答えを要求するため︑必然的にナショナリズムの文脈を帯びるものとなる︒﹁日本料理﹂が他国にはない優れた料理であるというよりも︑日本の一流の料理人たちが創

意工夫を重ね︑技巧の限りを尽くして生み出していった類い希で商品価値の高い料理群を﹁日本料理﹂として表象

してきたと捉えるべきなのだろう︒

  民俗宗教論を専門とする筆者にとって︑﹁日本の食文化﹂という大きな潮流が通史的に存在し続けたという視点

は︑柳田国男の固有信仰論と共通するものに見える︒しかし︑柳田国男の固有信仰論へは批判的なまなざしが向け

られるのに対し l︑﹁日本料理﹂や﹁日本の食文化﹂をめぐる言説が持っているポリティクスに我々はあまりにも無

自覚であったのではなかろうか︒﹁精進料理﹂と呼ばれた食の有り様は︑一方では﹁西洋料理﹂のもっていた肉料理という特徴との対称性によって︑もう一方では国民に﹁修養﹂の精神を涵養するための﹁粗食﹂のモデルとして

の適合性によって︑近代に脚光を浴びるものとなった︒戦後の経済発展の代償とされる食生活の乱れや肉食偏向と

いった現代日本人の食をめぐる問題は﹁精進料理﹂を﹁菜食﹂という文脈によって新たに価値付けている︒近年盛んに刊行される﹁本山監修﹂を謳った﹁精進料理﹂の名を冠する書籍が数多く出版されていることは m︑仏教側が

﹁精進料理﹂の語を﹁自己表象﹂として活用しつつ︑布教教化の中に取り込んでいこうとするしたたかさを象徴的

に示しているのではないだろうか︒

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