• 検索結果がありません。

★3和文論文04 木内.indd

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "★3和文論文04 木内.indd"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

フローベールとミシュレ

二つの革命をめぐって

木 内   尭

はじめに

 フローベールはミシュレの著作の熱心な読者であった。同時代の作家に 限定すれば、ミシュレはユゴーの次に、フローベールがその著作を最も熱 心に読んだ作家であると言えるのではないか。フローベールは、1861年に ミシュレ本人に宛てた書簡において、コレージュ時代に『ローマ史』(1831)

をはじめとするミシュレの著作を、ほとんど官能的な悦びを覚えながら 貪り読んだこと、そしてその後も、『民衆』(1846)や『フランス革命史』

(1847-1853)などの著作を通じて、ミシュレの作品に圧倒されつづけたこと を、告白している1)。フローベールは時としてミシュレに対して批判的な意 見も述べているが2)、この歴史家に対する敬服の念は生涯変わることはな かったと言っていいだろう。

 しかし、これまでのフローベール研究において、ミシュレの存在はあ まり重要視されてこなかった。たしかに、フローベールの『サランボー』

(1862)がミシュレの『ローマ史』に想を得た作品であることは、文学史の 定説である3)。それに加えて、近年の研究では、『サランボー』とミシュレ の『司祭、女性、家族』(1845)の関連も指摘されている4)。しかし、『サラ

───────────

1)Lettre à Jules Michelet du 26 janvier 1861 (Gustave Flaubert, Correspondance, édition présentée, établie et annotée par Jean Bruneau, et par Yvan Leclerc pour le dernier volume, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1973-2007, 5 vol., t. III, pp. 141-142).

また、1867年にミシュレ本人に宛てた書簡では、自分が最も繰り返し読んだフ ランスの作家はミシュレであると、フローベールは述べている。Lettre à Jules Michelet du 12 novembre 1867 (ibid., t. III, p. 701).

2)たとえば、『愛』(1858)や『女性』(1859)といったミシュレの著作に対し て、フローベールは否定的な見解を述べている。Lettre à Théophile Gautier du 27 janvier 1859 (ibid., t. III, pp. 10-11) ; lettre à Ernest Feydeau du 29 novembre 1859 (ibid., t. III, p. 59).

3)Voir Albert Thibaudet, Gustave Flaubert, Gallimard, 1935, p. 145.

4)Voir Agnès Bouvier, « Jéhovah égale Moloch : une lecture “antireligieuse” de

(2)

ンボー』以外のフローベールの作品に関して、ミシュレの影響やミシュレ の作品との間テクスト性といった問題が論じられることは、これまでほと んどなかった。

 本論文では、フローベールの『感情教育』(1869)とミシュレの『フラン ス革命史』の二作品を取り上げることによって、この二人の作家の関係に 新たな光を当てることを目指したい。この二つの作品は、革命という歴史 的な事件を題材にしているという点において共通していると、ひとまずは 言うことができる。ミシュレが『フランス革命史』において

1789

年に始ま るフランス革命を描いているのに対し、フローベールは『感情教育』にお いて

1848

年の二月革命を描いている。もっとも、どちらの作品も革命とい う歴史的な事件を題材にしているとは言っても、その描き方は大きく異な る。

 たとえば、この二つの作品における民衆の描き方は、正反対のものであ る。ミシュレが『フランス革命史』において、民衆を革命の先導者として 理想化した形で描いているのに対し、フローベールは『感情教育』の二月革 命の場面において、民衆を無秩序で破壊的な烏合の衆として描いている5)。 ミシュレは『感情教育』を読んだ後で、この小説を酷評する文章を日記に 書きつけているのだが6)、この二人の作家の民衆の描き方の違いを鑑みれ ば、ミシュレがこの小説を気に入らなかったことは、何ら驚くに値しない。

 しかし、二つの作品のあいだには共通する部分があることも、また事実 である。本論文では、両作品の共通項を浮き彫りにすることによって、こ れまでの研究では見過ごされていた、フローベールとミシュレの親近性を 明らかにすることを試みたい。具体的にはまず、フローベールの書簡集の 読解を通じて、この小説家がミシュレの『フランス革命史』をどのように 受容したのかを明らかにし、その上で『感情教育』の執筆過程において『フ ランス革命史』が果たした役割を検討することにしよう。

Salammbô », Romantisme, nº 136, 2007, pp. 109-120.

5)『感情教育』における民衆の表象については、以下の論考を参照。小倉孝誠、『歴 史と表象 近代フランスの歴史小説を読む』、新曜社、1997(第六章「フロベー ルの『感情教育』と革命の詩学」).

6)1869年11月20日 の 日 記。Jules Michelet, Journal, texte intégral, établi sur les manuscrits autographes et publié pour la première fois, avec une introduction, des notes et de nombreux documents inédits par Claude Digeon, Gallimard, tome IV, 1976, p. 182.

───────────

(3)

1. フローベールとフランス革命史

 フローベールが『感情教育』の執筆にあたって、二月革命に関する著作 を大量に読み漁ったことは、よく知られている7)。しかし、フローベール がこの小説の執筆中に、フランス革命に関する著作にも関心を寄せていた ことは、これまであまり注目されてこなかった。フローベールは『感情教 育』の執筆中に、少なくとも三つのフランス革命史を読んでいる。その三 つのフランス革命史とは、フィリップ・ビュシェとピエール・ルーによる

『フランス革命議会史』(1834-1838)8)、ルイ・ブランの『フランス革命史』

(1847-1862)9)、そしてミシュレの『フランス革命史』である10)。ミシュ レの『フランス革命史』を読んだのは、もちろんこれが初めてではない。

1869

年にミシュレに宛てた書簡において、『フランス革命史』を読み返すの はこれが六度目か七度目であると、フローベールは述べている11)

 二月革命を題材とする小説の執筆中に、フローベールがフランス革命史 に関心を寄せたのは、なぜだろうか。これには主に二つの理由が考えられ る。一つ目の理由は、二月革命の前夜にフランス革命に関する著作が相次 いで出版されたということだ。ミシュレとルイ・ブランのフランス革命史 の刊行が開始されたのは、どちらも

1847

2

月のことである。同じ年には さらに、ラマルチーヌの『ジロンド派の歴史』(1847)とアルフォンス・エ スキロスの『山岳派の歴史』(1847)も出版されている。フランス革命史の 相次ぐ出版は二月革命の前触れであったと考えることができる。ちなみに、

『感情教育』の第

2

部第

2

章のダンブルーズ家の夜会の場面において、フラ ンス革命に関する著作の相次ぐ出版に保守主義者が憤る様子が描かれてい 7)Voir Alberto Cento, Il Realismo documentario nell’« Éducation sentimentale »,

Napoli, Liguori, 1967.

8)Voir lettre à George Sand du 31 octobre 1868 (Correspondance, t. III, p. 820) ; lettre à Jules Michelet du 2 février 1869 (ibid., t. IV, p. 14).

9)ルイ・ブランの『フランス革命史』については、「革命の起源と原因」を論 じた第1巻についての読書ノートが残されている(整理番号Ms g 2267 fo239- fo240vo)。この読書ノートは以下のウェブサイトで閲覧することができる。Édition électronique des dossiers de Bouvard et Pécuchet (URL : http://www.dossiers-flaubert.

10)フローベールは『感情教育』執筆中の書簡において、以上三つの著作の他にfr).

も、エルネスト・アメルの『ロベスピエール伝』(1865-1867)など、フランス革 命に関する複数の著作に言及している。Lettre à George Sand du 19 septembre 1868 (Correspondance, t. III, pp. 804-805) ; lettre à George Sand du 2 février 1869 (ibid., t. IV, p. 16).

11)Lettre à Jules Michelet du 2 février 1869 (ibid., t. IV, p. 14).

───────────

(4)

るが12)、この場面はミシュレとルイ・ブランのフランス革命史への暗示的 な言及である。二つ目の理由は、社会主義者がフランス革命史をしばしば 執筆していたということだ。フローベールが『感情教育』の執筆にあたっ て、社会主義に関する文献を渉猟したことは、すでに知られている通りで ある13)。この小説の執筆中に、フィリップ・ビュシェやルイ・ブランなど の社会主義者が記したフランス革命史を読んだのは、社会主義に関する文 献調査の一環としてであったと言うことができる。

 先に挙げた三つのフランス革命史のうち、フローベールが肯定的な評価 を与えているのは、ミシュレの著作のみである。それでは、この小説家は ミシュレの革命史を読んで、具体的にはどのような部分に関心を抱いたの だろうか。まず注目すべきは、フローベールが『感情教育』執筆中の書簡 において、「正義」と「恩寵」という二つの概念を繰り返し用いていること だ14)。複数の研究者がすでに指摘しているように、この二つの概念はミシュ レの革命史から借用したものである15)。ミシュレは革命史の序論において、

フランス革命を「恩寵」に対する「正義」の戦いと定義している16)。しか し、フローベールがミシュレの革命史を読んで関心を持ったのは、この二 つの概念だけではない。

 フローベールが書簡においてミシュレの革命史に直接言及している箇所 はけっして多くはないのだが17)、その数少ない言及箇所において、二度に

───────────

12)Gustave Flaubert, L’Éducation sentimentale, édition présentée et annotée par Pierre- Marc de Biasi, Librairie Générale Française, « Le Livre de Poche classique », 2002, p. 258.

13)この点については、以下の論考を参照。小倉孝誠、『革命と反動の図像学  一八四八年、メディアと風景』、白水社、2014年(第九章「知の生成と変貌――

『感情教育』のなかの社会主義」).

14)Lettre à George Sand du 8 octobre 1867 (Correspondance, t. III, p. 693) ; lettre à George Sand du 31 octobre 1868 (ibid., t. III, p. 820).

15)Voir Gisèle Séginger, Flaubert. Une poétique de l’histoire, Strasbourg, Presses Universitaires de Strasbourg, 2000, p. 65. また、フローベールは『感情教育』執筆 中の書簡において、同時代の政治的状況を論じる際、ルソーとヴォルテールの 二人を繰り返し対置しているが、この二人の対置もミシュレの『フランス革命史』

から借用したものであると言えるかもしれない。Voir Ibid., p. 122.

16)Jules Michelet, Histoire de la Révolution française, édition établie et annotée par Gérard Walter, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1952, 2 vol., t. I, p. 76.

17)フローベールの書簡集におけるミシュレの革命史への直接的な言及は五箇所 のみ(Correspondance, t. II, p. 428 et p. 430 ; t. III, p. 141 et p. 728 ; t. IV, pp. 13-14)。

(5)

わたって、この歴史家によるロベスピエール批判に触れていることは、注 目に値する。フィリップ・ビュシェやルイ・ブランはロベスピエールを社 会主義の先駆者として理想化して描いているが18)、ミシュレは彼らとは反 対に、この革命家を徹底して批判的な筆致で描いている。興味深いのは、

フローベールがミシュレによるロベスピエール批判を話題にするとき、き まって社会主義の問題にも言及していることだ。

 問題の書簡を詳しく見てみよう。まず、1853年にルイーズ・コレに宛て た書簡では、ロベスピエール自身が「ひとつの政府」であったというミシュ レの分析に賛同を示した上で、「共和派の政府狂」の連中がこの革命家を好 きなのはまさにその理由によると述べている19)。「共和派の政府狂」の連 中とは、主に同時代の社会主義者のことであると考えていいだろう。また、

1869

年にミシュレ本人に宛てた書簡では、自分も「ジャコバンの坊主ども とロベスピエールとその息子たち」が大嫌いであると述べている20)。ロベ スピエールの息子たちとは、『感情教育』の執筆にあたってその著作を大量 に読み漁った社会主義者たちのことに他ならない。この二通の書簡は、フ ローベールがミシュレによるロベスピエール批判を社会主義という自らの 関心に引きつけながら読んでいたことを示している21)

2. ミシュレ『フランス革命史』からフローベール『感情教育』へ  それでは、『感情教育』の執筆中にミシュレの革命史を読んだことは、こ の小説の執筆に具体的にはどのような影響を及ぼしているのだろうか。『感 情教育』の執筆過程においてミシュレの革命史が果たした役割を明らか にするために、この小説のある二つの場面に注目したい。その一つ目は、

───────────

18)Voir François Furet, « La Révolution sans la Terreur ? Le débat des historiens du XIXe siècle », dans La Révolution en débat, Gallimard, « folio histoire », 1999, p. 39.

19)Lettre à Louise Colet du 7 septembre 1853 (Correspondance, t. II, p. 428).

20)Lettre à Jules Michelet du 2 février 1869 (ibid., t. IV, p. 13).

21)もっとも、フローベールは、『感情教育』執筆中の書簡や社会主義について の読書ノートにおいて、社会主義者の反革命的な傾向も強調している。しかし、

この場合、フローベールが問題にしているのは、1789年を起源とする自由主義 の系譜であって、1793年を起源とするジャコバン主義の系譜とは切り離して考 えるべきである。1789年と1793年という二つの革命の区別については、フラ ンソワ・フュレの論考を参照。François Furet, La Gauche et la Révolution française au XIXe siècle. Edgar Quinet et la question du jacobinisme. 1865-1870 [1986], Hachette littéraire, « Pluriel », 2001.

(6)

1848

年の「知性クラブ」の場面だ。

[…]当時は誰もがあるモデルを手本にしていて、ある者はサン・ジュ スト、ある者はダントン、またある者はマラを、それぞれ真似してい たので、セネカルはブランキに似ようと努めていた。このブランキ自 身、ロベスピエールを模倣していたのであるが22)

 『感情教育』第

3

部第

1

章のこの一節において、フローベールは、1848年 の革命家たちがフランス革命の革命家たちをモデルにしていたことを、示 唆している。このような歴史観が、マルクスやトクヴィルをはじめとする 同時代の思想家たちの歴史観ときわめて似通ったものであることは、これ までの研究においても指摘されてきた通りである23)。しかし、ミシュレも 似たような歴史観を提示していることは、これまでの研究では見過ごされ ていた。1868年に『フランス革命史』に新たに追加した序文において、ミ シュレは

1848

年前後の状況について次のように書いている。

人々はあの陰鬱な亡霊たちに自らを同一視しようとしていた。ある者 は、ミラボー、ヴェルニョー、ダントン、またある者は、ロベスピエー ルであった24)

 『感情教育』と『フランス革命史』、どちらのテクストにおいても、「ある 者」という不定代名詞が使用されている点が、目を引く。まるで、ミシュ レの序文を下敷きにして、フローベールは「知性クラブ」の場面を書いた かのようである。しかし、現実には、そのような可能性はきわめて低いと 言わざるを得ない。フローベールは『感情教育』の第

3

部第

1

章を、新た な序文を付された『フランス革命史』が刊行されよりも前に、書き終えて いるからだ。フローベールがこの章を書き終えたのは

1868

10

25)、『フ ランス革命史』の新版が刊行されたのは

1868

11

月である26)。ここでは、

───────────

22)L’Éducation sentimentale, p. 450.

23)この点については、以下の論考を参照。小倉孝誠、『革命と反動の図像学  一八四八年、メディアと風景』(第八章「二月革命と作家たち」).

24)Histoire de la Révolution française, t. I, p. 10.

25)Voir lettre à George Sand du 17 octobre 1868 (Correspondance, t. III, p. 811).

26)Voir Paul Viallaneix, Michelet, les travaux et les jours. 1798-1874, Gallimard,

(7)

二人の作家が同じ時期に同じような歴史観を提示しているという事実を、

確認するだけに留めておこう。

 『感情教育』の中には、ロベスピエールの名前がセネカルと結びつけられ る形で引用される場面が、もうひとつある。セネカルが、主人公フレデリッ クとの会話の中で、ロベスピエールを自ら引き合いに出す場面だ。

[…]セネカルは「権威」に賛成すると述べた[…]。共和主義者は大 衆の無能ぶりを激しく非難しさえした。

 ── ロベスピエールは、少数の権利を主張して、ルイ

16

世を国民公 会へと連れ出し、民衆を救った。目的が事態を正当化する。独裁も時 には必要だ。暴君が善を為すのであれば、圧政も万歳だ!27)

 

 『感情教育』第

3

部第

4

章のこの一節において、フローベールは、社会主 義者のセネカルがその権威主義的な志向を露わにする瞬間を描いている。

1851

年の

12

2

日のクーデターの後、官憲となったセネカルは、かつての 仲間であるデュサルディエを殺害するのだが、この一節はそのような展開 を予告している。

 セネカルのセリフの後半部分、つまり「独裁も時には必要だ。暴君が善 を為すのであれば、圧政も万歳だ!」という箇所は、『感情教育』の中でも 最も頻繁に引用される文章のひとつである。しかし、セネカルのセリフの 前半部分、つまりロベスピエールを引き合いに出している箇所に関しては、

これが具体的にどのような歴史的な事実を指すものであるのか、これまで の研究では十分に論じられてこなかった。

 セネカルがここで想起しているのは、ロベスピエールが

1792

12

28

日に国民公会で行った演説である。まずは、この演説の歴史的な背景を、

簡単に振り返っておこう。第一共和制の樹立後、ルイ

16

世の処遇をめぐっ て、いわゆる国王裁判が国民公会において開始される。ロベスピエールを はじめとする山岳派の議員は、国王の処刑を断固として主張していた。そ れに対し、ジロンド派の議員は、国王の処刑を回避するために、国民投票 の実施を提案する。山岳派は、国民投票を実施すれば国王の処刑が困難に

« Bibliothèque des Histoires », 1998, p. 505.

27)L’Éducation sentimentale, p. 552.

───────────

(8)

なると考え、ジロンド派の提案に反対をするのだが、国民投票を実施しよ うという提案を退けるのは、容易なことではない。なぜなら、そのような ことをすれば、民主主義の原則に背くことにもなりかねないからだ。ロベ スピエールは、「少数派の権利」というものを主張することによって、この 難局を切り抜けようとする。それが、1792年

12

28

日の演説である。

少数派は至るところにおいて永遠の権利を有している。真実の声を、

あるいは彼らが真実であると考えるものの声を、述べるという権利で ある。徳は地上において常に少数派にあった。少数派がいなければ、

地上は暴君と奴隷で溢れているのではないか? ハムデンとシドニーは 少数派だった、断頭台の露と消えたのだから[…]。必要とあらば、シ ドニーやハムデンのような仕方で自由のために尽くす人がここに多く いることを、私は知っている。たとえ五十人しかいないとしても、彼 らの存在を思うだけで、多数派を惑わせようとするあの卑怯な策士た ちは皆震え上がるに違いない28)

 ロベスピエールはこの演説において、ルソーが『社会契約論』(1762)で 展開した「一般意志」をめぐる議論に依拠している29)。ルソーによれば、

「一般意志」は必ずしも「人民の決議」に一致しない。「一般意志」は常に 正しく公益を目指すのに対し、「人民の決議」は常に同じように公正である わけではないからだ。ルソーはさらに、人民は幸福を望みながらも、何が 幸福であるかを必ずしも理解しているわけではない、人民が腐敗すること はありえないが、欺かれることはあるとも、述べている30)。ロベスピエー

───────────

28)Discours de Maximilien Robespierre à la Convention nationale du 28 décembre 1792 (Œuvres de Maximilien Robespierre, Presses Universitaires de France, t. IX, 1958, pp. 198-199).

29)この点については、以下の論考を参照。遅塚忠躬、「フランス革命における 国王処刑の意味」、『フランス革命とヨーロッパ近代』、同文舘出版、1996年、

pp. 71-156.

30)Jean-Jacques Rousseau, Du Contrat social, dans Œuvres complètes, édition publiée sous la direction de Bernard Gagnebin et Marcel Raymond, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », t. III, 1985, p. 371. 『感情教育』において『社会契約論』はセネカ ルが熟読した書物のひとつとして取り上げられている(L’Éducation sentimentale, p. 224)。また、フローベールは『感情教育』の執筆中に『社会契約論』の詳細 な読書ノートを作成している。この読書ノートはルーアン大学のフローベー

(9)

ルは、「少数派の権利」、すなわち「一般意志」の名の下に、「国民投票」、

すなわち「人民の決議」に反対をしており、ルソーの論理を忠実になぞっ ていると言うことができる。

 フローベールはセネカルのセリフを書くにあたって、ミシュレの革命史 の一節を参照している。ミシュレは革命史において、国民投票をめぐる山 岳派とジロンド派の論争を取り上げた後に、山岳派の主張が孕む危険につ いて、次のような批判を行なっている。

山岳派は少数派の権利を公然と主張した。彼らは民衆を救うと主張し たのであるが、それはその主権を尊重することなしにであった。誠実 であり、愛国的であり、英雄的でありながら、彼らはしかしながら、

このようにして危険な道へと踏み込んだのだ。多数派が何の意味も持 たず、「最良の人々」が、どのような人数であろうとも、優位に立つべ きであるとするならば、この「最良の人々」は、ごくわずかな人数に も成り得る、ヴェネツィアの十人委員会のように十人、法王や国王の ようにたった一人にさえも。山岳派が国王を倒したのは、王政が依拠 する原理に自ら依拠することによってでしかなかった。その原理とは、

権威の原理であり、国王を復活させることになっていたかもしれない 原理である。彼らはこの原理から断頭台を導き出した。そこから玉座 を導き出すこともできた31)

 フローベールがセネカルのセリフを書くにあたって参照したのは、この 一節である。そのことを明らかにするために、『感情教育』の草稿をつづい て引用しよう。

山岳派は、92年

12

月、民衆に判断を委ねれば万事休すであることを理 解していた。少数派の権利(徳は地上において常に少数派である)を 主張し、ルイ

16

世を国民公会によって裁かせたのは、ロベスピエール である。山岳派は民衆の主権を尊重することなしに、民衆を救った。

───────────

ル・センターのウェブサイトで閲覧することができる(URL : http://flaubert.univ- rouen.fr/manuscrits/rousseau.php)。

31)Histoire de la Révolution française, t. II, p. 166.

(10)

最良の人々が優位に立たなければならない、どれだけ少人数であろう とも。何よりもまず目的だ! ともかく圧政に従わなければならない だろう。我々は専制政治へと向かっている。臨時政府の後には、執行 委員会、その後には行政長官、12月

10

日の大統領職と、つづいている のだから32)

 フローベールはこの草稿において、ミシュレの革命史で用いられている 文章を二つ、ほとんどそのまま書き写している。「山岳派は民衆の主権を尊 重することなしに、民衆を救った」という一文と、「最良の人々が優位に立 たなければならない、どれだけ少人数であろうとも」という一文である。

この二つの文章は決定稿では削除されているが、フローベールがミシュレ の革命史を参照しながらセネカルのセリフを執筆したことを、明確に証拠 立てている。

 興味深いのは、『感情教育』の中でセネカルがロベスピエールの演説に言 及する時期と、ミシュレが国王裁判の章を執筆・刊行した時期が、重なり 合っていることだ。小説の中でセネカルがロベスピエールの演説に言及す るのは、1851年

1

月中旬のことである33)。それに対して、ミシュレが国王 裁判の章を執筆したのは

1850

3

月から

7

月にかけて、そしてこの章を含 む『フランス革命史』の第

5

巻が出版されたのは

1851

3

月のことだ34)。 このような年代の一致は、けっして偶然ではないだろう。しかし、偶然で ないとしたら、このことはいったい何を意味しているのだろうか。この問 いに答えるために、最後に、「二つの革命」というテーマに焦点を当てなが

───────────

32)Manuscrit de L’Éducation sentimentale, Bibliothèque nationale de France, Département des Manuscrits, NAF 17609, fo8. 「行政長官」とは六月暴動後に権力を 掌握したカヴェニャック将軍、「12月10日の大統領職」とは1848年の12月10 日に第二共和政の大統領に選ばれたルイ・ナポレオンを指す。なお、『感情教育』

の草稿について、詳しくは以下の研究を参照。Kazuhiro Matsuzawa, Introduction à l’étude critique et génétique des manuscrits de « L’Éducation sentimentale » de Gustave Flaubert. L’amour, l’argent, la parole, Tokyo, France Tosho, 1992, 2 vol.

33)Voir L’Éducation sentimentale, p. 551.

34)Voir Paul Viallaneix, op. cit., pp. 353-355 et p. 364. ただし、国王裁判に関する章は、

この第5巻の出版に先行する形で、1850年後半にすでに刊行されている(1850 年度の『フランス書誌』に記載あり)。つまり、セネカルがミシュレの『フラン ス革命史』の国王裁判の章を読んだ上で、ロベスピエールの演説に言及してい ると考えることも、けっして不可能ではない。

(11)

ら、二つのテクストの比較を試みたい。

3. 二つの革命をめぐって

 ミシュレは先に引用した革命史の一節において、山岳派が国王裁判の際 に主張した「少数派の権利」について、議論を展開している。この歴史家 によれば、「少数派の権利」を主張し、民衆の主権を否定することは、たと えそれが民衆を救うためであったとしても、許されるべきではない。なぜ なら、「少数派の権利」を認めることは、専制政治を正当化することにつな がるからだ。フランソワ・フュレは、ミシュレが革命史において、「少数の 支配者集団が民衆の名の下に民主的権力を奪い取ることが孕む危険」につ いて、「きわめて現代的なヴィジョン」を打ち出していると指摘している が35)、「少数派の権利」をめぐるミシュレの議論のうちに、まさにそのよう な現代的なヴィジョンを見出すことができる。

 もっとも、ミシュレが「少数派の権利」を批判的に分析するのは、これ が初めてではない。二月革命前夜のコレージュ・ド・フランスの講義録に おいても、「少数派の権利」に対する批判を展開している36)。この講義録で は、ルソーが民衆の権利を十分に基礎づけなかったため、また大革命も彼 の理論にほとんど何も付け加えなかったため、その結果として、「少数派の 政府」が蘇ってしまったのだと述べている37)。しかしこの時点ではまだ、

「少数派の権利」は専制政治の正当化につながるという視点は提示されてい ない。

 ミシュレが国王裁判の章を執筆したのは、すでに触れたように、1850年 の

3

月から

7

月にかけてのことである。ファルー法の制定や選挙資格の制

───────────

35) François Furet, « Michelet », in Dictionnaire critique de la Révolution française [1988], sous la direction de François Furet et Mona Ozouf, Flammarion, « Champs », t. V, 2017, p. 204.

36)1848年2月3日の講義録。当時、ミシュレには講義の中止命令が出されて

おり、1848年2月3日の講義も実際に行われることはなく、講義録のみが印刷・

配布された。

37)Jules Michelet, Cours au Collège de France, publiés par Paul Viallaneix avec la collaboration d’Oscar A. Haac et d’Irène Tieder, Gallimard, « Bibliothèque des Histoires », t. II, 1995, pp. 354-355. ミシュレによるルソー批判については、以下の論考を参照。

Raymond Trousson, « Michelet lecteur de Rousseau », dans Défenseurs et adversaires de J. J. Rousseau. D’Isabelle de Charrière à Charles Maurras, Honoré Champion, « Les Dix-huitièmes siècles », 1995, pp. 149-165.

(12)

限、さらには検閲の強化など、反動的な施策が次々と採用された時期だ。

また、この時期、大統領のルイ・ナポレオンは更なる権力の拡大を虎視眈々 と狙っていた。ミシュレが国王裁判の章において、「少数派の権利」は専制 政治の正当化につながるという、以前よりも一歩踏み込んだ視点を打ち出 しているのは、同時代の反動的な政治状況とルイ・ナポレオンの台頭を前 にして、共和制の存続に危機感を抱いたためではないだろうか。ミシュレ の革命史に執筆当時の政治的状況が反映されていることは、これまでにも しばしば指摘されてきた38)。「少数派の権利」をめぐる議論に関しても、執 筆当時の政治的状況の反映を見て取ることができるのではないか。

 「少数派の権利」をめぐるミシュレの議論に、ルイ・ナポレオンの存在が 影を落としていることは、クーデターの一ヶ月後に弟子のウジェーヌ・ノ エルに宛てた書簡において、この問題を再び取り上げているという事実か らも、裏付けられる。ミシュレはこの書簡において、少数派の権利は「歴 史の最大の謎」であり、また現在の自分の最大の関心事であると述べた上 で、「この少数派の権利により、圧政に回帰する可能性もある」と論じてい る39)。ミシュレがここで、クーデターにより独裁体制を事実上確立したル イ・ナポレオンのことを考えているのは、間違いないだろう。

 フローベールは『感情教育』において、「少数派の権利」についてのミ シュレの議論を、まったく新しい歴史的文脈に置き換えているように見え る。つまり、セネカルにロベスピエールの演説を引き合いに出させること によって、第一共和政初期の国王裁判に関連してミシュレが展開した議論 を、第二共和政末期というまったく異なる歴史的文脈に置き換えていると、

言うことができるわけだ。しかし実のところ、このように歴史的文脈を入 れ替えることによって、フローベールはミシュレの議論をそれが書かれた 時期に置き直しているに過ぎない。フローベールは、ミシュレの革命史の 国王裁判の章が第二共和政後半の反動的な政治状況の中で執筆されたこと、

───────────

38)Voir Paule Petitier, « Lectures de la Révolution française », in Le XIXe siècle : science, politique et tradition, sous la direction d’Isabelle Poutrin, Berger-Levrault, 1995, p. 251 ; Sayaka Sakamoto, « La représentation de Charlotte Corday dans l’Histoire de la Révolution française de Jules Michelet », Études de langue et littérature françaises, nº 98, 2011, p. 34.

39)Lettre à Eugène Noël du 6 janvier 1852 (Jules Michelet, Correspondance générale, textes réunis, classés et annotés par Louis Le Guillou, Honoré Champion, « Textes de littérature moderne et contemporaine », t. VII, 1997, p. 20).

(13)

そして執筆当時の政治的状況がその記述に影を落としていることを的確に 把握した上で、『感情教育』において同じ時期の政治的状況を描くのに、こ のテクストを利用したのではないだろうか。そうすることで、この歴史家 に対して、目配せを送っていたと言うことはできないだろうか。

 少なくとも、フローベールとミシュレの二人ともが、第一共和政と第二 共和政という二つの異なる時代のあいだに、アナロジーを見て取っている ことは、間違いない。第一共和政がジャコバン派の独裁に行き着いたのと 同じように、第二共和政もルイ・ナポレオンの独裁へと突き進んでゆく。

いずれの場合にも、王制の崩壊後に生まれた共和制が、独裁制に帰着する。

フローベールは、セネカルにロベスピエールの演説を引用させることによっ て、第二共和政の歴史が第一共和政の歴史の反復であることを示唆してい る。ミシュレは、第一共和政の歴史の記述に第二共和政の政治的状況を反 映させているが、それは歴史が繰り返すことに対して危機感を抱いていた ために他ならない。

 この二人の作家と同じように、マルクスも『ルイ・ボナパルトのブリュ メール

18

日』(1852)において、第一共和政と第二共和政のあいだにアナ ロジーを見て取っている。しかし、マルクスがルイ・ナポレオンのクーデ ターはナポレオン一世のクーデターの焼き直しであると考えているのに対 し、フローベールとミシュレはナポレオン三世の登場をむしろ恐怖政治の 再来と捉えていること、また、マルクスが第一共和政と第二共和政のあい だにアナロジーを見て取ることによって両者の断絶を強調しているのに対 し、フローベールとミシュレはどちらかと言えば二つの時代の連続性に着 目しているということに、注意しておきたい。

 このような共通点を確認した上で、フローベールのテクストにあってミ シュレのテクストにはないものは何かと問うならば、それは社会主義の問 題ということになるだろう。フローベールの独創は、「少数派の権利」に関 するミシュレの議論を社会主義の問題へと接続したこと、「少数派の権利」

は専制政治の正当化につながるというミシュレの警告を社会主義者に対し て差し向けたことにある。アメリカの批評家エドマンド・ウィルソンは、

「フローベールの政治学」と題する論文において、マルクスには見えていな かった社会主義の危険、すなわち社会主義的イデオロギーが持つ独裁主義 的な傾向を、フローベールは看取していたと指摘している40)。この卓抜な 指摘に付け加えなければならないことがあるとしたら、それはフローベー

(14)

ルが社会主義の危険を察知することができたのは、単に社会主義者の著作 を読むことによってだけではなく、ミシュレの革命史を読むことを通して であったということ、また社会主義の危険を小説において描くことができ たのは、「少数派の権利」をめぐるミシュレの議論を受け継ぐことによって であったということだ。

おわりに

 本論文では、フローベールが『感情教育』の執筆中にミシュレの『フラ ンス革命史』を読み、そして社会主義者セネカルがその権威主義的な志向 を露わにする場面を描くにあたって、この歴史家による「少数派の権利」

をめぐる議論を参照していたことを、明らかにした。フローベールもミシュ レと同じように、第一共和政と第二共和政という二つの異なる時代を、重 ね合わせるようにして描いている。しかし、「少数派の権利」に関するミ シュレの議論を社会主義の問題へと接続したのは、フローベールの独創で ある。フローベールは、ミシュレによるロベスピエール批判を社会主義と いう自らの関心に引きつけながら読んでいたわけだが、この歴史家による

「少数派の権利」をめぐる議論を参照する際にも、ロベスピエールから社会 主義へと批判の対象をずらしているのである。

 それでは、以上の考察から、フローベールとミシュレという二人の作家 の関係に関して、どのような新しい視点を提示することができるだろうか。

一般には、この二人の作家の政治観は、まったく相容れないものであると 考えられている。たしかに、ミシュレが民主主義への信念をけっして失わ なかったのに対し、フローベールは民主主義に対して一貫して懐疑的な態 度を取りつづけた。しかし、この二人の作家は、専制政治に対して徹底し て批判的であるという点で、実は共通している。フローベールは、1857年 にある知人に宛てた書簡において、自分は「熱烈な自由主義者」であり、

あらゆる専制政治を嫌悪すると述べている41)。フローベールがミシュレと

───────────

40)Edmund Wilson, « The Politics of Flaubert », The Triple thinkers [1938], New York, Oxford University Press, 1963, pp. 82-83.

41)Lettre à Mademoiselle Leroyer de Chantepie du 30 mars 1857 (Correspondance, t. II, p. 698). フローベールの「自由主義」については、以下の論考を参照。Françoise Mélonio, « Flaubert, “libéral enragé” ? », in Savoirs en récit I. Flaubert : la politique, l’art, l’histoire, textes réunis et présentés par Anne Herschberg Pierrot, Presses Universitaires de Vincennes, « Manuscrits Modernes », 2010, pp. 15-33.

(15)

共有しているのは、このような自由主義の精神である。フローベールが、

ミシュレによるロベスピエール批判を社会主義批判という形で受け継いで いるのは、まさにこの熱烈な自由主義ゆえにであったと言えるだろう。

(日本学術振興会特別研究員PD)

Manuscrit de L’Éducation sentimentale, NAF 17609, fo8 (détail)

参照

関連したドキュメント

18 En rupture avec les formes dominantes d’organisation des enseignements de langues et comme pour mieux mettre en évidence les bénéfices à attendre, elle a pris le plus souvent

*9Le Conseil Général de la Meuse,L’organisation du transport à la demande (TAD) dans le Département de la Meuse,2013,p.3.. *12Schéma départemental de la mobilité et

Il est alors possible d’appliquer les r´esultats d’alg`ebre commutative du premier paragraphe : par exemple reconstruire l’accouplement de Cassels et la hauteur p-adique pour

Comme application des sections pr´ ec´ edentes, on d´ etermine ´ egalement parmi les corps multiquadratiques dont le discriminant n’est divisible par aucun nombre premier ≡ −1

On commence par d´ emontrer que tous les id´ eaux premiers du th´ eor` eme sont D-stables ; ceci ne pose aucun probl` eme, mais nous donnerons plusieurs mani` eres de le faire, tout

Cotton et Dooley montrent alors que le calcul symbolique introduit sur une orbite coadjointe associ´ ee ` a une repr´ esentation g´ en´ erique de R 2 × SO(2) s’interpr` ete

Pour tout type de poly` edre euclidien pair pos- sible, nous construisons (section 5.4) un complexe poly´ edral pair CAT( − 1), dont les cellules maximales sont de ce type, et dont

キーワード:感染症,ストレスマネジメント,健康教育,ソーシャルネットワーキングサービス YOMODA Kenji : Concerns and stress caused by the novel coronavirus disease