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トクガワバクフケイホウニオケル「ミスイ」ハン

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

トクガワバクフケイホウニオケル「ミスイ」ハン

溝田, 正弘

九州大学法学部助手

https://doi.org/10.15017/1819

出版情報:法政研究. 51 (2), pp.83-138, 1985-02-25. 九州大学法政学会 バージョン:

権利関係:

(2)

徳川幕府刑法に.おける﹁未遂﹂︐犯

溝一田:正弘

論説

一 殺人罪の﹁未遂﹂

 1 御定書以前

 H 御定書以降

  ︐1 通常の殺人罪  2主殺・親殺

  3 殺人の故意︐︸

 皿 小括

二 窃盗罪の﹁未遂﹂

 1 御定書以前

 H 御定書以降

  1 窃盗犯の処罰規定

  2 ﹁未遂﹂犯処罰の法制

 皿 小括

三 その他の犯罪の﹁未遂﹂

51 (2 ・83) 303

(3)

論説

  1 火附  2巧事・かたり事

  3 人勾引

結びにかえて

51 (2 ●84) 304

 徳川幕府刑法については︑既に諸先学によって貴重な業績がつみ重ねられてきた︒特に︑﹁公事方御定書下巻﹂︵以

下︑御定書と略称︶に含まれている所謂総則的内容については︑次第にその構造が明らかにされてきている︒しか       ユ し︑徳川幕府刑法における﹁未遂﹂犯の取り扱いに関しては︑いくつかの概説的記述を除いては︑法制史家によるま      とまった研究のあることを知らない︒しかも︑その概説的記述においても︑確固とした通説が確立しているとは認め

がたいのである︒

 例えば︑石井良助博士は︑﹁未遂犯に就ては︑御定書では目上の者の殺人傷害に就き︑既遂に比し刑を減軽して居      ヨ るが︑か\る特別規定のある場合の外は︑未遂も既遂と同様に罰するのが︑御定書の方針だつたと考へられる︒﹂と述

べられ︑さらに︑﹁未遂に関して特に規定のない場合には︑これを既遂と同視するのが当時の常識だつたやうに思は

  るぜれる︒﹂としておられる︒このように︑石井博士は︑徳川時代の﹁未遂﹂は既遂と同視されるのが原則であったど考

えておられるようである︒一方︑高柳真三博士は︑﹁御定書の下で未遂犯は既遂犯に対すると同様の刑を科せられるこ

とがあった毎ま癒合によってぱ刑を害せられるこどもあっ活ゴとされているが・御定書演算のない場倉

      ついては何ら触れられていない︒さらに︑牧健二博士は︑﹁未遂は勿論既遂よりも軽かったが定制はない︒﹂と述べら

(4)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

れ︑﹁未遂﹂は当然刑が減軽されるものとしておられる︒

 このように︑これら諸家の記述をみても︑徳川時代の﹁未遂﹂犯について統一的な見解が確立しているとは言い難

いでのある︒特に︑御定書に明文上﹁未遂﹂の規定がおかれていない犯罪類型において︑その﹁未遂﹂犯がど■のよう

に処罰されたかについては明らかではない︒これは︑一つには︑これら諸家の記述が御定書の条文のみを主な根拠と

しており︑判例の分析にまで立ち入らなかったため︑であろうと考えられる︒そこで︑本稿では︑判例を分析の中心に

据えることによって︑徳川幕府刑法における.﹁未遂﹂犯処罰の法制を明らかにし︑そこに存在した法理の一端につい

て若干の考察を加えたいと考える︒

.御定書には今旧の刑法曲ハのように一般︑的に﹁未遂﹂を規定した条文は存在しなかった︒したがって︑最初から﹁未

遂﹂一般を考察の対象とすることは適切ではないと思われるので︑まず個々の犯罪類型に従って︑その﹁未遂﹂犯処

罰の法制を考察することから始めたいと考える︒そこで︑最初に殺人罪の﹁未遂﹂について考察を加え︑次に窃盗罪

の﹁未遂﹂について考察し︑さらに︑その他若干の犯罪﹁未遂﹂についても触れたいと思う︒そして︑最後に︑これ

らの考察をもとにして当時の﹁未遂﹂犯処罰の法制について若干の検討を加えたいと考える︒

︵1︶近代刑法において未遂とは︑殺人罪←殺人未遂罪のごとく︑既遂類型を基準とし︑これに一定の修正と変更を加えて作ら

  れた類型という意味で︑﹁構成要件の修正形式﹂である︵中山研一﹃刑法総論﹄三九九頁︶︒しかし︑犯罪を意図して何ら

  かの行為に及んだにもかかわらず︑所期の目的を達成し得なかった場合が︑徳川時代においても必ず既遂の修正形式とし

  て把握されていたとは限らない︒そこで︑本稿においては︑こういつた行為態様を現象的にのみとらえる場合を﹁未遂﹂

  という括弧付きの表現で示すことにする︒したがって︑ここにいう﹁未遂﹂とは︑近代刑法理論によって裏打ちされた未

  遂概念よりも広い意味をもつものである︒

︵2︶刑法学者によるわが国﹁未遂﹂平貝の論文としては︑西山富夫﹁日本刑法の歴史的変遷と未遂・不能犯﹂︵名城法学第九

51 (2,●85) 305

(5)

論説

  巻一マ号︶がある︒

︵3︶石井良助﹃日本法制史概説﹄四九二頁︒

︵4︶石井良助・﹃同右﹄四九三頁︒

︵5︶高柳真三﹁徳川時代刑法の概観﹂︵司法資料別冊九︶

︵6︶牧健二﹃改訂日本法制史概論︵昭一五︶﹄三七五頁︒ 五三頁︒

51 (2 ●86) 306

殺人罪の﹁未遂﹂

 .﹂噛︑﹂御定書以前〜・︑    

 写.︑﹁︑

      ︵1︶ ﹄㌦徳川時代の刑法を概観すると︑︑御定書の制定前後では︑︐いささかその姿を異にしていることが知られている︒

即ち︑一御定書制定以前は刑事裁判に関する﹁一般的法典が存在せず︑先例や単行法令によっ﹁て裁判がおこなわれていた

がハ・寛保一.一年︵一七四二・︶に御定書が制定されると︑解この御定書にもとづいて裁判がなされるようになρだのであ

る︒︑そこで︑︑まず︑.御定書制定以前の﹁未遂﹂犯処罰の様相を観ておくことにしよう︒

一御定書制定以前の判例を集めた︐﹁御仕置裁許帳﹂︵以下︑︐︑裁許帳と略称︶.には︑通常の殺人罪にかかわる﹁未遂﹂の

事例は見うけられないが︑噛所謂﹁品替り候入殺︵通常殺人以外︑の殺人︶﹂の﹁未遂﹂事件を数例言困ずこどがでぎる︒

︐裁許帳によれば︑︑少なぐとも﹁品替り懸人殺﹂︑の場合︑.その﹁未遂﹂に対しても厳格な刑が科されていたようであ

る︒例えば︑元禄七年︵∴六九四︶の判例では一叢揖飼の所存二て︑.主人の食物山蛭糞を入︑給させ候﹂下女に対して       ﹁牢屋二て死罪.一思品川獄胃﹂が科されている︒厄まだ︑㌦元禄十年︵一六九七﹀の判例では︑︑﹁師匠を切殺し留年と︑数      ヨ ケ所手疵をおほせ候﹂道心坊主道玄に対して︑礫が科されている︒周知のように︑徳川幕府刑法体系のもとでは︑﹁主

(6)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

殺﹂や﹁師匠殺﹂は︑﹁親殺﹂と並んで最も重大な犯罪と考えられており︑先の事案もこれち重大犯罪の﹁未遂﹂で

あるだけに︑その処罰も厳格を極め︑獄門・礫といった厳罰が科されたのであろう︒

 もかし︑こういつた厳罰が科されていたからといって︑当時︑﹁未遂﹂・が既遂と同視されていたと速断するわけに

はいかない︒例えば︑この師匠殺しの﹁未遂﹂に関していえば︑なるほど︑当時︑出家による師匠殺の既遂も同じく

礫とされており︑刑罰の点では﹁未遂﹂犯は既遂犯と同様である︒しかし︑本件のような場合︑特にその殺人の故意

を考慮したうえで︑殺人の未遂として既遂と同様に処罰したのか︑あるいは︑故意の内容を問題にすることなく︑傷

害自体を殺人罪と同様の刑罰で処罰していたのかは判断できないのである︒判例が乏七いので直ちには断定できない       る が︑﹁裁許帳の判例を条文の形に整理した﹁元禄御法式﹂に︑・﹁.一︑出家師匠を語長の類︑切だる者も同罪﹂とあるの       ら をみれば︑■傷害自体が殺人と同様の刑罰を科さるべきものと考えられていたとするのが正当ではないかと思われる︒

 一方一何ら犯罪的結果を惹起し得なかった﹁未遂﹂の場合は︑既遂よりも軽く処罰されたと考えられる︒裁許帳の       寛文十年︵一六七〇︶の判例では︑﹁師匠を殺害可仕といたし候﹂寿宝寺弟子に対して流罪が科されている︒この事件

において︑具体的にどのような実行行為が行われたのか定かではないが︑先の元禄十年の判例と比較してみれば︑流

罪と礫という処罰の差違は︑﹁手疵を負せ﹂という結果の発生によるものであると考えられる︒このような場合は︑

既遂よりも軽く処罰する方針だったように思われる︒

 二 一方︑裁許帳に残された殺人﹁未遂﹂の判例のなかには︑﹁未遂﹂であるが故になお生存している被害者から

の宥免願によって赦免された例も何件か存在する︒例えば︑寛文五年︵一六六五︶の判例では︑﹁兄六兵衛を殺シ可申      ア と巧仕候﹂弟が︑﹁兄六兵衛訴訟申二付︑﹂赦免されている︒また︑延宝五年︵一六七七︶の判例でなう﹁引負仕︑其上       主人一宇給させ候巧仕候﹂奉公人が︑﹁主人訴訟申二付︑﹂赦免されている︒

51 (2 ●・87) 307

(7)

説亨﹁竈そも︑細重日制定以前の判例においては︑漁期の判例κ芒て贅になる事例が多いよう覧受りりれるが︑

論特に.婆︑者たる美からの箆悪筆みるならば︑馳︶処り借りの製権の裏変しであ至急稿裁豪幕府の

  公的刑罰権κ吸収されていく過程を示す庵のと言えよう︒.

51 (2 。88) 308

  1御定書以降

   1 通常の殺人罪

﹁.一︑通常の殺人罪三ついて御定書憾次のように規定している︒︑. 

 従前々旧例︑一㌃ 〜 ∵ ..  ︑︑    ︐    ・︐︑  ﹂ 一

  .一︑人を二四もの︐∴   内 下手人

 通常の殺入に対する御定書の規定はこの一項のみであり︑通常殺人の︑﹁未遂﹂に関する規定は全ぐ存在しない︒そ

こで馬当時の判例を分析することによって︑・人殺の﹁未遂﹂犯処罰の法制を探っていくことにする︒

 殺入の故意をもって犯行に及びながら︑︐被害者に傷を負わせる忙とどまった場合はどう処罰され.てい売であろう

か︒まず︑御仕置例類集の次の判例をみることにしよう︑

     天保五三年御渡

日光奉行伺

 一・野州上岩椅村喜左衛門下男彦三郎儀︑同国長畑村善次女房ふ唐え疵付候一件一

       日光御領

       野州都賀郡上岩崎村﹂

(8)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

      百姓

       喜左衛門下男

       彦 三 郎      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  右之もの儀︑離縁いたし候女房やそえ︑再縁之儀申入候ても不聞入︑長畑村茂吉女房二相成候を承︑可及殺害と︑

  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  夜中同人方え罷越︑やそと心得︑泊り合候善次女房ふきえ︑庖丁を以数ゲ宇宙付︑農業渡世も難成程之片輪二い

  たし候始末︑不届二付︑遠嶋︑

   此儀︑文化鼻鯛年︑曲淵甲斐守御勘定奉行之節︑伺之上御仕置申付候武州下郷地村弥五郎弟十七八儀︑追て此

   ものえ可嫌合心当にて︑兄弥五郎引取置候はるえ︑村内利左衛門伜幸八密通申懸候得共︑断およひ候旨︑はる       へ   申聞︑幸八は右様醒覚無量旨申候を︑勘右衛門外壱人取扱︑事済可致筈二相成候処︑酒狂之余り心外相募︑幸      ︹ママ︺

   ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ   八え歯軸付と︑脇差を帯し罷越︑取昇候候連︑同人と心得︑利左衛門え疵付︑左之手屈伸不相成︑農業渡世も

   難成程之片輪二いたし候始末︑不届日付︑遠嶋申付候例二見合︑伺之通︑遠嶋︑

    ︵未醤4   ︵−o︶

    評議之通済︵傍点筆者︑以下同様Y

 この事案は所謂客体の錯誤の問題を含んではいるが︑それを捨象して考えれば︑﹁可及殺害﹂として犯行に及びな

がら﹁疵附﹂︐という結果しか惹起し得なかった場合といえよう︒この事件に対して評定所は︑﹁可疵附﹂との故意によ

って相手を疵付けた例を先例として遠嶋刑を科している︒そして︑また︑この判決を下すにあたって︑評定所の念頭

にあったのは︑

 寛保元年極

 一︑口論之うへ人に疵附片輪にいたし候もの

51(2・89)・309

(9)

論説

    但渡世も難成程之片輪にいたし       中追放

    候ハ\遠嶋

という御定書の規定であっ元ことは容易に想像できる︒

∴このように︑徳川幕府刑法においては︑殺人の故意による傷害と︑傷害の故意による傷害とを区別することなく︑

傷害という結果の発生のみに着目して処罰していたのである︒

 さらに︑類﹂似φ判例養してな﹂伺bく御仕置例類集の明和九年︵一七七二︶の判例があげられよう︒

     明和九辰年御渡

 三奉行伺

 一 不義申掛候上︑手疵三三候一件丙

     層織.   ﹁     .絶︑   ︐・ ︑ 丁  ・     ︑  し︐一橋領知︐ .︑:︑・

      泉州泉郡府中村

       ます借屋

      下駄屋

      吉︑兵︐衛

  害毒もの儀︑はるえ︑度々不義印懸ケ︑不滅敢を相談︑外二密通之もの有之︑吉兵衛心底二不随儀と︑一途二相

    モ  ヘ  ヘ  へ  ゐ  ヤ  ヘ    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ    ヘ  ヘ  ヘ    ヘ ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  疑︑はるを差殺呈上︑自滅可致と︑覚悟いたし︑長兵衛方え罷越︑はるえ︑数ケ所手疵負セ︑井捕諸候五郎兵衛

  えも︑手疵為負候段︑労︑不届二付︑重追放︑

51 (2 ●・90) 310

(10)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

       ﹇マ・﹈   此儀︑吟味書之趣二ては︑はる・五郎兵衛とも︑疵所平導いたし︑片輪二も相成尊重候聞︑別紙両通之例︑見

   合候処置延享四卯年之例二的当仕候得共︑右は︑療治代︑疵之不請多少︑武家之家来︑江戸払︑之御定二て︑

 唱・・御仕置附︑仕丁儀と相見︑左候得は︑此ものハ︑町人・百姓之御定二て︑療治代︑為性説候方︑二可有之哉沸

  ﹂去ル子年之例も似寄候様に相見候処︑適例は﹂一旦︑密通いたし候処︑此ものは︑押て密通申立︑手疵為負候

   間︑・例よりハ品不宜︑其上︑同村二は難差置趣意にも御座蔭間︑所払︑

    ︑︵朱書︶   ︵11︶

    評議之通済

この事件忙おいても︑評定所は﹁差殺﹂という﹁覚悟﹂を何ら法的考慮の対象としては瀞ない︒   ピ

 これらの判例から明らかなように︑徳川幕府刑法においては︑﹁疵附﹂という結果が発生した場合︑それが殺人の故       ね 意によってなされたものか︑傷害の故意・によってなされたものかは区別されなかったのである︒即ち︑﹁疵附註もの﹂

という概念は故意の内容を問題にしない概念であった︒したがって︑殺そうと思って人を刺したが︑.死ななかったと

いうような場合は︑当時の概念に従えば単なる﹁疵附﹂に他ならず︑それ故︑そこに近代法的な意味での未遂を論じ

る余地はなかったのである︒これは︑逆に︑当時︑意趣や当座の口論等によって人を死に致らせた者は︑たとえ殺人       お の故意がなくとも﹁人殺し候もの﹂として下手人になったことを考えあわせれば無理なく理解されよう︒

 このように︑徳川幕府刑法の殺人罪においては︑犯罪は︑まず︑あくまでも結果の側面から問題にされ︑原則とし

て故意の内容は問題とされなかった︒これは︑徳川幕府刑法のもつ結果責任主義的な性格に由来するものと言えよ

うQ また︑次の判例は﹁通例牢人殺﹂にかかわる﹁未遂﹂の事案ではなく︑密婦による本夫の毒殺﹁未遂﹂であるが︑

この判決に窺われる法理も先の結論を裏づけている︒

51 (2 991)馬311

(11)

論説

戸田采女正澱御差図

 御勘定奉行

 松平兵庫頭掛

      植村駿河守御領所

       和州高市郡

      今井今町百姓

       長兵衛女房

       わ    さ

 右聾者儀夫有之身分にて医師退安と度々密会いたし剰夫長兵衛とハ不和に叢論人相果候ハ\後夫を層雲儘に相暮退

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 安を存分に世話可相成と長兵循を殺候存念を以硫黄等量を食物に交為耳翼故一旦長兵衛相諸候始末不届至極に付引

 廻之上獄門

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ ︹御仕置附︺右御定書に密通いカし実之夫を殺候女引廻之上礫と有之此者儀退黄と密通いたし夫を可殺心底にて毒

 ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 物給させ悪習共不死故前書御定相当勲等申硫黄為給長兵衛相煩候ハ疵芸備も同様之趣意に可有御坐候間密夫いたし

 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ        実之夫に疵付候者之御定に准し引廻之上獄門

本件は︑・殺害の故意︵﹁子殺心底し︶をもって本夫に給毒したが︑ただ煩っただけで死という結果を生ぜしめ得なかっ

たという事案である︒この事件においても︑幕府裁判所は導入の故意に特に注目することなく︑﹁密夫いたし実之夫

に疵付候もの引廻し之上獄門﹂の規定によって処罰したのである︒

 二 しかし︑・徳川幕府刑法が︑殺人の故意によって疵を負わせた場合と︑傷害の故意によって疵を負わせた場合と

51 (2。92)312

(12)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

を全く同様に取り扱っていたかというと︑そうではない︒赦の制度においては両者は明確に区別されていたのであ

る︒赦律には次のような条文が規定されている︒

  一 可殺存念二・而人志望飼いたし候もの赦免育成疵藩候とも不筋之遺恨穴一利徳を以可殺存念二而人孔疵附候もの       へ     赦免難成事

 この条文によると︑﹁不筋之遺恨﹂や﹁利徳﹂のために﹁焼殺存念﹂で犯行に及び︑﹁疵附﹂の結果を惹起した者に対

しては赦免の申し渡しはできなかった︒これに対して︑ζの条文を反対解釈するならば︑︐殺人の故意なく人を﹁疵

附﹂けた場合は赦免の言い渡しを受けることができたと解されよう︒また︑赦律の制定過程を示した赦律別冊には︑       め  ﹁疵附候とも不筋之遺恨又は利徳を以男殺存念二而仕成候ハ当座之ロ論疵附と翻訳違格別品不宜候間﹂とあり︑徳川

幕府刑法においても︑﹁不筋之遺恨﹂や﹁利徳﹂のために殺人の故意で人を疵つけることは︑単純な﹁疵附﹂よりも重

大な犯罪だと考えられていたのである︒

 ここで︑﹁不筋之遺恨﹂とか﹁利徳﹂とかいった概念の内容が問題となるが︑一般的に言って︑それらは徳川幕府

刑法の依って立つところの封建道徳︑儒教倫理に反するということをその主内容としていたのではないかど考えられ

る︒それ故︑﹁不筋之遺恨﹂や﹁利徳﹂に結びついた犯罪は︑徳川封建制の前提にかかわる重大な犯罪であり︑徳川

幕府刑法はこれらの犯罪に対して特に厳しい姿勢で臨む必要があったので︑﹁人殺﹂・﹁疵附﹂においてはその故意の

内容を問題にしないという原則を修正せざるを得なかったものと考えられる︒ここに示されるように︑一般に︑赦の.制度は徳川幕府刑法の原則を貫徹することによって生じる諸々の問題を緩和するという機能をもちあわせていたよう

に思われる︒ 噛       ︐馳 ﹂  ∴        . ﹁         ︐−﹂

 三 殺人の故意によって犯行に及びながら︑.﹁疵附﹂という結果さえ惹起し得なかった場合︑あるいは殺人の予備

51 (2 ●93) 313−

(13)

  というものに対して︑徳川幕府刑法がどういう態度をとっていたかという問題が最後に残る︒御定書は︑この問題に  ついて何らの規定も設けておらず︑また︑こういつたケースを取り扱った判例も見出すことができない︒﹁疵附﹂と  いう結果さえ惹起しなかった場合や︑所謂陰謀・予備を全く処罰の対象としなかったとは考えられないが︑ここでは

  言及をひかえざるを得ない︒今後の研究に残された課題の一﹁っである︒

51 (2 ●94) 314

   2 主殺・親殺

 一 徳川幕府刑法において︑ン﹁主殺﹂ρ﹁親殺じは逆罪と呼ばれ︑徳川封建制の根幹をなす身分秩序を破壊する最重

大犯罪であった︒したがって︑これらの犯罪には厳罰が科され︑死刑のなかでも最も重い鋸挽は﹁主殺︺のみに科ざ

れるものであった︒

 御定書の先駆をなすと考えられている享保九年︵一︑七二﹁四︶の享保度法律類寄は︑.主人殺・尊族殺について次のよ

うに規定している︒

     逆罪附不仁

・一 当主古主を殺害する者︑縦怪我にて殺︑又は手疵負せ候もの︑致可殺巧︑不具本意候共︑.生類一白引廻し︑一︐一

  日晒︑鋸引の上傑︑自滅牢死は致塩詰置礫︑同郷手向は獄門︑於致悪口は流罪︑乱気にて殺二者は死罪

   く略︶

一 実養祖父.母殺害する者︑縦怪我又は手疵負せ候者︑可殺巧いたし︑不遂本意候共︑此類一日引廻し︑二日晒︑       り   篠︐︑自滅牢死は致塩詰置礫︑・打論理向は獄門︑惣て不孝の者は流罪︑乱気にて殺候者は死罪

このように︑逆罪については︑過失殺や傷害さえも殺人と同⁝様に処罰し︑殺そうと﹁巧﹂んだ者も︑﹁不仁本意候

(14)

徳川幕府刑法における丁未遂」犯(溝田)

共﹂既遂と同様に処罰する方針であったようである︒

・しかし︑その後︑寛保元年︵﹂.七四一︶﹁に成立したといわれる私撰の法令集である律令要略では︑逆罪に関して       お は︑﹁不一為手負−切か\り︑打か︑り﹂という三段階が規定されており︑御定書も同様の構成を採用している澄御

定書の条文は次のとおりである︒︐   .   馳一㌧.      引・︑.︐  ︹

 従前々之例

 一︑主殺幽  .︐   二日晒一日引廻し

      鋸挽之上礫

 同

 一︑主人に為手負候もの   晒之上

       .︑   礫

 同

 一・︑四切か\り打か︑り候もの 一︑死罪  ﹂  

 従前々之例

 一︑親殺﹂  ︐﹂    ︑引廻之上︑

       礫      .辱 ︑

 同

 一︑同為手負候もの弓打榔いた

  し候もの      礫

51 (2 ●95) 315

(15)

論説

 一︑同切か\り打か\り候もの   死罪  寛保元年極

 このように︑享保度法律類寄に存在した﹁未遂﹂の規定は︑御定書にはない︒しかし︑﹁通例之人殺﹂に対する徳川

幕府刑法の対応を勘案するならば︑故意の内容を問題とすることなく︑たとえ殺人の故意で負傷させても﹁為手負﹂      ハゆ として処罰されたと推測できよう︒ただし︑﹁通例之人殺﹂に科される下手人という刑罰の特殊性の問題もあり︑そ

う断定して七まうこともできまい︒

 二 逆罪の場合は︑通常の殺人や傷害には登場しない﹁切か\り︑打か\り﹂という犯罪類型が規定されている

輝ヅこれは・犯罪未遂というより一種の未遂犯罪であろう・このように・逆罪の場合は・何ら犯罪的結果が生じなく

とも︑こういつた一種の未遂犯罪を一つの犯罪態様として把握することによって︑その法益を保護するという強い要

請に応えたものと思われる︒

51 (2 ●96) 316

   3 殺人の故意

 ﹇ 徳川幕府刑法においては︑通常︑殺人の故意によって人を負傷させた場合︑近代刑法のように殺人の未遂とさ

れるこ﹁とはなく︑単に﹁疵附﹂として処罰されていたことは既に明らかにした︒しかし︑御定書には﹁可殺所存にて

手疵負せ﹂・という特殊な構成要件をもつ一群の規定がある︒それは︑①家守が地主を負傷させた場合︑②同じく元地

主を負傷させた場合ハ③支配をうける名主を負傷させた場合︑④官己の悪事が露顕する乙とを恐れて人を負傷させた

場合に関する四箇条である︒御定書の条文は次のとおりである︒

寛保二年極・

(16)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

一︑地主を殺候家守    引廻之上

       獄門

一︑同可殺所存にて

  手疵負せ候家守        死罪

一︑元地主を殺候家守   引廻之上

       死罪

一︑同可殺所存にて

  手疵負せ候家守       遠嶋

寛保二年極      ﹁  ド

一︑支配を請候名主

  を殺し候もの     引廻之上

       獄門

  但︑可殺所存にて︑手疵負せ候もの︑死罪

寛保二年極

一︑自分の悪事可顕を厭ひ︑其人

51(2・97)317

(17)

      を可致殺害として疵附︑或詮      議したる入に遺恨を含︑手疵      負せ候もの       死罪

     追加

      延享元年極

       但隅切殺候ハ︑︑獄悶目

   ここにいう﹁可殺所存﹂とは︑これまでもしばしば登場した﹁可殺心底﹂と同様のものであって︑殺入の故意にあ

  たるものと考えられよう︒これまで考察してきたように︑徳川幕府刑法は︑殺人と傷害に関して︑その故意の内容

  を問題としないのが原則であった︒しかし︑ここに挙げた諸規定は︑殺人の故意をもって実行に着手したが︑死とい

  う結果を惹起するに至らず︑﹁疵附しという結果にとどまった場合を一つの犯罪類型として規定しているのであ

  る︒これは︑今日近代刑法に謂うところの殺人未遂と非常に近い構成要件をもったものであるといえよう︒したが      ヘ  へ  って︑これらの諸規定は︑通常の殺人罪︑傷害罪とはいささか構造の異った規定であると言わざるを得ないのであ

  る︒   近代刑法のような緻密な体系的論理構造を持たない徳川幕府刑法にあって︑条文の細かな文言にこだわるのは危険

  ではないかという危惧が抱かれるが︑この﹁選録所存にて︵可致殺害として︶﹂という文言は当時の裁判所にとって法

  的に意味ある重要な要件として意識されており︑したがって︑この文言を含む諸規定が︑徳川幕府刑法の殺人・傷害

  の体系のなかで特異なものと考えられていたということは︑判例から明らかにし得る︒例えば︑天明七年︵一七八八︶

  の判例中には﹁御定書に︑可殺心底︸︸て︑地主え手疵為負候家守︑井元地主え手疵風負民家守之ケ条ハ︑御座候得

5! (2 ●98) 318

(18)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

      ハれ 共︑聖廟外︑兼て︑三編心底之もの︑︐井可殺心底二丁之︑疵付候差別之箇条は︑無御座﹂という法理が示されてい

る︒ さらにまた︑﹁可致殺害として﹂という文言が︑ 一つの要件として重要な意味をもっていたことの証左として次の

事実を指摘しておきたい︒

 自旦の悪事露顕を恐れての疵鮒の規定は︑先に示したように︑寛保元年の段階では﹁疵附﹂の構成要件しかもた

ず︑その後延享元年に殺人の項目が但書として追加された︒一見するとこの但書にそう重要な意味がありそうにも思

えないが︑実は︑この但書のもつ意味は興味深い︒即ち︑﹁可致殺害として疵附﹂けた場合を規定した条文の但書と

して﹁切殺﹂が規定されたために︑論理的には︑﹁可致殺害として﹂という要件が﹁切殺﹂した場合にも必要とされる

ことになるのである︒こてに︑殺人の故意を要件とする殺人罪という徳川幕府刑法にとって億極めて例外的な犯罪類

型が誕生したのであった︒こうした緻密な論理構成億徳川幕府刑法の本質から遠いように感じられるが︑評定所は︑

御定書の文言に忠実であろうとしたために︑このような論理的帰結を採用したのである︒それを示すのが天保九年       ︵一八一一﹁八yの無宿可慎の一件である︒これは︑自己の悪事が露顕するのを恐れ︑相手を疵付けて死に致らしめたが︑

その際︑殺人の故意は存在しなかったというケースである︒この事件について評定所は︑﹁元来其身之非分露顕を厭

ひ候所より︑仕蔓穂不届二候間︑自分之悪事可顕を厭ひ︑其人を可致殺害として疵付︑或は詮議したる人二遺恨を

含﹁手疵為負候もの︑死罪︑五二殺候ハ\︑獄門︑と有之御定二寄可然犯科﹂であるが﹁最初より可殺心底二無記段

は︑顕然二有之︑然ル上ハ︑一概二七御定但書え引当候も相当とも難申︑﹂として︑本条但書の直接適用を否定した

上で︑コト通ロ論二て︑相手を殺害およひ候とハ訳違︑仮令疵付候迄二ても︑可殺心底二て仕諸候は︑死罪二相成候

爵之ものに付︑況相手及死下上は︵可致殺害所存二無量候とも︑死刑は難遁呼子︑右御定但書より軽く︑﹂処罰すべ

51(2・99)319

(19)

論説

きであるとして死罪を科したのである︒

﹁通例之人殺﹂の場合は︑たとえ殺入の故意がなくとも︑﹁疵附﹂る故意によって入を死に致らしめた者は︑﹁人殺﹂

として処罰されたが︑本件においてはう評定所は︑﹁可殺心底﹂がないのは明らかであるかち︑御定書但書よりも軽く

処罰するとしているのである℃むれは︑裁判機関による新たな構成要件の創設とも言い得るものである︒

 以上の考察から明らかなように︽これらの諸規定においては︑﹁可殺所存にて﹂という文言は構成要件として重要      ヘ  へな意味をもつものであり︑そうである以上︑これらの諸規定は近代刑法における未遂と同様の構造をもつ﹁未遂﹂規

定であると言うことができるのである︒      ヘ  へ このように︑謂れらの諸規定は︑近代の唱から見れば︑その構造億たしかに未遂犯の規定である︒しかし︑.当特の

認識として︑はたして既遂犯との比較において既遂犯よりも軽く処罰することが︑これらの規定を設けた主旨である

と考えられていたかは大いに疑問が残ろう︒これらの諸規定は︑未遂犯の規定というよりも︑むしろ︑﹁疵附﹂囁の特

殊類型としての性格が強かったのではないかと考えら㊨る︒ ︑ ・   ﹁      ・     ︑7

 二 こ九らの諸規定が︑何故︑通常の殺人罪と傷害罪との関係にあてはまちない︑殺人の故意による傷害を規定し

ていたのかを考えてみなければならない︒これら地主殺︐や名主殺という犯罪は﹁通例之人殺しに比べ刑罰が著しく重

くなっている︒それは︑こういつた犯罪が徳川封建制そのものとのかかわりのなかにあって︑通常の殺人よりも違法

性が高いと考えられていたためであり︑徳川幕府刑法としては︑これらの犯罪に対して厳格な刑を科す必要があった

のである︒・しかし︑一方で︑その﹁疵附﹂を厳罰に処すにあたって︑殺人の故意を要件とすることによってしぼりを

かけ︑衡平を保とうとしたのではないかと考えられる︒これに対して︑逆罪の場合は︑そういった配慮を排除せしめ

るほど違法性が著しく高いので︑もはや故意を問題とすることなく舶疵附﹂た対しても極刑をもって臨んだものと考

51 (2 ・100) 320

(20)

えられるのである︒したがって︑これらの諸規定が﹁重殺所存にて﹂を要件とするのは︑

自らの位置に由来するものと言えるのではないだろうか︒ 徳川幕府刑法体系における

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

  皿 小括

 闇 殺人罪の﹁未遂﹂についてこれまで述べてきたことをここでまとめておこう︒

 徳川幕府刑法は︑︑原則的には︑﹁人殺﹂・﹁面隠﹂を論じるにあたって故意の内覧を問題とせず︑殺人の故意によっ

て人を負傷させた場合も﹁癌附﹂として処罰され︑未遂の問題の生じる余地はなかった9

 また︑・主殺︑親殺の逆罪の場合は︑﹁殺一品疵負﹂に加えて﹁切か︑り︑打か〜り﹂という一種の未遂犯罪を規定し

て︑その法益を保護するという姿勢を徹底させた︒

 しかし︑殺人の故意による﹁疵附﹂と︑傷害の故意による﹁疵附﹂とを全く同視していたわけではなく︑邪悪な動

機に結びついた殺人の故意による﹁疵附﹂の場合は︑単純な﹁疵附﹂とちがって赦を受けられないという差異があっ

た︒ 二 これに対して︑徳川幕府刑法においても︑殺人の故意で人を疵付けたが死に致らしめることができなかった場

合を特に規定した条文も存在した︒それは︑被害者と加害者の間に︑逆罪ほどではないにしろ身分的な差がある場合      ヘ   へと︑自分の悪事露顕を恐れての犯行の場合であり︑その規定の構造は近代法的な未遂の構造をもっているが︑はたし

て︑当時それが未遂と意識されていたかどうかは疑問である︒

︵1︶石井良助﹃日本法制史概説﹄四八四頁以下︒

︵2︶石井良助編﹃近世法制史料叢書︹第一︺﹄所収﹃御仕置裁許帳﹄一之帳六一︒以下﹃御仕置裁許帳﹄︵一︶六一のように略

51 (2 ・101) 321

(21)

岳ム 簡倒

  す︒

︵3︶﹃御仕揖裁許帳﹄︵三︶二四四︒

︵4︶石井良助編﹃近世法制史料叢書︹第一︺﹄所収﹃元禄御法式﹄六四︒

︵5︶︑九州大学法学部蔵になる﹃公事録﹄は︑万治から元禄までの判決例を収録したものであるが︑乙こに﹁主人為手負﹂とし

  て掲げてある判例中には︑﹁甚五兵衛︵主人の名︶錐不相果︑主人を書算得者︑主殺思為同意︑傳助︵弟子の名︶義︑於

  日本橋三日さらし篠二三ル﹂とある︒

︵6︶.﹃御仕置栽許帳﹄へ三y層二四戸三︒

︵7︶ ﹃御仕置裁許帳﹄︵二︶=八︒

︵8︶ ﹃御仕置裁許帳﹄︵一︶六〇︒

︵9︶大竹秀男・牧英正編﹃日本法制史﹄二二二頁︒牧英正﹁下手人という仕置の成立﹂︵﹃布施弥平治博士古稀記念論文集・法

  制史の諸問題﹄一二三頁︶参照︒

︵10> ﹃御仕置別類集・天保類集﹄三四之画譜六三︒以下︑﹃天保類集﹄︵三四︶八六三のように略す︒

︵11>.﹃古類集﹄︵一五︶九九六︒

︵12︶石井良助博士も同様の主旨を述べておられる︵﹃第四江戸時代漫筆﹄一〇四頁︶ゆ

︵13︶若書の故意しかないのに人を死に致らせた場合に対する幕府裁判所の態度には︑御定書制定から間もない段階では動揺が

  みられ渇︒しゅし︑ほ厳寛政期以降は︑之ういったケースに対しては下手人刑を科すのが原則となったようである︒次に

  掲げる判例はその間の事情をよく示している︒

        寛政十二申年御渡

   町奉行

    根岸肥前守伺

   一 小日向西古川町・伊之助儀︑音羽町六丁目仁兵衛を及殺害候一件︑

       小日向西古川町

       文七店

51 (2 ● 102) 322

(22)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

      長八伜

      伊 之 助

−右筆もの儀︑当六月廿九日︑護国寺開帳場より︑仙蔵・長次郎・巳之助一同立帰候節︑音羽町六丁目往還二て︑富五      ︹内本︺郎・益太郎︑開帳仏︑着相済候間︑手を打候様︑申候処︑手を打二は不参旨︑申候より死脈回︑及口論︑互二木切を

以︑打合候節︑仁兵衛︑棒を持参︑此ものえ打懸り候に付︑貫之折二て打榔いたし候処︑気絶いたし︑倒︑相果候様

子二付︑右始末︑自訴可致と︑御役所え駈込候得共︑御役所二ては︑有躰︑難申立︑此もの︑仁兵衛を強.打擁いた       も  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へし候取沙汰有之候二付︑吟味相願候旨︑取椿︑申立︑且︑仁兵衛え対し︑意趣遺恨等は勿論︑最初より之相手二も無

 ヘ ヘ ヘ    ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ    ヘ ヘ   ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ    ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ    ヘ ヘ ヘ    ヘ ヘ ヘ ヘ   ヘ へ之上ハ︑単打殺心底二は上之候禅話︑同人︑当り濫悪敷︑相果候上汁︑右始末︑不届二上︑遠嶋︑

 此儀︑伊之助・外三人︑音羽町六丁目往還一一て︑富五郎・益太郎二行会候節︑開帳仏︑着相済候間︑手を打候様︑      ︹内本︺      ︹内本︺ 申候処︑手を打切は不参旨︑申候より蜂起回︑及口論︑互二︑木切を以︑打合山越︑仁兵衛︑棒を持参回︑伊之助

 え打懸り候下付︑貫之折損て工学いたし候処︑気絶いたし︑言置金尽共︑仁兵衛え対し︑意趣遺恨は勿論︑最初よ

 り之相手二も無之︑仁兵衛︑横合より︑棒を以︑打懸り候段︑一件申口符合いたし︑素より相手二無之候間︑可殺

 心底二は無之趣︑吟味之見込を以︑御仕置附二申上候例二見合︑時時と︑根岸肥前守相伺候処︑御尋之上︑死生之

 境︑不容易趣を以︑御定二上候選書・権外例電算︑御答申上候︑右記通︑似寄之例二見合︑下手人之刑︑以来︑区 々之七二も柾葦間敷︑伺之通二て追思哉二御座候処︑此度之伊之助︑仁兵衛二対し︑意趣遺恨等無之︑可殺心底︑

 無之候連も︑大勢二て及口論︑打合候て︑人を殺候もの︑不得止始末と可申黒川無之候︑生死之境︑不軽事二て︑

  ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ゐ ヘ   ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ   ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ   ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ   ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 法を厳面し候てさへ︑下賎之もの馬喧椛異論之時二臨ては︑身を忘れ法を犯し候習二候を︑させるゆへもなくして︑

  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 赦し候ハ・︑犯し候もの︑弥︑絶へからす候︑此等之所︑よくよく了簡いたし︑可申上旨︑御書取を以︑被記聞候

 趣︑御尤二奉書候型付︑猶︑例をも取調候処︑遠嶋二相畢宿似寄之例有之︑今般︑御渡被成候例は︑下手人二相

 成︑一事両様二て︑例二寄候ては難決︑宝暦十辰年之御書付下︑御定二致的当候例も有之︑御定と御替之品︑一事

 両様舌早ハ・︑都て︑層御定掘方を相用︑向後︑御仕置首相伺︑と有之趣を以︑再応評議仕候処︑仁兵衛︑横合よ

  り︑棒を以︑伊之助え打懸り候は︑見応候ものも有之由︑一件登口︑符合いたし︑或ハ人を殺候もの二ても︑自訴       ︹内本︺  いたし候故を以︑御仕置二曲候も如何二て︑一面︑伊之助︑不得止事︑及口論︑打合候訳も無之︑たとへ︑仁兵衛︑

51(2●103)323

(23)

貸冊

︵14︶︵15︶

︵16︶︵17︶

︵18︶︵19︶    最初より之相手二無毒候とも︑益太郎は︑仁兵衛同町之もの故︑益太郎持指貫を︑伊之助引合︑打折候節︑仁兵       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ    へ   衛︑横合より︑棒を以︑打懸り候は︑益太郎二荷担いたし候二相当︑相手二無之とも難平候間︑人を殺候もの︑下   ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  へ   手入︑之御定二て︑下手人︑

    ︵朱書︶

    評議之通済︵﹃古類集﹄︵二五︶一九五六︶ この事案は︑口論の末︑﹁可殺心底﹂もなく︑棒で山郷したところ︑それによって相手が死亡してしまったというケースである︒本件について︑町奉行は遠嶋相当と判断した︒これに対して︑評定所は︑老中の指示によりさらに考究を加え︑

﹁人を殺候もの﹂の御定によって下手人と決定したのであった︒

 この判決の論理の展開をみると︑殺人の故意なぐして相手を死に致らしめた場合に下手人刑が科されるめは︑喧椛ロ論

の場における特例のようにも受けとれるが︑その後︑評定所は︑文化十年︵一八=二︶には︑群論の場においてではなく

﹁可致殺害心底には無慮︑疵付︑憤を可晴と存︑途中二て脇差井原買取︑﹂相手を疵附け︑死に致らせた者に対して下手

人刑を科し︵﹃新類集﹄︵一七︶.五六二︶︑さらに︑文政二年︵一八一九︶には︑﹁可及殺害心底二は無之候得共︑相手両人

故遡及手︑其場を可遁と腰に差居候包丁を抜︑振回し︑﹂相手を死に致らしめた者に対して下手人刑を科している︵﹃続類

集﹄︵一六︶六〇一︶︒その他にも︑殺人の故意がないのに相手を死に致らしめた者に対して︑﹁人を殺候もの﹂の御定を

適用して下手人刑を科す判例は多い︒

 なお︑前掲︑牧英正﹁下手人という仕置の成立﹂︑平松義郎﹁近世刑法史雑感﹂︵法学教室第一期五号︑一五一頁︶を参

照のこと︒

﹃徳規時代裁判事例﹄刑事ノ部︵司法資料第二二一号︶ 一〇二頁︒

﹃徳川禁令考﹄︵創文平版︶別巻︑二七二頁︒以下︑﹃禁令考﹄別︑二七二頁のように略す︒

﹃禁令考﹄別︑二九二頁︒

﹃禁令考﹄別︑二頁︒

﹃近世法制史料叢書︹第二︺﹄三五五頁︒

牧英正教授によれば︑徳川幕府刑法における下手人の制は︑中世の下手人引渡しの慣例に由来する外部的刑法の系譜をも

つものであり︑内部的刑法の系譜をもつ﹁死罪﹂その他の死刑とは範疇を異にするものであるという︒前掲牧英正﹁下手

51 (2 。104) 324

(24)

  人という仕置の成立﹂︒

︵20︶科条類聚によれば︑乙の﹁切か︑り︑打か\り﹂は︑草案の段階では﹁手向﹂という文言であったが︑

  如何二候︑切か︑りと可相改﹂としてこのように変更された︵﹃禁令考﹄後三︑四三〇頁︶︒

︵21︶ ﹃古類集﹄︵二八︶二二二三︒

︵22︶ ﹃天保類集﹄︵三四︶八五二︒・ ﹁手向と計二而ハ

二 窃盗罪の﹁未遂﹂

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

  1 御定書以前

 窃盗罪の﹁未遂﹂を考察するにあたって.殺人罪の場合と同様︑まず︑御定書制定以前の段階を概観することから

始めよう︒

 御定書制定以前の窃盗罪の﹁未遂﹂については︑御仕置裁許帳に判例が残されていなじので︑その詳細は知り難

いσそこで︑長崎犯科帳の判例からその概略を窺うことにしたい︒

 まず︑元禄十四年︵一七〇一︶の次の判例を見ることにしよう似

  長崎桶屋町  本田了庵店  生所 長崎本大工町

 一 七平 巳歳三拾七 巳十一月六日入籠       ママ   此面条理十晶月三日御物撰之節日用二条入五拾壱番船貨物箇之内之端物盗取可申といたし候所を町使見出搦之候

 付遂吟味候処罰之通無紛令白状誤入候由申之不届至極付入籠申付中之同月十四日長崎十里四方追放申付之以後於立

 帰は可行死罪之旨申含之

51 (2 ●105) 325

(25)

1〒購 この判例では︑﹁盗取尊閣﹂としたところを逮捕された犯人に対して︑立帰れば死罪に処すという留保を付した上   ︵追︶此者申年吟味之所町内引請者無之由書付出        ヘユ 

で︑長崎十里四方追放という刑が科されている︒また︑宝永五年︵一七〇八︶の同種の事案に対しても同様の刑が科

    ︵2︶      へ3︶         窃盗犯に対しては厳格な刑罰が科されていたことが犯科帳の分析から明らかにされているが︑されている︒      当時︑

﹁未遂﹂犯の処罰は既遂に比べてかなり軽いものだったといえよう︒

 長崎は幕府の直轄領ではあったが︑一般に︑長崎奉行の判決と中央の判決とが完全に一致するとは言い難いし︑特

に徳川時代の初期にあっては︑両者の開係が必ずしも明確ではないので︑長崎奉行所のこのような態度から中央の方

針を軽々に類推することは危険であろう︒しかし︑犯科帳のこういつた判例を勘案すれば︑当時︑窃盗の﹁未遂﹂は

既遂よゆも軽く処罰されていたであろうことが推測される︒いずれにせよ︑御定書制定以前の窃盗﹁未遂﹂に対する

処罰の実態は明らかではない︒

51(2●.106)326

  ∬ 御定書以降

   1 窃盗犯の処罰規定

 寛保二年︑御定書が制定され︑窃盗犯の処罰も裁判の規準となる制定法をもつに至った︒元来︑御定書は先例集と

しての性格の強いものであったため︑犯罪の類型を抽象的な構成要件にまで高めるに至っておらず︑盗犯に関して

も︑その行為態様の多様性にあわせて︑多くの条文がカズイスティックに並べられている︒その多様な犯罪類型のす

べてにわたって考察を加.汽ることは不必要な混乱を招くおそれもあるのでハ本稿では﹁忍姦盗之御定﹂︑コ戸明之盗之

御定﹂と称された条文を中心にして考察をすすめたい︒﹁忍入穿之御定﹂︑﹁戸明之盗之御定﹂とは︑御定書第五十六

(26)

条の次の条文である︒

 享保五年極・

 一 家内江忍入或ハ土蔵杯破り三三

金高雑物之不依多少

       死罪

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

   延享元年極

     但昼夜に限らす戸明有之三又ハ家内に人無之故手元に有之軽キ品を盗取豆類入墨之上重敲

 この条文のうち︑本文が所謂﹁忍入盗之御定﹂であり︑但書が﹁戸明之盗之御定﹂であるが︑この条文からは︑徳

川幕府刑法が窃盗犯の﹁未遂﹂をどう処罰していたかを窺い知ることはできない︒

 その後︑この御定書の規定は︑延享四年︵一七四一︶.二月に一旦変更され︑そζには﹁未遂﹂に関する項目も含ま

れていた︒次に示す史料がそれである︒

 延享四年卯年二月七日御渡

  盗賊御仕置之事井右二付雅楽頭殿口上覚書    .     φ

︑一︑物を盗取候ハ\不限多少賊徒       一︑家之三江入盗未三内二召捕候ハ㌧忍入之無差別賊徒同前

 この規定中︑﹁家之内江入盗未致内二手捕候ハ\﹂という文言は︑﹁未遂﹂を規定したものといえよケ︒高柳真三博      ︐︵5︶士信︑との条文について︑﹁盗犯の未遂を既遂と同一視して科刑する趣旨であることは︑指摘する迄もない︒﹂と述べ

ておられるが︑同感である︐ただし︑既遂と同一視されるのは決して﹁未遂﹈一般ではなくて.居宅侵入後の﹁未

51,(2 ●107)・327

(27)

…ノ、

口i田

量﹂犯に限られていたということを注意しておかなければならない︒いずれにせよ︑この延享四年の法令は︑盗犯の

﹁未遂﹂を規定した唯一の法令であった︒

 しかし︑この延享四年の改革法令は︑二年後の寛延二年︵一七四九︶に廃止され︑盗犯の処罰は以前のように御定       書を規準とすることになった︒これによって︑徳川幕府刑法は︑再び︑盗犯の﹁未遂﹂に関して何ら成文規定をもた

ないということになったのである︒

 したがって︑盗犯の﹁未遂﹂に対する処罰の法制を探るためには︑判例を手懸りとしなければならないのである︒

51(2ガ108)328

  ︑2 ﹁未遂﹂犯処罰の法制      一 徳川幕府刑法における窃盗罪に関しては︑諸先学の業績が蓄積されているが︑なかでも︑平松義郎博士の﹁徳

川幕府刑法に於ける窃盗罪−判例による近世刑法史の研究一しは︑判例分析による徳川時代刑法史の研究という

手法を確立されたという大きな意義をもっている︒またハその内容も精密を極め︑窃盗犯処罰の法制を実証的に明ら

かにされた︒しかし︑平松博士も︑窃盗の﹁未遂﹂については言及されておらず︑﹁未遂﹂犯処罰の実態は明らかに

なっているとは言い難い︒したがって︑盗犯の﹁未遂﹂がどう処罰されたのかという問題は︑なお残された課題なの

である︒ 二 盗みにはいろうとし︑あるいは︑盗みにはいったが︑財物を得ることができなかった場合を﹁未遂﹂犯と称す

るならば︑当時の用語では︑そのことを﹁物不得取﹂とか﹁不遂事﹂とか言っている︒御仕置例類集に﹁物不得取類﹂

として掲げてある一連の判例がこれに該当する︒そこで︑これから︑主にこの﹁物不得取類﹂の判例を分析すること

によって︑徳川幕府刑法における窃盗犯の﹁未遂し処罰の法制を考察していくことにする︒

(28)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

 ひとくちに窃盗犯といっても︑その犯罪の客体と態様は非常に多様である︒そして︑徳川幕府刑法は︑適用条文を

決定し︑量刑を定めるにあたって︑この多様なファクターを取りこんでしまっているので︑﹁未遂﹂もそれらのファ

クターのなかに埋没してしまい︑﹁未遂﹂のみを純粋な形でとり出して考察することは困難である︒特に︑窃盗罪       は︑ ﹁忍入管﹂.とコ 明之盗﹂︑とを分かつメルクマールが非常に複雑であり︑幕府裁判所の関心は主にこの点に注が

れてい允ので︑幕府裁判所が﹁未遂﹂をどのように考えていたのかは必ずしも明確ではない︒殊に︑御定書制定から

間もない時期においては︑その傾向が著しい︒例えば︑御仕置例類集に登場する最初の窃盗﹁未遂﹂事件である次の

判例をみてみよう︒

     明和八卯年御渡

 火附盗賊改       −サ

  石野藤七郎伺

 ︼ 板橋無宿・吉右衛門一件之内︑川越無宿・権助事・馬次郎︑盗いたし候︸件︑

       牛込無宿

       ■    一  ︐       ﹁   馳   伊右衛門事

      太郎 吉

  右之もの儀︑親類方欠落いたし︑無宿二成︑古木屋仁右衛門名宛を儒︑釘五百文分︑語り取︑或ハ可致盗・心懸

  二て︑佐七具え︑冑より忍ひ居︑壁をこほち懸候庭︑被聖餐︑ 去候段︑重々︑不届二三︑入墨之上・重追放︵       ロマこ   此儀︑吟味書之趣二ては︑去々丑十二月廿二日夜昼ツ時過︑牛込馬場下・寳泉寺門前喜右衛門店・佐七居宅︑

   裏之方・壁際︑薪炭俵︑積有之二面︑可致盗と心懸ケ︑宵より忍ひ入︑薪炭俵を片付︑其跡より︑壁︑少々こ

51 (2 ●109) 329

(29)

     ほち懸候慮︑内より︑聲を盗塁二郷︑迩去︑追駈候様子に付︑迩去候由︑申候旨︑有之愚慮︑右︑沓より忍ひ      り忍ひ入候哉︑右︑忍ひ入興と有之始末︑相分り不滅候間︑伺之上︑私共より︑中野監物え掛合︑承糺候塵︑ 論    入候と有之候は︑佐七宅︑宥之内︑戸明有之候爵︑這着意在弔事二有之候哉︑又は︑何ぞ量り有之候入口杯よ

     牛込馬場下町・語漏寺門前・喜右衛門店・佐七居宅・裏面方面︑明キ炭俵井稻むら︑積有之候二付︑人・静り

     候ハ・︑内え這入︑詳論盗と︑存︑面明キ炭俵と稻むら之間二隠レ居︑壁之透間より手を入︑崩し懸り候腱︑

     内二て人好いたし暫間︑ 去り︑湿り有之浅内え忍ひ入営儀二は無量旨︑太郎吉︑申之︑佐七儀も︑太郎吉申

     口之通︑申之︑明キ炭俵・稲むら・差置候場所ハ︑裏撮方︑居宅之外二て〆り無明旨︑監物申聞︑別紙例より

     ハ︑白糖く相聞面懸共︑當座之語りハ︑手元二面二品を盗取候もの御仕置︑同断︑と御定書二有之︑入墨敲二

     相回り候科も御座候間︑右例二准し︑入墨・重敲︑

      ︵此.項朱書︶      但︑此ものハ︑諦議申上候後︑溜類焼之節︑迩去︑             ︹別紙例︑書留なし︺

   この事件は︑﹁可致盗と心懸ケ﹂︑住居の壁を崩しかけたところ︑家内で人声がしたので逃げ出したというケースで

  ある︒右の評議にみられるように︑評議の中心は︑起ち語りの有無に関するもので︑財物を得るに至らなかったとい

  う点を評定所がどの程度考慮して判決を下しているのかは必ずしも明らかではない︒

   また︑次に示す判例では︑評定所は﹁未遂しを一応考慮に入れているようであるが︑そのことが判決のなかでどの

  ように機能しているのか明確ではない︒

    安永四未年御渡

   火附盗賊改

51 (2 。110) 330

(30)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

  菅沼藤十郎伺

 一 信濃無宿︑卯之助︑盗いたし候一件︑

       信濃無宿

      卯 之 助

 右之もの儀︑・麹町六丁目︑元主人︑五右衛門方隔て︑蚊屋盗取︑其後︑無宿二成.同所︑山本町︑久兵衛三二て︑

 桧角木︑同町︑安右衛門方二て︑竿二字ケ干有之候青梅嶋早出取︑或は︑同町︑利八方二て︑盗可致と︑木置場・

 矢来之戸︑懸鐵をはっし︑明ケ︑這入︑被見世︑ 去︑其外︑四ツ谷辺︑材木屋二て︑貫盗取︑右︑何も売払︑

 銀・銭不残︑遣拾候段︑不届二付︑入墨之上・重敲・門前払︽

  此儀︑吟味書替趣二てハ︑五右衛門・久兵衛・安右衛門方・其外之盗ハ︑手元二有之品二て︑材木屋利八方之盗

 は︑木置場︑矢来之戸︑内之方より掛鐵懸ケ有之候二付馬手を入︑はっし︑這入事庭︑被見替︑迩去︑.何隔て

  も︑盗取不申由二御座候︑錠前等︑固辞明ケ候類は︑死罪二相成候得共︑右矢来ハ︑外より手之入候三二て︑錠      釜留なし︺  前も無之︑懸鯛・懸ケ置候計りと相聞︑〆り薄く︑其上︑.這入飽迄二て︑物不馬取候間一別紙類例二見合︑﹁伺之

  通︑.入墨之上・重敲        れ    評議之通済

 この判例中に﹁其上︑這入候耗弱て︑物言得取客間﹂とあるところをみれば︑﹁未遂﹂に対して評定所が何らかの

考慮を示していることは明らかである︒しかし︑この判決の中心は︑﹁錠前も無之︑懸鐵.懸ケ置候計り﹂という点に

あり︑懸場をはずして侵入しても︑﹁固辞明之盗︵11忍入盗︶﹂に縁該当しないと判断しているのである︒﹁固辞明之

盗﹂でなければ︑即ちコ 明之盗﹂が適用されるのであるから︑︻もともとその刑は入墨之上重敲であり︑﹁物不得取

51 (2 ●111) 331

(31)

  三間﹂といいながらも︑それが刑の減軽事由としてどの程度機能したのかは明らかではない︒

  れることはなかった︒しかし︑評定所は︑次第に︑﹁未遂﹂犯処罰に関する判例法を明確に七ていく︒それは︑ほぼ寛 論  三 このように︑御定書制定から間もない時期には︑﹁未遂﹂犯に対する幕府裁判所の態度が判例中に明確に示さ

  政年間以降のことであるが︑それに先立つ天明四年︵一七八四︶にも︑止りの厚薄と﹁未遂しとをからめて︑裁判の

  新たな規準を創設している︒

   先に述べたように︑当初︑盗犯の処罰に関して幕府裁判所が最も頭を悩ませたのは︑〆りの厚薄についてであっ

  た︒それは︑延享元年︵一七四四︶以降︑﹁忍入婿﹂とコ戸明之盗﹂とは︑〆りの厚薄をメルクマールとして区別され       るようになったからである︒そして︑ここに︑垣を乗越え︑又は破って侵入することは︑そのいずれにあたるのかと

  いう問題が生じ︑さらに︑それが居宅に侵入するに至らない段階で逮捕された場合はどう処罰すべ送かということが

  一つの課題として登場したのである︒これに対して評定所は︑〆りの厚薄と﹁未遂﹂という二つの観点から︑新たな

  裁判規準を創設したのであった︒それを示すのが次の判例である︒

       天明四辰年御渡

   町奉行

    牧野大隅守伺

   一 秦壽命院屋敷内二捕置候無宿・新八事・金藏一件︑

       寄合御馨師

      秦壽命院屋敷内二捕置候

      無宿新八事

51 (2 。112) 332

(32)

徳川幕府刑法における「未遂」犯(溝田)

      金   藏

右之もの儀︑誓書十月廿九日︑主人方二て︑難具体旨︑申聞︑暇申渡候庭︑請人・金兵衛︑行衛不相知候二付︑

門前携二相成︑當日を量り粟候蓮︑不斗悪心出︑無二致・心底二て︑古主・青木三郎左衛門三門・潜︑引寄有之

を明︑.這入︑隣家・富永隼人屋敷・裏境之竹垣を破︑這入雲鏡︑人音いたし候に付︑離見替間敷と︑.又隣・秦壽

重池・裏境之竹垣を︑破・這入︑土向後・物陰二罷在︑被捕︑何二ても不同轍旨︑直証得共︑右始末︑不届之至

−回付ハ遠嶋可被 仰付哉之段︑相伺候慮︑忽入・物を取得たるにハ無二候得共︑垣を破・這入候は︑忍入二可有

之哉︑忍入︑物を不塵取は︑前々之例二て︑三盛候哉︑匿二成候様二も︑相見候間︑得と評議仕︑可申上旨︑被

仰聞候︑ 此儀︑家内え忍入或は土藏杯破り鳥類︑金高・難物之不依多少︑死罪︑と有之御定二見合︑家藏えは︑不忍入候

 とも︑園を破・這入或は板塀を乗越︑致盗候もの︑死罪二相成巌冬︑度々か有之︑井遠嶋又は入墨之上・重追

 放二相成候例︾町奉行三二は︑三又︑度々有之︵匿畦㌢御座候︑然ル庭︑御定書㍉盗人御仕置之内︑忍入と有

 ︑之ケ條二は︑何れも︑家内・家藏と申・名目有之︑忽入と計之名目ハ︑相見不申候間︑彼是考辮仕︑・評議仕候

  威︑家内・家這えは不忍鼎沸手薄成・圃又は垣を乗越︑破り候類は︑科之次第も︑輕回方筑可有御座哉二上︑

 右は︑︐書二二不限︑啓明キ有之且又ハ家内二人無之故︑手元二有之輕キ品を盗取立類︑之御定二丁︑可然哉︑

 且︑門杯之錠前をねち切藁は固鄙明︑這入︑其外︑手厚成・園又ハ塀を乗越︑破り︑這入候類は︑手強成仕形

 出て︑巧有之候爵︑物不得取様とも︑家内え忍入或退団藏杯破り候もの之御定二様し可然哉︑今般之金藏ハ︑

 竹垣を破り︑屋敷内えは入候得共︑家内えも不入︑物も不得取二間︑家内え忍入或は土量杯破り候ものよりハ︑

 格別輕く︑戸明キ有之所え這入組ものよりパ︑科之次第︑重く相見候得共︑盗人御仕置ハ︑死刑以上・入墨敲

51 (2 ●113) 333

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