九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository [24] Crossover https://doi.org/10.15017/19360

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

[24] Crossover

https://doi.org/10.15017/19360

出版情報:Crossover. 24, pp.1-45, 2008-02. 九州大学大学院比較社会文化学府 バージョン:

権利関係:

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KYUSHU  UN 肌 E 仁 R O S S O V E R

博士論文を書き終えて 000

大学院生活を振り返って

江 口 布 由 子

(欧米社会講座)

2

8(1:3 JJの'}:fi[:授 与 式、彩、は改めて六本松の校舎を比 1"1して、制になく思いに

J r t

ってしまいました。はじめて六 本松の校令に)(を断み入れたのは、いまから去ること十五 年近くilij。あのときの私にはもう一度、この校令に戻りそ れからー│・

( ‑ 1 . :

近く過ごすことになるとは思いもよらないこと でした。

学部卒業後一年 の あ い だ、大学院に入り勉強を続けるか どうか迷いに迷った末に踏み入れた学問の世界は、先

3 1

J から

1 m

いていたとは言え、予 想 以 上 に 厳 し い も の で し た。

そ れ で も ど う に か│事士論文を出き上げられたのは、ひとえ に多くの方々のご指導とご助ブJに拠ります。指導教官となっ ていただいたG':jlll和夫先生、清水j足先生、II(日凹洋一郎先 生 そして松井脱出先生は、一広進んで二歩退がるを地でゆく {l、の liJf究を 11~会L 姐i く見守ってくださり、 4'L、が行き詰まって 途方に掠れているときには必ず

l

l

t

lT(な指針をくださいまし 法'子:郊の 1!~tl'íïl'(樹先 LI:、 千葉大学の小沢弘IVJ先生1111 ) i)ぐア:の大 i'l汁m)'/)l~1ミを始めとして名lìむを J'. げれば紙而が

) 1 ' . 1

まってしまうほどの多くの先

' . 1 :

Jや先ず│りjのこ桁2草とご

W J

, i'~友きには|埠 1:サJli;(1~i に守てることはできなかたでしょ う。また、 Flit川や地域というJ1(艇を越えて共に議論し勉強

した11/'1I\jたちはli)f先λ1:.市を辿して刊たかけがえのない I~i,:

J

であり、このやl'llj¥との剖らいのなかでこそさまざまな

~(i: 想を刊、イ i\む~41えな反省をすることができましたまず、

この坊を{!?りて、お

W :

話になったすべての併般に心よりお 札を/11

1 . '

げます。

て、彩、の',

1 / 1 " )

は大括りで』→‑えば「近刷代ヨーロッパ社 会史」ということになるのですが、「オース トリアにおける 山

l ' : l t " H t l :

の形成

( 1

0 ‑ 1 9 1 8 )

一 一 シ ュ タ イア一マルクの Ji例を1/'心に」という│部‑1:論文題11からもわかるように、 オースト リアをフィールドとして、子どもや家

i A

という

I

Il!J

I(tiから近代化の{川・11 を却lくということに ì:.IIJ~ を i;'i: いていま す。ここでいうオーストリアは、オーストリア=ハン方、リ一 泊

・1 11< 11Y代の 11)"4'1'".分

J

であり、つまり現在のオーストリアの みならずチェコ、スロヴ、エニア、イタ リアの一点11、ポーラ ンドの一部て千々を合んでいた1I.j

: ' f t

のそれで、す。近代ヨーロッ パにおける多丈化・多民!ij,

J r q

家の代表燃といってもいい存 イt:であり、 {t、,

n

身、

9 0

年代末のユーゴスラヴイア│人Jj践 を 一

-~!\r; 論、メディアを過してですが一一 11の当たりにし、 ナショナリズムと国民形成に│弘

l

心をもったがゆえに卒業論 文でオース トリアをJ~ り J'. げたという経緋があります。

約一年

1 1

j¥の

f l i t

学生前は、このような「オース トリア」の状 川を、一端 で あ れ肌で感じるi'

U l f :

な経験をよj・えてくれたと いえましょう2∞4 年秋から幸運にもロータリ -ll~ 卜J"i の奨学金を受け、私はシュタイア一マルクのグラーツ大手:

において、オース トリア近現代!との第一入者 H.コンラート 救授のもとで勉強するという機会を紛ました。その前々)1:、 同l宝!ではいかなる諜羽で、あっても大学入学希望する外1"<1人 にはドイツ祁コースの受 ~IYiが義務づけられ、 布、も lt~ .f)Jの V4

J J  1 1

j¥、そのコースにj1J}うことになりました。そのクラス はまさしく「小ボスニア」でした。というのも、いまだ大 学 がー

1 '

",,>:に機能していなかったボスニア,

' ¥ 1

身のセJレピア人、

クロアチア人、ムスリムの「ボ.スニア人

J

'}:LI.:がともに机を 悦べていたのです (さらにはコソボ、のアルパニア人もエチ オピア人もノルウェ一人もフィンランド系ロシア人もいま した)。表ぶった中いなどは全くありませんでしたが、必ず しも訓利 (1りともえないも下I!H~( のなか - 彼女らと却 しくなるにつれて当然ながら、.fl、はただの外部ず;ではいら れなくなっていました。ここでの山市.な経験は、IiJ

f

先だけ でなく布、n身のま~Lt.

i

百にも;話料をIjえ続けることになるで

しょう。

もちろん、印字:は←卜に述べたようなうた体験だけでなく、 li)f究のj1s妙にとっても大いに立北あるものでした。コンラー

~I:. やゼミ '1ーのみなさんから~!r に触れていただいた /iJI や山中:1制作の方向性に附する J~体的アドバイスは、時1:論 丈を

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J . '

で、の道筋をぶしていただいたと感じています。

また!と ~L:I・IU司狩のためにわIJ:

1 1

のように通った文子j飢で、は、 読めば;えむほど来たしてこの制作

I . W f :

をどのようにまとめる ことができるのだろうかと悩み川:しむばかりでしたが、そ の一方でぼ!と学のj!C~剛 lはよにわずかながらでも触れること ができたように思います。

この 12可lーな WI~t!:l::.iï\ を経たのち.fL、はついに後込みし 統けていた|場.士論文を本給 IYJに執中し ~fì めました。 とはい 途 J'. は|倹しく 、 世J立となく )jlll)'/1I: を比失ってがI;~!r し うになり、そのj立に

l i ' i J

りの)j々に救し、 │げていただいたと

一‑

29

一 一 一

(3)

│KYUSHU  UN 肌 E 仁 R O S S O V E R

000 博士論文を書き終えて

いうのが'.(態です。 とりわけ日IJI 先~I~から m いた励ましの バ梨、 「ともかく

J i

け、すべては

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いたのを見てからだ

J

は、

Ii~ 11'1:、それを

1 m

.、た¥, 111時は│刈心、 「でも

J i

けないときもある

J

と出(Ij̲を111:し、ていたものでしたが、過ぎ去ってみると、ま さしくその通りだというよ!

l

いを強くしています。

実際のところ、本当に│倹しい辺はこれからにこそあるの でしょう。(iJf究、 とりわけj伏史研究はイ午業そのものは相め

アルプス東南部に位置するシユタイア一マルクのある村にて (前令者、後友人の父)。

この年は記録的広大寒波に見宛われ、日中でも‑10度近くし か上がう芯かった。冬場、この谷間の集活には一日中、直射 日光│よ差さtd‑い。

て物│人的で、あるように比えますし、また孤独な思索抜きに は成り立ちえないものだと

J L l

います。その‑)jで、

1 ' 1

分の

|噂 |ヶ~Jll~

1 + :

の道程ひとつとっても、改めて研究という宵為 の「社会的

1

l!1

J i i I T J

を、.¥.1',然のこととはいえ、強〈

7 J ;

識せずに はいられません。これからは、今まで以上に「社会的なもの

J

と1"

1

身の研究を結び 代わすことを

1 1

指し、

n ' ,

来る

I l H

り勉強 を続けていきたいと考えています。

グラーツ大学でのゼミ風訟。

奥の左縞がコンラート教

l

受.

一一

30

一一

(4)

K f l l 1 alilJ~i s4 l 仁 R O S S O V E R

博士論文を書き終えて 000

長く曲がりくねった道のり

山 路 奈 保 子

(日本語教育講座)

博士論文~J~II',から 5 か月、 辞任から 3 か川が経とうとし ている。よくぞ「ドか1:論文を;!?き終えて」などという文をf11

くような ¥'{J))jになれたものだ。パソコンのillij而を前に「ム リ !絶対ムリ| せめてあと~r-.:q・」ときらモー ドに入り かけたのが去年の作れ。:来品'l1'

l

'lil'そろって執筆't‑

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絡をとり、 さあ ~It:くぞと備えた途端に引ける気が全然しなくなったの がその前のイド。だいたい、博 士後

W J

課税に進学するときも

「どうせ帆'It な しの1'1分のことだから論文なんか作けずli~.位

l

lk 1~;,単年:で・終わりだ J と悲観 1'1りに予測していたし そもそ もの話、修士課税に入学したときは同一│二諜f111に進学:するこ とも想定していなかった。いや、「そもそもの前」をするな らば、比文に入うf・するほんの

1

11"1而までは│士│分が大学院に 行くとは思ってもいなかったのだ。

三月l時わたしはトルコの地方行IITIiにある大学'で1]本認を教 えて 3"F.11だ、った。 イ I:~T はおもしろかったが、 将来を考え

るに、 114寸昨秋山Iîという中は絶I'I/~ に件が惑い。 なら

ばトルコでの3il‑'IIIJを楽しい思い

J I

1'として、LI本に帰った ら11本

J ! ?

教師はやめておとなしく会初日に戻ろう、と思っ ていた。

その私がなぜjヒ文のお世話になることになったのか。きっ かけはわたしの父が、「ウチの娘は トルコという泣い泣い国 で11本計十数印Iiなどというワケのわからなし叶

l ‑ '

Jiをしている、

今年制ってくると Iiっているが川ってどうするのか、将来

がほんとうに心配だ

J

などと)(Cj:の日│

l

窓会で‑白州ったこと である。許しくは約│峨するけれども、その/d;¥州がめぐりめ くってど'iII~Jユ九大の flf 乍~Iミセンターにいらっしゃった池田例 l

f

先'1てのところに}IIIき、「それなら大学院に行って修士をと りなさい、

M

近は

1 1 1

と違って社会人が入りやすい入学院も

1 1 4

えてるから」という池田先生のアドバイスがめぐりめぐっ て私のところに!r

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き、「で、は大乙

‑ t

院も考えてみます」という わたしの返可

J . i

がまためぐりめぐって今位は比文の│大│京子先 '1.'のところに}rlllt、て、では問先テーマを1'1'1してみよ、こと

によっては受け入れてやらんこともないぞ、という!大│先生

からのメールを受け取るに弔ったのである。

それから|杭i首ì~)~ i'I 'lまでおよそ71:1'‑'1:'0 11キIIIJもかかったが 朴余1111折もいろいろとあった。

修士a~!w に入学した当初jのIj)f究テーマは r11本知学習者

に教える日本史」であった。これは、「研 究テーマを1'11'せ」 といわれて、はて研究テーマとはどんなものであればよい のであろう、と悩んだ寸寸こ、 'IiII.~ イ:I::);FJ ::II~ も|本|っていたこ とをそのままテーマにしてしまったものである。私はその とき勤務していた大学で

r

11本山J を担当していたが、 さず:~て の評判はさんざんだ、った。

r

11本訴を5iflllJも勉強していな がら!こ│本の脈史を全くま11らないのはどうかと思う

J

という 卒業生の

7 2

比をもとに新しく設けられた必修科目で、なん

とか而白くしようと試行錯誤したけれども、どう もうまく いかない。それで、どのようなやりかたが'11]"能なのか、じっ

くり考えることができたら、と,

l L l

ったのである。

しかし、当初からこのテーマで「論文J という JI~できる のかという不安はあった。大学院という場所をなんとなく ウロウロ していれば何か比えてくるのではないか、などと 思っていたが当然そんなわけはない。そのうちなんとかな るさと以っているあいだにあっと需‑うIIIJに)J

H

は過ぎ、結 局、修士論文計ー岡flF提11'1をIlliijに、「日本部乍1113者に教えξ

LI本史

J

というテーマは放発して、殺

J

たなテーマを考えざ るを符なくなった。締め切りn'1:ì1iのどさくさで~ï~;・し紛れに ひねりだしたテーマは「ほめ」であった。

っとも それ以I~j に 「ほめ」についてイ号えていなか たわけではない人をほめるという行為は1,~4~(I()には中11 手をいい気分にさせようとして、よかれと思ってやること だ。ところが、卜│本削教:'i

i l i

として、あるいは比文の大"J'!:I~}'~

生として、文化的??対の述う人々と拡ーしていると、どうも

「それはほめかたとしてまちがってるぞ」と思うようなほめ にぶつかることがある。例えば、 トルコにいたときも 「先 生は肌がよ'fっ以ですね !

J

と災にうれしそうに言われたこ とがある。iiわれたときはからかわれたのだと思っていた が、本人はどうやら純粋にほめたつもりだったらしいとい うことに討がついたのはだいぶ般になってからだ。しかし、 それより もっと「ほめかた

J

の辿いについて与‑えさせられた のは、申告戸

1 : 1

‑ 1 '

になってからのことで、はじめて

J

受業をし た日本語入川クラスで、刊耐{米カか、ら

i

ξた';下j

t

aughtverywelリといわれたときででl 、あつた。「日Ll本ミでは先

4

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1

.'をほめると:失

l

た;ネ礼

L

になるカがf仁、そうとはj;知川J川II!らうない

H

本;刊訂目!

i . '

1

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D

t : '

住ト1."は

J

援長受.業カがf卜干でで、すす

‑ J

なとどcとア:う

J

ということは、

一一

31一 一

(5)

│lMI l i I T . I . m E 仁 R O S S O V E R

0 0 0 博士論文を書き終えて

II~和教 L1 になる以前の教nili養成市川jï: でも教わっていた知 識であった。それに、 トルコにいたときも、ザ:生たちは'出 に

f j ν│

ての授諜が一帯 い い で す り な ど と お べ ん ち ゃ ら を

f i "

ってくれるので、授業:をほめられることに(j:

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l'tれっこに なっていたつもりであった。ところが、この

f V o u t a u g h t  

vcry wellリには、なぜか微妙に傷ついた。そこにはl"ji.に「失 礼」で

n

イ.j‑けるわけにはいけない何かがある。それは何だ ろうか。それが「ほめ」について考え始めたきっかけであっ た。

さて、このようにパタパタとテーマを変えてしまい、ま たその後も│人

l

作・ブ

7

法が間まるまで、に円│二川がかかってしまっ たキ占拠、 修 1:論文もかなりlW'っぺらな│付谷になってしまっ

。,ïfïi\なところ、比文の学生なら íiH~でも読める所にあの

論文があると思うとじつにIJ{ずかしU、。

時寸:諜宅

1 1

に進学ーしてからもさらに方向が少し変わった。

変わったというより、討が大きくなった、と言ったほうが いいかもしれない。修士論文で、は、「ほめ

J

が現れる談話の データを小

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,Ij'の会市場

1 m

から収集した。その│努に大誌に 読んだ小説から、 [1本語学習ず「が読むと fir~f(j干したり、疑川 に思ったりするIIJ能性のある幼而を抜き,1'1'して教材にし、 実際に上級の授業でイ史)]した。そのあl1 i民、いくつかの場I(

i !

でチ恕したとおりの、あるいは予恕外の「読み違え」が起 こることカfわかった。そこでテーマは「丸司学作品を手JI

I T J

た民文化 J'I!.W~*XTI

J

となった。これだけテーマや研究

l

人昨年 が二転:恥しでも前終的にはなんとか問

1 :

論文としてまと

まったのは奇跡に近いかもしれなし、。

テーマが「ほめjになり、さらにそれが「以文化

f l l

l/

f H

教育j になってからも、迷わず まっすぐ進んでこられたわけで、は ない。'kをパ・うと、修二

1 :

論文が終わってからもずいぶん悩 んだ。ド',1';:

1 :

謀れに人ってから新たに折導教

1 1

になっていた だ.いた

i ' i i c '

11  1、みどり先~I: に つい「尖はテーマを変えよ うかとも,

U

っていまして・ー」などと,iったら「悦け‑になって からテーマを変えようとはや

J '

こ とか」と叱られ、さらには 11  1"先生からIkl先生にそのことカf伝わってまたまたこっぴ どく11ヒられた。テーマに悩んだ出│大│の一つは

f

1=1の前にい る乍刊‑f'i

' J

であった。それは

f l l

本!と」をテーマにしていた

ときから同じであった。わたしは修

: 1

謀科に入学すると同 II~Jに、ある私大の1-1本部別手'111本却を教えるようになていたが、 そこでれ1当していたのは初級から'1'級の学~J}I -f'í

であった。そのレベルの授業のやり Jiを考えるのに一生懸 命になっていると、

f l l

本山

J

だの「ほめ

J

だの「典文化

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.I!

f H J

などというのは、正111どうでもいいような討がしてきてし' まったのであるしかし守仙、同 1:,j~H',\を fl:,:j!引退学するこ ろには仕事の杭類も増え、'-:.*汲レベルのザ:~I:を教える機公 が多くなり、研究成果を(1ら試してみることができるよう になった。今から思えば、‑11守の状況に流されてテーマを 変えなくてよかった。

さらに少々皮肉なことに、この文をTli‑くIjijU、実はわた しは

1 1 7

学生のクラスで

f H

本!と

J

の授業をやっていたのであ fU本語学習者に教える11山J というテーマを放~し

6

年前、

r l l

本!と

J

を教える機会がまたあるとはまったく 思っていなかった。だが

6

1

1 '

IIIjに一生懸命考えていたこと は11寺を経てからじゅうぶん役に立った。

1 1

本!とを教えると いう機会が巡ってきたのは、'下チI~ のレベルの11 1]題もあるが、

1

1

本にやってくる留学生の、

1 1

本に対する興味のありブJや 略的も以前とはずいぶん変わった、ということもあるのか もしれない。文訟の授業で「もしタイムマシンがあったら」 という文の後半を作れと折ノJ~ したらfh下水へ行って新撰制 l に入りたいです

J

と千円:く

1 1

本オタクの'1'1

" 1

入学λ│えもいるく らいである。ただし、

f l l

本!と

J

で│場│ー論文が

J F

けたとはや はり思えないけれども。

以後にあらためてf五・;:j~ィ~11!Jrでむ!":,J.'叫lilhJで、すくい立ち11: まって動かなくなってしまうAL、を後ろから ドカドカけとば し続けてくださった│元│先子

1 :

,に心から御礼

q l

し卜.げたい。そ ういう先,でなければ1"l:l .;:1'‑1二論文プじ}ぷというゴーlレまではと てもとても辿りおけなかった。それから、けとばされて倒 れたね、をそっとやさしくズルスルと引きずってくださった 松村瑞チ先生の御思も忘れてはなるまい。論文判きは孤独 な作業だが、先

l l :

,がたやi隙j沿の人々、友人たちの励ましが あってこそやりとげ ることができた。また、こうして振り 返ってみると、この迫を進むにあたって、さまさまな人と のご縁があったことに感謝せずにはいられない。

一 一 32一 一

(6)
(7)

1LMili1IiIlm肌 E 仁[[1~~1ImR

000 博士論文を書き終えて

だ ったら、研究をやめよう

J

と決芯:した。

今にして山え ば、│収Rq1lJ

が先ρ立:つあまり行動がtlH速にすぎたことが分かるI~I で ス ケ ジ ュ ー ル を、

I

て、そ れ に 治 っ た 作 業 を 進 め る こ と は 大ーJiだが、ス ケ ジ ュ ー ル に 捉 わ れ す ぎ て f.f.';っ て し ま っ て は 逆効米で、ある。

f.r~ りをできるだけなくしTj~にかっ地辺なれ23駐をこころ がけながら ~x ,fl'::j した論文を 2 :1ド '-1:. のときに刊投制したと ころ半いにして2 本とも ft読を辿j0\し ~~f~ 誌に.jllil夜され た。また、修二

1 :

論 文 と は 異 な る 新 脱 の 論 文 も

l

イド掲載 さ れ た。1'¥1!:3:1pl:のH守も、 他機│剥の先ノ1.:からJ討をかけていた だいて

J b

ず;論文を執年したり、社会'手のテキストの一行

1 ¥

1 '

II...:'

i

さ せ て も ら っ た り も し た。そ れ ぞ れ の 論 文 を 引 く 際 に は、大ザ1:位1{11j:jlと大学院械でイIIJだ、かんだと議論をし、時に は読 jj 会研究会を IJ~Jim して助をもらうなどしていた。 導 教'I'Cた ち か ら い た だ い た 助言が 研 究 を 進 め るJ'.で・非 常 に ありがたかったのは先に述べたが、大学院{ljl川との議論や、

{ljljllJか ら も ら え たJJ)

r

:'1も、i()f先をi1主める 1'.で、非 常 に 屯 要 な 役 ~lilJ を米たしていたと思うまたそれだけではなくて調

1

i:対象{i'が、お会いするたびに円、つ論文を刊:くのか?

J

「どのようなことを11?く の か ?

J

と司'ねてくれたことも、 ilJf 究を進める広(励)Jとなった。多くのブjが 後 押 し してくれて いたからこそ、 t~ll

1 :

進学直後に研究が1".三f:く進まなくても、

「もう少しやってみよう

J

と考えられたのだろう。

1,.li  1: 

3

イ1'.11".のIjl撚 過 ぎ に、 指導 教'1'¥'から fIW‑I:論 文 の 執 年:計約を取らないの?

J

と戸をかけ て い た だ い た こ と も あ り、

3 : q ‑ : / l e

を終えるのとほ ぼ│日jII:.¥,

m J

に執市資格を

J I

託料した。

執 市 町 絡 をJ収利 し た 翌 年 は、内イ;論文を執中:するため、本

:JUに伐り、博 1:諜 科 の4年 日 を す ご し た。4年11は、年 111|・論文を 1~~n'lすることを1-1際とし、|噂 | 論文の進 捗状 i~~を定 !~J i'1(jに指導教 'f~~ に幸lt;lfさせていただいたため

} l

liI洲に十

r

作を進めることができた。航法として、

1 = I

l'J¥'{どおり、 2

8イドの3)J;t1u:を 収 得 し 、 今 は 特 別 研 究 者 と し て 比!I安 打:会文化研究│徒に所属している。

以卜.のような大学院生活を送ったわけだが、 以r卜で は、

「大中11:,(;

' ‑ L  

iii(の特lこ不安や怖みに11'((Iriしたとき)における (i)f先のj1sめブiと、(i)f究を 支 え て く れ る も の 」 を い く つ か 列 挙 し て み た い。杉、が大学院生前で粍験したことのIjlには、 他の ん に 共 通 す る 部 分 も あ る だ ろ う。ゆえに、私が 大 学 院 'lj円 を 過 し て 学 ん だ こ と を 提 示 す る こ と が、大学院で、今後 ()if究を進める)fにとって何ら か の 参 与 に な る の で は な い か

という思いが一一坑ず説教めいた丈 i'~f: になるし 夜、が経験

したことが他の)jにそのまま当てはまるわけで、はないのは

;=1'うまでもないが一一一あるからである。そ こ で 以 下 何 点 か

ω :

していく

1

に、 大 学 院 の 特 に 修 士 謀 れ 入 学

' I I I

後 に 多 く の

) 5

が 持 っと以われるイ~v..: の解決法ーについて。 人 d・t. 直後は、大学院 1J:.i円の以問気がつかめず、課題も多いことから先行きがィ、

公になるかもしれない。しかし、それはそういうものである。 その│人j仰れる。大 学 院 の 拡 閉 気 に 削 れ、

1 ' 1

n

身の)j法 や

。ースを昨 なしていくことが主公ーである。大 字 院 の 混 同 気

をつかむため、あるいは、 I~I分なりのペースを 1抑制するた めに大学院のや11j:¥jに相談してみてもいいかもしれなU、。

2

に、修士論文の進めプJ・について。入手:後も{i)f先 梢 叫 がまとまってい な い 場 合 は、j'J分の│品

l

心に誌づいて、とり あえず│品Jjiliす る 先 行 研 究 に 当 た り 、 そ こ で 述べられている こと/いないことをまとめること。こうした作業から、

r r

分J'J身の構想カfまとめ 卜げられるだろう。十市氾!がまとまっ ている場合でも、制作を必要とする)jは、111.めに市村正を行い、 執令するときは執1tだけに集Ij l できる;I:JW~ を作った)j がい

、。

的3に、

m J

聞からいただくllJ

r t

iについて。

f U

V r "

:

'fをI巾ij 丸々]収

i

限兄り入れよう

J

となるのではなく、

f

llJ

r n

をふまえて、

1

'1分なりの研究をまとめあげること」をIIJ'I1すべきである。 研究の主体は

r r

分である

4

に、 │事

1 :

端 科 進 学 後 に つ い て。修

1 :

論 文 を 元 に し て 投 抗 論 文 を 作 成 す べ き で あ る。せっかく jiいた修士論文な の で、より多くのli)f先呂に読んでもらい、 存Hllliをもらいた ただし、,(.r.~るのは祭物。 また 命説で ジェク卜され た場令にもやはり f.(~ らず代読コメン卜をよ1懲に受け l 卜め、 論丈をllj‑き11'1:すことが必要であろう。

約 5 に、 I~I,\J:論文の711: きブj について。 導数日1.)1に +rlil去 を し た 上 で ス ケ ジ ュ ーJレをおlみ、スケジュールにめって、出 読を:i.lliめながら定!UJ(I句に進捗状 i~~ を祁 (11ーさせていただく ことが一一一スケジュールを}llrLJiMに進めるためにも、人│l終 的 に変な )j 向に行かないためにも一一、 _if(~ーとなる

6

に、 研究 を 支 え て く れ る 人 に つ い て。J'J分の研究は 1

'1分 だ け で やっているわけ で は な い。1'11時数日や人:'II淀fljl IIIJ、訓

f t

をしているJj)jf,‑は訓子

t

対象庁らも(iJf究をえ:えてく れているし、liJ

f

究 の 結 実 を 明 んでくれている。そのことを 忘れず、に研究をしていくことがifi.:~:である

:M後に、以

J¥6

,i.',(をまとめて。ひとりよがりで.(,;l:(iJf先は 進められなし、。折導 教1'","大当;:I~完fiIi

  : 1

 ¥j'ui,

' H t

対象日ーをはじめ、

民なる

ω

7 A :

比の判‑ち主も

f T

めて多くの人と議論をする こ と が、研 究 のi生以につながる。 卜に述べた

6 . ' . ' 1

は全てこ の点に 1'~i~Yi: することでありこれが、大学院 11::.i~j を.iiliして 私がう

筆者の主たる調査i也である沖純愛楽園の正門

一一一

3 4

一一一

(8)

KYUSHU UNIV.  ] 仁 R O S S O V E R

新しい出発 000

越境の日々、 そして<抗う>という こと

大 島 明 秀

(熊本県立大学)

この4)JからJ!村史学の専任教員 (1玖~I~交流史)として熊本

県立大学に赴任しました。主 に 祁 外│主│との交流を視野に入 れた本近世・ 近代!との誹@~を当しているのですが、

: 4 0

イ│二ぶりの

H

本史教員ということで大学関係者から多大

な!出向を1~IJ:って迎えられるとともに、地j~x:のいたるところ

に膨大な米整型1¥~と料カf伝存し 活一仔:してもなく大学およ び諸機│品

l

から様々な要請が寄せられ、走り回る一 一そんな 慌ただしい日々が始まり、今は版史家としてこの地に来る ことが

C I

分 の<述 命>で あ っ た の だ と さ え 感 じ て い ま す。

そんな或る

L I

、突然「新しい

1" 1 3 E J

に載せる記事を要請され ました。しかし、私には後'1"J:のみなさんにお話しできるこ とをや

J '

も村ち合わせていない」に、〆切

J

まであまりH寺問が なく 什l'p4させらuましたが、白分がここまで31った経緯で、

も一一一くだらなU、与太討としてそj:こうかと思います。

幼いは

i

から夜、は

U

本干

1 :

会で微々な差別に遭ってき ました。

なぜ!当分が差別されるのか、どうしてそうなったのか、ど うすれば抗い、

W I ' I t .

とすることができるのか一一一そんな恕い を抱えながらも何をしてよいか分かりませんでした。ただ 主|会に f:!~J血を張H+J~長にfJ't:てはいたものの、心の'1-' は諦めのもとにH汚い未来の到来を予感しながら過ごしてい ました。そんな齢回した幼少年時代でしたが、今J4Lい起こ せ ば、大,午学字苧:在4弓学:(11時│時寺カか、ら44年ド│三11]1大!阪反!Q坂R4斗本トドい¥1::1111!']0の〉パキス夕ン1:'問1草潤即り)11I,i てで、始めたアルパイ ト

i

経i

; j z

投食を

j

i

支L切りに、その後の人生が徐々 に変わっていきました。流1'助な大目立弁を

P t I

すノ

T

キスタン人

J ;

日以とほとんど11本加を話せないスタッフ、そして

2 0

年 以 上勤めているらしい科体のま11れないお婆さんスタッフ、そ してそのlI~i で"18蹴の j脱却iミーちゃんのもとで、!日 u壬晩カレ 出けの4{1・11]1が始まりました。

I,I{内はパキスタン色に染められ、メニューは:佐市かっ抜 昨 で、抗は111;¥"IIIJに1‑21百│停を総入れ1・干えし、夜は大企業 のf加古に使われるような J;î~ でした。 a忙しくなるとスタッフ は突然な│床もなく怒り,

' 1 '

,し、校、も

n

言のウルドゥ一部を交 えながら怒l!13り返します。他のスタッフも同様で、その│位

1I1i'~のようなやりとりもなぜか山のグI物のようになっていま

した。それだけでなく何よりここはまさに異文化コミュニ ケーションの<前 線>でした。正午に l,liの入り口で械訟を

ヲ I v

、てメッカを

l i ' J

いて祈りだす人々、レス トランなのにラ

マタン(断食)‑J)があり、 Ifllを絞り

l J

ii.って特例となお干

I J

りをし たハラールというイスラム教徒のための│去j、ベジタリアン のための食中、

1

加を入れたヨーグル卜をバケツで飲んでい た風対 な ど一つ一つ が、何もJ;IIらなかった私には驚きとと

もに新鮮な<発見>でした。

もまた勾~EI民政JJ匝を治、髪は亦く染めた ドレッ ド・ へ アー、たくさんの指輪を

l

阪め、Jr¥にはスパイスの色と匂い が染み込み、マトンを旬

1 1

食べていたからか体臭も変わり、

夢のIJ'まで民族音楽に支配されました。 q~パ本の j、11れないお

婆さんは洗い場を担当していましたが、彼 女 が 洗った食器 はさらに汚れてこちらに民ってくるので、もう一位スタッ フが奇胞にお

t

いなおさなければなりませんでした。J;!{!:三が

「旬月給料ゃるから仕事に米んといてくれ」と、ありえない 懇願をしていましたが、 それでものJ~

1 1

l

司L坊に

1 1 ¥

てきます。

そしてそれをみんなが許符していました。このような滅

A 4

-I'I~:茶な<非 11'IK'> 1'1り11'lj\'>がm~:ょに有:在したのは てを「笑い」にできる大│以ならではでしょうが、本);々な

J 5 : 1

床 で典文化が本気でぶつかり合ったH寺11]1でもあり、

f i

、は紛れ もなくその別場に4'QIIIJ参加してきたのです。気 が つ け ば ÆL、は現文化との刺激や越:肢を求める気持ちに ìj:,~ち ì1,~~Lた 人11]1に変化していました。その当時は江戸時代の,

U

想史を L1j攻 し て い た の で す が、オランダをはじめとする災文化と 近世日本との交流を研究したくなり、ヴォルフガング・ミ

ヒェル先~I ーを訪したところ快く受け入れて |、さり、 M:

" Ji入試も合栴し、お金がないので大│坂からn;t1.Jノ可イクで明 石'iしながら<娯医

1 >

である九州、・│術問にやって来ました。

比文での7:'1三11]1は来るIlも来る日もアルバイ トと勉強出 けで、ほ ほ1,{EI41時間│既11民、特に最初Jの211:,IIIJは主11り令い さえもほとんどなく、天引11さえ訪れたことがありませんで した。夢でドイツ却や漢文に襲われ、うなされながら起き ることもしばしばで一一ーとはいっても、起Jょしたらまたす

ぐにiiJ[先に

J l

ii.り掛かるという主主的でした。Jrlt'

いえ、

J

初初り切Jめて

n

分の府j場説詰i所のような

1

11:界ザ』を比つけた

μ 4

l

ム、にと て、とても本相なし│々でした。

定(IJ 、,'1\1 こ残っていることといえば、 17'111: 紀初 ~Mこ完成し た

3 2

,∞

0

請 を 超 え る 辞 典 陥alb叫'110ぬ LJi7goade Japam  (r日補辞・告j) の);i~I::IlJ阪を、 ミヒェル先生から夏休みの

I O

11 

一 一

3 5

一一

(9)

000 新しい出発

ILj¥だけという約束で借り山したのですが、 作

1 ¥

訳[/硝辞書j という干

1 1

訳本があることを知│らず、その膨大なポルトガlレ 訪の仰の仁11から、ネIllili刊誌を本当に10 日間で抜きH~,したこ

とがありました。終わった後は放れよ長ててJJ5i力状態になっ てしまいましたが、本を返却する際、その成栄をご覧になっ た先生が鷺きで11Aくさ~L、白分ので誇らしげに た記憶.があります。

また先生のおJI兄り計らいで医学:分館所蔵貴重 ~I~.æf:f の 整型I!に携わることができたのも、間違いなく今の自分のf!~

産となっていますこの~~型J~ は451ll:i~継続したといま すが、初年の夏休みのlIiJ1

1 '

7 . ∞ 0 1 1 1 1

以上にわたる16‑19  世紀のキ

n

占 拠品ーにまみれたことは、史料に対する自信を 持つ経験となりました。その他、 仁

l '

iEI主1'

1

1"の受託研究ももう

7  { f  L I

になります。また、膨大な予算の下に取り組まれた 文部科学約特先制域研究「江戸のモノづくり」に巻き込んで いただき、│五

l

立平│年

: ' I W

物自

f {

での史料控国をはじめとした様々 な作業に参力

1 1

できたことで、圧倒されるほどの史資料に何 年にもわたって先月J'II(Jに触れることができたのもかけがえ のない財産です。

こうして考えると、在、の

W f

究基燃を形成した大事な要素 は、 指導者が信仰のもとに

J 2 7 i i

な機会を与えてくださった ことと、 それに加えて好奇心の赴くままにイ可事も氾月れず興

L.化へ飛び込んでし、く勇気と行動力、そして何年にもわたっ て膨大な史料にただひたすら出直にまみれ続けたII~J:にあ るといます~I・ブJな私がまがりなりにも博士論文を書き 逃げることができたのは 上記の経験にFI=I~毛するものと考

えています。

八二ーと博士号取得の祝賀会 (2008年3月26日、六本総にて)

宇?Jlliにも熊本県立大学に就臓が決まり、仕事をして

4

J=Jが経ちました。 研究 教育 大学 i単位、 i~~j大辿携地域 :ìilijJ!j、 生涯教育学会 :@/I~'・に|刻する業務がのようにあり ますが、│主│分の

M

究をしたいので、大学の仕事が始まる前

一一大体毎朝

6

3 0

分に研究 室 に 入 札

2 2 1 1

寺過ぎに帰宅す るという <>を送ています。 故近は1~11也ともに本学 にもう何年も務めてきたかのような錯覚に

I W I

ることがしば しばですが、大手・院生活

1 1

寺にそれなりの経験と力と芯を身 に付けたので、また、長年にわたって見続けてきたミヒェ ル先生の研究者としての姿勢を手本に思い出しながら、卜│々 を釆り切っています。

ところで、仕事に取り組む上で専門の研究ができること は最低限の条例ニで、その

J

こでいかに111日の広さや柔軟性を持っ ているかが求められます。それは豊富な紙験や、未知のも のに何でも首を突っ込んでいく好?守心と勇気、それと定期 的に様々な人と議論や情報交換することから得られるもの だと思います。 加えて 肉体I'I/~*f~キ111 的にタフであること 粘り強さ、人間関係の申請と調整力、 或る程度の<奉仕>な

どもまた必要とされます。幸いなことに、夜、は大学院生時 イ

U

こ平岡隆二氏や小野俊彦氏といったー│祭異彩を肱つ<ツ

ワモノ>を筆頭に、様々な分野の人たちと│直々誇々、議論

に議論を重ねる日々を送り、様々な意味合いにおいて学内 <政治>に携わってきたことが 今の{:I:~;r.に活かされ ていると思います。

学問に対する想いは各自それぞれだと思いますが、夜、は つの<政治> と理解しています。 ~寺に歴史は人々 の│止界観、自己像、他者像といったアイデンティティに関 わる部分の形成に大きく影響を与ーえるま

n

識です。もちろん 私が歴史学自体の而白さと魅力に強かれていることはここ で言うまでもありませんが、一方で地域の活性化や、多様 な<豊かさ>の再発見、地方のアイデンティティへの貢献、 そして歴史学の力が<差別>を線絶するものとなることを 夢想してもいます。つまり私は歴史学・に株々な意味合いで、 のく政治>の可能性を比たからこそ、研究l織を志したので す。そして現笑に着任した今、新たな可能性を求め、あら ゆることに挑I践しています。

M

後になりますが、私たちの認識する全てが<政治>的 な権力関係一一

M i c h e lF o u c a u l t

の言う言説空間の中に位置 づけられるとするなら、何が<正しい>のかが分からなく

なりますが、 疑いなき þ~ 実と思えることがlつだけありま

す。それは許し誕Iiい<何か>があったなら、それぞれが信 じる方法で、勇気をもって、寄与│次に、粘り強く、抗い、闘 い続けることがiltも大事だということです。最悪なのは腐 ることです。 <良い仕事>ゃく正しいこと>は、遅かれ平.

かれ必ず計防、が見てくれます。必ず。

一 一みなさんが各自の生き方を叫し、他者を思いやりな がらその生を抗い獲得していくことを、『熊本評論』と谷川

1

1 m 

(水俣で すが)を生んだ熊本から応援しています。

一一 36一一

(10)

KYUSHU UNIV. 仁 R O S S O V E R

新しい出発 000

九州国立博物館に勤務して

荒 木 和 憲

( 九 州 国 立 博 物 館 文 化 財 課 研 究 員 )

2

5i

f .

J立に九州大ザ:人文科学:府IW+:後WJ諜粧を修了し、

2

∞ 6

11肢は11本学術娠興会問 別 研究口

PD

として1il

ム I l i

J人 文科学研究院に在和した。そして、2

7年度に特別研究員

PD

I I T

採川され、比較社会文化Jijf究│抗(以卜「比文J)に移

行iし、

q

'tlFj'とりt~1えに受入研究者ーになっていただいた研究 諜題は i'I'111ホJ),!~~T~ 氏制同と海域アジ、ア交流一「環玄界灘地

t~.\U

J

。わけのわからぬタイ トルだと思われるかもしれな

いが、

1

:1:半年

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,世対,I.!折ミ氏

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と朝日

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(111川,

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版社、

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年、↑',

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論文の

J ' ;

拘Ii訂正版)を発展させ、「川i刊1"1刊│ド制刊11:日i靭刺;却初り山]交

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祈流

1

庇:史」 を

近11刊11初J卯U川i削;U川q引l公交交流!山

J

どl

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こころみたものでで、ある。近近

1 :

判l代

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則り引

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jのことはほとんとど企イ不4勉 強 であつたカがf仁、まさに当該j矧則リ則

l

のL時lFJ門家でで、ある刊「

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貯仔先

3

生てに

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坑:重 なご

だつたが、

J

採末川jハJI

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1

ド'.11の d終冬了11時時昨4寺I')点,I.~ で、ブブ九L 州回立M凶凶JI物館(以下下"1九

:'Jρ)にj杭先川

1

職故することになつた。

九州には

i l l

本 近刊ー史」の必集枠で、ありていにいえば、

点者ISJ{.f

. u :

大ヴ・に兵問Jされた比 文

OB

の束昇氏の後任として 採川された。あくまで「日本

1 ' ' ‑ 1 1 1 :

史」の専門であることを自 認 し て い る が、これも比文に在

w i r

した│玉│縁なのかもしれな

い。 九|却にはよft:~文化財「対11G宗家|品l係資料J (いわゆる「対

x

!

五宗家文告:J)が所政されており、約14.

0"'1にのぼる膨大 なili:111::丸ー書怖を白由自伝に│副位できる邸境にあるとともに、

保 存・市川

1

をはかる訂作がある。現在、科学研究費補助金(若 手スター トアップ)に研究課題「近111初期対応務の政治構造 と

1 1 r ; U J

交 流

J

q

l市している。もし採用されれば¥ 昨年 度 まで、の研究はひとまず休止になるが、職務とIiJ

f

究を一体化 できるというメ トがあしかし、 I~I分の研究ができ るだけの時川があるかどうかが気がかりである。

いちおう l俄棋は iifJI先j

J

なのだが、勤務│埼111]内に研究を できるH訓I¥Jはない(展示のための「勉強」をする時IIIJもほと

んどない)。また、│こ│宅で、1iJf究で、きる

H

M J

も少ない。勾:l

; U J

1時起床、 811寺にI~I宅をマイカーで11',発し、 911寺にU',勤。 業│時間は17時45分だが、ほぼ好IJ20~2111寺まで残業するの で、帰宅|時間は 21~221心身ともに疲れているため、と ても研究しようという気持ちにはなれないし、せめて読引:

しようと思っても、│既Jf12にはJI券てない。MJ!1lをす れ ば、翌 日の仕事がつらくなる。あとはイ木1‑1

C

仁・

1 1 )

に集'1'するほ か な い が、なかなか気持ちがのらない。あるときl.

' : j t l ! I '

信治 先 生 が「週末に

w f

究するのが何よりのストレス解消

J

とおっ しゃっていたのがl::jJ象に残ているが まだまだノJ\~I:=. はそ

の境地に達していない。

ここまで;.ld?{痴のような Ilji文をつらねてしまったが、「新し ,'U~tJ にふさわしいことも i1t: いておかなくてはならな U

まず、 思いつくままに 現在の業務|勾符を~ilJ記してみよう

〔文化財課の業務〕

資料登録業務(購入 ~f !l';g .千

5

・・託.

H '

,')!"J・仮

: m .

貸与に かかる事務)、情 報システム (W EB ・データベース ・業 務 システム)の維持・改11まなど

〔展示関係の業務〕

文化交 流 以 示

( 8

週間ごとに展示特え)・特

) J l j i

展、購 入 ‑ f:m1.寄託.11!,'nJ候補品の選定・交 渉・調査、文化財の護送(11'', W].返却時および海外貸与H寺)など

〔その他の業務〕

来客対応、 メディア対応、紀要編集、議事録作成など これらの仕事が脈絡なく続々と舞いこんでくるので、い つも反射干1/1続で対応しているような状況であるが、さまざ まな経験をする機会があるのもたしかである。

J F J

早々に特別展「鳥詰

I t

の問主と鰐航の11寺代

J i

民(7

t J  

12 

日 IJfJ*/~) の担当となり 、 東京大学!と料編纂所の'f'lm.な史料

を素材として「モノ

J

の適切な扱い)jや展示方法を学ぶこと

一 一 37一一

(11)

000 新しい出発

ができ、また民覧会の準備から

I H J 1 1 1 1

までの流れをま[1ること もできた。この経験は今後の財産となるはずで、ある。

liJ

l

究者 .

' ! ; : 1 H l  

.文化財行政│立

l

係者や文化財所

h

没者と接 する機会が多いのはあたりまえであるが、

y l S

業般の方々と 接したり、いっしょに仕事する機会が多いのは新鮮で、ある。

メディア│品

l

係者 (テレビのアナウンサー ・製作スタッフ、 新

I

lFJ.雑誌記=(i'、タレン卜など)、業者(設'常業税、運輸業者、 1 

T

企業、 i'I

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反.

( . J I A l l i J

業者、デザイナーなど)、附物館ホラ ンティアなどなど。今後もいろいろなブi々に

I U

会うことで、 判仰がひろがっていくだろう。

九 þ,lì はIlj)~ どおりに忙しし、 l倣J品であるが、 学術的な成来を主1:

会に泣元するには絶好の坊である。│刻印3)i'IJ.:(,ミを刊たずし て米航者数はすでに5∞万人を突破しており、 ‑llil(の│比l心 の向さがあらわれている米自'I~{者の'=II'!'~はさまざまだろう

が、多少なりとも九│専が発信するメ yセージを感!じとって もらえればよい。 あわよくば卜l 本-アジアの!I;\'~ ' 文化

興味をもち、J~.ランスのと j した国 1!r,~!~~j1 をもてもらいた いものであるこのような社会的な ~'dJ を!進じたとき、忙

しい仕事にもやりがいを!感じられるのであるが、これに‑"

んずることなく、「研究者j としてのアイデンティティをも ちつづけていきたい。

一一 3 8一一

(12)

K f l l t i   hllij~1 M  1 R O S S O V E R

新しい出発 000

コンビュータと歴史学 3 度目の新しい出発

東 昇

(京都府立大学)

愛 媛 時 代 ワ ー プ ロ を買う

この4rJ、 31支日の新しい出発となる京都府立大学文学 内1¥))[史学平│の教員となった。大学:では文化遺産学コースの

L化情報

4

日当として、コンビュータやデータベースを{克っ たぼ史学を教えていくことになる。今回、この出発の基礎 になったコンピュータとのつきあいについて、振り返って みたい。私の歩んだH寺

J Y J

は、 FI本のコンピュータ普及の大 転換則であり、その点で一個人のコンピュータ利用の記 録

ともいえる。

小学校の.7',j'f;J‑:王│二、愛媛の地方都市にもゲームウォッチと いうゲーム機がはやっていた。これが私とコンピュータの 以初の出会いである。 ~,~iIJ大の小さなカード型、白黒の ìl証 l

171匝IT而、ピップ音のみ、│人j容は点数を積み重ねていく簡単 なものだった。スーパーで買ってもらってすぐに朋車場で 遊んだ記憶があり、当時の私にとって驚き、興味が引かれ る対象であった。一方

J E

史への関心は、小学

6

1

. 1 ' "

肢史を初 めて学び、1':1.木みの自由研究で「徳川家康の研究」を画用紙

1  0

枚にまとめ、クラスの代表になり校内大会で発表した ことがきっかけの一つである。

r

l ‑ '

学校では

MSX

HitBit(

ソニー)を購入した。

MSX

は、子 供

m

の安制

i l

なパソコンで、コ ンピュータの学 科を目的としていた。もちろんゲームでも遊んでいたが、

間単なベーシック言語からプログラムを苦き、音楽や絵を

~ï'r'iくこともきた。 点をつなげていく絵で四国の凶を描こ うとしたが失敗した記・陪がある。

高校で、は

OA SYSLi

te 

M

(',寄士通)を1!¥Yj入した。

このオアシスライ トは、 業界初のポータブjレ卜│本語ワープ

ロで、 1984 (,1~

5

月に発売された。市校時代、日本史の

J

援授至受.業

が好きで

の)照

F

史を司郁訓lh¥IJ

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流需f

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していた。調査したのは大洲和 紙、五稜事

1 ¥

を 設計したÎ~H学者・武LR 成立、 大i介|滞苛!の村の現況写真撮影な

どであった。このワープロを使い、 『愛媛県史j資料情から 伊能忠 I~X ト|記の地元分の抜粋や、 大洲滞の地誌 『大 i外|秘録』

から領内のや

l

名や石市を印刷したものが現存している。当 lI~i の在、は地川の gミìJfi 、風景が江戸時代の村に近いのではと のイメージを抱き、

u

l r ‑ '

の村・に│品

l

心を寄せるようになっ た。特に自分が育った場所が山の巾の集落であり、田植え や稲刈りも手作業、 水道も谷川|か引くなど自給 I~I足に近 い生活であたことなと、カ{1;:'~押しているかもしれない。 村 を制べようと 『角川日本地名大所~I~J の各県の記載を読み、 紅戸時代の村数、石l.':jをノー トに記していった。また社会 の先生に削Jめられた

7

ふ;本常ーの 『忘れられた日本人jに感動

し、!?日き取りやフィールドワーク、民俗学にも│刻心がII'Jき 始めた。

2 岡山、京都時代 MS‑DOSかSWindows

大学:は岡山大学、当時は

1 1 " 1

生から専攻が分かれており、 円本史研究室に入った。高校の朕史以外の成績で

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士、│主│公 立受験は浪人覚悟であったため、夜、大の不合

f 1 . i

表、京都の 予備校の入学手続きを進めていた。しかし前年から

2

次試 験の前後j抑制が始ま り、後却!の小論文試験に合格し、予

1 i i i !

校の入学金が返泣きれた。このお金で購入したのが、本格 的なf詰者

) J

のノTソコンPC‑980lRS(NEC)で、フロyピー は 5インチ、ハードディスクはなかった。同時に 11I日が

1

メー トルもある大型プリンターを購入した。これはl眠薬シート と呼ばれる大きな表を印刷できるプリンターで、高校時代 から集めていた全国の

1 !

日別の村数、石高を印刷するためで あった。パソコンのソフ トを動かす

OS

MS ‑

D 0 

4.0、 ワープロソフ トは一太郎、データベースはN n j aを使っ ていた。これらのソフ トを使って、講義のレポー ト、 古文 書の目銀などを印刷していた。現在、大学

2

1ill止の│祭のデー タからすべて残っている。今考えると、パソコンを導入し たきっかけは、地元の友人が使っていたのを見て関心を持っ たことと、 昔からの見lHì~:であたことが;話料していると思 われる。

大学

4

回生の頃、ノートパソコンp

C  ‑ 9 8 0 1  N  S  /  R  (  E  C )

l !

昨入した。フロッピーは

3 . 5

インチ、モニターは1'

‑ ' 1

黒、

これもハー ドディスクがなかった。コンピュータの小型イヒ により、資料調査に持ち運べるようになった。卒論で

I J

}Zり 上げた尾上家文苦の制査のため、岡山県総合文化センター にパソコンを持ち込み資料の入力を行った。その│僚に、

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士の家計簿jの著者である磯田道史さん (茨城大学)と出会 い、同じ文書:を対象にしていることや、コンビュータのこ とを話したことを記憶している。磯田さんとは、その後同 じ研 究会に属し、 一緒に各地の資料調査へも行った。しか し当時、卒論は手干j:きであったため、すべてパソコンで入 力後、手記:きで技!E,

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,した。

大学院修士諜秘は京都府立大学:大学院文学

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究科史学専 攻、大学院ができて

3

年1=1の入学:であった。京都へ来て、 富士通のデスク トップパソコンを購入した。ここではじめ てハー ドディスクが備わり、

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n  d 

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.1と なった。

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n  d 

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.1は、現在の

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の先制

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で あり、ファイjレをアイコンで表す

G U  1 

(グラフイカルユー ザインターフェイス)を日本に持及させるきっかけとなっ

一一

39

一一

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参照

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