鎌倉末期の律僧と架橋事業- 近江国仙川橋料所関を事例に -
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(2) 三二. 注目する覚順書状には「仙川橋料所関」 に関わる記事がある。検. 遅々候欺なんとも、可思遣候こ、己上無跡形候之間、往反. 同被関務候て、材木等をも少々取上体も候者、依料足閲少. 依世間動乱、被止関務候欺、然者諸関又致関務候者、是も. 討の中心はこの仙川橋料所関となるが、本稿ではまず素材である覚. 輩一向是に候者、盗人ハ何方に候そ、或ハ奉行僧被立寄候. l・トl. 順書状を検討した上で、仙川橋料所関とはどのようなものであった. 宿所辺にては、是こそ盗人宿にて候へ、此を召捕候へなん. ほどの間に限定できることなどを明らかにしている。. のか、またどのような人々が関わったのかを明らかにし、鎌倉末期. と申合候、或奉行願人も此事何と成候ぬるそなんと、三四. 指出様も候はす候、何にもして就善悪橋形候はてハ、不可. られ候ぬへき程こ、及人口候之間、極楽寺僧とて、願を可. 当時橋形も候はすハ、縦諸方興隆其実候とも、是にてうめ. 輩も会合候へハ、及沙汰候間、手覆耳目候由申合候、誠如. の交通路整備のあり方について考えたい。. 一、覚傾書状の検討. まずはじめに本稿で注目する覚順書状について、先行研究を踏ま. 然候欺、縦及御 奏聞候共、被聞召候ぬとまてにて、衆人. 御状等付進候て、同十九日南都下向仕候、御心安可被覚召. 路次洪水難過法候、無殊事十六日京着、両日令逗留候、方々. 之由、在家出家人々被申候'乃至順敬房己下も、此事愈々. 形にて候とも、造橋沙汰候はてハ、併御寺可為永久御難候. 候者、弥□□覚候時々奉門なんとにも能々被仰談候て、如. H. えながら詳しくみていきたい。. 口遊をは難遁覚候、護二久我畝道なんと、なましゐに道体. 候、抑罷着候者、則可取向造営由、相存候之処、美濃国赤. 長老へ可被申由、物語候之問、内々為御意得令申候、御沙. [行カ]. ︻史料一︼覚順書状. 鍋庄者、為当寺学生供料所、修学徴候を、給主長井右馬助. 汰通も何と落居候覧と'無心元存候て、如此令申候、以此. ] 候と. 年々未進問、依折節在京候、及訴訟候之処、[. 旨可有御披露候、恐憧謹言、. 沙門覚順 (花押). 五月十六日に京都に入り、同十九日には南都に無事下向したことを. この書状のおおまかな内容を見てみたい。前半部分で覚順はまず、. 進上 静妙御房. 五月廿日. て自今月□□□□逐電、結局今月十八日夕方、開仏閣門戸 候之問、此落居以前こハ難造営候、雑然尊勝院西室辺にも 申談候て、愈可令始行由相存候、 一、柚河橋料所関事、何様御行候哉覧、今度罷上候て、方々承 候へハ、以外御寺御難にて候、其故ハ及関務両三年、其後.
(3) 相違候、追手細事ハ難大損候、目安一巻書進之候、御一見後者、. に取りかかろうとし. 報告している。そして目的としていた. 扇谷塩飽入道方へも被遣候て披見候、且者後状にも定可被進欺. 「造営」. たのであるが、「当寺学生供料所」 である 「美濃国赤鍋庄」 の年貢. 由申て候、委細旨追可中人候、以此旨可有御披露候、恐憧謹言、. 沙門覚順(花押). この書状についても福島氏によって検討がなされている。それに. 進上 静妙御房. 二月廿九日. 未進に関する訴訟では給主の長井右馬助が逐電、さらに十八日の夕 方には 「閃仏閣門戸」という状態になっており、「造営」を行える 状況にないとしている。そして後半部分では仙川橋料所関について、 「世間動乱」 によって関務が停止し、橋も 「橋形も候はす」という. むね元徳元年(二二二九) から元弘三年(一三三三) に限定され、. よれば'年代については﹃本朝月令要文﹄ の紙背文書の年代がおお. 書状の宛先である「静妙御房」 については'極楽寺内のある院家. 書状中の 「合戦」「大将軍井羽州禅門」が、﹃楠木合戦注文﹄ に大和. 状況で、全く機能をしていない様子を伝えている。. の長老であると考えられている。差出である「沙門覚順」がどのよ. 道の大将軍が「陸奥右馬助殿(‑大仏高直)」、使節が「出羽入道(=. m. うな人物であったかについては、次の ︻史料二︼も併せ、年代比定. 二階堂道蕗)」とあることと合致することから'「合戦」 は正慶二年. という。. ( 3 ). 方による攻略を指し、年次は1三三三年二月二十九日に確定できる. C S ). を行いながら考えたい。︻史料二︼ は︻史料こと同じく全海が書. (元弘三年・二二三三) の楠木正成の寵もる赤坂・千早城への鎌倉. Ir!l. 写した聖教﹃本朝月令要文﹄ の紙背文書に見える覚順の書状である。. ︻史料二︼覚順書状 御寺就惣別無為由承候、目出喜存候、. 是へ打預候之間、令取沙汰候之聞、計会御事所察候、又大将軍. 訟候けるを、□口口羽州禅門、当時住候て、諸方納所下行をも. 部荘は弘仁九年(八一八) の施入以来東大寺領であったが、貞応二. 「美濃国赤鍋庄」 の訴訟に関する部分である。「赤鍋庄」すなわち西. が、氏の説を改めて確認してみよう。手がかりとなるのは、前半の. の年次についても二二三三年と比定されている. 井羽州禅門、自是合戦出立候之間、不人馬井具足等も是に被取. 年(二一二三) に地頭請所となり、文永期以降、地頭・地頭代の長. そして︻史料こ. 預候こ、用心無申大事候、折節住寺候て、方々御用二立候へハ、. 井氏による年貢未進が長年の問題となっていた。特に正慶元年(元. 抑今度何様愚身罷上候て、方々御上候二、不承継□候、方々訴. 且者為御寺興法利生'喜入て可然候上、羽州禅門も如法被書中. 弘二年・二二三二) からは、地頭長井高冬の代官長井桓稔が行って. ( S ). 候、被向候、涯分ハロロロ等、当寺造営之体披見候て、随喜無. いた元徳二〜三年(二二三〇〜三一)分の年貢未進に関しての裁判. 三三. 中計之由被仰候、又今まての合戦次第、荒々承及候分、当方無 鎌倉末期の律僧と架橋事業.
(4) 両三年、其後依世間動乱」 という文言を併せて考えると、やはり. の逐電'そして仙川橋料所関について書かれた後半部分の 「及関務. が始まっていた。「折節在京」していた「給主長井右馬助(=高冬)」. 為由承候」などで、書状の宛先である静妙御房は極楽寺関係者であ. る。︻史料一︼ の 「御寺御難」、︻史料二︼ の冒頭の 「御寺就惣別無. して見える。これに対する言葉として、「御寺」という表現が見え. になる。「当寺」という表現は、︻史料二︼ でも「当寺造営之体」と. 三四. ︻史料一︼も︻史料二︼と同じ‑正慶二年(元弘三年二三三三). るので、この 「御寺」は極楽寺を指すと考えられる。とすると'覚. ' ' L J ;. の書状と考えられるのである。この年の五月、京都では七日に六波. 順は東大寺を 「当寺」、極楽寺を「御寺」と記していることになる0. ( 3 ). 羅探題が陥落し、二日後の九日には近江番場宿で探題北方の北条仲. とを踏まえると、この時期の東大寺と極楽寺をつなぐ事柄として、. そして、︻史料一︼︻史料二︼がともに二二三三年の書状であるこ. し'鎌倉も二十二日に義貞の手に落ちている。つまりこの書状が書. 東大寺大勧進職に極楽寺長老の本性房俊海が就いていたことを挙げ. 時以下四百三十余名が自害、東国では八日に新田義貞が上野で挙兵. かれた五月二十日はまさに鎌倉幕府滅亡の最中であり、覚順はその. で覚順が南都で行おうとしてい. ることができる。つまり︻史料一︼. を指しているのである。. た 「造営」とは、︻史料二︼ の 「当寺造営」と同じ‑東大寺の造営. ( S ). 当時の地方の混乱ぶりを伝えているのである。 次に覚順について、福島氏は︻史料一︼ で美濃国赤鍋庄の訴訟や 仙川橋料の関務に関わっていることから、極楽寺の訴訟等に関わっ. 打預候」「不人馬井具足等も是に被取預候」から覚順の住む極楽寺. 通り羽州禅門(‑二階堂道薙) が覚順の住む寺を幕府軍の兵糧供給. 大寺関係者と考えることができる。︻史料二︼ では、福島氏の指摘. また、覚服が東大寺を 「当寺」と記していることから、覚順は東. 末寺が幕府軍の兵糧供給の兵端基地の役割を果たしていたこと、さ. の兵姑基地として利用したと理解できるが'福島氏がさらにこれを. た 「雑掌」僧であったとし、︻史料二︼ の 「諸方納所下行をも是へ. らに 「今まての合戦次第」以下の部分から'覚順が極楽寺及び幕府. 極楽寺の西国末寺としている点には問題がある。二階堂道蕗が前述. ( 3 ). のように大和道から赤坂・千早城へ向かう軍の使節であったことか. への合戦の情報伝達を行っていたことを指摘している。 この福島氏の指摘は概ね正しいと思われるが、覚順の立場につい. さらに言えば、覚順は東大寺造営料国である周防国の日代であっ. ら、この寺が東大寺であったと考えても位置的な矛盾はない。. 前述のように茜部荘は平安前期以来の東大寺領で、康和四年. た覚順房覚恵と同一人物と考えられる。覚順は東大寺大勧進職二十二. ては少々疑問が残るので、以下検討していきたい。. (1 10Ill) には東大寺百口学侶衣服料所となっている。つまり覚. 代順忍'二十三代俊海(いずれも極楽寺長老) のもとで東大寺造営. (17). 順が記している 「当寺学生供料所」 の 「当寺」は東大寺を指すこと.
(5) ( 3 ). 蝣. .. ¥. j. 分置文に 「薬師堂殿御分」と見られるように、金沢氏が地頭職を持 <. の実務を担っていた人物である。︻史料一︼ ︻史料二︼ に見える覚. つ所領でもあった。つまり金沢氏の所領内の川に架かる橋に、東大. '. 順の行動は、東大寺大勧進職=極楽寺長老のもとで行っていたので. 寺と極楽寺が関わっていたのである。. 不明である。しかし、前述のようにこの付近には東海道の伊勢路が. れているが、中世の 「仙川橋」がどのあたりに位置していたのかは. 橋、仙川大橋、矢川橋、甲南大橋、新仙川橋など多‑の橋が架けら. そこで仙川橋の持つ意味について考えたい。仙川には現在、北柚. '. ある。. 二、仙川橋架橋事業とその背景. ここまで覚順の書状を検討することで、その立場について考えて. 鎌倉時代の東海道は、番場・野上・青墓などを通る美濃路を本道. 通っており'仙川橋もこの東海道伊勢路に関わる橋であった可能性. まず仙川であるが、これについては湯山学氏が近江国甲賀郡内を. としていた。例えば源頼朝が文治三年(一一八七) に美濃国守護の. きたが、次に ︻史料一︼ の話題の中心である仙川橋料所関について. 流れる仙川に比定している。「仙川」 の地名は奈良県などにも存在. 大内惟義に美濃国における新宿の設置を認めたこと、また正治元年. が高い。. し、また「柚」を冠する地名は畿内・西国を中心に数多‑残ってい. (一一九九) に頼朝が娘の治療のため医師時長を京から呼び寄せた. 考えていきたい。. る。しかし書状中に見える「久我畝道」 に注目すると、湯山氏が比. 際、﹃吾妻鏡﹄が 「廻伊勢路参向」と殊更に強調して記しているこ. ( 3 ). 定した仙川の上流部から南東数キロのところに三重県関町に久我の. となどから、鎌倉時代の早い段階で美濃路が本道として整備・利用. ( 3 ). 地名がある。この付近は鈴鹿峠を通過する東海道の伊勢路が近江国. されていたことがわかる。. おり、伊勢路経由であった。また、伊勢路は京から伊勢神宮への経. 3 覗 M. に京から鎌倉に向かった﹃海道記﹄ の著者源光行も鈴鹿山を越えて. 年の例のように 「廻伊勢路」 こともあった。貞応二年(二一二三). しかし、伊勢路が全‑使用されな‑なったわけではな‑、正治元. ( 3 ). から伊勢国に入るところで、「久我畝道」も近江国と伊勢国を繋ぐ 道の一つであったと考えられる。このことから仙川は湯山氏の比定 の通り、近江国南部を流れる仙川であることが確認できる。 この仙川は、琵琶湖に注ぐ野洲川の支流で、滋賀県旧甲賀・甲南 ・水口の三町を流域としている。そして仙川と野洲川、さらに野洲. 路にあたることから、伊勢斎宮群行や伊勢公卿勅使発達などの際に. (20). 川の支流で野洲川の北を流れる思川の流域には、伊勢神宮外宮領で. 利用されていた。公卿勅使の場合、例えば弘長元年( T六こ や. ( S ). 三五. ある相木御厨が存在した。相木御厨は、年月日未詳の称名寺専用配 鎌倉末期の律僧と架橋事業.
(6) 三六. していたことが、相田二郎氏によって指摘されている。仙川橋は東. (28). 嘉暦三年 (二二二八) の公卿勅使記には、宿所として勢多 (瀬田). 海道伊勢路と関係の深い橋であり、たとえ極楽寺長老が東大寺大勧. ( S ). 進職に就いていなかったとしても、極楽寺僧が関わっていた可能性. ・甲賀・関・一志が記されている。 なお弘長元年の公卿勅使記の 「路次事」 には、近江国で渡る河川. 河、外白河へ同)」と記されている。伊勢国では船を用いるか、斎. はす候」と記しているのは、人々の問に極楽寺僧が架橋活動を行う. また︻史料こ の中で覚順が 「極楽寺僧とて、願を可指出様も候. は高い。. 宮群行の際には浮橋を利用する河川も見られるが、近江国において. ものであるという認識があったということを示しているのではない. について 「瀬田渡八橋見在也)、石部河へ洪水之時、不渡之)、内白. は瀬田以外で恒常的に使用できる橋はなかったようである。. さらに前述のようにこの仙川橋が金沢氏の所領である柏木御厨内. だろうか。. てみたい。前述のように、覚順が東大寺大勧進職関係者であるとい. にあることから、仙川橋の架橋には金沢氏の意図が働いていたこと. 以上の点を踏まえた上で、仙川橋料所関とその背景について考え. う立場を考慮すれば、仙川橋料所関も東大寺造営のための勧進に関. められ候ぬへき」と述べているように、仙川橋を架けることと東大. 順が「誠如当時橋形も候はすハ、縦諸方興隆其実候とも、是にてう. 沢氏被官の倉栖氏を給主としていたこと、③現地に金沢氏が使用す. ていたこと、②一族の女性と考えられる「薬師堂殿」を地頭代、金. て検討がなされ、①金沢氏が少な‑とも顕時以前から地頭職を持っ. も予想される。金沢氏と相木御厨の関係については福島金治氏によっ. 寺造営のための勧進活動が'一体のものとして認識されていること. る施設が置かれていたこと、④金沢氏・称名寺の在京用途や所縁の. で覚. からも明らかであろう。またこの地域には甲賀山という奈良時代に. 人物・寺院の用途を調達するための所領であったこと、さらに⑤将. わるものであったと考えるのが自然である。それは︻史料一︼. は造東大寺司所属であった柚があり、木材の供給地であった。甲賀. 軍家用途が設定された関東御領でもあったことなどが明らかにされ. ( 」 ). 柚・池原柚とも呼ばれ、戦国期までその名が見られることから、仙. ている。このうち④に注目すると、称名寺長老餌阿が、奈良の西大. ( S ). 川橋料所関も東大寺への材木供給に直接関わっていた可能性もある。. 寺用途の不足分を相木御厨の寺用の残分でまかなうことを、称名寺. 末寺である大日寺長老に伝えている書状がある。大日寺は金沢氏を. ( 8 ). また'「はじめに」 でも述べたように、鎌倉後期の律僧が勧進活 動を通して交通路を整備し、特に海上交通の要衝に進出していった. 西国・北陸・東海地方の称名寺関係所領の中間管理機閲としての機. こ と は 、 す で に よ く 知 ら れ て い る こ と で あ る が 、 陸 上 交 通 と い う 視 守護とする伊勢国にあり、その支配の核となる寺院であった。また 点で見ても、極楽寺が東海道の主要河川への架橋や渡の整備に関与.
(7) 持つ伊勢国と、京都とを結ぶのが、東海道伊勢路なのである。また、. ように金沢氏・称名寺の西国での活動を支えるために重要な役割を. 能を持ち、さらに鎮西の律院との媒介の役割も果たしていた。この. たのは、彼らが東大寺の寺僧たちの期待する造営・修理を第一義と. をはじめとした関東所在の寺院の住持・長老が大勧進職に採用され. 職の補任には鎌倉幕府の意向が反映されていたこと、また、極楽寺. 進活動の場を提供されるということになる。そもそも東大寺大勧進. ( 」 ). 元徳三年(元弘元年・一三三一) の元弘の変の際には、幕府の上洛. する大勧進職の理想像に当てはまったからであることが永村寅氏に. よって明らかにされている。つまり極楽寺の長老が大勧進職に補任. ( & ). 軍の一員であった金沢貞冬が、伊勢国で軍勢を整え、柏木御厨を経 て宇治に向かっている。こうした状況からも、金沢氏は仙川橋の重. されるその背景には、幕府と東大寺、それぞれの期待がこめられて. ( S ). 要性を認識していたと考えられる。. 寺と金沢氏の関係を考慮すれば、そこに少なからず金沢氏の意向が. いるのである。さらに仙川橋が金沢氏の所領内にあることと、極楽. のような動きをしていたのかを、︻史料一︼を見ながら改めて確認. 含まれていると考えられる。そしてこのようにして与えられた勧進. さて、このような背景を持つ仙川橋料所関をめぐって、覚順がど. しておきたい。. 活動を成功させることで、極楽寺は架橋を含む勧進の実績を積み、. 新たな活動の場を得ることができ、またそれによって大きな利益を. 覚順は鎌倉最末期の二二三三年、鎌倉・極楽寺の長老で東大寺大 勧進職にある本性房俊海のもとで、南都を中心に東大寺造営に関わ. 手にしたと考えられるのである。. 3 弧 爪. る活動をしていた。そうした活動の一環として上京することもあっ. 覚順の東大寺大勧進職代としての活動の裏には、このような極楽. 寺、東大寺、幕府、金沢氏の意向があり、覚順はそれらを背負いな. たが、そこで仙川橋料所関の惨状を耳にする。仙川橋は「無跡形」 という状態で、関務すなわち東大寺造営のための勧進が行えず、評. がら活動をしていたのである。. 三七. (一)鎌倉末期、極楽寺に書状を出して 「仙川橋料所関」 の状況や. 検討することによって、以下の点を明らかにすることができた。. 称名寺から流出した全海書写聖教の紙背文書に見える覚順書状を. おわりに. 判も悪くなることから、形だけでも架橋の準備をしてはしいと俊海 に伝えるよう、覚順は極楽寺の僧に書状を出している。覚順は、関 務や東大寺領に関する訴訟などに奔走する一方で、こうした極楽寺 への働きかけも行っていた。仙川橋を渡る人々から徴収される関銭 は東大寺造営の用途であり、極楽寺に仙川橋を架けてもらわなけれ ば'覚順は職務を全うすることができなかったのである。 ‑1万極楽寺にとって長老が東大寺勧進職にあるということは、勧 鎌倉末期の律僧と架橋事業.
(8) 訴訟の経過などを報告している僧覚順は、東大寺大勧進職であ る極楽寺長老俊海のもとで周防国の日代を務めていた僧で、こ の頃、東大寺で活動していた。 (二) 「仙川橋料所関」 は、金沢氏が地頭職を持つ近江国相木御厨 を流れる仙川に架かる橋にあった。仙川橋は東海道・伊勢路の 橋である可能性が高‑、東大寺造営のための勧進にとって重要 な橋であった。 (≡) その仙川橋料所関は、鎌倉末期の混乱期にはもはや機能して おらず、東大寺大勧進職代の覚順は、機能回復のために極楽寺 等に対して働きかけを行っていた。 このように、鎌倉末期の仙川橋料所関において、極楽寺、東大寺、 幕府、そして金沢氏の思惑が絡み合う形で交通路整備が行われよう としていた様子が具体的に見えてきた。︻史料一︼ の書状が書かれ た二日後に鎌倉幕府は滅亡し、東大寺大勧進職もこの年の十月には 俊海と極楽寺の手を離れることになる。仙川橋と関がその後、どの ような経過をたどることになるのかは不明である。しかしこのよう な交通路整備のあり方は、極楽寺長老が東大寺大勧進職にある時期 において、交通路整備の一つのパターンであったと考えられるので ある。. 注. 三八. (‑) 河合正治「西大寺流律宗の伝播」(﹃金沢文庫研究﹄一四八、l九六八年)、. 凡社、一九七八年)、脇田晴子「中世の交通・運輸」(﹃講座・日本技術の社. 網野善彦﹃蒙古襲来﹄(小学館、1九七四年)、同﹃無縁・公界・楽﹄(辛. 会史第八巻 交通・運輸﹄ 日本評論社、一九八五年)、細川涼一「鎌倉仏. 教の勧進活動 ‑律宗の勧進活動を中心に」(﹃中世寺院の風景 ‑中世民. 衆の生活と心性﹄(新曜社、一九九七年、初出一九八八年)など。. (‑) ﹃聖愚問答紗﹄(立正大学日蓮教学研究所編﹃昭和定本 日蓮聖人遺文﹄ 第1巻、一九五二年) 世(二) 二一五六号). (‑) 極楽寺開山忍性回向文(金沢文庫文書﹃神奈川県史﹄資料編二古代・中 (4) 注(‑)網野氏著書など。. (‑) 細川涼l 「中世の律宗と国家」(﹃日本史研究﹄二九五、1九八七年)0. (‑) 福島金治「鎌倉幕府滅亡期の極楽寺 ‑全海紙背文書の検討‑」(﹃金沢. 北条氏と称名寺﹄吉川弘文館'二九九七年). (‑) 年未詳五月二十日付覚順書状(尊経閣文庫所蔵﹃長谷勘奏記﹄紙背文書、. ﹃神奈川県史﹄)資料編二古代・中世(二) 二〇1九号) (8) 注(‑)福島氏論文。. 文書、翻刻は注(‑)福島氏論文を参照した。. (‑) 年未詳二月二十九日付覚順書状(尊経閣文庫所蔵﹃本朝月令要文﹄紙背. (S) ﹃楠木合戦注文﹄(﹃続々群書類従﹄第三) ォ) 注(‑)福島氏論文。. (2) ﹃講座日本荘園史五 東北・関東・東海地方の荘園﹄ (吉川弘文館' 一九九〇年)高村隆氏執筆部分。. (3) 元徳四年(1三三二) 二月四日付六波羅御教書案(東大寺文書﹃鎌倉遺. 文﹄四一巻三一六七七号)、正慶元年(一三三二)七月日付西部荘雑掌定. 尊申状案 (東大寺文書 ﹃鎌倉遺文﹄ 四1巻三1七七五号)、元弘三年. (一三三三) 八月H付東大寺訴状土代 (東大寺文書﹃鎌倉遺文﹄ 四7巻.
(9) 三二五一六号) など。 (3) 注(‑)福島氏論文。 (3) 福島氏は「極楽寺学生供料所・美濃国赤鍋庄」としているが、「東大寺 学生供料所」 の誤りであろう (症(‑)福島氏論文)。. (」) 注 (S3) および ﹃角川日本地名大辞典二五 滋賀県﹄ (角川書店、. 相田二郎「中世における寺院の交通施設経営」 (相田二郎著作集三﹃古. 一九七九年). 文書と郷土史研究﹄名著出版、一九七八年、初出一九四五年). ﹃鎌倉遺文研究‑ 鎌倉時代の政治と経済﹄東京堂出版、1九九九年). 福島金治「近江国相木御厨と金沢北条氏・山中氏」 (鎌倉遺文研究全編. 書房、一九八九年、初出一九八一年)によると、俊海は嘉暦元年(一三二六). (S) 永村長「東大寺大勧進職の機能と性格」(﹃中世東大寺の組織と経営﹄塙. Km) 元徳三年(一三三一)七月二十三日付叙阿書状(芹沢豊氏旧蔵称名寺文. 史の一考察‑」(永原慶二編﹃中世の発見﹄吉川弘文館、一九九三年)、福. (3) 井原今朝男「幕府・鎌倉府の流通経済政策と年貢輸送 ‑中世東国流通. 書﹃神奈川県史﹄資料編二古代・中世(二) 二九六五号). 十二月三日に二十三代東大寺大勧進職に任じられ'二十四代の恵鏡が任命 とから、︻史料この時点では俊海が大勧進職に就いていたと考えた。. 島金治「金沢称名寺と伊勢・鎮西 ‑伊勢国高角大日寺をめぐって‑」. されるのが元弘三年(二二三三)十月二十九日であるとしている。このこ. 一九八三年)。覚順房覚恵については、注(‑)細川氏論文など。. (S) 湯山学「伊豆・箱根(二所) の地獄谷と鎌倉極楽寺忍性」(﹃鎌倉﹄四二、. 「金沢北条氏・称名寺の所領経営と在地社会 ‑畿内近国地域の所領と領. (清水最澄編﹃美術史論叢 造形と文化﹄雄山閣、二〇〇〇年)、福島金治. 氏は「極楽寺大勧進職」としているが、「東大寺大勧進職」 の誤りであろ. (3) ﹃周防国吏務代々過現名帳﹄(﹃山口県史料﹄中世編上 所収)。なお福島. 主を中心に‑」 (﹃年報中世史研究﹄二六、二〇〇一年) など。. かしと願念無他候、御同心之至承候之条、殊悦入候、又橋勧進事、被. 抑詮号事、令申京都候之処、干今延引、無心本存候、無子細入眼候へ. 御札之旨委細承候了、. いる。湯山氏も注(5) の論文の中でこの史料について触れている。. 注fc。¥相田氏論文に'金沢文庫所蔵文書として次の史料が紹介されて. 注(3)永村民論文。. 十九日に「武蔵右居助殿自江州相木宿宇治仁」とある。. KcoJ ﹃光明寺残篇﹄ (﹃群書類従﹄第二五輯) の元弘元年 (一三三1) 八月. う(荏(‑)福島氏論文)0. 甲賀・甲南・水口の三町と信楽町・土山町が二〇〇四年十月に合併し、. (S) 注(」)湯山氏論文。 現在は甲賀市となっている。 ォ) ﹃日本歴史地名大系二五 滋賀県の地名﹄(平凡社、一九九一年) 年月日未詳称名寺寺用配分置文 (﹃神奈川県史﹄資料編二古代・中世 (二) 1三七九号). 入御意候之由、蒙仰候之条、難申尽恐悦候、此事利益莫大候之上、一. ﹃吾妻鏡﹄文治三年(二八七)三月三日条に「美濃国守護人相模守惟 義申当国路駅可加新宿所々事、有其沙汰、早可依講之由、今日所被仰達也、. 大事と存候之問、令申候之処、御許容(以下閲). 俊兼為奉行、」とある。 ﹃海道記﹄(﹃群書類従﹄第一八輯). yes:) ﹃吾妻鏡﹄正治元年(二九九)五月七日条。 「弘長元年十二月九日公卿勅使記」「嘉暦三年(戊辰)九月十日公卿勅使 御参宮日記」 (﹃神道大系 神宮編三 伊勢勅使部類記・公卿勅使記﹄、 1九八1年) 鎌倉末期の律僧と架橋事業.
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