ベートーヴェンと楽譜出版[1]

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ベートーヴェンと楽譜出版[1]

―1809年5月第2次ヴィーン占領までのオーストリアとドイツにおいて

Beethoven and music publishing [1]

大 崎 滋 生

OHSAKI Shigemi

1.はじめに

ベートーヴェンの創作活動と楽譜出版社とのその折々の関係は、伝記記述の中核に属してお り、各出版社との書簡による個々のやりとりの紹介を含めて、各伝記書にあまたの記述がある。

しかしながら、ベートーヴェン自身の出版活動と当時の楽譜出版全体との包括的関係、ベートー ヴェンの狙い、その成否、その経緯、挫折、といったことは、ベートーヴェン研究のおそらく本 質的テーマであるにもかかわらず、何かを読めば把握できるといった状況にはない。個々の出版 社との関係についても、とくにヴィーンの初版出版社との関係についてはフリードリヒ・スレ ザックの包括的な研究があり(注1)、またイギリスでの正統版についてはアラン・タイソンの 古典的な研究がある(注2)。あるいは個々の出版社との具体的関係についてもさまざまな論考 がある(注3)。それらの関心は作曲者自身から原稿の提供を受けた原版(以下、「OA」と略す)

ないし正統版についてを中心としていて、なぜなら、ベートーヴェン研究にとっての主要な関心 事は個々の作品の正統な版がどこからどのような経過を辿って出版されたか、であるからだ。こ こにもいわゆる「作品中心主義」が見て取れ、いわゆる「大作曲家」もまたその犠牲とならざる を得なかったと言えなくもない。一方、20世紀序盤には、マックス・ウンガーが「ベートーヴェ ンの作品全集版(計画)について」をテーマに論文と著作(注4)をものしてはいて、その後 は絶えてしまったかに思われる関心が垣間見られるが、しかしそれらは数ページ〜十数ページの 問題提起にすぎない。

ベートーヴェンの楽譜出版に関する研究が、ほとんど原典版作成という狭い関心から行われ ていただけということのみならず、現在そもそも、旧知の事柄が維持できなくなったのは、残 存資料の全的把握が成立したからである。1998年に完結したジークハルト・ブランデンブルク編

『ベートーヴェン 書簡交換全集』(注5)において、ベートーヴェンおよび弟たちが発信した、

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および出版者によって彼らに宛てられた、存在が知られている(未発見、消失資料も含む)ほと んどすべての書簡・メモ類が、発信日を可能な限りの幅で特定し、並べられ、各々の根拠を含め た詳細な註が付されている。これを従来までの各書簡選集(注6)と比較すると、『書簡交換全 集』(以下、書簡番号をBwGaと記す)は、蒐集の完全さのみならず、圧倒的に多い日付の無い 書簡の発信日推定に関してほぼ知り得る完璧なものとなっており、前後の脈絡の元に内容を把握 できることに優れている。本論文の基本作業は『書簡交換全集』とその註を丹念に読むことであ り、その他、生前の全出版楽譜(編曲版を含む)のリストを出版社別に作成すること等に取り組 み、「ベートーヴェンと楽譜出版」に関して歴史像を得ようとする。

楽譜出版については、筆者はハイドン研究に従事していた頃から、社会的営みとして音楽史研 究の重要な問題であるとの認識を持っており、そもそもハイドンを少しでもかじるとこの問題は 避けて通れなった。そこで20年前に『楽譜の文化史』を上梓した(注7)。そこで描かれた1800 年前後のヨーロッパ全体における楽譜出版状況は、ベートーヴェンの出版活動の出発点であっ た。そして19世紀半ばにもなると、各楽譜出版社の活動は全ヨーロッパ規模となり、また作曲家 も出版社と、少なくとも一時期には、専属契約に近い関係を結ぶようになり、あるいはショパン のように、仏・独・英3社と並行的に出版活動を推進していく。著作権についても社会的共通 理解が成立する。19世紀序盤はまさにその過渡期にあって、現実はどう展開していたか。それが テーマである。

一方、音楽史研究は確かに大作曲家中心に展開されてきており、堆積されている資料や研究成 果は、大作曲家について圧倒的である。大作曲家はますます詳しく知られ、研究者も多く、ます ます巨大化される、というスパイラルで最近まで来た。であるから、大作曲家の創作活動を通し て時代を見てしまいがちなのであるが、バッハを通して18世紀前半ドイツ音楽史が語れないのと 同様に、そのことは常に戒めなければならない。しかしながらこの資料堆積の現実は極めて重く、

その有効活用は音楽社会史研究にとっても必須で、そこから出ると手掛かりはガタンと減るか、

当時の新聞を一枚一枚めくるといったレヴェルの作業に向かうほかなく、戒めつつも、知名度大 を利用するしかない。実際に、ベートーヴェン関連文献は、当時の時代相を実に反映している。

さて、ベートーヴェンと楽譜出版という括りで行くと、社会的問題よりも、彼個人の創作、そ して発表活動に対する関心が一般には多いと思うが、そういう点からも批判に耐えうるものとし なければならない。と同時に、ベートーヴェンの生涯において、あるいは創作発表活動におい て、楽譜出版との苦闘は大作曲家を理解する上でも本質的な問題であり、ことに成功裏に終わら なかった陰の部分は、社会とベートーヴェンの接点の領域として、既存のすべての伝記記述を書 き換えなければならないほどの重大性を持っている。

問題は極めて多岐にわたり、とても1回の限られた紙面で覆いきれない。第1回は、歴史的 経過の叙述として、ヴィーンの楽譜出版が崩壊する、1809年5月第2次ヴィーン占領までのオー

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ストリアとドイツでの状況、とする。

2.ヴィーンの出版社

ベートーヴェンは出版活動をヴィーンの出版社との協働によって軌道に乗せる。しかしなが ら、彼らとのやり取りを書簡に跡付けることはほとんどできない。ナポレオン戦争終結後は堰を 切ったようにヴィーンでの出版が続く。その経緯は、口頭の交渉が難しくなったことを反映して か、書簡に覗き見ることができる。とはいっても、そのほとんどが切れ端メモを人に託して伝達 したもので、会話帳の一部のような観を呈している。ときには長文書簡もなくはないが。

アルタリア社とのこの時期のやり取りは、ハイドンから作曲レッスンのためにアイゼンシュ タットに呼び出された時、WoO 40(Op.1)のゲラに関する訂正個所の指摘(BwGa 10、これは 当時のアリバイ証明としてよく引用される)の他は、Op.29 弦楽五重奏曲についてブライトコッ

プ&ヘルテル社(以下、「B&H」と略す)を巻き込んだ裁判闘争の和解書(BwGa 224)だけである。

後に、1816年にバーデンから「街に戻ったらあなたを訪問するから」(BwGa 974)といっている ように、出版交渉は口頭で行われたのであって、あったはずの書簡が失われたのではない。

ちなみに、出版社との、遺された書簡でのやり取りをすべて追ってみると、残存書簡2300通弱 のうち約700通が出版関連で、出版社の受け取ったものは、すなわちベートーヴェンまたはカー ル・ファン・ベートーヴェン(以下、「カール」と略す)、もしくはごく一部、末弟ヨハン・ファ ン・ベートーヴェン(以下、「ヨハン」と略す)が書いたものは、保存される傾向が強く、失わ れているのはベートーヴェンに宛てられた出版社発信のものが多い。ちょうど、他人の書いたも のが中心の会話帳の反対である。やりとりは互いの書簡のなかで反芻され、「先便で書いたよう に」とか、「以来、すっかりご無沙汰してしまって」などと、全交換(=Briefwechsel)がチェー ンのように跡付けられることもある。B&Hとの間では、欠けていると思われるものが全体の1/3 ほどあるが、内容は前後の書簡から類推できる場合が多く、出版やり取りはほぼ再現できると言 うべきであろう。他方、交換そのものが消えてしまっているというケースは頻繁にあったはずの パリとのやり取りである。ごくわずかの残存や、他に現れる言及から交換が想像されるものの、

内容までは分からない。

まず最初に、ことにヴィーンの出版社との交渉を、物的証拠なしにどう跡付けるかが問題とな る。とりわけ、原稿料の支払いがあったか、それは作曲者承認の、すなわちオーセンティックな 版であるか、海賊版(Piratendruck/Raubdruck)か、は重要なポイントである。続版(以下、「ND」

と略す)は校訂楽譜作成の際には二次的な扱いをされ、その煽りを受けて、初版ではないが、す なわち、時間的にはNDだが、OAであるというケースは今日まで見過ごされることが多かった。

また編曲版も、それがOAである可能性はゼロではなく、それはベートーヴェンの創作活動を、

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作曲と演奏と出版が一体化した、トータルの"創作"として見る場合に重要である。

a)アルタリア   [表1]

そこでアルタリア社を典型例として、同社の全出版物から、OA性を推察する。細字はOAの 可能性を否定できない、太字は明らかにND、である。同社は1793年7月にベートーヴェンの ヴィーンでの最初の楽譜出版を引き受け、エレオノーレ・ブロイニングに献げた「作品1」(現

在ではWoO 40)ヴァイオリンとピアノのためのフィガロ変奏曲に始まって、1799年春まで、約

20点についてベートーヴェンから原稿の供給をほぼ受けていたと見られる。作品番号の付いた もので言えば、ふたつの「作品1」から「作品12」まで(Op.10, Op.11を除く)、WoOに分類 されているものとしては、ヴァイオリン伴奏付またはチェロ伴奏付ピアノ変奏曲、ピアノ伴奏 リート、最初期のオーケストラ舞曲のピアノ編曲版である。最初の出版物(WoO 40)について、

1794.06.18.付ジムロックに宛てた書簡[BwGa 15]のなかで「アルタリアはまあまあの稿料と刊本 12部をくれた」とあり、これらはほぼ支払いを受けていたと考えてよいだろう。

ここで注目すべきは、作品番号を付すか付さないか、という問題が現れていることである。そ の区別には、ブランデンブルクの言うように(注8)、重要なもの(bedeutenderen)と軽い[劣っ

た]もの(geringeren)、すなわち、作曲者の自作に対する精神的な態度が見られる、というより

も、ここにはジャンルの違いに対する意識が反映しているのであって、楽譜出版に対する当時の 社会的慣習が覗かれるのである。また作品番号の他に、No.(ヌメロ)が付されているものがあり、

最初期に限って作品番号に2系統あったのではないかとも考えられてきたが、精査していくと、

この番号には一定の法則性がある。すなわち、これが付されているのは変奏曲だけなのである。

少なくとも出版する側に、作品番号の他に、「変奏曲番号」ともいうべきジャンル番号(シンフォ ニー「第1番」と同様)、という認識があったことに留意すべきである。

「34の 作 品 と 約18番[34 Werke und gegen 18 Numero]を 出 版 し ま し た 」( カ ー ル のB&H宛 1802.12.05.付書簡[BwGa 119]。大築邦雄訳(注9)では「34の作品を18冊ほどで」となっている)

というときの18番とは、それまで出版した変奏曲集の数であり、実際に、フィガロ変奏曲「作品 1」に続いて、変奏曲には第2番以降第12番まで番号が付けられている。アルタリア社のカタ ログでこの時期に出版された変奏曲約50点を調べてみると、作品番号の付されたものと付されな いものの比率は約1対2であり、つまり付けないのが一般的であり、付けることもある、とい う慣習が成立していたのである。

 アルタリアとの関係は1799年初頭まで(Op.12まで)は順調であったが、モッロに主要出版社 の地位を譲る。その後のアルタリアは認証されていない編曲版ばかりである。

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b)カッピ   [表2]

ジョヴァンニ[ヨハン]・カッピ(1765-1815)は姉がカルロ・アルタリアの夫人であり、義 兄の事業を手伝い、やがて共同経営者となり、さらには1802年に独立して、ベートーヴェンか

らOp.25〜27の提供を受けた。OAはこの3点4曲の出版だけに終わり、以後はNDおよび編曲

版を出して行くにすぎないが、アルタリアから出版権を譲り受け、かつてのアルタリア初版の

Titelauflage(継続再版、以下「TA」と略す)を出し続ける。なお、TAはきわめて煩瑣となるの

で表には含めない。報酬は原稿買い取りであった模様で、ベートーヴェンの収益とはならなかっ たと思われるが、そういった経済問題は、[3]で一括したい。

C)モッロ   [表3]

 トランクィッロ・モッロ(1767-1837)もまた初めはアルタリアの従業員で、1798年に独立し、

ベートーヴェンからOp.11を初めとする11点を譲り受け、ことにOp.14から18まで、すなわち1799 年から1801年にかけて約2年間、アルタリアに代わって、太い関係を続けた。ことに1801年の Op.15〜18の4点にあっては、ライプツィヒのComptoirとフランクフルトのGayl & Hedlerを代理 店として、ドイツにも販路を広げたが、ベートーヴェンとの関係は1802年10月末に終わった。そ れは彼が無断でシンフォニー第1番の弦楽四重奏用編曲を出版したからである。ベートーヴェン が1802.10.27.付Wiener Zeitung(以下、「WZ」と略す)と11.03.付Allgemeine musikalische Zeitung に出した抗議文は以下である。

「...2つの五重奏曲、ハ長調と変ホ長調、その第1曲は、私のシンフォニーに基づき、ヴィー ンのモッロ氏により出版され、その第2曲は、私のよく知られた7重奏曲作品21に基づきライプ ツィヒのホフマイスターにより出版されたのだが、いずれも本来の五重奏曲ではなく、出版者た ちが用意した編曲に過ぎない。こんな品々が横行する時代とあれば、編曲されてしまうことに対 して、作曲者はせいぜい抗議してみたところで無駄だということにもなりかねない。...」(注10)

d)トレク

ヨハン・バプティスト・トレク(1747-1805)は6点の提供を受けたが、そのなかで作品番号 を有するのはOp.9だけである。またWoO 7はオーケストラ・パート譜17部の手書き譜販売であっ た。ベートーヴェンの1794.08.02.付ジムロック宛書簡[BwGa 17]のなかで、「よい委託業者を見つ けた」とあり、それ以後ジムロックの代理人を務め、ベートーヴェンとの間を取り持った。さら に1798年6月16日からはB&Hの代理店ともなり、その業務は息子に受け継がれていく。

e)エダー

ヨーゼフ・エダー(1760-1835)は、提供されたなかにOp.10とOp.13があるので、強く印象づ

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けられるが、OAはWoO 76を加えた3点にすぎず、関係も1798年から99年にかけてと短かった。

f)ホフマイスター および ライプツィヒのビューロー・ドゥ・ムジク   [表4]

フランツ・アントン・ホフマイスター(1754-1812)は、1784.01.24.付WZに出版業の設立を宣 言している。作曲・演奏活動に加えて自作を中心に大々的に楽譜出版業も展開し、1791年にはリ ンツに支店を構えるほどになったが、投資と大量発行で経営不振に陥り、1793年には版権の大部 分をアルタリアに売却せざるを得なくなった。それでも出版業を細々と続けるが、基本的には見 切りを付けたらしく、1798年にフルート奏者フランツ・トゥルナーと演奏旅行に出かけ、ロンド ンにまで行ったと言われる。1799年春、プラハに滞在。さらにライプツィヒへ、そこでオルガン 奏者アンブロジウス・キューネル(1770-1813)と知り合う。いったんヴィーンに帰還後、1799 年12月18日にWZにOp.13とWoO 76の出版公告を出す。キンスキー=ハルムの作品目録(注11)

(以下、「K-H」と略す)では、WoO 76はエダーとの同時出版である。Op.13の方はエダーのもの

が初版OAで、それは、続版であるに違いないホフマイスターのものより早いとされ、根拠はな

いが、それ以前、1799年秋に出版ということになっている。しかしその後Tyson(注12)がすで に断定しているが、ホフマイスター版[VN 56]が先で、エダーがあとから出版社名と出版番号[VN 128]のみ変更した。同時に出されたこの2点はともに作曲者自身から原稿の提供を受けたとこと は確実で、タイトルも楽譜の中身も同じプレートであった。実はホフマイスターはヴィーン留守 中にエダーに在庫管理を委ね、2社はこの時期、事実上一体であった。しかし出版番号が異なる ので、版権の売買が二重に行われた可能性もある。ちょうどその1年後、1800.12.01.にホフマイ スターはライプツィヒでキューネルとともにHoffmeister & Kühnel(以下、「H&K」と略す)を設 立する。ヴィーンの支社は当座、妻テレジア、その後はカスパール・ヨーゼフ・エバールが運営 した。

ホフマイスターとベートーヴェンの往復書簡は存在し、まさにこれはホフマイスターがライプ ツィヒに移動したからこそである。その現存する最初のもの[BwGa 49](1800.12.15.付)は、何 か出版できる作品はないか、とホフマイスターがライプツィヒから問い合わせてきたこと(消 失)に対して書かれたものである。「([筆者補]しばらく音沙汰がなかったのでその間に)いろ いろ売ってしまったこと([筆者補]とりわけモッロにOp.14〜18)、いま渡せるのはOp.19〜22 の4点、価格を設定するように」といった内容である。ホフマイスターは1801.07.03.にヴィー ン着、何ヵ月か滞在する[BwGa 68 註1]。その間に、キューネルに業務連絡の書簡2通を、

1801.07.15.[BwGa 68 註1]と1801.09.26.[BwGa 69 註1]に書いている(いずれの書簡もBwGa 未収)。そこに「ベートーヴェンは我々が弦楽四重奏曲(Op.18)を続版する[nachstechen]ことを 非常に望んでいる」というくだりがあり、すでにモッロが出版しているものをライプツィヒ用に 売ろうとしていたことがわかる。しかしH&K社としてはヴィーンとライプツィヒ両方の販路を

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計算に入れていたから、それは引き受けなかった。

これからも各社についての箇所で同じ事が起こるが、この当時、出版圏というべき範囲があり、

例えば、イギリス、フランス、これらは国と言ってよい範囲だが、他に、ヴィーン、プロイセン、

ラインラント、といった出版圏があって、その範囲内で出版権が保証され、逆に圏外では一定期 間の経過後は再版(この際は海賊出版)は自由であって、著作者の権利は守られなかった、とい うことをまず第一の基本理解としておかなければならない。

ところで、そこから交渉が始まって同社はOp19〜22、4点すべてを獲得することになる。こ れらは独占できたことから、ヴィーンとライプツィヒの双方で出版が可能であった。

その直後から出版社表示がLeipsic en Commission chez Fred. Hoffmeisterと変わる。その変わり

目に、Op.20のホフマイスターによる弦楽五重奏用編曲(正統な版として)の出版番号110-111と、

ライプツィヒで委託出版されたOp.9のNDの出版番号110-112は重なっていて、この事実はホフ マイスターとキューネルの連絡に齟齬があったことを証拠づけている。Op.9のこの現存楽譜は、

K-Hでは1808年出版、ドルフミュラーの補遺(注13)でなんと1809年出版に訂正されているが、

この時期にはすでにホフマイスターは廃業しており、またここに指摘した出版番号からいってそ れはTAであるとしか考えられない。ホフマイスターは1804年末にはヴィーンに帰っており、そ の時点でキューネルの単独経営となる。ホフマイスターはふたたびヴィーンで細々と出版業を続 けるが、最後の出版公告は1806年1月25日で、その後は版権をヒェーミッシェ・ドゥルッケライ に譲渡した。

ところで、Op.9は出版圏の異なる地域で出すことによって法の網をくぐり抜けたのであろう。

Op.13とWoO 76の際には作曲者の了解を得たが、その経験により、了解なしでの出版に突き進ん

だのではないか。引き続きいくつかの作品のNDや編曲版を出していくが、表示からホフマイス ターの名を伏せてLeipsic en Commission au Bureau de Musiqueとなる。そして1803年に入ると、明 確に、Leipsic chez Hoffmeister et Kühnel au Bureau de Musiqueという二重表示が定着する。ヴィー ン圏外での堂々たる海賊出版であった。同時に、まだその事実をたぶん知らないベートーヴェ ンとも交渉して1803.12.〜1804.01.の2ヵ月間にOp.39〜44の6点のOA出版に成功する。Op.39は ボン時代のピアノまたはオルガンのための全長調プレリュード、Op.40はヴァイオリンとオーケ ストラのためのロマンス第1番、Op.41〜42はOp.25とOp.8の編曲稿(Op.41はピアノとフルート のため、Op.42はピアノとヴィオラのため)である。《プロメテウスの創造物》は1802年にすでに アルタリアが全曲のピアノ編曲版をOp.24として出版していたが、H&Kは改めて序曲のパート 譜を提供を受け、Op.43として刊行した。Op.44はピアノ・トリオ変奏曲である。この一連のもの は、以前のOp.19〜22に比して二次的な価値しかなく、提供作品として格段の差がある。ベートー ヴェンは同社にすでにある程度の不信感を持っていたようで、その後はベートーヴェンとの関係 に決定的なヒビが入っていった。

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g)ビューロー・デ・ザール・エ・ダンデュストリー   [表5]

ところで、ヨーゼフ・ゾンライトナー(1766-1835)は、《フィデリオ》の台本を書き、1804年 にシカネーダーの後任としてアン・デア・ヴィーン劇場の監督、さらに1814年まで宮廷劇場事 務総長を務めるなど、ベートーヴェンの伝記上重要な人物の一人であるが、1802年3月15日に、

前年に設立されたBureau des Arts et d㩾Industrie/Kunst- und Industriekontor(しばしば「美術工藝社」

と訳される。以下、「BAI」と略す)に入社した(彼の学歴からいって顧問弁護士?)。ベートー ヴェンはおそらくその少し前、1801年暮れか1802年の初春に同社との関係が始まり、ハイリゲン シュタットに籠もる前に、さしあたってピアノ・ソナタ第9番(Op.14-1)の弦楽四重奏用編曲 とピアノ・ソナタ第15番を渡し、前者は5月に作品番号なしで、後者は同年8月にOp.28として 出版された。これをきっかけに同社はOp.62の《コリオラン序曲》まで、ほとんどすべての新作、

すなわち「傑作の森」の傑作の出版を一手に引き受けた、ベートーヴェン楽譜の最も重要な出版 社となる。そもそも台本作者ゾンライトナーと知り合ったのは彼の入社によってという可能性が あるし、また同社の楽譜出版社としての、他社を圧倒的に凌ぐ優位性は、BAI社員としてマネー ジャー的業務を担当していた彼との関係が支えていたかもしれない。しかしながら、彼との間の わずかな書簡は《フィデリオ》上演に関するもので、何の手がかりにもならない。同社とのやり

とりも、Op.58〜62の報酬支払いを巡ると思われる短い1通(BwGa 289)を除いて遺っておらず、

ほとんどが口頭による交渉だったと思われる。同社の独占ぶりは、作品番号順に並べると、さま ざまな夾雑物が間に入るので、ぼやけてしまい、有力な出版社という印象に留まっているかもし れない。そうした夾雑物が何かを整理すると像のピントはくっきりと合うはずである。まず当初 は、Op.35まで、後述するB&Hと拮抗する。それからOp.38からOp.44までは、前述したように、

H&Kに提供した小物である。表5中のカッコ書きは、初版出版時には作品番号がなく、ホフマ

イスターが再版時に自社として連続番号を与えたOp.43を除いて、永らく欠番であった。Op.31は、

1803年4月のネーゲリによる初版では作品番号なし、1803年秋のジムロック訂正版では番号のみ 手書きで31、同年カッピのものも手書きで29、1806年のビューロー・ドゥ・ムジク版では33、と 各社まちまちで、その混乱は1817年に第1巻が刊行された『印刷楽譜出版案内』(WhIと略す)

でも続いていた。Op.32、Op.46、Op.48、Op.51は1819年にアルタリアが番号の整理を行ったとき に穴埋めされた。間に挟まるOp.47はジムロックがボンとパリで出版したもので、ベートーヴェ ンのパリ移住計画に絡んだ作品。欠落番号が穴埋めされていない当時に立ってこの表を眺めて みると、BAI社は1804年3月(Sy.2=Op.36)以降、1808年8月まで、4年半にわたり、ジムロッ クOp.47を除いて、OA出版を独占していた。B&Hに宛てた書簡[BwGa 327/1808.06.08.]のなかで、

同社が得た信頼がどれほどのものであったか、が表明されている。

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3.ジムロックの問題   [表6]

ベートーヴェンのボン宮廷での同僚ジムロックは、宮廷楽団解散の後、故郷で楽譜出版社を 起こした。そして1793年10月頃、ベートーヴェンがまだボンにいる間に書いた、ピアノのため のディッタースドルフ赤頭巾ちゃん変奏曲WoO 66を出し、同じくヴァルトシュタイン伯爵の主 題によるピアノ連弾変奏曲WoO 67を1794年8/9月に出した。後者については、先に言及した 1794.06.18.付書簡[BwGa 15]のなかで「アルタリアに売るのであきらめてくれないか。もしすで に始めたのなら、いろいろ直したので我が友ヴァルトシュタイン伯に修正稿を託します」と述べ ており、ボン社とヴィーン社の二股かけていたことがわかる。さしあたって旧知のジムロックを 頼らざるを得なかったところ、ヴィーンの出版社も関心を持ち始めたので、乗り換えるチャンス と見たのであろう。口頭による交渉の不可能な遠隔地出版社との交流の記録として約40通の書簡 が遺っている。

その後もずっと関係が絶たれることはなく、同社は数年のブランクで、1805年にクロイツェ ル・ソナタOp.47、1810年に管楽6重奏曲Op.81bなどを出したことはよく知られている。しかし まったくそれに留まらない、ベートーヴェン楽譜の重要な出版社の一つであった。1797年から 1810年までに出版の総計は64点にのぼる。うち、60点がNDであり、そのうち50点が初版刊行後 2年以内に出た。すべてが書簡で跡づけられる訳ではないが、多くが草稿ないし他社による出 版楽譜の送付を受けて、NDをジムロックはベートーヴェンの了解の元に出版していた。いくつ かについては報酬の交渉経過も明らかである。交渉の成り行きは、ある程度、把握でき、たとえ ば1804年には書簡の残存量は1点しかないが、出版も1ないし2点でしかない。Op.31のネーゲ リ版が約80ヵ所の印刷ミスがあり、ベートーヴェンがジムロックに委ねて訂正版を出したことは よく知られている。その際に「唯一の正しい版」と記してよいとのお墨付きが与えられた。通信 をしているのは主として、秘書役を務めていたリースであり、彼は2人の同郷人として重要な 触媒役を果たした。

紙面の関係で、以下、判明する事柄を箇条書きでまとめる。

① すでに1794.08.02.にトレクを代理人とし、リベート1/3で交渉を委託。したがって、リースが 持ち込む楽譜以外はトレクとの口頭やりとりで交渉が行われたと思われる。

② 早くも1803.05.25.付のカールのジムロック宛[BwGa 139]において、「たとえばある作品がロン ドン、ライプツィヒ、ヴィーン、ボンで同時出版されるなら...」とジムロックを起点に同時多 発出版という考えが兄弟にあったことが示されている。このときボンはフランスであり、出版 圏としても共和国内にあった。1804.10.04.時点でジムロック弟ハインリッヒが経営するパリ支 社(BwGa 193 Anm.3)があり、1805.04.にOp.47がボンおよびパリのジムロック社から出版され

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たが、両都市表示はこの1点のみである。1805.07.30.付ジムロックのカール宛書簡[BwGa 229]

に、「ここ何年か私はフランス人となり」とある。

③ 新作のみならず、旧作も積極的に販売

④ リースらによる編曲版作成も積極的に推奨

⑤ 小品、アマチュア向けにも積極的

⑥ ジムロックにとって、パリ諸社との競合が問題であった。

4.ブライトコップ・ウント・ヘルテルの問題

a)ブライトコップ・ウント・ヘルテルとの関係はじまる   [表7]

B&Hがベートーヴェンに接触したのは1801年4月のことである。それに対する1801.04.22.付

け返信がこの社との最初の記録である。その後1815年までに100通余りの往復書簡が遺っており、

それらにおいて言及されてはいるが所在の確認はとれていない30通以上の痕跡がある。合計約 140通はおそらくその間のやりとりのほとんどと見て差し支えない。件数としては1815年以後の シュタイナー/ハスリンガー社とのやりとりの方が多いが、同社宛書簡は次第に会話が面倒にな るベートーヴェンにとって会話帳同然の数行のやりとりが中心であるのに対して、ヘルテルとの やりとりは往々にして長文で、ヘルテル側からは当時の出版社の置かれた立場やナポレオン戦争 の直接的影響による経営苦境等が赤裸々に語られ、ベートーヴェンの側からは創作に対する自 信、そこから生まれる高額な要求、あるいは全集企画の売り込みがあり、そして出版社の尻込み、

やがて決裂、といった八方塞がりの経緯が、あからさまである。山場は4回ある。

 1802.03.28.付カールの返書[BwGa 81]によってOp.29の刊行が合意に達したことが見て取れる。

この版が同年12月に出版される前に1802年夏にアルタリアが流出した筆写譜を元に堂々と写譜ミ スだらけの印刷譜を刊行し、この一件は3年越しの裁判沙汰となった。これは有名な話なのでこ こでは省略。ただし、こうした成り行きが原因でB&Hとの関係が当面冷却したと一般に思われ ているが、そうではない。確かに、Op.29について一時もめて、グリージンガーの1802.12.08. 付 ヘンテル宛書簡[BwGa 118]に「ベートーヴェンは、あなたとの関係を絶ちたい、Op.34〜35に対 するお金を返金したい、と言っている」とある。しかし一時決裂の原因はそれだけではないこと をここで証明しておく。Op.36〜37を前述のBAIがB&Hより200 fl.も高い700 fl.で獲得したので ある。同社はこれをきっかけにこの時期、ベートーヴェンの独占的出版社となっていき、B&H は相手にされなくなったのであった。これが第1の山場である。

b)作品完成と出版の関係

こうして、Op.34〜37はベートーヴェンの楽譜出版問題において大きな転換点となった。ハイ

(11)

リゲンシュタットで書かれたOp.34〜35が翌1803年4月と8月に出版され、それ以前に完成して

いたOp.36〜37(注11)の出版がそれらのちょうど1年後になる、したがって創作順とは大きく

ずれる作品番号が与えられた、ということの背後には、まさにこうした出版社との間のやりとり がある。1804.08.26.付ヘルテル宛書簡[BwGa 188]に「いくつもの出版社が私の作品を長く滞って いて...」とあり、すなわち、ベートーヴェンが原稿を収めても、売れ行きを見計らって、すぐ に出版にはいき着かない。

 作品完成の日時と出版日時との関係には、その他にも複雑な要素が絡んでくる。OA出版の場 合には、出版の日時は出版公告の前後であるとされ、原稿渡しは出版公告の約4ヵ月前、その 直前まで作曲、時には校正時にも作曲行為続く、と、作品完成は最後に手を離れた時であるか ら、一般に、出版公告時を作品完成と限りなく近く見る傾向がある。しかし、出版社の都合と か、または出版社が行う出版適時の判断とか、出版公告のタイミング、さらにはベートーヴェン の側でもコピストの処理能力、といった事情が重なって、作品完成と公告がかけ離れることはむ しろ一般的である。そして公告のタイミングも、表6にあるように、Op.45、WoO 78、WoO 129 は1804.03.10.付WZにまとめて公告されたのであり、1805年には、Op.49とWoO 74が、またOp.49

とWoO 82、WoO 55が、1807年には、Op.55のピアノ4重奏用編曲版とWoO 80が、さらに1808年

には、Op.59とOp.62が、またOp.58とOp.61が、一緒に公告された。出版社は出版準備が整い次 第つぎつぎと公告を打っていったのではないことが明らかで、とくにナポレオン占領後には公告 の間隔はかなり長く、出版公告と出版時期を月単位で一致させる、ましてや作曲者の手を最終的 に離れた時期としてそれと作品完成をできるだけ近づける、という完成推定時期に対するこれま での慣習は考え直さなければならないであろう。

C)ヘルテルとの交渉、行き詰まる

ヘルテルは1803.06.02.付書簡[BwGa 141]、その後段で、「あなたの新作すべての出版によって 永続的な結びつきを維持していきたい....ときたまだけ最高値を付けた者として個々の作品を保 持するのは望みません...」とBAIを意識した切実な訴えを行っている。

さらにカールのOp.49等の売り込みに対する1803.09.20.付返書[BwGa 156]に次のようにある。

「あなたの作品の、法を遵守する出版者はあらかじめ、どの作品をどのくらいの報酬で譲り受け るか、ボン、オッフェンバッハその他ドイツ、フランスの出版者のみならず、まったく確かなこ とですがマインツでも、彫版しようと思っていることを、お知らせます。こうしたことはヴィー ンの出版者には、その距離からいって、あまり不利ではないとしても、ドイツの真ん中に位置す る商社には、あなたに受け容れて頂ける条件を提示するのは不可能です。」

ここにボンとあるのは明らかにジムロックのことであるが、ヘルテルの眼からすれば、ジム

(12)

ロックがベートーヴェンから原稿等の提供を受けていたとはとても思えなかったであろう。

さらに1803年9月後半から10月半ばにかけて、WoO 78〜79、Op.55〜56の売り込みが続く。そ れらはすべてBAIで出版されることになる。そして遂に1803.11.23.[BwGa 171]に、ヘルテルが付 ける安値に対し「それは受け入れられない」と切り捨て、BAIが関心を示さなかった「オラトリ オはお持ちになれます」と持ちかけるが、なかなか出版されずに経過し、その間にベートーヴェ ンはそれを改訂する気になっていく。

1803.12.05.付書簡[BwGa 172](消失)にたぶん決定的なことが書かれていると思われ、交渉は 決裂した。これが第2の山場で、その後しばらく音信は途絶える。

次の現存書簡はベートーヴェンの1804.08.26.付ヘルテル宛[BwGa 188]で、BAIとの関係に言及 があり、Op.53〜57と、改めてオラトリオの提供を自身が呼びかける。これら6作品で2000 fl. と 生涯の最高値が付けられている。

それに対してわずか4日後の1804.08.30.付書簡[BwGa 189]でヘルテルは、「楽譜販売はドイツ

ではNachstichによって、またフランス、イギリスでは政治的時代によって、現在きわめて狭く

なっています」と応えている。そしてカールが1804.10.10.付書簡[BwGa 194]でオラトリオを除

くOp.53〜57の5作品で1100 fl.にダンピングする。グリージンガーが使者としてベートーヴェン

と直接交渉して妥結に至る。ヘルテルは「これによってあなたとの関係を更新したい。」[BwGa 198/1804.11.03.]と応諾している。ところが草稿の送付が遅延、その催促、そしてヘルテルが改め て法的文書を求める。

これにはここに現れていないベートーヴェン側の事情があって、すなわちOp.55〜56に対する ロプコヴィッツ侯の半年間独占所有権がまだ切れていないので送ることが出来ないのだが、ヘル テルの疑いは介在する弟に向けられる。ついにヘルテルは1804.12.22.[BwGa 205]に、「今回は諦 めざるを得なくなるのではないか」と表明。ベートーヴェンの要求に応えて、出版期日を守ろう として印刷準備万端を整え、またすでに報酬をヴィーンの代理人に6週間期限の為替で振り込ん で支払いの用意をしていたが、その期限も満ち、為替を引き上げる。一方ベートーヴェンはシン フォニー第3番(Op.55)と2ソナタ(Op.53とOp.57)を年の変わり目あたりに送付したが、そ の他の作品は未だで、1805.01.16.[BwGa 209]に改めて、さらに1805.04.18.[BwGa 218]にも、ベー トーヴェンはコピスト不在の事情を説明。その間、4日で着く郵便が4ヵ月遅れるなどの外的 事情も手伝って、そして遅れて届いた書簡に、報酬の減額が求められていて、ベートーヴェンは ついに、すでに送ったシンフォニー第3番等の草稿の返却を求める。

「昨日ようやくあなたの01.30.付書簡を受け取りました。当地の郵便輸送は、私の問い合わせに、

書簡は少しも留め置かれたわけではない、と説明した。...あなたのパリ書簡(おそらく01.31.付 書簡に書かれているパリにいる輩下から受けた報告)に関すること、あなたの輩下の長期にわた る外出については私もよく理解しますが、全経過はうんと差し引いておきます。...とにかくあ

(13)

なたには遅れの原因を知らせますが、弟が筆写の時間を計り損なうという間違いがありました。

――報酬(5作品で1100 fl.)は、私がふつうに得るよりかなり低いです。ベートーヴェンはほ らを吹きませんし、また自分の芸術や功労によって得られるのではないすべてのものを軽蔑しま す――したがって、私から得た草稿(Op.53, 54, 55)、リート(おそらくWoO 136)も含めて、送 り返して下さい。私はこれ以下の報酬を受け取ることはできないし、これからも受け取りません。

私と合意したものだけはその草稿を保持してよろしい。――オラトリオは既に発送されたので、

現在あなたの手元にあるかも。それが演奏されるまであなたの自由にしてよいが、演奏後は私に 戻して下さって結構...」[BwGa 223/1805.05.??.日付のない書簡]

これが第3の山場である。ヘルテルは1805.06.21.に交渉決裂を受け入れる返書[BwGa 226]を書 き、その後、文通は1年途絶える。突然1806.07.05.付でベートーヴェンが書簡[BwGa 254]を寄せ る。弟が役所の仕事でライプツィヒに行く(実現はせず)ので「レオノーレ第3番、新作ピアノ・

コンチェルト第4番、オラトリオを持たせる。その他云々...」。これをきっかけに、いったん は関係の修復が進む。1806.09.03.付[BwGa 256]でベートーヴェンは「ドイツで私の作品を、あな たに対してよりも多く与えなければ、と思っている人はいません」として、Op.58〜60も提供す る用意があるとしている。これに対してヘルテルは消失した1806.09.13.付の書簡[BwGa 257]で、

その報酬が受け容れ可であること、無限の出版権が譲渡されることを前提に、3年契約を締結し たい、と表明したらしい。ベートーヴェンは1806.11.18.付と思われる書簡[BwGa 260]で「3年契 約についてですが、...(長々述べた後)、私には契約締結は多大なる面倒で」とやんわり断り、

Op.58(ピアノ・コンチェルト)に300 fl.、Op.59(3 弦楽4重奏曲)に600 fl.の値を付けた。同書

簡にあるメモ書きから類推するに、ヘルテルは消失した1806.11.26.付返書[BwGa 261]において、

戦争による状況悪化に言及し、ベートーヴェンの提案を不承認した。第4の山場である。その後、

1年半以上に渡って音信は無くなる。

結局、1801年4月の接触以来、1809年初まで足かけ8年間にB&Hが最初のOp.29以外で獲得で

きたのはOp.34〜35のみであり、ここで遡上にのぼったすべてを手に入れたのはBAIであった。

d)ヘルテルとの新しい展開

 1808年6月に新しい展開が始まる。ヘルテルは代理人グリージンガーを訪問させてベートー ヴェンとの関係修復を諮ろうとしたようで、ベートーヴェンは突然1808.06.08.付でヘルテルに書 簡[BwGa 327]を送る。

「シェーネフェルト伯の執事(グリージンガー)がこの書状に責任あり、というのはあなたが ふたたび私から作品を手にすることを望んでいる、と彼が私に保証したので。――なんども決裂 しているのでこの接触もまた実りないとほとんど思われるにせよ、現時点で私はあなたに以下の 作品のみ申し出ます。シンフォニー2作、ミサ曲1作、ピアノとチェロのためのソナタ、以上

(14)

すべてで900 fl.です。」

1808.09.14.に、ヴィーンを訪問したヘルテルとベートーヴェンは契約書を取り交わす。

「本日、これをもって私は新作5曲に対する合意の謝礼としてライプツィヒB&H社から金貨 100 dukat.を受領」「新作5曲、すなわち、シンフォニー1作ハ短調、同1作ヘ長調、ピアノ・ト リオ2作ニ長調他、オブリガート・チェロ付ソナタ1作イ長調」

すなわち、Op.67〜70である。B&Hはついにベートーヴェンとの良好な関係を獲得した。それ が実際に刊行されるのが1809年4月なので、風雲急を告げるヴィーンの戦況から(皇帝一家のオ フェンへの逃亡は5月4日)、刊行年月だけ見ると同地での出版を諦めライプツィヒの出版社に 頼るようになったと思われがちだが、そうではない。ベートーヴェン自身が吐露しているように、

何度もの決裂にめげず、ヘルテルが8年にわたってねばり強く交渉をし続け、5度目の出直しに よってついに到達したのである。ベートーヴェンの初版出版社がヴィーンの各社からライプツィ ヒに移行するのを、その事実関係だけから類推すると、背後に迫るナポレオン戦争の直接的影響 のように思ってしまう。それは間違いである。このヘルテルとの交渉経過をつぶさに見ることで、

戦況の直接的影響などという単純な話ではなく、当時の楽譜出版界の構造と、またベートーヴェ ンそれ自身の出版戦略、そういうもののせめぎ合いが事の本質であったことが分かる。

が、ベートーヴェン楽譜の主要出版社としてのB&Hの台頭は、ヴィーンのBAIが落ち目になっ ていくことと関係している。それには確かにナポレオン戦争の影がはっきりあり、その意味では 戦況の間接的な影響下にあった。同社は1807年にゾンライトナーらが手を引き、シュライフォー ゲルの単独経営となって、1807.05.16.にペシュトに支社を開設してから、目論んだ発展が裏目に 出て、1813年に破産する。ベートーヴェンはヘルテルのじきじきの訪問を渡りに船と思ったかも しれない。こうしたストーリーを伝記研究はまだ描き切れていない。

5.ドイツの他の出版社

a)アンドレ

すでに1800年にWoO 75、さらにはもしかしたらWoO 11の海賊版も出していたオッフェンバッ ハのアンドレは、1802年11月までに接触してきて、返信は1802.11.23.に弟が書いた。この、アン ドレとの接触を示すたったひとつの証拠は全文がセイヤーによって引用されており、よく知られ たものだが、そこで提示された金額では引き合わないと思ったのか、以後アンドレは堂々と海賊 出版を続けることとなった。アンドレ社の楽譜が正統な版ではあり得ないのは、その後の文通の 形跡がまったく途絶える一方、おそらく1815年頃までに40点以上のその種の楽譜を刊行している

(15)

ことから、明らかである。なお、K-HでOp.58のNDが1805年となっているが、この時点で同作品 はまだ作曲中で、初版が1808年であるので、これはあり得ない。ドルフミュラーの補遺(注13)

でもこの事実の指摘に留まっており、解決されていない。Bettina Constapel著Der Musikverlag Johann André in Offenbach am Main(1998)のアンドレ社出版一覧においてもそれは確認されるの で、何らかの単純ミスではないだろう。その出版番号2048は1805年のものとして妥当であるから、

その時点では欠番となっていて、後年にその番号が補填されたとしか考えられない。ベートー ヴェンから草稿の提供がまったくなかった状況下でアンドレ社はすべてヴィーンの出版社からの 出版楽譜を底本としたと考えてよいだろう。出版圏の異なる地域にあって、それは訴追を免れ、

またベートーヴェンの側にあっても訴えようがなく、この種の著作権侵害はまだ法的に守られて いなかった。

b)ショット(マインツ)とツーレーナー(マインツ / エルトヴィッレ)

この姉妹社はWhIに62点の楽譜が確認できるが、すでに1803.09.20.付ヘルテルの書簡[BwGa 156]に「同封のマインツのツーレーナーの公告から、同人はあなたのヴァイオリンとピアノのた めの作品全集の予約を募っていることが見て取れます。」とあるように、堂々と勝手な活動を行っ ていた。

c)フンメル

ヘルテルによってアムステルダム社として海賊版出版のやり玉に挙がっていた。1805年の12 点、出版番号で1300-1333を中心に、その前後に計15点を刊行した。すべて、ヴィーンの各社、

そして何点かジムロック社版を底本にしたと思われる。

[つづく]

⑴ Friedrich Slezak: Beethovens Wiener Originalverleger)Wien, 1987*

⑵ Alan Tyson: The Authentic English Editions of Beethoven)London, 1963*

⑶ Max Unger: Ludwig van Beethoven und siene Verleger S. A. Steiner und Tobias Haslinger in Wien, 1921. Alfed Orel:

Beethoven und seine Verleger. In: Ein Wiener Beethoven-Buch, 1921, 168-203. Alan Tyson: Maurice Schlesinger as a Publisher of Beethoven, 1822-1827. In: Acta Musicologica 35, 1963, 182-191. Martin Staehlin: Hans Georg Nägeli und Beethoven. Zürich 1982. Kurt Dorfmüller: Carl Zuhlehners Beethoven-Ausgaben, In: Mitteilungen der Arbeitsgemeinschaft für Mittelrheinischen Musikgeschichte, 37, 1997, 269-314.

⑷ Max Unger: Zu Beethovens Plan einer Ausgabe seiner Sämtlichen Werke. In: Neue Zeitschrift für Musik 80, 1913, 449 ページ以下

(16)

  同: Beethoven über eine Gesamtausgabe seiner Werke, Bonn 1920, 1-12.

⑸ Sieghard Brandenburg: Ludwig van Beethoven. Briefwechsel Gesamtausgabe)München, 1996-98* 引用の際には

「BwGa」とする。

⑹ Sieghard Brandenburg: 上掲書 EinführungのAnmerkungen 1-7に各書簡全集の出版事項および特徴があがってい るので、ここでの列記は省略。

⑺ 拙著『楽譜の文化史』)1992*

⑻ Sieghard Brandenburg: 上掲書 BwGa 119 註4

⑼ セイヤー『ベートーヴェンの生涯』大築邦雄訳)1974*

⑽ Forbes: Thayers Life of Beethoven, Vol.1, 310.

⑾ Kinsky-Halm: Das Werk Beethovens. Thematisch-biographisches Verzeichnis seiner sämtlichen vollendeten Kompositionen)1955*

⑿ Alan Tyson: Beethovens "Pathétique" Sonata and Its Publisher, Musical Times 104, 1963, 333-334.

⒀ Dorfmüller編Beiträge zur Beethoven Bibliographie)1978*

⒁ Op.36〜37の創作年代設定は従来あいまいで、専門文献はなお混乱しているが、Op.36として2年後に出版 されるシンフォニー第2番がすでに1802年3月には完成していた。それを中心曲目とするコンサートが4 月初旬に計画されており、1802.04.01.頃書かれたリース宛書簡[BwGa 87]に「私が直した4つのパート譜を すぐに手にとって、他の筆写譜もそれに倣って検閲してください」とあって、それが完成したばかりのこ のシンフォニーを指すことは疑いない。計画していた慈善コンサートは、宮廷劇場支配人ブラウン男爵の 許可を得られず、中止となった。

(17)

[表1]

Artaria  [40点]  OA = Originalausgabe細字     ND = Nachdruck太字

VN = Verlagsnummer = 手書き

1793.07. Op.1)WoO

40* [VN 437] 12 Var[Pf+Vn]

1795.10. Op.1 [VN 563]

1795 WoO 8 [VN 609])Pf=Beethoven* =編曲者

1795 WoO 7 [VN 610])Pf=Beethoven*

1796.03. Op.2 [VN 614]

1796春 Op.3 [VN 626]

1796春 Op.4 [VN 627]

1796.02. WoO 68 [VN 638] Pf-Var)à la Vigano*[No.3] ※K-H: [VN 623]

1796.03. WoO 10 [VN 641])Pf=Beethoven*

1796.11. WoO 121 [VN 681] Pf-Lied 1797.02. Op.5 [VN 689]

1797.02. )Op.46* [VN 691] Adelaide[Op.6のはずだった?]

1797.04. WoO 71 [VN 696] Pf-Var)Wranitzky*[No. ] 1797.04.末 WoO122 [VN 701] Pf-Lied

1797夏/秋 WoO 45 [VN 710] 12 Var[Pf+Vc][No. ] 1797.10 )Op.51-1* [VN 711] Pf-Rondo

1797.10. Op.6 [VN 712]

1797.10. Op.7 [VN 713]

1797.10 Op.8 [VN 715]

1798.12./99.01 Op.12 [VN 793]

1799.02.末 WoO 73 [VN 807] Pf-Var)Salieri*[No.8]

1799春 WoO 11 [VN 812])Pf=Beethoven?* 1801.06. )Op.24* [VN 872] )のちにOp.43*

1802.09. )Op.51-2* [VN 884] Pf-Rondo

1802 WoO 15 [VN 893])Pf=Beethoven*

1802.09. WoO 15 [VN 896])2Vn+B=Beethoven* 欠番[VN 1159-1237][VN 1240-1276][VN 1278-1499]

1802-04 Artaria/Mollo  [VN1500-1692]    TAは除いて記載

1802夏 Op.29 [ohne VN])同時にMünchen: Halm/Frankfurt: Gayl et Hädler* 1803? WoO 7 [VN 1516])2Vn+B*

1803 WoO 14 [VN 1559]

1803 Op.29 [VN 1591]

1803 Op.43 [VN 1620])St-Qua* 1805-1858 Artaria  [VN1693-3176]

1805 Op.47II [VN 1750]

1806.04. Op.87 [VN 1793])Pf+Vn*)ohne OZ* 1806.04. Op.87 [VN 1803])St-Trio*)ohne OZ* OA 1807 Op.4)Op.63* [VN 1818])Pf-Trio*

1807.05. Op.8 [VN 1845])Gittare+Pf+Va* 1807 Op.46 [VN 1853])mit Gitarre*

1807 Op.3)Op.64* [VN 1886])Pf+Vc* 1809.04. Op.69 [VN 2060][Op.59!]

1809.末 Op.70 [VN 2085,2082][OZ handschriftlich]

(18)

Cappi[20点] [表2]

1801 Op.1 [VN 563]

1802 Op.43 Ouv. [VN 827])Pf*

1802.03. Op.27 [VN 878-870]

1802.03. Op.26 [VN 880]

1802春 Op.25 [VN 881]

1802 WoO 10 TA/1796.03.Artaria[VN 641] Orch-Menuett[Kl-A]

1802 Op.43 Ouv.[VN 827])Pf=J.Czerny*

1802 WoO 11 )Pf=?Beethoven*  OA Artariaより出版権を買い取る 1803 WoO 76 [VN 1014]

1803 WoO 66 [VN 1024]

1803 WoO 64 [VN 1025]

um1804 WoO 65 [VN 1026]

1803+04-05Op.31)Op.29*[VN 1027-28/1115]

1803 Op.34 [VN 1030])als vielleicht berechtigter? ND, ohne Widmung*

1803 Op.35 [VN 1061])als vielleicht berechtigter? ND, ohne Widmung*

1804 Op.39 [VN 1079]

1804 Op.21 [VN 1099])Pf=Gelinek*

um1805 Op.88 [VN 1116]

um1805 Op.46 [VN 1131]

1805 WoO 75 [VN 1132]

Mollo[17点] [表3]

1798.10. Op.11 [VN 106]

1799.12. WoO 75 [VN 121]   Pf-Var)Winter* [No.9]

1799.12. Op.14 [VN 125]

1801.03. Op.17 [VN 147] Leipzig: Comptoir/Frankfurt: Gayl & Hedler 1801.03. Op.16 [VN 151] Leipzig: Comptoir/Frankfurt: Gayl & Hedler 1801.03. Op.15 [VN 153] Leipzig: Comptoir/Frankfurt: Gayl & Hedler 1801.06.+10. Op.18 [VN 159/169]Leipzig: Comptoir/Frankfurt: Gayl & Hedler 1801.10. Op.23 [VN 173]

1802.初 Op.24 [VN 173]

1802初 WoO 46 [VN 222]  6 Var[Pf+Vc]

1802 WoO 14 [ohne VN] Contretänze[2Vn+B]

1802 Op.21 [VN 127])St-Qui*1802.10.末 Bの警告文)Op.20*と関連 1802 WoO 14     )2Vn+B*

1802 WoO 14 [VN 218])Pf*

1802 WoO 7 [VN 211])2Vn+B* 1802 WoO 8 [VN 212?])2Vn+B* 1803.10. Op.48 [VN 1599]

(19)

Hoffmeister [表4]

①1784 chez F. A. Hoffmeister

 1799.12. [WoO 76]

②1799.12. chez F. A. Hoffmeister & Comp:/à Leipsic au Bureau de Musique [Op.13]

③1801.12. à Vienne chez Hoffmeister & Comp:/à Leipsic chez Hoffmeister et Kühnel [Op.20]

      /à Leipsic au Bureau de Musique [Op.19,21]

 1802.03. [Op.22]

④1802 Leipsic en Commission au Bureau de Musique

⑤1802 à Leipsic chez Hoffmeister et Kühnel au Bureau de Musique à Leipzig chez Hoffmeister & Kühnel)Bureau de Musique* à Leipzig au Bureau de Musique de Hoffmeister & Kühnel Leipzig chez Hoffmeister & Kühnel/Bureau de Musique Leipzig, Bureau de Musique[Hoffmeister & Kühne]

⑥1807- Kühnel

⑦1814- Peters

1799.12. Op.13 [VN ?]

1799.12. WoO 76 Wien: chez F. A. Hoffmeister[ohne Op]

Bureau de Musique)Hoffmeister & Kühnel* VN改める 1801.12. Op.21 ③[VN 64]

1801.12. Op.19 ③[VN 65]

1802.03. Op.22 ③[VN 88]

1802春 Op.13 ③[VN 92] TA

1802.06/07. Op.20 ②[VN 108-109])3楽章ずつ*

1802 Op.20 ③[VN 110-111])St-Qui=Hoffmeister* OA

1808[sic!] Op.9     en Commission chez Fred. Hofmeister[VN 110-112]

 ※[Dorfmüller S.296] 1808ではなく1809

1802 Op.26 Leipsic en Commission au Bureau de Musique[VN 118]

1802 Op.26Ⅲ Bureau de Musique[VN 119]

1802 WoO 46 Leipsic en Commission au Bureau de Musique[VN 122])Pf+Vn*

1802 WoO 14 Leipsic en Commission au Bureau de Musique[VN 123])Pf*

1802末 WoO 76 Bureau de Musique[VN 154]

wohl1802 Op.17 Bureau de Musique 1803 WoO 15 ⑤)1 Fl.*[VN 165]

1803 Op.51-2 ⑤[VN 194]

1803 Op.46 ⑤[VN 224]

1803 Op.5 ⑤[VN 225]

1803 WoO 45 ⑤[VN 226]

1803 Op.48 ⑤[VN 267]

1803.12. Op.39 Leipzig chez Hoffmeister & Kühnel[VN 271]

1803.12. Op.40 Leipzig chez Hoffmeister & Kühnel)Bureau de Musique*[VN 272]

1803.12. Op.41 Leipzig chez Hoffmeister & Kühnel)Bureau de Musique*[VN 273]

Op.25 編曲OA

(20)

1803末 WoO 11 Hoffmeister & Kühnel[VN 278])Pf*

1803 WoO 10 Hoffmeister & Kühnel[VN 279])Pf*

1803末 Op.88 Hoffmeister & Kühnel[VN 280]

1803 Op.43 Leipzig au Bureau de Musique de Hoffmeister & Kühnel)Pf*

1804 Op.8 Hoffmeister & K.[VN 282])Pf+Va*

1804.01. Op.43 Ouv. Leipzig chez Hoffmeister & Kühnel/Bureau de Musique[VN 283]

ȨOp.43ȩ

1804.01. Op.43 Ouv. Leipzig au Bureau de Musique de Hoffmeister & Kühnel[VN 289]

)Pf*ȨOp.43ȩ

1804.01. Op.44 [VN 281]     Pf-Trio-Var 1804.01. Op.42 [VN 282]     Op.8 編曲

?1804 WoO 72 Vienne chez Hofmeister[VN 329]

1805 Op.14 Hoffmeister & Kühnel[VN 345]

1804 WoO 73 Bureau de Musique, Hofmeister & Kühnel[VN 346]

1804 WoO 64 Bureau de Musique de Hofmeister et Kühnel[VN 366]

1805 Op.7 Bureau de Musique[VN 394]

1805.07. )Op.65* [VN 410]     Ah perfido 1805 WoO 8 Hofmeister & Kühnel[VN 433])Pf*

1805-06 WoO 7 Hofmeister & Kühnel[VN 434,445])Pf*

1806 WoO 121      Kühnel[VN 454]

1806-12 Op.52 Bureau de Musique[VN 454/460/581/984]

1806 Op.32 Bureau de Musique[VN 460]

1806 WoO 123/124     Kühnel[VN 460]

1806 Op.8 [Polacca]Bureau de Musique[VN 473])4H* 1806 Op.31 Bureau de Musique[VN 495])als Op.33* 1806 Op.66 Kühnel, Bureau de Musique[VN 497]

1807 Op.55 Kühnel[VN 520])4H*

1808 Op.2 Bureau de Musique[VN 623, 646, 663]

1808 Op.56 [3.Satz]Bureau de Musique de Kühnel[VN 634])4H=Müller*

1809 Op.68 Kühnel[VN 751])Pf+Vn/Fl*

1810 WoO 68 Bureau de Musique[VN 791]

um1810 WoO 72 Bureau de Musique de Kühnel[VN ?]

WhI WoO 77 Bureau de Musique de Kühnel[VN ?]

1810 Op.1 Bureau de Musique[VN 825]

1810 Op.6 Bureau de Musique[VN 827]

1810 Op.49 Bureau de Musique[VN 830]

1810 Op.23 Bureau de Musique[VN 834]

1810 Op.24 Bureau de Musique[VN 835]

1810 Op.12 Bureau de Musique[VN 837]

Anf 1812 Op.11 Bureau de Musique[VN 939]

1812 Op.45 Kühnel[VN 1032] aus Zulehner übernommen 1813 Op.21 Kühnel[VN 1033=Zulehner])4H*

1812 Op.51-1 Bureau de Musique[VN 1034] aus Zulehner übernommen 1812 Op.30 Bureau de Musique[VN 1043-45]

1812 Op.57 Kühnel[VN 1036] ȨAus einem anderen Verlag übernommenȩ

(21)

BAI = Bureau des Arts et d㩾Industrie [表5]

欠落Op.番号1819に穴埋め

1802.05. Op.14-1 Pf-SonのQua自編曲 BAI[VN 17]

1802.08. Op.28 Pf-Son.15 BAI[VN 28]

1802.12. Op.29 St-Qui Breitkopf & Härtel 1803.05+06. Op.30 3Vn-Son. BAI[VN 65/80/84]

1819 )Op.31* Pf-Son.16-18 Nägeli)1803.04.+1804.05/06.*[Op. ] 1819 )Op.32* An die Hoffnung BAI [VN 502])1805.09.*[No.32]

1803.05. Op.33 Pf-Bagatell BAI[VN 171]

1803.04 Op.34 Pf-Var. Breitkopf & Härtel 1803.08 Op.35 Pf-Var. Breitkopf & Härtel 1804.03. Op.36 Sy.2 BAI[VN 305]

1804.夏 Op.37 Pf-Conc.3 BAI[VN 289]

1805.01. Op.38 SeptetのTrio自編曲 BAI[VN 203]

1803.12. Op.39 Pf/Org-Praeludien Hoffmeister & Kühnel 1803.12. Op.40 Vn-Romanze Hoffmeister & Kühnel 1803.12. Op.41 Op.25/Pf+Fl他編曲 Hoffmeister & Kühnel 1804.01. Op.42 Op.8/Pf+Va他編曲 Hoffmeister & Kühnel

1804.01. )Op.43* Prometheus[Pf編曲] Hoffmeister & Kühnel 初版Artaria)1801*Op.24 1804.01. Op.44 Pf-Trio-Var. Hoffmeister & Kühnel

1804.03. Op.45 Pf4H-3Märche BAI[VN 358]

1804.03. WoO 78 Pf-Var.God save King BAI[VN 380][No.25]  

]

WZ: 1804.03.10.

1804.03.? WoO 129 Lied BAI[VN 381]

1804.06. WoO 79 Pf-Var.Rule Britannia BAI[VN 406][No.26]

1819 )Op.46* Adelaide Artaria)1797*[o O]

1805.04. Op.47 Vn-Son.9 Simrock in Bonn & Paris 1819 )Op.48* Gellert-Lieder Artaria)1803*[o O]

1805.01. Op.49 Pf-Son.19&20 BAI[VN 399]     WZ:1805.01.19.+23.+30.

1805.05. Op.50 Vn-Romanze BAI[VN 407]

1805.01. WoO 74 Lied/Pf4H-Var BAI[VN 398]     WZ:1805.01.23.

1805.01. WoO 82 Pf-Menuett BAI[VN 409]

1805.01. WoO 55 Pf-Prelude BAI[VN 429]     

]

WZ:1805.01.30 1805.09. WoO 57 Pf-Andante BAI[VN 506]

1819 )Op.51-1*Pf-Rondo Artaria)1797*[o O]

1819 )Op.51-2*Pf-Rondo Artaria)1802*[o O]

1806.04. Op.52 Acht Lieder BAI[VN 408]

1805.05. Op.53 Pf-Son.21 BAI[VN 449]

1806.04. Op.54 Pf-Son.22 BAI[VN 507]

1806.10. Op.55 Sy.3 BAI[VN 512]

1807.06/07. Op.56 Triple-Conc. BAI[VN 519]

1807.02. Op.57 Pf-Son.23 BAI[VN 521]  

1807.04. Op.55   Sy.3)Pf-Qua* BAI[VN 541]     

]

WZ: 1807.04.20.

1807.04. WoO 80 Pf-Var)c-moll*[No.36] BAI[VN 545]

1808.01. Op.59 St-Qua.7-9 BAI[VN 580/584/585]

1808.01. Op.62 Coriolan-Ouv. BAI[VN 589]     

]

WZ: 1808.01.09.

(22)

1808 Op.60 Sy.4 BAI[VN 596]

1808.08. Op.58 Pf-Conc.4 BAI[VN 592]

1808.08. Op.61 Vn-Conc. BAI[VN 583]     

]

WZ: 1808.08.10.

1808.08. Op.61 Vn-Conc.[Pf-Conc.] BAI[VN 583]

Simrock        細字 = OA 太字 = ND [表6]

ボン時代の作品 2点  1793 WoO 66 [VN 3]   1794.08-09. WoO 67[VN 15]

ヴィーン時代Ⅰ)1797-1810* 64点)OA4点/ND60点[うち初版刊行後2年以内50点])

間隔年数 OA年月 OA出版社

1797 WoO 69 [VN 32] 2 1795.12. Traeg 1797 WoO 70 [VN 33] 1 1796.03. Traeg 1797 WoO 68 [VN 35] 1 1796.02. Artaria 1797 Op.1 [VN 37] 2 1795.07. Artaria 1798 WoO 71 [VN 55] 1 1797.04. Artaria

1798 Op.6 [VN 56] 1 1797.10. Artaria

1798 Op.51-1 [VN 57] 1 1797.10. Artaria 1798 Op.2 [VN 75] 2 1796.03. Artaria

um1798 WoO 64  [VN 78]

1800 Op.13 [VN 111] 1 1799秋 Eder 1800 Op.14 [VN 123] 1 1799.12. Mollo 1800 WoO 75 [VN 128] 1 1799.12. Mollo 1800.01 Op.12 [VN 133] 1 1798.12./99.01.Artaria 1801 WoO 76 [VN 135] 2 1799.12. Eder 1801 Op.11 [VN 136] 3 1798.11. Mollo 1801 Op.10 [VN 150] 3 1798.09. Eder 1801/2 Op.17)auch mit Vn/Va/Vc*[VN 159]

 

1 1801.03. Mollo 1802 Op.16)Pf-Qui/Pf-Qua*[VN 161] 1 1801.03. Mollo 1802 Op.16 [VN 161] 1 1801.03. Mollo 1802 Op.14-1)St-Qua* Bonn/Paris [VN 242]

 

0 1802.05. BAI

1802 Op.20)Pf/5 Var.*[VN 156] 0 1802.06/07.Hoffmeister/L:H&K 1802 Op.18 [VN 177] 1 1801.06.+10.Mollo/Leipzig/Frankfurt 1802 Op.15 [VN 187] 1 1801.03. Mollo

1802 Op.8 [VN 198] 5 1797.10. Artaria

1802 Op.26 [VN 225] 0 1802.03. Cappi 1802 Op.23 [VN 226] 1 1801.10. Mollo 1802 Op.24 [VN 226] 0 1802春 Mollo 1802 Op.27-2 [VN 227] 0 1802.03. Cappi 1802 Op.25 [VN 228] 0 1802春 Cappi 1802 Op.27-1 [VN 233] 0 1802.03. Cappi 1802 Op.46)mit Gitarre*[VN 235] 5 1797.02. Artaria 1802 Op.28 [VN 240] 0 1802.08. BAI

1803 Op.30 [VN 339] 0 1803.05.+06. BAI/Lon.:Dale 1803 WoO 40 [VN 344] 10 1793.07. Artaria 1803 Op.31 [VN 345] 0 1803.04.+04.05/06.Nägeli

*)版下をRiesが1803.08.06.に送る*         1803 WoO 14)Pf** [VN 348] 1 1802.04. Mollo 1803 Op.48 [VN 368] 0 1803.08. Artaria

(23)

1803 WoO 15)Pf** [VN 369] 1 1802.09. Artaria 1803末 Op.88 [VN 370] 0 1803.10. Löschenkohl 1803/4 Op.21)St-Qui* [VN 371] 2 1801.12. W:H/ L:BM 1803 Op.46 [VN 373] 6 1797.02. Artaria 1804 WoO 45 [VN 384] 6 1797夏/秋 Artaria

um 1804 WoO 72 [VN 50] 6 1798.11. Traeg

1804 WoO 78 [VN 380] 0 1804.03. BAI 1804 WoO 79 [VN 241] 0 1804.06. BAI

um 1805 WoO 74 [VN 34] 3 1802.09. Artaria

1805? Op.49 [VN 69] 0 1805.01. BAI 1805.04. Op.47 Bonn/Paris [VN 422]

1805 Op.53 [VN 405] 0 1805.05. BAI 1805 WoO 57 [VN 430] 0 1805.09. BAI 1806 Op.52 [VN 460] 1 1805.06. BAI 1806 Op.9)Pf-Trio=Ries*als Op.61[VN 501] 8 1798.07. Traeg 1806-07 Op.87)2Ob/Cl+Fg*)o O*[VN 503] 0 1806.04. Artaria 1806-07 Op.87)2Vn+Vc*)o O* [VN 505] 0 1806.04. Artaria 1807 Op.36)St-Qui mit Kb=Ries*[VN 519] 3 1804.04. BAI 1808 Op.62 [VN 538] 0 1808.01 W:BAI/P:S.

1807 Op.4 [VN 543] 11 1796春 Artaria 1807 Op.32 [VN 544] 2 1805.09. BAI 1807 WoO 65 [VN 547] 5 1802 Traeg 1807 Op.2[Adagio aus I])Gesang+Pf*[VN 545] 11 1796.03. Artaria 1807 Op.57 [VN 567] 0 1807.06/07.BAI c1808 Op.54[VN 567])laut Dorfmüller!* 2 1806.04. BAI 1807 WoO 80 [VN 58] 0 1807.04. BAI 1808初 WoO 41 [VN 581] 14 [1794?作]

1808 WoO 127/126/117 [VN 578]

1808 Op.59 [VN 591] 0 1808.01. W:BAI/P: S 1808 WoO 55 [VN 592] 3 1805.01. W:BAI 1808 Op.8[Polacca])4H*[VN 643] 11 1797.10. Artaria 1809 Op.34 [VN 648] 6 1803.04. B & H 1810 WoO 134 [VN 694] 2 1808.05. Beilage 1810春/前半Op.81b [VN 706])als Op.81*

1810 Op.81b [VN 706])St-Qui*)als Op.83* 1810 Op.81b [VN 723])Pf+Trio*)als Op.83*

Breitkopf & Härtel [表7]

1802.12. Op.29 [VN 94]   

1803 Op.29)4H/A.E.Müller* [VN 110]

1803.04. Op.34 [VN 137]

1803.08. Op.35 [VN 167]

1809.04. Op.67 [VN 1329]

1809.05. Op.68 [VN 1337]

1809.04. Op.69 [VN 1328]

1809.06-08. Op.70 [VN 1339-40][OZ handschriftlich]

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