• 検索結果がありません。

195高島平

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "195高島平"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

179板橋区 高島平・赤塚 この地域は中世の交通の要所だったところで、鎌倉街道が荒川の早瀬ノ渡しから赤塚 城下を丘陵に沿って南下し、杉並の大宮八幡を経て鎌倉へ向かった古道筋である。 この古道は、永禄四年の越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)による小田原城の北条攻 めの道とも伝えられている。 赤塚城跡から見下ろせる、街道が横切る不動の瀧のあたりには雑木林が茂り、武蔵野 の古道筋の面影を残している。 高島平の射撃訓練場 天保十二年(1841)、徳丸ヶ原でわが国初の洋式火砲訓練を行った高島秋帆にちな んでこの地名「高島平」はつけられた。 昭和四十年には、日本住宅公団が板橋土地区画整理計画を実施、徳丸田んぼは高層住 宅団地の広がる市街地へと生まれ変わった。 高島秋帆の洋式訓練 天保十二年(1841)に長崎の町名主で洋学者でもあった高島秋帆は、洋式の大砲 を弟子に引かせて江戸に入り、ここ赤塚の地へ進み、松月院を本陣として、眼下に広がる 徳丸ヶ原(高島平一帯)で、幕閣・諸大名の見守る中、実弾射撃を行い、洋式訓練をここ ろみ、並み居る見学者を驚かせ感服させた。 高島秋帆は、長崎の人である。町年寄と鉄砲方を兼ねる家に生まれ、長崎に渡来する オランダ人から西洋砲術を学んだ。また私財を投じて鉄砲を買い、門人三百人に洋式訓練 を施したりもした。 そんな秋帆が日本に迫り来る危機を強く感じたのは、中国船によって長崎にもたらさ れた、アヘン戦争に関する情報を得てからだ。 産業革命により資本主義を確立したイギリスは、市場獲得を目指して清朝中国に襲い かかり、1840年から二年に及ぶ戦争のすえ、これを打ち負かした。これがアヘン戦争 である。その結果、結ばれた南京条約により、中国は香港を奪われ、上海・福州・アモイ・ 広州の五港を貿易港として開かされる。さらには貿易の主導権もイギリスに奪われ、最恵 国約款や領事裁判権なども規定されて行く。 上海から長崎までは、三日間の航海と言われた時代である。秋帆はやがて同様のこと

(2)

が日本でも起こりかねないと、強い危機感を抱くに至る。そこで天保十一年、長崎奉行に 洋式砲術採用を訴える上書を提出し、やがてこれが幕府の目に止まる事になった。 秋帆の意見に注目した幕府は、秋帆を江戸に呼び寄せた。翌十二年、秋帆は門弟百余 名を率い、大砲四門・小銃五十挺などを携えて江戸へ出る。そして五月、武蔵国徳丸ヶ原 において洋式砲術調練を実演して見せたのである。 この調練は見るものを感嘆させた。また秋帆は、幕臣の江川太郎佐衛門や下曽根金三 郎らに西洋砲術を伝授する。しかし秋帆の名声が高まるにつれ、幕府内にはそれをねたむ ものが出てきた。そしてついには長崎貿易に不正の取り扱いがあったとの疑いを秋帆にか け、獄に投じてしまう。その後、秋帆は十数年もの長きにわたり獄中生活を強いられるこ とになった。 徳 丸 ヶ 原 の 松 月 院 (板橋区赤塚八丁名)は、 訓練の際秋帆が本陣とし た寺だ。今も当時のまま の本堂が残り、砲弾や調 練図などの史料も保存さ れている。また境内には 秋 帆 の 調 練 を 記 念 し た 「火技中興洋兵開祖」の 碑が建てられている(右)。 天に向って真っすぐに立 つ大砲に、火を吹く砲弾 を添えた、ユニークは形の碑だ。 なお、秋帆は嘉永六年、アメリカのペリー艦隊来航後に許され、幕府に雇われて講武所 砲術師範役・武具奉行格として後進の指導と武備の充実に貢献し、慶応二年、小石川指ヶ 原町において六十九歳で他界した。墓は大円寺(文京区向丘一丁目)にある。国の史跡に 指定されているが、関東大震災と戦災の被害を受けて傷つき、残念ながら刻まれた文字も ほとんど読むことが出来ない。また大円寺本堂前には明治十八年に建てられた、秋帆の顕 彰碑もある。大円寺を一度訪問したことがあるが、秋帆の墓は、広い墓地の中で探しだす のに苦労した。(022 文京区白山の項ご参照) 時は流れて平成十四年、高島流鉄砲隊が板橋区立郷土資料館の呼びかけにより結成さ れた。職業も年齢もさまざまな隊員約三十人が週に一度、三時間の稽古を行い、各種行事 で実演しているという。 高島秋帆顕彰碑・「火技中興洋兵開祖」(松月院本堂前、 板橋区赤塚8-4-9)天空に向けられた大砲をかたど った異形の記念碑である。

(3)

幕末の軍備 嘉永六年(1853)のペリー来航以後も非常時になると、弓組などの徒士たちに改 めて銃隊訓練を実施したため、江戸市中各所に角場(射撃訓練場)が増設された。江戸初 期の鉄砲隊は「銃声公害」を考慮して郊外に配置されていたが、この時期には八丁堀(中 央区)にさえ作られた。訓練と共に銃砲・弾薬の製造も始め、同年八月に湯島・桜の馬場 (文京区湯島、東京医科歯科大学の敷地)に鋳砲場が創設された。 さらに安政元年(1854)には、品川沖に黒船対策用の砲台、御台場が突貫作業で 五ヶ所築造された。現在その名残は、臨海副都心の一部になった第三台場だけだが、「御台 場海浜公園」「台場駅」など「台場」をつけた施設が十ヶ所近くある。翌二年、台場対岸に ある大川河口左岸埋立地の越中島も調練場となり、明治三十年代まで陸軍の演習による銃 砲声が絶えなかった。 文久二年(1862)には、関口水道町(文京区関口)に大砲錐入場、つまり神田上 水より神田川の底をもぐる樋を使って南岸の工場に水を引いて水車を回し、孔ぐり旋盤の 動力にして大砲を製造する工場を開いた。 桜の馬場の工場は、慶応元年(1865)に石神井川の水力を利用するため、滝野川 に移転して大砲製造所と改称。以後、太平洋戦争敗戦まで、北区と板橋区の境とJR赤羽 線沿線は陸軍の巨大工場地帯になった。現在、この辺りの学校群・住宅団地群の大半はそ の跡地である。 武蔵千葉氏の拠点「赤塚城」 前項の「志村」で述べた「赤塚城」 である。千葉自胤の居城となっていた。 西高島平駅出口から歩道橋を渡っ て赤塚公園通りへ。高島平五丁目の信 号で右折れし、三園橋陸橋を渡る。首 都高速五号線にそって南へ進むと板橋 区郷土資料館のある赤塚溜池公園が右 手に見える。 資料館裏手の小山が赤塚城址。室 町期の康正二年、下総の国府台城(千 葉市・市川)を古河公房足利成氏に攻められ、武蔵へ敗走した千葉自胤が太田道灌に援け られて築城した中世の代表的な平山城。 その後、戦国時代には千葉氏は小田原北条氏に属するが、天正十八年の豊臣秀吉の小

(4)

田原攻めによってこの城も落城し、武 蔵千葉氏は滅亡する。 山上の本丸跡から南の梅林を抜 けて出口で左折。坂を下って、道なり に進むと、道の左側に、V字に折り返 すようにして上る坂が現れる。坂を上 って右折れ。コンクリート塀にそって 進んでいくと、坂の途中に乗蓮寺の入 り口がある。この寺が赤塚城の二の丸跡という。 天正十九年、乗蓮寺に徳川家康が十石の朱印地を寄進。その後、将軍家鷹狩の時の御 膳所となった格式ある御朱印寺で、元は板橋の仲宿に あった。なお、境内には日本三大仏の一つ、東京大仏 が鎮座する。 東京大仏前の通りに出る。道の東側には赤塚不動 の滝がある。この道は旧鎌倉街道で、江戸時代になる と、山岳信仰による相模国大山の阿夫利(雨降り)神 社へ雨乞いに詣でる人々の大山道となり、滝は信者が 心身を清める水垢離場としてにぎわった。滝の名は、 滝の上に二体の不動尊が祀られていることによる。 不動の滝を過ぎて、南へ進むと左手に先述の松月 院がある。「松月院」は江戸期には徳川家康に四十石 の朱印地を寄進され、御朱印寺の格式を得ている。朱印地とは、将軍の朱印状によって年 貢などを免除された土地のこと。 松月院にある千葉自胤(よりたね)の墓 享徳・康正のころ、鎌倉幕府管領上杉氏と古河公方足利市の争乱は関東を二分し、名 族・千葉氏も一族が双方に分属し、骨肉相喰む争いの結果、康正二年(1456)、自胤方は戦い 敗れ千葉県の市川から傷心の身を上杉方の柱石・太田道灌に譲られてこの地の 赤塚城 に移 り、勢力を挽回して南部の大豪族になった。 自胤はその奥方が先に亡くなり当地にあった寺に埋葬した。それでその寺を菩提寺と 定め、寺領を寄進し、寺号を松月院と改め曹洞宗に改宗させ、自ら中興開基となる。三基 赤塚城本丸跡 乗蓮寺の東京大仏

(5)

ある墓碑のうち、右が自胤 (一説には自秀ともいう)、 中が奥方龍興院殿、左の宝 篋印塔(ほうきょういんと う)が比丘尼了雲、区内最 古の墓である。 松月院から西高島平 駅までは一・七キロほど。 この松月院に高島秋帆は 本陣をおき、射撃訓練の本 部にしたのである(先述)。 駅の真北には、幕府の射撃演習場だった徳丸ヶ原で、高島平七丁目には、小さな「徳丸ヶ 原公園」が残っている。 諏訪神社と北野神社 二つの神社は距離的にはだいぶ離れていて、赤塚城を中心に見れば、前者が北方、後 者が東南方に位置する。 諏訪神社(大門1-1)は、室町期の長禄年間、赤塚城主千葉自胤が城の鬼門除けと して、信濃国諏訪大社を勧請したのに始まる古社。 毎年厳冬の二 月十二日の夜に奉 納される平安・鎌倉 時代に盛んになっ た「田楽舞」に由来 する「田遊び」の行 事は有名。「田遊び」 とは年の初めに田 の神を迎えて、五穀 豊穣と子孫繁栄を 祈る、水田耕作にか かわる民俗行事で、 一年の農耕のしぐ さが面白おかしく演じられる。 男女両性を象徴する「よろば」と「あやめ」の原始的な抱擁の踊りは、子授けと豊作 諏訪神社「田遊び」「天狗御鉾の舞」

(6)

を結び付けて神に祈るもの。最後はたき火をたき、大太鼓を打って終わる。 一方の「北野神社」(徳丸6-34-3)は、平安中期の長徳元年、京都の北野神社を 勧請したのに始まる旧徳丸本村の鎮守。 この社も、諏訪神社と同じ「田遊び」の行事が、毎年二月十一日の夜、奉納される。 これは、山の神は春先になると山から里に下り、秋になると再び山に帰る。つまり「田の 神」は本来は「山の神」であるという民間信仰だが、これは春には山の雪が溶けて流れ、 里の田を潤し、稲を育てる水になるということによる。 おわり 北野神社「田遊び」の「胴上げ」 次 項 へ

参照

関連したドキュメント

この条約において領有権が不明確 になってしまったのは、北海道の北

はありますが、これまでの 40 人から 35

海なし県なので海の仕事についてよく知らなかったけど、この体験を通して海で楽しむ人のかげで、海を

出す タンクを水平より上に傾けている 本体を垂直に立ててから電源を切 り、汚水がタンクの MAX 印を超え

本資料の貿易額は、宮城県に所在する税関官署の管轄区域に蔵置された輸出入貨物の通関額を集計したものです。したがって、宮城県で生産・消費

本資料の貿易額は、宮城県に所在する税関官署の管轄区域に蔵置された輸出入貨物の通関額を集計したものです。したがって、宮城県で生産・消費

本資料の貿易額は、宮城県に所在する税関官署の管轄区域に蔵置された輸出入貨物の通関額を集計したものです。したがって、宮城県で生産・消費

本資料の貿易額は、宮城県に所在する税関官署の管轄区域に蔵置された輸出入貨物の通関額を集計したものです。したがって、宮城県で生産・消費