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〈参考:西室の柱配置復原模式図 *〉 図 7 中室の柱配置復原模式図

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(1)

平 城 第559次 調 査 記 者 発 表 資 料 2015年12月18日

興 福 寺 中 室 ・ 経 蔵 ・ 鐘 楼 の 発 掘 調 査

法 相 宗 大 本 山 興 福 寺 独 立 行 政 法 人 国 立 文 化 財 機 構 奈 良 文 化 財 研 究 所 都 城 発 掘 調 査 部

調 査 地 : 奈 良 市 登 大 路 町

調 査 期 間 :2015年10月2日 ~ ( 継 続 中 )

調 査 面 積 :835.5㎡ ( 中 室202㎡ +148.5㎡ 、 経 蔵406㎡ 、 鐘 楼54㎡ +25㎡ )

現 地 見 学 会 を 開 催 し ま す 。

2015年12月20日 ( 日 ) 11:00~ 15:00 ※ 小 雨 決 行 説 明 は 、 11:30、 13:00の2回 お こ な う 予 定 で す 。

― ― 概 要 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

○ 興 福 寺 中 室

な か む ろ

・ 経 蔵

きょうぞう

・ 鐘 楼

しょうろう

の 礎 石 や 基 壇 外 装 を 検 出 し ま し た 。 中 室 ・ 経 蔵 で は 、 創 建 当 初 の 建 物 規 模 を 確 認 し 、 再 建 の 際 に は そ の 位 置 や 規 模 を 踏 襲 し て い る こ と が わ か り ま し た 。 ま た 中 室 は 、 西 室

に し む ろ

と 建 物 規 模 は ほ ぼ 同 一 で 、 柱 配 置 は 異 な る こ と が わ か り ま し た 。

○ 経 蔵 ・ 鐘 楼 の 周 辺 で は 石 組 溝 や 玉 石 敷 が 見 つ か り 、 伽 藍 中 枢 部 に お け る 建 物 周 辺 の 様 相 に つ い て 、 新 た な 知 見 を 得 る こ と が で き ま し た 。

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

1 . 調 査 の 経 緯 と 目 的

興 福 寺 は 、 藤 原 不

が 奈 良 時 代 は じ め (8 世 紀 前 半 ) に 、 平 城 京 の 外 京 で あ る 左 京 三 条 七 坊 の 地 に 建 立 し た 藤 原 氏 の 氏 寺 で す 。 か つ て は 中 金 堂 院 を 中 心 と す る 大 伽 藍 を 誇 り ま し た が 、 た び 重 な る 火 災 に 遭 い 、 再 建 が 繰 り 返 さ れ て き ま し た 。

現 在 、 興 福 寺 で は 「 興 福 寺 境 内 整 備 基 本 構 想 」(1998年 ) に 基 づ き 、 寺 観 の 復 元 ・ 整 備 を 進 め て い ま す 。 こ れ に と も な い 、 奈 良 文 化 財 研 究 所 で は 1998 年 以 来 、 中 金 堂 院 や 南 大 門 な ど の 発 掘 調 査 を 継 続 し て お こ な っ て き ま し た 。 今 回 の 調 査 も そ の 一 環 で す 。 調 査 は 2015年10月2日 よ り 開 始 し 、現 在 も 継 続 中 で す 。中 室 は 、規 模 を 確 認 す る た め 南 端 と 北 端 を 、 経 蔵 は 、 全 容 を 明 ら か に す る た め 全 体 を 、 鐘 楼 は 、 規 模 を 確 認 す る た め 西 北 部 と 東 南 部 を 、そ れ ぞ れ 調 査 し て い ま す 。調 査 面 積 は 計835.5㎡ 、う ち29.5㎡ は 既 調 査 区 と の 重 複 部 分 で す 。

2 . 興 福 寺 中 室 ( 東 僧 房 ) ・ 経 蔵 ・ 鐘 楼 の 概 要

僧 房 と は 、 僧 侶 が 生 活 す る 建 物 で す 。 細 長 い 建 物 の 内 部 を 仕 切 っ て 多 く の 小 部 屋 を 造 り ま す 。 興 福 寺 は 中 金 堂 と 講 堂 の 東 ・ 西 ・ 北 を コ の 字 型 に 取 り 囲 む 三 面 僧 房 を 有 し て お り 、 東 僧 房 は 「 中 室 」 と 呼 ば れ ま し た 。 経 蔵 と は 、 お 経 を 収 蔵 す る 建 物 、 鐘 楼 と は 、 鐘 を つ り 下げて鳴ら す た め の 建 物 で す 。 興 福 寺 で は 、 中 金 堂 の 北 東 に 経 蔵 、 北 西 に 鐘 楼 が 建 て ら れ ま し た 。

中 室 ・ 経 蔵 ・ 鐘 楼 の 建 立 年 代 は 明 ら か で は あ り ませ んが 、諸資 料 か ら 、 中 金 堂 と そ の 周 辺 の 建 物 と 同 じ720年 代 と考 えら れ ま す 。中 室・経 蔵・鐘 楼 は 、建 立 以後8度ほ ど 火 災 に 遭 い ま し た ( 表 1 )。最 後の焼 失は享 保 2 年 (1717) の こ と で 、 以後再 建 さ れ る こ と な く 現 在 に至っ て い ま す 。

調 査 前 、 経 蔵 と 鐘 楼 は 基 壇状の高ま り を残し て お り 、 地 表 に 礎 石 の上面 が露出 し て い ま し た 。 中 室 の 北 半 で も 同 様 に 、 礎 石 の上面 が 地 表 に露出 し て い ま し た 。

3.主な 検 出遺構

( 1 ) 中 室

礎 石 と 柱 配 置 礎 石 お よ び そ の据 付 穴や抜取穴を 確 認 し ま し た 。 礎 石 は 長径 1m前後で 、 柱座な ど の 造 り 出 し は あ り ませ ん。桁

け た

ゆ き

( 南 北 ) の各柱 間 に は 、 長径 約 50 ㎝の 小 型 の 礎 石 を 2基ずつ 配 置 し て い ま す 。 ま た 南 面 で は 、各柱 間 に 長径45~50㎝の 小 型 の 石 を3基 ずつ 配 置 し て お り 、 こ の上に壁を受け る木 製の 部材( 地覆

) を 置 い た と考 えら れ ま す 。残 存す る 礎 石 は 、 ほ とんど が 創 建 当 初 の 位 置 を保っ て い ま す 。 今 回 の 調 査 で は 、 中 室 の う ち 北 端 の桁行 ( 南 北 )1間×梁

は り

ゆ き

( 東 西 )3間 分 、 お よ び 南 端 の桁行 1間×梁行3間 分 を 検 出 し ま し た 。

基 壇 基 壇 は 、固い礫 層の 地 山 を削り 出 し て 造 ら れ て お り 、 一 部 で は そ の上に 積み 土を 確 認 し ま し た 。基 壇 の 規 模 は 、南 北 が約66.7m(226尺)で 、東 西 は 調 査 区 外 に延び る た め 不 明 で す 。 基 壇 外 装 は 、 地覆

い し

と羽目

い し

を 確 認 し ま し た 。 いずれ も凝 灰 岩 製で す 。 こ れ ら か ら 復 元 さ れ る 柱 配 置 は 、図 7の よ う に な り ま す 。 こ れ は『興 福 寺流記

』に 記 さ れ て い る寸法 と は 異 な り ま す 。 ま た 西 室 の 発 掘 調 査 (2013・2014 年度) の成 果と 比べる と 、 建 物 の 規 模 は ほ ぼ 同 じ で す が 、 柱 配 置 は 異 な り ま す 。

南 北 溝 中 室 の 西 辺 に沿っ て 北流す る 石 組 溝 。幅 約 65 ㎝、深さ約 35 ㎝。側石 に 長径 約 80㎝の自 然石 を用い て い ま す 。中 室 北 端・経 蔵・中 室 南 端 の3つ の 調 査 区 に ま た が っ て 検 出 し 、こ れ ま で の 調 査 も合わせる と 、総 延長 は約70mに な り ま す 。側石 の 様 相 か ら 、中 世 に築造 さ れ た可 能 性が あ り 、埋 土に含ま れ る遺物 の 年 代 か ら 、 明治時 代 に入っ て廃 絶し た と考 えら れ ま す 。江 戸時 代 の絵 図に は 、 中 室 の 北 端 で 西 に折れ 、 北 僧 房 の 南 端 に沿っ て 西 流す る 溝 の 様子が描か れ て お り 、 興 福 寺 境 内 の 基幹 排 水路 の 一 つ とみら れ ま す 。 中 室 と併 存し て い る 期 間 は 、 そ の 西 面 の雨 落溝 と し て も 機能し て い た可 能 性が あ り ま す 。

東 西 溝 1 中 室 の 北 で 検 出 し た 東 西方 向の 石 組 溝 。幅40㎝以上、深さ約10㎝で 、約6m 分 を 検 出 し ま し た 。側石 と底石 に は 玉 石 を用い て い ま す 。 北 室

き た む ろ

の 南雨 落溝 (古代 ) と考 え ら れ ま す 。

1

(2)

( 2 ) 経 蔵

礎 石 と 柱 配 置 経 蔵 は 、桁行3間 (約10.1m、34尺)×梁行2間 (約6.5m、22尺) の 南 北棟建 物 で す 。桁行 ・梁行 の 全 長 は『興 福 寺流記』の 記載と合 致し ま す 。 柱 配 置 は 、図 8の と お り で す 。 礎 石 11 基 の ほ か 、 礎 石 の据 付 穴や抜取穴を 確 認 し ま し た 。 礎 石 は 長径 1.0~1.6mで 、 柱座な ど の 造 り 出 し は あ り ませ ん。残 存す る 礎 石 は 、 一 部動か さ れ て い る も の も あ り ま す が 、 多 く が 創 建 当 初 の 位 置 を保っ て い ま す 。

基 壇 現存す る 基 壇 の 規 模 は 、 南 北約15m、 東 西約11m、高さ約 75㎝で す 。 基 壇 は 、 固い礫 層の 地 山 を削り 出 し た上に土を 積んで お り 、 再 建 の 際 に は補 修さ れ て い ま す 。版 築 は 確 認 し て い ませ ん。 基 壇 外 装 は 、 創 建 当 初 の も の は 確 認 し て い ませ ん。 南 西隅で は 、 室 町 時 代 以降に据 え 付け ら れ た とみら れ る羽目 石 の 一 部 が残っ て い ま し た 。 し か し 、 こ れ も 近代 に は ほ とんど が抜き 取 ら れ て い ま す 。 ま た 、雨 落溝 も未確 認 で す 。 基 壇 の 東 面 で は 、 階 段の跡の可 能 性が あ る高ま り (近世 ) を 確 認 し ま し た 。高さ は約 20 ㎝、幅( 東 西 ) は 約1.1m、長 さ( 南 北 )は約4.2mで す 。他に 、基 壇 の 周 囲 で 建設時 の足 場とみら れ る 小穴 列が 見 つ か っ て い ま す 。

瓦 溜 基 壇 の 東 面 に沿っ て 、幅( 東 西 )約2m、長 さ( 南 北 )約12mの範囲 に帯 状に広 が り ま す 。瓦の 年 代 は近世 が主体 で 、享 保2年(1717)の 火 災後の片 付け に と も な っ て廃 棄さ れ た も の と考 えら れ ま す 。

東 西 溝 2 経 蔵 の 北 を 東 西 に走る 石 組 溝 。側石・底石 に 玉 石 を用い て い ま す 。幅 約50㎝、

深さ約10㎝で 、 長 さ約19m分 を 検 出 し ま し た 。 東 は 中 室 西 辺 の 南 北 溝 ( 前述) に壊さ れ て お り 、西 は さ ら に 調 査 区 外 に延び ま す 。鐘 楼 の 北 で も 、ほ ぼ 同 じ 位 置 で 同 様 の 石 組 溝( 東 西 溝3) が 見 つ か っ て い ま す 。 こ れ ら は 、 創 建 期 に遡る可 能 性が あ り 、 講 堂 周 辺 の排 水溝 と考 えら れ ま す 。

玉 石 敷 1 東 西 溝 2 の 北 で 検 出 し た 東 西方 向の 玉 石 敷 。拳大 の 玉 石 を 敷 き詰め て お り 、 南 側に 見 切 り の 石 を な らべて い ま す 。幅は1.3m以上で 、 長 さ約19m分 を 検 出 し ま し た 。 鐘 楼 の 北 で も 、 ほ ぼ 同 じ 位 置 で 玉 石 敷3を 検 出 し て い ま す 。

玉 石 敷 2 経 蔵 の 西 で 検 出 し た 南 北方 向の 玉 石 敷 。拳大 の 玉 石 を 敷 き詰め て い ま す 。幅は 約 2mで 、 東 西両 側に 見 切 り の 石 を な らべて い ま す 。 長 さ約 9m分 を 検 出 し ま し た 。 東 西 溝 2 を挟 んで そ の 北 に も延び 、玉 石 敷 1 に接続 し ま す 。2000年度の 調 査 で は 、南延長 部 に あ た る 位 置 で 玉 石 敷 を 確 認 し て お り 、総 延長 は約28mに な り ま す 。

(3) 鐘 楼

調 査 区 は 西 北 部 と 東 南 部 の2ヵ所 に設 定し ま し た 。以 下 で は 、西 北 部 の遺構 に つ い て 記 し ま す 。 東 南 部 に つ い て は 調 査 中 で す 。

礎 石 と 柱 配 置 礎 石 は 、 西 北隅の 1基 を 確 認 し ま し た 。 長径 約 1.3mで 、 柱座な ど の 造 り 出 し は あ り ませ ん。 な お 、 地 表 に露出 し て い る 礎 石 の測 量 成 果に よ る と 、 鐘 楼 は 、桁行 3 間×梁行2間 の 南 北棟建 物 で 、桁行 全 長約10m(34尺)、梁行 全 長約7.1m(24尺)と推 測さ れ ま す 。

基 壇 基 壇 の 規 模 は 、 西 北 部 の 調 査 のみで は 明 確 で は あ り ませ んが 、 東 西 12m、 南 北 14.5mほ ど で す 。現存す る 基 壇 の高さ は 、35~40㎝で す 。基 壇 は 、固い礫 層の 地 山 を削り 出 し て 造 ら れ て お り 、裾の 一 部 で 積み 土を 確 認 し ま し た 。 こ の他、 基 壇 外 装 の 一 部 とみら

れ る 石材(凝 灰 岩) が残っ て い ま し た 。 ま た 、 基 壇 の 周 囲 で 建設時 の足 場とみら れ る 小穴 が 見 つ か っ て い ま す 。

東 西 溝 3 鐘 楼 の 北 を 東 西 に走る 石 組 溝 。側石・底石 に 玉 石 を用い て い ま す 。幅 約50㎝、

深さ約10㎝で 、長 さ約8m分 を 検 出 し ま し た 。東 西 は さ ら に 調 査 区 外 に延び ま す 。経 蔵 の 北 で も 、 ほ ぼ 同 じ 位 置 で 同 様 の 石 組 溝 ( 東 西 溝 2 ) が 見 つ か っ て い ま す 。 こ れ ら は 、 創 建 期 に遡る可 能 性が あ り 、 講 堂 周 辺 の排 水溝 と考 えら れ ま す 。

玉 石 敷 3 東 西 溝3の 北 で 検 出 し た 玉 石 敷 。拳大 の 玉 石 を 敷 き詰め て い ま す 。幅 1.3m以 上、 長 さ約 5.5m分 を 検 出 し ま し た 。 経 蔵 の 北 で も 、 ほ ぼ 同 じ 位 置 で 玉 石 敷 2 を 確 認 し て い ま す 。

4.主な 出土 遺物

土 器 奈 良 時 代 か ら近代 ま で の土 器、陶 磁 器 類が 多 く 出土し て い ま す 。中 室 の 北 端 で は 、 ほ ぼ完 形の 奈 良 火鉢が 出土し ま し た 。

瓦 奈 良 時 代 か ら近代 ま で の瓦が 多量に 出土し ま し た 。軒 瓦も 多 く 出土し て い ま す 。

5. ま と め

① 中 室 ・ 経 蔵 の 創 建 当 初 の 建 物 規 模 と 、 そ の 後 の 再 建 の 様 相 が 判 明 し た 。

興 福 寺 中 室 ・ 経 蔵 ・ 鐘 楼 の 礎 石 や 基 壇 外 装 を 検 出 し ま し た 。 と く に 中 室 の 基 壇 外 装 は 、 た いへ ん良好な状 態で残っ て い ま し た 。

中 室 ・ 経 蔵 に つ い て は 、 創 建 当 初 の 建 物 規 模 を 確 認 し 、 こ れ ま で の 中 金 堂 や 南 大 門 の 調 査成 果と 同 じ く 、 再 建 の 際 に は そ の 位 置 や 規 模 を 踏 襲 し て い る こ と が わ か り ま し た 。 経 蔵 は 、 平 城 京 の 大 寺 院 で は 初 め て 、 そ の 全 容 を 発 掘 調 査 で 確 認 す る こ と が で き ま し た 。

ま た 中 室 は 、 西 室 と 全 体 規 模 は ほ ぼ 同 じ で あ る も の の 、 柱 配 置 は 異 な る こ と が 明 ら か と な り ま し た 。 そ の理 由に つ い て は 、 今後検討し て い き た い と思い ま す 。

② 伽 藍 中 枢 部 に お け る 建 物 周 辺 の 様 相 に つ い て 、 新 た な 知 見 を 得 た 。

経 蔵 ・ 鐘 楼 の 北 で は 、 東 西方 向の 石 組 溝 と 玉 石 敷 を 検 出 し ま し た 。 いずれ も 中軸 線を挟 んで 東 西対 称に 配 置 さ れ て い た とみら れ ま す 。 ま た 経 蔵 の 西 で は 、 南 北方 向の 玉 石 敷 が 見 つ か り ま し た 。 こ れ ら は 経 蔵 や 鐘 楼 と 、 講 堂 な ど 周 囲 の 建 物 と の関 係を考 える上で 重 要 な 知 見 と言 えま す 。 石 組 溝 は 講 堂 周 辺 の排 水の た め の 溝 、 玉 石 敷 は 僧 房 と 講 堂 な ど 建 物 間 を 結 ぶ 通路 の可 能 性が あ り ま す 。

平 城 京 を 代 表 す る 大 寺 院 の 伽 藍 中 枢 部 に お け る空間利 用の あ り方を 知 る上で 、貴重 な情 報を 得 る こ と が で き ま し た 。

2

(3)

図 4 経蔵遺構平面図(1:200)

05m

基壇 現存礎石・束石 排水路 石組溝 玉石敷

凡例 12 尺 12 尺

11 尺 12 尺 11 尺 11 尺 12 尺 11尺

11 尺 11 尺

これまでの調査区 今回の調査区

050m

図 5 鐘楼遺構平面図(1:200)

図 1 興福寺の伽藍配置と今回の調査区 (『奈良六大寺大観 興福寺一』挿図 1 に加筆) 図 6 基壇および基壇周囲の模式図

葛石

かず

はめい 地覆石犬走 雨落溝

地覆 置いた石

図 3 中室南端遺構平面図(1:200)

11 尺 10 尺 11 尺

20 尺

図 2 中室北端遺構平面図(1:200)

東西溝 1 東西溝 2 玉石敷 1 階段?

玉石敷 2

南北溝 玉石敷 3 東西溝 3 南北溝 南北溝 地覆を置いた石

11 尺 10 尺 11 尺

20 尺 19 尺

3

(4)

10 尺 11 尺 11 尺

20 尺 10 尺 ? 梁行42尺 ( 約 12.4m)

桁行213尺 ( 約 62.8m)

基壇規模(南北)

226尺 ( 約 66.7m)

基壇規模(南北)

225尺 ( 約 66.5m)

現存の礎石 礎石抜取穴 礎石推定位置 10 尺 11 尺 11 尺

22.5 尺

10 尺 梁行42尺 ( 約 12.4m)

16 尺

16 尺 桁行212尺

( 約 62.5m)

〈参考:西室の柱配置復原模式図 *〉 図 7 中室の柱配置復原模式図

*『奈良文化財研究所紀要』2014・2015 参照

11 尺 11 尺 22 尺( 約 6.5m)

11 尺 12 尺 11 尺

( 約 10.1m)34 尺 動いていない礎石

動かされている礎石 礎石抜取穴

図 8 経蔵の柱配置模式図

表1 興福寺中室・経蔵・鐘楼略年表

和暦 西暦 中室 経蔵 鐘楼

720年代 創建 創建 創建

元慶2 878 ? ? 焼失

元慶5 881 ? ? 再建

永承元 1046 焼失 焼失 焼失

永承3 1048 再建 再建 再建

康平3 1060 焼失 焼失 焼失

治暦3 1067 再建 再建 再建

永長元 1096 焼失 焼失 焼失

康和5 1103 再建 再建 再建

治承4 1180 焼失 焼失 焼失

養和元 1181 再建 再建

1200頃 再建

建治3 1277 焼失 焼失 焼失

弘安8 1285 再建 (再建年不明) (再建年不明)

嘉暦2 1327 焼失 焼失 焼失

応永5 1398 (再建年不明) 再建 再建

享保2 1717 焼失 焼失 焼失

22.5 尺

22.5 尺

22.5 尺

22.5 尺

22.5 尺

22.5 尺

22.5 尺

20 尺

20 尺

20 尺

19 尺

19 尺

19 尺

19 尺

19 尺

19 尺

19 尺

4

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