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叢 撃 商

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(1)

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口昌三

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本邦海運市場の護達と其現状

第一章第二章

第一節第二節

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第一款

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第二款m貿易

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A外側航路内外幽加の運治割合

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海運に於げる鐙化山一加納︑航路m

貿易政策及機関

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易 政噌 策

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貿易及荷動

向邦向の必出

内貿易焚物

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(2)

第三節

第四節

第五節

第三章

第一節第二節

第四節

第五節

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第五款

日露験役後欧洲大戦以前::::::::::::::::::::::・・::::a・::::;::三 一︑船舶の滋槍一一︑貨物の帯加コ一︑世界海運界の景況円︑船舶取扱業の後建

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て大戦に於ける畑一舶の重要性一一︑日本不定期海運の世界的大設展一︑戦時資展から残した組織

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ニ.海運業者

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第三款

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(3)

第一章

海運界の景気が良いとか惑いとかは門司演石炭運賃とか︑樺太内地材木運賃とか︑傭舶料とかに

代表

3れて居ると見られて居る︒正にそれに連日無い︒共代表的運賃は何庭で︑誰が︑如何して決

めるのか︑といよ事になると︑即ち海運市場の組織と働3を説明する事になる︒私は設に乙の海運

市場なるもの︑明治以来の楼建の跡を尋ねて見ょうと思ふのである︒共一つの理由は︑我が海運界

の随分古い時代に︑中心の地位に立℃活躍した人々が︑今まだ大分健在で︑営時の事賞記闘しても

明快在る記憶を持℃居られる︒是等の人々に接し℃口づから官時の事を承る事は吾々に取℃非常な

る辛であb快心事である︒今にし℃品め℃置かないと︑といふ心持もし

τ

︑私は若干の擁戚者に教

を乞ひ︑死したる如き諾記録の裏に肉を付け血を通はせる事を試みようとしたのである︒

本題に入る前記︑海運市場の研究とは︑結局不定期海運の研究になるのだ︑といふ意味の断b

先づ議ぺて掛る必要がある︒

蓋し不定期海運の版記は海運市沼氏極めて鋭敏に現はれる︒尤も定期海運も海運市場へ反映せね

とは謂はね︒併し共反映たるや︑定期海運が不定期海運の如き働きをする事によってである︒

不定期海運賃率は一航海毎に胞腹の需給と共経費に依て決定せられるのであるから︑此運賃は朗

本邦海運市場の後廷と英現歎

(4)

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川 叶

る忠賢に船腹需給の肢を反映する︒之にいはし定期経告は一定の伎件を長い期間改めずに反復縫績し

て行って往︿事を特色とし︑信用の基礎として起る︒故に或は一長期に亘る運賃契約があったら︑或

は政府の認可を得る必要があったb︑左なくとも白ら共信用維持の魚︑乃至表定賃卒の慣習上︑芯

う念に改めず︑他日市況不良の際にも必ずしも引下げゴる主によって相殺する方針を取る︒備舶料

るとか︑或は定期舶に上るにし℃も共科度を援にする等の手段を採る︒

主︵反卦に市犯が下るとし℃も︑不定期舶が競宰舶として侵入し来b︑定期舶の荷物を奪び去る迄

は故℃賃卒を引下げない︒否少々位さういふ侵入者があっ℃も︑其程度が微弱であれば打棄℃︑置

く︒何となれば一部の引下げは査貨物に影響する虞があるから︑市部激落し︑競争舶の貸率が著し

く廉くなb

要すに海運市況が定期賃翠の上へ反映するには︑時︑が掛b︑且皮A

右は市況が賃卒へ影響する方であるが︑逆に賃卒が市況に影響する方はどうであるか︒

不定期般の賃卒でいよと︑不定期の賃卒共ものが収9も泣3ず海運市況なんである︒海運市況が強

昂ったとか下ったとかいふのは其時ク々に報ぜらるL運賃取極めを指し℃いよの

である︒然らば不定期海運の海運市況に針する関係は密接も密接此上無きものと謂はねばならねc

(5)

定期海運の賃卒又は景況は如何に市出に響くかといよに︑定期舶合同枇は一年中の最不況時にぬ

τ

も︑さう多くの舶を遊ばさない程度に舶を所有する関係上︑貨物出廻bの最盛季には舶腹不足を告

げ二般市場に出て傭舶する︒此場合には必然市況を硬化せしめる︒反之︑定期舶の貨客が閑散に陥る

ときは︑舶腹利用の窮策として定期舶が不定期舶になる︒例へば一寸北見演の材木を運んで見たb

大蓮の豆粕を一航海行先AY︑甚だし3は若演石山坑に迄手を出して市況を悪化せしめる︒此所謂﹃北

見潰一航海﹄﹃若潰石炭﹄といよが如きは断じて定期舶の働で無く︑不定期舶の働3方になって居る

のである︒叉定期舶曾祉が﹃傭舶﹄するといふには︑定期経替の特色たる一定候件の反復纏療とい

ふ事︑が無い︒是は定期履行の準備であるか︑或は臨時舶又は純不定期航海の準備であるので︑傭舶

といよ事夫れ自身は寧ろ不定期舶的活動なb

して見ると︑不定期舶の働き︑不定期舶の運賃を見て居れば定期の方は見なくとも海運市況は

以上の事情から本篇の論議に上るものは不定期海運のみといよ事になる︒

第二章本邦海運市場生成の道程

海運市場の稜建は色冷の方面から観る事が出来る︒海運とは一方に荷物があb他方に般があっτ

本邦海運市場の後蓬と其現欣

(6)

さ招き、oRB 

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之を運ぶのであるから︑荷物の接建の側面からも︑船舶の楼遣の側面からも観られる︒又市場を組

織する船腹の需要者と供給者の側面から観る事も出来る︒叉組織制度慣習の費遠からも観る事が出

来る︒併し枇曾現象は決して草濁に設建しないものであるから︑

なるのみ・ならず︑原因結果乃至相関昭一醸の闘係を逸する憾がある︒之に反し︑日本の海運は大きな

戟事を境として常に劃時代的な接展を途げたとは斯業専門家む一致する所であるから︑之を各時代 一つ/\を切離し℃説く事は困難

に縦断し︑共一縦断期間毎に横断的平面描寓を試みる方が︑具躍的に異相を現示し得る所以であら

う︒怠は此方法に従℃見よラと忠ふのである︒

第一節日清戦争以前

此時代の我が海運は貨に幼稚なもので︑本邦沿岸の航海に針しては我が海運で間に合ったが︑

歩園外に出る運誌となると︑外閣の勢力によって支配せられて居先︒詰b外闘に向ム航海に謝し℃

は海運市場は我邦に無かったのである︒

明治二十六年末︵即ち日清戟宰以前︶本邦在籍汽舶の合同討が十一高噸で︑今日比し℃みれば近海

郵船︑大蓮汽舶等の一曾祉にも若かぎる有様であったのだから推して知る事が出来る︒

第一款内園沿岸航海

常時の主なる運誌の需要は内地沿岸通航で︑中でも比較的荷物の多かった航路は東京神戸間雑慣︑

(7)

門司111帥戸及積演問石炭︑夫から精長距離の航海は牛症から来た大豆を積んで直江津新潟民運ぶ

もの︑更に大航海は紳戸大阪よA

Ab坂出︑尾道︑三田尻等で盤を積

のみで浦婚し︶伏木︑新潟︑酒田︑士崎︑函館︑小樽等に向び︑持航には函館︑小櫓から鯨粕︑数

の子︑昆布及稀に木材を阪神へ︑新潟︑酒田︑士崎よbは米を積で阪神へ運んだものであった︒明

治営初の数年聞には沿岸航海に外岡舶の従事した事もあるが夫は極めて暫時の事で︑内地航海は皆

邦舶邦商の手に在った︒

︵設︶日本経済合編﹃日本海運論﹄選外︑八木木一郎氏論文三阿

11

三六頁に常時の沿岸航路を悉︿載せてあるo

O頁︑四五||四七頁

是撃の荷物の運賃は如何にし℃引合はれたかといよと︑石炭は荷主が大抵下闘の運謹店へ運詰方

一切を委託するので︑是等の運怠問屋が干闘で引A口をする︒場合によっては大阪神戸へ電報で引合

坂出︑尾の道方面の盤は同地方の岡漕店が大阪紳戸の船主又は一五扱店へ交捗に出掛けて来たh

は電報で引A口よ︒酒田方面の米も扱店が大阪神戸の舶主と引合った︵自身京都て又は通信によb

て ︶

北海道方面の海産物は︑もと其取扱者が運誌をしっL各地で販責した歴史があるので︑矢張荷主と

舶主を乗たのもあ

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或は荷主が阪神地方へ来て引合ったのもある︒同氏談

ヨザ色、

本邦海運市場の後遺と其現朕

(8)

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第二款

山門外岡への航海とし℃は僅かに郵船舎吐があった詐b︑主ハ郵舶でも浦盤︑北支那諸港︑上海︑香

港︑馬尼利︑孟買迄に及んだに止まb︑臨時的に舶を出した場合を皐げて見ても︑一番遠いのが濠

洲︑布陸︑共では南洋位である︒

郵姑以外では三井が始終支那へ舶を航行詰せて府たのが先づ商業闘係の確立して居たもので︑共

他は凡そ明治二十五六年頃よ多少し宛舶を支那へ出す舶主が現はれて来た︒

一一一井は明治九年創立の抑上り︑営時官阻官であった三池磁山︵明治二十一年政府より譲受け三井のものとなったVから出る石茨

の委託販車を引受け︑政府及覇妓ム刊同社所有帆船其他を借受けて石川氏を上海へ積出し︑同市場で賢捌いた︒同方面に於げる三池

炭の需現槍加するにつれ︑右の傍受般舶では到底需要に慮じ難きに至った所から︑庚︿内外船舶を臨時傍慨し︑更に帆崎汽般

を買入れると共に︑明治十一年香港支店を開曹︑明治十二年﹃倫敦に支店を開設し︑東拙作海運市場︹たる︺上海︑香港爾店と

相呼謄しで外図般傍舵引合の任に営らしめ﹄る事となった︒﹃三井物産合一位船舶部沿草﹄

明治二十年三井が支那へ枕木を輪出したのが手始めとな

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同二十六年二十七年には栓昌洋行が

枕木轍迭に汽般中越丸帆畑天橋丸を出したω︒二十二年には日本汽舶株式曾祉の汽舶第一丸が米穀 積取の矯に蘭貢に越さω二十五年福州灘興業株式曾祉の汽船撮陽丸が大豆︑豆粕積取の魚牛症に往 た︒同じ頃五洋商舎の五洋丸ω浅野商舎の日の出丸︑共他も牛駐に往つ向山︒明治二十六年大家七平所 有魁愛図丸は移民五百名を布睦に聡還した︒ωへ是れ闇瞳移民舶の暗矢である︒︶明治二十五年三井物

(9)

産は口ノ津から石茨を新嘉墳に運んだの等の記録がある︒夫にし℃もその総数は貫に家主々たるもの

ぬ﹃柿戸海運五十年史﹄八一頁

向同太刀川氏談

間五十年史八六頁及一OO

の同書九九頁

問要するに是は我が貿易︑が未だ極めて幼稚だったからで︑明治二十六年迄の貿易は輪出入共九千

寓園︑合計二一億固に達せず︑貿易に上った品種も亦極め℃少く︑明治二十六年の数字でいよと︑轍

出金高の四割二三分は生糸︑籾二重︑絹手巾等で占められ︑其他は茶︑米︑銅︑水産物︑燐寸︑石

炭等で︑轍入品の主なるものは綿花︑綿織物︑砂糖︑穀類︑石油︑鍛及機械類︑諸薬品︑染料等で

あった︒指纏って滴舶貨物ともなbll従って舶腹需要上直接影響を持ち得lーたものは輸出で

石茨︑総入で綿花︑砂糖︑穀物位比過ぎ泊︒此内石来は先づ三井の扱であったが︑共他の物は殆ど

悉く居留地貿易で的即ち居留地在留の外人又は支那人の手にあった︒︵支那貿易の如3魚替闘係が複

日本人では杢く手にA口はなかったものである︒︶明治二十年頃よb漸次直輪出雑で且危険が多い魚︑

入を試みんとする日本人が現はれて来た事は事賓であるけれども︑其力は未︑だ極めて微んγ

で︑貿易年表に表はれたる邦商と外商の貿易取扱高割合を見℃も左の如3哀れな賦態である︒

品川﹃紳戸海運五十年史﹄一一九頁

本邦海運市場の設建と其現決

(10)

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即ち明治二十六年頃になっても貿易額の僅々一割六七分が邦人民依℃扱はれたに過ぎ在い︒

仰い掛る扶態であったから︑之が運誌に劃する舶の手営は支那貿易の樫ったものは支那商人の手で

上海に於℃那威の舶が極められω夫よb遠い方面のは居留地外商が︑近きは上海︑遠さは倫敦市場

で︑那威舶︑濁逸舶又は英図舶等ぞ極めたものである︒明治二十五六年の頃日本経済舎の懸賞論文

に二等に時間選せる踏海散史の誌せる所によると︑明治二十二年よb二十四年に至る三ヶ年聞の平均

b︑我邦の貿易を運んだ日本舶と外岡舶の割合を見るに︑日本舶が相官の勢力を示してゐるのは

朝鮮と支那あるのみで︑共他民於ける日本船舶の力は殆ど認め難い位である︒︵石茨の方は香港へも

相官民往3

︑駄洲迄も往て居るのは寧ろ意外である︒︶山三井物産川村常務談

(11)

日本将済曾編﹃日本海運論﹄第二踏海散史積問書第七二l七七頁

検出入口山内外相廻漕表

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日本航外岡艇

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96 

亜 米 利 力 目 運 賃 96 

99 

運 賃 99 

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Jfilj  運賃 100 

運賃 94 

其 他 欧 諸 岡 95 

I A98  I'll  運 賃 93 

39  61 

運 賃 41  59 

運 賃 96 

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運 賃 100 

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濠 洲 其f也諸図 運 賃 91 

噸賃 18  82 

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!lli 米 利 カ 日 運 賃 100 

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運 賃 10  90  17  83 

j主 他 欧 洲 諸 図 運 賃 16  84 

11  89 

l'P  運 賃 99  42  58  運 賃 41  59 

29  71 

運 賃 35  65 

53  47 

運 賃 51  4~

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深 洲 其 他 諸 岡 運 賃 97 

31  69 

運 賃 29  71 

23  77 

F 運 賃 86 

的この日本舶で契約する運賃も上海の相場を取

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井が政府委託の石炭に艶し舶を僻入れるにしても︑矢張上海を中心として引合をした︒

凡そ市場の特質とし℃需給の適合即ち取引が自白軽便に行はれる事と︑取引候件特に標準となる

値段内定めらるる事が必要である︒此見地主Aリ見て︑日清戦争以前には︑内閣航海に封しては紳戸

本邦海運市場の愛遣と其現決

(12)

大阪が市場となって居たらしく認むる事を得るが︑閣外に卦する運迭に関し℃は上海が英市場であ

ったと見なければならぬ︒

合時三井が主として上海で傭燃したのは定期傭般ハ

42

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o期間は一一三ヶ月に

一ヶ月のオプシヨシ付で︑夫より長いものは無かったo如は那成舵又は濁逸船であったといふ事であるO

第二節日清戦役以後日露戦役以前

此問に於て我が海運市場は極め℃重要なる麓化を逢げ︑従来外因に向つ

τ

の航海は外闘の海運市

拐によっ

τ

支配芯れて居たのに︑此期間中に園内の市場が楼蓮して外岡向航海をも支配する様はな

った︒即ち戟役前に於

τ

はまだ一宇しか出来て居なかった我が海逗市場が︑兎も角内外航共に支配

し得る事となったといふ大切な時期である︒

之を約A

τ

日本舶舶が外航し得るに

至った事と仰貿易の稜達特に邦商の進出に上b

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Iカ﹃の出現等が相合

致して︑明治三十五六年には我が海運市場が略出来上ったもの︑知くである︒

第一致海運に於る務化

先づ海運方面に起った務化を見ょう︒

(13)

向第二戦時中の念激なる需要によ

AY︑非常に船舶が聡入せられた潟︑戟前の現在数に比すると

約七割の増加をした︒

日清戦争官時我邦の舶舶は四一七隻︑鱒噸数一八一︑八一九噸であったのに︑戦争期間中に輸入ヨ

即ち戦前代於℃は閣を翠げ℃僅冷十数寓噸を

以て内地沿岸航路の要に充分足bて居たのであるから︑乙L

二十高噸に近い事であらう︶のものが殖えだとするとl特に戦時中購入した舶は一隻平均一千五百

二十飴噸に営夕︑従来の艇に比し飴程大型であったから︑勢以外岡航路に向って利用の領域を求め

岡氏も近世始め℃の封外の一戟に自己の力を知畳し︑俄かに封外接展の気運が興b︑日本郵船曾

一肢は明治二十九年一時に欧洲︑濠洲︑北米の三大遠洋航路を開吉︑東洋汽舶は三十一年新造船を以

℃北米航路を閃く等︑定期舶だけで見れば我が海運は堂々を世界の航路に乗b

開政府の政策としJしも︑明治二十九年比は造船奨働法︑航海奨廟訟が制定せられ℃大に海還を奨

蹴する事となb︑不定期船でも外航に封し補助金が貰へる事になった︒

第ニ款貿易及荷動

︐貿易の方面にも非常な麓化が起b︑濁b其量が政増したるのみならず︑貿易奨輸政策漸く其緒に

本邦海運市場の設建と其現欣

(14)

就き︑金融の制度及機闘が確立した魚︑我が貿易を漸次邦商の手に移す結果とな

h J ︑それが延ては

海外航路就航舶の諸候件を日本で定め得るに至らしめた︒

問先づ第一に明治二十七年以後の雨三年に於て国民多年の宿望であった通商保約の改正も犬部分

b︑三十年には関税定率法が礎布せられ︵三十二年よb寅施︶︑三十二年改正保約の賃施によb

糸類︑海産物︑金属︑樟路︑茶︑木材等の重要なる輪出品に課せられて居た聡出枕が杢く麿当る︑事

b︑又二十九年綿花類の如3原料に劃する轍入就が減免せられ︑三十三年には金本位制度が確

立せらる︑等︑邦人に依る貿易振興の陣立も迫々盤以︑そ之へ戟勝の意気と遼東還付に封す忍臥薪

営日謄の大決心や︑官民の努力が合致した結果として︑産業と貿易が著しい殺遣を途げた︒

間即ち貿易金高は著増を示した︒明治二十六年から三十六年民至る十年間に︑凡そゴ一倍宇になった︒

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m w 特に本邦海運の接遣と密接の関係あることは︑此間邦人貿易商の取扱高が著しく多くなった事

(15)

である︒︵日清戦争前のものは前項に示して置いたがJ特に極短期間に邦商の進出振b

冷しいのである︒遺憾乍ら内商外商取扱高の杢図的数字は明治三十三年を以℃終つ℃居b︑其後は 唯神戸税闘が紳戸港の貿易に就て調べて居るものがある許である︒︵花︶神戸の数字︑だけでも無きに

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新く邦商の取扱高が増加するにつれ︑運廷の引舎が日本の市場で行はる﹂は素Ib

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本邦海運市場の愛蓬と其現絞

(16)

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是が外航に艶する本邦海運市場の成育を助けた事極めて大なるべきはいよを待たね︒

開貨物の方から貿易主観察すると︑聡出では綿糸︑綿織物︑石炭︑燐寸の知念\支那印度方面行

即ち以前から既に邦舶の勢力の強かった方面向のものが特に盛なる増加振を示し︑綿織物︑銅︑茶

の如き︑欧洲及米閤向の定期舶貨物亦数増して居る︒聡入で現著なる増加を示したのは支那から来

る大一旦類︑印度の棉︑瓜庄の砂糖︑欧洲からの銭︑米国及欧洲よbの石油で︑此内大豆は従前に引

3不定期舶の荷物であhノ︑砂糖も亦大部分其程の舶の腹を肥した︒

荷動方面からいよと︑新たに纏まう党荷物が出来た︒戸揚子江流域大冶錯山から八幡製銭所に向け

註らる︑︑鍛鎮は︑明治三十三年以来三菱が一手運搬の契約を得た︒その轍詑量は明治一一一十二年よb

漢陽銑鍛も日露戦投前に拾まb︑日疋は三井の一手引受で︑共量は前者に比すれば少く︑明治四十四

年以後の契約噸敷でも年十高噸であるから︑H露戦争前は少いものであったらうけれども︑兎も角

かういよ重量の纏変ったものが現はれて来た︒同去官

同貿易の量が増し℃来れば之を運ぶ般の出入が増すのは営然で︑其舶の焚料として消費する石茨

を供給する事が重要事となって来る︒

試みに横演一港の入舶を見ると左の如く増して居る︒

(17)

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七 四 八 六

一 一

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三 四

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七 二 六 七

一 一

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是等の般の幾分は横潰を出港するに際して焚料茨を積双る必要がある︒︵勿論之を他港でする艇もある﹀其積取るものと積取

ら︑ざる艇の割合は前後同じである正仰限定して見ると︑向隻数に於て約七割脅し向一隻平均噸数が千八百噸より二千七百噸とな

って居る鏡︑営時の船舶として見ると一日の消費量一問者約二十噸︑後者約三十三︑四噸に上るべく︑即ち一隻平均消費量に於

て六︑七割拍唱す浬窟であp.向更にM聞が大型になって来れば航海距離も長くなる︒従て千八百線噸の艇が十日乃至二週間分の 焚料炭を取で出たのに設し・ご千七百総噸の舵だと其倍の日教に制到する焚料を用意すべき長航海に上る事とならうo

斯ういよ三つの事情から︑横演で頁れる汽舶焚料炭の量は日清戦前と日露戦前を較べたら蓋し三

倍にはなって居たらうと考へられる︒加ふるに東京を中心として諸工業が振興し︑畿道も着々とし

て延長せられたが魚に︑石茨消費高も増して来た︒

此石炭は主として門司若松から運ばれるので︵後には室蘭からも来る様になったが︶是が内地沿

岸運賃の標準になる位永久的な大量のものとなったのは先づ日清戦争以後である︒

第三款

廿

II元扱店の進出

戦後日本人の海運プロEカーが現はれ℃来た事も︑我が海運市場生成に就℃有力者る一事項であ

る︒佐藤勇太郎氏は我邦プロIカーの草分けであるが︑同氏は神戸商業皐校に英語教師として在職

本邦海運市場の愛遣と其現欣

(18)

F

中︑明治二十二年日本米穀合枇川が外因商館から加を買ょに付︑共通語をした事が紘とな

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Iカーを初められた︒官時は外商相手の舶舶貰買の仲介のみであったが︑明治三

十年頃よb

ωチャータープロI

ζの舎一枇名は﹃紳戸海運五十年史﹄所載並に佐藤男

宋一郎氏よ担直接筆者に奥へられたる書面中の名と異るけれども︑太刀川氏の詳細なる設現に従ひ之主採る︒ω

村常務談明治二十年頃よb大舶主の元扱店とし℃大いに活躍し︑外商問にも多大の信用を博して居た太万

川商曾は日清戦後は外岡航路専門となった︒同商曾は日本舶の元扱店とし

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︑叉経管振の公明正大

なる故を以℃信用を得︑外闘商館︑支那商人の取扱に係る荷物をも日本舶舶を以℃運送する誌にな

一腰日本の荷物︵聡入米︑大豆の如3︶は日本舶に積ます方が便利でもあAY︑般員一同勉強

の結果成積も良かった免に︑段ふ日本舶が伎はる︑藤になって来た︒之に劃しては上海だの香港だ

L運賃に依らず︑日本の

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m のみに依℃︑紳戸に於℃運賃を極めた此手合せの運賃を新聞枇へQ

報じたのを新聞が載せる様になった︒

明治三十一年凶月の抑戸叉新口報な遁穣すると︑商品相場︑株式商報等を載せた建稀相場面に︑一段︑六銃活字で十八行︑

約五セシチ八ミりハ尚尺一寸九分﹀角大の商積を塞いで︑太刀川筒舎の﹃汽船運賃柑場﹄が掲げられであるが︑夫には左の知

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