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和徳小学校『入退校簿」等にみる生徒の転入・転出の実態

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Academic year: 2021

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(1)

和徳小学校﹃入退校簿﹂等にみる生徒の転入・転出の実態

il

退

1

和徳小学校生徒中途退学の理由別内訳

ii

最穣の要約と本稿の課題

i i i

本摘は﹁明治期小学主徒の中途退学に関する考察・

11

1和徳小学校叶入滋

校簿﹄の分析︿その1

1 1

は︑先ず﹁尚子制﹂期より明治中期にかけての霊小学生捷の就・氾学状況について

叩文部省年報同一地裁の学事統計資料にぷづいて全国と対比させつつ特に青森県に

熊点をおいて考察した︒全国の中で古森県がいかに不就学︑中途退学の割合が高

いかがそこで浮き彰りにされたのであるが︑きちにその中述退学の実態を和諒小 前職ιおいて私

学校の﹃入退校簿﹄と乱作する問料にぷづいて分折︑考察した︒

前楠でも述べたよう﹁学制﹂頒布の判明治六年ハ一八七五﹀

しかも占くからの資料がかなり説年

ている学校のひとつであるが︑

退

m h

と称する資料は同校の明治一一一年三八八八)から二八年(一八九五﹀ しているとこ

に寝る八年間の︑各年定期︑男女別の入学者︑退学者(年度によっては卒業者も

したがってこの資料によって明治二0年代におけ含まれている)

る和徳小学校生徒の中途退学の実仙仰を明らかにすることが出米るわけであるが︑

下表(表1﹀は︑その各年能川加の入学者︑滋学長︑卒業者数の一覧表である︒

この殺を一見して当時中途退尚子者がいかに多かったかということが先ず出感さ

内 入

28 

27  i 1

53  57  110 

11)

(16) 

f入退校簿』による入学・治学・卒業者数

l

67  51  118  88  61  149  24 

109 

38  147 

79  47  126  23 

92  50  142  22 

82 

45 

127  21 

入 学

4 aτ

O

A V qL

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25  33

58

q

Q u q d ' i 2 1 n

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ワ ム M t i q d

者 数

退 学

AWMJ

円 ︒

h ' I 4

40  20  60  0

3 3   3 2 5  

QV

4

4

体 像

者 数

4 q

QM Guqhoo  qo

J

V 2 i o o

卒 業

84 

者 数

ハ 註

1円入港校簿﹄は各年の名簿の末

M m に﹁合計OO

と記されているが︑名簿の

過し諮母が監視していた

り︑欠落していたりして名簿に記載されている者の数と一致しない場合がある︒この表では名簿に記載された者の数を記した︒なお各年とも一月から一二月まで

qh  

17  ‑ く和棒、小学校

(2)

校教員が毎日交番で﹁巡視番﹂を定め︑学校内外の様々の事について気づいたこ

と︑所惑などを記録したものであるが︑廿

記録簿

和徳持常小

丹冊目︿木曜﹀の欄には﹁入退校アル都度其生徒姓名ヲ相所ノ黒板ニ書シ生徒ニ

知一ブシムルハ親惜ノ構ヲ養フ一手段目一ハ翻座ラヌカ﹂

説導﹀といった記述などがあり︑続出する退学生徒への対応策に潟心している同

と椋記した明治一二年ハ一八八八﹀の記鋭簿の七月二一一日︿金耀﹀の構に

﹁今ハ退学ノ弊ヲ説グ好機曾ナリト忠ハル恕々切々児童ノ脳裏ニ感染セシムベ

一一一州訓導﹀との記述がみえるし︑また﹃明治廿二年一 校教員の様子が窺われる︒

2

3)

は吋入退校簿いをもとに同校生徒の中途退学者数を船内出別に

2f~22 号 弘前学院大ヤ紀要

和詩、小学校中途港学者理由別内訳数(男企郡〉

2

京総訓導

和徳尋常小学校﹄と酬附記した明治二二年ハ一八八九﹀の記鋸簿の七表示したものである︒

記録簿

ノ込rr 

不明ハ無記入)

死亡(病死﹀

ん 山 内

J4F 

I)1;

職業見胃 工業見宵 商法見刷H

転居ハ転校﹀

(男生徒)

') 

明治21{f 28 

30 

13  22{

11 

40 

14 

(3)

15  23

11 

29 

10 

12  24

11 

22 

13 

2514

?

13 

10 

26

11 

25  12 

13  274

γ

24 

() 

17 

28:tr. 

11 

lh l 見 習 関 係 戸寸崎戸マ時  fwE句/ Ilj?c  l

明治21 2119 {4} 

221l 10  23 

11  231f.  11  。 。 。 20 

11  24 11 。 。 。17 

25 。 。 。 15 

26 。 。 。 。10 

11  27f'. 3*  。 。 30  33 * 

28{f 13  。 。 13  26 

〈女生徒〉

く和徳小学校『入退校締』より作成〉

ω名簿では欠席除名が十二名おり︑そのうち二名は朱線が引かれ︑上刷機

に﹁呼出﹂と朱書されている︒恐ら

く一日一誌名された者が再出校するようになったのであろう︒ω﹁家事都合﹂と記された盟名のう

ち一名は︑カッコ付で﹁職業見向﹂

とも付記されている︒

一 証 ω

大名のうち五名は当初﹁授業料不 納ニ付出校差止ラル﹂と記されたの

が朱線がひかれ﹁家事部人川けいと訂正されている︒

一 一 は

ω

名簿では二

O名となっているが︑

一近日付﹁欠搾除名﹂と記入され︑

朱線が引かれ再が一二月一一一日付

﹁裁純見習﹂とゆ記されており︑一一援

に数えられている︒本表では﹁裁縫

見習﹂の方のみ計上している︒

詰 川

W一一名のうち一名は﹁家事多忙﹂

と記されている

α QU 

23

なおホについては表ーの誌記参照︒

(3)

和徳小学校「入退校簿」等にみる生徒の転入・転出の実態

和徳小学校中途退学者理由別内訳(男女計)

E

明治21 13  11  21  47 

22 19  16  10  53 

23 26  11  19  60 

24 15  21  46 

25 20  37 

26 19  23 

27 16 42  58

28 30  20  50 

Ai I 158  42  62 

百(分幼比 42.31 11.2  16.61 29.9  1100.

友3

2は﹃入退校簿﹄

の退学理由の記述に従

って男女別に表示した

ものであり︑退学理由

の分類もより詳細にな

っている︒表3は︑そ

の退学理由を﹁転居

四項にまとめ男女合計

数で表示したものであ

る︒これにより和徳小

校﹂による退学が最も

多く(四二・三%﹀︑次いで﹁見習﹂による退学竺六・六%﹀そして﹁家事都合

﹁その他﹂と続くことが明らかにされた︒

以上︑前稿においては﹃入退校簿﹄の記述にしたがって和徳小学校生徒の中途

退学の理山別内訳を明らかにしたのであるが︑その各個別理山の中味や実態およ

び相互関連についてさらに考察を進める必要があるように思う︒そのことによっ

て当時小学生徒の置かれた状況というものについての理解が深まるものと思う︒

そこで先ず本稿では退学理由の第一位を占めていた転居︑転校の実態︑転居の理

由や背景等について考察することにする︒

一︑転入の実態

(

 

和徳小学校入学生の学年別内訳

明治以後の小学校の前身︑母体ともなった近世江戸時代の寺子屋に関して︑﹁入

学者ハ概ネ初メテ入学スル者ノミニシテ且転学者モ甚タ少キヲ以テ:::一﹁との指 摘もあるように︑寺子屋の児童(寺子)は概ね最寄の寺子屋に入門し通学するのが普通で︑しかも途中から他の寺子量に転学するということは組めて稀なことであったと思われる︒封建的身分制原理の支配する近世社会にあって人々はそもそも職業選択や住居移転の自由が与えられておらず︑自分の生まれついた身分︑家柄︑居住地等に終生拘束されていたわけであるから転学につながる転居そのものがあまり無かったと考えられる︒寺子屋の師匠自身もその土地の人であり︑師匠と寺子の師弟関係はその家族をも含み込んだ緊密なもので︑かつ数世代にもわたるものであった︒同じ近世の学校でも武家学校系統︑例えば私塾の場合は広範に︑そして藩校の場合も若干︑藩などの地域的割拠性を超えて学問と師を求めてわたり歩く︑いわゆるH

遊学

Hがみられたのであるが︑その点は庶民学校たる寺

子屋と対照的であったと言うことが出来よう︒

そうした近世の寺子屋と異なり近代明治以後の小学校においては生徒の転居︑

転校というケlスが俄然多くなる︒明治二0年代の和徳小学校における中途退学

者の四割以上が転居︑転校によるもので︑理由のなかでトップであったことはす

‑ 19‑

でに指摘したところであるが︑全国のなかでも青森県は特に﹁転籍﹂や﹁寄留﹂

等による生徒の転校が多かったものと思われる︒明治一五年(一八八二﹀の﹁青

森県年報﹂に次の指摘がある︒

﹁学齢就学ノ男二万五千六百六人ニシテ前年ヨリ千六百七十二人女四千六百九

十九人ニシテ同上千百十九人合二千七百九十一人ヲ増シ不就学ノ未修学ハ前年ヨ

リ減スル寸男千八百五十七人女二千六百十八人而シテ如此其レ増減アル所以ノ者

ハ蓋学齢‑一出入アリ又転籍寄留等ニ関スルヲ以テナリ﹂(傍点引用者)

和徳小学校生徒の場合も転籍や寄留のケlスが少なくなかったことについては

後述する如くであるが︑先ず和徳小学校における転入の実態について考察してみ

ることにする︒

和徳小学校への入学者の中には新入生のみでなく他校からの転入生もかなり含

まれていたと思われる︒ちなみに﹃入退校簿﹄の入学者名簿をもとに明治二一年

(一八八八)から二八年三八九五)に至る各年度の入学者の学年別内訳は次表

(4)

4﹀の知くである︒

22

和徳小学校入学者の学年期・男女別内訳 弘前学院大学紀要

表 4 明治

21 合 計

468  311  779 

' A

4 1 6  

whdqh4

daτ'iwO 

6 4 0

2A  

0 9 d n o

8 5 3

2A  

i

t A Q M ハ リ

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14

E

A

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' Q u q d 2 i 4

9 9 8  

q u a q  

581  354  935 

28

d

4 ' i

4 4 9  

QJUFOQd 

t i q

53  57 

110 

1/ 

27 26 74 

39 

113 

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Q d t i '

〈和徳小学校 57  48  105  25

74  55  129 

5 1 6   88  61  149  24

68  41  109 

向 ︒

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F3 vwhd

79  47  126 

23

22

63  43  106 

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11 

92  50  142  83 

35 

118 

f

4 1 5  

合計

︒ ︒ ハ

HV

82  45  127 

Q U A V 0 0  

109  38  147 

(

Lに記載されている人数と一致しない場合が多い︒例えば一二年男子は﹁合計百七名 00名﹂と記されているが︑実際名簿

簿

一 一

AL

︿

LF

L

‑ p r

バ仮して﹁間十八人﹂となっていゐが名簿上位鴎

L

f

Jb

簿

すなわち入学者の学年別内訳をみると二年以上の入学者が九一一一五名中一五六名

で約一六・七%を点めている︒二年生以上の入学者は概ね他校からの転入ハ編入﹀

者であると判断すべきであろうし︑また当然一年生のなかにも他校からの転入金

もかなり含まれていたであろう︒ところで円入滋校簿﹄の入学指名簿には︑他校

からの転入の持が記されている場合もあるが︑むしろ何も記されていないのが大

部分で︑註記してある者のみが転入生の全てであるとは思われない︒したがって

簿hから把掘しうるものは転入についてのある程度の実態であって必ず

しもその全体ではないことを予めお断りしておきたい︒なお和徳十学校の入岬十世

徒に関しては吋入退校簿hの他に次の知き﹁入校制﹂等の資料がある︒︿いずれ

も弘前市立図書館所蹴﹀

‑明治⁝一年の入校顕類ハ表紙欠﹀一冊︒

コ明治十五年入校願

.円明治十八年制入校願

和徳小学﹄︿倒的治二四年の分﹀一時︒

入校件﹄一冊︒

和徳小学知一開︒ 一月沼リ

20 

‑﹃入学験綴

口問治廿六年中

すなわち右の資料は明治一一︑一八︑二問︑一一六の各年度の﹁入校願﹂

等の書猿を綴じた簿鵠である︒ハ詩︑それら議期は﹁入校顕﹂﹁入学麟﹂﹁入校諾﹂

等々一標記はまちまちなので︑本稿においては鐙宜上﹁入校顕﹂等と称すること応

するJ﹃入退校簿﹄と併せこの﹁入校願い等を資料とすることにより︑和徳小学

校への転入についての︑より詳細な実態を探り得ることが期待されるのである︒

ところで明治一一年から二六年に経るその﹁入校蝦﹂等の讃式︑文面には若干

の変化がみられ︑それらは各持崩の教育政策や教育行政制度等を反映していると

みられるので︑先ずその点ιついての考察を行っておきたい︒

等の書式︑犬山の変灘

HH

 

表紙を欠落しているが明治一一年ハ一八七八﹀の﹁入授願﹂等︑八五通綴じ

(5)

られた簿需がある︒このなかには恐らく休学していた生徒のであろうか﹁出校願﹂

のようなもの二通と蓬来小学校に提出された﹁退校鱗﹂一通が含まれているが︑

この年度の﹁入校願﹂等の書式文耐の一例音訴すと次の知くである︒

第七大学磁第十五中学区和徳小学入校願

第三大阪第一小一隙和徳時三十番地

尚善助一一男

)1: 

d

年 常 ケ 吉

和地小学校?入退校締J等にみる生徒の転入・拡出のJ

相 :;{i

願 者 明 快 和 J

rit治 己 徳

ケ 十 上 小 済 一 学

J ¥  

::

これは﹁学部﹂頒容の強明治六坪︿一八七一一一﹀の青森県連﹁小学校制約﹂に示さ

﹁小学校剥﹂とれた﹁人校版﹂の雛明一が多分応モデルになっていると忠われる︒

は﹁川小説﹂に掛って文部有が作成したものを県が地方の実状等を家的し独自に作

成公布したもので︑十一一川から成るが入校に関しては﹁第九州問﹂に﹁初メテ入校

ヲ願フモノアラハ左ノ雛熔之通書面ヲ認メサセ学区取締へ差出サシメ学一弘取締輿

LK ハ入校ノ小学ニ姻達スヘシ小学コレヲ生徒名簿へ記録シ開届ノ指令ニ

Ahv 学ノ印ヲ擁シソ/下付スル事初メ出ス時ノ如シ﹂と述べたあと︑次の如き入校版

料紙手紙

E小学校入技願

工 士 区

M

苗 帰 農 小 字 某 : 区

二 長 ::

女 男 町 村

I

借 借 家 家

当判丹幾年幾月

布者茶小学校へ入学註度此段結願供以上

122a

r zE z

︐ f?明治六年何月引学区取締

奥書印式

前書入校側之趣相違無之候・山

学版取締

γ

殿

ド ↑

ところで和徳小学校の明治一一年の﹁入校顕﹂等の多くは﹁学区取締い宛てに

:

i::

学校い:・一︑で指先の記載なしが一通あった︒

:

‑ 21‑

なお学区取締とは﹁学制﹂期において教育行政面で大きな役割を果たした者

で︑青謀県の場介︑各中学区いほに土地肘住の名盟・米の中から一Oないし二一

i

O

Oを分加させ︑区内の就学勧誘︑

ω邦議︑経費︑経常出に大きな力を躍ったのであり︑官庁からの命令︑

学校から行庁への伺い︑掛けなど企て学一肌敢締を経山附して行われたのであっ

そうした﹁学制﹂期の教育行政一が﹁入校総﹂の宛名という一闘にも反帆していたと

φ 

入校側

和徳小学﹄と椋記した明治一五年 ハ一八八一一﹀の入校願締が↓間ある︒これは書式臼体は明治一J年のものとそれ

ほど変わるをところはないが︑﹁胤﹂の本文が例えば﹁右何者制御校江入学為欽度奉願

候然ル上ハ御規山間等凶ク為相守可小紋也﹂というように︑ほ丈例外なく規則瀦守

の旨が盛りこまれている点に大きな特色がある︒明治一三年ハ一八えO﹀の﹁改

正教背令﹂による中央集権的な脅腕主義︑官探統制の強化︑儒教十本説的認育の強

化といった政策動向が︑そうした文面にも反検していると言えよう︒

参照

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