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唐 代 作 家 新 疑 年 録 ㈱
‑欧陽虐・郭元振・陸羽‑せん
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欧陽唐(字行周)○粛宗乾元元年戊成(七五八)生? 植木久行
徳宗貞元十七年辛巳(八〇一)の冬没?享年四十四歳?︹生年の論拠考︺1①欧陽唐が国子監のEI門助教在任中に自らの抜擢を請うた「上郵相公︹余慶︺書」(﹃文苑英華﹄巻六六八︹宋版︺、四部
叢刊﹃欧陽行周文集﹄巻八、﹃全唐文﹄巻五九八)に、
噴、四門助教、限以四考、格以五選、十年方易1官也.自玄循資歴級、然得太字助教.其考選年数、又如四門.
若如之、則二十年臭.自玄循資歴級、然得国子助教.其考選年数、又如太字.若如之、則三十年英。三十年間、末
離助教之官。人寿百歳、七十者稀針作.唐㌔今EI+年有賀、更三十年於此'是左不親高衛遠途臭.況先三十年、
執知存亡哉。
という。この書簡は、同じ中庸期の孟簡(?1八二三)作「詠欧陽行周事」詩(﹃全唐詩﹄巻四七三、﹃太平広記﹄巻二七2四、欧陽唐の条に引く晩唐の黄嘆﹃関川名士伝﹄所引)の序に、
我唐貞元年己卯歳︹貞元十五年)、曽献書相府、論大事。風韻清雅、詞旨切直。
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云々と見える記事に相当し、貞元十五年(七九九)の作である。このとき自ら「唐今四十年に加ふる有り」というから
には'当時、欧陽唐は少な‑とも四十一歳以上であったはずである。これに拠って逆算すれば、その生年は七五九年
(撃空一年)以前となる。つまり、七五九年が欧陽麿の生年の下限となる。もし上書時の年齢が、もう一歳うえの四十
二歳であったとすれば、さらに一年さかのぼって七五八年(乾元元年=至徳三載)生まれ、四十三歳の場合は七五七年
(至徳二載)生まれとなる。前掲の「四十年有加美」の語気としては、このあたりがほぼ限界であろう。つまり、この
論拠①に拠る欧陽唐の生年範囲は、ほぼ七五七、七五八、七五九年となり、後の二者が有力となろう。3②欧陽春が親友に与えた書簡「与王式書」(﹃文苑英華﹄巻六九三︹宋版︺、﹃欧陽行周文集﹄巻八、﹃全唐文﹄巻五九六)に
は、ヽヽヽヽヽヽ4予年二十有1'公範︹王式の字︺与群公、則可予以進士之目、而有令予観国之心.‑‑想当群公之挙、呈容易哉.56度力不任'又先与霊源道士︹察明清︺・虹巌逸人︹羅山甫︺、有播湖合錬奉養之契、乞従宿志、勤勤懇懇、獲与霊源・7虹巌同居者三年。公範与群公、錐不苦以前事相迫'而流言時至。建中初、因当道廉察・故相国常公︹衷︺、本州将・00故中書舎人醇公︹播︺、南澗︹寺︺之談、西湖之礼、丹青目下、程準前期。もとじようこん9という.終りの「建中の初め」云々の部分は、連中元年の五月、故の宰相常套が福建観察使となったこhを指し(辞川・J山播の泉州刺史就亀も、ほぼ同時期と推定されるが、確かな就任年月は未詳)、﹃新唐書﹄巻二〇三、文芸伝下、欧陽鳥の条に、
初、唐与羅山甫同隠渚湖、往見︹常︺裏、衷奇之.辞帰、法舟飲韓.‖りとある記事に相当す翫.これによれば、建中元年(七八〇)、欧陽唐の年齢は、「年二十有l」に霊源道士や虹巌逸人と
同居した「三年」を加えた二十四歳へもし‑は二十一歳の年をも三年のうちの一年に数えた二十三歳となろう。とす
れば、その生年は逆算して七五七年(至徳二載)、もし‑は七五八年(至徳三載=乾元元年)となる。この論拠②による
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生年範囲は、七五七〜七五八年となり、七五七年のほうがやはり有力であろう。
論拠①②に拠る生年範囲のなかで重複する年は、結局④七五七年と⑥七五八年であり、この両者の優劣はなかなか
つけがたい。
ところで欧陽唐の死は、後述するごと‑貞元十七年(八〇一)の冬?と推測される。とすれば'④の享年は四十五
歳、⑥のそれは四十四歳となる。﹃新唐書﹄文芸伝下、欧陽唐の条には、「卒、年四十余」という。童第徳﹃韓愈文選﹄
(人民文学出版社、一九八〇年)には、
按云「年四十余」、自不能超出四十四以上(四捨五入)。
と指摘する(六四頁)。この説の結論は、もちろん必ずしも決定的な判断資料にはなりえないが、ほぼ穏当な推測であヽろう。たとえば、﹃旧唐書﹄巻一九〇中、文苑伝、李畠の条に記される享年「七十余」が、李畠の墓誌の出土によってヽ「七十三」であることが判明したケIT(5もあるからである.つまり、④の七五七年よりも⑥の七五八年(粛宗の乾元元ltJ午)のほうが、二者択7的に選ぶとすれば、享年の点でより穏当であろう。ただ確固とした論拠とは見なしがたいた軌、
疑問符をつけておかざるをえない。︹備考︺
論拠①は、すでに冥勤「聞手欧陽唐的生卒年」(復旦大学出版社刊﹃中国古典文学叢考﹄第一韓、一九八五年)に見え、
この論拠のみによって乾元元年(七五八)か、翌乾元二年の生まれとする。これは、論拠②の存在に気づかなかったた
めに、乾元二年(七五九)生まれの可能性も指摘したのであろう。もし論拠②を加味して判断すれば、その可能性は失
われ、おのずと乾元元年(七五八)生まれとなる。ちなみに、欧陽盾の「上郵相公書」の作成年代が、貞元十五年(七
九九)であることは,すでに羅聯添﹃諾韓愈研究﹄(台湾・学生書局、完八一年)「三㌧韓愈交遊」のなかに収める
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欧陽唐の条に指摘されている。ちなみに、鄭余慶の宰相在任期間は、貞元十四年七月から同十六年八月までである(﹃新
唐書﹄巻六二、宰相表、周道済﹃漢唐宰相制度﹄︹大化書局、一九七八年︺に収める「漢唐宰相年表」参照)0
論拠②は、厳沖﹃陸宣公年譜﹄(芸文印書館、一九七五年)の、天宝十五載の条に、「是の年、欧陽唐生まる」の論
拠として初めて指摘された。ただ厳拝は'常襲が福建観察使となった「建中元年、当に巳に二十五歳なるべし」と
述べ、逆算して欧陽唐は天宝十五載(七五六)生まれのはずだとするが、これは単純な計算の誤りを犯しているらしい。
というのは、すでに述べたごと‑、建中元年当時、欧陽唐は二十四歳、もし‑は二十三歳と推定されるからである。
ところで、呉汝燈「中庸詩人墳考五題」(﹃江海学刊﹄一九八九年二期)も、この論拠②の自述に着冒して、
徳宗の″建中の初め″'欧陽唐はきっと二十四歳であろう。建中年間は、わずかに四年、だから″連中の初め″は、
すなわち連中元年(七八〇)である。これに拠って推算すれば、欧陽唐は、唐の粛宗の至徳二載(七五九)に生まれ
たはずだ。ヽヽヽヽヽという。この説は、論拠①の「四十有加美」という措辞に含まれるあいまいさを切り捨てて'論拠②のみで、その生
年を推定したものである。ただこの論拠②にいう「三年」も'ある種のあいまいさを伴う表現である。というのは、
この「三年」が、いわゆる不特定多数を意味せず、文字どおりの「三年」であるとしても、欧陽唐二十一歳のときを
含めて述べた可能性を全‑考慮の外に置いている。筆者が「二十四歳、あるいは二十三歳」としたのは、そうした可
能性の存在を想定したためである。たとえば、侃豪土「略論碑誌文・史伝文和雑史伝記‑以欧陽唐的伝記為例」(﹃第一
届国際唐代学術会議論文集﹄台湾・学生書局、1九八九年)は、この論拠②のみによって'欧陽唐は建中年間より二十二、
三年前の至徳二載(七五七)か、翌乾元元年(七五八)生まれ、と推定する。つまり、常京と会見した建中元年当時'
二十三、四歳と捉えていたことになる。要するに、呉汝燈の説はやや武断の嫌いがあり、にわかにその結論に従うこ
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とはできない。
︹補遺︺
清の陸心源F711続疑年録﹄巻二と'妾亮夫﹃歴代名人年里碑伝総表﹄は'いずれも欧陽唐を貞元年間の生まれとす
るが、もちろん大きな誤りである。
︹没年の論拠考︺
羅聯添崩肝韓愈研究﹄「三,韓愈交遊」(欧陽唐の条)には'欧陽唐の没年を詳し‑考証して、ほぼ次のごと‑いう0?孟簡の「詠欧陽行周事」詩(﹃全唐詩﹄巻四七三)の夙にいう'
我唐貞元年己卯歳︹十五年︺、曽献書相府'論大事'風韻清雅'詞旨切直。会東方軍熟、府県未暇慰薦。久之'
倦遊大原'遠来帝京︹都長安︺、卒官霊台。悲夫'生於単貧'以狗名故'心専勤倹'不識声色。及玄笠仕'未知洞
房繊腰之為垂惑。初抵大原'居大将軍宴、席上有妓'北方之尤者'屡目於生︹欧陽唐を指す︺。生感悦之'留賞累月'
以為燕椀之楽'尽在是英。既而南韓'妓請同行。生日'「十日所視'不可不異。辞蔦'請待至都而来迎」。許之'
乃去。生麦以塞連,不克如約.過期,命甲遺棄,密往迎妓.妓国債望成疾,不可‰也.先死之夕,勢其雲撃、謂
侍児日'「所歓︹欧陽唐︺応訪我'当以警為脱」。甲至、得之、以乗空帰'授警於生。生為之働怨'渉旬而生亦穀。
①欧陽唐は、貞元十五年の五月と十月'二度にわたって同州韓城県(今の駅西省)に出かけている(欧陽唐「同州韓・E‑城県西尉庁︹壁︺記」)。また同年の冬'韓愈が徐州刺史・徐酒濠節度使張建封の命を受けて都長安に来たとき'欧陽
唐は'国士監四門助教として生徒を引きつれ'皇宮の前に平伏して、韓愈を博士に推薦しようとした(韓愈「欧陽生
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ーll⁚†‑哀執」)。かくて欧陽盾が大原に赴いたのは'貞元十五年の上書(「上郵相公書」)以後'「久しい」(前掲の詩序)後であ
り'貞元十五年のことではない。
②孟簡詩の序中にいう「大将軍」とは,李鋸虹作を指す(欧陽唐「詠徳,上太原李尚書」詩の李尚書も同
uS)
・李説は,伽貞元十一年五月'太原声・河東節度使となり'同十六年十月'在職中に没した(﹃旧唐書﹄巻十三㌧徳宗紀)O欧陽春が
太原に遊んだのは'李説の在世当時'つまり貞元十六年(八〇〇)十月以前のことである。
③欧陽唐の「︹和厳長官︺秋日登大原竜興︹寺︺閣野望」詩(﹃全唐詩﹄巻三四九㌧﹃欧陽行周文集﹄巻二)の詩題に拠
れば'太原での滞在は、貞元十六年秋のことである。
④貞元十六年の秋'妓女と交遊した欧陽唐は'帰京後'約束どおりに迎えに行‑ことができず'か‑して太原の51Eid妓女は憂いのあまり死んだ.唐はそのかかかの髪を手にして食事をとらず,旬を渉て(十日以上たって)のちに死聖
帰京から欧陽盾の死に到る期間を推定すれば'数ヶ月の久しきにわたるはずである。その没年は'ほぼ貞元十七年
のことであろう。
この羅聯添の詳細な論考は'かなり説得力をもつように見えるが'じつは③等で致命的な考証の誤りを犯している。ヽヽヽこれは'欧陽唐の太原での作'㊤「太原和厳長官八月十五日夜西山童子上方翫月'寄厳中丞少戸︹厳綬の兄の紳?︺」詩ヽヽヽ(﹃欧陽行周文集﹄巻三、﹃全唐詩﹄巻三四九)'および前掲の⑥「和厳長官秋日登太原龍興寺閣野望」詩に見える「厳長官」
の人物比定を怠った結果である.この厳長官とは、すでに呉汝慢・胡可先「︽全唐詩︾人名考駒」(﹃徐州師範学院学報﹄
︹哲学社会科芋版︺一九八八年一期)や前掲の呉汝慢「中庸詩人墳考五題」にも指摘されるごと‑'貞元十七年(八〇一)
八月戊午(二十八日)に太原声・河東節度使となった厳綬を指している.﹃唐方鎮年表﹄巻四㌧河東の条や'﹃唐刺史考﹄
巻九〇㌧太原府下参照。つまり欧陽春は'前掲の㊤詩に拠って、貞元十七年の八月十五日以降まで太原に滞在してい