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istoriesofMusicbyJ.HawkinSandC.Bumey AComparativeStudyonthetwoGeneral 『音楽通史』の比較研究 J. C.

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Bu l l . F a c . E d u c . Hi r o s a k iUn i v . 8 8:6 5 ‑7 1( Oc t . 2 0 0 2 )

J. ホ‑キンズ と C. バーニーの二つ

『 音楽通史』の比較研究

ACo mpa r a t iv eSt ud yo nt het woGe ne r a l

H i s t o r ie so fMus i cbyJ . Ha wki nSa ndC. Bume y

今 井 民 子 *

Ta mi ko I MAI *

要 旨

本稿は近代音楽史学の礎 とな ったJ. ホ‑キンズ と C ノ1‑ニーの 『 音楽通史』に関 して,特 に 1 8 世紀の各 国の音楽に対す る両者の見解 を比較検討す る ものである。その結果,明 らか とな ったのは,ホ‑キンズの保 守的音楽観 とバーニーの進歩的音楽観 の相違である。すなわち,バーニーは大陸音楽紀行の成果 をふ まえ, 1 8 世紀の新 しい潮流 を視野 に入れて各国の音楽 を とらえているのに対 し,ホ‑キンズは斬新 な音楽 よ りも, コレツリや ジェ ミニア‑ニに代表 され る古典様式の音楽 に音楽発展の完成 をみていた。ホ‑キンズが 『 通史 』 で示 した古楽復興‑の強い関心は,彼 の保守的姿勢のあ らわれであ り,彼 はその中に,音楽のアマチュア リ ズムの確立 と,古典的趣味の育成 を求めていた といえよ うO

キー ワー ド : ∫. ホ‑キンズ,C ノi‑ニー,古楽復興運動,市民 コンサー ト

∫. ホーキンズの『 音楽の学 と実践 の通史 』( 1 7 7 6 ) と C. バーニーの 『 音楽通史 』 ( 1 7 7 6 ‑1 7 8 9 ) は,と もに近代音楽史学の確立に多大の貢献 を した。二 つの 『 音楽通史』はほぼ同時期 に出版 されたが, 概 してホ‑キンズが音楽家の生涯の物語的記述に 主眼をおいているのに対 し,バーニーは 自らの大 陸見聞紀行の成果 をま じえつつ,各時代 と諸 国の 音楽状況 を極 めて体系的に整理,構成 している。

本稿では,二人の『 通史』の広汎な内容の中か ら, 特 に 1 8 世紀の ドイ ツ, フランス,イ タ リアの音楽及 び本国イギ リスの音楽 とその振興,普及の現状に ついて両者の見解 を比較検討す るQ

Ⅰ . ドイツ音楽

ドイ ツの音楽事情 についての二人の記述は ど う であろ うか。ホーキ ンズが言及 してい るのは ,∫ . S. ク ッサ ー,良. カイザ ー ,∫. マ ッテゾ ン, D. ブ ク ステ フ‑デ,バ ッハ一族, G.Ph. テ レマ ン,∫ .G.

ヴァル ター,渡米前の若 きG.F. ‑ ンデルな どであ るが, とりわ け,英国ゆか りのクッサー とマ ッテ ゾンの詳 しい記述は注 目され る ( 以下 ,∫ .Ha wk i ns , 1 7 7 6 ,P P. 8 5 0 ‑8 5 6 ) 。 ク ッサーは,パ リで J . B . リ

*弘前大学教育学部音楽教室

De pa r t me ntofMus i c, Fa c ul t yof E duc a t i on, Hi r os a kiUni ve r s l t y

ユ リイに学び, ヴオル フェンビュッテル, シュ ト ウツ トガル ト,ハンブル クで活躍後, ロン ドンに 在住 し,その後ダブ リンの宮廷楽長,聖堂楽長 を 務 めて当地で没 した。 ここでは, ク ッサーのイタ リア式歌唱法の ドイ ツ初の導入者 としての功績 と ハンブル クオペ ラでの成功,その他音楽理論 の研 究が言及 され る0

‑万 ,1 8 世紀最大の音楽理論家,マ ッテゾンは

周到な音楽教育 と諸学問を学び,歌手,オルガニ

ス ト,作曲家,学者 を兼ねた万能の音楽の才人に

成長 した。彼はハンブル ク大聖堂の楽長職 ととも

に,ハンブル ク駐在大使 ,∫ . ウィ ッチ卿父子の秘

書を生涯務 めた ことで英国事情 に精通す るよ うに

な った。ホーキンズは彼の最 も重要な音楽関係の

著作 として , 『 新設のオルケス トラ』 ( 1 7 1 3 ) ,音楽

雑誌 『ク リテイカ ・ ムジカ 』( 1 7 2 2 ‑2 5 ) ,『 音楽的

愛国者 』( 1 7 2 8 ) ,『 完全なる楽長 』( 1 7 3 9 ) を挙げ,

記述が散漫で判断力よ りも学識が まさるき らいは

あるが,知識に富む文献 と評価す るQホ‑キンズ

が ドイ ツ音楽に関 して,マ ッテゾンの著作 ととも

に情報 の正確 さ と広 汎 さで透逸 とす る J .G. ヴァ

ル ターの 『 音楽辞典 』 ( 1 7 3 2 ) に多 くを依拠 した こ

(2)

6 6

とは,彼の 『 通史 』 の数多 くの出典例か らも明 ら かである。マ ッテゾン とヘ ンデルはハンブル クで 修行時代を ともに過 ごし,終生尊敬 しあ うライバ ルであったが,血気盛んなハ ンブル ク時代,マ ッ テゾンのオペ ラに出演 した二人がハープシコー ド の奏者役 を争 って決闘に及んだ, とい うエ ピソー

ドをホ‑キンズが紹介 している。

また,∫ .S. バ ッハについては,バ ッハ家の先祖 にさかのぼ って,エア フル ト系のJ . ベル ンハル ト,

∫ . S. バ ッハ以前 の最大のバ ッハ といわれ るJ . ク リ ス トフ と三人の息子たちな ど,バ ッハの傍系一族 の名が挙げ られ る.ホ‑キンズは,J . S. バ ッハの カノン書法 とペダル を用いたオルガ ン演奏を讃 え, オルガ ンの即興演奏でフランスの高名なオルガニ ス ト,マル シャンに完勝 したエ ピソー ドに もふれ ているが,バ ッハの四人の息子たちは名を列挙す るに とどまっている。

一方,バーニーの 『 通史』の 1 8 世紀 ドイ ツ音楽 は,ハ ンブル ク, ヴイーン, ドレスデ ン,ベル リ ン, ミュン‑ ン,マンハイム, シュ トウ ッ トガル

ト, ライブツイ ヒな どの主だ った都市毎 に整理 し て記述 され る。 ここでは,彼の見聞の成果が発揮 され,ホ‑キンズが全 く扱わなか った 1 8 世紀後半 の新 しい音楽の潮流が説得力をもって語 られ る。

中で もその最 も画期的な ものは,C .W. グル ック のオ ペ ラ改 革 で あ る ( 以 下,C .Bume y,1789 , pp. 942‑43) 。詩人R.S.F.M. カル ツアビージの協 力を得て上演 された 《 オル フェオ》( 1 764)は,旧 来の古風なA.カルダ ラや J . ∫ . フ ックス とは異なる ものであったが,バーニーはグル ックのオペ ラの 単純化は,詩 を重視 して作曲家や歌手 を犠牲 にす るもので,非凡な才能ある歌手に恵 まれたイギ リ スでは, ドラマに配慮 してシンフォニーを短縮 し, 装飾やカデ ンツを禁 じて も失 うところが大きい と する。彼はグル ックの音楽 よ りも詩 を優先す るオ ペ ラ手法に必ず しも賛 同す るものではなか った。

マ ンハイ ムでは,∫ ,シュター ミッツによ り飛躍 的に発展 した新 しい シンフォニーに 目が向け られ る ( 以 下,C .Bu me y,1 789,PP.945) 。バ ー ニ ー は,イギ リス音楽衰退の原因を国外 の新 しいシン フォニーの急激な進出のためである とす る同胞, ア ヴイソンの論評 を退 け,対照 とクレツシェン ド, デ クレツシェ ドの生み 出す シンフォニーの効果が, 近年の器楽音楽に寄与 した ものは,A. コレツリや F. ジェ ミニア一二,‑ ンデルの追随作品 とは比べ

ものにな らない とした。

∫ . ハイ ドンについては, とりわ けシンフォニー やカルテ ッ トその他の器楽曲を高 く評価す る ( 以 下,CBume y,1 789,P. 959‑60) .快活 さ とユ ー モアにあふれたア レグロ楽章 と,崇高な想念 と和 声で悲憤的効果を もつアダージ ョ楽章 は ともに魅 力がある とす るバーニーは,ハイ ドンの音楽の美 点を真面 目さと謂譜味の対照の妙 に求めている。

バ ッハ一族のセバスチャン とエマヌエルの親子 については,二人が もしナポ リやパ リ, ロン ドン のよ うな大都市で活躍 したな らば,無意味な技巧 や奇抜 さを抑制 して分か り易い音楽 を書き,今世 紀最大の音楽家 とな っただ ろ う, とその才能 を惜 しむ ( C .Bu me y,1 789 ,P. 955) 。バーニーは特 に エマヌエル を大き くとりあげ,その創作の方針 を 明 らかにす る。つま り,エマヌエルの創作の中心 はクラヴイコー ドもしくは ピア ノフォルテの作品 で,演奏上重要なのはオルガ ン と異な って音の持 続 しない鍵盤楽器 において も,できるだ け声楽の よ うに弾いて聴 くものの心を とらえることだ とい う。彼はまた,エマヌエルの作品の大胆な転調 と 休止,半音 の使用,突然の飛躍的表現にハイ ドン との類似性 を指摘す る一方, ヴァイオ リン曲の分 か り易 さと着想,譜譜味はハイ ドンの方がまさっ ている とした。

この他バーニーは, ヴァル ターやマ ッテゾン と 並んで L Ch r . ミーツラー ,∫ .A. シャイベ,F .W. マ ーブル ク,∫ . A . ヒラー らの新 しい音楽ジャーナ リ ズム関連の文献や ( C. Bume y,1 789,PP. 947‑49) , J . クヴァンツ, C.Ph.E. バ ッハ,L.モーツアル ト,

∫ . F . ア グ リコラらの演奏法の体系的な教則本に も もれな くふれている ( C .Bume y,1 789,PP.947‑

50) 。因みにバーニーは,ハイ ドンを除 く上述の音 楽 家 のす べ て と ドイ ツで直接会 見 を果 た し ( C.

Bume y,1 959) ,ハイ ドン とはバーニーがイギ リス 帰国後,交流 した事実がある ( p. A .Sc hol e s ,1 948 , pp.110‑ 118) 0

ホ‑キンズは,1 7 世紀以降の音楽 を評 してイタ リア音楽の理論 と実践両面での偉大な進歩 と, ド イ ツ, フランス,イギ リスによるその追随である

とした ( ∫ . Ha wk i ns ,1 776,P.776) 。一方バーニー は, ドイ ツ人の才能 の欠如を糾弾することは,彼 らの芸術,科学にお ける業績 に対す る偏見 と無知 である として, これ を厳 に戒めている ( C .Bu me y , 1 789,P.963) 。彼は 『ドイ ツ音楽紀行』の最後で, イ タ リア音楽の比較か ら ドイ ツ音楽を特長づ ける

( 以下,C .Bume y,1 959,P. 2 44) 。つ ま り,音楽

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に適 した言語 を もつイ タ リア は卓越 した声楽 を発 展 させ,非音楽的言語 を もつ ドイ ツは器楽 を確立 した。そ して, ドイ ツ音楽の美点 は忍耐 と深淵 さ であ り,欠点 は冗慢 さと学識ぼる ことである,イ タ リア人は怠慢す ぎる し ドイ ツ人は凝 りす ぎる, と両者 の音楽 を公平 に評価 している。

Ⅱ. フランス音楽

1 7 , 8 世紀 の フランス音楽 にお ける中心テーマは, や は りイ タ リア音楽 との比較優劣論であろ う。ホ ーキンズは, フランス国内で約一世紀 にわた って 展 開 された フランス,イ タ リア音楽の優劣論争 の 発 端 とな った F. ラ グネ と J .R. ル ・セ ール ・ド・

ラ ・ヴイ エ ヴ イル の議 論 に詳 し く言 及 す る ( ∫ . Ha wk i n s ,1 7 7 6 ,P P. 7 8 1 ‑7 8 4 ) 。 ラグネ の著書 『イ

タ リア とフランスの音楽 とオペ ラに関す る比較』

( 1 7 0 2 ) は,イ タ リア音楽礼讃 の立場 を とり,そ の主張 は以下の とお りである。

まず, フランスオペ ラのす ぐれ た点 として台本 の首尾一貫性,神々や王,英雄 にふ さわ しい男性 バス,合唱,舞踊, ヴァイオ リンやオ ーボエ, フ ル ー トの演奏,舞台のスペ クタクルな どが挙げ ら れ る。一方,イ タ リア音楽が まさっているのは,

よく響 く母音 の多いイ タ リア語 のお蔭である。 さ らに,イ タ リア人の着想 は無尽蔵であ り,耳にな じみ易 く淀み のないフランスのエール に比べ て, イ タ リアのア リアは転調が大胆で不協和音や大胆 なカデ ンツもあえて取 り入れ る し,複数声部 の歌 はフランス よ りもすべ ての声部が念入 りにできて いる。その他,イ タ リアの レチ タティーヴオは撤 杏,簡潔で抑揚 に富み,和音伴奏 も絶妙である。

また,イ タ リアオペ ラにお けるカス トラー ト歌 手 の役割 は絶大で,その甘美で力強 く,長年衰 え ない声 と女役 の美 しさは女性歌手 も及ばない もの である。器楽演奏で もイ タ リアはす ぐれ ていて, 弦楽器 は音量 の豊かな大型 の楽器 を用 い,演奏技 能 の高 さは 1 4 , 5 才の子供 に さえ認 め られ る。 ラグ ネは最後 に,イ タ リアオペ ラの壮大華麗な舞台装 置 と精巧な機械仕掛 けに もふれ る。

一方, フランス音楽擁護派 のヴイエ ヴイル はそ の著書 『イ タ リア音 楽 とフ ラ ンス音 楽 の比較』

( 1 7 0 4 ‑0 6 ) で, あ らゆ る音楽家の筆頭 に リュ リ イを頂 き,その下 に位置づ けた コレツリの作 品は 不協和音が多 く耳障 りで規則 に反 している と批判 す る。 また,カス トラー トの価値 も否定 し,舞台 装置や機械仕掛 けに至 ってはフランスが他 を凌い

でい る とい う調子である。ホ‑キ ンズはヴイエ ヴ イル の論考 を再録 した p. ブル ドロ と p. ボネ,∫ . ボ ネ兄弟の著 した『 音楽の歴史 とその効果 』( 1 7 2 5 ) を とりあげ, ヴイエ ヴイルを強硬 に支持す る著者の 見解 に対 し,イ タ リア音楽が好 まれ るのは広 く認 め られた通念である としなが らも, どち らに与す るこ とな く中立の立場 を とってい る ( J . Ha wk i n s , 1 7 7 6 ,P. 8 3 3 ‑3 7 ) 。

その後 の 1 8 世紀 のイ タ リア音楽対 フランス音楽 の論争 は,ホーキ ンズには全 く言及がな く,バー ニーによって初 めて明 らか にされ る。彼 はまず, 1 8 世紀前半のフランス音楽低迷 の原 因は, フラン ス人の才能 の欠如や音楽に不適切 な言語 よ りも, リュ リイ様式の頑強な固守 とヨー ロッパの新 しい 音楽 の排 除である と分析す る ( C ,Bume y ,1 7 8 9 , p. 9 6 4 ) 。彼 は J . ‑ P h . ラモ ーの様 式 を, リュ リイを 基盤 として和声 を豊か に旋律 に変 化を与 えた もの とし, フランス伝統 のオペ ラは, ラモーの学識 と 才 能 に よ って頂 点 に達 した とす る ( C .Bume y , 1 7 8 9 ,P P. 9 6 6 ‑6 8 ) 。 しか し, ラモ ー の傑作 オペ ラ 《カス トル とポ リュクス 》( 1 7 3 7 ) に対す る彼 の 評価 は舞 曲以外 は概 して低 く,結局 ラモーは, リ ュ リイの粗野でぎ こちない欠点 にた っぷ り味付 け を して不快 に した よ うな もの と批判す る。

1 7 5 2 年 のイ タ リア歌劇 団による G. B . ペ ル ゴ レー ジの幕 間オペ ラ 《奥様女 中》 のパ リ公演 をきっか けに, フランスにお けるイ タ リア派 とフランス派 の本格 的対立が始 まった ( 以下, C. Bume y ,1 7 8 9 , p p. 9 7 0 ‑7 1 ) 。双方か ら出 された多数 のパ ンフ レッ

トの中で も ,J. J. ル ソーの 『フランス音楽 に関す る書簡 』( 1 7 5 3 ) は,す ぐれた感覚 と趣味,理性 に あふれ た ものだ ったが激 しく非難 され,彼 に見た てた人形がオペ ラ座 の前で焼 き打 ち され るほ どだ ったOル ソーは同 じ頃,イ タ リア歌劇 団の公演 に 感化 されて,全 くのフランスオペ ラで もイ タ リア オペ ラで もない,親 しみやす い民謡風の幕 間オペ

ラ 《村 の 占師 》( 1 7 5 3 ) を作 曲上演 し好評 を博 した。

しか し 1 7 5 4 年,イ タ リア歌劇 団がパ リか ら追放 さ れ る とイ タ リア熱は下火 とな り,従来 のフランス 古典オペ ラが復活す る. 因み にバーニーは 1 7 7 0 年, イ タ リアか ら帰 国途 中立 ち寄 ったパ リで念願 のル

ソー との会見を果た した ( C.Bume y. 1 9 5 9 , P P. 3 1 3

‑1 5 ) 0

続 けてバーニーは,第 2次ブフォン論争 ともい

うべ きグル ックニ ピッチ ンニ論争 について も言及

す る ( 以下, C. Bume y ,1 7 8 9 ,P P. 9 7 2 ‑9 7 3 ) 。1 7 7 4

(4)

6 8

午, ウィーンか らパ リにや ってきたグル ックのオ ペ ラは, フランス語 と伝統的フランス趣味に適 っ た もので, リュ リイや ラモーよ りもレシタティー フはすばや く,エールは活気があ り,激 しい情念 を巧み に表現 したが,そのあま りに も強い劇的効 果は音楽 を粗 けず りにす るき らいがあった。グル ックがパ リの人々に称賛 され る中,1 776 年,ナポ リ派の大家 ,N. ピッチンニが現れてグル ック派 と ピッチンニ派 による優劣論争が再燃 した。実際, この論戦は明確な決着を見ぬままに終わ ったが, バーニー 自身, 曲をい くら細か く分析 して も音楽 の楽 しみ を減ず るだ けで, とりわけ音楽の愛好家 は感情 の赴 くままに耳を傾 けるべ きだ としている。

彼は最後に, フランスはす ぐれた音楽 を目ざ して 進歩す るべ きで,そのためには リュ リイや ラモー をす っか り忘れて全 く異なる歌唱法 を確立 しなけ ればな らない, とフランスオペ ラの根本的変革 の 必要 を といている。

ラモーの和声理論 に対す るホ‑キンズ とバーニ ーの評価 の違い も興味深い。ホ‑キンズは, ラモ ーの根音バスの原理は物理学上のニュー トンの功 績に も匹敵す る と称 える ( ∫ . Ha wki ns ,1776,P. 901) 0

しかるにバーニーは, ラモーの理論 の過大な評価 を戒 めて い る ( C .Bur ne y ,1 78 9 ,PP. 968‑69) 0 彼は,根音バスの概念はラモー以前 に もすでに存 在 してお り, また この原理が傑作 を書 く上で不可 欠の ものではない とした。 ラモーの理論 をめ ぐる 二人の見解 の相違は,保守的なホ‑キンズの和声 主義 と,進歩的なバーニーの旋律主義の反映 とも 考 え られ よ う。

Ⅲ.イタ リア音楽

ホーキンズの18 世紀イ タ リア音楽に対す る関心 は驚 くほ ど低 い といわ ざ る を得 な い ( 以 下 ,∫ . Ha wki ns ,1 776 ,PP. 897‑98) 。過去一世紀以上に わたってイ タ リア音楽は著 しく進歩 し,理論,莱 践 ともにコレツリを学んで最後の完成 を遂げた。

しか し,彼の死後, とりわけ器楽 曲は彼の様式一 辺倒 とな り,着想の素材 も枯渇 して しまったかに み える。ただ,その後 の音楽家たちの中で,単な る模倣か ら脱 して和声の基礎 に新 しい要素を結合 し,斬新な様式 を確立 した もの もいる。その よ う な音楽家 としてホ‑キンズはF. ジェ ミニアーニ, ペルゴレージ,G. タルティーニ,L. ヴインチ,L.

レオ,B. ガル ツどらの名を挙げるが,個別の記述 はペルゴレージ とタルティーニだ けに とどまって

いる。ペルゴ レージ以降のナポ リ派オペ ラよ りも, 古典様式 のコレツリとその弟子のジェ ミニア‑ニ にイタ リア音楽の完成をみ るホ‑キンズの見方 に は,バーニー と著 しく異なる保守的傾 向がみて と れ る。

これ とは対照的にバーニーは,イ タ リア音楽‑

の熱烈な傾倒か ら, 自国のイギ リスに次 ぐ多 くの 紙面を費や し, とりわ け18 世紀のイ タ リアオペ ラ に関す る 『 通史』の 4 巻 ,7 章か ら 9 章は,いわば イ タ リア音楽の同時代史 となっている。本稿では, 彼が最 も重視 したナポ リ派の二人の大家,ペルゴ

レージ とN.ヨメッリの記述 を とりあげる。

ペルゴ レージは, コンセル ヴァ トー リオ に入学 徳,早 くも非凡な才能を発揮す るが,学識ぼ った 対位法は趣味や旋律 を犠牲 にする との思いか ら, 想像力にまかせて 自由な音楽を書 くことを望んだ ( 以下,C .Bume y ,1789 , . 920‑924) 。 コンセル ヴァ トー リオ を卒業す る と,彼はヴインチやJ . A.

ハ ツセに倣い,簡潔,明快な様式を確立 したが, 優美 さと面 白みでは二人を凌いでいた。名詩人, p . メタスタージ ョの台本に よる 《 オ リンピアーデ》

( 1735)は彼 の 自信作であったに もかかわ らず, ローマの人々の関心 を引かなか ったのは,彼 らの 判断の誤 りと趣味の欠如 といわ ざるを得ない。ペ ルゴ レージの真価が認め られ るのは彼の早世後で, このオペ ラも死後 に大いに敬意 をもって再演 され た。

彼の死因は肺結核であったが,その天分‑の嫉 妬か ら毒殺説 も生まれた。彼の作品は手の こんだ ところが全 くないが,声部書法が薄 くユニゾンの 多い宗教曲で も,演奏効果は楽譜で見るよ りもず っ と大き く美 しい。ペル ゴレージの宗教 曲につい て,マルティーニ神父やイギ リスの音楽批評家は, そのゆ っくりしたア リアのあま りに も軽々 しい動 き と劇的傾 向を非難す るが,彼の 《スタバー ト・

マ‑テル》 の豊かな学識 と神々 しさは, どんな伴 奏付 き宗教曲に もまさっている。

しか し,二つのヴァイオ リンと低音 のための ト

リオ ソナタは,L. ボ ッケ リーニやハイ ドン ,J . K .

ヴァンハル らの大胆で変化に富む作品を聴 き慣れ

た現代の人々には魅力がな く,彼 と同時代のタル

ティーニやF .M. ヴェラチ‑ニ,ミラノの G. B . サ ン

マルティーニの様式 と比べて もすでに時代お くれ

だ った。バーニーは最後 に,ペル ゴレージの声楽

曲の簡潔,明瞭,甘美な表現は,彼以前 と同時代

の音楽家すべてを凌駕す る ものであ り,その洗練

(5)

された宗教曲 とオペ ラの様式は今なお全 ヨー ロッ パを支配 している, と総括 している。

一方,後期ナポ リ派の代表的作曲家, ヨメッリ は,は じめイ タ リアでオペ ラ作曲家 として活躍後, シュ トウツ トガル トのヴユルテンプル ク公爵の宮 廷に移 るが,再びナポ リに帰 りその生涯 を終 えた ( 以 下,C .Bume y,1789,PP.927‑34) 。彼 のオ ペ ラの舞 曲は大変す ぐれてお り, とりわ けシャコ ンヌはイギ リスで も有名で,全 ヨー ロッパ中の模 範 とな った。彼はす ぐれた和声家で,その様式は 厳粛で堂々 としているので,オペ ラよ りも宗教 曲 に才能が発揮 されている。 ヨメッリは ローマで四 旬節のための 《エ レミアの哀歌》( 1 751)の作曲を, F , デ ュランチ,D. ペ レス とともに依頼 され るが,

これ を契機 に彼は本格的に宗教 曲に とりくむ よ う になる。三人の作曲家が担 当 した三つの各戒律の 音楽はいずれ も傑作であったが, ヨメッリとペ レ スが優美で表現豊かなオ ラ トリオの様式である一 方,最年長のデ ュランテは,転調や声部の書法が 入念な古い教会様式である。

彼は対位法の大家,マルティーニ神父の もとで, 模倣様式の書法に磨 きをか けるが,彼 の作品の中 で最 もこみ入 った書法の ものは,な くなる前年 に 書かれた器楽伴奏付 き 2声の《ミゼ レ‑ レ》 ( 1773) である。敬度な厳粛 さの中の改俊の情が,転調 と 斬新な効果で表現 され るが,その分,分か り易 さ と優美 さは失われた感 もある。すべての楽章がゆ っくりした この曲の演奏が声楽,伴奏 ともに大変 難 しいのは,彼が卓越 さを求めるあま り, 自身の 感情 に任せ るよ りも,技巧 と学識を駆使 した結果 である。 ヨメッリには 3 つの作曲様式,すなわ ち, 初期のヴインチやペルゴレージ風の分か り易い上 品な様式 と, シュ トウツ トガル ト時代 に培 った複 雑な模倣様式, さらにイ タ リア帰国後の簡潔で声 部の薄いオペ ラの様式である。バーニーがイ タ リ ア旅行で ヨメッリと会 うのは彼 のな くなる 4 年前 で,その精力的な活躍ぶ りに深い感銘 を うけるの である ( C .Bu me y,1 959,PP.258‑59) 0

Ⅳ. イギ リス音楽

二人の 『 通史』では,イギ リスの作曲家による バ ラ ッ ド.オペ ラやイ タ リア風オペ ラは,偉大な

‑ ンデルのオペ ラの蔭 に隠れて しまった感がある が,イギ リスのオペ ラ史上無視できない ものであ る 。∫ . ゲイ作 ,∫ . C . ペ プシュ作 曲の最初 のバ ラ ッ ド・ オペ ラ 《乞食オペ ラ 》 ( 1728)は,無法者の盗

賊や娼婦 を登場 させて, 当時の社会の腐敗 を痛烈 に風刺 した異色の ものだが,ホ‑キンズは このオ ペ ラの社会的悪影響 を強調す る ( 以下, J .Ha wki ns , 1 776,PP.87 4‑75) 0

街道強盗団の首領,マ ックヒースは,勇敢で気 前が よく紳士風物腰 の英雄 として描かれているの で,女道楽 と犯罪を重ねて も世論は容認 している。

しか し,オペ ラの社会 に与 える害悪は現実の もの とな った。すなわち,強奪 と暴 力が増加 し,財産 権や法律上の契約 は根本か らくつがえされ,すべ ての家屋は城のよ うに堅牢 とな り,勤勉 さを軽蔑 し怠惰 と犯罪の虜 とな った若者は,街道強盗の罪 で処刑 された。ホーキンズは,ペブシュの保守的 音楽 と古楽研究家 としての業績 を高 く評価す る一 方,《乞食オペ ラ》の反道徳,反倫理的側面を激 し

く非難す る。

一方,バーニーは伝統のバ ラ ッ ドや流行のオペ ラのア リア をパ ロディー化 したバラ ッ ド・オペ ラ の本質を理解 した上で,《乞食オペ ラ》については, バ ラ ッ ドをモチーフ とした序曲 と,粗野で俗悪な 旋律にどんな対位法家 も及ばぬ見事なバスを書い たペ ブシュの力量 を認 めている ( C .Bume y,1 789 , p.986) 。その後のバ ラ ッ ド・オペ ラについて も, C. ジ ョンソン作の 《 村のオペ ラ》( 1 731 )とこれ を 模倣 したピッカースタ ッフ作の 《 村の恋》 ( 1 762) ,

ドイ ツ初の コ ミカルなジングシュピールの下敷き とな った 《さあ大変》な どが挙げ られ る ( C .Bume y , 1 789,P.1 000) 。 また ,H. ケア リー作 ,J .F. ランプ 作曲のイ タ リア風バ ラッ ド・ オペ ラ,《ウォン トリ ーの竜》 ( 1737)は大好評 を博 し,《乞食オペ ラ》

同様 に長 く上演 された ( C .Bume y,1 789,P.1 003

‑04) 。バーニーは,このオペ ラの英雄風 の茶番劇 歌の美 しい竜, レチ タティーヴオ,華麗な衣 音楽のスタイルな どが,聴衆にかつての叙情 風のオペ ラを思い出させた と高 く評価す る。

さらにバーニーは,1 8 世紀後半のイギ リスオペ ラの代表者で,彼が若 い頃師事 した F. A . アーンに ついて詳述 している ( C .Bume y,1 789,P. 1 004) 0

アーンは ,J . ミル トン作のマスク劇 《コーマス》

( 1738)で名声を確立 したが,その旋律はH. パー

セルや‑ ンデル とも全 く異なる,軽快,優美で独

創的な ものだ った。イギ リスの人々に大変分か り

易 く, 自然で心地 よい彼の旋律は,イギ リスの音

楽史に一時代を画 したが ( C ,Bume y,1789,P. 1 004) ,

メタスタージ ョ作の 《アル タセルセ》( 1762)では,

それ までの旋律スタイルか ら, よ り洗練 されたイ

(6)

7 0

ギ リス趣味に変わ り,ア リアにはイ タ リア風 の装 飾や技巧が導入 された ( 以下,C . Bu me y ,1 7 8 9 , p p. 1 0 1 5 ‑1 7 ) 。

彼の旋律は概 して,イ タ リア風で もイギ リス風 で もな く,イ タ リア とイギ リス,スコッ トラン ド の ものが美 しく混 じりあっている。ア‑ンは決 し て‑ ンデルの模倣者ではな く,彼の信奉者 もす ぐ れた対位法家 とみな していなか ったが,彼は密か に‑ ンデルや ジェ ミニア‑ニ,ペ ブシュの学識 に 敬意 を表 していた。パーセルの無尽蔵の着想 と独 創的な想念,つ ま りあ らゆる機会 に応 じた手法は, 彼 には認 め られないが,その世俗曲は,分か り易

さと上品 さ,多様性でパーセルを凌 ぐもの といえ よ う。 フア リネ ッリらイ タ リアの有名歌手は,イ ギ リス趣味に何の効果 ももた らさなか ったが,ア

‑ンはイ タ リアを模範 として旋律や歌唱法の洗練 に努めた とす るバーニーは,ア‑ンの示 したイギ リスの伝統 と新 しいイ タ リア様式の融合に,イギ リスの 目ざすべ き方 向を見出 した と思われ る。

Ⅴ. 音楽の振興 と普及

二人の 『 通史』で興味深いのは,音楽家の生涯 や業績 と並んで, コンサー トや音楽愛好家の組織 な ど,音楽の振興 と普及に関す る記述であ り, と

りわ けホ‑キンズは多 くの情報 を提供 している。

一般市民を対象 とす る会費制のコンサー トは ,1 7 世紀 中頃 よ り中部 ドイ ツやネ‑デル ラン ド,パ リ, イ ングラン ドで始 ま り,エール ・ ハ ウス ( 居酒屋) を会場 とす るもの も少な くなか った ( W. ザル メン, 1 9 9 4 ,P P. 2 4 ‑2 6 ) 0

ホ‑キンズは, コンサー トを,個人の家や公 け の建物で娯楽 を 目的に有料で催す演奏会 と定義す る ( 以下,∫ . Ha wk i n s ,1 7 7 6 ,P P. 7 6 2 ‑7 6 5 )

0

1 6 7 2 年か ら 9 8 年に至 る 『ロン ドン新 聞』掲載の コンサ ー トの予告 は, 当時の活発な コンサー ト活動 を物 語 っている。例 えば, 「 ホ ワイ ト・ フライヤーズの ジ ョージ ・タバ ン向かいのJ . バニスター宅にて, 名演奏家の演奏あ り,今週月曜 日,午後 4時 よ り, 以後毎 日演奏 ( 1 6 7 2 年 ,1 2 月 3 0 日) 」 「 イギ リス初 の 4つの トロンバ ・マ リーナ ( 弦楽器の一種)の 珍 しい コンサー ト,セ ン ト ・ジェームズ宮殿近 く のフ リース ・タバ ンにて, 日曜を除 く毎 日2時頃 よ り ,1 時間演奏後,再演,最上席 1 シ リング,他 は 6 ペ ンス ( 1 6 7 4 年 2 月 4 日)」とい う具合である。

因み にJ . バニスタ‑は,国王オーケス トラの一員 で ,1 8 世紀初頭, ドル リー ・レーン劇場の首席 ヴ

アイオ リン奏者 を務 めたJ . バニスターの父親であ る 。1 6 8 9 年 よ り新 しい会場 に ヨーク ・ビルディン グズが加わるが,その後の広告 には,外 国の王族 や貴族 を主賓 とす る ものや,p.F. トージ ら当代一 流の歌手の出演す るもの,音楽家の扶助 を 目的 と す る慈善演奏会 もあ らわれ る。

ロン ドンの一介の石炭商,T. ブ リ トンが 自宅で 主宰す るコンサー トは ,1 6 7 8 年か ら彼の亡 くなる 1 7 1 4 年 まで続いたが, 当時のアマチ ュア音楽家層 の広が りと人々の音楽‑の熱狂ぶ りを示す もので あ る ( 以 下,∫ . Ha wk i n s ,1 7 7 6 ,P P. 7 8 8 ‑7 9 9 ) 0 会場は石炭倉庫 2階の細長 く,天井の低い粗末な 部屋であったが, クイーンズベ リー公爵夫人を含 む上流の人々 も訪れた。演奏は,ハープシコー ド はペ ブシュ と‑ ンデル,第一 ヴァイオ リンはバニ スターその他の一流奏者が担 当 し,アマチ ュア音 楽家 も何人か ヴァイオ リンを弾いた。独学で音楽 を身につ けたブ リ トンは,音楽のす ぐれた収集家 として も著名であった。印刷本や手稿の楽譜,理 論書 と種々の楽器か らなる彼 のコレクシ ョンの規 模 と多彩な内容は驚 くべ き ものである 。1 6 世紀か ら 1 8 世紀 にわたるイギ リス,イ タ リア, ドイ ツの 器楽 曲,イギ リスを中心 とした声楽 曲にまじって,

リュ リイの作品,R. デカル ト ,T. モー リーの理論 書 もわずかなが ら含 まれ る。

経済の発展 と生活の向上 とともに,娯楽を 目的 としたコンサー トが,何千人 もの人々を収容す る 巨大な庭 園 とホールを備 えた大娯楽場で始 まった。

ロン ドンのヴオークスホール ・ガーデ ンズはその 代表である.ホ‑キ ンズは, この大娯楽場の成立 と発展の経過について記述 している ( ∫ . Ha wk i n s , 1 7 7 6 ,P. 8 8 8 ) 。 ヴオークスホールの起源はあま り 明 らかでないが ,1 6 6 7 年 に S. モア ラン ド卿が 自分 の庭 園に建てた豪華な建物が始 ま りで,その内部 はすべて鏡張 りで噴水を備え,多 くの人々が訪れ た とい う。

その後 ,1 7 3 0 年,新 しい所有者 とな ったJ. タイ ヤ‑ズは,庭 園に多数の木々を植 えて散策用 の遊 歩道 をつ く り,建 物 を遊戯 場 に改 造 した。彼 は

「 涼やかな集い」の名の もとに, この庭 園 と建物 に一流のオ ーケス トラ とオルガ ンを配 して,夏期 の娯楽 コンサー トを催 した。庭園の 目立つ場所 に は,絶頂期の‑ ンデルを諾 えて,ル ビヤ ック制作 の大理石 のヘ ンデル像が立て られた。

その後生 まれた同種 の大娯楽場 として有名な も

のに, ラネ ラ伯爵邸 を改造 した ラネ ラ ・ガーデ ン

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ズがある。その円形の建物の内部 には,一群のオ ーケス トラとオルガ ンが備わ り, また軽食喫茶用 の小部屋や桟敷席,テーブルがあちこちに設 け ら れ,人々は歩きなが ら,あるいは席 に座 って音楽 を楽 しんだ。 ここで演奏 される曲は,大衆的な娯 楽風の器楽 曲,歌曲,バ ラッ トな どである。幼い モーツアル トのための ヨー ロッパ演奏旅行で ロン ドンに滞在 した父親 レオボル トは , 1764 年,故郷 の友人宛の書簡の中で, ヴオークスホール とラネ ラの,ホール と遊歩道の華麗な照明 と喫茶 の設備, 一流の楽団 とオルガ ンの演奏,安い入場券で身分 の別な く音楽 を享受す る人々の様子に驚嘆 してい る ( W. ザ ル メン , 1994, PP.239‑240) 。 この よ うな大娯楽場は,パ リや ドイ ツ,オース トリア, ア メ リカの各都市に も波及 し,散策 しなが ら音楽 を楽 しむ習慣は,現在の ロン ドンの ロイヤル ・ア ルバー トホールのプ ロムナー ド・コンサー トに受 け継がれている。

音楽振興 を 目的 とす る親睦団体 , 「 古楽アカデ ミ ー」について も,ホーキンズは強い共感 をもって 報 告 して い る ( 以下,∫ . Ha wki ns , 1776, PP.885

‑86) 。古楽アカデ ミーの 目的の一つは,子 どもの 音楽教育で,創立 メンバーの一人であるペブシュ が音楽理論 と演奏の指導にあた り,将来職業音楽 家 として活躍す るもの もあ らわれた。アカデ ミー は,国外 の著名な作曲家 とも交流 し, 自作の贈呈 がきっかけでA. ステ ファー二はアカデ ミーの会長 に就任 した。アカデ ミーのコンサー トには, 当代 の著名な音楽家が出演 し,例 えば トージはオペ ラ のア リアを ,G. ボノンチ一二はチ ェロのソロ曲を, またジェ ミニアーニは 自作のヴァイオ リン曲を演 奏 した。

このアカデ ミーの 目的は,真正なる音楽の知識 の確立であ り,気ま ぐれ と新奇 さを戒め,古典的

な純粋 さと優美 さ,思慮に富む合理的な趣味の形 成である。そのためには過去のす ぐれた音楽,つ ま り,かつては絶賛 され,現在は忘れ去 られた作 品の復活が必要なのである。 このアカデ ミーの精 神は,後のイギ リスの輝か しい古楽復興運動の先 駆 をなす もの として極 めて重要である。

アカデ ミーの

員で もある訴訟代理人のアマチ ュア音楽家 ,∫ . イ ミンズが 1741 年 に設立 した 「 マ ドリガル ・ソサイエティ」 も古楽復興団体 として 見 逃 せ な い ( 以 下 ,∫ .Ha wki ns , 1776, PP.885‑

86) 。 メンバーは,二十五人程 の職工やその他様々 な職業の音楽愛好家で,毎週水曜 日に居酒屋に集 い,イタ リヤやイギ リスのマ ドリガル,あるいは キャ ッチ, ラウン ド,カノンを歌い,時にはイ ミ ンズがツアル リーノの理論書の一節 を講義す るこ ともあった。以上のよ うな コンサー トや音楽振興 組織 の活動は,イギ リスの音楽のアマチ ュア リズ ム と古楽復興運動の基盤 をなす ものである。

参考 文献

J . Ha wk i ns ,A Ge ne r a lHi s t or y oft he Sc i e n c e a nd Pr a c t i c eofMus i c ,I j) ndon,1 776,r e p. ,1853 / R1 953 , Dove rPubl i c a t i onsl nc . ,Ne wYor k

C .Bur ne y,A Ge n e r a lHi s t or y ofMus i c ,Vo l . i i i , 1 789, r e p. , I j) nd on,1 935,Ne wYor k,1 957

P IA ISc hol e s ,e d. ,D r .Bume yl sMus i c a l To ur si n Eur o pe ,i , A n Ei ght e e nt h‑ c e ht ur y Mus i c a l To uri n Fr a nc ea ndI t a ly,Oxf or d,1 959

P ・ A・Sc h ol e s ,Dr ・Bume y' sMus i c a lTo ur si nEur o pe , i i,A n Ei ght e e nt h‑ c e nt ur y Mus i c a lt o uri n Ce nt r a l Eur opea ndTheNe t he r l a nds ,Oxf o r d,1 959

P.A.Sc hol e s , TheGr e a tDr .Bume y,Oxf o r d,1948 W ザ ルメン ( 上尾,網野訳) ,コンサー トの文化 史,柏書房 ,1 994

( 2002. 7. 31 受理 )

参照

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