論 説
19世紀中葉ブーサイード領 東アフリカにおける
イギリス領事裁判制度の形成
片 倉 鎮 郎
Ⅰ. は じ め に
18世紀末以来, アラビア半島南東部の港市マスカトを拠点として きたブーサイード朝
( )は, 従来から所領とし ていたザンジバルを足がかりに, 1820年代に入ると東アフリカ沿岸 部における勢力を拡大していった。 サイイド・サイード
( )の通称で知られる君主サイード・ビン・スルターン
( )は, 1830年代にはマスカト・ザンジバル間の移動を繰り返し, 1840 年からはザンジバル滞在が常態となった
( 1992 93)。 1856年 に彼が歿すると, ブーサイード朝はマスカト政権とザンジバル政権 とに分裂するが, 19世紀中葉のザンジバルはサイイド・サイードと その子孫の統治下で, 東アフリカにおける海上交易の中心的港市と して発展していったのである
( 1987)。
ザンジバルを含む東アフリカ沿岸部における商取引は主としてイ ンド系商人が担っていたが, 19世紀初葉からは徐々に欧米人商人も 象牙等のアフリカ産品を求めてこれに参入しはじめた。 その結果, ブーサイード朝は1833年にアメリカ合衆国, 1839年にイギリス
(1), 1844年にはフランスとの間に通商条約を締結することとなった
(2)。 ブーサイード朝の分裂以降, マスカト政権は1891年の対英友好通商 航海条約の締結に至るまで新たな通商条約を結ぶことはなかった。
これに対し, ザンジバル政権は対仏条約以降も引き続き他のヨーロッ パ諸国と条約を締結していった。
1861年の南北戦争勃発により東アフリカ・北米間の交易が退潮し
東洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 五 四
たことで, ブーサイード朝ザンジバル政権領内におけるアメリカ人 の商業的・政治的プレゼンスは低下し, 二度と回復することはなかっ た。 一方, 同年に英領インド総督キャニング
( )がブー サイード朝領域を公式に二分することを提案し
(いわゆるキャニング 裁定), ザンジバル政権, マスカト政権ともにこれを受け入れたの ち, 両政権に対するイギリスの政治的影響力は増大していった
(3)。 その後, 1890年にブーサイード朝ザンジバル政権はイギリス保護下 に入り, その領土は 「ザンジバル保護領
( )」 と なった。
1833年の対米友好通商条約は, 領事裁判権
( )の対象が合衆国市民間の紛争のみであったこと, 最恵国民待遇の双 務性などの点で, 後続する他国との条約とはやや性質を異にしてい る。 これに対し, 1839年の対英通商条約は領事裁判権, 固定関税率, 最恵国民待遇をブーサイード側に片務的に規定し, いわゆる不平等 条約としての特徴を備えていた。 その条文が以降ブーサイード朝と ヨーロッパ諸国との間に結ばれた通商条約のモデルとなったことか らみて, 対英条約の締結はブーサイード朝の対外関係史を画したと 評価できる。 ただし, 上記3つの特徴について従来の研究史におい て論じられてきたのは専ら後二者, すなわち, ブーサイード財政に 対する固定関税率の影響と, ザンジバル島の対岸ムリマ海岸におけ る交易への参入をめぐる最恵国民待遇の問題とであった。 領事裁判 が北東アジアをはじめとする19世紀の他地域において, 現地政治体 の領域主権を侵害するものとして注目を集めてきたことはいうまで もない。 また, 導入された当時現地にあった人々にとっては, 商取 引の安全を保障する新たな司法制度としても重要であったと考えら れる。 それにもかかわらず, これまでのところブーサイード朝下の 領事裁判に対して十分な注意が払われてきたとはいいがたい。
ザンジバル法制史に関わる従来の研究は, 領事裁判所を前身とす るイギリス司法とブーサイード司法とが並び立つイギリス保護下の 二元的体制や, イギリス法とイスラーム法という2つの法体系の衝 突と融合について論じてきた
( 1935 1940世 紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 五 三
2010)
。 一方, 保護領化以前については史料的制約もあずかって, ほとんどは条約締結によって領事裁判権が付与されたことを指摘す るのみである
(4)。 グンダラー
( )の論文がイギリス領 事裁判制度について論じたおそらく唯一のものであるが, これは主 として領事裁判制度が一応の完成を見せた1870年代以降の史料に依 拠し, 当時の制度の概要をやや静態的に描いたものである
( 1983)(5)。 そのほか, 西部インド洋における商業と法の関わりを主 題とするビシャーラ
( )の博士論文は, 19世紀中葉のイ ギリス領事裁判権拡大が西部インド洋の法制度の転換点であったと している
( 2012)。 そこでは1870年代のザンジバルやペルシ ア湾方面の諸港市において, イギリス臣民身分をもち領事裁判権の 適用対象となるインド系商人の数が増大したことが論じられた。 し かし, 以上に挙げた先行研究のいずれにおいてもブーサイード領東 アフリカにおけるイギリス領事裁判制度の形成は与件とされ, 具体 的なその過程の検討は等閑に付されてきた。
かかる研究状況を受けて本稿では, 1839年のブーサイード・イギ リス通商条約締結から, ブーサイード領東アフリカにイギリス領事 裁判制度が定着する以前の1860年代までのうち, 特に重要な2つの 画期を取り上げ, 史料に即して制度の形成過程を明らかにする。 す なわち, 領事が実際にザンジバルに着任する1842年の前後と, ブー サイード領東アフリカにおける領事裁判制度がイギリス国内法のう ちに位置づけられる1866年の前後とである。
本稿で用いる史料は, 主としてマハーラーシュトラ州立公文書館
ムンバイ本館
( )所蔵ボンベイ政庁
政務局文書
( )である
( と略記)。 保護領化以前のブーサイード領東アフリカにおいては, 一義的には 英領インドの官吏である駐ザンジバル政務連絡官
( 。 史料上は単に連絡官とも)がザンジバル駐在イギリス領事に任じられ, これを兼務する形をとっていた。 そして同政務連絡官は, 1873年に インド総督府へと移管されるまでボンベイ政庁の指揮下にあった。
さらに, 当時のイギリス本国政府のブーサイード領東アフリカに対
東洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 五 二
する関心はインド洋奴隷交易の規制のみにあり, 領事裁判権に関わ るイギリス臣民またはそれに準ずるインド系の人々の人身および財 産の保護については, 主に在インド諸政庁が問題とするところであっ た
( 2003 38 64)。 以上の事情から, 領事裁判制度の整備に関 する情報はボンベイ政庁の外務を管掌した政務局の記録にしばしば 現れる。 イギリス側公文書という史料の性格上, ブーサイード側の 事情について詳らかにすることはできない。 しかし, そのような限 界はあるにしても, 領事裁判所の関係文書がほぼ散逸し, 既知のブー サイード側史料も存在しない制度形成期の様相を, これらを通じて 窺い知ることができるのである。
Ⅱ. 通商条約における欠缺と刑事事件への対応
本節では, 領事裁判制度の前提となるブーサイード・イギリス通 商条約中の領事裁判権規定と刑事に関するその欠缺に加え, 領事に よる裁判権行使の根拠となるイギリス国内法を確認した上で, 条約 の締結以降, 国内法の整備以前の刑事事件2例を詳しく検討する。
1. 対米条約および対英条約における領事裁判権
1833年, サイイド・サイードはアメリカ合衆国との間に最初の通 商条約を締結した。 同条約第9条により, 米国政府は米国市民同士 の紛争を対象とする領事裁判権を獲得する
( 1909 12)
。 次いで1839年, イギリスとの間に結ばれた条約は対米条約 から進んで, イギリス臣民同士の紛争のほか, イギリス臣民とキリ スト教諸国民との間の紛争についてブーサイード君主の裁判権を否 定した。 そしてさらに, イギリス臣民とブーサイード臣民またはそ の他ムスリム政権の臣民との間の紛争, すなわち内外混合事件につ いては, 被告の国籍に応じてイギリス領事官, あるいはブーサイー ド当局が管轄すると定めた
( 215)(6)。
とはいえ, 以上はいずれも民事事件にまつわる規定であり, 刑事 犯の司法管轄についてはまったく述べられていない。 ブーサイード 朝ザンジバル政権がのちに結んだ諸々の通商条約も同様であり, そ
世紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 五 一
の欠缺は1886年に新たに結ばれた対英友好通商航海条約によって初 めて補充されたのであった
(7)。 この点についてこれまでの研究は まったく見落としてきた。 もちろん1833年の対米条約と1839年の対 英条約において, 上記のごとく領事裁判権の範囲が異なっていたこ とは従来の研究でも認識されているが, 刑事規定の欠缺については 看過されたまま, 「治外法権
( )」 や 「領域外裁判権
( )」 の付与として一括されている
(1938 369 481 482 1983)(8)
。 その結果, 1839年の対英条約に よる対象範囲の拡大
(および対米条約中の最恵国民待遇規定によるその 均霑)によって, 民刑両事の領事裁判権が完備されたかのように見 なされてしまうという問題を抱えている。
さらに, 厳密にいえば, 条約によって付与された民事裁判権につ いても, その行使にあたっては国内法による規定が要請される。 イ ギリスにおいては, 1843年に本国議会が制定した 「領土外裁判権法
( )」
(6 7 94)によってはじめて, 君主 が支配領域外に有する裁判権を植民地におけると同様に保持, 行使 できることが明文化された。 イギリス政府は同法に基づいて, 対象 地域ごとに領事裁判権の行使について規定する枢密院令を布告する ことが可能となったのである
( 2010)。
法律論はともかくとして, 以下では条約締結後の現地における領 事裁判権の運用状況を, 刑事事件を事例に明らかにしていきたい。
条約上に明文規定がない事態が生じた際, ブーサイード君主とイギ リス領事官はいかに対処したのだろうか。
2. モンバサにおけるインド人商人強殺事件と連絡官派遣 1840年7月, ボンベイ政庁はあるインド人商人からの陳情書を受 け取った。 それは, 数年来ボンベイとモンバサやザンジバルとの間 の交易に従事していた陳情者の親族が, 前年9月ごろモンバサでア ラブ人に殺害され, 金銭・帳簿・商品が奪われたとして, ボンベイ 管区知事に対し, この殺人についての詳細な調査と, 可能であれば 財産の弁償とをモンバサを領するサイイド・サイードに要求するよ
東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 五
〇
う訴えていた
(9)。 被害者がイギリス臣民であったことから
(10), ボ ンベイ政庁は駐マスカト連絡官であったハマトン
( )に, この件について調査を命じた
(11)。 彼はまずザンジバル滞在中のサ イイド・サイードに書簡を送り, さらにマスカトのブーサイード当 局にも事件について照会した
(12)。 そして, 翌1841年5月から1842 年4月にかけてブーサイード領東アフリカに滞在していた間には, ザンジバルおよびモンバサで自ら調査にあたったのである
(13)。
調査結果を報告するハマトンの政務局長宛書簡
(註10参照)によ れば, 殺害犯は結局見つからなかった。 またサイイド・サイードは, 自身の在ボンベイ代理人に対しボンベイ政庁が指定する人物宛に800 マリア・テレジア・ターラー
(以下 )を支払うことを指示した という。 当時のザンジバルにおいて 800という金額は, 同害報 復の代替となる 「血の代償金」, すなわちディヤ
( )の相場に等 しい
(14)。 ブーサイード側は財産の補償を行わないままで, イスラー ム法に基づくザンジバル在来の慣習に則った処理を図ったと考えら れる。
報告書の後半は, ザンジバルにおけるインド系商人の国籍問題に 関わるものであった。 税関長ジェーラーム・シーヴジー
( )が 「当地の現地人商人
( ), すなわち イギリス臣民で あるバニヤー
( ), ボーホラー
( ), あるいはその他の 者たち」 に対して, 自らが 「ザンジバル市
( )の市民
( ), または住民
( )」 であり, 「もはやイングランド政府
()
の下にはなく, 今後 いかなる場合もイギリス政 府
( )の保護を求めない」 と宣言する文書への署名 を要求したとして, ハマトンはサイイド・サイードに対し, これを
「条約の一般的精神と意図とに反する」 ものと抗議した
(甲括弧引用 者)(15)。 また, 商人たちの多数は, この要求に従うよりはむしろザ ンジバルを去ることを選ぶと圧力をかけ, 署名を拒否したという。
「奴隷, 象牙, およびコーパル樹脂の全取引がインド出身者
( )によって営まれている」 状況下で彼らの抵抗を受け, ジェー ラームの企図は失敗に終わった。 ハマトンは自身もカッチ出身の商
世紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 四 九
人であるジェーラームの今回の行動を, 彼と商業上の関係をもつ米 領事の教唆によるものであり, イギリス当局の干渉の余地を予めな くし, 商人たちを彼の下に統制するための独断であったと考えてい た
(16)。
ハマトンの書簡を受け取ったボンベイ政庁はこれをインド総督府 に転送し, 上記の諸問題についての指示を求めた
(17)。 総督は, ア フリカ沿岸部の領土におけるサイイド・サイードの権威の確立は未 だ不十分であるため, そこでの犯罪について彼の責任を言い立てる べきではないという認識を示し, 今回の事件について彼らがサイイ ド・サイードに期待できるのは 「賠償獲得のために彼の影響力と権 威とを行使する」 ことのみであり, 「国家的関心事
()
」 として完全な補償を要求することはないとした。 さらに, ジェーラームの企みについては, インド系住民に対する領事官の保 護が, 自身の権威が毀損されるような干渉につながることへの現地 首長らの懸念の表れと見なした。 そして, 連絡官が彼らの警戒心を 掻き立てることは避けるべきであると述べ, 現地勢力と衝突するこ とのないよう, インド総督府としてインド当局のイギリス人官吏を 東アフリカ沿岸に常駐させない意思を明らかにした
(18)。
これを受けてボンベイ政庁は, 連絡官ハマトンにマスカトへの帰 還を指示した
(19)。 そのため, 最終的に事件がどのように処理され たかを史料上で確認することはできない。 もっとも, 賠償獲得に対 するインド総督府の消極姿勢からして, おそらくはサイイド・サイー ドの提示した解決案, すなわち在ボンベイ代理人を通じた遺族への 800の支払いによって決着したものと考えられる。 今回の事件 でブーサイード側はザンジバル現地の慣習に則ったディヤの支払い によって解決を図ったほか, 一部にはそもそもインド系住民をイギ リス領事裁判権の対象から切り離そうとする動きさえ見られた
(20)。 イギリス側についていえば, ハマトン個人はこの切り離しに断固と した抵抗を示したが, この時点のインド総督府は, イギリス臣民と 見なすインド系住民の保護よりも東アフリカへの不干渉方針を優先 し, 強いて事件についての賠償を求めなかったばかりか, 領事官の
東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 四 八
ザンジバルへの常駐も否定し, 及び腰ともいえる宥和的な姿勢を見 せていたことになる。
3. ドースン事件と 「先例」 の成立
1842年5月17日, 連絡官ハマトンはザンジバルからマスカトに帰 任する途上, ボンベイに寄港した
(21)。 彼は既に本国政府によって
「マスカトのイマーム殿下の領土」, すなわちブーサイード領におけ る領事に任じられていたが, その報を受け取ったのはこのときであっ たと考えられる
(22)。 ハマトンの領事任命を受け, カルカッタのイ ンド総督府は彼がブーサイード領のどこに駐在すべきかの判断をボ ンベイ政庁に委ねていた
(23)。 同政庁は, 君主が滞在しているザン ジバルこそが 「より公共の利益に適う」 駐在地であると判断し, 本 国政府領事兼東インド会社連絡官となったハマトンに対し, ザンジ バルへの赴任と, サイイド・サイードがマスカトを訪れる際の随行 とを命じた
(24)。
こうしてザンジバルにイギリス領事館が設立された直後, イギリ ス臣民によるブーサイード臣民の殺害事件が起きた。 本件について は, ハマトンの手になる事件報告書によって以下のような詳細を知 ることができる
(25)。 1842年8月25日から翌26日にかけての深夜, イングランド人水夫ジェイムズ・ドースン
( )は, ザ ンジバル市内で 「黒人
( )」 を殺害した
(26)。 彼はすぐに 2人の水夫仲間の許を訪れ, 自らの行為を打ち明けた。 午前2時30 分頃, 彼ら2人がドースンをイギリス領事館に連れて行くと, ハマ トンはまず3人を拘束した上で自ら市内を調査した。 しかし, 事件 についての情報はほとんど得られず, 遺体を発見することもできな かった。
午前10時頃, サイイド・サイードからハマトンに呼び出しの使者 が送られてきた。 そして訪れた君主居館で, ハマトンは被害者がサ イードの保有するピードマンティーズ
( )号のアラブ人 掌帆長
( [ ])ラマダーン
( [ ])であった と知る
(27)。 ハマトンが発見できなかったその遺体は, 屋敷のベラ
世紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 四 七
ンダに置かれた寝台に横たえられ, まだ血も乾いていなかったとい う。
この事件に関するサイイド・サイードの当初の認識は, イスラー ム法上はドースンの自白のみで有罪宣告に十分であるが, 対英通商 条約第5条の定めにより, サイード自らはイギリス臣民が被告人と なる事件に干渉できず, 本件の裁判権はイギリス領事にあるという ものだった。 一方, ハマトンは, 条文が刑事に言及していない以上, 今回の事件に対して領事裁判権を行使するには同第5条は十分でな いと主張した。 サイードは 「何であれ我々が行うことは, 将来にお いて先例となる」 として慎重な対応を呼びかけ, ハマトンと善後策 を協議したのであった。 ハマトンは被疑者ドースンをすべての証拠・
証人とともに最寄りのイギリス法廷がある英領モーリシャスに送る ことを勧めた。 今回の事件はそこで裁かれうるし, もしそうでなけ ればモーリシャス知事は法務官吏
( )の意見書を添えて ドースンの身柄を送り返してくるはずであるから, それに従えばよ いというのが彼の考えであった。
サイイド・サイードはハマトンの提案を受け入れ, 彼のスクーナ 船カールー
( )号によってドースンの身柄と証人および証拠 物件を送った
(28)。 一方, ハマトンは上記の事件報告書とモーリシャ ス知事宛書簡の謄本とを添え, ボンベイ政庁に経緯を報告した
(29)。 その中で彼が述べているところによれば, サイイド・サイードは条 約が彼の刑事裁判権行使を妨げないことを理解しているにもかかわ らず, 被害者遺族との示談を試み, 彼らに血の代償金の支払いを提 案している。 そして, これはイスラーム法の同害報復原理に基づく 刑罰が 「イングランド人の感覚に不快をもたらす」 ことを知ってい るからであるという。
ドースンらの到着を受けてモーリシャス政庁は対応を検討したが,
法務長官
( )デピネ
( )の見解
は次のとおりであった。 サイイド・サイードは 「仁慈
( )」 と 「女王陛下への敬意」 に動かされて本件の裁判権を放棄したので あるから, 被疑者ジェイムズ・ドースンをブーサイード司法の下に
東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 四 六
戻すのは好ましくない。 しかしながら, モーリシャスの法廷は明ら かに本件の管轄権を有していない。 1828年対人犯罪法
(9 4 31)第7条は, イギリス国王の領土外で謀殺
( )または故殺
( )を犯したイギリス臣民はイングランドで裁かれうる と定めている
(30)。 したがって, 被疑者を, そしてもし可能であれ ば証人たちも本国に送ることが望ましい
(31)。 これを受けて, モー リシャス政庁はドースンの身柄と証人たちの証言録取書
( )を含む関係文書のイングランドへの送致を決定した
(32)。
イギリス帝国海軍艦艇アンドラマキ
( )号でドースン がイングランド南西部プリマスに到着し, 治安判事
( )の前に連行されたのは1843年3月1日のことであった
(33)。 彼はさ らにロンドンに送られ, 事件は中央刑事裁判所
( )で審理された。 裁判の中でドースンは, 確かに自分は被害者を殺し たが, それは自身を守るためであったと主張している。 最終的に陪 審は証拠不十分と判断し, 彼の無罪を宣告した
(34)。
本件はイギリス人の刑事被告人がイギリス側に引き渡された初め ての例である。 しかし, モーリシャス法務長官が理解したところと は異なり, サイイド・サイードがこの引き渡しを裁判権の放棄と捉 えていたとは考えにくい。 というのも, 前項の事件でも見られたこ とであるが, サイードは 「多くの故殺事件」 において, 犯人の処刑 によって引き起こされうる問題を避けるために自らディヤを支払っ ていた
(35)。 すなわち, 君主によるディヤの肩代わりはザンジバル に既存の慣行であった。 したがって, ブーサイード側の論理におい ては, 被害者遺族が同害報復刑
( )の代わりにディヤを受け取 りさえすれば, イスラーム法に則った解決がなされたことになる。
そしてその上で, 君主の任意においてハマトンの要請に応じ, ドー スンの身柄をイギリス当局に委ねたにすぎないからである。
ところが次節から明らかなように, その後イギリス領事はイギリ ス臣民に対する刑事裁判権を行使するようになった。 本件を端緒と して刑事においても民事についての領事裁判と同様, 被告の国籍に 応じて裁判管轄および準拠法を決定するという属人主義の原則, い
世紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 四 五
わゆる被告主義が採られることになったのである
(36)。
Ⅲ. 領事裁判制度の法的整備
前節で見たように, 条約上に規定のない刑事については事件ごと に対応が模索され, とりわけドースン事件はイギリス人被告人のイ ギリス側への引き渡しによって民事と同様の被告主義の端緒となっ た。 しかし, 条約上の欠缺は変わらず, また, イギリス国内法のう ちにザンジバルにおける領事裁判制度の位置づけがない状況も同様 であった。 本節では, ザンジバル現地からの問題提起をきっかけに, 1866年の枢密院令布告, 翌1867年の領事裁判所規則制定・公布とい う法整備が行われる経緯を確認し, それによってもたらされた変化 を概観する。
1. 領事官からの問題提起と根拠法令の整備
1865年1月, 駐ザンジバル領事兼政務連絡官プレイフェア
( )は, ボンベイ政庁に対して刑事裁判権の問題を再び提起し た
(37)。 彼はまず, 1839年条約には刑事裁判権への言及がないとい う事実を指摘する。 そしてそれに加えて, フランス, 米国, ハンブ ルクの駐ザンジバル領事たちがそれぞれの本国政府から刑事事件を 所管する国内法上の権限を与えられているのに対して, イギリス領 事に刑事裁判権を与える枢密院令は布告されていないこと, すなわ ち, 彼が刑事事件を管轄する法的根拠が条約上も国内法上もないと いう問題を訴えた。 さらに彼は解決策として, オスマン領内の領事 官
( )の裁判権能について規定した既存の枢密院令を, マスカトおよびザンジバルの両ブーサイード政権領内の領事官にも 拡張することを提案している。 ボンベイ政庁はさしあたりプレイフェ アに対し, ブーサイード朝ザンジバル政権君主マージド・ビン・サ イード
( )が, イギリス臣民に対する刑事裁判権を公 式にイギリス領事に委譲する意思があるか否かを確認するよう求め た
(38)。 また同時に, 法務長官代理の意見に従って問題を本国政府 の判断に委ねた
(39)。
東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 四 四
ボンベイ政庁への返信の中でプレイフェアは, マージドの意思を 尋ねること自体が彼の疑念を呼び, 悪影響をもたらすことへの懸念 を示した。 また, 現状でマージドは 「さまざまな外国民が, 彼らの 領事を通じて, 既に民事および刑事のすべての問題について明確な 自治権を有していると思い込んでいる」 と主張している
(40)。 プレ イフェアは, 彼らがどのような要請をしたところでマージドはそれ に応じるであろうとは述べるが, 実際にボンベイの指示どおりにマー ジドの意向を確認することはなく, イギリス本国政府が法整備を行っ ていないせいで法的根拠のない権能の行使を余儀なくされていると いう先の訴えを繰り返すのみであった。 それでもなおボンベイ政庁 はブーサイード君主の公式な承認を得ることにこだわり, 再度これ を命じた
(41)。
上記のやり取りの後, プレイフェアはマージドのボンベイ訪問に 随行してザンジバルを離れ, 健康上の問題により再び任地に戻るこ とはなかった
( 1978 72 73)。 彼の不在にともなってその職務 を代行したのが, 領事館兼政務連絡官事務所付医務官
( )で あったスーアド
( )である。 1866年2月25日付のボンベ イ政庁官房長宛書簡において, 彼はプレイフェアよりも直截に刑事 裁判権問題についての意見を述べている
(42)。 彼の考えでは, ザン ジバルにおけるイギリス領事の刑事裁判権は十分に確立されており, スルターンによるさらなる権利の譲与は不必要であった。 ザンジバ ルにおけるイギリス領事の刑事裁判権は1839年条約の文面ではなく, その 「精神
( )」 に由来するのであって, このことはイギリス 側・ブーサイード側双方が認めている。 というのも, 領事兼政務連 絡官は実際にイギリス臣民に対する刑事裁判権を行使し, ブーサイー ド当局も必要に応じてその判決の執行に協力してきたからである。
したがって, 1843年の領土外裁判権法がイギリス領外における裁判 権の法的根拠のうちに挙げた 「慣行
( )」 と 「容認
( )」 とによって, イギリス人は現にザンジバルにおける刑事裁判権を有 しているといえる。 もしあらためて裁判権の承認を求めるならば, 過去においてそれを有していなかったと間接的に認めることになっ
世紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 四 三
てしまうだろう。 以上のスーアドの主張から, 第Ⅱ節第3項で検討 したドースン事件が, まさにその当時サイイド・サイードが予想し たとおり, 刑事事件を領事に委ねた先例としてその後機能したこと は明らかである。
スーアド書簡を受けてボンベイ政庁は, 本国政府に対し, この問 題に関する見解を速やかに送るよう重ねて要求した
(43)。 また, 法 務長官に照会の上, ボンベイ政庁としてマージドに刑事裁判権の公 的承認を求めないと決定した
(44)。 他方, 前年のボンベイ政庁の要 求を受けた本国政府は, 8月9日付で 「ザンジバルのスルターン領 における領事裁判権の規定のための枢密院令
()
」 を布告し, 民刑両事の裁判権を行使する権限を駐ザン ジバル領事に付与した
(45)。 これによって初めて, ザンジバルのイ ギリス領事は刑事事件を管轄する明確な国内法上の根拠を得たので ある。 さらに1867年2月28日, 同枢密院令第27条の規定に基づき, 政務連絡官兼領事プレイフェアの名において 「ザンジバル領事裁判
所規則
( )」 が制定
された
(46)。 その第24条の定めにより, これ以降, 1860年制定のイ ンド刑法典
( )が在ザンジバル・イギリス臣民の従 うべき刑法となった。
2. 法整備がもたらした変化
枢密院令布告および裁判所規則制定という法整備の結果, ザンジ バルにおけるイギリス領事裁判制度の運用はどのように変わったの であろうか。 まず, 領事裁判所が取り扱った刑事事件の年度
(7月 1日から翌年6月30日まで)あたり件数についていえば, 1863 64年度 は 「刑事および違警事件
( )」 として合計され たものが14件, 1867 68年度は些細さゆえに記録が保存されていな いという違警事件を別にして, 刑事事件13件という数字が史料から 得られる
(47)。 また, 1869 70年度について, 具体的な数字は明らか でないながら違警および刑事事件は 「わずか」 であると報告されて
東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 四 二
いるうえ, 違警事件とし ては水夫たちとゴア人商 店主らとの酔った上の喧 嘩, 刑事事件としてはイ ンド系住民による奴隷取 引および盗品授受が挙げ られるのみである
(48)。 したがって, イギリス領 事裁判所が取り扱う刑事 事件の数は法整備を挟ん でも大きな増減はなかっ たものと考えられる。 前 項で明らかになったとお り, 刑事裁判権に関わる 条約上の欠缺の指摘がきっ かけとなった法的整備であったが, ザンジバル現地における刑事事 件の取り扱いに影響するものではなかったといえる。
一方, 民事事件については, 領事裁判所が取り扱った民事訴訟の 件数およびその訴額の増加が目立つ
(表参照)。 これらの数字が史料 に現れるのは, 1863 64年度
(24件2 464ポンド)以降であるが, 翌年 度は10件139ポンドと落ち込んでいる
(49)。 ところが, 枢密院令布告 および領事裁判所規則公布を挟んだ1867 68年度には, 91件1万ポ ンド超と大幅に増加する。 翌1868 69年度については情報がないが, 続く1869 70年度は, やや件数は減ったものの, 請求総額はやはり 1万ポンドを超えた。 1866 67年度を挟み, 訴訟件数, またそれ以 上に訴額の大幅な増加は明らかである。 領事裁判の根拠法令が整備 されたこと, また, その事実が公示され, インド系住民の間に内容 が周知されていったことによるものと見て間違いあるまい。
第Ⅱ節第1項で述べたとおり, 民事における内外混合訴訟は, 被 告主義によりブーサイード司法もしくはイギリス領事裁判所が管轄 するのが条約の定めるところであった。 先に1869 70年度について
世紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 四 一
表:ザンジバル領事裁判所取扱民事訴訟 件数および請求総額
年度 件数 請求総額
£ 換算値
1863 64 24 2 464 00 11 603 50 1864 65 10 139 00 659 00 1867 68 91 11 368 58 53 999 75 1869 70 67 10 833 28 ― 出典:1863 64 64 65 67 68年度: 1868
137 474 ( )
( ) 13
1868。 1869 70年度: 1871 142
170 ( )
1870 。 ただし, 1869 70年度の史料には で の金額が示されず, また, 件数のうち1863 64年度4件, 1867 68年度11件, 1869 70 年度9件は金銭請求を伴わない。
史料とした政務連絡官代理カーク
( )の報告によれば, 同年 度におけるイギリス領事裁判所の取扱件数67に対して, 「アラブ法 廷
( )」
(ブーサイード司法)において, 「イギリス保護臣民
( )」 が 「ザンジバルの現地人
( )」
(ブーサイード臣民)を相手取って起こした訴訟は212件に上ってい る
(50)。 イギリス領事裁判所における訴訟件数が, 増加したとはい え全体でもこれと比べて3分の1に満たないのは, 何よりもまずブー サイード臣民がイギリス臣民を相手取って提起した訴訟が少なかっ たことを意味しよう。 したがって, ブーサイード臣民にとってイギ リス領事裁判所という新たな制度は, この時点では紛争解決のため の選択肢として一般的ではなかったと考えられる
(51)。
このほか, 1866年枢密院令は駐ザンジバル領事に対し, 他のイギ リス海外領土における海事裁判所
( )と同様の海 事裁判権を付与している
(第29条)。 これにより, 奴隷交易を制限す るブーサイード・イギリス間の諸条約に基づき, イギリス帝国海軍 艦艇が 「奴隷船」 として拿捕した現地船について, その拿捕の正当 性を問う捕獲審検もイギリス領事が管轄しうることとなった
(52)。 こうしてイギリス領事は, ザンジバル海事裁判所判事として1867 68年度には難破や叛乱の原因を究明する海難審判を3件, 捕獲審検 を同じく3件取り扱うこととなった。 1869 70年度には17件が捕獲 審検の対象となり, うち15件が奴隷交易船と認定されたのに対し, 拿捕の正当性が否定された残り2件については全額の賠償が命ぜら れている
(53)。
かくして, 従前からのさまざまな領事業務はもちろんのこと, 民 事訴訟が大幅な増加を見せ, 新たに海事裁判所としての業務も加わっ たのであるが, これに合わせて人員が増強されることはなかった。
事務作業の量はアラビア語書記1名のみを従えた政務連絡官兼領事 チャーチルの処理能力を超えており, 連絡官事務所付医務官兼名誉 副領事であったカークとその夫人がこれを見かね, 非公式に書簡類 の複写や裁判記録の作成を手伝う事態となっていた
(54)。 チャーチ ルはボンベイ政庁に対し, カークを公式に政務連絡官補
(東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 四
〇
)
に任じるよう希望したが容れられず, 人員面の整備 は遅れた。 1870年にカークがチャーチルの後任連絡官となった後, 遂に1873年3月に至って政務連絡官補
(追って副領事)2名が任じ られ, 同年7月18日にザンジバル領事館は総領事館に昇格した
(55)。
Ⅳ. お わ り に
本稿は, 2つの画期における事例から, 従来は未詳であったブー サイード領東アフリカにおけるイギリス領事裁判制度の形成過程を 検討してきた。 第1の画期は, 1842年の領事着任前後であるが, 条 約に規定のない刑事事件についての事例からは, ブーサイード・イ ギリス両当局が互いに宥和的ともいえる態度で事件処理に臨んでい たことが明らかになった。 そして, 罪を犯したイギリス臣民の身柄 をイギリス側に委ねるというこのときのブーサイード側の行動が先 例となり, 民事と同様に被告主義の慣行が形成されたと考えられる。
次いで第2の画期, すなわち関連法規が整備される1866年前後に ついて, 枢密院令の布告と裁判所規則の公布とに至る経緯, そして それがもたらした変化を明らかにした。 イギリス国内法上の根拠な く刑事裁判権を行使することを問題視した現地の領事官による要求 が, 結果として領事裁判制度に関わる法整備をもたらしたのである。
そしてこれ以降, 領事裁判所が取り扱った民事事件の件数と訴額が 増加したことは, 根拠法令の整備を契機として制度の利用が広がっ ていったことを示している。 とはいえ, この時点での取扱件数はブー サイード司法に及ばず, ブーサイード臣民にとってイギリス領事裁 判所の利用は未だ日常的でなかったと考えられる。
従来の研究においては, 18世紀末以来ブーサイード朝への影響力 を強めていたイギリスが, 通商条約の締結以降, インド系商人への 保護と奴隷交易の禁圧とを利用して東アフリカにおける勢力を着々 と拡大し, 遂にはザンジバルの保護領化に至るといういささか単純 な理解が一般的である
( 1987 201 202 1992 196 198)。 グンダラーも同様の立場から, イギリス領事が担う領域外裁判権が
「公式なイギリスのコントロール」, すなわち1890年以降の保護領化
世紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 三 九
を招いたと捉える
( 1983 10)。 しかし, 本稿が明らかにした ように, イギリス領事裁判制度は, 刑事についてみれば1839年条約 の文言には述べられておらず, その締結の段階で確立したものでは なかった。 同制度の形成は, 1842年の領事着任直後に発生したドー スン事件において, ブーサイード君主とイギリス領事によって在来 の慣習とイギリス側の希望との擦り合わせがなされた結果が慣行と なり, その慣行に基づいて1866年の枢密院令により明文規定が整備 されるという過程を辿ったのである。 1839年条約に規定があった民 事についても, 当初はまったくないか, ごく限られていた利用件数 が1867年の裁判所規則制定をきっかけに増加したものの, 1870年代 初頭の時点ではブーサイード司法に比して未だその利用は日常的で なかった。
ブーサイード領東アフリカにおけるイギリス領事裁判制度は, 1839年の対英通商条約の締結による領事裁判権の設定によって一挙 に確立したわけではない。 また, イギリス領事裁判制度をイギリス がブーサイード朝に押しつけた制度とするのも一面的な理解である といえよう。 同制度は通商条約の締結後, 現地における事態の展開 を受けたブーサイード・イギリス両当局それぞれの対応, そしてと きに両者が交渉した結果を通じ, 一世代に相当する時間をかけて徐々 に完成に向かったのである。
註
(1) 本稿における 「イギリス」 は政治体としてのブリテン ( ) を 指す。 ただし, 引用の典拠にイングランド ( ) とある場合, また, グレートブリテン島の一部を指す地理上のイングランドについては 「イ ングランド」 とした。
(2) 18世紀末以来, イギリスは主に東インド会社を通じてブーサイード 朝と外交関係を取り結び, 友好関係を保持していた (片倉 2014)。 その ため, ザンジバルにやってきた米国人商人たちはイギリス人が既にブー サイード朝との通商条約の下にあると誤解し, 自分たちの不利を政府に 訴えた。 ブーサイード初の通商条約がアメリカ合衆国との間で結ばれた
東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 三 八
のはその結果である。 対米条約締結を受け, イギリス人商人もまた本国 政府に対して働きかけたことで1839年に対英条約が結ばれた。 その後, 仏領ブルボン (現レユニオン) 政庁もザンジバルにフランス領事を置く べく動き出し, 1844年の条約締結に至った。
(3) フランス政府はこれを牽制すべくイギリス政府に働きかけ, 翌1862 年にマスカト政権およびザンジバル政権の独立尊重を謳う英仏パリ共同 宣言が発表されることとなった。 また, キャニング裁定以降, 両政権君 主は公式にスルターン ( ) を称号とするようになった。
(4) 1868年以前の裁判所記録は, 20世紀初めの時点で既にまったく散逸 したものとされていた ( 1919 1935 22)。
しかし, マクドウ ( ) が近年明らかにしたところによれば, 1860年代の一部の民事事件に限っては, 判決文や判例要約がザンジバル
国立公文書館 ( ) 所蔵資料の中に遺されている
( 2008 171 482)。
(5) グンダラーは後年, ザンジバルのインド系住民に与えた影響という 観点から再び領事裁判権を取り上げたが, この点については同様である ( 1993 299 302)。
(6) ここでは 「領事官」 と一括したが, 条約原文では 「領事または駐在 官 ( )」 とされ, ブーサイード領に駐在する英領インドの 官吏が, 本国政府によって領事に任命されているか否かにかかわらず領 事業務を行うことを可能にしている。
(7) 1886年条約の条文は 1909 13 251 252を参照。
(8) 「治外法権」 の語義の曖昧さ, 用例の混乱については加藤 1980 304 307を参照。
(9) 1840 41 54 1155 723
( ) 18 1840
(10) 1840 41 54 1155 75 (
) ( ) 28
1841
(11) 1840 41 54 1155 723 [ ( )]
[ ] ( ) 8 1840 (
世 紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 三 七
) ( ) 20 1840 (12) 1840 41 54 1155 75 (
) ( ) 14 1840
(13) ただし, 派遣の主たる目的は事件の調査ではなく, ブーサイード領 における奴隷交易とフランス勢力に関する情報の収集であった ( 1935 3)。
(14) 1842 43 1371 264 ( )
( ) 3 1842 1859
188 1123 ( )
10 1859
(15) 条約前文には, ブーサイード・イギリス両君主間の 「友好関係 ( )」 の 「確認と強化」 が謳われている。
(16) ジェーラームと彼の親族の商業活動については 1992 72 74 2011 191 238 鈴木 2013 11 25を参照。
(17) 1840 41 54 1155 75 [ ] ( ) 15 1841
(18) 1842 43 1371 59
( ) 10 1842
(19) 1842 43 1371 59 ( )
( ) 28 1842
(20) インド系住民の多くはイギリス東インド会社領内ではなく, これに 従属する 「現地国家」 ( 。 いわゆる藩王国) カッチの出身であっ た。 そのため彼らの帰属をめぐる問題は, 彼ら自身が帰属の曖昧さを利 して活動していたことも相まって, 以後長く尾を引くことになる。
(21) 1842 43 1371 59 ( )
( ) 19 1842
(22) 1842 43 1371 350 [ ]
( ) 7 1842
(23) 1842 43 1371 59 ( )
( ) 8 1842
(24) 1842 43 1371 59 ( )
東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 三 六
( ) 23 1842 (25) 1842 43 1371 264 [ ]
26 1842
(26) 後で見るように被害者はアラブ人であるとされている。 そのため, ここで言う 「黒人」 が非白人, 有色人の意であったか, あるいは被害者 がアラブ・エスニシティをもつアフリカ系との混血人であったのかは定 かでない。
(27) ペルシア語 に由来し, 水夫を指揮する高級船員を指す。 英
語の に相当。
(28) 1842 43 1371 264 ( )
31 1842
(29) 1842 43 1371 264 ( )
( ) 3 1842
(30) 英米法において, 犯罪となる殺人 ( ) は計画的犯意 ( ) の有無により謀殺と故殺とに区別される。
(31) 1843 55 1476 104 (
) 11
1842
(32) 1843 55 1476 104 ( )
( ) 12
1842 (33)
4 1843
(34) 5 6 1843
10 1843
(35) 1842 43 1371 264 ( )
( ) 3 1842
(36) 領事裁判制度における被告主義の原則については, 長沼 2000 32 33 を参照。
(37) 1865 52 452 (
( )) ( ) 2 1865
世 紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 三 五
(38) 1865 52 452 13 1865 26 1865
(39) 1865 52 452 22
1865
(40) 1865 52 452 ( )
( ) 21 1865
(41) 1865 52 452 25 1865
(42) 1866 74 684 ( )
25 1866
(43) 1866 74 561 28
1866
(44) 1866 74 684 ( )
4 1866 この決定は, 後述の枢密院令と行き違いになる形でインド省 にも伝えられた ( 1866 74 684
28 1866)。
(45) 1866 74 561 23
1866 ボンベイ政庁は, 本国から送られてきた枢密院令の謄本を10 月30日付でザンジバルに転送している ( 1866 74 561
30 1866)。
(46) 1867 125 510
9 1866
ザンジバル在住のインド系住民に内容を周 知するため, グジャラーティー語訳も作成されたようである。
(47) 1868 137 474 ( )
( ) 13 1868 ここにいう刑事事件と違警事件 の区別は明確でないが, 後者はおそらく被疑者ないし被告人が, 訓戒 ( ) あるいは譴責 ( ) のみを受け, それ以上の訴追に至 らなかった軽微な事件を指すと考えられる。
(48) 1871 142 170 ( )
1870
(49) 1867年から政務連絡官兼領事の任に就いたチャーチル ( ) 東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 三 四
によれば, 前任者プレイフェアのザンジバル到着以前, すなわち1862年 までの民事訴訟についての記録はまったく保存されておらず, 彼の知る 限り民事事件の大半はイギリス臣民たち自身によって解決されていた
( 1868 137 474 ( )
( ) 13 1868)。
(50) カークの解説によれば, 「アラブ法廷」 はワズィールが主宰し, 3名 のカーディーが法的助言者として臨席していたという。 また, ここにい う 「保護臣民」 はカッチ人住民を指す。 インド大反乱後, ムガル王権が 廃絶されたことを受け, 1860年にインド総督キャニングはイングランド 王権を 「インド全域における絶対的統治者 ( ) かつ至高 権者 ( )」 であるとして, 「現地国家」 の君主および臣民に対し
て保護を及ぼす姿勢を明確にした ( 4
82)。 1819年に東インド会社とカッチ君主との間で結ばれた同盟条約は後 者の対内主権を保障し, その領内にイギリス政府の裁判権は導入されな いとしていたが, 1869年4月, アフリカ, アラビア, ペルシア湾各地に 永住もしくは交易を目的に在留するカッチ人の紛争についてはイギリス 当局がイギリス臣民に準じて解決する旨, カッチ君主による布告がなさ れていた ( 1909 7 22 43 44)。
(51) 政務連絡官兼領事の1873 74年度業務報告によれば, 1872年, 1873年, 1874年の民事訴訟件数と訴額は, それぞれ45件 32 171 68件 38 909 221件 73 592となっている ( 1875 294 1956
( )
1873 74 )。 さらに, ザンジバル 国立公文書館所蔵イギリス国王裁判所・領事裁判所民事事件記録 (
7) の目録から, 1875年以降は毎年数百件の取り扱いがあったことが 明らかである。 表に挙げた年度とは集計単位が異なるため単純な比較は できないが, 後述するイギリス領事館の人員増強と総領事館への昇格を 挾み, 1870年代半ばには領事裁判制度の利用が一般化したと考えられる。
(52) この後イギリス本国で制定された 「1869年ザンジバル奴隷交易裁判
権法 ( ( ) 1869)」 (32 33 75)
は, 駐ザンジバル領事の海事裁判権を改めて確認した上でその詳細を規 世
紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 三 三
定している。 この時期の西部インド洋においてイギリス帝国海軍が従事 していた奴隷交易廃絶のための活動については鈴木 2011を参照。
(53) 1871 142 170 ( )
1870
(54) 1868 137 474 ( )
( ) 29 1867
(55) 1875 294 1956 ( )
1873 74
参考文献 文書史料
1820 1913
7 1875 1939
刊行史資料
( ) 1909
7 12 13
1978 1992
2012
1850 1940
2003
1938
東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 三 二
1935
2011
1983
23 (3 4) 10 27 1993
291 319 1940
2008
1820 1900 ( ) 1919
2010
83 465 485 1987
2010
4 (3) 560 576 1909 4 1935
片倉鎮郎 2014 「19世紀初葉におけるブーサイード朝の対英関係と君主保有 艦隊」 オリエント 57 (1) 49 61
加藤英明 1980 「領事裁判の研究:日本における (1)」 名古屋大学法政論 集 84 301 361
鈴木英明 2011 「インド洋西海域における 「奴隷船」 狩り:19世紀奴隷交易 世
紀 中 葉 ブ ー サ イ ー ド 領 東 ア フ リ カ に お け る イ ギ リ ス 領 事 裁 判 制 度 の 形 成
片 倉
第 九 十 七 巻
二 三 一
廃絶活動の一断面」 アフリカ研究 79 13 25
同 2013 「ネットワークのなかの港町とそこにおける所謂 「バニヤン」 商人:
19世紀ザンジバルにおけるカッチー・バティヤー商人の活動」 東洋史研 究 71 (4) 1 29
長沼秀明 2000 「内外訴訟からみた日本の裁判権問題」 歴史評論 604 31 41 14
附記 本稿は平成22 24年度日本学術振興会科学研究費補助金 (特別研究員 研究奨励費), 平成24年度東京大学 「アジア・グローバリゼーション・スタ ディズ」 若手研究者育成プログラム, 2014年度松下幸之助記念財団松下幸 之助国際スカラシップ, および平成26年度りそなアジア・オセアニア財団 国際交流活動助成による研究成果の一部である。 また, 本稿内容の一部は 国 際 会 議
( 21 23 2012) における報告に基づく。
(サーヴィトリーバーイー・プレー・プネー大学歴史学部博士課程) 東
洋
学
報
第 九 十 七 巻
二 三
〇