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土地商租権をめぐる日中間の抗争

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Academic year: 2021

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* 中央大学政策文化総合研究所研究員,中央大学文学部教授

Research Fellow, The Institute of Policy and Cultural Studies, Chuo University; Professor, Faculty of Letters, Chuo University

「東アジア歴史資料の共有研究」プロジェクト

土地商租権をめぐる日中間の抗争

佐 藤 元 英

The Land Lease Issue in Manchuria between Japan and China

SATO Motoei Closely associated with the right to reside and to do business in the interior of South Manchuria was the right to lease land, which was granted to Japanese by the Treaty of 1915 in the following terms: “Japanese subject in South Manchuria may, by negotiation, lease land necessary for erecting suitable building for trade and manufacture or for prosecuting agricultural enterprises.”

An exchange of notes between the two Governments at the time of the Treaty defi ned the expression “lease by negotiation” to imply, according to the Chinese version,

“a long-term lease of not more than thirty years and also the possibility of its unconditional renewal”: the Japanese version simply provided for “leases for a long term up to thirty years and unconditionally renewable.” Disputes naturally arose over the question whether the Japanese land leases were, at the sole option of the Japanese,

“unconditionally renewable.”

This long-standing Japanese-Chinese controversy over the right of Japanese to the land lease issue in Manchuria was one of the causes of the Manchurian Incident. This paper makes clear the solution negotiation of the land lease issue between Japan and China.

キーワード:土地商租,満州,内蒙古,南満州鉄道,治外法権

Key Words : The Land Lease, Manchuria, Inner Mongolia, South Manchuria Railway, Extraterritoriality

は じ め に

 満州における土地商租権は,1915 年 5 月 25 日に調印された「南満州及東部内蒙古に関 する条約」第 2 条で認められた,「日本国臣民ハ南満州ニ於テ各種商工業上ノ建物ヲ建設ス ル為又ハ農業ヲ経営スル為必要ナル土地ヲ商租スルコトヲ得」という,いわゆる「対華二 一箇条要求」の核心ともいうべき「特殊権利」である.そして第 2 条に規定された商租の

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220  政策文化総合研究所年報  第 21 号 解釈に関する交換公文において「第二条ニ記載セル商租ノ文字ニハ三十箇年迄ノ長キ期限 付ニテ且無条件ニテ更新シ得ヘキ租借ヲ含ムモノ」とされたが,この条文,交換公文の解 釈およびその施行において,日中間に紛議が続き,「土地商租権問題」として,満州事変前 の「満蒙鉄道問題」と並んで重大懸案事項であった.

 従来の商租権問題に関する研究では,抗日民族運動としての中国側の法的手段,実力行 使による商租契約の妨害実態などの分析に重点を置き論じたものが多い.代表的論文とし ては,浅田喬二『日本帝国主義と旧植民地地主制』があり,台湾・朝鮮・満州における植 民地型地主制の特質を鋭く分析した研究である.土地商租権の設定が,中国官民の抵抗に よって事実上不可能となったことが論じられている.そして,その対抗策として設立され た,官営的性格をもつ東亜勧業株式会社の小作制大農場経営も経営不振に陥り,満州への 植民地的移植,定着は完全に挫折したことを明らかにし,満州植民地経営失敗の実態を論 述している.さらに同著者による「満州における土地商租権問題―日本帝国主義の植民 地的土地収奪と抗日民族運動の一側面」(満州史研究会編『日本帝国主義下の満州』収録)

も,日本の土地商租権設定に対する中国民族の抵抗の形態をより具体的に分析した研究論 文である.

 また,商租権問題と関連する満移民政策については,山田豪一「満州における反満抗日 運動と農民移民」(『歴史評論』142 号,143 号,145 号,146 号)がある.そこでは,「満州 事変後移民論者は事変前の失敗の原因を土地商租権問題としてのみ論じたが,これは事変 によって商租権問題が解決し,以前にくらべて有利な環境がうまれたことを強調するため に行ったものと考えられる.移民積極論者はそうすることで,もう一つの失敗の原因を誤 魔化したかったのだろう.その原因,矢内原氏の経済原因というのは(矢内原忠雄『満州 問題』),日本人の移民による満州での農業経営が成立しえないということである」と指摘 している.さらに,商租権問題と日本の土地経営,移民問題に深くかかわっている在満朝 鮮人問題は,満州支配と朝鮮支配との密接な関連,あるいは満州における抗日民族運動の 具体的条件などを明らかにする上で重要な研究課題であるが,この問題については,緑川 勝子「万宝山事件及び朝鮮内排華事件についての一考察」(『朝鮮史研究会論文集』1969 年 6 月号)があり,また,榊原農場事件については,奉天総領事館の森島守人領事の記録『陰 謀・暗殺・軍刀』( 39 42 頁)がある.

 さらに,第一次世界大戦中における日本の権益拡大という視点から論じている臼井勝美

「欧州大戦と日本の対満政策―南満東蒙条約の成立前後―」(日本国際政治学会編『日 本外交史研究―第一次世界大戦―』)があり,条約成立後の実施上の問題として,土地 商租権設定をめぐる榊原農場事件と太平寺事件を分析している.

 さて,日本側のいわゆる幣原外交・田中外交の満州における「特殊権益」擁護という外

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交方針から打ち出されたいわば土地侵略=植民地化政策,具体的には商租権施行細則の交 渉をとおしての日本の大陸政策については,従来あまり顧みられるところがなかった.単 に失敗したという結果のみをとり上げ,浅田論文「満州における土地商租権問題」によれ ば,満州事変前において何らの施行細則の取極もなく,中国官民の必至な抵抗にあい事実 上「空権化」していたと述べられているのみである( 318 頁).そして,土地商租権否認運 動は,満州への全面的な軍事侵略を誘発させる有力な契機となるほどの高揚を引き起こし,

実に満州事変勃発の主要原因の一つとなったと分析している.しかし,満州事変以前のい わゆる幣原外交・田中外交の重要な大陸政策の転換という時期の商租権施行細則交渉の実 態についての研究は,空白部分をなしている.そこで,本稿の課題とするところは,日本 の満州植民地化工作の一つとされた土地商租権問題の解決交渉を分析することにより,満 州事変前の大陸政策の一側面を解明することにある.

Ⅰ 東三省易幟に対する阻止工作

 1928 年 4 月 25 日,林久治郎はシャム公使から簡抜されて,奉天総領事に赴任した.前 奉天総領事吉田茂の対満蒙政策の遂行に支障を来した原因は,満州における「多頭政治」

にあった.当時外務省の出先機関である領事館の他に,関東軍,関東庁,満鉄などの諸機 関があった.それに東三省官場内には日本陸軍の派遣による土肥原賢二,儀峨誠也の現役 軍人の顧問がおり,別に張作霖の私設顧問として松井七郎予備少将と町野竹馬予備大佐が いた.これらはややもすれば,張作霖に対する態度の統一を欠き,「満州経営政策の指導的 地位に対する競争者であった」1 ).こうした状況に処し林総領事は赴任に際し,「田中には 軍部に対する威信がなお相当残っていると思っていた.したがって田中が首相であり,外 相である今こそ外交一元化を実現し,日本側内部の歩調を整えて満州問題の解決に当るべ きだ」2 )と考え,とくに軍部の外交問題への介入を排除するため,「奉天在勤ヲ命セラレ赴 任ニ先チ実現希望事項」3 )を提出し,「在満陸軍諸機関ノ対支交渉ハ総テ其地所管領事ヲ経 由スルヲ原則」とすること,「満鉄ノ満蒙ニ関スル重要ナル対支交渉ハ総テ予メ奉天総領事 ノ承認ヲ経ルヘシ」ことの確約を,田中義一首相兼摂外相および白川義則陸相から取りつ けている.

 東方会議,旅順会議において立て直された対満蒙政策の基本方針は,満鉄が懸案の鉄道 問題を担当し,商租権その他現地における懸案は,奉天総領事が担当することに決定されて いた.しかし林総領事は軍部や満鉄などとも密接な連絡を保ちつつ,鉄道問題や商租権問題 などの諸懸案を外務省の主導のもとに一元的交渉によって解決を図ろうとしたのである.

 張作霖は安国軍支持の下に,1927 年 6 月 18 日,北京に軍政府を組織し,自ら大元帥に

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222  政策文化総合研究所年報  第 21 号 就任していた.そして満州,蒙古はもちろん華北一帯に至るまでその統制下に置いていた.

一方,蔣介石は 1928 年 1 月 9 日革命軍総司令に復職し,さらに 2 月 2 日より 7 日まで南京 において開催された,国民党第二次中央執行委員会第四次全体会議(二次四中全会)では 中央政治会議の主席となり,ここに軍政両権を一身に兼ね,その地位は確固不動のものと なった.そして,2 月 9 日,徐州に軍事会議を開き,馮玉祥(西北軍),閻錫山(山西軍),

李宗仁らと提携を成立させ,4 月には再び北伐を開始した.

 1928 年 5 月 18 日,日本政府は北京政府大元帥張作霖,南京政府外交部長黄郛および馮 玉祥,閻錫山に対し,政府戦乱が満州に波及の場合は治安維持のため適当有効の措置をと るべき旨の覚書を提出するとともに,芳沢謙吉在北京公使は日本政府の方針に基づいて,

張作霖に対し東三省復帰を勧告した.それより数日前,5 月 13 日より 15 日にわたり,山 本条太郎満鉄社長は,この緊迫した時局に乗じて張作霖との間に吉会,長大両鉄道工事請 負契約を締結していた.鉄道交渉は中国人に知己の多かった江藤豊二中日実業公司常務と 張作霖の私設顧問,町野竹馬予備大佐を通じて秘密裡に進められていたのである.

 奉天軍の戦況がますます不利となり,敗色濃厚となると張作霖は,日本側の勧告を受け 入れ,全軍を灤河迤東に撤退させ,東三省を固守するの方策を採った.後事を楊宇霆,張 学良に託し,6 月 3 日,国務総理潘復をはじめ,張景恵,莫徳恵,劉哲らの閣僚,軍事顧 問町野竹馬,儀峨誠也らを随えて奉天へ向った.そして翌 6 月 4 日早朝,満鉄附属地内ク ロス地点において,列車爆破により張作霖は殺害された.

 林総領事は赴任後まもなくして,混沌たる満州の状況の中で,張学良との間で満蒙問題 を交渉することとなったのである.当時の満蒙懸案は 300 件ともいわれ,あるいは 400 件 ともいわれていた4 )

 7 月 17 日,林総領事と張学良との会談が行われた.張学良の談話によれば,蔣介石より 張同禮,劉光の 2 名が派遣され,次の 3 項目を提示してきた.

㈠ 東三省ニ政治分会ヲ設ケ委員九名(或ハ十一名)ヲ挙ケ学良ヲ分会長ニ推シ民政,

財政,建設,教育ノ各分科ヲ設ケ右事務ハ東三省人之ニ当リ其ノ他ニ二名ノ南方人 物ヲ入レ一定職務ヲ有セサル委員トスル事

㈡ 青天白日旗ヲ掲ケ学良ヨリ通電ヲ発シ三民主義実施ヲ宣布スル事

㈢ 関内ノ奉軍ヲ撤退スル事5 )

 これに対し,張学良は,㈠東三省の政治に国民党政府が干渉しないこと,㈡国民政府の 宣伝者を三省に入れないこと,㈢熱河を東三省が保有すること,の 3 項を条件として承認 を与えるについて目下照会中であるという.そして「三民主義ニ服従ト云フモ表面ノミニ

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テ,実際ニ於テハ現在ト変化アルヘキニアラス,只恐ルル所ハ周囲ノ幕僚其ノ他吉黒両省 及大連等ニ頻リニ三民主義採用ヲ要望スルモノアリテ,三省議会亦大体之ニ傾ケルカ如ク,

今之ヲ拒絶スル時ハ可ナリ苦シキ立ツコトトナリ,或ハ下野ノ已ムナキニ至ルナキヲ保セ ス」と述べた.こうした張学良の立場について,林総領事は,国際法を無視し一方的に条 約廃棄を宣言し,かつまた共産主義を加味するが如き政策を採っている南方派と奉天派が 提携することは,東三省保境安民の為に採るべきでないとの忠告をするとともに,日本政 府としては,条約の既得権である借款鉄道,商租権の履行を最重要視していることを強調 した.そして,林総領事は田中外相に対して,この際張学良が実際既存条約履行に関して いかなる決心を持っているのかをできるだけ詳細に確かめ,鉄道問題についても合意をと りつけ,国旗変更後も張学良を支持していくことにしては如何と意見具申した6 ).  実力を以て阻止しない限り,とうてい易幟を止めることはできない,もはや「時間の問 題」と感じとった林総領事の意見には,北京の芳沢公使も「全然同感ナリ」7)とするもので あった.しかし,田中外相は林総領事や芳沢公使の来電に対し,「五・一八覚書」交付,関 東軍の奉天集中,張作霖爆殺事件などにより,張学良は日本に恐怖心を抱いているが,さ らに日本の強硬姿勢を示せば,彼らをかえって南方と妥協せしむる危険もあり,「硬軟何レ ノ方法ニヨルヘキカハ一ニ貴官ノ裁量ニ任カスモ兎ニ角貴官ハ学良ニ面会シ本電前段ノ主 旨ヲ含ミ支那現状ニ於テハ東三省トシテ保境安民形勢観望ノ最モ必要ナルコト及形ヲ執リ テ其ノ実ヲ執ラサルコトハ不可能ナルコトヲ充分説明セラレ同時ニ従来ノ如キ保境安民及 中立ノ方針ヲ持続スルニ於テハ日本トシテハ彼ノ地位ノ強固ヲ来タスヘキ方法等ニツキテ ハ充分ノ同情ヲ以テ考慮スヘク又南軍ノ東三省進入若ハ東三省内ノ不逞分子ノ武力行使等 ニツキテハ日本トシテ其ノ方針上決シテ看過スルコト無カルヘキニ付此点ハ安心シテ可ナ ル旨充分説明セラレ度」8)と訓令した.そしてこの時,日本政府は「易幟」阻止の前提のも とに鉄道問題および商租権問題の解決を図るための「満蒙時局措置案大綱」9)を作成してい た.

 田中外相の訓令に基づいて,7 月 19 日,林総領事は張学良に対し,東三省の青天白日旗 掲揚に反対する旨通告し,正式に「易幟」阻止の態度を明らかにした.同日,いわゆる保 境安民を主眼とする東北保安委員会成立大会が開催され,奉天・吉林・黒龍江・熱河の四 省を一単位となし,張学良・張作相・萬福麟・湯玉麟・袁金鎧・劉尚清・誠允・張景恵・

沈鴻烈・王樹翰・莫徳恵・劉哲・常蔭槐・翟文選・袁慶恩・凌陛・斉黙特色・木丕勒らを 委員とし,委員長に張学良,副委員長に袁金鎧を推選し,その組織大綱を公布した.この 保安委員会において,7 月 22 日および 24 日,前述の国民政府の提出条件が討議され,そ の結果,25 日,南方との妥協は「一時打切」と日本側に回答してきた10).同時に張学良は,

南京政府に対しても「日本の干渉により妥協交渉を停頓するは遺憾であるが中国の和平統

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224  政策文化総合研究所年報  第 21 号 一に関する余の態度には変化なし」11 )との電報を発しており,国民政府の妥協交渉を全く 拒否したわけではなかった.

 強硬的田中外相の南北妥協阻止政策,すなわち満蒙分離政策について,北京の芳沢公使 は,「第三国ヨリ観レハ随分手荒キ措置」と受け止められることを警告し,「満州問題ニ付 着々其ノ地歩ヲ堅メムトセラルル御意向ナル場合ニハ他方面ニ於ケル活動ハ成ルヘク手荒 キコトヲ避ケラレ態度ヲ緩和スル事必要ニテ(中略)形式ノ点ニ於テ急クヨリモ商租権獲 得等ノ如キ土地ニ対スル我方ノ権利ヲ拡張シ漸次実際上ノ我方地歩ヲ堅メ行ク方得策ナ リ」12 )と進言していた.

 また,奉天の林総領事においても条約上の権利を有する商租権問題を第一要目として取 り上げ,東三省側に対する代償として領事裁判権の撤廃を認める方向で満州問題解決交渉 を促進させるよう希望していた13 )

 しかし,田中外相および吉田茂次官は,こうした現地からの意見に反し,依然従来の強 硬的姿勢を崩さなかった.田中外相は,8 月 4 日付電報を以て,林在奉天総領事に対し,

「本件交渉ノ開始時期ニ付テハ林大使,張学良ト会談ノ際ニ於ケル先方ノ手応ヲ見タル上何 分ノ儀申進スルコトト到度」14 )と伝えた.そして,「満蒙時局措置案大綱」の決定どおり,

「速ニ有力者ヲ満州ニ派遣シ我満蒙政策ノ大精神ヲ東三省新政府ニ諒解セシム」目的から,

7 月 28 日,林権助を特命全権大使として,奉天へ派遣することに決定された.名目上は,

「林大使ハ本大臣(田中)ノ個人ノ代理及張ノ知合トシテ同男爵個人ノ資格ニテソレソレ供 物ヲ携ヘ」15 ),張作霖の葬儀に参列するものであるとされたが,7 月 31 日,田中外相は林 大使の出発に先だって,18 項目にわたる対満蒙政策に関する自らの考えを訓示し,「懸案 解決の緊急課題として張学良の易幟阻止,南方勢力排除」16 )の説得を行うよう指示した.

 田中外相の訓示に従い,林大使は張作霖の葬儀終了後,8 月 8 日,林総領事とともに張 学良を訪れ,満州問題,特に南北妥協問題に関する会談を行い,田中外相の意志を伝えた.

9 日の第 2 回会談では,かなり威圧的態度に出,南北妥協に対しては「我勧告ニ反シ乱暴 ナル南方ト妥協ヲ成立セシムル如キ事アランカ我既得権利利益ヲ擁護スル為必要ナル行動 ヲ執ルノ止ムナキニ至ルヘキニ付是等ノ結果ニ付テハ予メ充分慎重考慮ノ要アルヘシトカ 説セル」と,強硬な反対意見を表明した.しかしその一方で,日本としては,「第一ニ東三 省ノ秩序カ完全ニ維持セラルルト云フコトト,第二ニ東三省ニ居住ト営業トカ自由ニ出来 ル土地ノ利用権ヲ得ラルル様ニスルト云フコトニ過キナイ」と伝え,日本としては治外法 権の撤廃を考慮すると述べた.

 張学良は直ちに保安委員会を参集し,「此の際急激に妥協を成立し,その結果もし,重大 事態の発生した場合,東三省が日本に責任をとらねばならぬ羽目になっては一大事である から,妥協は国民党の全体会議の成行如何を見た上で行うも遅からず」17 )と結論を下し,8

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月 12 日,日本側に 3 ヵ月間の妥協中止を回答した.しかし,このことは逆にいえば,妥協 実施まで 3 ヵ月の猶予であるとの張学良の意志表示でもあったのである.林権助は,林総 領事よりの情報によっても,易幟阻止はとうてい不可能と感じとっていたが,とにかく 3 ヵ月の延長を確約して帰国した.田中首相兼摂外相には張学良政権が国民政府との分離を 保持できるという確信がない以上,3 ヵ月間の南北妥協中止期間において,二大懸案であ る鉄道問題と商租権問題を早急に解決し,南北統一成立後の日本の満洲進出の布石として おく必要があった.田中にとって,張学良の易幟阻止,満州における南方勢力排除が特殊 権益擁護拡大のための必要不可欠の対策であった.

Ⅱ 鉄道問題より商租権問題第一主義

 1928 年 9 月 1 日,林総領事は田中外相より帰朝命令を受けた.それより前,8 月 15 日,

林総領事は張学良を訪問し,懸案解決交渉の開始を申し入れた.張作霖の葬儀も終了し,

就いてはこれより日支関係改善のため懸案解決の交渉を開始したく,その第一歩として,

すでに 5 月 15 日北京において調印された吉敦延長線および長大線建設請負契約を,3 ヵ月 の据え置き期間も過ぎたいま,来奉中の斎藤良衛満鉄理事と江藤豊二中日実業公司常務の 両人を通じて商議し,早急に実施されるよう申し出たのである.張学良はこれを了解し,

17 日に行われた斎藤理事,江藤との面会の際も好意的態度を示し,鉄道交渉は万事好都合 に運ぶであろうと林総領事は考えていた.したがって帰朝命令の要務は,鉄道問題がスム ーズに開始されたので,次にはかねて林総領事が再三強く具申していた商租権問題に関す る打合せと考え,その準備を整え,9 月 4 日帰朝した.しかし,帰朝命令の要務は案に相 違して,張作霖爆死事件の調査に関するものであった.

 在京中,林総領事は田中外相をはじめ,森恪政務次官,吉田茂事務次官,有田八郎亜細 亜局長,山本条太郎満鉄社長,松岡洋石満鉄副社長等と個別に対満蒙政策に関する会談を 行い,商租権問題解決の重要性を説いた.その時の林総領事の考えは,昭和 3 年 9 月 14 日 付「参考」18 )書類にまとめられているが,土地商租権問題の解決策としては,治外法権撤 去ヲ条件トシテ完全ナル東三省ノ内地開放ヲ行ハシムルコト」,あるいは「日支両国資本家 ノ合辨事業ヲ奨励シ合弁ニヨリ我経済的投資ヲ計ルコト」以外にないと主張していた.こ の「参考」書類は,有田八郎亜細亜局長に提出している.

 また鉄道問題に関しては,満鉄側の情報により,順調に進みつつある様子で,林総領事 は,10 月までには解決できるものと予測していた.しかし在京中,依然として鉄道敷設請 負契約実施の情報はなかった.10 月 8 日付の斎藤理事より山本社長に宛てた書簡によると,

いかに交渉が難行し,中国側が遅延策を講じていたかを知り得る19 )

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226  政策文化総合研究所年報  第 21 号  昭和 3 年 9 月 24 日,田中外相は「内田全権ノ英国政府当局トノ会談ニ関スル件」,「日支 条約問題済南事件ニ関スル件」および「満州問題解決方針」などの「最近支那関係諸問題」

を天皇へ上奏した.同日,上京中の林総領事に対して「満州問題解決方針」を伝え,鉄道 問題の成り行き如何にかかわらず,帰任後直ちに張学良に対し,経済的活動の基礎を確立 するために,大正 4 年の「南満州及東部内蒙古ニ関スル条約」に規定されている居住往来 の自由と商租権とを実施させるよう次のような交渉開始の方針を訓示した.

⑴ 内地開放の予約

  主義として中国側をして東三省を日本人の居住営業のため開放し且つ日本人に土 地の利用権を享有せしめることを約束させる

  右の目的を達成するため,我方においては東三省における治外法権の撤廃を約束 する

  前記治外法権の即時撤廃は中国の現在においては不可能であるので一定の準備期 間を置いて治外法権の撤廃を行い同じく内地開放もこの期間内に実行する

  取決の形式は日支双方の声明書による

⑵ 大正四年南満東蒙条約の履行

  内地開放実現に至るまでの差当りの措置として中国側をして大正四年南満東蒙条 約に規定せる①南満州における居住往来の自由及び②商租権を履行せしむ

  我方においては右条約の規定により南満州において中国側の警察課税に服す    中国側においては従来の経緯に鑑み単に条約の履行を迫るに過ぎないことを明ら

かにし,その主張の貫徹に努めること

  本取決は東三省政権と奉天総領事との間に公文を交換する

⑶ 将来国民政府との間に条約改訂問題に関する商議開催されるか若しくは満州問題に 付いて交渉を為すときは,東三省政権との交渉と平行し国民政府との間に前記の主 旨により正式条約による解決を行うことを妨げない20 )

 9 月 27 日,林総領事は奉天に帰任したが,田中外相による方針案を直ちに実行には移さ なかった.その理由は,林総領事が商租権問題解決交渉の時期を,目下斎藤理事によって 進行中の鉄道交渉が一段落ついた後に開始した方が得策と考え,さもなくばせっかくまと まりかけた鉄道交渉も無になると考えていたからであり,また,商租権問題の解決は領事 裁判権撤廃問題にも及ぶ重要問題であり,赤塚正助在奉天総領事以来の商租権執行細則交 渉をみても,そう簡単にはかたづきそうもない問題と考えていたからである.なお,9 月 の上京中における林総領事と山本満鉄社長との会談の際,山本社長は鉄道問題を解決させ

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るためには「向うにも花を持たせて商租権をもう少し譲歩したらどうだ.例えば三十年の 期限をもう少し縮めるとか,課税権や警察権も完全に譲ると云うのも一案であろう」21 )と 提案したが,その時林総領事は,まず鉄道問題を先行させ,商租権問題はある程度譲歩し て交渉することに同意していたように思われる.

 しかし,林総領事や山本社長の予測に反し,鉄道交渉は何等進展していなかった.それ どころか,満鉄と総領事館が鉄道交渉開始当初より,新聞雑誌に対する掲載を厳重に禁止 していたが,藤岡関東庁警務局長が記者団に慫慂され,記事解禁を行ったため,10 月 2 日,

初めて大連の邦字新聞に鉄道交渉進行中の報道が記載されると,直ちに中国側に反響し,

吉会線建設反対運動が巻き起こった.

 斎藤理事,江藤等は奉天方面において,土肥原賢二(張作霖顧問),町野武馬(同)らの 援助を受け,張学良,楊宇霆,常陰槐等と折衝し,また吉林方面においては,林大八(陸 軍中佐)の援助を受け,張作相,林鶴皋(吉林省議会議長)その他の要人と折衝を行った が,何等効果はなかった.『山本条太郎伝記』によれば,「斎藤,江藤両氏が如何に鉄道交 渉に努力したか,支那人相手の折衝が如何に面当なものであったか,また支那側が如何に 遷延策を講じていたかは,斎藤理事より山本社長に宛てた左の書面( 10 月 8 日付)によっ ても明らかである」22 )とその全文を掲げ,鉄道交渉がいかに難行状態していたかを示して いる.

 林総領事は吉田次官より商租権問題に関して,「御大典(11 月 10 日)前に吉報を済すよ うにと矢の如き催促」を受け,また第五十六回帝国議会を目前にひかえ,その前に何等か の具体策を発表する必要があることを内示されていた.

 また林総領事は有田亜細亜局長より,次のような 10 月 1 日付の交渉開始の督促電報を受 けた.

 交渉時期ニ関スル貴見大臣ニ於テモ一応尤モト考ヘラレタルモ之ト同時ニ余リ遅ル ルコトモ諸般ノ関係上面白カラスト認メ居ラレタリ結局時期ノ問題ハ貴官ノ裁量ニ一 任スト言ヒ居ラレタルモ其ノ節自分ハ大臣カ成ルヘク早キ機会ニ交渉ヲ開始シ度キ希 望ヲ有セラルトノ印象ヲ得タルニ付右御含ノ上然ルヘク御措置願ヒ度シ23 )

 さらに田中外相よりも「南方政情ノ現状ニ顧ミ急速着手ノ要有リ」24)との訓令を受け,こ のように中央政府からは再三の訓令により商租権問題の交渉開始を督促して来るが,鉄道 問題は 10 月になっても遅々として進まない.林総領事はやむを得ず,鉄道問題も処理でき ないまま,商租権問題の交渉をも手がけなければならなくなった.吉田総領事時代の満蒙 問題一括解決の方針とは異なり,林総領事は第一に鉄道問題,続いて商租権問題と一つ一

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228  政策文化総合研究所年報  第 21 号 つ確実に解決して行こうとする方針を採ったが,それも成功しなかった.

 10 月 13 日,林総領事は田中外相の訓令に基づき,張学良を訪問し,「帝国政府ハ東三省 ニ於ケル日支両国ノ緊密ナル関係ニ顧ミ従来ノ懸案ヲ共存共栄ノ主義ニ依リ速ニ解決シタ キ希望ヲ有スル(中略)懸案解決ノ第一歩トシテ最重要ナル土地問題ヲ交渉セントス」25 ) る旨を申し入れた.しかし張学良は,領事裁判権撤廃の実行,撤廃区域には租借地および 鉄道付属地を含むのかを質問し,たとえ交渉がまとまっても国民政府がこれを承認しない おそれがあり,交渉を急ぐ必要はないのではないかと述べた.

 林総領事は,領事裁判権撤廃の覚悟はあり,また租借地及び鉄道付属地は特殊条約によ り設定されたもので別問題であること,商租権問題は従来常に東三省政府と交渉してきた 問題であり,将来樹立する中央政府との関係を考慮する必要なく,国民政府と合致すると しても,領事裁判権撤廃迄には貴国側において条件を研究し,交渉するため特定の人また は機関を指示してほしい旨を述べた.そして治外法権撤廃,内地開放を行うまでの間には 何等かの弁法を作成し,土地利用を日本人にも許可するよう主張した.しかし張学良は即 答を避け「本件ハ重大問題ナルヲ以テ数日中ニ保安会ヲ召集付議シタル上何分ノ返事ヲ為 スヘキ」旨を約束した.また,林総領事は,10 月 16 日,翟文選奉天省長に対しても同様 に申し入れをし,交渉の促進を期待したが,張学良と同様の意見であった26 )

 奉天当局は,保安会と国民政府に責任を転嫁させつつあった.10 月 19 日の保安会にお ける土地及び法権問題討議では,袁金鎧,張景恵らの「本件日本側ト商議ヲ開始スルハ支 那側準備整ハサル今日時期尚早ナルヲ以テ先ツ支那側ノミニ依ル下研究ヲ為スヲ要ス」27 ) という反対論があり,結局交渉開始の段取りまでにはかなりの日数を必要とするであろう との見通しを,林総領事は田中外相に報告した.

 そして,差し当たりはこの解決を強硬に迫ることはなく,できるだけ各方面の空気を緩 和し「所謂交渉ノ畑ヲ耕スコトニ専心シ其ノ間ニ先ツ借款鉄道交渉ヲ解決セシムルヲ以テ 最善策」28 )と考えるとして,その方針を以て進むよう田中外相へ承諾を求めた.

 一方,11 月 5 日,山本社長は御大典参列のため上京の途中奉天に立ち寄り,張学良と会 見し,鉄道建設請負契約の「至急実行」の希望を述べた29 ).しかし,山本社長との鉄道問 題に関する商議に対しても,張学良は国民政府の同意が必要であるとか,保安会の強い反 対があるとして,交渉に応ぜず,結局鉄道問題も商租権問題もなんら進展せず,日本側の 要求をそらし続けた.

 12 月 29 日,張学良は突如として易幟通電を発した.三民主義を遵守し,国民政府に服 従する旨を宣明した.国民政府もまた 29 日付を以て,張学良を東北辺防軍司令長官に,張 作相,万福麟を副司令官に任命すると同時に,東北四省(奉天,吉林,黒龍江,熱河)の 省政府主席および政府委員を任命し,南北妥協が成立した.そして 1929 年 1 月 7 日,東北

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保安委員会を改組し,張学良(主席委員),張作相,万福麟,湯玉麟,方本仁,張景恵,翟 文選,王樹翰,莫徳恵,袁金鎧,劉尚清,劉哲,沈鴻烈らを委員とする東北政務委員会を 成立させた.ついに「田中外交」は南北統一前に大陸膨張政策の「布石」として最重要課 題である鉄道問題と土地問題を解決できなかったのである.

 林総領事は,12 月 31 日,張学良に対して抗議を申し入れた.「是れ事実上の断交ではな いかと卓を叩いて見幕を示したので,学良も大方その非を悟った如くではあったが,しか しその返答は唯『没法子』の一語であった」30 )という.

Ⅲ 「満蒙問題」解決交渉の破綻

 1929 年 1 月 10 日,田中外相は林総領事に対し,満鉄を側面より援助し,停滞中の鉄道 問題の解決を促進させるよう訓令した.林総領事はこの訓令に従い,1 月 14 日張学良と,

翌 15 日張作相と会談し,満鉄との鉄道問題の交渉開始を申し入れた.しかし張学良や張作 相は,日本側の国内事情,特に昨年 1 月 26 日より開催されていた第五十六回帝国議会にお ける「満州某重大事件」の真相追求,パリ不戦条約の調印問題や国民政府に対する正式承 認の動きがあることなどを充分熟知してのことと思われるが,3 月中旬に予定されている 全国代表会議の終わる頃まで,何等かの口実を以て交渉開始を遷延させようとする態度で あった.

 田中外相は,張学良新政権成立当初より,張作霖時代のいわゆる懐柔策および満蒙分離 政策の延長として,張学良を擁立し,そしてその張学良によって日本の満州における権益 を履行させるべく方針をとってきた.しかしその意に反し,張学良の態度は,鉄道問題解 決交渉の遅延策さらには易幟の遂行として表明された.林総領事は昨年 9 月末,鉄道問題 も未解決のまま,田中外相より土地問題についての解決交渉を開始するよう訓令を受けて いたが,とりあえず交渉中の鉄道問題を片付け,一段落ついた後に土地商租権問題を交渉 しようとする方針を採り,満鉄の直接交渉を援助していた.しかし,ここに至って林総領 事は,行き詰まれる交渉の打開策として,従来の満鉄による鉄道問題第一主義より転じて,

土地商租権の実施を交渉の中心問題として選び,実力行使による解決方針案を立て,その 理由を「東三省ニ於テ今日条約上ノ根拠モアリ内外ニ聞エテ豪モ恥カシカラス而モ支那側 当局ヲ苦シメルモノハ各地ニ散在セル商租地ノ経営ヲ開始シ支那側ニ於テ個人ノ商租地経 営ヲ妨害スル場合ニハ実力ヲ以テ之ヲ排除スルニ在リ此ノ方針ニ依ルトキハ一面支那側ヲ 圧迫スルト同時ニ土地問題解決ニモ直ニ好箇ノ影響ヲ及ホスモノト思考セラル」31 )と,田 中外相に述べている.

 1 月 23 日,林総領事は張学良と会見し,強硬に鉄道敷設請負契約実施を要求した.しか

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230  政策文化総合研究所年報  第 21 号 し,事実張学良および張作相等のねらいは遷延策にあった.張学良はその後,病気を理由 に日本側との面会を避けた.林総領事は,鉄道問題を兵力の擁護の下に解決することにお いては,国際関係上,また,国民政府との関係上,好ましくないと考えた.懸案解決を武 力行使で推し進めていく場合,張学良に協調の誠意ない限り支持しない方針を如実に示す 必要からも,各地に散在している土地問題を利用することは,奉天当局を圧迫すると同時 に,商租権問題の解決にも良い影響を与えるとし,兵力の使用をも覚悟する強硬策を開陳 した.そして,「之カ実現ハ我政府ト南方国民政府トノ関係好転後ニ於テスルヲ最好機会」32)

と考えた.それは,済南事件の解決を見ないうちに重要交渉を始めることは,その目的を 達成しないのみか,無用に中国官民の神経を刺激して,抗日気運を煽るに過ぎないと危惧 していたからである.

 こうした林総領事の意見に対し,田中外相は具体的決断を下すことなく,鉄道問題は南 方との関係が一応好転するのを待って行う方が得策であり,商租権問題についても差当り,

各地に散在している商租地の経営,中国側の妨害排除の具体的方法等について調査研究す るよう指示したのみで,消極的な態度であった.林総領事は,さらに 1 月 31 日付電報によ って,田中外相に対し強硬方針の具体案を進言した.

 一 日支協調ノ誠意ニ付今一応張学良ニ対シ厳粛ナル反省ヲ促シタル上誠意ノ実証 トシテ鉄道問題ノ即時解決ヲ要求シ且同人ノ態度如何ニ依リ対学良関係ノ将来ニ 関シ日本政府ニ於テ大ニ考慮スル處アルヘキ旨ヲ厳重申伝フルコト

 二  各地散在ノ本邦人関係商租地中現地保護可能ノモノニ付土地経営ヲ開始シ支那 側ノ妨害ニ対シテハ実力ヲ以テ之ニ応シ事端ヲ繁クスルコト

 三  時宜ニ依リテハ一月四日附機密公第二号禀請ノ不逞鮮人討伐ヲモ併セテ実行シ 事端ノ発生ニ資スルコト

 四  事態ノ推移ニ応シ正式顧問ノ撤退軍事輸送ノ停止京奉線「クロス」ノ切断兵工 廠ニ対スル石炭其ノ他諸材料供給ノ停止等ノ措置ヲ執ルコト

 五  場合ニ依リ満鉄ノ鉄道測量隊ノ編成ヲ了シ自力ヲ以テ懸案両鉄道ノ測量ニ著手 スルコト

 六  学良反対ヲ目的トスル諸種ノ運動ハ総テ之ヲ放任スルコト

 七 本件実行ノ時機ハ支那本土ニ及ホスヘキ影響ヲモ考慮シ南方トノ懸案一段落ヲ 告ケタル場合ヲ選フコト33 )

 林総領事は,この際断然張学良不支持の方針に転じ,強硬策を採用するよう,再三田中 外相へ意見進言を繰り返していたが,田中外相を始め外務本省では何等見解を示さなかっ

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た.趙鎮交通部長代理次長と山本満鉄社長との間に契約されていた,吉林会寧線中敦化図 們江岸間の鉄道敷設請負契約の着工期限は,5 月 15 日に迫っていた.そこで林総領事は斎 藤満鉄理事と協議のうえ,鉄道問題の解決は日本側の測量強硬を実施し着工する以外に解 決できる見込みはないと判断し,2 月より 3 月にかけて満鉄側に実測開始の準備をさせ,3 月 26 日帰国した.そして林総領事は直接田中外相に測量断行を請訓し,「張学良ニ我ト協 調ノ誠意ナキコト殆ト疑ヲ容レストセハ帝国政府ニ於テハ如何ニシテ我権益ノ維持ヲ計ル ヘキヤ学良ニ於テ既成契約ヲ無視シ我ニ於テ止ムヲ得ストナシ放任スルコトアラハ今后事 アル毎ニ我既存権益ノ蹂躙ヲ企ツルニ至ルヘキハ火ヲ見ルヨリモ明カナリ帝国政府ニ於テ 飽迄我権益維持ヲ必要トセハ断乎トシテ我ト協調セサル学良ヲ支持セサルノ方針ニ出テサ ルヘカラスト思考セラル」との「対満蒙政策私案」34 )という意見書を提出した.また現地 では,3 月 29 日,斎藤満鉄理事と張学良との会談が行われたが,東三省当局側には契約履 行の意志が全くないことが明らかとなり,4 月 4 日には,森島守人在奉天総領事代理も,契 約期限の切迫に鑑み,懸案の鉄道問題解決には測量および工事の強行以外に途はないと認 め,満鉄および関東軍側と協議の上,懸案五鉄道中,吉林会寧線,長春大賚線および延吉 海龍線の三鉄道の建設強行案を作成し,田中首相兼摂外相に決行方を請訓した35 ).  こうした現地の強硬意見に対し,政府は何等具体的方針を示さなかった.林総領事は,

さらに「対満方針案」36 )を田中外相へ提出し,この際,断然張学良不支持の方針に転ずる と共に,時機を見計い次のような強硬手段を取るべきであると申言した.

⑴ 我軍顧問の撤去

⑵ 満鉄の供与している便宜中先方の最不便とするものの若干停止

⑶ 打通線等中国側の不法行為に対する厳粛なる再抗議

⑷ 京奉線の「クロス」遮断

⑸ 条約又は契約に根拠ある諸問題に関する積極的策動

 しかし,上海の重光葵総領事は,満州鉄道の工事強行は,日中国交の一層好転する時機 を待って適当な方法により目的を達成することが最も得策であると,林総領事の強硬策に は反対意見を提出していたが,田中外相はこの重光総領事の意見を重要視し,政府として は,南京政府との間に済南事件が解決され( 1929 年 3 月 28 日,済南事件解決に関する文 書調印),漸次改善に向かいつつある形勢にあり,また近く南京政府を正式に承認する意向 もあり(同年 6 月 3 日,中国国民政府を正式に承認する),満州に対する影響を配慮して,

なお一段の考究を要するとして,5 月 4 日,帰任の林総領事に対し,政府より何分の指図 があるまで測量強行等具体的措置に出ることのないよう訓示した37 )

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232  政策文化総合研究所年報  第 21 号  林総領事は,自分だけが鬼面を以て張学良政権との交渉に臨んでも,他の在満機関が一 致し強硬的態度を示さない限り何等の効果もないと執拗に食い下がり,田中外相より関東 庁,陸軍,満鉄へ一致協力の要請を訓令願いたいと進言した.

 しかし結局,林総領事の「満蒙政策私案」の強硬策も,田中外相によって抑えられた.

張学良の易幟以後,田中外相の対中国政策は一変した.満蒙分離政策により日本の権益を 拡大擁護しようとする外交方針から転じて,むしろ国民政府との関係を漸次改善の方向へ もっていこうとする外交にウエイトを傾けていった.それは国民政府の保証のもとに満州 の権益を維持しようとしたのである.林総領事の心中は,後年記した回顧録において,「昭 和二年,東方会議を開催し,積極政策を唱導せる政府としては余りの豹変の甚しきに唖然 とする思いであった」38 )と述べている.田中首相兼摂外相は何等積極的手段を講ずること なく,敦化図們江岸間の鉄道敷設契約の期限切れについては,満鉄と協議の上,とりあえ ず 5 月 11 日付山本満鉄社長より東北政務委員会主席張学良宛書簡を以て,契約効力の延長 は張学良政権側の一方的都合によるものであり,したがって期限後も依然契約は有効であ ることを伝えた.張学良はこれに同意したが,彼は強硬実施策に踏み切ることのできない 日本の国内政情を熟知していた39 )

Ⅳ 解決交渉打開策と榊原農場問題

 時に,国内においては,1928 年 8 月 27 日,パリで行われた不戦条約の調印が,政治問 題化していた.条約の文中にある「人民の名に於て」の字句が,日本の国体に鑑みて,不 当であるという議論であった.倒閣の口実を求めていた民政党は好機とばかりにこれを取 り上げ,張作霖爆殺事件とともに,田中内閣攻撃の題材とした.中村啓次郎代議士の衆議 院における質問,枢密院もこれを憲法違反と追及した.結局,張作霖爆死事件の責任追及 問題が致命的となり,張作霖爆死事件の責任者処分発表の翌日,7 月 2 日,田中内閣は総 辞職し,代って浜口内閣が成立した.外相には,対中国内政不干渉主義,共存共栄による 平和主義,「合理的権益の合理的擁護」等を外交理念としていた幣原喜重郎が再び登用され ることとなった.

 林総領事は,行詰った現地の事態を好転させる意味で,「我方から手出ししないで,而も 中央の承認を行なわなくても,出先限りで解決し得る十数年来の懸案二,三を択んで矢つ ぎ早に警察力丈けで実力解決する方針を決定し」40),榊原農場を横断していた軽便鉄道を撤 去する問題,吉田総領事の時手懸けた奉天十間房の陸軍用地を満鉄側敷地に編入する問題,

関東州と満州領との間の中立地帯に不法侵入した東北軍の武装解除の問題などを強硬的に 解決していった.これらの問題解決は,交渉の形式によらず一方的に解決する果断な方法

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に出たことにより,軍部の昂奪した空気を緩和することになり,総領事館の強硬手段だと して在満官民の満足をかった41 )

 その一つ榊原農場問題に付いてみれば次の通りである.1914 年春,榊原政雄は,関東都 督,満鉄の援助により,崔洵生,溥豊模範農場公司理事との間に,同農場租地全部を 1913 年 4 月 30 日にさかのぼり 30 年間の転租をする契約を結んだ.この契約当初の榊原農場事 件は,すでに臼井勝美氏の「南満東蒙条約の成立前後」42 )により明らかにされているとこ ろである.この問題は 1915 年 9 月,溥豊公司代表者張煥相より買戻の申込があり,折衝の 結果 1916 年 2 月,一応以下のように解決された.

⑴ 他日適当の土地を発見したときは興京森林伐採権を榊原に与えること

⑵ 興京,撫順間鉄道は日本側資本および材料に依るよう盡カすること

⑶ 買戻価額 22 万円

⑷ 現農場中水田百余町を榊原に留保し商租料年 6 百元(小洋)を納入すること

 しかしその後問題となったのは,この留保された水田百余町をめぐってである.この商 租権は 1919 年,榊原の弟浦本政三郎に譲渡され,浦本は三陵衙門に対し,1915 年にさか のぼり商租料を支払う条件で商租契約を締結した.その後この土地はさらに浦本より榊原 タエ子に譲渡されたのである.この間榊原,浦本等は中国側の再三の請求にもかかわらず,

商租料を支払わなかった.そこで中国側は 1924 年 6 月 12 日,軍隊を農場に派遣して直接 行動に出た.

 時の奉天総領事,船津辰一郎は「此種事情ノ下ニ商租地ノ奪回ヲ行ハシムルトキハ他ノ 商租土地関係者ニモ影響スル所多カルヘキヲ慮リ同農場ニ債権関係ヲ有スル満鉄及東拓ニ 協議ノ上差当リ榊原ノ納入不能ナル商租料小洋五千二百四十元ヲ支出セシムルコト諒解ヲ 遂ケ」,中国側に抗議する一方,とりあえず納入未済の商租料を支払わせようとしたが,中 国側は受領を拒み,土地の返還に固執した.同年再び軍隊を派遣し,朝鮮人小作人に暴行 を加えた.船津総領事は「在留民保護上並ニ商租権取消ノ他ニ影響スル所甚大ナルニ鑑ミ

(中略)支那側カ飽迄直接行動ヲ取ルニ於テハ当方モ自衛手段ニ出ツヘキ旨ノ通告ヲ発シ タ」43 ).厳重抗議の結果中国側は撤兵し,ひとまず決着をみた.

 1925 年郭松齢は航空所を建設するため,皇姑屯駅より北陵付近までの鉄道延長を計画し,

榊原の承認を得ず農場を横断する軌道を新設した.もちろん日本側より厳重な抗議が提出 され,貸償支払を要求したが,何等回答がなく問題はそのままになっていた.

 林久治郎が奉天総領事に着任すると,中国側へ交渉を再開し,数回にわたり賠償金支払 による円満な解決方法を要求したが,中国側は応ぜず,さらに瀋海鉄路局は昭和 4 年 4 月,

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234  政策文化総合研究所年報  第 21 号 この軌道に北陵遊覧鉄道を敷設した.榊原は林総領事を介して,鉄道敷設軌道の撤回を厳 重に申し込んだが,中国側は「租金不納に付商租権喪失」44 )を主張して譲らず,再び 5 月 20 日,林総領事は王鏡寰遼寧交渉署長に宛て,「該農場を貴国が使用せるに対して相当の 賠償なき時は自ら貴鉄道を撤去すると榊原は云ふがこれは本官も正当な理由として差し止 め得ぬから予め御承知を乞ふ」45 )というように厳重な最後の抗議を行った.

 6 月 27 日朝,榊原は人夫 20 数名を以て鉄道の撤去工事を行った.奉天総領事館におい ては万一にそなえ,興津副領事の統率の下に武装警察官 34 名を現場に派遣し,中国側も同 様の措置に出たが,何事もなく工事は遂行された.同日,榊原の願出により林総領事は中 国側に,「榊原から本朝北陵遊覧鉄道遮断工事を実行した旨の通報に接したが,右は前々公 文をもって注意した通りなれば本問題解決を見るまで今後再び鉄道敷設等のことをせざる やう諒解を乞ふ」旨通告した.

 林総領事は商租権問題を対満蒙政策の中心問題と考え,そしてその実行のためには,武 力行使をも辞さないとする考えであった46 ).この事件に対して林総領事は,榊原個人の問 題としてでなく,国益擁護の観点から対処するという態度で臨んだが47),森島守人領事は,

榊原政雄について「城内全体について権利を主張する一点から見ても気狂いじみているこ とは明かで,総領事館では榊原の主張中奉天の郊外,北陵の前面に位していた農場に対す る商租権以外のものはこれを承認しなかった」と述べている48 )

お わ り に

 易幟による張学良の態度の硬化と相俟って現地の空気は,国貨提唱,経済絶交,日本帝 国主義打倒等の標語の下に,各地に排日排貨運動が起り,在満日本人の各種事業に対する 圧迫は日増に強化され,不平等条約反対,利権回収熱は,加速度的に高まっていった.そ れはまず,張作霖時代に開始された満鉄包囲政策に始まる.中国側は 1927 年 9 月,奉天−

海龍間の鉄道を開通させ,これを京奉線に連絡させ,東山方面の物資を奏皇島および天津 方面に吸収することに成功した.また,1927 年 6 月に起工された海龍−吉林間の鉄道が 1929 年 5 月に開通され,満鉄線に対する東方の平行線となし,そして西方においては,打 虎山−通遼間の鉄道敷設を竣工し,洮昂線,四洮線と連絡し,満鉄線に対する西方の競争 線とした.さらに国民政府は東北交通委員会暫行組織条例を公布し,同委員会を満州にお ける鉄道,電信,航業に関する行政事務の監督機関とし,同時に計画,建設,経営など交 通に関する事項について絶対的権限を与え,その外交に関する事項は中央において直接処 理するという組織に改めた.

 1930 年秋,東北交通委員会は米独資本家と予備交渉を行い,「東北鉄道綱計画縁起」49)

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立案し,11 月 20 日,立法院を通過させた.その一節に,「鉄道綱中重要なるものは大幹線 即ち満鉄を挟み東支線を切断する東西大幹線にして,更に之を北寧線に集中し,良港を築 きて物資の捌け口を作らば,単に満鉄の死命を制し得るのみならず,東支鉄道に重大なる 脅威を与へ得べし」50 )とあり,その良港とは葫蘆島を示す.葫蘆島の海港築工事もオラン ダの借款により,1930 年 7 月 2 日,復興するに至った51 ).こうした中国側の鉄道新設およ び葫蘆島港の開発による満鉄包囲計画は,日本側の死活的大陸政策の基地である大連港と 大動脈である南満州鉄道を無用のものにしようとするものであった.さらに,排日運動は 日本商品に対する不当課税,運搬拒否,不法没収,売買妨害,借家借地の禁止などあらゆ る方面にわたり徹底的,組織的に展開された.

 とくに,1931 年 2 月組織された国民外交協会は,排外的態度をとり,「一,民衆及国際 宣伝に注意す 二,外人の侵略政策対抗に付研究す 三,当局を督促し外交の勝利を占む  四,売国奴を厳重に防ぎ且之を検挙す 五,国民外交教育を促進す」52 )などをその運動内 容として,漸次各県に支部を置き,地方官憲の背後より,圧迫を加えた.また,土地商租 権に対しても,東北四省の最高政治機関である東北政務委員会は,国民政府がすでに 1929 年 2 月に発布していた「土地盗売厳禁条例」53 )を施行した.

 商租権とは別に,鉄道の建設経営および保護のために必要な沿線の土地は,東支鉄道建 設および経営に関する契約第 6 条により,満鉄が租用し得ることになっていたが,「大正 四,五年頃ヨリ支那側ハ極力満鉄ノ土地買収ヲ妨害シ始メ之カ為メ懸案トナレルモノ五六 十件ニ達シタ」54).また,間島協約による朝鮮人の土地所有権も認めず,朝鮮人の土地買収 を不可能とした.満州における朝鮮人のほとんどは農業に携わり,その耕地面積は間島地 方において,畑約 17 万 6000 町歩,水田 1 万 2500 町歩,また間島以外の満州においては,

畑約 3 万 4000 町歩,水田約 4 万 5000 町歩であった55 ).そして,商租権問題と関連して中 国人との間に土地をめぐって紛争がたえなく,日中間の政策の衝突を促進させた.中国官 憲による朝鮮人に対する不当の迫害は,「昭和三年ヨリ同五年ニ至ル三ヶ年間ニ於ケル退去 強要,不当課税,学校ノ閉鎖回収改編,帰化強要小作禁止等被圧迫事例ノ顕著ナルモノノ ミニテモ凡ソ百件以上ニ達シ,微細ノ事例ニ至ツテハ一々列挙スル煩ニ堪ヘナイ」56 )状態 であった.生命の不安を感ずる鮮農は続々と朝鮮へ帰還し,1931 年の 1 月より 8 月までの 8 ヵ月間に一万 1000 余人が本国へ逃げ帰ったほどで,満州事変前における鮮人の在留数は 80 万人に減少していたという57).朝鮮人農民に対する迫害の最も著しい例は,茶条溝事件,

万宝山事件,三道溝事件,壤徳事件等がある.万宝山事件が朝鮮に伝わるや,7 月 3 日の 仁川における暴行事件を序幕として,京城,平壌など朝鮮全土に拡大し,中国人に対する 報復行動を起した.また万宝山問題の交渉中に起ったのが中村大尉事件であった.土地商 租権に関する日中間の長期にわたる紛争は,さらに中国人地主と朝鮮人小作人という複雑

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236  政策文化総合研究所年報  第 21 号 な民族的対立をも内包し,次第に軍事力的対立を誘発させていった.

1)矢内原忠雄『満州問題』49 頁.

2)馬場明「林久次郎と石射猪太郎」(竹内好,橋川文三編『近代日本と中国』下巻)106 頁.

3)外務省記録「満蒙行政統一関係一件」.

4)森島守人「林久治郎氏を語る」(『霞関会報』昭和 39 年 8 月号)9 頁.

5)8 ) 外務省記録「支那内乱関係一件 国民軍ノ北伐関係 張学良対南方妥協問題」.

9)外務省記録「帝国ノ対支外交政策関係一件 張作霖爆死ニ際スル対満政策関係(松本記録)」.

10)外務省記録「支那内乱関係一件 国民軍ノ北伐関係 張学良対南方妥協問題」.

11)田中義一伝記刊行会編『田中義一伝』下巻 962 頁.

12)13 ) 外務省記録「支那内乱関係一件 国民軍ノ北伐関係 張学良対南方妥協問題」.

14)外務省記録「満蒙問題ニ関スル交渉一件」.

15)16 ) 外務省記録「張作霖爆死事件 葬儀参列ノ為林大使赴奉関係」.

17)東亜同文会編『続対支回顧録』下巻 1003 1004 頁.

18)外務省記録「満蒙問題ニ関スル交渉一件(松本記録)」.

19)山本条太郎翁伝記編纂会『山本条太郎伝』622 624 頁.

20)外務省記録「満蒙問題ニ関スル交渉一件(堀田記録)」.

21)東亜同文会編『続対支回顧録』下巻 1004 頁.

22)山本条太郎翁伝記編纂会『山本条太郎伝』622 624 頁.

23)25 ) 外務省記録「満蒙問題ニ関スル交渉一件(松本記録)」.

26)「満蒙商租権交渉開始」(『外交時報』昭和 3 年 11 月号)176 頁.

27)28 ) 外務省記録「満蒙問題ニ関スル交渉一件(松本記録)」.

29)山本条太郎翁伝記編纂会『山本条太郎伝』628 629 頁.

30)東亜同文会編『続対支回顧録』下巻 1003 頁.

31)外務省記録「満蒙問題ニ関スル交渉一件(松本記録)」.

32)33 ) 外務省記録「満蒙問題ニ関スル交渉一件 満蒙鉄道交渉問題」.

34)外務省記録「満蒙問題ニ関スル交渉一件(松本記録)」.

35)37 ) 外務省記録「満蒙問題ニ関スル交渉一件 満蒙鉄道交渉問題」.

38)林久治郎『満洲事件と奉天総領事』65 頁.

39)外務省記録「満蒙問題ニ関スル交渉一件 満蒙鉄道交渉問題」.

40)森島守人「林久治郎氏を語る」(『霞関会会報』昭和 39 年 8 月号).

41)森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』43 頁.

42)栗原健『対満蒙政策史の一面』所収.臼井勝美論文は外務省記録「満州ニ於ケル農地経営関係 雑件」に基づいたものである.

43)外務省記録「在外本邦人経営農場関係雑件奉天榊原農場」.

44)1929 年 6 月 28 日付「奉天新聞」によれば,「大正十三年七月奉天総領事館は榊原の依頼によ り公文に添えて,大正十三年迄の租金として奉小洋五千二百四十元を支那側に送付した.是に対 し,交渉署から七月十八日付を以て領収證を送付して来たにも拘らず,其後右金円を返還して来 たので,右金円は今日に至る迄奉天領事館に保管して居る」という.

45)1929 年 6 月 28 日付「満州日報」.

46)1929 年 6 月 28 日付「奉天新報」.

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47)「奉天榊原農場問題」(『調査時報』9 巻 5 号)42 頁.

48)森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』40 頁.

49)東亜研究所『支那近代百年表草稿』298 頁.

50)葛生能久『日支交渉外史』下巻 437 438 頁.

51)1908 年,徐世昌,唐紹儀の発議により,袁世凱政府の同意の下に英人技師ヒュースを主任と して工事を開始していたが,資金関係及び支那内乱等で工事は中止されていた.東北交通委員会 成立により,北寧鉄路局長・高紀毅が主としてその実行の衝にあたり,白蘭シンジケートと支那 政府の間に 640 万ドルの借款契約が成立し,工事金 1600 万元,期限 5 年でオランダの会社に請 負せることになり,1930 年 7 月 2 日,その起工式を行った.(佐藤安三郎『満蒙問題を中心とす る日支関係』49 頁).

52)東亜勧業株式会社『東亜勧業株式会社拾年史』255 頁.

53)信夫淳平『満蒙特殊権益論』398 401 頁.長谷部照正「満州国成立後に於ける商租権」(『満鉄 調査月報』15 巻 8 号)4 頁.

54)外務省情報部『満州ニ於ケル支那側ノ条約蹂躙』21 頁.

55)満州国史編纂刊行会編『満州国史』総論,64 頁.

56)外務省情報部『満州ニ於ケル支那側ノ条約蹂躙』22 頁.

57)東亜同文会編『続対支回顧録』上巻 16 頁.

参照

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