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原著論文

「中国スポーツ体制改革の基本方針」 1986

策定過程に関する研究

武 浩文

日本体育大学大学院体育学研究科スポーツ文化・社会学系

A study about the development of the basic policy in the field of reform of China ʼ s sports system 1986

HaoWen Wu

Abstract: This study focuses on the development of the basic policy in the field of reform of Chinese sports system in 1986. Social background, various sports business, and the sports policy of each year are reviewed from 1976, in which “the Cultural Revolution” in China was terminated. The results of this study can be summarized as follows:

After the Cultural Revolution, with the raising of the emancipating the mind by Xiaoping Deng, unreasonable criticism on the sport was wiped out, and sports activities was resumed in China. In 1978, a policy of “reform and opening-up” was proposed, and reform of Chinaʼs social system was started. Meanwhile, as the first step of sports business reform, China has returned to the international Olympic committee in 1979, and a policy of competitive sports priority was formulated for winning at the Olympic Games.

In 1980, i.e., the second year of the implementation of the policy of reform and opening-up, national finance was shocked by the increase of expenses, which was necessary to the reform. With the rapid development, financial problems in the sports business emerged due to the expanded fund. In 1981, National Sports Commission pointed out the financial problem in sport, and ordered each local sport authority to ensure their financial investment. In the same year, commercial sports activities were sponsored.

In the beginning of 1980, because of the activity of the representative players in the international competition, sports boom occurred in China. Thus, in order to respond such a new situation of sport, the Chinese government promulgated several reform proposals, and a development goal of sports business was decided to establish a sports powerful country until 2000. Therefore, the subjects on flexible use of sports facilities, training of players, scientizing of sport, funding, etc., were emphasized.

In 1984, the Chinese government announced a basic policy of Chinaʼs economic reform, and plans of system reform in each field were developed. Although the 23rd Olympic Games Los Angeles was the most important goal in 1984 in the sports field, the policies on sports system reform had not been formulated. In the same year, it was pointed out that players were very important for obtaining good results after the 23rd Olympic Games. Consequently, reform of sports personnel training system was urgently needed.

In 1985, Three prominent problems in sports business were submitted, and sports socialization was emphasized to resolve the problems of players and sports finance. After that, a research society of China Sports Development Strategy was established for full reform of the sport.

Based on the process described above, the basic policy in the field of reform of Chinaʼs sports system including all kinds of reform policies was summarized about promoting the socialization of sports and realizing the goal of 2000, via resolving the most serious problems in sports area at that time, such as financial problems and shortage of players, etc.

(Received: July 19, 2013 Accepted: August 19, 2013 Key words : China, sports system, development, policy

キーワード:中国,スポーツ体制,改革,政策

1.  意図と課題

中国は

1978

年に「改革・開放」政策を実施し,社会 全体が大きな変容を遂げた1.その過程において政府

は行政規制の緩和をしながら,市場の需要によって経 済を運営する新たな体制に移行することとなった.そ の中にあってスポーツも大きな改革が行われた2

1986

年,国家体育委員会が「中国スポーツ体制改革の

(2)

基本方針」を公布し,また

1993

年と

2000

年,「スポー ツ体制改革を深化する意見」 と「

2001

2010

年スポー ツ体制の改革と発展綱要」を公布した.これらスポー ツにおける改革案の策定は,スポーツ事業の進展とと もに整備されてきたとみることができる.

ところが近年,スポーツの体制改革をめぐって大き な議論がなされた3

2004

年から,中国のオリンピッ ク金メダルのコストについて,

1

個の金メダルにつき 中国政府が約

7

億元(約

98

億円1)を投入しており,

このお金で

35

万人の経済困難児童の就学問題が解決 できることから,現行の中国におけるスポーツ体制が 税金の無駄遣いであるなどと指摘された4.また,現 在の中国におけるスポーツ体制に対して競技スポーツ と大衆スポーツの不公平問題が指摘され,スポーツ体 制の改革を主張する研究がなされた5

そんな中,北京オリンピック競技大会直後の

2008

9

月,中 国 政 府 は「人 民 日 報」を 通 じ て「挙 国 体 制」2を堅持する声明を公布した.すると中国スポー ツの基本体制といわれる「挙国体制」の北京オリン ピック競技大会後の行方はたちまち議論の的となり,

各主張の立場は,当初の体制の堅持,完全否定,改善 しながら堅持という三つに分かれた.この議論の過程 において,元中国体育高等学校教材編集長の胡小明は 中国スポーツ体制をいかに改革するかについて検討す る前に,スポーツ体制改革の意味や,改革の対象を明 確にする必要があると主張した6.そのような観点か ら,現在の中国スポーツにおける改革策を概観する と,原点となるのは

1986

年に公布された「中国スポー ツ体制改革の基本方針」であることがわかる.その後 の改革策はこの政策を基として策定されているのであ る.したがって,中国におけるスポーツ改革の性格を 決めるために,この政策の内容,策定過程,影響を明 らかにする必要があるといえる.

このような視点から,「中国スポーツ体制改革の基 本方針」について検討した研究は,これまでにほとん ど行なわれてこなかった.この政策に触れた研究は,

「改革・開放」が提出されてから

20

30

年間の中国に おけるスポーツ改革の概説の一部として言及したも の,また

1993

年に公布された「スポーツ体制改革を深 化する意見」 と比較する視点から論を展開するものが ほとんどである7.僅かにこの政策の策定過程と内容 を分析した陸小聡は,「改革・開放」政策が中国社会 全体に影響を及ぼし,中国社会にいわば大変動をもた らし,その中にあってスポーツは大きな変容を余儀な くされ,その社会的意義が変化し,さらに他の諸制度 との相互関係が著しく拡大し,深化したと指摘し た8.しかし,この論文では

1986

年に公布された中 国スポーツ体制改革の社会背景を明らかにしたが,ス

ポーツ事業内部の改革動向については十分に分析され ていなかった.

中国では,

1978

年に「改革・開放」が打ち出されて から,スポーツ事業における改革が始まった.

1979

年に中国が国際オリンピック委員会へ復帰したことに より,国際舞台での国威発揚を目指して「競技スポー ツ優先」政策が策定された9.その後,競技スポーツ を優先的に発展させる方針をとった中国のスポーツ事 業では,事業全体の進展による財政問題が立ち現 れ10,それからほぼ毎年,中国政府がスポーツにお ける財政問題の解決に向かって一連の改革案を公布し た.伍紹祖11により,財政問題は当時の中国スポー ツ体制改革の主要な要素であったことが示されたが,

この問題と「中国スポーツ体制改革の基本方針」の策 定との具体的な関連性については言及されなかった.

また,オリンピック競技大会の優勝を目指した中国 は,

1980

年から選手育成システムの改革に着手した が12,スポーツにおける選手の不足が顕著になった.

1984

年のロサンゼルスオリンピック競技大会におい て,水泳と陸上の

70

種目のうち,中国の選手が獲得 した唯一のメダルが走り高飛びの銅メダルであったこ とと,

225

名の選手団のうち,

20

歳以下の選手が僅か

24

人であったことを受け,王元敬は,

2000

年までス ポーツ強国を実現するための基礎,またはこれから国 際舞台で国威発揚を背負う選手の不足を指摘した13). また如寄は,選手の不足をもたらす要因について,国 家体育委員会と地方スポーツ行政機関が抱えるスポー ツの目標が違っていることと,スポーツの社会化が遅 れていることを指摘した14.選手の不足は財政問題 と並び,この時期の中国スポーツ体制改革の要因と なった.

1986

年の「中国スポーツ体制改革の基本方針」の項 目を示した表

1

をみると,財政問題と選手確保の問題 について多く言及されている様子がわかる.選手確保 の問題については第

2, 3, 4, 7

項の中で,ジュニア競技 会の開催,学校及び企業による選手育成システムの構 築,全国スポーツ大会の参加資格開放などの規定が設 けられた.財政問題については,第

2, 3, 9, 10

項にお いて,体育館経営の企業化,スポーツくじの販売,企 業スポンサー付大会の許可,スポーツにおける外資の 導入などが規定された.そのため,これら二つの問題 は「中国スポーツ体制改革の基本方針」策定の主な要 因とみることができる.したがって,これらの問題に 注目して中国スポーツの動向を考究することで,この 政策の策定過程を明らかにすることができる.

周知のように,「改革・開放」政策を実施する前,

中国の社会経済体制は計画経済体制であり,すべての 社会事業の運営は国家政府の直接管理の下で行なわれ

(3)

表1. 「中国スポーツ体制改革の基本方針」の項目

第1項 スポーツ管理体制改革

1. 体育委員会の管理機能強化 2. スポーツ組織の整備

3. スポーツの管理責任の各業界への付与 4. 各スポーツ協会の機能

5. スポーツ事業を反映する指標の設定 6. スポーツに関する制度・法律の整備

第2項 競技スポーツ体制の改革

1. 団体競技の企業,学校への拡大 2. オリンピック項目の優先 3. ナショナルチームの組織 4. 選手の確保と育成

5. 各チームにおけるコーチ責任制の導入 6. コーチの雇用制度の改革

7. タレント発掘の重視

第3項 競技会制度の改革

1. オリンピック優勝を目指す国家レベルの競技会の開催 2. 全国競技会の種目設置はオリンピックの基準化 3. 種目ごとの競技参加条件の設定

4. 各種目の競技会の毎年開催 5. 競技会の参加条件の設定

6. 12歳以下の競技会の省及び省以下の行政機関による主催 7. 競技会開催地及び費用に関する制度

8. 競技会に関する規則の整備 9. 審判の育成の重視 第4項 社会スポーツ活動

1. 各業界,個人のスポーツ活動主催の提唱 2. 学校スポーツと企業スポーツ活動の更なる展開 3. 農村スポーツの普及と農村におけるタレント発掘 4. 民間スポーツ指導者の育成

5. スポーツフェスティバルの設立 第5項 民族伝統スポーツ

1. 民族伝統スポーツの発展方針の設定 2. 武術の普及と研究の推進

3. 武術の世界展開

4. 少数民族のスポーツの重視 第6項 スポーツの科学化

1. スポーツの管理,訓練及び競技試合の科学化 2. スポーツ科学研究所における請負制度の導入 3. スポーツ科学部とトレーニング部の協力 4. 大衆スポーツに関する研究の推進 5. 社会各分野のスポーツ科学研究活動の提唱 第7項 体育教育制度の改革

1. 小中学校の体育教師育成の師範学校体育学系による担当 2. 体育教育の管理体制の改革

3. 体育専門学校の新入生募集と就職制度の改革 4. 競技スポーツ学校の設立

5. 優秀な競技選手に対する文化教育の強化

第8項 選手管理体制 競技選手をトレーニングに専念させる科学的管理方法の導入;

勝敗による価値判断の排除;過剰ナショナリズムの防止

第9項 厚生,奨励制度

1. 賞金,奨励制度の設立

2. スポーツ選手のサポート施設,制度の整備 3. 国家予算以外のスポーツ事業の財源拡 4. 体育館の管理規則の策定

5. 軍事スポーツに関する改革

第10項 対内,対外開放政策

1. 外国選手の国内競技会への参加の認可 2. 企業スポンサーと国際スポーツ交流会の提唱 3. 国際スポーツ組織への積極的な参入 4. 外国の先進技術,設備,などの導入 5. スポーツ旅行と外資の導入の提唱

6. 経済特区における積極的な外国スポーツ及び新種目の導入

中国体育委員会(1993中国スポーツ体制改革の基本方針.中国体育年鑑1949–1991,人民体育出版社:pp. 107–111.より作成

(4)

た.それから市場体制が導入され,社会経済における 市場の役割が重視されたが,今日の中国には,国家権 利が依然として社会の中心的存在に留まっているとい う現実がある15.このことから中国では,今日にお いても国家政府から出された政策の重要性が大きく,

中国のスポーツ政策は国家権利を執行するスポーツ行 政機関の統制力を発揮する装置であるとともに,中国 スポーツの進展を導く決定的要因であると言ってよい だろう.そのため,中国のスポーツ政策を分析するこ とは,中国におけるスポーツ体制の変容過程を考究す ることにつながるといえる.

以上より本研究では,「文化大革命」が終結した

1976

年から

1986

年までに公布されたスポーツに関連 する政策を研究対象とし,スポーツの財政問題と選手 確保の問題に注目し,この時期の中国の社会背景とス ポーツ事業における出来事を整理した上で,

1986

年 の「中国スポーツ体制改革の基本方針」の策定過程を 考察していくこととする.

なお本研究は,中国におけるスポーツに関する政策 に焦点を当てるものである.したがって本研究では,

中国の行政機関で公布された条例,法令,意見をはじ め,国家統計年鑑及び国家会議に関する資料,各年代 における中国国内の社会状況とスポーツ事情について 論述した著書や文献等を主な史料として用いることと する.

2.  スポーツ再建の社会背景 1)

 「改革・開放」政策の策定

1976

年までに,中国国内では大きな政治運動であ る「文化大革命」の影響で,大部分の地域が貧困であ り,経済の発展が遅れていた.

1978

年に中国の一人 当たり

GDP

230

ドルであったが,当時先進諸国の 平均は

8100

ドル,発展途上国の平均値でも

520

ドル であった16.それは,「文化大革命」が始まった

1966

年と比べるとほぼ変わっていないものだった17.こ の実情を改善するため,中国では国家経済を発展させ ることが重視されるようになった.

1976

9

月,毛沢東の逝去により華国鋒が国家主 席に就任すると,華国鋒は経済の再建を重視したが,

同時に毛沢東の政治闘争思想に基づくべきことを提唱 した.彼は

1976

10

月から

1977

1

月までに,「毛 沢東主席が決定したことを必ず遵守し,違反してはい けない,毛沢東主席を違反する行為を一切許さない」

という自らの主張を完成させて公表した18.このよ うな華国鋒の姿勢は「文化大革命」から完全に抜け出 していないことを示すもので,当時の中国共産党内に

おいて大きな議論をもたらした19

1977

7

月,国 家副主席に就任した鄧小平は,華国鋒の主張を不適当 な個人崇拝と批判し,「実践は真理を検証する唯一の 標準」だと述べた20.こうして,毛沢東思想を完全に 肯定して政治闘争を続ける考えと客観的事実を重視し て改革を実現する考えという二つの理念が共産党内部 で形成され,華国鋒をはじめとする「保守派」と鄧小 平をはじめとする「改革派」が対立することとなった.

中国共産党第十一回全国代表大会第三次会議が行わ れた期間は,

1978

12

18

日から

22

日というわず か

5

日間であり,中国社会全体の改革策の策定に対し て時間的に不十分だったと言わざるを得ない.しかし この会議が行われる直前の

11

月に,

36

日間もかけて 中国中央会議が開催され,「この会議は中国共産党第 十一回全国代表大会第三次会議のために十分に準備を するもので,鄧小平によるこの会議の閉会講話は,全 国代表大会第三次会議の主題報告である」と述べられ た21.このことから,この中央会議の重要性が窺え る.この中央会議では,まず国家の発展方針について 検討され,国家のトップリーダーの間に大きな認識の 相違が存在することは,政治の安定性及び国家の発展 に良い影響を与えないと指摘され,毛沢東思想を検討 しながら受け継ぐべきであるとの共通認識が得られ た22.この問題について華国鋒が,今回の会議で反 省して自己批判をしたことで,国家リーダーの認識が 統一され,国家建設の基本方針が定められた.

次に,経済建設の基本として国民生活の確保の 問題が検討された.

1978

2

月に華国鋒が制定した

1976

1985

国民経済

10

年発展綱要」は実施されてか らわずか

9

ヶ月で中止された23.中央会議では,農業 を加速して発展させることを主要検討内容とし,「農 業の発展を加速する意見(草案)」の策定を検討した.

また,「文化大革命」期間中に悪意中傷事件が

200

万 件を超え,被害者は何百万人にも及んでいた24.そ れらの人々の名誉を回復することも,今回の中央会議 の中心的課題であった.政治闘争に反対する人たちの 名誉と地位を回復することは,改革を推進するうえで 大きな支持を獲得したと考えられる.一方,二度とこ のようなことを起こさないよう,法律の整備も求めら れていた.

最後に,経済再建を今後の主要課題にすることが,

この中央会議で明確にされた.この議論の原点は,

1964

年の第三回全国人民代表大会で毛沢東が提出し た「工業の現代化,農業の現代化,国防の現代化と科 学技術の現代化」という四つの現代化である25.その 目標が提出された直後,中国が「文化大革命」に入り,

(5)

この提案の実施は中止された.今回の会議において,

鄧小平は毛沢東の理念を受け継ぎ,四つの現代化を実 現するために経済再建を中心に据え,いかなる経済を 発展させるかについて検討した.

以上のように,

10

年にわたった「文化大革命」が

1976

年に終わりを迎え,鄧小平らは国家経済の発展 を図り,当時の社会状況に基づき,中国共産党第十一 回全国代表大会第三次会議で「改革・開放」政策を打 ち出した.さらに,

1978

年に開かれた様々な国家会 議で提案された改革意見を加え,中国社会の全面改革 が始動した.

1978

12

月に開催された中国共産党第十一回全国 代表大会第三次会議で公布された「改革・開放」政策 は,中国共産党の思想方針と中国の経済方針に重点を 置き,中国共産党のあり方と経済改革についていくつ かの提案を可決した26.この中で会議の中心を貫い た「思想開放」は,すべて改革策の基礎に位置づけら れた27.「文化大革命」の時期の中国の思想状況につ いて,鄧小平は以下のように語っている28

10

年にもわたった「文化大革命」は,当時の中国 民衆の思想を束縛し,身を守るために正誤を問わず すべて党の指示に従い,個人の意見や考えが大変抑 圧された.次に,以前から残されてきた生産の体制 が人々の積極性を抑えた.また,法律の不備によ り,賞罰不明という問題が深刻であり,正確な意見 が批判された事実が多く存在していた.このような 実情の影響で,人々は考えなくなってしまった.

このような実情を改善するために,鄧小平は「思想 開放」を打ち出した.この提案にしたがい,共産党は 以前から残してきた思想を改めることで改革の決意を 示し,人々の労働意欲の呼び起こしを最優先にし,中 国社会の発展方針を階級闘争から経済の再建へと転換 することを決定した29

2

) 「文化大革命」後のスポーツの再建

スポーツ界においては毎年初頭に,前年度の全国ス ポーツ事業をまとめ,新たな施政方針を策定するた め,全国体育会議を開催している.

1976

年と

1977

年 の全国体育会議は開催されなかったが,

1978

年には,

中国社会における改革風潮の影響を受け,文化大革命 で破壊された制度,組織を回復するため,

1400

人が 参加した中国史上最大の全国体育会議が開催された.

この会議では,「文化大革命」期間中に,「独立の王 国」,「資本主義のスポーツ」などとされ,スポーツ事 業及びそれにかかわる人間がすべて否定されたという 無実の謬説を徹底的に批判しなければならないと国家

体育委員会が指摘した30.そのうえで,当時のス ポーツ事業の発展の方針及び状況について,以下のよ うに示された31

現在のスポーツ事業の発展方針は,共産党の指導 に従ってスポーツを発展させ,人民の体位を向上さ せ,青少年の道徳,知力,体力の全面的発展を促進 し,スポーツと生産労働,軍事訓練,衛生事業との 結合を堅持し,大衆スポーツの普及と競技スポーツ の向上を結合して社会主義の建設と国防建設に貢献 するというものである.今回の会議は,以下の八つ の問題について検討する.

1.

スポーツ事業における共産党の指導力の堅持

2.

青少年の道徳,知力,体力の全面的発展の促進

3.

大衆スポーツの普及と競技スポーツの向上を結

合する方針の堅持

4.

競技試合の積極的な開催

5.

競技スポーツの最高峰への早急な到達

6.

国際スポーツ交流活動の展開

7.

「文化大革命」以前策定された合理的スポーツ 制度,規則の堅持

8.

スポーツ事業を発展するためのスポーツ選手育 成の重視

以上のような課題を掲げた

1978

年の全国体育会議 は,スポーツ事業を「文化大革命」の暗い影から救い 出す調整会議であったとみられる.この会議で検討さ れた八つの項目,すべての中で「文化大革命」時期の ことが言及されている.これは新たな発展方針を検討 する前に「文化大革命」によって残された問題の解決 を目指したものと考えられる.その後,会議では

1978

年のスポーツ事業の発展方針及び目標について 検討され,その内容は以下の十項目にまとめられ た32

1.

各レベルのスポーツ行政機関を整頓する

2.

思想の問題を解決する

3.

大衆スポーツを展開し,スポーツの宣伝を強化 する.学校や企業などの社会団体のスポーツ活 動を提唱し,民間における競技大会を積極的に 開催する

4.

スポーツにかかわる制度を設立し整備する.体 育委員会規則,各スポーツ協会規則などを改定 し,責任制度,コーチ・選手の資格検定制度を 策定する

5.

選手育成システムを建設する.優秀選手の獲得 の拡大を目指し,各レベルのスポーツ学校を設 立する

(6)

6.

科学技術を重視し,練習の質を向上させる.

トップレベルチームに年間

280

日,

1

5

時間 以上の練習を設定し,科学技術を練習に導入す ることを提唱する

7.

スポーツ科学を発展させる.各レベルのスポー ツ行政機関にスポーツ研究所を設立し,スポー ツ事業の発展戦略の設定から競技レベルの向上 まで科学的研究を行う

8.

スポーツ人材の育成を重視する.閉ざされたス ポーツ学院を回復し,募集人数を増やして体育 教師,コーチなどのスポーツ人材の育成を強化 する.スポーツ人材の生活保障に配慮する

9.

スポーツ施設を保障する.各地域における競技

スポーツと大衆スポーツの発展に相応しい施設 を保有すべきであり,国民経済の発展とともに スポーツ経費を増加する

10.

各レベルのスポーツ組織を回復,整備する.農 村から都市まで,スポーツ組織を整備し,学 校,企業などではスポーツ協会を設立する.各 種目のスポーツ協会の作用を最大限に発揮し,

軍隊におけるスポーツ組織は軍隊の指示に従っ て調整する

「文化大革命」以後はじめての体育会議は以上のよ うに,当時のスポーツ事業の状況を確認したうえで抱 えている問題を検討し,新たな発展方針及び改革の目 標を設定した.まずはスポーツ事業全体を「文化大革 命」から立ち直らせるために,今回の会議では各レベ ルの行政機関の整備と思想問題の解決,スポーツにか かわる制度の設立と整備および各レベルにおけるス ポーツ組織の回復と整備を検討した.また,それらの 問題解決に目標を設定し,スポーツ事業の組織上の改 革を目指した.

3.  「改革・開放」政策と競技スポーツ 優先政策の確立

1

) 「改革・開放」政策のスポーツ領域での展開

1978

年までに,中国政府が策定した社会発展方針 が政治闘争から経済発展へと転換し,いかに国家経済 を発展させるかが政府の中心的課題となった.また,

国家経済の発展のために,農村における経済体制改革 案と都市における国有企業管理形式の改革案が同時に 実施され,国家経済改革を牽引した.さらに,鄧小平 が中国共産党第十一回全国代表大会第三次会議での報 告の中で,経済体制の改革の中心である国家権利の開 放に言及し,経済の発展に対して国家政府の制限を控 え,フェアな市場を創出する意思を以下のように示し た33

経済政策について,私は一部の地域,一部の企 業,一部の人が大きな努力を通して収入を増やし,

生活を豊かにすることに賛成する.この人達の生活 の質の向上は必ず見本になり,他の地域に影響を与 え,他の地域のやる気を引き出すことができる.こ れで,中国の国民経済は波のように発展し,全国民 の富裕化に至ると思われる.

これを受け,

1979

7

月に国務院が広東省および 福建省の「対外経済活動における特別政策」報告を可 決し,特区を設立させ,

1980

5

月に「経済特区」と いう正式名称を定めた34.「経済特区」の設立にした がい,広東省および福建省への外資の進出が激増し た.

「改革・開放」政策が実施されはじめた時期,中国 政府の施政要領の中に一つの特徴が見られた.それは 上述の鄧小平が述べた経済政策についての考えと一致 したもので,国家政策の策定と実施において重点を定 め,社会分野,地域において優先して発展させる項目 を設定したことであった.このような発展方針は改革 失敗のリスクを最低限に抑え,政府の財政負担を減軽 する手段と考えられる.当時の中国スポーツ界もこの 施政方針の影響を受け,従来は同様に重視されていた 大衆スポーツと競技スポーツのうち,一方が偏重され るようになった.

1978

12

月に「改革開放」政策が公布された直後,

1979

2

月に開催された全国体育会議の紀要の冒頭 では「第十一回全国代表大会第三次会議の精神に従っ て全国スポーツ事業の発展方針を検討して改定する.

(中略)現在,競技レベルの低下が著しいため,各レ ベルの体育委員会は大衆スポーツの普及と競技スポー ツを結合しながら,競技スポーツに力を入れ,それぞ れの実情に基づき,発展の重心を設定しよう」35と述 べられた.

これを発端として,中国政府はスポーツ界の重心を 競技スポーツへ偏重する意思を表明した.このような 方針の策定は,当時の中国スポーツ界の実情とスポー ツにかかわる重要なできごとによってもたらされたも のだった.

まず,中国におけるスポーツの競技力低下とアジア 競技大会での不振が競技スポーツ強化方針の策定を促 した.

1978

2

月の全国体育会議では,競技スポー ツの発展目標について以下のように述べられた36

世界トップレベルを追い越すことは,スポーツの 普及を推進するためであり,社会主義強国を建設す るためであり,向上しつつある我が国の物質・文 化・生活レベルに応じるためであり,国際階級闘争

(7)

のためであり,我が国にとって大切な政治的任務で ある.(中略)

3

年以内に三分の一の競技種目が世界 トップレベルに達し,

8

年以内には,ほとんどの競 技種目が世界トップレベルに接近し,あるいは達す る.

1978

年の第

8

回アジア競技大会では,日本を 追い越すように努力する.

このような目標が設定されたが,同年

12

月に開催 されたアジア競技大会では,日本を追い越すことがで きなかった.体操,卓球,高飛び込みで好成績を収め たが,陸上と水泳などでは,アジアのトップレベルと の差が大きかった37.また,

1977

年と

1979

年に開催 されたユニバーシアード,

1978

年に開催された世界 中学生競技会において,体操と高飛び込み以外の競技 では,中国代表の成績は世界トップレベルに及ばな かった38.このような成績はスポーツを通じて国威 発揚を目指す中国にとって,不十分なものだった.

次に,中国のスポーツ政策策定に影響したのは

1979

年の国際オリンピック委員会への復帰である.

1971

年の「ピンポン外交」はアメリカとの関係を改善 したのみならず,中国の国際関係全体をも改善するも の で あ っ た.

1971

10

月,中 国 は 国 連 に 加 盟 し,

1973

年にはアジア競技連盟に復帰した.また

1972

年 に国際オリンピック委員会会長に就任したキラニンは

「世界一の人口をもつ国がオリンピックに参加できな いことは異常である」39と指摘した.こうして

1975

4

月,中華全国体育総会は国際オリンピック委員の身 分の回復を国際オリンピック委員会に申請した.その 後

1978

年までに,ほとんどの国際スポーツ組織が中 国の地位を回復させた.さらにこの年の

12

月には,

中国とアメリカが

1979

1

1

日をもって国交を樹立 させることを全世界に公表した.これを受けて当時,

国際オリンピック委員会会長を務めていたキラニン は,次のように語っている40

このことは必ず一部の国際オリンピック委員の考 えを変え,我々も早速決断を下さなければならなく なるだろう.中国のオリンピック委員の身分問題に 対し,中国に公平な答えを出すべきだ.

そして

1979

10

月,国際オリンピック委員会会議 が名古屋で開かれ,中国オリンピック委員会が全中国 のオリンピック委員会であり,台湾オリンピック委員 会は中国の地方組織であると認められた.これによ り,中国が正式に国際オリンピック委員会に復帰した のである.この会議の前に,中国はすでに

1980

年の 第

22

回オリンピック競技大会(モスクワ)に参加する ことを決定し,着実に準備を進めていた.こうした状

況下,

1979

年の全国体育会議は

1979

年と

1980

年のス ポーツ事業の目標を以下のようにまとめた41

1.

全国運動会を開催し,オリンピック競技大会へ の参加準備をする.国内の競技大会はオリン ピック競技大会と国際競技会に配慮して開催し なければならない.優秀選手の獲得ルートをさ らに拡大し,体育高等学校,軍隊が優秀選手育 成を担当すべきである各地域の体育委員会は優 位種目を担当して選手を育成し,成績に応じて 奨励を与える.

2.

大衆スポーツを普及する.学校はスポーツの普 及を担当する上で,スポーツ人材の育成も重視 しなければならない.軍事スポーツを全社会に 普及する.

3.

優秀選手の育成を加速する.競技スポーツ学校 の設立と選手育成システムの強化を重視する.

コーチの育成に目標を設定し,タレント発掘の 基準を検討する.

4.

スポーツの科学化を強化し,体育学院を効率的 に運営する.体育学院を教育,練習,科学研究 などを含む総合センターにする.国際的学術の 交流とスポーツの宣伝を強化する.

1979

年に中国が国際オリンピック委員会に復帰し,

1980

年のオリンピック競技大会に参加することと なったため,

1979

年の全国体育会議では,競技ス ポーツが検討の中心となった.全国スポーツ競技会を オリンピック競技大会の予選大会にするという意思に したがって,今回の会議は国内の競技会について,国 際競技会に配慮して開催するという競技会制度の改革 案が提起された.

また,競技スポーツを強化するために選手の確保と タレント発掘についても言及した.ここでは選手を確 保するため,各省,市の体育高等学校,軍隊における 選手の育成を要求した.

大衆スポーツについては学校における優位種目の設 定に具体的な目標が制定され,軍事スポーツを社会に 普及する目標が設定された.体育学院に対しては新た な改革方針が提示され,スポーツに関する国際的交流 が提唱された.今回の会議は前年度の会議より新たな 改革意見を提起したもので,中国スポーツ事業の改革 が着実に進んでいるとみることができる.

2

) 競技スポーツ優先政策の確立

1980

1

月に,中国スポーツ事業の

30

周年を記念 する意味を持つ全国体育会議が開催された.この会議 では,まず「大躍進運動」以前のスポーツの発展方針

(8)

及び毛沢東の体育思想を肯定し,「文化大革命」前後 の卓球チームをはじめとする競技スポーツの成績を表 彰した.その上で,「文化大革命」を批判し,それに よって破壊された組織,制度の再構築に決意を示し た.さらに,

30

年の中国スポーツ事業を振り返り,

以下のように総括した42

1.

スポーツと政治の関係を正確に理解すべきであ る

2.

スポーツと経済の関係を正確に理解すべきであ る

3.

大衆スポーツと競技スポーツの関係を正確に理 解すべきである

4.

競技会を通してスポーツの発展を推進する

5.

学習と独創の関係を正確に理解すべきである

6.

共産党の指導に従い,全社会でスポーツ事業を

推進する

1979

年からの経済改革にともない,農産物の値上 げ,インフラ整備の拡大,改革推進のための財政支出 が激増し,

1979

年と

1980

年の政府財政が

170

億元と

120

億元の赤字となった43.このような実情に基づ き,限りある政府財政の下でスポーツを最大限発展さ せるため,スポーツと経済の関係について,会議では 次のように述べられた44

我が国において,スポーツ事業は国家計画とし て,社会主義の優位性を十分に利用した統一管理を 行っており,各地域及び各分野の積極性を引き出 し,計画通りに財力,物力を合理的に分配してい る.これにより,経済状況が良くない実情にあって も,スポーツ事業発展の速度を上げることができた のだろう.

1980

年の全国体育会議が開催された直後,

3

28

日に国務院が今回の会議における競技スポーツの優先 的な発展に関する内容をまとめて「競技レベルの向上 を加速する報告」として公布した.この報告では,当 時の中国スポーツ事業の状況を以下のように表現し た45

現在,我が国のスポーツ事業は,大衆スポーツと 競技スポーツにかかわらず,「文化大革命」前のレ ベルに回復していない.特に競技スポーツの落後が 著しい.「文化大革命」前の成績では我が国がオリ ンピック競技会で

10

位に入ると推定できる.最近,

競技スポーツが穏やかに回復しているが,多くの種 目が世界一流のレベルとかなりの開きがある.その

ため,これからのスポーツ事業は調整,改革,整 理,向上の方針に従い,競技スポーツに重心を置 き,新たな展開を図らなければならない.

このような認識に立ち,競技レベルの向上を目指し て策定された具体的な計画は,以下の三項目にまとめ られる46

1.

競技種目により選手の配置,育成を調整し,力 を集中してオリンピック競技種目と国際競技会 がある種目の競技レベルを早急に向上させる

2.

全国競技会の種目設定をオリンピック競技大会

に一致させる

3.

選手育成システムを改革し,三段階システムを 構築する.最高の段階は国家,省,市の代表 チームであり,次の段階は競技スポーツ学校,

体育学院などであり,基礎段階は一般の学校で ある

ここでの最初の

2

項目は,ともに国際競技会での国 威発揚とオリンピック競技大会での優勝を目指して設 定された国内競技会制度の改革策である.この改革を もたらした要因は,「現在我が国の競技スポーツの選 手配置においては重心が不明確である.球技種目に比 べ陸上などの基礎種目が軽視されている.オリンピッ ク競技大会には金メダル

203

個が用意されており,陸 上,体操,水泳と重量挙げがその約半数を占めている が,我が国におけるこの

4

種目の選手比率は選手総数 の

25

%にも達していない.それに対してたった

5

個の 金メダルを占める球技種目の選手の比率は

35

%を超 えている」47という事実だったと報告されている.

具体的計画の第

3

項目は,選手の獲得ルートの拡大 と選手の確保のために提出されたものである.この項 目で競技スポーツ学校の設立が再度強調された以外で は,一般学校が選手育成システムの一環として規定さ れたことが注目される.中国体育委員会が公布した政 策において,

1978

年から

1980

年まで

3

年間続けて選 手の確保に関する問題が言及されたことで,選手の獲 得ルートが着実に拡大していたと考えられる.以上の 改革目標のほか,「競技レベルの向上を加速する報告」

では,コーチ,審判の育成,スポーツ科学の強化と体 育館,運動場の管理規則の策定にも言及した.

以上のように,「文化大革命」が完了してから

1980

年まで,中国社会では重大な改革が行われた.「改 革・開放」政策の実施に伴い,経済最優先の発展方針 が明確化され,市場経済が中国全土へと導入され始め た.ところが,中国のスポーツ界においては,国際オ リンピック委員会への復帰とオリンピック競技大会で

(9)

の国威発揚が強調され,政策上の改革は競技スポーツ の優先化にとどまっており,競技スポーツを強化する ため,選手の問題が改革の主要課題に掲げられた.一 方,スポーツは依然として国家事業として取り扱われ ており,スポーツと経済の関係については言及されて いたが,スポーツ大会を主催する権利は社会に開放さ れていなかった.

4.  中国スポーツ界における課題の提起 1

) 財源の確保

1978

年からの「改革・開放」政策により,各社会事 業の管理責任は社会または個人に開放され,損益の自 己負担という制度が成立した.そこでは,農村におけ る生産の請負制度が順調に展開された一方,都市の国 有企業の改革は難航した.その改革のため,各分野の 改革に巨額の資金が必要となり,中国の経済は調整を 加えながら発展するという段階に入った.

この時期,中国のスポーツ事業は急速に発展してい た.

1981

1

月に「工場,企業,行政機関スポーツ協 会規程」が可決され,同年の

8

月には「行政機関にお ける体操及びその他のスポーツを実施する通知」が公 布された.また,全国のスポーツ事業を全面的に発展 させるために,

9

月に第一回全国少数民族体育会議が 開催された48.しかしこの時期のスポーツ事業は依 然として完全に国家財政から賄われていたため,国家 財政不況の影響を受け,スポーツ事業の運営費用につ いて,

1981

年の省,市,自治区体育主任会議では「各 地方からスポーツ経費の不足問題が反映され,国家政 府はこの問題の解決を検討する.各地方も短期間内に スポーツ経費が増やせないことを理解し,自ら財源の 拡大を図るべきである」49と指摘された.ここで,中 国のスポーツ事業における財源確保の課題が初めて提 起され,国家政府が各地方のスポーツ行政機関の経済 的独立を求める意思を明示した.この会議での検討事 項の主な内容は,以下のようにまとめられる50

1.

スポーツ事業内部の調整.全国競技会の種目の 配置をさらに改革し,選手の不足問題を解決す る.現在のスポーツ学校を整理し,種目別の専 門スポーツ学校を設立する.大衆スポーツは学 校体育に重心を置く.軍事スポーツは軍隊の指 導方針にしたがって改革する.スポーツ事業の 財源確保を図る

2.

スポーツ事業改革の試行を検討し,各種目協会 の機能を果たす

3.

スポーツ選手の管理制度の設立と文化教育を強 化する.スポーツ選手の引退後の就職問題を検 討する.ナショナルチームを組織することを検

討し,選手の競技レベルとコーチのレベルを向 上させる

また,この会議では当時のスポーツ事業の目標のう ち,財源確保について以下のように述べた51

スポーツの政策,管理の仕方は融通のきく方に変 えるべきであり,すべて国家計画に頼る現実を変え るべきである.国家政府の補助として,各業界のス ポーツ協会及び各地方のスポーツ行政機関の役割を 果たし,社会,民衆が出資して行うスポーツ活動を 国家管理の下で発展させるべきである.大手企業や 大学において,積極的にアマチュアスポーツ活動を 行い,ハイレベルのスポーツ団体を設立することを 奨励する.

スポーツの財源確保が提案される前に,経済特区に 指定された広東省広州市では企業スポンサーつきの競 技会が開催された.

1980

10

月に,まだ中国市場に 進入していなかった米国のタバコ会社がテニス大会の スポンサーになり,大会を独占的に支援した.この大 会は「マールボロテニス選手権大会」と称され,中国 初のスポンサー付きの競技会となった52.また,同 年

12

月,中国登山協会が四川省内の山を有料で外国 人登山愛好者に開放することを公布した53.さらに,

1981

9

月に開催された北京国際マラソン大会は日 本の広告会社の協力でスポンサー企業を誘致し,

10

月に中国サッカー協会と米国コカコーラ社が北京市で 国際青年サッカー親善試合を開催した54.同年

11

月 に開催された第

5

回全国競技会の準備会議により,第

5

回全国競技会は初めて地方の主催で行なわれること となった.大会に必要な資金はスポンサー企業から受 け取る予定であった55

このように,国家の限りあるスポーツ財政に対し,

各地域のスポーツ行政機関,スポーツ協会が自ら経費 獲得ルートを拡大する活動を行ったことで,国家体育 委員会がスポーツの財源確保を提案したのとほぼ同時 に,スポーツの市場化が始まった.この動きが当時,

中国の研究者に注目され,中国スポーツ発展戦略研究 会委員の田雨普によって

1982

年に「スポーツ経済収益 の増加に関する検討」56が発表された.この論文はア メリカ,日本,ソ連をはじめとする外国のスポーツ経 済を紹介し,中国の実情を明らかにしたうえで,ス ポーツ施設管理の企業化,競技会の収益の重視などの 提案を掲げるものであった.

スポンサー付きの競技会をはじめ,商業スポーツ活 動は当時の中国において前代未聞のことであり,それ に関する管理法令がなかったため,

1982

7

月に国

(10)

家体育委員会が「スポンサー付き競技活動の管理方 法」を公布し,「スポーツ事業の財源を確保し,ス ポーツ選手に多くの試合機会を与え,競技レベルを向 上させるため,各レベルの体育委員会は企業スポン サー付きの競技活動を提唱すべきである」57と示し た.

2

) 選手の確保

財源の確保以外にも,

1981

年の全国スポーツ会議 は翌年のアジア競技大会と

1984

年の第

23

回オリン ピック競技大会(ロサンゼルス)を目指して,競技力 の向上及び選手の確保などの問題についても検討し た.また,

1980

年のモスクワオリンピック競技大会 をボイコットしたことから,オリンピック競技大会に 出場できなかった一部の選手の引退問題が浮上してき た.そのため,この会議ではスポーツ選手の生活保障 問題に言及した.

このうち,選手の確保については,全国におけるス ポーツ学校の整備が提案された.しかし,トップレベ ル選手の育成ルートは依然として国家の行政機関に所 属するスポーツ学校から,各競技会で市または省の代 表に選ばれ,最終的に国家代表に昇格する道しか用意 されていなかった.この会議で提案されたスポーツ学 校の整備は,スポーツ事業内部における調整にとどま り,広く会から有能な人材を獲得するまでは至らな かった.

以上のように,

1980

年に国際舞台で国威発揚をす るために「競技スポーツ優先」政策が提出されたこと を受け,全社会の財力,人力,物力を調達して競技レ ベルを向上させる発展方針が策定された.しかし,大 規模な改革を実践する中国では,政府の財政負担が一 層厳しくなり,各地方,協会が国家財政以外に,積極 的に商業スポーツ活動を行った.国家体育委員会は財 政問題を解決するためにスポーツにおける財源の確保 を提起し,民間資金で主催するスポーツを奨励し,ス ポーツ体制改革及びスポーツの市場化に新たな一歩を 踏み出した.選手の確保は依然として毎年の中心的課 題とされていたが,この課題についての改革案がス ポーツ事業内部の調整にとどまっており,実質的な効 果を発揮するものではなかった.

5.  「スポーツ事業における新たな局面の開拓に 関する法案」における財源と選手の確保 1

)「スポーツ事業における新たな局面の開拓に関す

る法案」の策定

1980

年以前の中国のスポーツは,国際大会で優勝 を飾る競技が少なく,「文化大革命」により人々がス ポーツに参加する機会が抑制されていた.しかし

1979

年に中国が国際オリンピック委員会に復帰して からは,スポーツが国際舞台での国威発揚という役割 を担うようになり,再び注目されるようになった.こ の時期,各団体競技の国際試合での活躍は人々のス ポーツに対する関心を集めた.

1981

3

月,男子バレーボールワールドカップ予 選で中国は韓国に逆転勝ちし,決勝進出を決めた.こ の時期はテレビ受像機が中国で普及し始めた頃であ り,中央テレビが国際衛星をレンタルして試合を生放 送したが,試合終了前にレンタルの契約時間が切れ,

ラジオ放送で試合結果を全国のファンに伝えた.この 勝利は全国各地方でのパレードをもたらした58.そ の翌月,卓球の中国代表が第

36

回国際卓球選手権大 会で

7

種目全てで優勝という好成績を収めた.これは 卓球の国際大会において史上初めて,一ヵ国による全 種目優勝という記録の誕生だった59.また,

1981

10

月に行なわれた男子サッカーワールドカップ予選 では,中国代表が次々と強敵を破り,人々の関心を集 め,全国にサッカーブームを呼んだ60.さらに,

11

月に日本で開催された第

3

回女子バレーボールワール ドカップで,前回優勝した日本とオリンピックチャン ピオンのソ連を破り,初めての優勝を果たした.この 勝利により,「女子バレーボール精神」という言葉が 取り上げられ,国家体育委員会が「女子バレーボール 代表に学ぶ決定」61を全国に公布した.女子バレー ボール代表はこの好調に乗り,

1982

9

月に開催さ れた第

9

回女子バレーボール世界選手権大会で二回目 の優勝を遂げた62

このように,

1980

年代初頭における中国代表の国 際大会での活躍は,テレビの普及に伴うスポーツ報道 の増加により,中国全土において空前のスポーツブー ムを巻き起こした.国家体育委員会の統計によると,

1983

年までに中国では約

3

億人がよくスポーツに参 加し,約

1

億人が「国家鍛錬標準」3に達するように なり,第

9

回アジア競技大会ではメダルランキング

1

位を獲得するなどしたため,政府は中国がアジアのス ポーツ強国になったと判断した63

この好機を把握し,国家体育委員会は

1983

2

月 の全国体育会議で検討した上で,

10

月に「スポーツ事 業における新たな局面の開拓に関する法案」64を国務 院に提出した.一週間後,この法案が可決され,全国 に公布された.その内容は以下のようにまとめること ができる65

1. 20

世紀の目標.

1

)全人口の半数が常にスポー

ツ活動に参加する.

2

)オリンピック競技大会 で上位を獲得し,多数の種目が世界トップレベ ルに達する.

3

)アジア競技大会とオリンピッ

(11)

ク競技大会が開催できるスタジアムを有する.

4

)体育事業に従事する者の平均学歴が大学卒 となる.

5

)スポーツ科学研究所を整備し,国 際水準の研究成果を有する

2.

今後

3

年の目標.

1

)都市におけるスポーツと学 校スポーツに重点を置き,企業や農村のスポー ツ活動を展開する.

2

)競技レベルをさらに向 上させる.特にオリンピック種目を優先する.

3

)運動場,体育館の建設を都市建設計画に入 れる.

4

)スポーツ科学と体育教育を発展させ る.

5

)スポーツの宣伝を強化し,体育法とス ポーツフェスティバルを設定する

3.

スポーツ事業における全面的な改革方案の策定 を加速する.現在は次の項目から改革を推進す る.

1

)スポーツを社会に押し広げる.企業や 個人のスポーツ活動の開催を支持する.国際投 資,テレビ,ラジオ,広告を通してスポーツ事 業の財源を拡大する.

2

)競技会制度の改革.

全国競技会の参加資格を民間スポーツ組織に開 放する.

3

)スポーツ人材の育成システムを改 革する.社会スポーツ人材は一定の成績基準に 達すると全国競技会及び国際競技会の参加資格 を付与する.コーチの責任制度を導入する.

4

)武術を競技化し,世界に押し広げる

4.

スポーツ選手の管理を徹底的に行い,選手に対

する文化教育を強化する

5.

国際スポーツ交流活動に積極的に参加する.国 際スポーツ組織に参入する.アジア競技大会と オリンピック競技大会を招致する

6.

財源の不足問題を解決し,中央と地方の財源を 確保する

7.

スポーツ事業における管理制度を全面的に改革 する

2

) 財源と選手の確保

1980

年代初頭から始まったスポーツブームが中国 全土のスポーツへの認知度と参加意欲を高め,政府は この局面をきっかけに新たなスポーツ改革を提案し た.やはりそこでは,財源の確保が再三取り上げられ ている.

1983

年に各地方の行政機関はスポーツの財 源を確保するために,すでに商業スポーツ活動を展開 していたが,財源の問題は以前と変わらず深刻であり 続け,この年のスポーツ政策においても強調された.

「スポーツ事業における新たな局面の開拓に関する法 案」の中では,初めて外資の誘致とテレビやラジオな どのメディアを通して財源の問題を解決する提案が可 決されたことから,政府が積極的に財源問題の解決を 図りながらスポーツの市場化を促したとみられる.

またこの法案では,

1978

年から

1983

年までのス ポーツ成績を肯定し,以前提出された改革案をまとめ た上で,競技スポーツ体制改革,学校,大衆スポーツ の改革と競技会制度改革などの問題において新たな改 革案を打ち出した.そのうちの一つは,学校体育に関 するものであった.「競技スポーツ優先」政策の実施 以降,トップレベルの選手を確保するため,ハイレベ ルな競技チームが学校に設置されるようになり,学校 も選手育成の責任を負うことになった.しかし当時の 研究者は日本の例を挙げてスポーツと体育の違いを論 じ,学校では競技スポーツではなく,体育をすべきだ ということを強調しつつあった66.結局政府は,そ れらの研究者が中国の学校体育の評論に過激な言葉を 使ったと判断し,スポーツと体育の議論を中止させ,

1983

年の全国体育会議において競技スポーツを学校 に押し広げる方針を堅持した.今回の法案でもこの決 定は強調された.

また,スポーツの選手を獲得するため,この法案の 中では,初めて社会スポーツ人材の採用に言及した.

前述のように,選手の確保の課題に対し,中国政府は スポーツ学校の整備という改革方針を示したが,それ は既存のスポーツ人材の育成体制の改善に過ぎなかっ た.しかし今回の法案は,スポーツ選手の発掘をス ポーツ学校以外の社会にまで拡大したもので,選手の 確保という問題の解決に大きな一歩を踏み出した.

6.  ロサンゼルスオリンピック競技大会以降に おけるスポーツ体制改革の本格的始動 1

) 財源の拡大

1984

年に中国スポーツにおいて最も注目されたこ とは,オリンピックの舞台への復帰であった.中国は

32

年ぶりにオリンピック競技大会に参加し,国別メ ダル獲得数で

4

位となった.中国代表選手がオリン ピック競技大会で金メダルを獲得したことで,スポー ツが社会における話題の中心となり,国民のスポーツ への意欲が高められた67.第

23

回オリンピック競技 大会(ロサンゼルス)直後の

8

月,全国スポーツ発展 戦略・スポーツ改革会議が北京で開催された.この会 議では第

23

回オリンピック競技大会(ロサンゼルス)

での成績を評価した上で,更に好成績を達成するため に必要な改善策が検討され,オリンピック戦略4が 提出された.

その後,

10

月に国務院が「スポーツ活動の更なる普 及に関する通知」を公布した.この通知は「改革・開 放」以降に国務院から公布されたスポーツ事業に関す る最初の指導方針であり,そこでは建国以後の中国ス ポーツ事業が収めた成果を評価し,当時のスポーツ界 の実情を説明した上で改革策を提案している.その内

(12)

容は以下のようにまとめられる68

1.

建国以来

35

年のスポーツ事業の発展を評価し,

特に

1984

年のオリンピック競技大会での成績 は全国民を鼓舞した

2.

現在の中国の競技レベルはまだ世界トップレベ ルとの間に格差があり,この状況を改善するた めには,スポーツの普及の重視,選手の育成,

科学的なトレーニング方法の導入を重視しなけ ればならない.また,各種目の競技レベルによ り適切な目標を設定することで,世界トップレ ベルへの到達を加速する

3.

女子バレーボールチームと卓球チームを見本と して,強い競技力を持ち,厳しい試練に耐えら れる選手とコーチを育成する.選手の生活保障 システムを構築する

4.

スポーツ事業の発展を保障するために,国家か らの分配金を拡大する.また,体育館と運動場 の運営には経済利益を考慮する.経営方式を積 極的に改革し,国家事業から企業へと転換する

5.

スポーツの宣伝を強化し,多くの人をスポーツ に参加させる.国際スポーツ交流活動で中国の 国威を発揚する

6.

スポーツ行政機関の調整を行い,若いスポーツ 幹部の育成を重視する

この通知では,スポーツに関する経済問題のうち,

スポーツ経営の利益が重視された.このような変化は 同年

10

月に開催された中国共産党第十二回中央委員 代表大会と深く関連していた.

1979

年から

1984

年まで,中国国内において農業の 改革が一定の成功を収め,農業生産の請負制度の実施 にともない,農村において私営企業が出現した69. 一方,国有企業の管理制度の改革は農業改革のように 順調ではなかった.上述した通り,

1980

年以降,中 国は改革の速度と範囲を調整する段階に入り,

1982

年に行った中国共産党第十二回全国代表大会では,計 画経済を前提として市場経済の調節の役割を発揮す る70方策について言及された.

2

年間の改革緩和を経て,

1984

10

月の中国共産 党第十二回中央委員代表大会第三次会議では,農村の 私営企業を認めたうえで,「中国経済体制の改革方針」

を策定した.この政策により,農村経済体制改革の成 功経験を参考にし,都市部の経済制度の改革が始動し た.また,国有企業の管理体制の改革が再び提案さ れ,改革方針を策定した.この政策は

1980

年代の中 国社会経済の改革の原点であり,その後,各社会分野 がこの政策にしたがって各自の体制改革方針を策定し

たのである.この時期の中国スポーツ体制の改革方針 の策定にも,この政策の影響が大きいと言われてい る71

当時の政府会議報告と施政方針からみると,

1984

1

月に開催された「省,市,自治区体育主任会議」

ではスポーツに関する経済問題が言及されなかった が72,中国共産党第十二回中央委員代表大会第三次 会議とほぼ同時の

10

月,国務院が公布した「スポーツ 活動の更なる普及に関する通知」の中では,スポーツ 事業の発展には経済効果の重視が必要であることか ら,国営以外の多様な経営方式を提唱し,積極的に国 有事業から企業へ転換する73ことが述べられた.ま た,一ヶ月後に中国体育委員会が公布した「国家体育 委員会が『スポーツ活動の更なる普及に関する通知』

を貫徹する意見」では,前述の政策を徹底的に貫徹す る意思を示した上で,「中国経済体制の改革方針」と スポーツを結合し,スポーツにおける新たな局面と任 務を明らかにし,スポーツ改革を加速する74と補充 した.このようにみると,「中国経済体制の改革方針」

が,その後の中国スポーツにおける改革の土台となっ たと捉えられる.

1984

年には,中国の大衆スポーツ活動が更に活発 になり,多様なスポーツ活動が展開されていた.そん な中,スポーツくじが初めて中国国内に現れた.以前 提出された財源確保の政策に従い,

1984

10

月,中 国陸上運動協会と中国体育服務公司が北京で開催する 国際マラソン大会の運営に必要な資金を調達するた め,「北京国際マラソン大会奨券」というスポーツく じの販売を試行した.その後の

11

月に,福建省の体 育委員会が「福建省スポーツセンター建設記念奨券」

を発行し,これによって約

1000

万元の収益を確保し た75.このような事例を受け,国家体育委員会は同 年に公布した「スポーツ活動の更なる普及に関する通 知」の中で,外国の先進技術,設備を導入することと 経済特区及び

14

都市におけるスポーツくじの販売を 試行することを提起したのであった76

また,同年

12

月,中国体育委員会は大衆スポーツ 活動の活発化と競技レベル向上のため,「全国競技会 における入札募集の試行案」77を公布し,入札方法,

入札資金と賞罰制度について規定した.スポーツにお ける財源の確保が強調される背景の下,この試行案の 公布から,政府が積極的に問題解決に向かってルート を開いている様子がみてとれる.

2

) 選手の充実と「三化論」の提起

上述の通り,

1984

年に公布された「スポーツ活動の 更なる普及に関する通知」の中で,スポーツにおける 財政問題のほか,選手の不足問題が再び提起された.

表 1.   「中国スポーツ体制改革の基本方針」の項目 第 1 項 スポーツ管理体制改革 1.  体育委員会の管理機能強化2. スポーツ組織の整備3.  スポーツの管理責任の各業界への付与 4

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