はじめに
二〇一八年は、「王政復古」政変で、新政府が成立してから一五〇年を閲するところから、「明治維新一五〇年」と称す向きがあり、
それを「記念」する行事や出版なども行われている。しかし、一九六八年の「明治百年」の折に比して、その「盛況」さにおいて、
格段の差異が認められよう。
両者の状況を比較する視点を、その歴史的研究に限ってみても、「百年」は、既刊史料集などの復刻、未公開史料の公刊、新史料
の発見などが、「記念」事業として盛行した自治体史の編纂や民間有志の史料発掘運動を惹起して進み、史料の面で豊かな成果を残
し、それらが爾後の明治維新史研究を新たに展開させる学術的な土台となったと言えよう。
勿論、「百年」が、戦後「高度成長」の終息期と重なり、明治維新と近代日本の歴史的理解をめぐる、深刻な思想的対立の裡にあ
ったことも、間違いのない事実である。しかし、その渦中から、精度の高い政局史や産業経済史の研究成果を産み出す一方、幕末維
新期から自由民権期に至る時期における、民衆の意識や運動に関する、新たな視点と史料による歴史的な究明が進んだことも紛れな
かろう。もっとも、その両者がともども明治国家形成過程の歴史的理解に資するものでありながら、全き別個の並行する明治国家像に帰
結していったことには、留意せざるを得まい。その学的状況は、爾後の明治維新史研究の進展によっても解消されなかった。それが
「一五〇年」をめぐって発せられている諸言説にも、見出せると思われる。
もとより、それは、第一次的には歴史研究を囲繞する現今の思想状況の問題だが、「一五〇年」が「百年」と比べて、学的成果に
明治維新史研究と地主制論
奥 田 晴 樹
(五三)
おいて格段に「貧相」な状況をもたらす一因ともなっていると見られるのは、誠に残念であろう。
G・ルフェーヴルは、年来の研究成果に基づき、「フランス革命一五〇年」に当たる一九三九年に公刊した著書で、「複合革命」説
を開陳した (1)。そこには、ナチズムの脅威に対して階級対立を超えた、フランス「国民」の結集を説く意図があったと見られる。その
意味では、すぐれて時局的な思想的言説であったと言えよう。しかし、それは、唯物史観をも含めた、それまでの「ブルジョア革
命」説を乗り越えるものであり、今日のフランス革命の標準的な歴史的理解となっている (2)。そればかりか、当時、L・トロツキーの ロシア革命理解にも棹さした可能性もあり (3)、また、ソ連崩壊後のロシア革命史研究にも投影していると思われる (4)。
これは、同じく「一五〇年」であるが、学的次元において、随分な違いではあるまいか。この由縁を反省してみよう、というのが
ここでの課題である。先ず、今日に至る明治維新史研究の軌跡を素描し、問題の核心の一つである地主制論に焦点を絞って考察を試
み、大方の叱正を俟ちたい。
一 明治維新史研究の軌跡
(一) 「嘉永癸丑以来」の歴史像
「嘉永癸丑」とは、ペリーの黒船艦隊が来航した嘉永六年(一八五三)を干支年で表したものである。それ「以来」、幕末維新期
の大動乱、大変革が始まり、明治国家が誕生する
―
この歴史像は、維新後、政府の要路者はもとより、在野の政党、言論・思想界、そして勿論、歴史学界でも、いわば不動の見方だった (5)。 それにとどまらず、一九三〇年代前半には、従来のままではどうにも立ちゆかなくなった、明治国家の根 ラディカル本的な変革をめざし、マ
ルクス主義の唯物史観を奉ずる、当時の新進気鋭の人文・社会科学者の一団が執筆した『日本資本主義発達史講座』(以下、『講座』
と省略 (6))においても、幕末維新の変革は、西洋史の「市 ブルジョア民革命」に相当するものではなく、黒船来航による開国後の政治や社会の混
乱に対処すべく、その一段階前の「絶対主義国家」を成立せしめたものだ、との理解が示されている。
この講座派を批判する、他のマルク主義者の一団は、雑誌『労農』に拠ったので労農派と呼ばれたが、彼らは、幕末維新の変革を
「市 ブルジョア民革命」としたものの、当時、「市 ブルジョア民」は未成熟で、黒船来航後の混乱の中から台頭した下級武士が、それを代位・補充する歴史 (五四)
的役割を演じた、と捉えている。
この両派の間で展開された日本資本主義論争 (7)を経ても、戦前では、結局のところ、幕末維新期の変革が「嘉永癸丑以来」始まった、
と見る歴史像は、基本的には揺るがなかったのである。
(二) 戦後の明治維新史研究
戦後、占領下のわが国を統治し、その国家と社会の改革を進めた、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、講座派が明治国家
の支柱と見た、「天皇制」・「寄生地主制」・「財閥」の改革ないし解体を、戦後改革の基本に据えていた。その背景の一つには、GH
Qの初期対日政策に一定の影響力をもったと見られる、カナダ人の歴史家であるE・H・ノーマンが、講座派の見解を敷衍して、明
治国家成立史を描いているような事情もあろう (8)。このような終戦直後の状況下で、講座派の明治維新史像が歴史学界で通説的な位置
を占めるに至った。
しかし、戦前、講座派では服部之総 (9)、労農派では土屋喬雄 )(1
(が、「嘉永癸丑」以前のわが国内において、資本主義経済の一定の発展
が見られることを、注目点を異にしたことで、互いに批判し合いながらも、ともに主張していた。戦後の歴史学界では、講座派の明
治維新史像を前提とした関係もあり、主に服部の見解を継承して、天保期前後まで遡り、主に農地改革で利用が可能となった旧地主
家の経営史料に基づき、農村おける資本主義経済の発展と、それに伴う社会の変容を探る研究が進められた。
この研究動向は、一九六〇年代初頭には行き詰まる。その理由は、次の三つである。
第一に、農村社会の変化と幕末維新期の政治過程とを、具体的な個々の人的な動きのレベルで結びつけて理解することが難しく、
幕末維新期の主な政治的変革の主体は、戦前同様、やはり下級武士以外には見つけられなかった。
第二に、研究に利用していた主な史料が地主経営に関するものであったから、当然でもあったのだが、農村社会の変化も、「寄生
地主制」の成立に帰結する、という歴史像から結局、脱却できなかった。
第三に、第一と第二の事情から、その結果として、そもそも前提としていたのだから、当然だとも言えるが、明治国家を「絶対主
義国家」とする講座派の見解に、立ち戻らざるを得なかったことである。
この第三の事情は、唯物史観の「社会発展段階」論の立場上、実はすこぶる厄介な理論問題を、戦後、惹起していた。というのは、
(五五)
「絶対主義国家」は、「社会発展段階」論では封建社会の最終段階における国家形態・政治のあり方と位置づける見方が支配的となっ
ており、昭和戦前・戦中期の政治や経済・社会などのあり方を「ファシズム」と特徴づける、戦後に一般化した歴史認識と、それが
理論的に齟齬を来すからである。
「ファシズム」は、コミンテルン(共産主義インターナショナル)第七回大会での性格規定では、「金融資本のもっとも反動的、も
っとも排外主義的、もっとも帝国主義的分子の公然たるテロ独裁 )((
(」とされ、これが唯物史観の立場では通説となっていた。金融資本
は、資本が発展した最高の形態であるとともに、その寄生性と腐朽性の故に、その潰滅形態、つまりこれを最後に、資本が歴史的に
終末を迎える形態である、というのが、レーニンの『資本主義の最高の段階としての帝国主義』(『帝国主義論 )(1
(』)での性格規定だっ
た。さすれば、「ファシズム」とは、資本主義社会の最終段階に現れる国家形態・政治のあり方だ、ということとなる。
つまり、昭和戦前・戦中期の国家形態・政治のあり方を、講座派の「絶対主義国家(=封建社会の最終段階)説で理解すれば、そ
れを「ファシズム」(=資本主義社会の最終段階)と特徴づけることは、「社会発展段階」論の上では、二 アンチノミー律背反的な矛盾に陥るので ある。そこから、戦後ほどなく、マルク主義者の間で、国家論(天皇制国家)論争 )(1
(が起こり、この理論的矛盾をどう処理すべきか、
が議論されていたのである。
戦後の明治維新史研究が講座派の「絶対主義国家」説に立ち戻ってしまったということは、こうした論争の経緯をふまえれば、歴
史研究がそこに何らかの学問的な解決を得られなかった、ということを意味している。そのため、唯物史観を奉ずる立場に挫折感が
生まれざるを得なかったのである。それは、ドッジ・ライン→朝鮮戦争→サンフランシスコ講和=日米安保体制の成立→保守合同と
いう展開の結果、いわゆる「五五年体制」の線で定着を見る戦後国家のあり方の下で、終戦後、急速に高揚した社会運動が、退潮へ
と転じつつある現状への挫折感とも重なり合っていた、とも言えよう )(1
(。
(三) 「世直し状況」論
一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて、「五五年体制」の下で展開した「高度成長」の問題点が噴出し、大学紛争やベト
ナム反戦運動が激化し、また公害反対の住民運動などを基盤とした「革新自治体」が相次いで誕生するような社会状況を背景とし
て、明治維新の世界史的な比較対象を、戦前以来の「市 ブルジョア民革命」ではなく、ロシア革命へ変えて捉えようとする見地が登場して来る。 (五六)
「世直し状況」論である )(1
(。
それは、やがて「寄生地主」となる村役人層・豪農層の対極に位置する、やがてその小作人となる小前・貧農層の生活と経営の実
態が、賃労働者としての側面も併せもつ、「半プロレタリア」ではないか、との仮説に立ち、彼らが「世直し」を求めて起こす騒動
に、幕末維新期の変革過程の推進力を見出そうとするものだった。
「半プロレタリア」というのは、N・レーニンが創り出した概念で、都市の労 プロレタリア働者の「指導」下で、それと「同盟」すること(「労 農同盟」)で革命の主体になれる、貧農だとされていた )(1
(。そこで、小前・貧農層が離農・離村して城下町などの都市へ流入し、日雇
いや棒 ぼてふ手振りなどで生活する下層住民(「日 ひよう用層」と称する)を「前期プロレタリア )(1
(」と捉え、これと連携する動きがわが国でも見
られないか、という探究が始まる。これは、農村に比べて随分と立ち遅れていた、近世の都市史研究を、吉田伸之 )(1
(らが飛躍的に発展
させた。しかしながら、肝心の連携の動きは結局、発見できなかった。
もっとも、幕末維新期の政治過程に対する農民たちの関わりが注目され、戦前から知られていた「草莽の志士」に加え、開国後に
各地で編制された農兵、長州藩の奇兵隊などの民衆諸隊、戊辰戦争時に活動した各地の「草莽隊」などの研究が高木俊輔 )(1
(や田中彰 )11
(ら
によって進められていった。また、深谷克己が、騒動を主導した農民を丹念に追跡し、その政治意識にも分析を及ぼした )1(
(ような、貴
重な研究成果も生まれた。
しかし、そこで明らかとなったのは、「草莽隊」などの動きの多くが村役人・豪農層を主体ないし主導者とし、大方の参加動機も
士分への身分上昇志向と見られる一方、そうした傾向だから、当然の結果なのだが、往々、小前・貧農層が起こした「世直し」騒動
には敵対的な姿勢や行動をとるケースがあることだった。
また、小前・貧農層が起こした騒動には、「世直し」への切実な願望が認められた。しかし、その願望の中身は自身が自作農経営
へ回帰して、農民間の経済的な格差を解消すること(「世均し」)に止まり、それを政治や社会の変革へとアクセスする回路を見出す
ところまでには至っていなかったことも明らかとなった。
「世直し状況」論は、幕末維新期の変革を、小前・貧農層の騒動が惹起する「世直し状況」への政治的対応だ、と理解する。そし
て、小前・貧農層の願望を実現する政治的対応として、「世直し状況」論が期待したのは、つまるところ、領主および地主による収
奪からの解放として想定された、ロシア革命同様の「農民解放 )11
(」だった。
(五七)
たしかに、その問題提起は、幕末政治史の理解において、従来の下級武士主導説に、「草莽」の政治的役割を不可欠な要素として
付加して、大きく修正するという成果を残した。しかし、「半プロレタリア」を主体とする変革という想定は、その「指導」層を都
市に見出せず、それ自身の動きにも、願望の実現をはかる直截的な政治行動を、ついに検出できなかったのである。
ちなみに、後述するような学史的経緯から、「世直し状況」論では、都市の工場生産に従事する賃労働者は未形成だとの歴史的理
解に立っていたから、都市の労 プロレタリア働者による「指 イニシアティブ導」という点では、それに代わって「前期プロレタリア」に期待せざるを得なかった。
しかし、「農民解放」へと連 リンケージ繋するような、小前・貧農層に出自する「前期プロレタリア」との連携(「同盟」の萌芽)は、結局、見
出せなかったのである。
だが、これは当然の結果だとも言えよう。元来、「世直し状況」論は、明治維新の結末の歴史的理解において、講座派以来の「絶
対主義国家」成立説に立っていた。しかも、その主唱者の佐々木潤之介は、開国以前に、「世直し状況」が成立していたとする一方、
それによって幕藩制や石高制といった近世国家の編成原理を動揺させはしたが、解体させるところまではいかなかったとしている )11
(。
これは、要するに、明治維新の変革へと直截に帰結していく動きは、開国後に始まった、という見地である。「世直し状況」論もま
た、「嘉永癸丑以来」の歴史像から根本的には脱却できなかったのである。
(四) 明治国家の実像
明治維新史研究の隘路は政治史の理解にあった。明治国家は「絶対主義国家」なのか。
実存した明治国家は、立憲政体と「天皇制」を、巧みにか否かの評価はともかく、ともかく組み合わせた政治制度であり、その下
で、「王政復古」政変で権力の座について以来の官僚政治家と、自由民権運動で登場して以来の政党政治家が、政権をめぐって角逐
していた。また、その基盤をなす都市の産業・経済は、レーニンが第一次世界大戦中に著した前出の『帝国主義論』で、六つの帝国
主義国の一つに数え上げたほどに発達した、資本主義を基調とし、同大戦後、都市社会には早くも大衆社会化の様相さえも現れ始め
た。一方、農村には、地主的土地所有と零細な小作農経営が広汎に展開し、その結果、農村社会に残ることとなった自給経済の要素
は、都市の資本主義的諸産業にとって国内市場拡大の障壁となっていた。
こういう政治と経済・社会のあり様を、西洋史の絶対主義時代のそれとして理解することは、各国ないし各民族の歴史が、共通 (五八)
の「社会発展段階」を経て、それぞれ先後の差異はあっても展開していく、と考える唯物史観の見方に立ってこそ可能なもので、歴
史の実際とは相当にかけ離れたものだった。わが国の思想界や学界で、一九二〇年代にマルクス主義が本格的に受容され始めた当初、
唯物史観を奉ずる人たちの間でも、「絶対主義国家」説はほとんど見られなかった。
ところが、右の「社会発展段階」論に立つ方針によってロシア革命を成功に導いた、レーニンの諸著作の翻訳や紹介が進み、また
一九二七年にはそれを絶対視するスターリン体制がソ連で成立し、さらに、事実上、そのソ連の外交手段化していたミンテルンが、
当時の日本の国家や社会について、彼らが「絶対主義国家」と捉えていた帝政ロシアと、基本的には同じ「社会発展段階」にあると
の現状認識を、一九二七年、次いで一九三二年により明確な形で提示した )11
(。これらの事情もあって、前述した講座派の「絶対主義国
家」説が受け入れられる土壌が、マルクス主義を奉ずる社会運動家や知識人の間にでき上がっていったのである。
だが、それにも増して、昭和二年(一九二七)の山東出兵に始まる、中国の国家統一の動きに対する軍事介入と併行して強まって
いった、わが国内の社会運動への政治的弾圧や、言論・出版、思想・学問の自由などへの抑圧、さらに、場合によっては実力行使す
ら辞さない構えで進む、軍部の政権掌握への動きが、そうした見方に説得力を与えたことは否めまい。けだし、『日本資本主義発達
史講座』の刊行が始まったのは昭和七年(一九三二)五月であり、同月には五・一五事件が起こっている。
(五) 日露両国の政治的比較
たしかに、革命前の帝政ロシアには、憲法はなく、国会も、日露戦争でわが国に敗れた後、革命騒動を経て、制限選挙で選出され
た国民代表が皇帝の立法権に一定範囲で関与し得るものが設けられ、ようやく遅まきながら立憲政治への第一歩を踏み出したに過ぎ
なかった。こうした帝政ロシアの政治制度は、たしかに西欧の「絶対主義国家」と比較できるかもしれまい。
他方、わが明治国家の下では、日露戦争以前の明治三一年(一八九八)に、分立していた二大政党が合同して憲政党が成立し、衆
議院議席の絶対多数を握ると、官僚政治家がそれに政権を明け渡さざるを得なくなり、隈板内閣が成立するような政治的経験すら生
まれている。それ以前から、そしてそれ以後も、官僚政治家の政権運営は、政党の分立を前提とし、その一部と提携して行われてい
た。それも、大正一三年(一九二四)に護憲三派の政党が再び衆議院議席の絶対多数を握ると、以後、衆議院第一党が政権を担当す
る「政党内閣」が「憲政の常道」として常態化する。
(五九)
もちろん、①衆議院と対等の審議権をもつ貴族院、②帝国議会の議決について最終的な裁可権をもつ天皇の、諮詢機関である枢密
院、③統帥権の独立などが、外部の障壁となり、また、法制のあり方の如何にかかわらず、実際には終始、軍部から現役武官が送り
込まれ続けた陸海軍大臣を閣内に抱えていたことで、政党による政権の掌握や運営が、大きく制約されていたことは間違いない。
しかし、政党にとって政治的障害となる、それらの存在や動きをも含め、基本的には「大日本帝国憲法」に規律された法制の枠内
でのもの、つまり広い意味での「立憲政治」であったと言えよう。いわゆる「大正デモクラシー」は、吉野作造が説いたように )11
(、そ
の「有終の美」をなすべく、帝国憲法の枠内で、民意尊重の政治を制度化するため、「政党内閣」と普通選挙制を実現し、狭い意味
での「立憲政治」を確立したのである。そして、五・一五事件以降、これが崩れていくこととなる。
このように、わが明治国家と帝政ロシアとを、同じ「社会発展段階」にある「絶対主義国家」だ、とする理解には、両国の歴史を
虚心坦懐に比較してみれば、随分と無理があることは明らかだろう。
(六) 明治維新史研究の進展
一九五六年にソ連で「スターリン批判」が行われて以降、唯物史観を奉ずる歴史学者の間でも、マルクスの諸著作の研究と再解釈
によって、「絶対主義国家」説を何とか変更できないか、模索する動きも起こったが、はかばかしい結果は得られなかった )11
(。
一九六〇年代の半ばには、「世直し状況」論が歴史学界を風靡している傍らで、政治学者の升味準之輔が日本近代政治史の叙述を
公刊し始めた。升味は、その第一巻で、幕末維新期の政治過程を丹念に追跡し、そこでの諸事件や、それらを織りなす諸主体の行動
が、領主―農民間の階級闘争や、その土台をなす農村社会の変化に、かならずしも条件づけられたものではなく、直截的には、彼ら
の間の人間関係や、それぞれが奉ずる思想や政策理念によって、左右されていることを、明快に描き出した )11
(。
また、日本近代政治史家の坂野潤治は、帝国議会開設後の政局の動きを分析し、それが帝国憲法の諸規定に官僚政治家もまた拘束
された、まさしく「立憲政治」であることを確認した )11
(。
唯物史観に立つ「絶対主義国家」説は、これらの実証的研究の前に、もはや持ち堪えられなくなっていったのである。
「絶対主義国家」説に代わる、明治国家の歴史的理解はどうあるべきか
―
一九七〇年代に入ると、この問題への一つの答案が山崎隆三によって提出された )11
(。それは、第二次世界大戦後に独立した旧植民地国に少なからず出現した「開発独裁」体制の先駆と見て (六〇)
はどうか、というものだった。山崎の仮説が提示された時点では、この体制の前途は不透明な状態にあったが、今日では、韓国など
に見られるように、基盤をなす経済が資本主義的な発展を遂げ、また社会が「市民社会」として成熟して来るに従って、その政治の
あり方も憲法と国会を中心とした「立憲政治」が次第に定着し、「国民国家」としての体裁をまがりなりにも整えつつある。
こうしたその後の展開を見ると、なかなか魅力的な仮説ではあるが、わが国の場合、幕末維新期の政治過程において、かなり早い
時期から、憲法と国会を骨組みとする、「立憲政体」の導入をめざす動きが見られ、前述したように、帝国憲法が制定され、帝国議
会が開設されて以降は、一応、「立憲政治」の政治的慣行が定着しており、これを「開発独裁」体制と同断に見るのは如何なもので
あろうか。
こうした点を確認する上でも、升味が先鞭をつけた幕末維新期の政治過程を丹念に追跡する作業が俟たれていた。原口清は、升味も
検討している廃藩置県に至る政治過程に、緻密な実証的分析を加え、研究の新局面を切り拓いた )11
(。原口の呼びかけで、明治維新史の実
証的研究を志す、毛利敏彦らの中堅や、松尾正人らの若手の歴史研究者が参集し、廃藩置県研究会を立ち上げ、その後、同会は明治維
新史学会へと成長していった。創立から三〇年を閲した同学会の明治維新史研究の成果は、『講座 明治維新』全一二巻 )1(
(として刊行され、
またその政治史研究のエッセンスは、青山忠正 )11
(や佐々木克 )11
(によって、それぞれの立場から、いずれも手際よくまとめられている。
こうした学界の動きを前にして、明治維新史の史料編纂を基軸の一つとする、政府の修史事業を今日まで継承している東京大学史
料編纂所に長く在職した宮地正人は、長年の研究成果をふまえ明治維新史を叙述した )11
(。宮地は、そこで、「風聞」として流布してい
る政治情報が広汎な民衆の眼を政治過程に向けさせ、関わらせていく動向が、この時期特有のものであるとともに、わが明治国家が
「民族国家」としての歴史的性格を帯びていく上で、不可欠の要素となっていることを、「社会史」の視点として、その叙述に織り込
んでみせた。そこには、政治過程へ直截的に関与する事件や人物、それらの言動を伝える史料のみに自足している研究では、幕末維
新期の変革のダイナミズムも、その歴史的意義も捉えきれないのではないか、という思いが読み取れよう )11
(。
(七) 明治維新史研究の今日的課題
幕末維新期の政治史研究において、個々の事件や人物などの理解をめぐる論議をさておけば、今日、青山や佐々木、宮地らの著書
にあらためて追加すべき観点があるだろうか。「嘉永癸丑以来」の政治過程がどのように進んでいったのか
―
これは、すでに十二(六一)
分に、それらの著書で追跡されている。
しかし、維新後、新政府が行なった土地・租税・財政・地方制度などの諸改革と、いずれ帝国憲法を頂点として法制化されるに至
る、それらの国制における定置過程とを追跡してきた筆者にとって、以下の三つの点で、これまでの明治維新の政治史的研究におい
て説かれて来た歴史的理解には、正直なところ、判然としない、物足りなさを感ぜざるを得ない。
第一に、幕末維新期の変革は、どのような条件の下で、何を目指して始まったのか。
第二に、変革がめざすところは、誰によって、どのような経緯で、如何なる内容で自覚され、主張されるようになったのか。
第三に、「王政復古」政変後に実施されていった、一連の実際の変革は、誰により、どのような政策理念の下に構想され、また、
そこにはその理念と主体において、幕末期の動向との間に連続性が認められるのか否か )11
(。
これら三つの問題は、単に筆者の個人的な疑問であるに止まらず、今日の明治維新史研究が避けて通れなくなっているものではな
かろうか。
そうした観点から研究に臨む場合、経済や社会の変容、思想や政策理念の変化などが、法制と、政治的な慣行や儀礼などによって
築き上げられている、それまでの政治のあり方、政治構造ないし政治文化の変革へとリンケージしていく媒介項として、財政の問題
に注意を払うことが、とりわけ必要ではなかろうか。
三つの問題のうち、第一の、幕末維新期の変革を制約する条件と、その目指すところをめぐる問題については、前述したような学
史的経緯をふまえると、そもそもそのような条件や目標が「嘉永癸丑」以前に成立していたのかが、先ず問われる必要があろう。そ
れは、こう言い換えてもよかろう
―
「嘉永癸丑」の黒船来航を俟って、初めて明治維新へと向かう変革の動きが始まったのか。「絶対主義国家」説ならば、「嘉永癸丑以来」の歴史像で十分に説明はつく。しかし、それ以前の、わが近世の政治・法制、経済・
社会、思想・文化などのうちに、その変革を準備する動きが起こっていなければ、市場経済を国内外に開放し、資本主義的諸産業を
急速に発展させ、それを基盤として、「立憲政体」を政治制度の基本に据える明治国家が、「嘉永癸丑」から半世紀にも満たない期間
に成立した事情は到底、解けないのではないだろうか。
黒船来航の衝撃は、近世日本にとって、その変革への「最初の一撃」だったのか、それとも「最後の一撃」だったのか
―
それを確かめることが、先ずもっては、研究の第一の攻め口となるのではなかろうか )11
(。 (六二)