• 検索結果がありません。

<論文>イギリス製紙業の黎明期--パーチメントからペーパーへ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "<論文>イギリス製紙業の黎明期--パーチメントからペーパーへ"

Copied!
39
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)イギリス製紙業の黎明期(中村) 生駒経済論叢 第 12巻第2号 2014年11月. イギリス製紙業の黎明期 ―パーチメントからペーパーへ―*. 中. 村. 進. 梗概 D. ハンターは自分の考えを言葉や文字で表現し伝達するという行為は人間の根本的な 特質であり,この表現・伝達の方法の変遷から人類史を概観すると,話す(speaking),描 く( drawing ),印刷する( printing )の3段階を経てきたと指摘した。本拙稿ではイギリ スを中心に表現・伝達の方法におけるこの「描く」あるいは「書く」段階から「印刷」する の段階への移行の重要な要因の一つであった紙の普及とそれを供給する製紙業の成立・展開 の経過を書物におけるパーチメントからペーパーへの原料転換から明らかにする。 キーワード 黎明期のイギリス製紙業,パーチメント,ジョン=テート,ジョン=シュピル マン,原料転換 原稿受理日 2014年9月26日. Abstract In this paper the author attempts to examine the foundation and development of English paper industry in the fifteenth and the sixteenth centuries. Throughout period, materials for writing and printing on gradually changed from parchment to paper. Key words English paper industry in the fifteenth and sixteenth centuries, Parchment, Conversion from parchment to paper, John Tate, John Spilman. * 本拙稿は平成24年3月1 4日に経済学部B館2 02教室で開催されました筆者の定年退職にともな う最終講義,「イギリス製紙業の黎明期―パーチメントからペーパーへ―」をもとにして作成し ました。当日,ご出席くださった経済学部と経営学部の教職員の皆様に御礼申し上げます。. 39( ) 103 ─ ─ .

(2) 第12巻 第2号. は じ め に. 自分の考えを言葉や文字で表現し伝達するという行為は人間の根本的な特質である。こ の表現・伝達の方法の変遷から人類の歴史を概観すると,話す(speaking) ,描く(drawing) , 印刷する(printing)の3段階を経てきたことが了解できる。(D. Hunter, Papermaking The history and technique of an ancient craft, 1943[reprint 1974], p.3. ハンター,久米康生訳『古代製 紙の歴史と技術』勉誠出版,2009年,1ページ。) 声で意志を伝える「話す」は表現の原始的な. 基本形態であった。人類は次の段階で[話す]よりもはるかに高次の水準である描画ある いは筆記という思想伝達方法を獲得した。そしてアルタミラやロスコーの洞窟画のように 牛や馬などの動物の描写や象形文字や表意文字を刻むための基礎的な表面の材料として木 材,金属,石,陶磁器,樹葉,樹皮,布地,パピルス,パーチメントなどが現れた。 (Ibid., p.4. 同書,4ページ。J. Murryay, Practical remarks on Modern Paper, 1829, p. 85.). 15世紀から16世紀前半にかけて本格的な活版印刷術が出現すると,第3の「印刷」する 段階を迎える。この段階の実現を世界史的に回顧してみると,それにはグーテンベルクの 活版印刷術の発明と紙の存在が不可欠の条件であったことが理解され得る。この両者の出 現によって現在のわれわれが慣れ親しんでいる書物の形態が生まれ,ようやく人類は個々 人の考えを多くの人々に伝達する手段を手に入れたことになる。 本拙稿ではイギリスを中心に表現・伝達の方法におけるこの「描く」あるいは「書く」 段階から「印刷」するの段階への移行の重要な要因の一つに数えられる紙の普及とそれを 供給する製紙業の成立・展開の経過を書物におけるパーチメントからペーパーへの原料転 換という歴史的事象から明らかにしていきたい。. Ⅰ イギリス中世における出版活動とパーチメント. 1 中世ヨーロッパにおける書籍生産 書写や書物の原料としてパーチメント(皮紙)からペーパー(紙)への転換が本拙稿の 重要な主題の一部であるので,まず,書物がパーチメントによって主に制作されていた ヨーロッパ中世の出版活動の状況を簡単に触れてみる。 中世ヨーロッパの書籍生産の状況を示す〈第1表 ヨーロッパ世紀別写本の生産冊数 (6世紀から15世紀まで)〉から容易に窺い知れるように,中世において書物の生産は長期 40( ) 104 ─ ─ .

(3) イギリス製紙業の黎明期(中村). の「顕著で着実な成長率」を示した。8・9世紀のカロリング朝ルネサンスから15世紀末 頃までの成長率はきわめて高く,中世知識経済がいかにダイナミックであったかを物語る。 15世紀中葉以降,活版印刷術の発明と発展がヨーロッパのすべての地域の書籍生産の成長 を加速し,その発展に大きく寄与した。最初の6世紀の間,イタリアが書物の有力な生産 地であったが,カロリング朝ルネサンスを迎えると,書籍生産の中心はフランス北部やド イツ西部やベルギーに移動した。これらの地域は14世紀までその中心地域であり続けた。 イギリス,スペイン,アイルランドでも写本の生産が盛んであった。14・15世紀のルネサ ンス時代には書籍生産の中心がイタリア北部に移り,トスカナから低地地方に及ぶところ に本の生産と消費の高い水準を維持するベルト地帯が形成された。こうした書籍生産の成 長を担ったのは当時の修道院運動,大学の創設,中世都市の発達であった。 (J. L. Van Zanden, The Long Road to the Industrial Revolution, 2 009, pp. 80, 8889.). 次に書籍発行部数でその成長を確かめてみる。500年から700年の間に12,000部以上の写 本(1年に120冊の割合)が,15世紀には約500万部前後の写本と1,250万部の印刷本が出版 された。この書籍生産の成長過程は長期に渡っていたために,その平均の成長率は決して 法外に高いものではなく,この時期の全体を通してみれば,ヨーロッパの年間書籍生産の 成長率はわずか1パーセントであった。第1表にあらわれているように,書籍生産は起伏 が見受けられ, それは11世紀に9世紀の水準まで回復し,次の250年に及ぶヨーロッパ中 世経済の際立った発展に並行し,とりわけ11世紀から13世紀の書籍生産の飛躍的な成長が 看取され,その現象は注目に値する(Ibid., pp. 7576)。丁度,この時代は先ほどあげた書籍 生産の成長の原動力になったと考えられる修道院運動,大学の創設,中世都市の発達が相 次いで起きた時期であった。 第1表 ヨーロッパ世紀別写本生産冊数(6世紀から15世紀まで)※ 世紀. 6. 7. 中央ヨーロッパ 0 0 ボヘミア 0 0 イギリス 81 1,026 フランス 1,682 2,441 ベルギー 0 127 オランダ 0 26 ドイツ 0 0 スイス 0 30 オーストリア 0 0 イタリア 10,194 4,478 スペイン 1,594 2,512 合計 13,551 10,640 世紀毎増減 (パーセント). -21. 8. 9. 10. 11. 12. 0 0 0 3,983 0 0 0 657 5,474 7,926 9,793 20,360 15,920 74,190 12,752 45,061 1,111 3,029 1,555 8,529 60 82 58 354 7,503 59,771 45,703 49,548 594 5,330 1,799 1,090 2,735 9,414 0 2,808 6,536 20,307 15,215 38,768 3,770 21,693 48,763 40,871 43,703 201,742 135,638 212,029 311. 362. -33. 56. 13. 14. 15. 27,530 12 0,987 301,833 376,650 1,136 5,377 42,066 45,363 81,044 200,654 155,513 208,729 197,831 510,828 564,624 1,195,783 43,219 119,588 106,148 572,124 1,731 2,066 13,179 171,974 166,876 270,392 293,814 515,116 2,355 3,821 6,349 10,652 37,370 37,408 39,777 88,623 95,207 253,01 3 879,364 1,423,668 11 4,422 237,818 344,284 390,478 768,721 1,761,952 2,746,951 4,999,160 263. 129. 56. 82. Sources: The appendices are avaihble on the‘global historical bibliometrics’ website at http://www.iisg.nl/ bibliometrics/ ※ J. L. Van Zanden, The Long Road to the Industrial Revolution, p. 77. Table 3 より作成. 41( ) 105 ─ ─ .

(4) 第12巻 第2号. ヨーロッパの知識経済の勃興はたびたびグーテンベルクによる活字の発明とともに始 まったと説明される。彼の活字の発明・改良が書物生産と知識の蓄積の成長における決定 的な契機として考えられるからである。1450年以前の何世紀にわたる非常にダイナミック な写本生産の発展のあと,1450年以降の書物に対する急速な需要の成長への対応は可動活 字の採用によって果たされた。だから多くの点からグーテンベルクの発明は中世経済の既 存の趨勢の頂点に達していたとして見なされ得る。(Ibid., pp. 8990.) 書籍の生産とは反対に,中世ヨーロッパの書物の消費に目を向けると,それは当然,既 述したようなその生産拠点の変化を反映する。この時代の書物は当時のエリートによって 消費された贅沢な生産物であった。最初は聖職者,1100年以降はその消費範囲は都市のエ リートや学問に関係する人々であった。明らかに彼らはこれらの贅沢品に費やすために増 えていく収入を活用できた。とくに都市化は所得の不平等を著しく大きくし,おそらく生 産物の大きな消費者となった商人や専門家階層が恵まれた。(Ibid., p. 90.). 2 中世ヨーロッパの書籍形態とパーチメント (中世ヨーロッパの書籍形態) 中世の書物はその形態から判断すると,大部分が写本,即ち「手で書いた(書き写した) 書物」であった。その写本の制作は歴史的に12世紀までの修道院時代と12世紀末からの15 世紀末の世俗時代に二分される。両時代をつうじてそれはひたすら「手で書き写す」こと で写本は制作されたが,その内容は最初の宗教的なものから世俗的なものへ拡大していっ た。中世都市や12世紀末に現れ始めた大学の発達が知的活動の重点を修道院から大学へ移 していくにつれて,新しい書物の需要者が多数生まれ,世俗的な作品を求めたためであっ た。(二宮敬『フランス・ルネサンスの世界』筑摩書房,2000年,478ページ。M. プラントは「12世 紀の90年代くらいから書籍生産の仕事に大学が修道院と合流した」 [M. Plant, The English Book Trade An Economic History of the Making and Sale of Books, 1939, p. 20]と記している。). ここで修道院時代の写本制作の状況を確かめてみる。8世紀の「カロリング朝ルネサン ス」の時代に全体的な教育文化活動が起こり,それにつれて,写本工房や図書館を備えた 修道院の建設が盛んに行われた。当時の写本工房はベネディクト会修道院に多く見られた 大勢の修道士が同時にどこかで写本生産にあたれば読書にもふけるという大広間型と言う べきものやシトー会修道院に見られた個室型のものや回廊を利用したものもあった。いず れにしてもこのような工房において写本生産の作業は図書係,書写係,古書係,装飾文字 や細密画を専門的に施す係, 校閲係(誤写の訂正) ,製本係などに分かれ,いわば分業体 42( ) 106 ─ ─ .

(5) イギリス製紙業の黎明期(中村). 制を採用していた。(同書,480ページ。 壽岳文章「出版の歴史」『壽岳文章書物論集成』沖積舎, 1989年,2 12213ページ。W. Roberts, The Earlier History of English Bookselling, 1889, pp. 910.). このようにして,ヨーロッパ中世の書籍生産において分業の利点が修道院でかなり早く 実現されていたと言える。修道士1人が書物制作に必要なすべての行程に携わることは稀 で,通常の手順は1人の修道士が粉状にされた軽石でパーチメントを擦り,それを必要な 大きさに裁断し,彩飾師によって付け加えられる冒章の頭文字や彩色の境界を残しながら, その上にテキストを写す写本筆写者にそれを渡し,彩飾師が彩色し,写本制作の最終段階 である製本に持ち込まれたのである。さらに中世末にはこれらの段階のいくつかはより細 分化された。(Plant, op. cit., p. 19.) こうして,14・15世紀の間に書籍業の専門化が進み,イギリスの場合も,専門的な筆写 者,彩飾師,パーチメント製造者,製本師などが出てきた。修道院さえもこの種の専門的 な筆写者を雇い入れたようである。ヘンリ4世のときにロンドンでは本の生産に従事する ギルドがあったし, ヨークにおいて1 37614 20年までにテキストの筆写者とパーチメント 製造者の両者のギルドが生まれた。オクスフォードとケンブリッジには製本屋があった。 このような専門化は個性的な本の制作を可能にした。そして書籍の異なった制作行程のそ れぞれの生産費が明らかになり,書籍の価格が把握できるようになった。主に当時の本の 価格は筆写,彩飾,パーチメント,製本の代金から構成されていた。 (H. E. Bell,“The Price of Books in Medieval England” , The Library, Fourth Ser., Vol. ⅩVII[1936], pp. 313314.). そこでパーチメントに関連して,具体的に当時の写本の価格構成を点検してみると,Abbot Litlington の祈書(Missal)の場合,筆写費が4ポンド,パーチメントの費用が4 ポンド6シリング8ペンスでほぼ同じ額であった。それに対して,ケンブリッジ大学の ピーターハウスの学生のための写本においてはパーチメントの費用と筆写費はおよそ1対 5の割合であった。これは少なくとも品質,フォアマット,配置(並べ方)はパーチメン トやヴェラムに費やされた額を決定する重要な要素であるという手がかりを差し出してい る。この点から写本の筆写者を見てみると,勤行集(service-book)の筆写者は確かに非 常に浪費家で,神学と哲学のテキストの筆写者は吝嗇で,民事法の筆写者はその間であっ たようである。彼らの暮らしぶりは彼らの専門としている筆写の種類に,換言すれば書物 の価格に左右されていたわけである。このように写本時代をとおして筆写のために使用さ れた最も重要な材料はパーチメントであり,ヴェラムであり,14・15世紀に現れた筆写さ れ彩色された書物は高価な贅沢品であったのは確かな事実である。(Ibid., pp. 321322. 332.). 43( ) 107 ─ ─ .

(6) 第12巻 第2号. (パーチメントの成り立ちとその製法) 次いで書写材料としてパーチメントからペーパーへの転換を考える場合,まずパーチメ ントの成り立ちやその製法について読み手に総合的な知識を提供する可能な限りその時代 に近い古い百科事典の記述をもとに論じてみたい。それは後に明瞭になるパーチメント自 体が現在のわれわれが馴染んでいる近代的な書物の形態の形成に深く関わっていた事実を 考慮すると,是非とも明らかにしておくべきことであるように考えられるからである。 周知のように,18世紀に大規模で本格的なエンサイクロペディアがイギリスやフランス で企画され刊行された。 なかでも, イギリスの場合,『ブリタニカ百科事典』が有名であ るが,主にこの事典に依りながら,その存在が農業社会に属するパーチメントの成り立ち の歴史的経緯やその製法について少し触れてみる。18世紀後半のイギリスは工業社会の入 口に立っていた時期であると同時に,成熟した農業社会のそれでもあり,この時代の百科 事典には両社会の状況が率直に反映されていると期待される。 『ブリタニカ百科事典』は1 768年から分冊方式で刊行され,1 771年に全3巻に纏められ た。その後,改訂され,新項目も加えられ,1797年には第3版が刊行され,巻数も18巻に 膨れ上がった。パーチメントという項目に関しても,その記述は初版ではパーチメントの 製法を中心に行われてきたが,第3版においてはそれに加えて,その歴史的経緯が新しく 説明されている。 まず,パーチメントは「取引において記述や本の覆いなどいくつかの使用に適したもの になるような方法に従って処理された羊や山羊の皮」 (Encyclopaedia Britannica; or a Dictionary of Arts, Sciences, and Miscellaneous Literature; . . .( The Third Edition ), Vol. XIII, 1797, p. 7 35. [以後,本書は Encyclopaedia Britannca(the third ed.)として引用する])と定義されている。さ. らにこのパーチメントの成立事情は次のように説明される。. パーチメントという言葉はこの製造業の古い名前であるラテン語の pergamene に由来し,それ はこの発明が通常,ペルガモンのエネメス王に帰することからペルガモン市からとられたと言わ れる。しかし実際にはこの君主はパーチメントの発明者より改良者であったと考えられる。とい うのはエネメス王よりずっと以前に古代ギリシアの歴史家ディオドロスによれば,古代ペルシア 人は彼らの記録を皮紙の上に記していたし,また古代イオニア人はヘロドトスが伝えているごと く,筆写に際して羊や山羊の皮紙を使用していたためである。こうして皮がパーチメント製法に 従って,下ごしらえされ,その目的のために仕上げられても疑う余地がない。パーチメントの製 造はスキナー( skinner )と呼ばれるパーチメントの原料である皮の下ごしらえに従事する職人. 44( ) 108 ─ ─ .

(7) イギリス製紙業の黎明期(中村) (skinner とは The Oxford English Dictionary によるとその意味のひとつに「パーチメントやヴェ ラムなどの商業的目的のために皮の下ごしらえの仕事に従事している人」というものがある)に よって着手され,パーチメント製造業者によって仕上げられた。(Ibid., p. 735.). ここで注目すべきはペルガモン王国の国王がパーチメントの発明者ではなく改良者と捉え た点である。もともとパーチメントンの発明は伝統的に前2世紀のペルガモン王国の君主, エウメネス2世に帰さたが,実際にはそれは前6世紀にエジプトで使用されていたし,質 のよくないパーチメントであれば,前1000年あたりにすでに小アジアで太鼓の皮を作るた めに用いられていた。しかしエジプトがパピルスの輸出を禁止した時に,古い生産工程を もとにして,洗練されたパーチメントの製法をペルガモン王国は擁していたので,この王 国でパーチメントを大量に生産することが出来たのであった。( J. Feather, A Dictionary of Book History, 1986, p. 198.. F. G. ケニオン,高津春繁訳『古代の書物―ギリシャ・ローマの書物と. 読者―』岩波書店,昭和28年,104106ページ。ザークスル,橋野淑子訳「羊皮紙について」C. シン ガー他編『増補 技術の歴史』第3巻,筑摩書房,1978年,151ページ。壽岳文章「書物」『壽岳文章 書物論集成』185186ページ。). ところで筆記用のパーチメントの製法は最近の2 000年間は殆ど変わっていない。『ブリ タニカ百科事典』におけるパーチメントの項目の記述の半分以上はその説明に割り当てら れていて,それは以下に示すとおりである。. 皮から羊毛が取り除かれ,石灰漬漕に漬けられる。スキナーはある種の枠組みにそれを伸ばし, 鉄製の道具で内側をそぎ落とし,それがなされた後,ぼろ切れで湿らされ,粉状のチョークをそ の上に散布する。スキナーは大きな軽石をとり,平らにおき,皮を擦り広げ,要するに付着して いる肉を擦り取る。彼は再び鉄製の器具にそれをくぐらせ,以前と同じように,それを湿らせ, チョークを用いないで軽石でその下部の方を擦る。この作業が肉面を著しく滑らかにかつ柔らか くする。それから彼は再び前のようにその上に鉄製器具を通して水気を切る。このように肉面の 水分が取られると,彼は同様なやり方で鉄製器具を羊毛,あるいは毛の面に通す。この後,それ を枠組のうえにぴんと広げ,再度,肉面を擦り,水分を抜き終える。そして水分を抜けば抜くほ ど,それは白く仕上がる。スキナーはチョークを撒き,羊毛がついている一枚の羊皮でそれを掃 き取り,一層それを滑らかにする。それはすぐに乾燥するためにそのまま放置され,乾いたとき に,万遍なくそれを切り取って,枠組から取りはずす。ここまでスキナーによってなされた皮は 彼の手からパーチメント製造業者に手渡され,彼は乾いている間にまずスキナーが使用していた. 45( ) 109 ─ ─ .

(8) 第12巻 第2号 ものより鋭利な器具をもって夏の間にそれを削り取る。……腕の力でもって皮の下から上まで作 業していくと,およそ皮の厚さの半分くらいを取り去ることになる。こうして同じく毛くずを詰 め込まれた袋が敷かれたベンチの上で肉面を削り取られた皮は軽石で擦って滑らかにしていくと, 記述用に適した状態のパーチメントになる。ヴェラムと呼ばれるものは早産で生まれたか,ある いは乳離れしていない子牛で作られたパーチメントのみである。それは細かい銀面であり,パー チメントよりも白くて滑らかである。(Encyclopaedia Britannica[The third ed.], Vol. XIII, p. 735. 図版とともに,羊皮紙の製造方法を簡潔に記述したものとして,ジャック・プルースト監修 『フランス百科全書絵引』平凡社,1985年,637ページを参照。). このように,「皮は注意深く洗われ, 毛を除くためにこすられ,滑らかにするために軽 石で磨かれ,それからチョークで仕上げをする」 (ケニヨン,前掲書,104ページ)という作業 をとおして原材料の皮からパーチメントが完成する。パーチメントの製造法に対してさら に書き足せば,パーチメントは「革とことなり,なめし操作はおこなわないで引伸ばし枠 にはめて,特別な乾燥法で乾燥させ, ふつうには薄くけずってつくられた」(ザークスル, 前掲論文,150ページ) とする点であった。こうして得られたものが「色は殆んど白に近い,. 非常にもちのよい,上質のものにあっては比類のない美しさの,文字を受け容れるための 材料」 3世紀イングランドの書写・ (ケニヨン,前掲書,104ページ)であった。例えば筆者は1 彩色されたパーチメントの零葉を実際に手にして,皮を極限の薄さまでに削り取った中世 の職人の技芸に筆者は感嘆し,作成過程で発揮された彼らの忍耐力に驚いている(写真1 を参照)。この方法がパーチメントを製造するために中世ヨーロッパで普通に行われてい た操作であったのである(ザークスル,前掲論文,151ページ)。ポッスルスウェイトはその出 版に多くの年月を費やした『商業についての万有百科事典』のなかで「パーチメントが商 取引における非常に重要な物品になっている」 (“Parchment” , M. Postlethwayt ed., , The Universal Dictionary of Trade and Commerce: with large . . .,[ The Forth Edition ] Vol. II, 1774[ reprint 1971.] no pagination. この事典の初版は1751年。ポッスルスウエイトのこの事典での“parchment” の記述の内容は Encyclopaedia Britannica[ The Third Edition ]のそれと殆ど同じである) と評価. していた。. 3 イギリスにおけるパーチメント生産 そこでイギリスにおけるパーチメントの生産かとその取引の状況を簡単に概観してみよ う。イギリス地方史の基本的資料であるヴィクトリア州史(The Victoria History of The Counties 46( ) 110 ─ ─ .

(9) イギリス製紙業の黎明期(中村). 写真1 13世紀前半にイングランドで制作され たラテン語聖書写本の零葉。. 写真2 1478年にヴェネチアで刊行された聖書 の注釈書(ヨハン=マルシヌス編)の 零葉。紙の上に文字が印刷され,彩飾 が施されている。. of England)のオックスフォードシア(Oxfordshire)の一冊にこの州のパーチメントと紙の. 両方の製造業の歴史を別々の節ではなく,同じ節で取り扱い,描写している。古い時代と 新しい時代の代表的な書写材料であったパーチメントと紙が並行して論じられているとこ ろは真に興味深い。 以前, フラーが1 7世紀のケンブリッジシアの製造業に関して書き残したときに,「ケン ブリッジシアが多くの優秀な著作者を生み出してきたことを考えると,この州は彼等に紙 を提供すべきである」 (T. Fuller, The History of Worthies of England, Vol. I, 1662[reprint 1840], p. 224) から,「製紙業はこの州の製造業として記録される」 ( Ibid., p. 224)と指摘した。同. 様にイギリス最古の大学の一つであるオックスフォード大学が位置したオックッスフォー ドシアも当然のことながらパーチメント,のちには紙の製造は大学と写本や書物のために 不 可 欠 で あった(“ Introduction ”, W. Page ed., The Victoria History of the Counties of England Oxfordshire, Vol. II, 1907[reprint 1987], p. 226.“Parchment and Paper” , ibid., p. 240) とし,. この州のパーチメントと紙の製造業の簡潔な史的展開が試みられる。. 古代のオックスフォードにおいてかなりの大量の衣服のための皮革は使用されていて,このこ. 47( ) 111 ─ ─ .

(10) 第12巻 第2号 とは取引業者たちによく知られていたが,おそらく同種の原料であるパーチメントの製造業はそ れら以上に重要であって,その製造は早い時代からオックスフォードの一つの生業になっていた。 何世紀もの間,パーチメントの製造は続けられてきて,エリザベス1世の頃,なおパーチメント の販売商は広く知れ渡っていた。パーチメントに関する最も古い記録の一つに1180年頃,レジナ ルド(Reginald)と称したパーチメント製造業者が現在オックスフォード大学の文書館に保存さ れているエリアス=ブラッドフォースの不動産譲渡証書のなかに見出されている。リチャード1 世治世(在位11891199)にはパーチメント製造業者のロジャー(Roger)が聖マリア教区に住宅 を構えていた。いくつかの存在する記録によると,製本屋と同様に,初期のパーチメント製造業 者たちはたいていキャッツ=ストリートやその周辺に住んでいて,生計を大学に頼っていた。13 世紀のキャット=ストリートにおける世帯主のなかに4名の製本家,パーチメント製造者,絵師 と1名の写字生と代書人がいた。1240年から1290年までパーチメント製造業者であるサイモンの 住宅があったのも同じ街路であった。ここにはまたパーチメント製造業者のスティーブンが1251 ~1252年に暮らしていた。サイモンやピーターの名前は当時パーチメント製造業者を表していた。 大学の力が次第に大学と関係ある取引業者に及び,1200年にはオクスフォードのすべてのパー チメント製造者は大学当局の管轄に置かれるようになった。 14世紀になってパーチメントを取り扱う数名の個人の名前が必ずしもその時期は突き止められ ないけれども,見出される。1303年にジョン=ドゥ=ウォルトンがパーチメント製造業者として 記録されているし,パーチメントを取引に従事していたサイモンは聖マリア教区における土地に ついての証人になっていた。1337年にジョンという人がパーチメント製造業者として記録され, 彼はおそらく1 380年リチャードやエドワードとともに述べられているジョン=ヒリスその人で あった。書籍は必需品であるために, パーチメント製造がつづけられたことは明らかな事実で あったが,15世紀にはこの問題に関連する乏しい記録は僅かな名前を提供するだけである。これ らの名前のなかに1410年にリチャード兄弟の,1482年にパーチメント販売商と呼ばれていたホー キンズやアレキサンダーの名前があった。16世紀において13世紀には明らかに繁栄していたパー チメント製造業はかなりの衰退が生じた。1556年から1594年の間にこの製造業に従事した James a Wood, Thomas Wadloffe, Girbert Burnet(通称 Cornyshe) , Thomas Gowre,William Jennings あるいは Fenning の5名の名前が現われた。しかし 17 世紀の最初の20年にこれらの名前 の2名が記録に残っていなかった。17世紀までに書籍用の白紙がよく知られるようになり,17世 紀の60~70年代に,今日,世界的に有名なウォルバーコート製紙工場がジョージ=エドワードに よって設立された。( Ibid., Vol. II., pp. 2 40, 226.. A. Grossley ed., A History of the County of. Oxford, Vol. IV, 1979, pp. 2 8, 36. Claperton, op. cit., p. 116.). 48( ) 112 ─ ─ .

(11) イギリス製紙業の黎明期(中村). 種々な記録に現れるパーチメント製造業者や販売者の名前とその人たちの居住地域や 生存時期以上の事実は明らかに出来ない。しかし彼らの名前が詳らかになることをとお して,中世オックスフォードシアにおけるパーチメントの製造業者や販売業者の存在や オックスフォード大学との関わりなどが確かめられたし,17世紀にはパーチメント製造 業の衰退に並行するかのように,この地に新たな書写材料を担い,将来世界的な工場に まで育つウォルバーコート製紙工場の誕生が見届けられた。この製紙工場は早くも18世 紀に「この製紙所でイングランドにおける最上質の紙のいくらかが製造されている」 ( Ibid., Vol. II., p. 241.. R. Jenkins,“ Paper-making in England, 1 4951788”, Do., Collected. paper of Rhys Jenkins, 1936, p. 170.. イギリス製紙業史の基本的で重要な文献であるジェンキンズ. のこの論文は最初,The Library Association Record に Jenkins,“Early attempt at paper-making in England, 14951586”, Library, vol. II[1900], Do.,“Paper-making in England, 15881680”, ibid., Do.,“Paper-making in England, 1 6821714”, ibid., vol. III[1901], Do.,“Paper-making in England, 17141788”, ibid., vol. IV[1902]という形で連載され,その後,本拙稿で使用される ジェンキンズの論文集に転載された。戦後,この論文は Rhys Jenkins, Paper-making in England 14951788[Association of Assist Librarians Reprint 5])として小冊子の体裁で19 58年に刊行 された) と言われるまでになっていた。. 4 パーチメントとコデックス革命 中世ヨーロッパにおいてこのパーチメントがパピルスに代わって主要な書写材料の位置 を占めるようになる。従来広く使用されてきたパピルスに比べ,書写材料としてのパーチ メントの持つ特性がコデックス(ラテン語の codex は丸太を意味する)という新しい書物 の形態を生み出した事実に注意の目が注がれる。コデックスとは筆写した皮紙(パーチメ ント)一枚一枚を綴じ合わせ,保存及び装飾用に蝋を塗った板を外蓋=表紙として付けた 冊子体の綴じ本のこと(清水徹『書物について』岩波書店,2001年,78ページ。 壽岳「出版の歴 史」212ページ。R. Reed, Ancient Skins, Parchments and Leathers, 1972, p.4)であった。パピルス. より安価であるだけではなく,はるかに耐久性があり,虫や湿気に強いこと,表面が明る くてしなやかなために筆写しやすくかつその効果もよく,表裏両面の使用が可能であるこ とや,筆写された零葉が簡単に綴じられたこと(製本)などのパーチメントの本来の特性 が書物の冊子体という形態に申し分なく適していた(S. R. Fischer, A history of reading, 2003, p. 85. Reed, ibid., p.5.)。このようなパーチメントの特性に対して,パピルスは普通裏面の. 筆写は好ましくなく,またその1枚のサイズはおよそ30~40センチメートルでそこには多 49( ) 113 ─ ─ .

(12) 第12巻 第2号. くの文字を詰め込めなく,むしろそれは2・30枚貼り合わせたパピルス文書と称される巻 子本の制作に好都合であった(拙稿,「イギリス製紙業と産業革命― M. クープスの著作を中心に 。 ―」『商経学叢』[近畿大学商経学会]第49巻第2号,2002年,150ページ) しかし本来,古代から中世にかけて書物の形態として,パピルスの巻子本,パピルスの コデックス, パーチメントの巻子本, パーチメントのコデックスが併存していた( C. H. Robert and T. C. Skeat, The Birth of the Codex, 1983, p.5) はずであるけれども,書物とその. 出版の歴史を振り返るとき,一つの大きな転換点はパーチメントによるコデックスでの出 現であった。この出来事は近代的な書物形態の端緒と捉えてもよく,それは既述したよう な書写材料としてのパピルスに代わるパーチメントのもつ特質に大きく依存していた。 コデックスの誕生の解明に尽力したロバート(C. H. Robert)とスキート(T. C. Skeat) は巻子本と比較した冊子体のもついくつかの新規の可能性を次のように捉えていた。それ らの一つは経済性であった。コデックスの形態は書写材料の両面が使用できるので,一枚 の手稿の制作費を削減された。それゆえ,当時の写本の一般的な生産費は知られていない が,コデックスの形態を用いることによって書物の生産費はおよそ4分の1減少され得た であろうという大雑把な結論を彼らは提示している(Ibid., pp. 4546)。次に文字を詰めてコ ンパクトに記述が可能で,例えばコデックス形態で使用されたパピルスと比較した場合, その分量が実際,ほとんど4分の1減少されたので,とくに旅のなかでも読書が出来るよ うになったし,書棚に簡単にまた切り詰めて並べられ得た(Ibid., pp. 4748)。さらに何冊に もわたっていた巻子本を1冊に纏められる可能性や1冊に複数の文献を記述でき,取り扱 いが容易であるという便宜性も生まれた(Ibid., pp. 4849. 巻子本の収容量に比べて,コデック スのそれは平均6倍であった[ Ibid., p. 76])。また巻子本に比べ,冊子本に書かれた聖書の文. 献の特定の箇所を探し出すことが容易にでき,神学上の活発な討論のなかで難なく参照や 引用が可能なことなどであった(Ibid., p.50)。しかしこれらのコデックスのもつ特性のどれ もが書物史上における巻子本からコデックスへの転換へ決定的な要因ではなかったとロ バートとスキートは非常に慎重な考察をする。ただ,コデックスが世俗の文献において巻 子本を追い払ったゆっくりしたむしろ漸次的な過程に反して,キリスト教徒のパーチメン トを用いたコデックスの採用は素早く広範であったようで,コデックス採用への彼らの熱 意は圧倒的に強力であったに違いなかった(Ibid., p. 53)と二人は主張した。巻子本からコ デックスの転換は多神教の諸宗教からキリスト教への変化と結び合っていったのである (C. Roemer,“The Papyrus Roll in Egypt, Greece, and Rome” , S. Eliot and J. Rose eds., A Companion to The History of The Book, 2 009, p. 93. ラーマもロバートやスキートのように,①コデックスは巻物. 50( ) 114 ─ ─ .

(13) イギリス製紙業の黎明期(中村) よりも丈夫である。②書物のページ面が巻物よりも詰まっている。③コデックス自体両面に記述され るので,文字の収容能力が大きい。④巻子本は使用後,完全に巻き戻さなければならないが,コデッ クス本は同じページを簡単に開けられ,閉じられ,再び開けられるなどとコデックス形態の書物の利 点を提示した。その後,機能面から巻子本をヴィデオカセットに,コデックスを DVD に例えている. 。 [Ibid., p. 93]点は巻子本とコデックス本の適切な比較であると思う) 再度,歴史的に書物制作へのパーチメント使用の定着を顧みると,すでに指摘を済ませ たように,キリスト教の発展がその推進に重要な役割を担ったことが浮かび上がる。 コ デックスはまず初期のキリスト教徒の間で評判になり認められ受け入れられた。キリスト 教という宗教は古代の諸文化と異なり,「本」が宗教であった。本はもっぱら聖書を意味 し,写本は福音の「書」ではなく,福音そのものであった。それゆえ聖書,すなわち書物 (英語で the Book は聖書を指す) はこの新しい宗教にとって不可欠であったし, その地域的. に広範囲にわたる伝道のためには扱い易く,安価に造本でき,遠隔地への持ち運ぶために 耐久性に富んだ書物の形態でなければならなかった(『新約聖書』に聖書は「それ(聖書)がキ リスト・イエスに対する信仰によって救い至る知恵を,あなたに与えうる書物」[「テモテへの第2の. 。 パーチメントの冊子本はこの条件を満たす打って付けの 手紙」3章1 5節]と記されている) 書物の形態で,キリスト教の影響が強くなるつれ,パーチメントのうえに書き写され,そ れらを綴じ合わせたコデックス形態の聖書が高い評価を勝ち取っていった。そして4世紀 後半にようやくコデックスは巻子本に取って替わったのである。こうしてパピルスに代わ りパーチメントが古代ローマ帝国後期と中世において支配的な筆写形態とその実践に影響 を及ぼし,この時期を“パーチメント時代”と呼ばれるようになったのである。 (Reed, op. cit., pp.6, 115. Feather, A Dictionary of Book History, p. 68. Fischer, op. cit., p. 84. 越宏一「西 欧中世の写本画」越宏一編『週刊朝日百科』39, 朝日新聞社, 昭和53年,2255ページ。 ジュゼップ =カンブラス,市川恵里訳『西洋製本図鑑』雄松堂出版,2008年,11ページ。リードは「キリスト教 教会の全仕事は中世都市であれ,より孤立した村落であれ,修道院であれ,著作の翻訳,説明,普及 に集中していたので,中世におけるパーチメントの生産はキリスト教国の欠くことのできない役割で あった。もちろん,皮革は広範に社会のために製造され続けた。しかし写本室での使用のための筆記 面としてパーチメントよりは重要ではなかった」[ Ibid., p. 115]とキリスト教国におけるパーチメン トの重要性を示し,この事実が,つまり「パーチメントへの選択が紙の使用を遅らせた」 [ Ibid., p. 115]と指摘する。). 51( ) 115 ─ ─ .

(14) 第12巻 第2号. 5 パーチメントからペーパーへ パーチメントはより安価で扱い易い紙が普及するまで中世写本に使用された唯一の材料 であった。柔らかい動物の皮革で作られたパーチメントは紙よりずっと耐久性があり贅沢 な材料として写本に用いられた(L. Hellinga,“Printing”, Hellinga and J. B. Trapp eds., The Cambridge History of The Book in Britain, Vol. III, 1999, pp. 93, 48. )。しかし, 依然として紙へ. の耐久性に関する偏見は持ち続けられるが,紙の大きな柔軟性と低価格のために,それはっ きりとパーチメントと置き換わるようになった(A. Blum, On the origin of paper, 1934, p. 36)。 15世紀末以来,イタリアから大量の紙が付近の国ぐにに輸出された。イタリアの製紙所 がその生産物を販売し始めた13世紀に紙は普通, パーチメントと殆ど同じくらい高価で あった。1382年の会計簿が示すところによると,紙の価格は一連あたり2リーヴル5スウ に固定されていた。つまり確実な計算に従うと,12枚の紙は1枚のパーチメントと同じ価 格であった。(Ibid., p. 36. A. Stevenson, The Problem of the Missale special, 1967, p. 49.) 従ってイタリアから紙の本質的で極めて重要な原料であった麻や大麻のぼろ布の輸出を 妨げる努力がなされた。1366年にヴェネチアの議会で布告された法令はいかに共和国がト レヴィーゾの製紙所を保護するかを計画した。法令はトレヴィーゾの製紙所で続いていて, われわれの社会に非常に利益のある製紙方法のためにヴェネチアからぼろ布はトレヴィー ゾ以外のどこへも輸出されるべきではないと命じられた。こうしてゆっくりだが絶え間の ない紙の使用の増大と共に,それは次第に以前のパーチメントの領域の多くを支配して いった。(Blum, ibid., p. 36. Stevenson, ibid., p. 49.) 確かにパーチメントは手書きのために素晴らしい表面を作り上げた。それは紙が十分な 代替品になり得るということが筆写者の間で疑われてもおかしくはないほどのすぐれた書 写材料であった。しかしながら経済的要因は決定的であった。大陸ヨーロッパでは14世紀 末にさえ1帖の紙(25枚)はたった1枚の平均的な皮革の価格であった。さらに15世紀に なると製紙業の成長は着実に紙の価格の下落を生じ,15世紀の中ごろまでに実際紙の価格 は半分に下がり,1500年までにさらにその半分になった。このような状況で紙の魅力は非 常に大きくなり,その使用が市場を通して確実に広がっていったことは注目され,それと ともに,記録の保存,私的な目的や商業的な書物の出版に紙は影響を与えることになった。 (R. J. Lyall,“Materials:The Paper Revolution”, J. Griffiths and D. Pearsall eds., Book Production and Publishing in Britain 13751475, 1989, pp. 1 112.). イギリスにおいても紙の価格はパーチメントのそれに比べ,下落していった。よく知ら れているように,イギリス経済史の長期に及ぶ諸商品の価格の趨勢の研究にロジャーズや 52( ) 116 ─ ─ .

(15) イギリス製紙業の黎明期(中村). ベヴァリッジが尽力した。彼らの示した物価時系列に従えば,15世紀の間に紙の価格はロ ジャーズによると,約41パーセント,ベヴァリッジによると,ウインチェスター=コレッ ジにおいて約50パーセント下落し,パーチメントの価格に関しては,ロジャーズはおよそ 85パーセント,ベヴァリッジは2倍に上昇したとしていた。16世紀に入ると,この世紀の 最初の80年の間,紙の価格はロジャーズに従うと60パーセント,ベヴァリッジによると約 33パーチメント騰貴したのに対し, パーチメントの価格増加はそれぞれ5 3%(ロジャー ズ),66パーセント(ベヴァリッジ)であった( W. Beverridge, Prices and Wages in England From the eleventh to the Nineteenth Centuries, Vol. I, 1 939. pp. 8587. J. E. T. Rogers, A History of Agriculture and prices in England, Vol. IV, 18661902, pp. 6 05608.)。こうしたパーチメントと. 紙の長期における価格趨勢に対して,両商品の品質に注意を向けると,15世紀のパーチメ ントのそれは13・14世紀のものより劣化したことを示す。初期に製造されたパーチメント は非常に繊細で薄く,獣脂がなく,滑らかで半透明であったが,後に作られたものは丈夫 であったかも知れないけれども,粗悪で,たいてい脂じみて不透明であった。それに対し て,紙は15世紀にはよく知られ,素材としても良く,耐久性があって強く,透かしもなさ れていた。 (Rogers, ibid., pp. 5 91, 595. イングランドでは15世紀初頭から紙はとくに東部の州でい わゆる国内登記簿と言ったものに普通に使用された[Ibid., p. 590]。). 一般的な条件においてもイギリスの写本生産においてパーチメントが紙に置き換わる過 程のペースを点検することは可能である。後に A. ワトスン( Andrew Watson )が編纂 した15世紀に刊行された174冊掲載の年代明記のカタログやより大きなサンプルが期待で きるカタログ(ネール=カー[Neil Ker]編纂のカタログはたいていの本の年代が不明)を総合す ると,紙の使用は14世紀末から15世紀初頭にかけて非常に稀であったことが示されるが, 1450年までに紙に書かれたすべて写本の割合は約20パーセントに達し,その世紀末には50 パーセントに到達していた( Lyall, op. cit., p. 12)。また15世紀に制作されたチョーサーの 『カンタベリ物語』の83の写本のうち,61パーセントがパーチメントに,34パーセントが 紙によって制作され,5パーセントがそれらの混合であった。長期的に見れば紙はパーチ メントより安価であったが,結局,これはイギリスで製紙業が発展してからのことであっ た。( M. T. Clancby,“ Parchment and Paper ”, S. Eliot and J. Rose eds. A Companion to The History of The Book, pp. 1 94, 196.) . 以上のように,ヨーロッパ中世をとおして書籍生産の成長と顕著ではないが,写本にお ける紙の使用の割合も次第に増えていき,一方,パーチメントの価格に騰貴傾向が生じて いくにつれて,紙の価格下落が起こり,製紙業の発展の基盤が形作られていった。さらに 53( ) 117 ─ ─ .

(16) 第12巻 第2号. 15世紀後半に活版印刷術が発明され,それを切っ掛けとして製紙業は大きく飛躍した。 1450年代に完成したグーテンベルクの『四十二行聖書』は1 80部が紙に,3 0部がパーチ メントに印刷された。641葉からなるパーチメント製のものは1冊につき300頭以上の羊が 必要であった。このことからも明白なように,発行部数が1000冊以上の印刷本にとって紙 は唯一の適切な材料になった。紙はパーチメントよりも相当安価で,また1冊の本の発行 部数が増加していくなかでそれに応じたパーチメントの供給は困難で,それは著作物より も芸術家が手腕を発揮する贅沢品のために使用されるようになっていった( M. Plant, op. 。要するに当時 cit., p. 190. Hellinga, op. cit., p. 93. H. G. Aldis, the Printed Book, 1916, p. 87.) の画期的な発明であった活版印刷術をある程度大規模に採用するには印刷するべき安価で 豊富な材料が利用できることが前提であって(T. I. ウィリアムズ他,平田寛他訳『技術文化史』 上,筑摩書房,1971年,2 58259ページ。 逆に写本時代から活版印刷術の採用を考えると, 写本時代 に「最初の近代的産業といわれる活版印刷の下地は充分ととのっていたというべきであろう。残され た問題は印刷機,とりわけ組版の技術,そして良質の紙の入手であった」 〔二宮,前掲書,483ページ〕. ,その材料を紙が担ったわけであ となり,パーチメントに代わる紙の普及の重要性がうかがえる) る。従ってグーテンベルクの際だった業績は15世紀中頃以降,ヨーロッパの紙の使用と製 造に新たな契機を与え,印刷本は紙の大きな需要を生み出したと思われる。かくして紙と 活版印刷術が結び付いた時に, 紙が明示した経済革命が起こったのである( Lyall, op. cit., 。この活版印刷術と紙の結合の成果は1 5世紀の中頃から最初の5 0年間にそれ以前の p. 11) 1000年間のそれよりもほぼ確実に多かったという事実(ウィリアムズ他,前掲書,260261ペー (写真2を参照。) ジ) から十分に推し量られる。 今,少し,パーチメントから紙へという原料転換から書籍生産の歴史を顧みるときに, 注視されてもよい事例がヴィクトリア州史のウスターシアの第2巻に記されている。この 州のスターブリッジやベンジワースでは今でもなおパーチメントが製造されている。後者 のパーチメント製造にはイヴシャム修道院の最も早い時代から修道士のために行われてい たので,歴史的関心が一層そそられる。他方,エリザベス1世治世には早くもこの州にお いて紙が作られたように考えられる。16世紀中葉にはイプスウィッチからウスターに移っ てきたジョン=オスウェンが2 0冊以上の書物を刊行していた(C. H. Velacott,“Introduction [ for Industries ]”, The Victoria History of Counties of England Worcester, Vol. II, 1906[ reprint 1971], p. 255. E. G. Duff, A Century of The English Book Trade, p. 1 948, p. 116. H. R. Plomer, A Short History of English Printing 14761898, 190 0, p. 131.)。すでにオックスフォードシアの例. をとり明らかにしたように,新旧の書写材料の製造所がこの地でも併存していた16世紀の 54( ) 118 ─ ─ .

(17) イギリス製紙業の黎明期(中村). この事実はパーチメントから紙へという書物の原料転換の推進を示唆していて,それは書 物史におけるひとつの時代の変わり目を明確に象徴する現象であったと捉え得る。こうし てイギリスで印刷のためにパーチメントから紙へといういわば原料の転換は15世紀末から 本格的に開始されたのであった(Coleman, op. cit., p. 67)。. Ⅱ 15・16世紀のイギリス製紙業の状況と発展. 1 イタリアにおける製紙業の発展 イギリスで製紙業が生まれ,紙を生産しそれを自国に供給出来る前からすでに紙はこの 国で使用されていた。「実際, ヨーロッパの文明化された地域で紙は14世紀初頭から難な く 入 手 で き た」( R. B. Mckerrow, An Introduction to Bibliography, for Literary Students, 1928, p. 98. ) からである。 イギリスの教会, 博物館,文書館に残存する紙の透かし模様(ウォー. ターマーク)を調査したエドワード=ヘイウッドはその成果をもとに18世紀中葉までのイ ギリスで使われた紙の外国からの供給源を解明した。それによると,イギリス製紙業の黎 明期以前に使用されたこの国の紙の多くはイタリアから供給されていた。( E. Heawood, “Sources of early English paper-supply”, The Library, Fourth Series, vol. Ⅹ[1930], p. 305.). もとより紙及び製紙業のヨーロッパへの伝播はスペイン南部を占領したアラブ人がこの 国に10世紀中頃に紙を,その1世紀後に製紙法を導入したことから始まる。おそらく紙の 生産は1074年にヴァレンシア地方のハティヴァで開始されたと考えられる。1085年までに トレドで叩解機が稼働され,1151年にハティヴァでこの工程で水力を利用したと言っても 差し支えない。この時までに製紙業はカタロニアでその確立に成功し,そこから紙はフラ ンス南部やイタリアに輸入され, イタリアでは紙の製造は1 3世紀に着手された。( Hills, Early Italian Papermaking, A Crucial Technical Revolution ” , Produzione e commercio delle carta e del libro, secc. XIII-XVIII,[1992], p. 75. Hunter, op. cit., p. 153. ハンター,前掲書,86 88ページ。J. オーヴァトン,小川豊訳「製紙業の技術進歩について」シンガー他編『増補 技術の 歴史』第6巻,1978年,362363ページ。). イタリアの製紙業は1 3世紀中頃から1 00年間に当時のイタリアの毛織物工業の隆盛と密 接に関連しながら大きな発展を遂げた。この間の事情をアンドレ=ブリュームは簡潔に次 のように纏めていた。. イタリアの最古の製紙場はおそらく1 2681276年頃のファブリーノのものであると思われる。. 55( ) 119 ─ ─ .

(18) 第12巻 第2号 1293年のボローニャ,少し後にパデュアとジェノヴァがファブリーノに続いた。しかし13~14世 紀に最もうまく発展したのはファブリーノの製紙所であった。改善された技術のためにそこでは ハティヴァのように麻や大麻のぼろ布から紙が製造されていた。加うるに,金属の叩解機によっ てぼろ布は完全にすり砕かれにパルプにされ,ゼラチンで陶砂され,透かし模様をいれた。これ は木綿紙と区別する新しい製法であった。(Blum, op. cit., p. 32.). 後年,この13世紀から14世紀のイタリア製紙業とその製品である紙の品質に言及したの がイギリス製紙業史の研究者であるリチャード=ヒルズであった。彼はこのことについて 次のように要約した。スペインとイタリアで製造された紙の最初の形態であった初期のア ラブ人の紙のパルプは叩解が不完全で表面がでこぼこしていて,紙が厚く,容易に透かし てみることが出来なかった。ところが製紙業がスペインやイタリアに導入されてから間も なく,それに毛織物商人が関わっていった。彼らは重要な国際貿易と繋がっていて,とく にイタリアのトスカナ地方で手際よく製紙業の製造技術を発展させた。この時期に毛織物 業は全盛であって,それは製紙業のような新製造業にも資本を提供できたであろう。それ に毛織物製造業から製紙業に技術や技倆の移動が生じた。製紙業者はたいてい生産の行程 でぬれた紙どうしを隔てるために羊毛製品であったフェルトを必要としたし,製紙のため のぼろ布は毛織物製造業で使用する鋏で切られた。紙を陶砂する植物性の糊は動物からの ゼラチンに換えられた。ゼラチンの陶砂は蹄,皮革,骨のような毛織物商人が入手出来た 原料を煮沸することから作られたのであろう。また毛織物製造業との別の重要な関係は縮 絨機であった。毛織物生産における縮絨は水力が使用される工程であって,縮絨すること でもって粗い毛織物は水と多少の石鹸質を使って汚れが取り去られ,厚くされ,フェルト 地化された。この毛織物工業の縮絨機が間もなくぼろ布をパルプ状にするさいに採用され た。おそらく初期の製紙業の叩解機はヨーロッパにおいて水力を動力とする縮絨機を技術 的基礎に置いていたのであろう。( R. L. Hills, Papermaking in Britain 14881988, 1988, pp. 17 18. Do.,“The Importance of Early Italian Paper and Papermaking in Britain”, The Quarterly, The Journal of the British Association of Paper Historians, No.71[2009], p.3. Do.,“ A Technical Revolution in Papermaking, 1 2501350”, Looking at Paper: Evidence and interpretation, symposium proceedings,1999, pp.110,111. Do.,“Early Itarian Papermaking, A Crucial Technical Revolution” , p. 81.. ジョン・クラパム,山村延昭訳『イギリス経済史概説』上,未来社,1979年,230ページ。). こうして紙の新しい種類が14世紀の間にイタリアにおいて普及・発展した。とりわけその 特徴は1282年ころにイタリアのフェブリアーノで初めて導入された紙の透かし模様と関連 56( ) 120 ─ ─ .

(19) イギリス製紙業の黎明期(中村). していて,それは従来のアラブ人の紙にははっきりと見られない技術であった。つまりイ タリアでは1380年までによく叩解され,それゆえに密度も高く,くっきりした透かし地合 いである近代の紙と比べても劣らない品質をもつ紙が製造され,そこには透かし模様と紙 漉枠の構造を鮮明に確認されるのである。この紙は既述したようにゼラチンで陶砂され, 一層耐久性があり,堅固であった。14世紀中頃までにこの新しいイタリアの紙は輸出され るのに十分に優れた品質に到達していて,スペインの製紙業者はこの国と競争するために 製紙方法を変える必要があった。明らかに一つの技術革命が起こったのである。そしてこ れらのイタリアの技術は他のヨーロッパに渡り,製紙業の技術的基盤の形成に寄与した。 (Hills, Papermaking in Britain 14881988, 1988, pp. 1718. Do.,“The Importance of Early Italian Paper and Papermaking in Britain” , p.3. ファブリアーノでの製紙業の新技術に関してはアンリ =ジャン=マルタン他, 関根素子他訳『書物の出現』上, 筑摩書房,1985年,7879ページの行き届 いた説明を参照。). またリチャード=ヒルズはイタリアの製紙業における技術革命の事実をハレフォード大 聖堂の図書館に現存する1 309年,1322年頃,1375年の書簡などの白紙の調査から検証した。 最初のものは後の紙の品質とは全く異なる。表面の大部分は退色し,かなり艶があり,後 の紙よりも白くて厚くしなやかである。一見したところ表面のきめが粗く,繊維の塊が残 る。角が損なわれ,毛羽立っている。それは典型的な1250年以前に製造された紙であり, つまりスペインで作られた初期のアラビア紙の典型である。2番目の1 322年頃の紙は不明 瞭ながら透かし模様が入っているので,イタリア製である。この紙の表面はゼラチンによ る陶砂がなされ,非常にすべすべしていて滑らかで,撚れた糸とか繊維の塊が見られない。 長い繊維が残っているパルプを使用したために透かし模様が不明瞭になっている。最後の ものは一層滑らかであり,よく叩解されたパルプが用いられ,紙が薄く,透かし模様が明 瞭である。このように1375年のものは品質もすぐれ,後の時代の紙のそれに劣らない。鮮 明な透かし模様を備えたより薄くて一層強い紙の生産が可能になったのである。 (Hills,“A Technical Revolution in Papermaking, 1 2501350”, pp. 105108. ) そしてこの製紙業の新しい. 様式は北部スペイン(カタロニア地方)に普及し,より初期のアラブ人の方法は駆逐され ていった。それはイタリア様式の紙がいかに初期のスペインの紙のみならずパーチメント をも置き換えていったことを物語っている。さらに重要な点はこのような上質な紙がグー テンベルクの印刷術の基盤を提供したというところである(Ibid., p. 111)。このようにヨー ロッパにおける東洋からの製紙技術の継受を顧みると,ヨーロッパの製紙職人は東洋の熟 練工から製紙の原理を受け入れた一方で,やがてすべて製紙工程の操作に彼ら自身の方法 57( ) 121 ─ ─ .

(20) 第12巻 第2号. を実施したことが了解できる。つまりヨーロッパ人はアラブ人をとおして伝来した製紙術 に「中世後期の技術的・職業的革命」を結びつけたのである。それらが既述したように, 原料であるぼろ布を強力に粉砕可能な水力で稼働された叩解機であったり,金属線を固定 化した漉き具であった。(Hunter, op. cit., pp. 156157. ハンター,前掲書,8990ページ。ロー ター・ミュラー,三谷武司訳『メディアとしての紙の文化史』東洋書林,2013年,43ページ。アラブ 人がスペインにもたらした製紙技術に関する日本語文献としては鈴木敏夫「ムーア人が始めたスペイ ンの製紙」同『プレ・グーテンベルク時代 製紙・印刷・出版の黎明期』朝日新聞社,昭和51年,471 475ページを参照。). その上,イギリスの15世紀までの紙の供給源を考慮すれば,当時のイギリスとイタリア の国際商取引の関係が羊毛を中心に形成されていた点を注視すべきであろう。 イギリスから羊毛を輸入するもっとも初期の商人は,フランドル人であったが,13世紀 のあいだにイタリア人が追い抜き,当初は陸路をとってフランドルとイタリアの両市場に 供給していた。その後,14世紀の初期からはイタリア向けの積み荷は海路でこれを運搬し ようとした。13世紀の初頭までは,フィレンツェの工業は,あらゆる種類の羊毛を使用し たが,その頃からは,上質のイングランドやスコットランドの羊毛がブルゴーニュとスペ インとガルボの羊毛を除く, すべての羊毛を, 駆逐してしまった(アィリーン・パウア, 山 村延昭訳『イギリス中世史における羊毛貿易』未来社,1966年,2324ページ。 リプスンはイタリア 商人へのイギリスの羊毛供給の当時の状況に関して,「イタリアの商人たちは修道院の羊毛の一季に 刈り上げた全量を買い上げる習慣があり,一定年数の契約をした」 [E. Lipson, A short history of wool and its manufacture, 1953, p. 17]と指摘していた。)。こうして,毛織物工業を中心にしてイング. ランド人の経済生活にイタリア人はより密接に結び合わされていて,その結合の強さは彼 らが全北ヨーロッパ向けの商業慣行と商業法に多くの先例を定めた(クラパム,前掲書,110 ページ) くらいであった。 従ってヴェネチア, ジェノヴァ, フィレンツェ, ルカ等のイタ. リアの都市国家の商人たちはとくに13世紀から14世紀初期にイングランドとの商取引に関 連していた(Hills,“The Importance of Early Italian Paper and Papermaking in Britain” ,p. 。 2) 紙がイタリアの都市国家からイギリスに運ばれてきていた事実は例えば「1 380年に難破 したジェノヴァの船の積み荷のなかに記述用の紙が20梱あった。しかしこのような紙のす べては,ジェノヴァがイタリア北部の紙の積み荷の自然の港であったので,決してジェノ ヴァで製造されたわけではなかった」( Heawood, op. cit., pp. 305306)とか,1 396年6月に サウサンプトンに米と大青や他の商品を積んだジェノヴァの船が入港したが,その他の商 58( ) 122 ─ ─ .

(21) イギリス製紙業の黎明期(中村). 品のなかに10シリングと見積もられた1梱の紙が含まれていて,その関税として1.5ペンス が支払われた(E. M. Hewitt,“Paper-making”, Page ed., The Victoria History of Hampshire and 430年頃に「ジェノヴァはクラックスと名付け the Isle of Wight, Vol. Ⅴ, 1973, p. 4 89) とか,1 られた巨大な船でもってイングランドに依存している。それは金糸の織物,絹,紙,多量 の木材,羊毛,油,木綿,アラム,金貨のような多くの商品をもたらした」(“Cotton”, W. Rees ed., The Cyclopaedia; or Universal Dictionary of Arts, Science and Literature, 1819, Vol. Ⅹ)な. どの記述から見出だせ得る。このように,実際イタリアの諸都市からイギリスへ流れ込ん だ商品は多岐に渡っていて,そのなかに紙があったわけである。ともあれイギリスには紙 は売却のために連(リーム)単位の梱包された未使用の状態か,あるいは書簡や業務上の 会計報告書の形でもたらされたのであった。こうして紙はその導入時から何世紀もパーチ メントと並行して使用され,次第に紙はイギリス社会で受け入れられ一般的になっていっ た(Hills,“The Importance of Early Italian Paper and Papermaking in Britain”,p.2)。. 2 イギリスにおける外国製紙の輸入 ヨーロッパにおいて紙はすでに13世紀初頭にスペインやドイツの公式の書類に取り入れ られていた。イギリスでも14世紀までにブリッドポートやサウサンプトンやハイズのよう な都市のギルドの報告書や会計簿などに用いられていた(Jenkins, op. cit., p. 156)が,1490 年以前に紙を生産する製紙所がこの国に存在していたという証拠はなく,従ってそれまで のイギリスに普及していた紙は自国産ではなく,先述したように外国で製造されたもので あった。14~16世紀のイギリスへの紙の供給国はこれも先に明らかにしたごとく,14世紀 には広くヨーロッパじゅうで評判を勝ち取っていたイタリアであったが,次第にその評判 は失われていき,16世紀までにイタリアの紙の輸出はスペインとイギリスに限られるよう になった。またフランスは15世紀の中頃までに自給でき,その世紀末までに紙の輸出を開 始した。 (P. H. Aitken,“Some Notes on the History of Paper” , Transactions on The Bibliographical 4・ Society, Vol. XIII[1916], p. 209.)これらの事実からも了解出来るように,イギリスでの1 1 5世紀に使用された紙の大部分はイタリアの都市から,とくにジェノヴァから輸入された。 しかし1500年以前にイギリスへの紙の供給はイタリアからフランスに代わりつつあり,16 世紀になるとその傾向は一層際立つようになった。( Heawood.,“ Sources of early English Paper-supply, II The sixteenth century ”, Library, Fourth Ser., vol. X,[1 930], p. 449. Do., “Paper used in England after 1 600”, Library, Fourth Ser., vol. XI,[1931], pp. 489, 492.「1600年 以後,イタリアの紙の使用は決定的に少なくなった。イギリス市場の実質的に独占はフランスによっ. 59( ) 123 ─ ─ .

(22) 第12巻 第2号 て17世紀の大部分にわたって維持された」[Ibid., p. 492]. Coleman., op. cit., p. 17.). もともとイギリスでの製紙業の成立は他のヨーロッパの国ぐにに遅れていて,しかもそ の成立以降も技術的劣位と慢性的原料不足によって円滑な発展は推進されなかったので, この国に必要とされる紙は外国に仰がなければならなかった。その理由を含めて16世紀中 頃のイギリス製紙業の様子が『イングランド王国の繁栄についての一論』(J. Hales, A Discourse of The Common Weal of This Ream of England, 1581[reprint 1971]. この小冊子の翻訳が「イ ングランド王国の繁栄についての一論」出口勇蔵監修『近世ヒューマニズムの経済思想―イギリス絶 対主義の一政策体系』有斐閣,昭和32年である。以後,本書を『対話』として引用。本拙稿で参照し た A Discourse of The Common Weal of This Ream of England の著者は W. S. Gentreman と記され, 匿名になっているが,このテキストの編者であるエリザベス=ラモンド[E. Lamond]以来,多数の 学者によってこの小冊子の真著者としてジョン=へールズが特定されている[高橋誠一郎「古版西洋 経済書解題」『高橋誠一郎経済学史著作集』第4巻,創文社,1994年, 313ページ。出口勇三監修,前 掲書,173175ページ。E. Lamond,“Introduction”, ibid., pp. xxv-xxviii.]またこの書物の初版は 1581年に刊行されているが,ラモンドは『対話』が扱っているイングランドの状態の年代を1549年の 秋としている[Ibid., p. xiv] 。それゆえ『対話』に出てくるイギリス製紙業の状態は16世紀中頃以前 のものである) という小冊子に的確に伝えられている。この小冊子の論述はドクターと騎. 士,農民,帽子屋,商人等との対話(ダイアローグ)という形態をとって進行していく。 少し製紙業に関する箇所をドクターと騎士の対話から拾いだしてみよう。ドクターは「わ が国の品物でつくられて,ふたたびわが国へ送られてくるものもあります。こうして,外 国は自分の国の人びとに仕事をあたえ,そしてわが国からたくさんの財宝をもち出してい るのです」(J. Hales, op. cit., p. 63.『対話』68ページ)と主張し,それらの品物に外国で毛織 物や帽子,紙やカージー織に加工される羊毛等をあげ,当時の製紙業の場合,外国は「わ が国の古麻布やボロ布で,上製紙(白紙)や粗製紙(茶紙)をつくっています」( Ibid., p. 63.『対話』68ページ。イギリス製紙業史の文献おいて頻繁に出てくるホワイトペーパー[white paper] は印刷業者の間では「印刷されていない紙」 [ E. J. Labarre, Dictionary and Encyclopaedia of Paper and Paper-making, 1952, p. 364]を意味していて, 印刷や記述用の上質紙を指していた。 それに対し てブラウンペーパー[ brown paper ]とは粗悪な茶色の紙のこと言う。 本拙稿では基本的に white. 「こういった paper には白紙,brown paper には茶紙と言う訳語を充てる) と述べ,その結果, 品物のひとつひとつとひきかえに,どれだけの財宝がこの王国からでてゆくとお考えです か。これらすべてをよせたらどれくらいになるか,とても想像できませんね」(Ibid., p. 63. 『対話』68ページ) とこの時代のイギリスの外国取引の状況を憂いている。ドクターは外国. 60( ) 124 ─ ─ .

参照

関連したドキュメント

(Construction of the strand of in- variants through enlargements (modifications ) of an idealistic filtration, and without using restriction to a hypersurface of maximal contact.) At

It is suggested by our method that most of the quadratic algebras for all St¨ ackel equivalence classes of 3D second order quantum superintegrable systems on conformally flat

Answering a question of de la Harpe and Bridson in the Kourovka Notebook, we build the explicit embeddings of the additive group of rational numbers Q in a finitely generated group

Next, we prove bounds for the dimensions of p-adic MLV-spaces in Section 3, assuming results in Section 4, and make a conjecture about a special element in the motivic Galois group

Maria Cecilia Zanardi, São Paulo State University (UNESP), Guaratinguetá, 12516-410 São Paulo,

Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A

In our previous paper [Ban1], we explicitly calculated the p-adic polylogarithm sheaf on the projective line minus three points, and calculated its specializa- tions to the d-th

Our method of proof can also be used to recover the rational homotopy of L K(2) S 0 as well as the chromatic splitting conjecture at primes p &gt; 3 [16]; we only need to use the