• 検索結果がありません。

19世紀初頭リージェンツ・パークにおけるヴィラ―ジョージ王朝の郊外ヴィラの伝統の系譜において

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "19世紀初頭リージェンツ・パークにおけるヴィラ―ジョージ王朝の郊外ヴィラの伝統の系譜において"

Copied!
24
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

『英米文化』51, 55–78 (2021) ISSN: 0917–3536

19世紀初頭リージェンツ・パークにおけるヴィラ

―ジョージ王朝の郊外ヴィラの伝統の系譜において

芝   奈 穂

The Regent s Park Villas in the Early Nineteenth Century:

Within the Context of the Suburban Villa Tradition of Georgian England

SHIBA Naho

Abstract

This article explores the development of the nineteenth-century Regent s Park villas within the context of the architectural evolution of the previous century. Recent historiogra-phy has focused on the transformation of the aristocratic villas of Georgian England into the family homes of the rising Bourgeoise in the late eighteenth century and its analogous impact on its expansion to North America in the mid nineteenth century. This piece attempts to illustrate how the architectural and social developments of the Georgian period helped to transform the purpose of these majestic edifices from leisure sites for the aristocracy to fam-ily homes for the rising middle classes. To do so, it looks first at how its architects adapted forms and ideas when designing and constructing these buildings by focusing on the Palla-dian villas on the banks of the River Thames, such as Chiswick House and Asgill House. This article then attempts to rectify the current historiography s seemingly little interest in the Regency development in the early nineteenth-century London suburbs, which culmi-nated in the villas of Regent s Park, by examining three examples (The Holme, Hanover Lodge and Grove House). Finally, it shows that these villas were important exponents of the then contemporary ideas about these buildings form and purpose.

(2)

はじめに 18世紀にヴィラ(villa)がカントリーハウスの一形式としてイギリスで一世を風 靡したことはよく知られている。それは,もともと古代ローマの王侯貴族たちの別 荘にその起源をたどることができるが,ルネサンス時期のイタリアで建築家アンド レア・パラディオ(Andrea Palladio, 1508–1580)によって再評価され,その形式は ヨーロッパ全土に流行を見る。パラディアニズム(Palladianism)と称される彼の建 築様式は,古典主義の建築原理を新しい時代に適合させるべく工夫を凝らしたもの であり,古典主義的なプロポーション(proportion),シンメトリー(symmetry),柱 廊式玄関,ポルチコ(portico)を有する神殿風正面(temple front)等の要素が特徴 的である1。パラディオはそれらを教会や公共建築だけでなく,個人の宮殿や大邸 宅,ヴィラ等において用いた。パラディアニズムは,17世紀以降,イギリスにも流 入し,18世紀を通じてカントリーハウスの建築様式として広く流行したが,とりわ けヴィラの形式としてもてはやされた。ヴィラの発展は18世紀にとどまらず,19世 紀を迎えても,その建築様式がパラディアニズムを超えて多様化しながら,イギリ ス中に広く建設されるに至った。やがてヴィラが建築だけでなく,文学や美術にお いても言及されるようになり,1つの文化事象にまで発展する。本稿では,19世紀 のヴィラの発展過程中,これまであまり研究されてこなかったリージェンツ・パー ク(Regent s Park)内の複数のヴィラを対象として,それが,18世紀から19世紀初 期までのイギリス,とりわけジョージ王朝(1714–1830)におけるヴィラの変遷上, どのように関連づけられるのかを考察することを目的とする。 400エーカー以上の広大な緑地を有する同パークは,現在ロンドンを代表する王立 公園として有名であるが,その起源はヘンリー 8 世の狩猟地まで遡ることができる。 この王室エステートに対して,王室費歳入増の目的から18世紀の後半に開発計画が 議論され始め,19世紀初頭に富裕層向け住宅地開発計画が実施に移された2。1811年 頃から始まった設計において,これらの住宅地は,富裕層を惹きつけるべく広大な 緑地と優美なデザインを伴ってレイアウトされた。その緑地部分が1841年に一部一 般公開され,公園と称されるようになったが,それまで,一般人の利用は想定され

(3)

ておらず,同パークは住宅地の住人のための特権空間であった。この王室エステー ト開発計画は,17世紀以降のロンドンにおける地主貴族たちによるエステート開発 をモデルとしていた。17世紀以降19世紀にかけて,ロンドンの有力な地主貴族たち は,自身の所有するエステートを建設用地として通常99年間の契約で建設業者に賃 貸しした。彼らはそこに3∼4階建ての連結住宅,テラスハウスを建設し,そのリー ス権(leasehold)を個人に売却したが,地主には,毎年地代(ground rent)が支払わ れ,なおかつリース期間が終了すると建物ごと土地が地主たちに返還されるという 仕組みが形成された。これらを経て,テラスハウスは都会の住宅形式として定着し ていった。当該王室開発計画では,楕円形の敷地の周囲に,宮殿のような外観を持 つテラスハウスがレイアウトされ,地主貴族たちによる従来の殺風景なそれを凌駕 したものであった。これに加えて,同王室開発計画が従来のエステート開発に比し てひときわ輝きを放つのが,敷地内部に複数戸のみ建設されたヴィラの存在であ る。18世紀以降のカントリーハウス様式であり,本質的に田舎および郊外の住宅様 式であるが,そのヴィラが19世紀初頭のロンドンで同王室開発計画に新たに採用さ れたのである。ロンドン北部に位置するリージェンツ・パークは,当時,開発の北 限にあり,現在とは違って郊外の様相を依然としてたたえてはいたが,同パーク建 設自体が,リージェント・ストリート(Regent Street)建設と並んでジョージ王朝の 都市改造計画の要であったことを考えると,そこにヴィラ建設を行うことの背景 や,また,同パークのヴィラのジョージ王朝ヴィラ発展の系譜における位置等を郊 外住宅地発展の観点から考察することは意義深い。 同パーク内のヴィラを除くヴィラ一般についての先行研究は枚挙にいとまがない。 イギリスのヴィラの発展については,ジェームズ・アッカーマン(James Ackerman) による大著,The Villa: Form and Ideology of Country Houses がある3。同著は古代

ローマのヴィラから始まり,ヨーロッパへの普及,そしてイギリスにおけるカント リーハウスの建築様式としてのヴィラまでの道程を記述しており,ヴィラの全体像 を明らかにしている。18世紀のヴィラの発展は一般的に前述のパラディアニズムと 関連づけられるが,それは,ジョン・サマーソン(John Summerson)の研究による ところが大きい4。それに対して,近年の研究においては,ダナ・アーノルド(Dana

(4)

Arnold)編著によるThe Georgian Villaが,ジョージ王朝におけるより広範囲にわた るヴィラの発展を取り上げており,相互の影響関係に焦点があてられている5。同 著の幾編かの論考のうち,とりわけ重要なのが,アーノルド自身によるリージェン ツ・パークのヴィラに関する論文であるが,ヴィラ建築家の視点からそのヴィラの デザインに焦点を当てており,郊外住宅という視点は希薄である6。さらに,郊外 の発展というテーマを扱った最近の研究では,ヴィラを郊外住宅として捉え直す視 点を包含したものが多くみられるようになった。なかでも,ジョン・アーチャー (John Archer),ヘ ン リ ー・ロ ー レ ン ス(Henry W. Lawrence),ト マ ス・バ リ ー (Thomas Barrie)等のアメリカ人による研究では,イギリスの初期の郊外において, ヴィラが貴族のためのパラディアニズムのヴィラを超えて,中流階級のファミリー ホームとして定着するようになった過程について触れ,それが最終的にアメリカの 郊外住宅にまでつながることを論証している7。イギリス人エリザベス・マッケ ラー(Elizabeth McKellar)の研究は,類似の手法を取りながら,ロンドン郊外の発 展に焦点を絞っている8。郊外の発展を描いたこれら近年の研究においては,リー ジェンツ・パークのヴィラについても郊外住宅の発展過程の一例として言及されて はいるが,その扱いは限定的である。本稿では,アーチャーやマッケラー等の枠組 みを用いて,郊外住宅としてのヴィラの側面を追いながら,数が少ないとはいえ,同 パークのヴィラが,18世紀から19世紀初頭のジョージ王朝のヴィラ発展のコンテク ストにおいて,いかなる役割を果たしたかについて考察することとする。

1.貴族のrural retreatから中流階級のfamily houseまでのヴィラの変遷 ヴィラの起源をたどるならば,古代ローマの郊外に建てられた貴族のための壮大 な館(country estates)まで遡る。ヴィラは高貴な人々が都市での政務から離れ,熟 考と勉学を行うretreatの場であった。ルネサンス期になると,建築家たちが,かつ ての古典世界から着想を得て,田舎のヴィラを建築したが,それらは,休息および 気晴らしの場として捉えられた9。なかでも,前出のアンドレア・パラディオは, その建築様式においてのみならず,ヴィラという形式とその理念の流布という点に

(5)

おいてもその後の西洋建築に大きな影響を与えた。彼は大著『建築四書』(I quattro

libri dell architettura, 1570)の中で,都会の家と比べて,田舎のヴィラはより健康で

より幸福をもたらすものであると位置づけている10。彼の設計によるヴィラが今もイ タリアに多く残り,そのうちいくつかの図面が同書に掲載されているが,パラディ オが1567∼70年頃,ヴィチェンツァに建設したヴィラ・ロトンダ(Villa Rotonda) (図1)がとりわけ有名である。 1715年,パラディオの『建築四書』がイギリスで英訳出版されたことにより,イ ギリスにパラディアニズムが広がった。ジョージ王朝初期において,優勢であった ホイッグ派がパラディアニズムに傾倒し,彼らの壮大なカントリーハウス建設にそ の様式がふんだんに用いられた11。カントリーハウスの一形式としてヴィラという 概念がもたらされると,もともとその言葉に含有されていた農場や厩,離れ等全て 図 1  La Rotonda , c. 1567–70

[出典:Andrea Palladio, I quattro libri dell architettura(Venice, 1581)book II, 19. By kind permission of the Getty Research Institute, LA.]

(6)

を含むカントリーエステートという意味が薄れ,18 世紀初期には,住居だけのも の,しかも比較的小規模な「コンパクト」なものをヴィラとみなすようになった12 カントリーハウス自体が長らく貴族階級にとって富や権力の象徴であったが,「楽 しみの要素」を伴ったretreatのためにパラディアニズムのヴィラをロンドン郊外に 建設することが,ステータスの象徴として認識されるに至った13。かくて,小規模 で郊外の 2 番目の家としてのヴィラがロンドン郊外に多く誕生した。 このようなヴィラのうち最も初期のもので名高いのが,ロンドン西部チジックのテム ズ川沿いに建設されたチジック・ハウス(Chiswick House)(図2)であった14。建築や

芸術に秀でていた第 3 代バーリントン伯爵(Richard Boyle, 3rd Earl of Burlington, 1694–

1753)自身の設計によって,1726∼29年頃,建設されたパラディアニズムの影響を 色濃く受けたヴィラであり,同伯爵がヨークシャーに所有するカントリーハウスと ロンドンのタウンハウスであるバーリントンハウスとの中間的な位置にあたるロン ドン郊外の別宅であった。バーリントン伯爵は,グランドツアーでヨーロッパ大陸 に赴いた際,イタリアで古典建築を見聞し,パラディオをはじめとする建築関連の 書物や図面を収集した。それらの図面のうち,パラディオが建設した前述のヴィ ラ・ロトンダの図面が,チジック・ハウス設計の下敷きとなっていることはよく知 られている15 このヴィラが,パラディアニズムに則った建築物の建設を主な目的としているこ とは,パラディオの基礎である古典オーダー(order)に従って,シンメトリーのデ ザインとなっていることからも明らかである。一見するに,中央部分に 3 つの窓, その両端に 1 つの窓といった1–3–1という構成が認められ,コリント式ポルチコを 伴った神殿風の正面がパラディアニズムの特徴を顕著に示している16。内部には, 同伯爵が旅行中に集めた書物や美術品を所蔵する図書室(Library)やギャラリー (Gallery)が設置される等,親しい人々をもてなす社交空間構築の目的もあった17 それは,ヴィラ内部のレイアウトからも明らかである。平面図(図2)では,階段 を登って正面玄関から中に入ると,建物の 2 階部分に到達する。当時,主要階(the piano nobile)は 2 階に置かれていることが常であった。入り口からまっすぐの通路 が走り,建物の中央の八角形の大広間(Saloon)へと導かれる。ヴィラ全体で一番

(7)

豪華な造りとなっており,身近な人を招いた社交の場として,最も重要な部屋であ る。その奥は 3 室続きの部屋があり,ギャラリーとして,同伯爵の芸術品が所蔵さ れ,展示されている。1 階部分は,2階部分と同様のレイアウトを採り,中央のホー ル(hall)は居間やダイニングルームとして使用された。 1 階部分の 3 部屋続きの 部屋は図書室となっていて,同伯爵の蔵書が収納された18。当該ヴィラは,パラ 図 2 Chiswick House, c. 1726–29

[出典:William Kent, The Designs of Inigo Jones: Consisting of Plans and Elevations for Public and

Private Buildings, vol. 1(London: 1727) Plate 71. By kind permission of the Getty Research Institute,

(8)

ディアニズムから発展した要素も包含されており,それは,正方形,八角形,円形, そしてアプスと呼ばれる半円球の張り出しのある長方形の部屋等,様々な形の部屋 から成る構成に認められるが,いずれにせよ,それらが組み合わされた社交の目的 が強調された巡回風のレイアウトとなっている点が重要である19。当該ヴィラには キッチンや家事室等は設置されておらず,住居としての側面が除去され,同伯爵の 個人的興味が前面に押し出されたretreatとしての建築物であった。 チジック・ハウスは建設当初から名声を博し,ガイドブックや地誌,雑誌等で 様々な角度から描写されたことにより,広範囲に影響を与えた。さらに,suburban retreatという概念を世間に知らしめたヴィラでもあった。当該ヴィラが建設された のと同時期もしくは直後にいくつか同じようなヴィラが建設された。サマーソンは チジック・ハウスとともに,マーブル・ヒル・ハウス(Marble Hill House)および リッチモンド・パーク(Richmond Park)のホワイト・ロッジ(White Lodge)の 3 つのヴィラを「イギリスのヴィラの主な 3 つの典型」と称している20。いずれもパ ラディアニズムによる貴族や王室のヴィラであり,ロンドン西部のテムズ川添いに 位置する。このように,18 世紀を通じて,この地域にはヴィラが立ち並ぶように なった。アーチャーが述べるように,チジックからリッチモンド(Richmond)を経 てトゥイッケナム(Twickenham)に至るまでのテムズ川沿いは,上流中流階級に最 も好まれた地域であり,彼らがこぞってこの地にヴィラを構え,それがさらに多く の富裕層を惹きつけるという循環のもと,計画的にというよりは,「漸進的」波及と いった発展を示した。このようにして,18世紀半ばまでには,これらの地域は,ロ ンドン近郊の最も初期の郊外型としての地位を確立していた21 郊外住宅としてのヴィラの発展過程において重要なのが,貴族や上流階級を真似 て,産業で財を成した中流階級がこれらの地域に自分たちのrural retreatを建設する ようになったことである。その代表的なヴィラが,アーチャーおよびマッケラーが 特筆するように,1761 ∼ 64 年にリッチモンドに建設されたアスギル・ハウス (Asgill House)である22。ヴィラの所有者チャールズ・アスギル(Charles Asgill)は

シティで銀行業を営み,ロンドン市長を務めたこともある典型的な新興中流階級 の一員であった。彼はロンドンに自宅を所有していたが,彼のような功成り名遂げ

(9)

た人々に共通するように,郊外に週末や休暇用の retreat を計画した。建築家はロ バート・テイラー(Robert Taylor, 1714–1788)であり,バーリントン伯爵らイギリス におけるパラディアニズム第一世代に続く,第二世代の一人として有名である。 石造りの 3 階建の外観を持つそのヴィラは,古典主義に則ったパラディアニズム の神殿形式が基本となっている。列柱に支えられたポルチコはないものの,正面もテ ムズ川に面した裏面も中心部分は,三角形の切妻屋根のペディメント(pediment)を 採用している23。しかし,古典主義とは大きく異なり,このヴィラを特徴づけるも

のは傾斜窓(canted bay)と呼ばれる張り出し窓(bay window)である。張り出し窓 は外の光と景色を室内により取り入れる目的で,18世紀から19世紀にかけて流行 した様式である。その起源については様々な説があるものの,それを完成美までに 高めたのはテイラーであるという点については一致している24。彼は半八角形 (semi-octagonal)の傾斜窓の第一人者であり,次世代のヴィラ建築家たちに人気が あった半円形(semi-circular)の張り出し窓への発展を準備したと言える。 テイラーによる傾斜窓は外観だけでなく,その内部の空間構成にも影響を及ぼす ものであった(図3)。それは,テムズ川に面したその内部に八角形の部屋を作るこ とを可能にし,それが大広間として,この館で最も重要な部屋となった。チジッ ク・ハウスと比べて,ヴィラ全体が非常にコンパクトであるだけでなく,巡回風の レイアウトも,玄関ホールから時計回りにダイニングルームを通って,大広間,図 書室へと一巡するだけの小規模なものとなっている25。にもかかわらず,傾斜窓の 存在により外見も内部でも多様性を生み出すことに成功している。 さらに,当該ヴィラでの目新しい要素として,主要階の変化を挙げることができ る。チジック・ハウスに見られたように 18世紀前半では主要階が 2 階にあったの に対し,当該ヴィラでは,巡回式社交空間のある主要階は 1 階にまとめて置かれ, ベッドルームや女性用私室(boudoir)は 2 階,3階にレイアウトされ,キッチンや 家事室等のサービス部分は地下室に設置されている。これは現代の家のレイアウト とその役割により近いものであり,当該ヴィラでは機能性が重視されているのであ る。 アスギル・ハウスにおいて,チジック・ハウス等の貴族の趣味としてのヴィラか

(10)

ら中流階級家庭の住居としてのそれへの変換を認めることが可能であり,そこに, 19世紀以降,現在まで続く典型的中流階級の住居形態の発展過程を見てとることが できる。マッケラーは,テイラーは「初期の貴族のためのパラディアニズムのヴィ ラの厳格なレイアウトを富裕階級のための快適な近代的な suburban homes へと変 え,それは,首都の中流階級の通勤圏地帯にコピーされた」と結論づけている26。ア スギル・ハウスを真似たヴィラが,当時,いくつも建設されており,新興中流階級 が郊外にヴィラを建てる際にそのモデルを担ったのである。 図 3 Asgill House, c. 1761–64

[ 出 典:John Woolfe & James Gandon, Vitruvius Britannicus, or the British Architect; Containing the

Plans, Elevations and Sections of the Regular Buildings Both Public and Private in Great Britain, vol. 4

(11)

2.リージェンツ・パークの 3 つのヴィラ チジック・ハウスからアスギル・ハウスへの転換に顕著に認めることができるコ ンパクトな郊外住宅様式の中流階級化および近代化は,19世紀に入るとより「都会」 のコンテクストで見られるようになった。それらの最も初期のものが,セント・ ジョンズ・ウッド(St. John s Wood)の郊外住宅開発とリージェンツ・パーク計画で ある。両者はロンドン北部で隣同士のエステートであり,これらの地域は当時,開 発途上にあった。前者はエア(Eyre)家のエステートで,1804年にヴィラ建設が始 まっており,1810∼20年代に計画された後者よりも若干早くに着手されているこ とから,「最初の投機的郊外開発計画の公式的なデザイン」と評されている27。しか し,これはセミデタッチド・ヴィラなので,本論で問題とするヴィラの系譜を「都 会」に近い郊外住宅,すなわち,一戸建てのヴィラに絞るならば,論ずるべきは, リージェンツ・パークのヴィラ群ということになろう。王室開発計画が前節で見た チジックやリッチモンド等のヴィラと大きく違うことは,後者が断片的に郊外化し ていったのに対して,前者は都心にかなり近いところにおいて計画された郊外住宅 建設であった点である。 当該パークのヴィラ建設の起源は,財務省傘下で当該開発計画を主導した森林局 (Office of Woods, Forests and Land Revenues)の設計方針にまで遡る28。当時,未開発

であったその地において,敷地の北部は,開発の進行が最も遅く到達する部分とみ なされていた。したがって,森林局は,敷地の北側には,テラスハウスではなく, ヴィラを設置することによって,田舎の雰囲気を残すことを提唱したのである。こ の設計方針を受け,森林局に所属する著名な建築家ジョン・ナッシュ(John Nash, 1752–1835)が設計を行った際,彼はその提案を拡大解釈し,同パーク内にヴィラを 点在させる設計図を作成した。その設置場所は森林局の最初の設計方針とは異なる ものの,彼は,ヴィラを「田園的でピクチャレスクな風景」(the rural and picturesque scenery)創造の 1 つの大きな柱としていたのである29

それが計画された郊外住宅地であったゆえに,同パークにおけるヴィラ建設は, 決められた手順で行われた。個々のヴィラの場所は,ナッシュの設計図上に細かく

(12)

記されており,当初,その数は50戸ほどあったが,その後,設計図が描き直される たびに減少し,最終的には 8 戸ほどになった(図4)。その設計図上において,建築 を請け負う建設業者が場所を選定し,森林局にリース取得の申請を行い,ナッシュ がその申請を精査した。その際,建設業者から提出されたプランや立面図等につい ても細かい注文をつけるのが常であった。とりわけ,ヴィラの価格は,その価値を 左右するので,同パークのヴィラのほとんどが£5,000以上と設定された。最終的に ナッシュによってそれらが承認され,報告書が出されると,それを受けて森林局は 財務省にリースの裁可を求めた。リース期間は99年間であり,建設期間をカバーす るため最初の 3 年間は安い賃貸料(peppercorn rent)が課された。統一性を図る目 的で,ヴィラの建築価格や建築素材,植樹の仕方,柵の設置,火災保険への加入, 付近の道路建設や下水整備設置等についても細かく定められた30。これらは,伝統 的エステート開発において建設業者に課された規定と同一であり,同時期に実施さ れた同パーク周囲のテラスハウスやリージェント・ストリート建設でも同様の方法 図 4 Regent s Park の完成図,1826

[出典:The Fifth Report of the Commissioners of His Majesty s Woods, Forests, and Land Revenues (1826),The National Archives, Cres 60/3. By kind permission of the National Archives, UK.]

(13)

が取られた。伝統的な郊外ヴィラ建設では,計画された郊外建設ではなかったため, このような条件がつけられることはなかったが,王室開発計画では,ヴィラ建設に 対してもテラスハウス建設向けの伝統的エステート開発のやり方が踏襲されたとい う点でも特異な例であった。しかし,このような厳しい条件ゆえに,統一感のある 計画されたヴィラ群の建設が可能となり,富裕層を惹きつける理想的な空間を作る ことにつながったと言える。 これらの条件を満たすものであれば,建築に関わるおおよそのことは建設業者に 任せられた。彼らは,そのヴィラのリース権購入者の意向に沿って,場所の選定か ら,ヴィラの外観の決定,内装までを行った。 8 つのヴィラが最終的に置かれた場 所から見るに,最高のロケーションが選ばれているのである。とりわけ,同パーク 内の円形道路インナーサークル(inner circle)沿いに置かれた 3 つのヴィラ,すな わちサウス・ヴィラ(South Villa),ホルム(The Holme),セント・ジョンズ・ロッ ジ(St John s Lodge)の 3 つは湖が目と鼻の先にあり,美しい風景を独り占めし得 る好立地にあった。また,同パーク外周沿いのアウターサークル(outer circle)沿い にレイアウトされたノース・ヴィラ(North Villa)やハノーヴァー・ロッジ(Hanover Lodge),ハートフォード・ヴィラ(Hertford Villa),ホルフォード・ハウス(Holford House)等も湖を見下ろすことができた。グローヴ・ハウス(Grove House)は同パー クの中心から最も離れた敷地最北の運河沿いにレイアウトされたが,かなり高台に あるため,運河を越えてパークを一望に収めることが可能であった。 建設されたヴィラのうち,2 つを除いた全てが当時有名な建設業者,ジェーム ズ・バートン(James Burton, 1761–1837)とその息子で建築家,デシマス(Decimus Burton, 1800–1881)によって設計および建築がなされたという点は興味深い。彼ら は同パーク外周のテラスハウスの建設およびリージェント・ストリート沿いの建設 でも多くの区画を手掛けた。ナポレオン戦争前後の不況下,投機的開発に乗り出す ことができた建設業者は限られており,バートン父子が特異な存在であったことを 窺わせる。このうち,取り壊されたり,完全に再建されたものを除き,現存する 3 つのヴィラ,ホルム,ハノーヴァー・ロッジ,グローヴ・ハウスについて,以下見 ていくことにする31。いずれもバートン父子によるものであり,前述のように,全

(14)

体としての統一感はあるものの,ヴィラの外観や内装,機能はそれぞれ少しずつ異 なる。 2.1.ホルム ホルム(図5)は1817年,バートン父子が自分たちの家としてデザインしたもの で,正面中央にはイオニア式の 4 本の柱とペディメントが付随したポルチコがあ り,1–3–1の区割りを採用し32,チジック・ハウス的な外観を呈している。反対の庭 園側には,ドームの乗った半円柱形の張り出し窓がある。アスギル・ハウスでは, 視覚の豊かさを取り込むことを目的とした傾斜窓によりテムズ川の光景が屋内にも 図 5 The Holme, c. 1817

[出典:John Britton and Augustus Pugin, Illustrations of the Public Buildings of London: With Historical

and Descriptive Accounts of Each Edifice, vol. 1(1825)88–89. By kind permission of the Getty

(15)

たらされたように,当該ヴィラの半円柱形の張り出し窓は目前に広がる湖の景色を 取り込むための工夫であった。インテリアにもアスギル・ハウスのレイアウトを彷 彿させるものが見受けられる。主要階である 1 階は、玄関ホール,その奥の庭園お よび湖に面した張り出し窓をもつ豪華な客間,その両隣の図書室およびビリヤード ルーム(billiard room),さらに,玄関ホールの両隣に位置するダイニングルーム (eating room)と書斎(study)から構成され,日常生活および巡回式社交に適した空 間となっている。 2 階は寝室で,主寝室は客間の上にあり,張り出し窓から湖をゆ うに見晴らせる。キッチンや家事場が地下にある点も,アスギル・ハウスのレイア ウトと同じである。 2.2.ハノーヴァー・ロッジ 1821年に建設されたハノーヴァー・ロッジは,外観は長方形のボックス型の建物 であり,グリニッジのクイーンズ・ハウス(Queen s House)のようにシンプルではあ るが,立派なポルチコと1–3–1の割合をもった古典主義的建築物である33。正面を入 ると,玄関ホールへと連なり,それに隣接する形で一方にはダイニングルームが,反 対側には 3 部屋続きの客間があり,戸を開け放すと,約60フィート(約18メートル) 図 6 Hanover Lodge, c. 1821

(16)

にも及ぶ大空間となる。 2 階は 9 つの寝室,浴室,化粧室等からなっている。キッ チンや家事室等は地下室に置かれている34。当該ヴィラについては,これまで,ナ

ポレオン戦争で活躍したロバート・アーバスノット(Robert Arbuthnot)中将のために デシマス・バートンによって建設され,1827年頃に居住に付されたとされてきた35

しかし,イギリス国立公文書館(The National Archives)所蔵の当該ヴィラの立面図 (図 6)に は,Elevations for Buildings—proposed to be erected by Mr Burton at the north

western angle という但書が添付してあり,1821年 3 月16日にナッシュから森林局 に送られたという日付があることから,当該ヴィラはその頃にデシマスによって設 計され,その立面図がナッシュに対して提出されたことが判る36。また,当初の

リースにはバートン父子の名前しか挙がっていなかったが,その後,1825年にハリ エット・スミス(Miss Harriet Smith)という人物にリース権を売却していることか ら37,最初からバートン父子は,自分たちのためではなく投資のために建設を手掛 けたと推測できる。1826 年,スミスがアーバスノット中将と結婚したことによっ て、同ヴィラは中将の住居となったのである。 2.3.グローヴ・ハウス ハノーヴァー・ロッジと同時期に建設が始まったグローヴ・ハウスは,最も壮麗 なヴィラである(図7)。自然科学者ジョージ・グリノー(George B. Greenough)の ためにバートン父子によって建設された。西側の正面玄関は,中央部分と両側の ウィングから成っているが,ペディメントはなく,豪華さにおいては,南側の庭園 側の方が優っている。その庭園側には,イオニア式の 4 本の柱で支えられたペディ メント付きのポルチコがあり,最も立派な外面となっている。運河に面した東側は, ドリス式円柱からなる半円のポルチコが付随している38 内部レイアウトもホルムよりも広く,豪華である。庭園に面した南側の最良の空 間が 2 部屋続きの図書室となっており,自然科学者であるグリノーにとって都合の よいレイアウトと言える。中央に位置する大広間から運河に面した東側の 3 部屋, すなわち 2 つの客間とビリヤードルームまでは,社交のための用途を示している。 東側中央の客間が半円柱形になっている点は,アスギル・ハウスからの伝統であ

(17)

り,ホルムにも見られた工夫であった。しかし,一方で,このヴィラは学問と社交 のためという目的が明らかで,1階部分の内部レイアウトやその機能において,チ ジック・ハウスを連想させるものである。また 2 階は総二階ではなく,1階四隅の 部屋の上には 2 階部分がないので,2 階はいわば十字架状にレイアウトされてお り,全てテラスつきの寝室となっている。キッチンや家事室はここでも地下にある。 3.郊外住宅地開発計画の先駆としてのリージェンツ・パークにおけるヴィラ 3つのヴィラのうち,ホルムとハノーヴァー・ロッジは家族の住まいとしての役 図 7 Grove House, c. 1822–24

[出典:John Britton and Augustus Pugin, Illustrations of the Public Buildings of London: With Historical

and Descriptive Accounts of Each Edifice, vol. 2(1828) 4–5. By kind permission of the Getty Research

(18)

割が強調されており,グローヴ・ハウスは独身者グリノーの趣味のための空間に主 眼が置かれていた。これは,アスギル・ハウスやチジック・ハウスのそれぞれの伝 統にあることを示すものであり,その機能が受け継がれていると言える。また,3つ のヴィラは,形状やレイアウトが少しずつ異なるものの,2つの先祖を彷彿させる ものである。アーノルドは,設計者デシマスが,当時の有名な建築家ロバート・ア ダム(Robert Adam, 1728–1792)やジョン・ソーン(John Soane, 1753–1837)らの建 築物に見受けられるような「パラディアニズムの新古典主義的変容」に拠っている とする39。確かに,デシマスはロイヤル・アカデミー・スクール(Royal Academy schools)でソーンから直接教えを受けているし,そのソーンはアダムを称賛してい た。一方で,アリスター・ローワン(Alistair Rowan)は,「アダムに,いかにカン トリーサイドに小さな家を作り出せるか,また,いかに内部配置に多様性を達成で きるかについて決定的な例を提供したのが,ロバート・テイラーだった」と指摘し ている40。このことからも,アダムやソーンを経由することによって,リージェン ツ・パークのヴィラにアスギル・ハウスを設計したテイラーの流れを見出すことは 可能であろう。 ヴィラは,最初から森林局およびナッシュが意図した風景の重要な一部としての 役割を果たすものとして考えられたが,そのことは設計および建設段階において, 彼らとバートン父子が交わしたやりとりにおいても顕著である。ホルムに関して は,ナッシュは,「バートンが…契約に従って,予定された場所にヴィラと家事室を 立派で熟練者のような方法で建設した」と述べ41,リース申請を許可している。ハ ノーヴァー・ロッジとグローヴ・ハウスについても,中心部から遠く離れているこ とを理由に,バートン父子が地代の値引きを求めた際,彼が建設するヴィラの価値 を認め,それに応じている。前者ハノーヴァー・ロッジについては,ナッシュが値 引きを承認したことを受けて,森林局も「リスペクタビリティと財産を持つ人々をそ こでの占有者になるよう誘発するような高級な家々を建てることをバートンが提案 した状況を考慮して」,値引きを認め,リースの裁可を財務省に要請している42。ヴィ ラ建築の完成度が,そこに人々を誘致する上で重要であり,それが,近隣のテラス ハウス建設地の建設リース権の売却を促進するという構図が制度化されたかのよう

(19)

に見受けられる。後者のグローヴ・ハウスについても,ナッシュは,バートン父子 が「リスペクタブルなヴィラ」43かつ「見事なヴィラ」44を建てる予定であることを 考慮して,値引きを妥当とし,さらに,この土地は「(パーク中心から)遠く離れて いるが,パークの眺望を見渡すことができる最も美しいスポットの 1 つ」であり, このヴィラは,「パークから見ていつも目を惹く対象とならなければならない」と力 説している。また,「バートンがパークに向けて立派な正面を作るなら,それはずっ と保存される事物となるだろう」とも述べており45,ヴィラの完成度が同パークの 景観を左右するものであることを示唆している。ナッシュはバートン父子との間で リージェンツ・パーク計画およびストリート計画を通して,何度も衝突したにもか かわらず,彼らの建設業者兼建築家としての資質を評価していたのである。設計図 作成段階でヴィラにもたせた意図および期待は,実際の建築段階でも最重要課題と された。 これらのヴィラがその後のテラスハウス建設において,誘致という点でいかに役 立ったかについては,さらに考察を加える必要があるが,1820年代半ばからテラス ハウス建設が急ピッチで進められたところを見ると,一定の効果があったと言え る。少なくとも,一見に値する建築様式を持ち,家庭生活および趣味の空間を持っ たretreatの殿堂であるヴィラは,上層中流階級を惹きつけるに十分な建築物であっ た。ヴィラの中には,ハートフォード・ヴィラのように,ハートフォード伯爵が居 住した例もあったが,マッケラーが指摘するように,その住民の典型はバートン父 子に代表される裕福な新興中流階級であった46。そのことは上述の 3 つのヴィラか らも推測できる。さらに,マッケラーは,そのような富豪を住人とするヴィラが王 室開発計画の住宅のトップの座にあったと結論づけている47。これらのヴィラの居 住形態で共通するのは,居住者が次々と移り変わったことである。これは,アーノ ルドが述べるように,当該ヴィラが99年間の賃貸住宅,すなわちリースホールドで あったことと関係する。住人の入れ替わりの激しさと投資的物件という側面は,王 室開発計画がテラスハウスに見られる伝統的エステート開発の範疇にあることを示 すものであり,この点は伝統的なヴィラ建設とは一線を画する要素ではあった48 しかし,チジック・ハウスやアスギル・ハウスのラインにあるrural retreatという

(20)

価値観は,リージェンツ・パークのヴィラ建設に受け継がれた重要な側面であり, これは,当時の雑誌やガイドブック等の多くの出版物からも感得できる。例えば, ホルムについて,「全体の様式はヴィラのようでエレガントであり,趣向よく配置さ れた敷地と湖により,それは美しいsuburban retreatを形成している」と描写されて いる49。グローヴ・ハウスについても,「ヴィラ様式建築のすばらしい見本である」 と評され,「rural retreatの新鮮さと静寂さ」を保有していると絶賛されている50。こ れらの文言や挿絵から,郊外住宅および美景という価値観を包含するヴィラと緑地の 存在が,都会に理想郷を出現させたと読み取ることは容易である。 文学作品においても,同パークのヴィラが舞台として登場している。1831年に出 版されたベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli)の『若き公爵』(The Young

Duke)において,同パークは「美しい郊外(this pretty suburb)」と表現され,主人

公の公爵が同パークを訪れた際,ここにヴィラを建設することを思いつき, 「 9 エーカーの敷地を森林局から得て」,ヴィラ建設に着手したというエピソードが 挿入されている51。小説出版時には同パークだけでなく,ヴィラやテラスハウス建 設も一応の完成を見たころであったが,その頃にはすでにヴィラのある同パークが 理想の郊外として文学作品の中で捉えられていたと考えられる。 ヴィラは,郊外の美しい景色およびそこでの田園的生活という古代ローマのカン トリーヴィラにまで遡る価値観を体現するものであり,19世紀初期の知識人たちは それを当然のことながら理解していた。彼らにとって,ヴィラにはrural retreatとい う理想的な空間という意味合いが込められるものであった。同パークのヴィラは, この開発計画が高級でリスペクタブルな空間を生み出すことを人々に知らしめ,納 得させる装置であった。都会の外れの何もなかった土地を高級住宅地として開発す る際,その新しい土地がいずれ風格のある空間に発展すると定義付けできれば,地 価の上昇につながる。地価が上がれば,富裕層を惹きつけられ,それにより,より 高い地代を得ることができる。このような好循環を考えるとき,ヴィラが果たした 役割は少なくなかったはずである。緑地の存在により周辺の地価が上昇することは ハイド・パークやセント・ジェームズ・パーク等の例からすでによく知られてい た。その意味では,当該パーク計画でも,広大なパークランドである緑の空間だけ

(21)

で,すでに理想郷を造ることができたにもかかわらず,ヴィラを建設したのは,そ れが体現するsuburban retreatという考え方が,古典主義からチジック・ハウスやア スギル・ハウス等を経由して,同パークのヴィラ群にまでもたらされたからと言え るのではないか。田園的雰囲気を持つ同パーク内部と周囲の都会的なテラスハウス との融合が当該パーク計画の真髄とされるが,それが可能となったのはヴィラの存 在ゆえと言っても過言ではないのである。 おわりに リージェンツ・パークは,1841年に一般公開された後,19世紀の半ば以降,イギ リス各都市に設置された諸公園の手本となった。その際,同パークで採用された住 宅計画と公園計画を組み合わせて実施する経営方針も至るところで模倣された。リ バプールのプリンシズ・パーク(Prince s Park)やバーケンヘッド・パーク(Birken-head Park)に見られるように,テラスハウスとヴィラの両者が,公園敷地内部に建 設されることはなかったものの,その周囲にレイアウトされることが多く見られ た。リージェンツ・パークのヴィラ建設に焦点を当てるならば,そこでの郊外住宅 としての様式は,1820年代後半以降のイギリスの各都市における中流階級向け郊外 開発計画の手本となったのである52。18世紀のイギリスにおいてrural retreatとして 出発したヴィラは,19世紀初頭の当該パーク計画のヴィラ群建設を通じて,より広 範囲に広がっていったと結論づけることができよう。

1 Marvin Trachtenberg and Isabelle Hyman, Architecture: From Prehistory to Post-Modernism (New York: H. N. Abrams, 1986)321.

2 芝奈穂「19世紀初頭における王室リージェンツ・パーク・エステート計画に関する考察」 『愛知学院大学文学部紀要』44(2014):71–82; 鈴木博之『ロンドンー地主と都市デザイ

ン』(東京:筑摩書房,1996)60–63, 130–36.

(22)

1990).

4 John Summerson, The Unromantic Castle and Other Essays (London: Thames and Hudson, 1990).

5 Dana Arnold, ed., The Georgian Villa(Stroud: The History Press, 2011).

6 Arnold, A Family Affair: Decimus Burton s Designs for the Regent s Park Villas, in The

Geor-gian Villa,105–17.

7 John Archer, Architecture and Suburbia: From English Villa to American Dream House, 1690–

2000 (Minneapolis and London: Minnesota UP, 2005); Henry W. Lawrence, City Trees: A Historical Geography from the Renaissance through the Nineteenth Century (Charlottesville and

London: Virginia UP, 2006); Thomas Barrie, House and Home: Cultural Contexts, Ontological

Roles(London and New York: Routledge, 2017).イギリスにおける郊外住宅地の誕生からア

メリカでの発展までを探究した名著としてRobert Fishman, Bourgeois Utopias: The Rise and

Fall of Suburbia(New York: Basic Books Inc., 1987)があるが,彼の焦点は貴族の別邸とし

てのヴィラの起源についてではなく,ブルジョワ階級の郊外住宅の発展にある。 8 Elizabeth McKellar, Landscapes of London: The City, the Country and the Suburbs, 1660–1840

(New Haven and London: Yale UP, 2013). 9 Barrie, House and Home, 128–29.

10 Archer, Architecture and Suburbia, 46.

11 James Stevens Curl, Georgian Architecture in the British Isles, 1714–1830, 2nd edition(Swindon: English Heritage, 2011)12.

12 Archer, Architecture and Suburbia, 46, 68.

13 Barrie, House and Home, 131; Ackerman, The Villa, 9. 14 Summerson, The Unromantic Castle, 109.

15 Barrie, House and Home, 129–31; Dean Hawkes, Architecture and Climate: An Environmental

History of British Architecture 1600–2000(London and New York: Routledge, 2012)112–13.

16 Caroline Knight, London s Country Houses(Andover: Phillimore, 2009)110. 17 Archer, Architecture and Suburbia, 58–59; Barrie, House and Home, 131.

18 ヴィラ内部のレイアウトについては,Roger White, Chiswick House and Gardens(Swindon: English Heritage, 2001)3–18, 45を参照。

19 George L. Hersey and Richard Freedman, Possible Palladian Villas (Cambridge, Mass.: MIT Press, 1992)158; 片木篤『イギリスのカントリーハウス』(東京:丸善,1988)76. 20 Summerson, The Unromantic Castle, 108.

(23)

22 Archer, Architecture and Suburbia, 62–64; McKellar, Landscapes of London, 174–75. 23 Knight, London s Country Houses, 236.

24 Marcus Binney, Sir Robert Taylor: From Rococo to Neo-Classicism (London: George Allen & Unwin, 1984) 17–18; Pierre de la Ruffiniere du Prey, John Soane: The Making of an Architect (Chicago and London: Chicago UP, 1982)272–75; David Watkin, The English Vision: The

Pictur-esque in Architecture, Landscape and Garden Design (London: John Murray Publishers, 1982)

98–99.

25 Binney, Sir Robert Taylor, 49–50; Knight, London s Country Houses, 237. 26 McKellar, Landscapes of London, 174.

27 Archer, Architecture and Suburbia, 91; セ ン ト・ジ ョ ン ズ・ウ ッ ド の 計 画 に つ い て は, Mireille Galinou, Cottages and Villas: The Birth of the Garden Suburb (New Haven and London: Yale UP, 2010)を参照。

28 The National Archives, Office of Land Revenue, 8th October 1810, Cres 24/6; Office of Woods, 6th October 1810, Cres 2/1736.

29 The First Report of the Commissioners of His Majesty s Woods, Forests, and Land Revenues (1812)Appendix 12(G),113. 当該パークにおけるピクチャレスクな風景については芝奈 穂「リージェンツ・パークの設計者ジョン・ナッシュによる「田園的ピクチャレスク風 景」の創造」『人間文化』(愛知学院大学人間文化研究所紀要)35(2020):1–19を参照。 30 たとえば,後述する同パークのヴィラの 1 つ,The Holmeについてのリースに非常に詳細

な規定が述べられている。The National Archives, Office of Woods, 9 June 1819, Cres 6/122. 31 現在,Crown Estate所有によるこれらのヴィラは150年間という長期のリースで賃貸に出

され,個人宅となっている。The Holmeはサウジアラビアの王室に,Hanover Lodgeはロシ ア人大富豪に,Grove Houseは現在,Nuffield Lodgeと呼ばれ,オマーンのスルタンにリー スされている。The Financial Times, 23 August, 2019参照。当時は中流階級の富裕層を対象 としていたが,現在はそれをはるかに超え,外国の王室を中心とする最高ランクの住居と なっている。

32 Anon., A Picturesque Guide to the Regent s Park: With Accurate Descriptions of the Colosseum,

the Diorama, and the Zoological Gardens(London: John Limbird, 1829)29.

33 20世紀初頭のエドウィン・ラッチェンス(Edwin Lutyens, 1869–1944)による改修および 21世紀初頭の大改修により,現在は当時の姿と大きく懸け離れたヴィラとなっている。後 者については,David Watkin, The Practice of Classical Architecture: The Architecture of

Quin-lan and Francis Terry, 2005–2015(New York: Rizzoli, 2015)110–35を参照。

(24)

and Co.,1827)50–51.

35 たとえば,Arnold, A Family Affair, 110を参照。

36 当該ヴィラの立面図(図6)については,The National Archives, MPI 1/581を参照。 37 The National Archives, MPZ 1/14の当該ヴィラの項目を参照。Harriet SmithについてはMrs.

P. Arbuthnot, Memories of the Arbuthnots of Kincardineshire and Aberdeenshire(London: George Allen & Unwin, 1920)238–39を参照。

38 A Picturesque Guide to the Regent s Park, 14. 39 Arnold, A Family Affair, 112.

40 Alistair Rowan, Villa Variants, in The Georgian Villa, 85–87.

41 The National Archives, Office of Woods to Treasury, 17 November 1818, Cres 35/3389. 42 The National Archives, Office of Woods to Treasury, 11 April 1822, Cres 6/137. 43 The National Archives, Nash to Milne, 7 November 1821, Cres 2/769. 44 The National Archives, Nash to Milne, 17 January 1822, Cres 2/769. 45 Ibid.

46 McKellar, Landscapes of London, 222. 47 Ibid.

48 Arnold, A Family Affair, 110.

49 A Picturesque Guide to the Regent s Park, 29. 50 Ibid., 14–15.

51 Benjamin Disraeli, The Young Duke(London: Henry Colburn and Richard Bentley, 1831)Book 1 Chapter IX, 68–71. この小説におけるヴィラについてのピクチャレスクな観点からの分析 についてはJ. Mordaunt Crook, John Nash and the Genesis of Regent s Park, in Geoffrey Tyack, ed., John Nash: Architect of the Picturesque(Swindon: English Heritage, 2013)87–88も参照。 52 1820年代後半以降のイギリスにおける郊外住宅開発計画については,Archer, Architecture

参照

関連したドキュメント

(Construction of the strand of in- variants through enlargements (modifications ) of an idealistic filtration, and without using restriction to a hypersurface of maximal contact.) At

It is suggested by our method that most of the quadratic algebras for all St¨ ackel equivalence classes of 3D second order quantum superintegrable systems on conformally flat

This paper develops a recursion formula for the conditional moments of the area under the absolute value of Brownian bridge given the local time at 0.. The method of power series

Answering a question of de la Harpe and Bridson in the Kourovka Notebook, we build the explicit embeddings of the additive group of rational numbers Q in a finitely generated group

Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A

In our previous paper [Ban1], we explicitly calculated the p-adic polylogarithm sheaf on the projective line minus three points, and calculated its specializa- tions to the d-th

Our method of proof can also be used to recover the rational homotopy of L K(2) S 0 as well as the chromatic splitting conjecture at primes p > 3 [16]; we only need to use the

In this paper we focus on the relation existing between a (singular) projective hypersurface and the 0-th local cohomology of its jacobian ring.. Most of the results we will present