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故 丸山克俊 先生を偲ぶ

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Academic year: 2021

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故 丸山克俊 先生を偲ぶ

 略歴 1969年3月 長野県立飯田高等学校 卒業     1973年3月 日本体育大学体育学部体育学科 卒業     1975年3月 日本大学大学院文学研究科教育学専攻(体育学コース)修士課程 修了 文学修士     1977年4月 東京理科大学理工学部教養助手 就任     1978年3月 日本大学大学院文学研究科教育学専攻博士課程 満期退学     1984年4月 東京理科大学理工学部教養講師 就任     1988年4月 東京理科大学理工学部教養助教授 就任     1992年4月 日本幼少児健康教育学会事務局長 就任     1994年4月 東京理科大学保健体育科学センター助教授 就任     2001年4月 東京理科大学理工学部教養助教授 就任     2003年4月 東京理科大学理工学部教養教授 就任     2005年4月 日本幼少児健康教育学会理事長 就任     2011年4月 日本幼少児健康教育学会副会長 就任     2013年4月 日本幼少児健康教育学会会長 就任     2019年4月 日本幼少児健康教育学会特別顧問 就任

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「丸山克俊先生を偲ぶ会」での弔辞

河本 洋子(日本幼少児健康育学会会長,青山学院大学名誉教授)  丸山克俊先生の訃報は,2020(令和2)年1月20日(月)の夕刻,東京理科大の柳田信也先生から梅澤雅和先生 を通じての連絡で知った.1月14日にご逝去され,ご親族で葬儀は終えられているが,ご家族は心労が重なって いるので,そっとしておいてほしいというものであった.そうとは知らず,韓国から盟友の徐相玉先生が,日本 ティーボール協会のシンポジストとして来日し,先生に会えると期待しておられたので,それを伝えるのは辛かっ た.  その後,学会のメンバーにも知らされ,追悼企画を検討したが,ご家族の負担も考え,関係団体合同で3月14 日(土)に「偲ぶ会」が執り行われることになった.嶋 理事長のご尽力で,私たちの学会からは5名の参加者 が認められ,弔辞を読む機会を与えられた.以下はその草稿に加筆したものである.当日はコロナの関係で約50 人のキャンセルがあり,約100名が参加した.学会からは,藤原・桐原・嶋 ・三文字・河本が参加した.  弔辞:日本幼少児健康教育学会は,1982年に初代会長の故濱田靖一先生,故多和はる先生らを中心に創設され, 2年後には40周年を迎えようとしております.丸山克俊先生は,草創期から学会の組織運営に惜しみないエネル ギーを注がれ,事務局を17年,副理事長・理事長・副会長・会長を計20年と,長年にわたり学会を牽引して来ら れました.また,東京理科大学に在職中には7度の学会大会を開催されるなど,絶大な貢献をされました.こう した組織運営のみならず,先生は理論と実践の双方から研究活動も精力的に展開されました.ホイジンガの『遊 戯論』,恩師土屋忠雄氏の教育史研究などを取り上げ,子どもにとっての遊びの意義,教育の意味について哲学 的に探究されていました.理論的研究で得た知見を踏まえつつ,一方で子どもたちに体当たりで運動遊びの指導 も展開されていました.まさに,理論と実践を統合する実践的研究者でした.  私たちの学会は,研究成果を保育教育現場に還元する一環として現場でセミナーを開催しているのですが,そ うした姿をありありと拝見したのが,2017年1月27日(金),南信州豊丘村での「幼少児健康教育セミナー」です. 豊丘村は丸山先生の出身地であり,ふるさと大使も務めておられました.その故郷で村とタイアップして「幼少 児健康教育セミナー」が開催されました.  午前中の第1部は,丸山先生の公開保育「体育あそび教室」でした.村の保育園児・保育者が大勢集まり,2回 に分けて,まず身体を色々動かし,お話タイムの後は,素話に基づいて鬼ごっこが展開されました.丸山先生が マットをかついで オオカミ や やまんば に扮して走り回り,園児たちが追いかけ,最後は力いっぱいやっつ けていいからと,マットの中で子どもたちの攻撃を受け止めていらっしゃった姿が昨日のことようです.丸山先 生との遊びを通して,子どもたちは目を輝かせ,自信を深め,仲間関係を深めていきました.  夕方からの第2部は,『幼少児のための健康教育シンポジウム―自律的(自立的)な子どもを育てるために―』で, 藤原寛副会長が基調講演の講師,奥富庸一・河本洋子がシンポジスト,桐原由美・藤原寛がコメンテーターを務 め,会場には村長をはじめ役場の職員・保育者・保護者の方々が大勢集まってくださいました.丸山先生は,学 会における知見を広く社会に還元することの重要性を常々おっしゃってましたが,コーディネイトされる姿は, まさにそれを体現する姿でした.  先生は,「学会は会費を払って,身分や年齢に関係なく対等な立場で真 な議論を戦わせる場である」といつ

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 そんな丸山先生の体調が芳しくないと伺ったのは,昨年の夏頃でした.2019年9月に開催された本学会【秋季: 広島大会】の懇親会の席上,丸山先生は「5年前にがんで胃を全摘しましたが,膵臓に転移しました.様々考え, 抗がん剤治療をやめることにしました.今後は成田先生より温 治療を受け,病と闘います!」と宣言され,本 学会員で,がんを克服された成田先生が開発された「温 療法」にかける意気込みをみせられました.  10月29日(火),嶋 理事長と 城の成田邸で温 治療中の丸山先生の応援に伺いました.そこでは東京理科 大のソフトボール部の学生さんとご子息の俊太郎さんがシフトを組んでサポートをしておられ,その日は学生さ んが心を込めてお世話にあたってらっしゃいました.午前と午後の温 治療の間に,丸山先生を囲んで,成田先 生の奥様の特製のお弁当をみんなでいただきました.丸山先生は,「もっと肉が食べたい!」「まだまだやりたい ことがある!」と意欲をみせてらっしゃいました.私たちは『絶対 復してくださいね!』と願いながら,温 治療で使うこぶし大のもぐさを丸めました.別れ際「仕事のことは忘れて,くれぐれも体調を優先し,無理をし ないでほしい」と伝えました.丸山先生がにっこり笑って親指を立てられた姿が心に残っています.  私たちの学会では,9月の理事会において,丸山先生のこれまでのご功績に対し「学会特別功労賞」の贈呈を 決定し,3月の学会大会で表彰する予定でした.しかし,ご本人にお渡しすることは叶いませんでした.残念で すが仕方がありません.後日,ご子息の俊太郎さんに受け取っていただきたいと思っています.  丸山先生の1月の訃報は,学会員に大きな心の揺れを生んだことは間違いありません.そして,多くの会員か ら学会として心より追悼したい旨,連絡が入っております.多くの方々に深い 愛 を届けられたからこそ,そ うした連絡が入るのだと思います.  丸山先生,貴方は私たちの学会において強力なリーダーシップを発揮されたばかりではなく,仲間意識を育て る種まきもしてくださいました.私たちは貴方の大きな存在感を決して忘れることはありません.  丸山克俊先生のご冥福を心よりお祈りいたします.そして,そのお働きに心より感謝を申し上げます.病との 闘いから解放され,天界から私たちの日本幼少児健康教育学会や貴方と関わりのあった団体や関係者を見守って いてくださいますように! 私たちも力を合わせて困難を乗り越えていくことができますように! また,残さ れたご家族の皆様の上にも平安がありますように!

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丸山克俊先生との出会い

中永 征太郞(日本幼少児健康教育学会名誉会長,ノートルダム清心女子大学名誉教授)  これまで,私の人生の歩みを変えた出会いの中に,丸山克俊先生がある.先生との最初の出会いは,1992年の 頃,幼少児健康教育学会第1回西日本学会の頃だったように記憶している.  最初お目にかかった折に,岡山駅前の「大関」という居酒屋で杯を交わしたことを想い出す.その席で先生の 身なりがあまりにもキチントされていたことから「今日はネクタイを緩めて下さい」と申し上げたことがありま す.  それ以来,毎年開催される春秋2回の学会大会では親しくお目にかかり,多々ご高配を頂きました.とくに東 京理科大学の美しいセミナーハウスの敷地には,大きな池と美しい白鳥・梅林・四季折々の草花に心が和まされ, 学会大会では,数々の新しい企画がなされており,いつも学会大会が楽しみでした.  平成7年以降平成18年まで,濱田靖一会長のあとをお引き受けしてからは,これまで以上のご高配とご指導を 賜りました.当方にとっては農学畑を歩んでおりましたので,「動植物の成長」については興味がありましたが, 学会大会では常に「子どもの成長」が研究対象になることから,これまでとは異なった発想がもとめられ,その 都度,先生から多くの示唆を頂戴いたしました.先般の安田女子大学でお目にかかり,これまでと同様カラオケ で「年輪」を歌うことを楽しみにしておりました.  今となっては,その願いは適えられませんが,ここに北島三郎の「年輪」の替え歌を記し,その題名は敢えて 記さず「無題」として「子どもの成長」にも似たいつまでも未完成のままにしておきましょう. (一) 伝統を絶やさぬ     学会の掟    これまで歩みし 幾星霜    苦労重ねた歳月に    皆んなの心が生きている    苦労年輪 皆育つ (二) いつか世に出りゃ    大黒柱    夢のようだが 夢じゃない    苦労重ねた歳月に    多くの成果が生きている    苦労年輪 皆育つ (三) 馬齢を重ねて    今日まできたが     の道も ないじゃない    苦労重ねた歳月に    よくぞ耐えたと笑う風    苦労年輪 皆育つ ※ 丸山克俊先生 長きに渉り,公私共々お世話になり「まことに有り難うございました.」丸山スマイルを絶や すことなく黄泉の旅を歩まれますよう祈り上げます.

懐かしい,あの迫力

馬場 桂一郎(日本幼少児健康教育学会特別顧問,大阪信愛女学院短期大学名誉教授)  丸山先生との出会いは,私の気紛れからである.1989年の白百合女子大学で開催された第7回大会に参加して からだと思う.当時私は,日本体育学会で子どもの発達についての発表をしたり,論文を投稿していた.その一 方で,大学卒業以来,大学・幼稚園で子どもの運動遊びの指導をしていた.ある雑誌を見ていると,「日本幼少 児健康教育学会」開催の知らせが載っていた.「幼少児・健康教育」この言葉に魅力を感じ東京まで出かけて行っ た.大会にフラッと飛び込みで参加させていただいた会場で丸山先生にお会いした.名刺交換の時に,彼が私の 論文を参考文献などに使用していたことから,学会加入を勧められた.当時の学会は,まだ小さく,大会の発表 数も10点にも満たない状況であった.その中で,丸山先生は,開催に関する事務方を一手に引き受け企画・財政 その他の面で手腕を振るわれていた.それは,彼が幼児の運動遊びに並々ならぬ情熱を持っておられ,幼少児の 運動遊びを一つの文化として位置づけようとされていたからだと思う.その情熱は,学会が徐々に発展していき, 世間からも認められるようになってからも変わらなかった.学会大会の時には,発表会場の前列に位置し,若手 研究者の発表を真剣に聞いておられ,ある時は痛烈な質問を,ある時は適切なアドバイスをあの大きな声と迫力 でしておられた.彼の情熱は,国内にとどまらず,国際交流にも積極的に関わっておられた姿は称賛に値する.

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ダンディー丸山克俊氏を偲んで

亀岡 偉民(日本幼少児健康教育学会顧問,文部科学副大臣兼内閣府副大臣,衆議院議員)  幼児教育に一生を尽くされた丸山克俊先生に心から哀悼の意を捧げます.  私と丸山先生の出会いは幼児教育ではなく,ソフトボールと野球との出会いでした.しかし,野球の話よりも 幼児教育の話の方が多くなり,丸山先生の体を張った児童とのふれあいを見て感動し,私自身の幼児教育に対す る想いを強くしたことを覚えています.そして,私が主催していた福島県幼児教育懇談会の加入園に指導に来て いただきました.その活動を通じて学んだことから「親父の会」を作り,父親と子どもとの遊び方や子どもの教 育方法について各幼稚園でご教授いただきました.これが大好評で,毎年呼ばれるようになり,活動は30年以上 も続きました.また,貴学会に私を招いてくださり,ともに勉強させていただきました.この学会の活動の素晴 らしさを文部科学省に説明し,学会への支援を要請しましたが,なかなか直接の支援は難しく,実現させること はできませんでした.しかしながら,丸山先生の熱い思いは文部科学省にもしっかり伝わっております.  また,個人的なことではございますが,私の選挙にも何度も応援に駆けつけてくださり,熱弁を振ってくださ いました.ソフトボール,幼児教育,さらには東京理科大学をはじめ,高等教育の更なる発展のために頑張り続 けた丸山克俊先生の教育にかける情熱は,世界一だと思っております.最後まで幼児教育を愛し,スポーツを愛 し,男のダンディズムを貫き通した丸山先生に心から感謝し,御礼を申し上げます.  丸山先生のやり残された思いは私がしっかりと受け止めて,実現させてまいりたいと思います.丸山克俊先生 のご冥福を心からお祈り申し上げ,筆を置かせていただきます.丸山先生,本当にありがとうございました.

無念だったでしょう

藤原 寛(日本幼少児健康育学会副会長,京都府立医科大学)  丸山克俊先生がご逝去され,はや半年が経過しました.在りし日の先生を偲び,一文を捧げたいと存じます.  毎年のように登った南アルプスには雪が少なく,その山並みを眺めながら,先生の生まれ故郷であった南信州 豊丘村の明治大学野球部元監督の島岡吉郎氏を称えて名付けられた「御大の湯」に浸かりながら,本学会の将来 を心行くまで話したことがありましたね.  その時に,先生の本学会の将来の展望の一つに韓国や中国を含め東アジアの数多くの研究者と交流できる幼少 児健康教育学会の発展を熱望されていたことを思い出します.その後,本学会には国際交流委員会が設立された にも関わらず,先生の構想が実現されることなく残念でなりません.今後,先生のご遺志を継いで,本学会の多 くの先生方のお力添えを賜りながら,多くの研究者が一堂に会せる学会の発展に微力ながら尽力する所存です.  先生にお会いするのは春期と秋期の学会だけなのに,幾度となくご連絡いただきました.その内容は,すべて 本学会がスムーズに運営されるよう隅々まで行き届いた提案でした.今は,本学会をこよなく大切にされた先生 のお人柄を改めて思い起こしています.  また,学会中はいつも最前列に座られ,「東京理科大の丸山と申します.」で始まる質疑応答では,発表者の研 究意欲を損なうことなく適切で鋭敏なアドバイスが聞けなくなるのは辛くて寂しい限りです.  今思えば,先生が最もご多忙だった時に,終始手際よく事務処理を閲して頂き,何とか事なきを得たのも先生 の寛大で温容なお人柄のお蔭であったと感謝しています.  昨夏,先生のご病状をお聞きし覚悟はしていましたが,現代の医学をもってしてもなお,確実な治療法が見当 たらない病と闘いながらご自身の信念を貫き通してご逝去された先生の追悼文を書かなくてはならないことが限 りなく悲しく残念でなりません.もっと多くの研究を実践されたかったのではと先生の無念さが伝わってきます.  先生に「ゆっくり休んで下さい」といえば小言を言われそうです.今頃は先生の恩師である濱田靖一先生と再 会され,新しい企画を試行錯誤されているような気がします.  先生の豪快であり繊細なお人柄を心に刻みつつ, 合掌.

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丸山克俊先生を偲んで

嶋  博嗣(日本幼少児健康教育学会理事長,東洋大学)  目を閉じると,3つの思い出が鮮烈に脳裏に浮かぶ.  1つ目は,約25年前, 城県F幼稚園での幼児体育指導の交流試合.丸山先生と私の幼児体育指導を年長児に それぞれ行い,同園園長に子どもの生き生きしさが表れていたのはどちらかを判定していただく機会をもった. 丸山先生は『三枚のお札』の素話から,そのイメージを活用して丸山山姥を撃退する遊びの展開であった.丸山 山姥から鬼気迫る表情で子どもは逃げ回り,撃退のために仲間と相談して,即興で 火 や 水 を表現したのは 衝撃的だった.喜怒哀楽が れ出ていた.時には涙する子どももいたが,最終的には清々しい笑顔だった.反省 会の席上,園長は判定を下さなかったが,私の完敗であった.その折,丸山先生の一言が忘れられない.「嶋 さん,私は子どもの目線に降り立ち,徹頭徹尾,真剣に向き合うことを大事にしている」と.この指導スタイル は,逝去される直前まで変わらなかった.この言葉は,私の指導の芯棒となっている.  2つ目は,私のサバティカル期間中(2016年4月∼9月)の学生指導. 3・4年ゼミナールを担っていただいた. 帰国後,ゼミの様子を学生に聞いた.初回授業,4年男子学生が遅刻してきたそうだ.丸山先生は「なに考えと んじゃ!」と一喝され,全体が凍り付いたという.ゼミの中で,折に触れ時間の大切さを伝えられたという.「遅 刻は,人の時間を奪っていることを忘れるな」「皆,時間厳守はわかっている.しかし,実行することは難しい. 誰でも意識すればできることを上等にすることによって人間力は高まる」,そんなメッセージが学生には刺さっ ていた.  最後に,日本幼少児健康教育学会での姿.背筋を伸ばして最前列に座し,研究発表に向き合われている姿が蘇 る.学問は職階に関係なく平等であり,課題意識のある研究(公共性への意識)の重要性を説かれていた.その 姿は,迫力と誠実さが同居していた.  姿勢とは,「勢い」の「姿」と書く.丸山先生の姿勢から多くの学びをいただいた.「熱意と誠実は人心を動か し協力を生む」と仰っていた.丸山哲学の核だと思う.本学会のミッションである幼少児の健康は,連帯と協働 が必要不可欠である.丸山哲学を改めて大切にしたいと思う.ゆっくりお休みください.心よりありがとうござ いました.

丸山克俊先生からの教え

三宅 孝昭(日本幼少児健康教育学会副理事長,大阪府立大学)  丸山克俊先生のご逝去のお知らせ,絶句でした.丸山先生からもっとお話を伺いたかったという想いで一杯で す.  日体大の先輩でもある丸山先生には,本学会で初めてお会いし,厳しい言葉も含め多くのことを教えて頂き, 経験をさせて頂きました.感謝しかありません.入会した2001年度の東京理科大学での春季大会では,初めて座 長に指名され,貴重な経験をさせて頂き,その経験が今に繋がっております.そして,一番思い出すのは,正座 で叱られたことです.私は毎年秋の学会前にキャンプ実習があり,実習中は髭を剃らないので,その時も学会に そのまま参加しました.懇親会の半ば,丸山先生から「三宅先生,ここに座りなさい.」と呼ばれ,座敷なので 正座でした.そこで先生から,「三宅先生,苦労は報われる.でも助手の間は,謙虚でなければならない.髭な んか生やしていてはだめだ.」と叱られました.当時,私は40歳位でしたので,その年齢で上司以外の先生から 叱られることはなく,大変恐縮しましたが,それも丸山先生からの愛情でした.それ以降,髭を剃っております. また,丸山先生からは,人は言動で評価される,メールの文面からでも人となりがわかるということも教わりま した.それも今でもずっと頭に置いています.  丸山先生とは昨年12月3日のメールが最後になりました.上京の際,お会いしたくてご都合をお伺いしたところ, 「メール,ありがとうございました.今,ファスティング(半断食)療法に入って5日終了.外出がしんどい状況 です.快復を祈願して,長丁場の闘いをします.お気持ちは,有り難く,頂戴いたしました.丸山克俊」(原文

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激励を胸に,もっと高い所に

梅澤 雅和(日本幼少児健康育学会理事,東京理科大学)  丸山克俊先生と初めて間近に接したのは2006年,東京理科大学野田キャンパスでのスポーツ大会の懇親会で あった.目前にいらっしゃるのは,学生の輪の中で大きな優勝カップに注がれたビールを勢いよく召し上がる「や んちゃな」丸山先生.その後,先生と深くお仕事でご一緒できる機会をいただけることになろうとは,まだ想像 してもいなかった.  後日,食事にお招きいただく機会があった.直前の仕事がぎりぎりまでかかってしまい,私は荷物を抱え待ち 合わせ場所まで走って向かっていた.すると,同じくぎりぎりまでお仕事をされていた丸山先生が自転車で「今 日はよろしく!」と手を挙げ,颯爽と私の横を走って行った.その後何度も,「待ち合わせまでわずかな時間し かないときに,そこに走って向かう.その姿勢が素晴らしい」と仰ってくださった.たった一度の走りをこれほ どに良く言ってくださったのは,丸山先生ただ一人である.  当学会の2015年春季・野田大会では,私に国際シンポジウムの取りまとめを任せてくださった.複数の国際共 同研究を行っていた私には,それを展開する意欲ときっかけ作りのコツを当学会に注ぎ込むことが求められた. 準備の中では 無茶な お申し出もあった.あるとき,戸惑った私の電話での口調のわずかな変化を丸山先生に 読み取られ,数日後に「申し訳ないお願いをしてしまったけれど,そういうときの表情や声の変化には気をつけ た方がいい」と指摘を受けた.態度のわずかな変化が,物事を成せるか否かに関わってくることを教えてくださっ たのである.丸山先生ご自身がおそらく,色々な人とそれこそ色々なお仕事をする中で,悔しい思いも多くされ てきたのだと思う.それを後進にはさせずに,もっと高い所に登ってほしいという愛が御言葉にあった.  他にも丸山先生は,子どもたちのための健康教育に関わる多くの課題をあぶり出し,私たちに遺してくださっ た.それらを解決し,克服するための挑戦を今も期待してくださっていると思う.いや,願わくば挑戦という言 葉を使わずとも目の前の課題をまず軽く乗り越え,「次に」見えてくる新たな課題に向き合い,その解決に向け てこそ挑戦していきたいものである.それを後押ししてくれる熱意と れんばかりの激励,そして何より貴重な 人の縁を,丸山先生がくださったのですから.

一つ一つの思い出,韓国ソウルより

徐 相玉(日本幼少児健康育学会国際交流委員会委員,韓国ニュースポーツ協会会長)  丸山克俊先生.今私は亡き丸山先生を思い浮かべながら涙しています.先生と一緒に歌った吉幾三の"酒よ", "泪には幾つもの思い出がある.心にも幾つかの傷もある".先生とのこの短い人生で,先生に会えた喜びをど のように表現すれば良いのでしょうか! 先生との思い出を考えると,感謝せざるを得ません.  日本体育大学同窓会の専務理事として韓国を訪れた時,1997年でしたね.それ以降,ま∼色々ありましたね. その紆余曲折を経て丸山先生の偉さに接しました.日本体育大学の後輩として,そして国を越えた弟分を充分過 ぎるほど楽しんできました.  先生は韓国にティーボールという新しいスポーツ文化を紹介して下さり,金永三元大統領を韓国ティーボール 協会の総裁にして下さいました.勿論そのお陰で私は海部俊樹元総理大臣にもお会いできる素晴らしい光栄を経 験させられましたね.そのお陰で今や私の人生そのものになっている,ニュースポーツ.それは兄貴との縁がそ の始まりでありました.深くお礼申し上げる所存です.ありがとう,丸山先生.  そして,日本幼少児健康教育学会との出会いを作って下さいました恩恵を忘れることはないでしょう.そのお 陰で韓国に韓国幼少年スポーツ学会を創立するようになり,韓国における幼少年の身体活動の研究が進められる ようにもなりました.この場をお借りして先生に感謝申し上げます.  丸山先生,一人の人間として私は貴方と色々なことを経験し,数多くのことを教わりました.その教訓を持っ て私の残り少ない人生航路を楽しく,耐えていきたいと思っております.先生は私の胸の中を占めているその一 つ一つの思い出は決して忘れることなく,丸山先生のことを世に伝えていきたいと誓います.  丸山先生,何時かは私も逝くべき道でありましょう.短い我が人生に大きな希望と支えを思う存分,惜しまず 下さいました貴方,我がアニキ,丸山克俊に感謝と愛情をお捧げ致します.何卒,今のその場では安らぎを充分 に楽しんで下さい.  私は今も幼稚園で汗一杯のお顔で,せっせと子どもにティーボールを教えていた貴方を恋しく思いつつ,涙し ながら,さよならを告げます.愛してますよ.ありがとうよ.丸山克俊さま.

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