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『文学界』(聚芳閣)新出資料と井伏鱒二聚芳閣勤務時代

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(1)前 日 貞 昭. 説を提示するとともに、(自伝)的作品の資料的問題にも触れたい。. た情報をもとに、前稿を補訂して井伏の最初の衆芳閣退社時期の仮. m ついては別の機会に発表したいが、ここではへその三冊から得られ B. ﹃文学界﹄(果芳閣)新出資料と井伏鱒二繁芳閣勤務時代. はじめに 井伏鱒二が勤務していた衆芳闇の主力雑誌﹃文学界﹄は、国立国. に掲載された広告へ﹃読売新聞﹄大正十三年九月二十一日発行第. ﹃a<'2Q<%﹄(ダムダム)創刊号(大正十三年十月十日). I.創刊号を資料として. だが、阪本幸男氏から'両館で欠号となっている﹃文学界﹂が三重. 一七〇六七号掲載﹁よみうり抄﹂に拠って'﹃文学界﹄創刊号の実. た。これによって、先に﹁﹃文学界﹄(衆芳閣)細目稿﹂を発表したの. (-). 会図番館・日本近代文学館に架蔵の計十号分が知られるだけであっ. 県立図書館に保存されている旨のお知らせを頂戴した。三重県の歌. 際の発売日を九月二十日としへこの実売日から逆算して印刷納本日. いんだ. に現物が見られなかったr文学界﹄三冊が含まれていたのであるO. ﹁橋田東声系の歌人。記紀、万葉、その他多-の古代文学を究む。. (本名・恵助、一八九四年十二月十四日∼一九七九年三月四日)は'. 表紙(表紙の四)を欠き'そこに印刷されているはずの印刷納本日・. l日発行﹂とある。三重県立図書館架蔵本は表紙(表紙の一)・裏. 創刊号奥付には'﹁大正十三年九月廿八日印刷﹂﹁大正十三年十月. に即して改めておきたい。. を﹁九月十五日﹂と推測していたのだがへこの印刷納本日付を現物. 人・印田巨鳥の旧蔵書が三重県立図書館に寄贈され、その中に、先. 甘利多子﹁印田巨鳥-親愛なる尊父で慈父﹂(﹃芸術三重﹄第. 考古学者。﹂で'地元の歌謡書心支浪﹄、﹃覇王樹﹄(三重支社)など. いう出版法の規定に沿うように﹁十月一日﹂から遡って﹁九月廿八. 発行日に関わる法定文字が見られないが、発行日の三日前の納本と. 三十八号、一九八八年九月二十五日)の紹介を借りれば'印田巨鳥. に関わりが深かったという。橋田東声は十回近-﹃文学界﹄に寄稿. ぎず、内務省への納本と取次店へ搬入するまでの間に規定の期間を. 奥付等に印刷された発行日付・印刷納本日付は形式的なものに過. 日﹂を形式的に印刷日としたと推測するのが妥当であるようだ。. Lへ著書﹃評釈万葉集傑作選﹄(大正十四年六月)も東芳闇から出 さて、その三冊とは、大正十三年十月創刊号へ大正十四年八月第. している。その縁で巨鳥も﹃文学界﹄へ寄稿したものと思われる。. 二巻第八号、大正十四年十月第二巻第十号である。それらの詳細に.

(2) ラ.宵島と井伏は同時に緊芳闇に入社していると考えてよいので、. Ua. 置けばよいというのが'当時の出版法の運用実態であったらしい。. 井伏も、この時点では、衆芳闇に入社していなかったことになる。. ところでへもう7つの井伏(あるいは宵島)緊芳闇入社に関する. このような運用実態であってみれば、実際の発売日に関しては'広. 文学界編輯部員/(口絵二頁)﹂とあるのが'それだ。しかし、該. 情報が、創刊号口絵写真にあるはずだった。目次に﹁新進作家の悌/. 告や新聞記事の方が実質的な意味を持つと思われる。 井伏が創刊に関わった衆芳閣発行﹃趣味と科学﹄の創刊が予定よ. 当貢には口絵の一貫目(新進作家の悌)と同じものが上下逆転して. りも大幅に遅れていたことは前稿でも触れたが'﹃文学界﹄も同様 であったようだO﹃文学界﹄創刊号編輯後記に相当する﹁編輯余録﹂. して下すつた諸氏及び多-の愛読者諸子へ深-お詫びを申上げる。. く多-載せたかったのでその選のために約半月遅れた。寄稿を. できた。前稿で引いた、. 芳闇に入社したことが'﹃文学界﹄創刊号によって確認することが. 十五日前後だろう)、そのいずれかを過ぎてからへ宵島・井伏が罪. 過-てもその校了時点(校了日は最大限遅-見つもっても、九月. 口絵写真は措いても、早-て懸賞募集規定原稿印刷所入稿時点'. 印刷されていて、この文学界編輯部員の写真を確認できなかった。. この﹁九月一日﹂が実売日を指すのか'表示発行日付を指すのか不. □初号を九月7日に創刊する予定であったが投書作品をなるべ. 冒頭に次のようにある。. 明であるが、創刊号が九月二十日に売り出されたとすれば、最初の. という﹃読売新聞﹄大正十三年九月二十日発行第一七〇六六号第四. ﹁趣味と科学﹂の編韓に従事する. 面掲載﹁よみうり抄﹂記事があるのでへこの記事掲載の九月二十日. ▲宵島俊吉氏井伏鱒二氏と共に衆芳闇に入り十一月創刊の. 井伏衆芳閣入社に関わることでへこの創刊号に拠って指摘してお. 前後に井伏が'宵島と共に衆芳闇に入社したと見た前稿における推. 予定では発行日が﹁大正十三年九月l日﹂と表示され'実売もその. -べきは、六十三貢掲載﹁毎号/懸賞募集規定﹂欄末尾に﹁編輯局. 表示発行日に近いところを企図していたということだろうか。. 厳選/責任者﹂として高梨直郎、松本清太郎へ足立欽1の順で選者. 測は動かさな-てもよいと思われる。. これを兼芳園側に立ってみれば'予定より遅れた﹃文学界﹄をよ. の三人の名前が掲げられているだけであり、宵島俊吉の名前が欠け ていることである。勝承夫が宵島俊吉の筆名で加えられるのは、次. この事実は、創刊号の懸賞募集規定原稿の印刷所入稿あるいは校. 訳一冊を出したばかりの二十七歳の井伏を雇い入れたという事情で. 準備のために、新進詩人で数え年二十三歳の宵島、﹃父の罪﹄の翻. うや-発刊Lへ次いで、もう一つの新しい雑誌﹃趣味と科学﹄創刊. 正の時点では'宵島を﹁文学界編輯局﹂には迎え入れていなかった. あったように推測される。. の大正十三年十一月第一巻第二号である。. ことを意味するoおそら-、宵島が﹃文学界﹄編韓に携わっていな かったのみならず、衆芳闇にも入社していなかったということだろ.

(3) 二'﹁乳母車﹂の掲載. きの私と伊十とのこと﹂が乳母車の記憶と結びつけて回想されてい. るので(第六巻六頁)、井伏が標題を﹁乳母車﹂と誤るのも理由の. るべきは大正十四年八月第二巻第八号に井伏鱒二﹁乳母車﹂が掲載. 作品を実際に読んでいたというのである。征野敏郎は'﹃鷲の巣﹄. ないわけではなかった。井伏の友人・富沢有為男が﹁乳母車﹂なる. だが、﹁乳母車﹂という標題の井伏作品について第三者の証言が. ないことではないように思われるし、著者の訂正の言葉は強い。. されていたことである。﹁乳母車﹂という標題を持つ井伏作品が実. 大正十五年六月号に発表されたという富沢有為男﹁二人の新人に就. 新たに披見できた﹃文学界﹄三号分の内へ井伏書誌研究で注目す. 際に確認されたのは、これが初めてである。もっともへ新発見の作. (5). ではtr不同調﹂に﹁乳母車﹂の標題で小品を書いたと記していた. 井伏は﹁完結しない月なみな生活﹂(﹃文芸通信﹄昭和九年7月). につづいて﹁山椴魚﹂原型の﹁幽閉﹂も﹁寒山拾得﹂も﹁夜更. の風景﹂執筆時点は'かなりに早-なる。さらに富沢は、それ. のは﹁今春﹂と書いてあるから、大正十五年八月に掲載の﹁岬. を同人内山惇一にすすめられて読んでもいる。︹中略︺読んだ. すでにこの時点で'︹富沢は--前田注︺井伏の﹁岬の風景﹂. している。. いて∼坪田謙治・井伏鱒二﹂に触れ、その内容を次のように紹介. 品ということではない。 井伏の幼い頃の記憶に巷材を得たらしいこの作品は、従来、﹃不 同調﹄昭和二年二月新人号第四巻第二号に発表された﹁歪なる図案﹂. のだが(新全集第四巻三二六貢O以下'井伏文の引用は新全集に拠. として知られてきたものである。. り'掲載巻と頁を附す)、その後、﹁錐肋集﹂(﹃早稲田文学﹄昭和. と梅の花﹂も﹁乳母車﹂も読んだという。. いや、そればかりではない。井伏﹁歪なる図案﹂掲載の﹃不同調﹄. 十一年五月∼十二月)連載途中に、標題は﹁乳母車﹂ではな-﹁歪. 昭和二年二月号に'富沢は﹁再び井伏鱒二に就いて(附へ秋山六郎. なる図案﹂だったと訂正した。﹁難肋集﹂では、次のようにある。 不同調の新人号に私が﹁乳母車﹂といふ短篇を発表したと書い. も物する所のもの大小三十篇に近い製作があるうち﹃乳母車﹄は. 兵衛に与ふ)﹂を寄せ、﹁井伏はよ-過去十二年間の不遇に湛へしか. へば霊妙なる因縁の如きものを可也的確にしかも深-覗き見る事を. 一三年前の作であって我等はここからr人生の相似形﹄に就いて例. ママ. たのは、﹁歪な図案﹂のまちがひであった。子供のときの私と. の方程式で計算した短篇である。︹中略︺はじめ﹁乳母車﹂と. as. 伊十とのことをモデルにして'幸福の定量と不幸の定量を代数. いふ題をつけ谷崎さんにも見てもらったと記憶するが、不同調. 卜同様︺とも書いていたのだった。﹁﹃人生の相似形﹄に就いて例へ. ゆるされる様にし向けられてゐる。﹂︹傍点、ママ。傍線は前田。以. ﹁歪なる図案﹂中では(乳母車)を飾る刺繍が作中のモチーフに用. ば霊妙なる因縁の如きもの﹂なる表現は、﹃不同調﹄掲載の﹁歪な. 社へ送る際に﹁歪な図案﹂と改題した。(第六巻五十三貢). いられ、また、﹁難肋集﹂第一章﹁幼いとき﹂冒頭でも﹁子供のと.

(4) る図案﹂ではな-、改題・改稿以前の﹃文学界﹄発表﹁乳母車﹂に. という記述は'そのままでよいだろうか。. 先に引いた﹁錐肋集﹂に井伏が書いているように谷崎精二に見て. するのだが、﹁満身療病﹂を含めて'井伏作品中の叙述と周辺資料. ように大正十四年7月﹃趣味と科学﹄編輯部から出版部へ移ったと. 松本は井伏﹁満身療病﹂(昭和二十四年十月)に基づいて、右の. もらった作品の一つだとすれば、書かれた時期は、この﹃文学界﹄. もあった末尾部分を捉えたものだろう。. 発表よりも、ずいぶんと早い時期になるし、ここに措かれた(乳母. ﹃趣味と科学﹄編輯部の人事についてへ大正十四年四月第一巻第. とが矛盾する点が少な-ない。. 車)をめぐる挿話は、﹁不機嫌な夕方(一幕)﹂(﹃雄邦日本﹄第二巻. 三月号は編輯者が変ったために、いろノしー編輯上の手落ちがあ. 四号﹁編輯後記﹂は次のように記している。. ったり発行日がを-れたりしましたが、今月号からはすつかり. (﹃臆人形﹄第二巻第六号'昭和六年六月)で戯曲仕立てに改稿さ. 第五号、昭和三年五月)や﹁不機嫌な夕方-芝居みたいな童話﹂. 準備もとゝのひましたから、読者諸君の御期待をうら切るやう. ﹃趣味と科学﹄の勝手を知っていた編輯者が辞め、新たに不慣れな. れへまたへ﹁朽助のゐる谷間﹂(﹃創作月刊﹄第二巻第三号、昭和四. 編輯者が三月号を担当したということだろう。三月号編輯段階での. 年三月)の一場面としても描き込まれたほどに、井伏の愛着濃い題 表された可能性も否定しきれない。が、吉沢が二つの文章で言及す. 異動で、その時期は大正十四年7月後半から大正十四年二月頃まで. なことはないつもりです。. る﹁乳母車﹂も、﹁再び井伏鱒二に就いて(附、秋山六郎兵衛に与. 材であった。そうであれば、この﹃文学界﹄以前に何らかの形で発. ふ)﹂で﹁二三年前の作﹂と言っているところから、﹃文学界﹄大正. に想定できるのだが、もう少し周辺事情を探ってみよう。. いは衆芳閣までも辞めたのか。また、﹃趣味と科学﹄編輯部は欠員. まず、﹃趣味と科学﹄編輯担当者は別の部署に移ったのかへある. 十四年八月号に発表されたものを指しているとしてよいだろうし、 とりあえずは﹁乳母車﹂の初出を﹃文学界﹄としへそれが﹃不同調﹄ 掲載の際に﹁歪なる図案﹂と改題されたとしておきたい。. を社内異動で補充したのか、あるいはへ新たに社外から人を得たの. 衆芳閣員﹂という年賀広告は'﹁足立欽7/高梨直郎/松崎辰男/. か。﹃文学界﹄大正十四年新年号の奥付上欄に掲載された﹁賀正/. 井伏の襲芳閣時代を精査したのは松本武夫﹁井伏鱒二の﹁衆芳閣﹂. 大野元造/松本清太郎/宵島俊吉/井伏鱒二/岡田伊三郎/斎藤咲/. 三'大正十四年初頭の果芳閣人事. 勤務時期﹂であるし、前稿に引き続いて本稿も松本の恩恵に浴して. 富樫祐吉﹂以上十名の社員名を掲げている。おそら-'これに少年. 1月へ﹃趣味と科学﹄(第7巻第二号)発行.出版部に移る。. 部の交代でことが終わったとは思いに-いところがある。. 従業員二、三名を加える規模の緊芳闇で、単に﹃趣味と科学﹄編輯. 1-c). いるのだが、その大正十四年の、. 四月、衆芳闇を退社するo.

(5) 三丁目1に生るC︹中略︺今日では衆芳閣編輯部に居りますO. 狩野鐘太郎編輯人。明治三十一年四月二十三日、神田区錦町. 項に、関係するらしい記事が出現する。必要な箇所を摘録してみよう。. 十五年二月五日)を繰ると'﹁文士録﹂の狩野鐘太郎・川添利基の. そのような目で八一九二六年版)﹃文芸年鑑﹄(二松堂書店、大正. りとも変更されて-るのだ。. 登場する。大正十四年三月号から、﹃文学界﹄の誌面構成が多少な. 室から﹂欄がこの号から創設されへその署名者として狩野の名前が. 福田正夫が当たることになる。しかも、編輯後記に相当する﹁編輯. る。そして、﹁長詩﹂の選には、宵島に代わって民衆詩派の詩人. 選者名を纏めて列挙せず、各欄に選者の名前が掲げられるだけにな. 経て十四年二月から変芳閣編輯部へ入ったが目下は休養中、先. 早稲田大学、立教大学等に学び、松竹、東亜キ子マの脚本部を. 学界﹄では、アンケート回答を社貞から得ていないので、この大正. 芸との交渉﹂(アンケート回答)だけである。創刊号を除いて﹃文. きているところでは'大正十四年十月第二巻第十号掲載﹁社会と文. l方、これ以後、宵島が﹃文学界﹄に登場するのは、今日確認で. 戯曲集﹃市場へ工場﹄です。. 駆座、創作座、文明劇場等の演出監督をやったこともある。創. たと推測される。すなわちへ大正十四年二月号限りで、衆芳閣社員. 十四年十月号段階では、宵島は衆芳閣社外の詩人として扱われてい. 川添利基明治三十年二月三日、新潟県佐渡郡相川町に生る。. 作集﹃凝視﹄の他'︹中略︺その他映画に関する翻訳著書が数. ' r L ]. 種 あ る 。 先 駆 座 同 人 。 ︹ 太 字 、 前 田 ︺. 一月下旬頃までの宵島の在社は確認できるが'三月号校了の大正. これを暦年に当てはめると'二月号校了と推定される大正十四年. としての宵島俊吉は﹃文学界﹄の誌面から姿を消すのである。. 戯曲を書いた衆芳閣社主・足立欽1の好みであろうが、衆芳闇では、. 十四年二月下旬頃に至ると衆芳閣関係雑誌からはその在社の事実を. 頃ではなかったかと思われる。若い劇作家を入社させたのは自らも. Ir・). 狩野の入社時期は明記されていないが'川添と同じ大正十四年二月. 大正十三年九月に井伏・宵島の新人を雇い入れたのと同じように、. 確認することができな-なるのである。. 年二月第二巻第二号までは、毎号巻末に﹁編輯局厳選/責任者/. 頼原稿締切を'表示月号の前々月二十日に設定していると推定され. に編輯・校正作業は終わると推定される。﹃文学界﹄では、社外依. 月号表示の前月末頃にそれぞれの号は発売されへそのしばら-前. があったと考えるのが適切だろう。. では、大正十四年二月号と大正十四年三月号との間で、大きな異動. このように見て-れば、﹃文学界﹄と﹃趣味と科学﹄両誌編帝都. GJ. 井伏とほぼ同年(井伏は明治三十一年二月十五日生まれ)の二十代 後半の新進劇作家二人を、寄稿家から入社させているのである。 この狩野・川添の入社と呼応するかのように、﹃文学界﹄からは ﹁長詩﹂(短歌・俳句の短詩形に対する語)の選者を務めていた宵島. 高梨直郎、宵島俊吉、松本清太郎、足立欽こと四名揃って投稿選. るので、それから原稿割付・校正などの編輯作業に入って'表示月. 俊吉の名前が消える。大正十三年十1月第7巻第二号から大正十四. 者に名前を並べていたのだが'大正十四年三月第二巻第三号からは.

(6) 号前月半ば頃に校了とすれば'大正十四年一月二十日前後から二月. 成分分析を真似た茶化し半分の文章で'真っ向から批評したもので. 他の号を見ると'﹁ゴシップ﹂欄やその他コラム記事は、目次に. はない。手早-書いてみせたという気配が濃厚な短文である。. れるo川添が前掲﹃文芸年鑑)で衆芳閣入社を﹁二月﹂と明記して. 十五日前後までの間に'両誌編輯部で人事異動が行なわれたと見ら. 以上のように、衆芳闇の主力雑誌r文学界﹄﹃趣味と科学﹄の二. 余白を埋めるべ-このコラムが加えられたと推定される。予定原稿. 目次に掲出されていないところを見ると、目次原稿が完成した後へ. 掲載されているものと、されていないものとがある。この井伏文が. 誌の編輯状況、﹃文芸年鑑﹄を検すると、大正十四年二月頃に衆芳. ではなかろうか。こうした臨機応変の対処が可能なのは、井伏が衆. が組上がった後に(おそら-初校段階で)、井伏文が執筆されたの. いるので'ここでは'大正十四年二月という言い方をしておこう。. て入社とすれば、宵島・井伏も退社したとの推定もできな-はないO. もう一つは、﹁乳母車﹂の掲載である。先に述べたように大正十四. 六月下旬まで引き下げてよいかも知れない。. れるのである。あるいは、目次原稿との関連から考えると、これを. 大正十四年六月中旬頃には、井伏が衆芳闇に在社していたと考えら. 芳闇に在社していたからだと考えて間違いあるまい。そうするとへ. 閣内では人事異動があったのは確実である。川添・狩野が二人揃っ. 四も﹃文学界﹄掲載記事と井伏退社時期 それでは、宵島も井伏も大正十四年二月頃に緊芳闇を退社したの. 年八月号に井伏は﹁乳母車﹂を発表している。﹃文学界﹄では、社. だろうか。前節で述べたように、宵島の衆芳闇における足跡は大正. にその跡をたどることができるoそして、それは、井伏衆芳閣在社. 十四年二月を限りに消えてしまうのだが、井伏に関しては、断続的. この大正十四年八月号の編輯状況を直接窺う手段はないが、同号で. 外依頼原稿締切を該当月号の前々月二十日としていると推定される。. は、唯1'中村星湖﹁川添利基君の﹃凝視﹄﹂末尾に﹁七月八日﹂. 時期について、一つの推定を可能にするようだ。 形跡の1つは、﹃文学界﹄に掲載された、﹁﹁祇園島原﹂定量分析. んだと思われる中村文と違い(この中村文末尾には目次に掲出され. 批評﹂という井伏署名のゴシップ記事の存在であるO﹃文学界﹄大正. ていないコラムが埋草として配されている)、創作欄の'しかも、. の日付がある。脱稿日付と推定されるが、これから推測すると七月. ﹁井伏生﹂と署名がある。足立欽1﹁須藤鐘1氏のために耕ず﹂. その冒頭に配された﹁乳母車﹂は、中村文よりも早い時期の入稿と. 八日を過ぎても八月号に間に合ったようだ。しかし'成り行きで組. ︹目次では﹁須藤鐘1君のために桝ず﹂とある︺の末尾余白に'波. 月二十五日印刷)﹁ゴシップ﹂欄に掲載された記事で'本文末尾に. ケイで囲んで配されたコラムで'目次には掲出されていない。内容. 日頃すなわち大正十四年六月二十日頃には既に編輯部が﹁乳母車﹂. 思われる。とすれば、具体的な日付としては表示月号の前々月二十. 十四年七月第二巻第七号(大正十四年七月一日発行、大正十四年六. は、大正十四年四月十七日発行の松本清太郎﹃祇園島原﹄の批評で、. : ・ t -. ﹃祇園島原﹄を﹁女ごころ涙の意気地三七・五瓦﹂などと薬品の.

(7) ﹁歪なる図案﹂であるということを根拠にして、衆芳閣発行の﹃文. 前稿では、小説で初めて原稿料を貰ったのは'﹃不同調﹄掲載の. 明示されていない)、しかも、同号の創作欄冒頭に井伏﹁乳母車﹂. マン・父の罪﹂を掲げ(ただしへここでは訳者である井伏の名前は. ﹁大会当日銭引により差上る書籍名の1部﹂に井伏訳の﹁ズウデル. が見えるのだが、同格に並べてもよい井伏がいない。同じ貢には. 高梨直郎・足立欽一・川添利基・松本清太郎・岡田伊三郎らの名前. 学界﹄掲載井伏作品は、社内原稿として処理され、井伏は原稿料を. 原稿を手にしていたと考えるのが無理がないだろう。. 手にしなかったのではないかと推定した。この推定が正しければ、. を掲載しているのだから、井伏が出席予定者として名前が掲げられ. 席諸家︻予定︼﹂原稿入稿時点では、井伏は退社していたと考えて. てもよい。そうするとへこの大正十四年八月号の記事﹁読者大会出. ﹁乳母車﹂が掲載された大正十四年八月号編輯時点においては、 井伏は衆芳閣社員であったと考えられるのである。 しかし、この﹃文学界﹄大正十四年八月号は、井伏の退社を示唆. 月末、遅ければ校了寸前という時点(七月中旬頃か)が想定できる。. よいのではなかろうか。この記事の入稿時期としては'早ければ六. それは、川添利基﹁自分で書いた﹃凝視﹄の会の記﹂である。六. ﹁﹁祇園島原﹂定量分析批評﹂執筆・掲載事情を推察すると大正. する記事も載せている。. 十四年六月中旬(あるいは下旬)頃の在社が推測され、﹁乳母車﹂. 読者大会出席予定者に欠けることは同記事原稿入稿時点での不在を. 月二十四日に銀座・キタニホンで開催された川添著﹃凝視﹄の出版. 示唆する。-これらを重ねて、あえて区切りのよい日に特定した. 記念会の記事で、末尾に出席者三十八名が連ねられている。狩野. 衆芳閣内では旧来の松本清太郎グループと対立する気味のある、. 言い方をするとへ大正十四年六月二十日前後にへ井伏は一度目の退. の八月号掲載は六月二十日頃の在社を示す。他方、﹃凝視﹄出版記. 大正十四年入社グループの川添利基に井伏は近かったはずで'在社. 社をしたとしてよいのではあるまいか。なお、大正十四年七月二十四. 念会欠席はその開催日である六月二十四日時点での不在、文学界愛. していれば'井伏がこの出版記念会に出席するべき立場にあったと. 鐘太郎・高梨直郎・足立欽l・岡田伊三郎・松本清太郎といった東. 思われるOこの欠席を、衆芳闇との関係に直ちに結びつけるのは危. 日に開かれた狩野鐘太郎の出版記念会﹁表現派戯曲集﹃市場・工場﹄. 芳閣社員の名前があるのだが、井伏の名前は欠けている。. ういが'これだけではな-'井伏の出席が期待される、もう一つの. 果芳閣勤務時代を回顧した井伏作品の主なものに、﹁完結しない. 五'井伏作品と(事実). 二十七日発行第一七三七五号第四面)0. の会﹂にも井伏は参加していない様子である(﹃読売新聞﹄七月. 同じ号に'八月二日開催予定の文学界読者大会記事がある。そこ. 会合にも井伏の名前がないことが重なると、早計とはいえまい。. には、﹁読者大会出席諸家︻予定︼﹂'(ノンブルはないが六十八貢に 相当)という一覧が掲載されている。これが、今言ったもう一つの 会合だ。そこにも、井伏の名前が見えないo衆芳閣社員としては、.

(8) があり、﹁奥付けのない本﹂(昭和三十五年十一月)へ﹁半生記﹂(昭和. 月なみな生活﹂(昭和九年1月)、﹁習作時代﹂(昭和十年二月)、﹁雑. 略︺私は体裁が悪-'その他の事情も手伝って、神経衰弱だと. 三冊日の本を出したとき'奥附をつけるのを忘れてゐた。︹中. をしでかして退社した。出版担当を云ひつけられ、自分の手で. ってS社へ遊びに行き、そのままその日からまた勤めることと. 云って退社したがへ半月︹旧版全集では﹁一箇月﹂︺ばかりた. 肋集﹂(昭和十一年五月∼十二月)、﹁満身療病﹂(昭和二十四年十月). 四十五年十一月∼十二月)でも触れている。このように言及回数は. た 。 ( 第 十 三 巻 二 九 六 貢 ∼ 二 九 七 頁 ). した。一箇月ほど勤め、今度は実際の矧楓蘭矧になって退社し. 多いのだが'勤務期間にしても、五箇月間と書いたものから十箇月. 衆芳閣勤務時代について最も詳細に語っているのは、﹃新潮﹄昭和. 間の勤務とするものまで、内容は必ずしも一致しない。. 二三日外泊してゐたA氏︹衆芳閣社主足立欽二から、出社中の私. に電話をかけて来た。お金を会計から受取って、白山の何々といふ. そしてへ再度へ次のような叙述で触れる。﹁宵島君が社を止した後へ. お茶屋まで届けて-れといふのである。﹂とあって、同席していた、. (目次では最初に置かれている)である。井伏自身は、﹁この中に 出て-る﹁流るるままに﹂の女史というのは、山田順子のことであ. 岡耳子︹作中の山田順子︺に会う。作中の﹁私﹂は、岡が席を外し. 二十四年十月秋季小説特集号に創作として発表された﹁満身病癖﹂. る。最近野口富士男氏が﹁徳田秋声伝﹂を十五年もかかって書き上 ( S ). げたが、この記念すべき伝記のtl貢分-らいの何とか幕にはなる. た折りに、A氏︹衆芳閣社主足立欽二に向かって、. それを口惜しがってゐるやうです。僕も'やや同感です。﹂. 来るんでせう。城法君だつて吾妻君だつて'あんな子供でも、. ﹁あの婦人は、竹久夢二に会って、いつもその足で社に訪ねて. かも知れない。﹂と語っている。作中の﹃流れ流れて﹄が﹃流るる. 変名・実名を取り混ぜへ井伏の衆芳閣勤務時代を基本的参照枠とし. と言い、席に戻った女史と次のような遣り取りが書かれている。. ままに﹄という実在する書物の参照を要求しているごと-、匿名・. て援用しているのが'﹁満身療病﹂という作品であると、ひとまず. ったので、私は云ひ返した。実際は書物のツカに比較して'背. ふと女史が、私の担当した﹁日本幽囚実記﹂の表紙が拙いと云. は言っておこう。しかしへこの(小説特集号)の創作欄に発表され. のだろうか。﹁満身療病﹂では'時間系を厳密に追う叙述はなされ. た﹁満身療病﹂の叙述を、そっ-り(事実)として受け取ってよい. があった。ちっとは女史自身も世間の批評を参考にして、われ. のが正しかった。だが私は、かねがね女史に対して胸に一もつ. われの社へあまりしげしげ出入りしないやうにしてもらひたい. 文字のカナバンが小さかった。奥附も忘れてゐた。女史の云ふ. の叙述が二度、三度と作中に登場する。まず冒頭近-にこうある。. と云った。︹中略︺翌日へ私は社を休んで'一週間ばかり続け. ない。挿話同士の内容の繋がりによって叙述がなされて、時間の先. かつて私は'Sといふ出版社に前後五箇月あまり勤めたこと. 後関係は必ずしも明瞭ではないoそのため同一の(事実)について. がある。はじめ四箇月あまり勤め、非常に赤面するやうなこと.

(9) て休んだ後、神経衰弱だと云って退社した。(三〇四貢) この退社は﹁入社して僅か四箇月後のこと﹂だとしている。先の引 用中の﹁その他の事情﹂が、この岡︹山田順子︺との経緯というこ. ﹁満身療病﹂を信頼する限り、この最初の退社時期は、山田順子. とだろう。. のは大正十四年四月から五月にかけての頃で、五月中旬・下旬から. 竹久夢二装丁のことが謡われている)へ二人の仲が急速に深まった. 同棲が始まり、七月になると破綻を迎える、としてよいだろう。. 山田順子﹃流るるままに﹄奥付には、大正十四年三月二十日発行へ. 大正十四年三月十七日印刷とある。﹃読売新聞﹄の﹁今日の新刊﹂. 欄に﹃流る1まゝに﹄の書名で見えるのが、大正十四年四月五日発. 徳田秋声﹃叛逆﹄と並べて掲載されるのは、それから一週間後、四. 行第1七二六二号第四面でありへその広告が﹃読売新聞﹄第l面に、. -. が足立欽7から竹久夢二に乗り換えようとしていた頃のことになる。 (3). r. 山田順子と徳田秋声の関係を調査した野口富士男は、大正十四年 の項を次のようにまとめている。 ・. 月十二日のことであった。﹃読売新聞﹄の﹁今日の新刊﹂欄は大正. ;. 十四年四月一日以降設けられたもので、後のものには掲載日前日の. -. ○大正十四年秋声の紹介によって足立欣1を識る.四月へ緊. 内務省警保局における調査と銘打っているところからすると、この. :. 芳園から﹃流るるままに﹄を出版。五月、竹久夢二と同棲、. 四月五日に掲載された﹁今日の新刊﹂も'内務省響保局への納本に. -. 四十日にして破綻。七月へ帰郷。帰省中、再婚の話あり。. r. 和田謹書は、﹁秋に再度上京、翌大正十四年春頃までに衆芳闇の社. よって掲載前日の四月四日に調査されたものと思われる。するとへ. ﹃流るるままに﹄発売はその奥付記載より半月ほど遅れたように推. 長と関係を結び、同年四月には同社から彼女の創作が﹁流るるまま. 定される。すなわち、大正十四年四月上旬に﹁流るるままに﹄は発. に﹂として出版になった。/そして、大正十四年六月十四日の﹁読 売新聞﹂ゴシップ欄によれば、その頃にはその﹁本の装帳を夢二氏. 退社時期は'同書が出版され、その新聞広告等が掲載された後でな. に﹄出版への憤激として説明している。そうである以上は'宵島の. 社以後、順子・夢二同棲以前のこととされている。この二つの条件. 売されたと見てよい。﹁満身療病﹂では宵島の退社をr流るるまま. るかならぬか﹂であるということになっている。しかしその七月に 2 はもう別れていた﹂とする。. を合わせれば、大正十四年四月中旬から'五月上旬あるいは中旬迄. に頼みに行ったのがきっかけで﹂﹁拾年同棲の夫人と別れ﹂させて. ﹁仮装人物﹂や山田順子周辺資料から推して、五月(六月十四日. 竹久夢二と同棲生活を始め、﹁両人の同居は未だ一月そこノ\にな. 記事が﹁一月そこ︿﹂というのだから五月中・下旬頃か)へ夢二. ﹁満身療病﹂が語る、井伏と山田順子との(お茶屋挿話)も同じ時. のおよそ一箇月の間のいずれかの目に宵島が退社したと推測される。. 期のことで'これに宵島の退社後という条件を加えるに過ぎない。. ければならない。一方へ﹁満身療病﹂中のお茶屋の出来事は宵島退. ていた可能性があるが(﹃流るるままに﹄近刊予告を含む﹁緊芳閣. と同棲を始めたらしい。両者の接触は大正十四年二月下旬には始まっ. 出版だより(三月)﹂が﹁文学界﹄大正十四年三月号に掲載されへ.

(10) いずれにしても、﹁満身療病﹂では(大正十四年)と想定されるこ. が困難であれば、(事実)の側から作品を検証するしかあるまい。. 品外人事実)を照射することが可能になるのではあるまいか。それ. 雑志﹄第十二号、二〇〇1年7月二十日)0. (1)拙稿﹁﹃文学界﹂(衆芳閣)細目稿﹂(﹃兵庫教育大学近代文学. 注. とを確認しておきたい。 ところがへこの(お茶屋挿話)で話題に上る﹃日本幽囚実記﹄の 刊行は(大正十五年)のことなのだ。﹃日本幽囚実記﹄奥付には大正 十五年二月十八日印刷、大正十五年二月廿五日発行とある。 もはや辞言するまでもないだろう。﹁満身療病﹂において、井伏 退社の引き金になったという(お茶屋挿話)は、作品外人事実)を. 文学雑志﹄第十三号、二〇〇二年二月予定)0. (2)拙稿﹁﹃文学界﹄(衆芳閣)細目稿補遺﹂(﹃兵庫教育大学近代. 東芳閣勤務時代の検証﹂(Fli墓相表現研究﹄第十七号、二〇〇l. (3)拙稿﹁井伏鱒二の衆芳閣入社は大正十三年十一月か-井伏. 参照する限り、時期的にあり得ない話であり、井伏の錯誤でなけれ. の装丁に対する非難から始まり出版社勤めの失敗を語る物語で'年. ms. ば、虚構としなければなるまい。﹁満身療病﹂という作品は、自著. 年三月十五日)0. (4)志水松太郎は﹁又奥の日付も、出版届けとは何等関係のない. 代記的に(事実)を記述する論理によって構成されたものではない。 すなわち、標題に従って言えば(満身療病)ぶりを描-ことが、作. る。其処は出版届の要件が具備して居る事と'実際書物が書店. もので、出版届けに六月一日発行となって居っても、奥付の発. へ廻る日が'規定通りになればよいわけである。﹂と述べてい. 行日付は五月二十日でも、六月十五日でも差支へないものであ. ﹁習作時代﹂では勤務期間を﹁十箇月ばかり﹂としたのが(第五巻. る(﹃改訂増補第二版出版事業とその仕事の仕方﹄峯文荘、. 品﹁満身療病﹂のテーマであり、そこに向かって年代的には異なる. 一八三頁)、﹁満身療病﹂では﹁前後五箇月あまり﹂と短縮されてい. 複数の話題も集約されていったのであろうと思われるのである。. るのも、そういう虚構との関連から考察されるべきであろう。. 井伏自身の言葉に拠らなければ、(事実)を明瞭にできないことは. 富沢有為男﹂(﹃群像﹄第三十五巻第十号、l九八〇年十月1. (5)引用は紅野敏郎﹁﹁岬の風景﹂をめぐってー井伏鱒二と. 一九三七年六月1日。二二九貢)O. 確かだ。しかし'作中の記述をそのまま素朴に年代記的(事実)と. の巣﹂をめぐって﹂(﹃早稲田文学﹄第一〇三号へ一九八四年. 日)に拠る。紅野は﹁井伏文学の源流-富沢有為男の﹁鷲. 第三者の証言や記録類によって検証できないことがらに関しては、. して受け取ると、井伏的虚構の領域で(事実)を操作することにな. (6)松本武夫﹁井伏鱒二の﹁緊芳閣﹂勤務時期﹂(﹃解釈と鑑賞﹄. 十二月1日)でも富沢文に言及している。. りそうだ。必要なのは、それぞれの作品が、どのような要請に基づ いて(事実)を取り込みつつへいかなる構成原理によって作られて いるかを検証することであり、その検証を終えてから、ようや-作. 10.

(11) -宿縁の文学﹄(武蔵野書房、一九九七年四月五日)に収録。. 第五十二巻第六号、一九八七年六月一日)。のち﹃井伏鱒二. き換えられている。. なお、八一九二六年版)では﹁衆芳閣員たりしことあり。﹂と書. 士録﹂現住所だけは二月末日まで調べたという意味であろうか。. (﹃風景﹄第六巻第二号、一九六五年二月一日)。引用は、野口. (3)野口富士男﹁秋声追跡(<*)-﹃仮装人物﹄の副女主人公﹂. 第六巻月報八﹄筑摩書房'一九六五年四月。四頁)0. (S)伴俊彦﹁井伏さんから聞いたこと﹂その六(﹃井伏鱒二全集. 引用は'単行本所収同題論文に拠る。 の名前はない。ところが、本文でも触れたように、大正十四年. (7)先に引いた﹃文学界﹄大正十四年1月号﹁年賀広告﹂に狩野. 三月第二巻第三号では新たに﹁編輯室から﹂という編輯後記に 該当する欄が設けられ、末尾に﹁狩野﹂の署名が見える。この. (12)和田謹吾﹁秋声﹁仮装人物﹂の性格﹂(﹃明治大正文学研究﹄. 富士男﹃徳田秋声の文学﹄(筑摩書房へ一九七五年八月二十日。. 第二十一号へ一九五七年三月三十日)。引用は、和田謹書﹃増. 狩野は同姓者を他に見出せない以上、狩野鐘太郎としなければ. わってから大正十四年三月号編輯時期までの間、すなわち、大正. 補自然主義文学﹄(文泉堂出版、1九八三年十一月十二日。. 二六七貢)に拠る。. 十四年末から翌大正十五年二月までの間に狩野が入社したと推. なるまい。とすると、﹃文学界﹄大正十四年一月号の編韓が終. 定されるのだが、先の﹃趣味と科学﹄編輯後記や、川添の入社. 三四〇頁)に拠る。. 冒頭の﹁例言﹂(一貢)は、﹁文士録﹂に触れて'掲載の現住所. 月間、実質三箇日間の夢二・順子の関係を示唆し、1四三貢∼l四四. 月三十日)7三四頁の記述は、大正十四年四月∼七月の足掛け四箇. ︹校正追記︺長田幹雄編﹃夢二日記﹄2(筑摩書房、一九八七年九. (まえださだあき・兵庫教育大学). は﹁大正十四年二月末日現在調べ﹂としている。﹁例言﹂の日. 謝する。. 閲覧に際して御配慮を賜わった三重県立図書館青山泰樹氏に深-感. ﹃文学界﹄の所在をお知らせいただいた阪本幸男氏、﹃文学界﹄. 附記. 時期も考慮に入れると、大正十四年二月という川添と同じ時期 に見るのが妥当なところではなかろうか。 (8)宵島は'﹃文学界﹄大正十四年二月号には勝承夫の本名で、 む﹁四篇を三人で読む=批評と感想=﹂も寄せている。. 岡田伊三郎、松本清太郎とともに井伏﹁うちあほせ﹂評を含. 年﹁文士録﹂の経歴末尾に、﹁現に﹃趣味と科学﹄の編韓に従. (9)八一九二五年版)﹃文芸年鑑﹄掲載﹁文士録﹂では、宵島は前. 付は﹁三月上旬﹂で八一九二五年版)の奥付記載発行日は大正. 貢のそれでは七月二四日に二人が別れたと読める。. ふ﹂とのl文を書き加えている。(1九二五年版)﹃文芸年鑑﹄. 十四年三月十五日、印刷日は三月八日だから、少な-とも﹁文. ll.

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