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<研究ノート> クラシック音楽の社会学的研究にむけて : 特異なファンカルチャーとしてのクラシック

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著者

吹上 裕樹

雑誌名

社会学部紀要

110

ページ

69-76

発行年

2010-10-30

URL

http://hdl.handle.net/10236/6439

(2)

〈研究ノート〉

クラシック音楽の社会学的研究にむけて

―― 特異なファンカルチャーとしてのクラシック ――

**

はじめに

本稿は、クラシック音楽の聴取を通じた音楽文 化を「特異なファンカルチャー」として描きだす ことを通じて、クラシック音楽の社会学的研究を 現代社会との関わりにおいて位置づけることを目 指すものである。ここで対象としてあつかうクラ シック音楽とは、一般に18世紀から20世紀初頭に 作曲された「古典」とされる音楽作品や、そうし た作品の演奏を通じて聴かれる音楽をさしてい る1)。クラシック音楽は今日でも音楽ジャンルと して一定の立場を占めており、それ固有の文化形 態を保持していると考えられる。本稿ではこうし た音楽文化のもつ特異な輪郭を描きだすことを目 的とするが、同時に、この対象を現代において扱 うことの社会的な意義についても検討したい。 カルチュラル・スタディーズなどによる近年の 文化研究の隆盛以降、現実社会から自律的であり、 かつ普遍的な価値をもつとされる文化の構築性 や、そのような文化の価値を強調する姿勢にはら まれるイデオロギー性が学術的研究によって明ら かにされるようになってきている。本稿もこうし た近年の文化研究の流れを受けつつ、クラシック 音楽を現代の社会状況との関わりにおいて考察し ようとするものである。また、ここでは特に、対 象となる音楽を愛好する人々がそれをどのように 楽しんで聴いているのかという面に着目して論じ る。そうした議論を通じて、今日のクラシック音 楽受容の持つ社会的意味と、これからの音楽文化 研究のめざす方向性を探っていくことにしたい。

1.先行研究における本稿の位置づけ

社会学において、クラシック音楽をあつかった 研究はあまり多く見られない2)。これには様々な 理由が考えられ得るが、一つには、音楽そのもの を社会学的な分析の対象としてどのようにあつか えばよいのかという問題があげられる。つまり、 時間の流れの中で音響として生成しては消えてい くという音楽の特性上、それを記述することが難 しいというものである。しかし、音楽そのものを 記述することが難しいからといって、音楽を社会 的コンテクストに位置づけて分析できない理由に はならないだろう。実際にはもう一つの問題、つ まり音楽を現実社会とは切り離された自律的な存 在であるとする考え方そのものが、こうした分析 を躊躇させてきたということがある。いわく音楽 は抽象的な芸術で、具体的ななにものをも表象す ることのない現実社会から隔絶した自律的存在で * キーワード:クラシック音楽、聴衆、パフォーマンス ** 関西学院大学大学院社会学研究科博士課程後期課程 1)音楽学者の岡田暁生によれば、ドレミの音階や「ドミソ」「シレソ」などの和音といった音システム、ヴァイオ リンなどの楽器、演奏会や楽譜出版といった制度など、今日クラシック音楽と呼ばれて流通している音楽を取り 巻く環境のほとんどが、この時代に形成されたこと、それが今日なお多くの人々にとって、説明を要しない「自 明」なものとなっており、好むと好まざるとにかかわらず、私たちはこうした音楽制度の中に生きている(岡田 2005:!―")。 2)ウェーバー、ジンメル、アドルノ等の古典的理論家の著作をはじめ、「芸術社会学」と呼ばれる分野でこれをあ つかったものは少なからず存在してきた。しかし、こうした人々の研究を現代に受けついだ課題として研究した ものは多いとはいい難い。このような研究の数少ない例として、M・ウェーバーの『音楽社会学』を詳細に検討 しなおした和泉(2003)の研究があげられる。 October 2010 ―69―

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ある、と。こうした点を指摘するジャネット・ ウォルフは、文学批評や映画批評などにおいてす でに開始されていた、自律的で超現実的な性質を もつとされる芸術理念そのものにはらまれたイデ オロギー性を批判的に検討する研究からこれまで 音楽が免除されてきたこと、社会学を含めたアカ デミックな研究領域自体がこうした理念を守るこ とに寄与してきたことを問題にしている(Wolff 1987)。また、音楽学と社会学という学問領域の 区分が、音楽を対象とする研究を分断してきたと いう指摘もある。渡辺裕は、これまでの音楽学で 研究対象にふさわしいとされる音楽はもっぱらク ラシック音楽に限られてきたこと、他方で大衆的 な流行現象として捉えられるポピュラー音楽は社 会学によって研究されてきたことを指摘し、その ような研究対象の区分が学問的アプローチの区分 に直結するという「不幸な断絶」があったとして いる(渡辺 1995:10)。 しかし、今日においてクラシック音楽をあつかっ た研究は、以上のような音楽の「自律性」に対す る躊躇を乗りこえ、さらに学問領域間の垣根をこ えて互いに影響し合うという状況にあるといえ る。こうした背景には、カルチュラル・スタディーズ などの批判的文化研究の流れを受けて、芸術音楽 を扱った分野においても、対象を特定の文化的・ 社会的コンテクストに位置づけて説明するべきで あるという認識が広まっていることがあげられ る。たとえば、フェミニズム批評を音楽学に取り 入れたスーザン・マクレアリは、自らの研究が ジェンダーやセクシュアリティの問題に直接関わ る以上の幅広い問題関心を引きよせ、音楽と社会・ 政治を結び付ける様々な批判的研究が展開される きっかけとなったことを述べている(McClary 1991=1997)。また後で論じるように日本におい ても、音楽学者の渡辺裕や岡田暁生、社会学者の 宮本直美らによって、従来の音楽学における研究 関心の偏りが批判されるようになってきている。 本稿もこうした近年の文化研究の流れを受けつ つ、クラシック音楽を現代の社会状況との関わり において考察しようとするものである。その際本 稿では特に、対象となる音楽がそれを愛好する 人々(=ファン)によってどのように受容されて いるのかという問題に焦点が当てられる。音楽受 容の問題をあつかうためには様々なアプローチが 考えられるが、ここでは、ファンらがその音楽を どのように楽しんでいるのかという面について、 これを一種の「ファンカルチャー」として捉える ことで考察して行く。また、そこからの含意とし て、現代の社会的・文化的状況の中で、「芸術音 楽」としてのクラシックが、どのような位置を与 えられているのかについて検討するための論点を 提示できればと考える。

2.ク ラ シ ッ ク 音 楽 を「フ ァ ン カ ル

チャー」としてあつかう意義

クラシック音楽というと、いまでは一部のマイ ナーな音楽ジャンルに過ぎないと思われているか もしれない。メディア文化や消費文化の中でもっ とも注目を集めるのはロックやポップなどのポ ピュラー音楽であり、クラシック音楽はジャズや そのほかの伝統音楽・民族音楽などと並び周辺的 な文化として認知されているに過ぎないともいえ る。だが、次節でも確かめるように、実際にはク ラシック音楽は大いにメディア化・商業化されて いるのであり、かつ一定の特色をもった文化ジャ ンルとして現在でも成立している。ところが意外 にも、クラシック音楽を対象としたアカデミック な研究の中で、人々がそれをどう楽しんでいるの か、ということに踏み込んだものはあまり存在し てこなかったように思われる。ポピュラー音楽や ポピュラーカルチャーを対象とした研究において は、ファン(愛好家)が対象をどのように楽しん でいるかという視点は、はずせないものとして扱 われてきているにもかかわらず、クラシック音楽 の場合それが問題にされてこなかったことはどう してであろうか。 もちろん、これまでにもクラシック音楽の愛好 家を扱った研究がなかったわけではない。だが、 そこでクラシック音楽が特に注目されるのは、愛 好家集団の階層性や文化再生産の問題を解明する ことが目的である場合が多く3)、ファンらがその 3)こうした目的をもった研究の多くは、P・ブルデューによる一連の文化再生産論を起点にしてなされたものが多 い。例として、SSM 調査データに基づき、クラシック音楽を趣味とする人々が階層的に閉じられたものかどう ―70― 社 会 学 部 紀 要 第 110 号

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音楽をど!う!楽!し!ん!で!い!る!の!か!という点に注目した 研究をみることはほとんどない。まずはこの点を 説明していきたい。 こうしたことの第一の要因には、クラシック音 楽をとりまく言説自体が、音楽作品の「自律性」 を語る神話に彩られていたということがあげられ るだろう。渡辺裕がいうように、クラシック音楽 はこれまで、その聴取に際して、作品そのものの 理解を最優先とする規範的な態度が要求されてい た。すなわち、演奏家の身振りや感性的な音響刺 激などの作品理解にとって無関係とされる要素を 排除し、作品理解にとって有意味と認められる音 のみに集中して音楽を聴くという態度である(渡 辺 1989:60―61)。このため、クラシック音楽を 快楽的な要素から説明・理解しようとする姿勢そ のものが避けられてきたということができるかも しれない。あるいは、ほとんどの人々にとって、 クラシック音楽との最初の出会いが、学校の音楽 教育を通じてであるということも、真面目に習得 されるべき「教養」としてのクラシックのイメー ジを強化してきたとも考えられよう。 こうした点に関しては、以上のような説明に加 えて、これまでのアカデミックな研究のあり方自 体の問題についても指摘できる。渡辺は別の著作 で、クラシック音楽においてはアカデミックな語 りとコンサート評や CD レヴューなどの一般批評 による言説に分断があることを指摘している。彼 によれば、音楽学においてはどんなマイナーな作 曲家のマイナーな作品にも何らかの研究が存在す るにもかかわらず、普通にクラシックと呼ばれる ジャンルを聞く際に問題にされるような演奏や演 奏家に関する研究はほとんど行われていないので ある(渡辺 2001:11)。あるいは こ れ と は や や 違った観点からではあるが岡田は、従来の音楽学 において、たとえ演奏が扱われる場合があったと しても、そこでの議論は作品に大人しく聴き入る 聴取者を暗黙の内に前提としたものになってお り、実際に音楽を演奏するときに感じられる身体 感覚やその快楽の次元は排除されてきたことを指 摘している(岡田 2003)。 以上のように、クラシック音楽は一般的なイ メージや語られ方の上でも、アカデミックな領域 での議論においても、現実社会からの影響を排し た「自律性」をもったものとしてあつかわれる傾 向があったことがわかる。そこでは演奏家の身体 とそこから生じるパフォーマンスの次元、あるい は多様な感性をもってそれを受け止める聴衆の存 在が、著しく軽視されてきたことがわかるだろ う。だが実際には、クラシック音楽といっても、 音楽を聴くことの楽しみや魅力を抜きにして存在 してきたわけではない。クラシック音楽をファン カルチャーとして扱う意義は、こうした音楽を聴 くことの快楽の次元、聴取者をその音楽にひきつ け能動的に関与せしめる魅力の次元を分析の俎上 に載せることにある。以下ではまず、クラシック 音楽が日常的な音楽文化として人々の生活の中に 浸透していることを示し、つづいて、そうした状 況の中にあっても、人々が音楽の聴取を通じて非 日常性を志向する面があるということを確認した いと思う。

3.日常へと拡散するクラシック音楽

今日の我々にとって、音楽を聴くことは特別な ことではなくなっている。音楽は我々にとって、 メディアを通じて、あるいはライブに足を運ぶこ とによって、(定められた対価さえ支払えば)好 きなときに好きなように利用できるもっとも身近 で日常的な娯楽となっている。このことはクラ シック音楽においても例外であるとはいえない。 細川周平がいうように、レコードや CD などの複 製メディアによる音楽聴取が可能になった現代に あっては、どのようなジャンルの音楽も、彼のい う「ポピュラー化」の作用から逃れられない。 どのような高邁な理想を掲げているにせよ、 芸術もまた娯楽になってしまった。「単なる」 娯楽に。…レコードは音に対して無差別に浸透 し、分け隔てなく複数化する。クラシック音楽 がポピュラー音楽と同じテクノロジーとジャー ナリズムを通過する。同じ宣伝形態と興行形態 を持ち、ゴシップとスター信仰と最新情報飢餓 かを問うた米澤(2000)、戦前の音楽愛好家集団の学歴・階層性について、ブルデューによる「界」の概念を利 用して分析したものとして加藤(2005)をあげておく。 October 2010 ―71―

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を共有する。今や違いは――極論す れ ば―― PA への依存度とライブでの聴衆の身振りぐら いではないだろうか。(細川 1990:389) 細川の指摘は、メディア技術の発展および消費 社会化によって、芸術音楽としてのクラシック が、制度上はともかく、人々の生活意識の中では もはや特別の価値を持たなくなっているというこ とを示している。また、渡辺裕も現代における音 楽聴取が、ポストモダン的なパラダイム転換の中 で「軽やかな聴取」となってきていることを指摘 している(渡辺 1989)。ここでいわれる「軽やか な聴取」とは、メディア技術や消費文化が社会に 浸透する中で、作品の統一的原理を理解しようと する従来のクラシック音楽受容に見られた「真面 目」で「精神主義」的な姿勢が徐々に抜け落ちて きているという事態を指しており、細川の主張と も重なりあうものである。 しかし一方で、クラシック音楽という音楽ジャ ンルが現在においてもポピュラー音楽と区別され るものとして存在すること、「クラシック音楽」 という言葉それ自体がそのほかの音楽とクラシッ クとを区別する指標として実際に使用され流通し ていることもまた確かなのである。上述した渡辺 の議論を受ける形で輪島は、渡辺の基本的なアイ デアを認めながらも、こうした現象を知的スノッ ブらによる一時的な流行現象であったと捉え、 「軽やかな聴取」の後にも、「高級文化」としての クラシック音楽のイメージは持続しており、消費 文化の中で「『ハイソ』なブランド」としての価 値をもって機能しているとする(輪島 2005)。こ うした点について若林の言葉を借りるなら、クラ シック音楽は大衆的に誰もが利用できる「高級さ の記号」として存在しているということになる (若林 2005)。 以上の指摘からわかることは、クラシック音楽 がオーセンティックで普遍的な価値を有するとい う価値観は、現代の社会状況の中で拡散してきて いるとはいえ、クラシックはいまでもそれ以外の 音楽とは異なった扱いを受け、社会に対して一定 の役割を演じているということである4)。しかし ファンカルチャーとしてクラシック音楽を描き出 そうとするとき、ここでみたような日常性への拡 散という側面からのみでは、その音楽に対する特 別の愛着が理解できるわけではないことがわか る。渡辺らによる研究は、現代においてクラシッ ク音楽が置かれている社会的位相を示してくれる 貴重な成果といえるが、「人々をクラシック音楽 にひきつけるものは何か」という本稿における問 いに関しては、限定的にしか答えられないだろ う。たとえ「高級さ」のイメージが人々をクラ シック音楽にひきつける要因になっているとして も、それだけではファンらがその音楽に積極的に 関わる内在的な理由がみえてこないのである5) では、クラシック音楽が人々をひきつける理由 は、いったいどのように探求されればよいのだろ うか。2.で論じたように、従来の音楽学的研究 においては、音楽の「演奏」にはらまれる身体性 や快楽という次元に着目したものはほとんど行わ れてこなかった。これと同様に、クラシック音楽 の愛好家研究においても、実際に音楽が演奏され る場で、それを人々がどのように受け取っている のかという内容に踏み込んだ研究はほとんど行わ れていない。クラシック音楽に限らず、私たちは 音楽を聴くときに、誰によるどんな作品を聴くの か、ということと同時に、その音楽が誰によって どのように演奏されたのかをもっとも気にするの ではないか。とりわけクラシック音楽の場合、 4)クラシック音楽をポピュラー音楽と区分するような指標は、単に商業的な便宜として、あるいは消費社会の中の 記号としてのみ機能しているということではない。宮本直美は、文化政策において公的な支援の対象となる音楽 のほとんどがクラシック音楽関連によって占められているという事実に着目し、公的な文化政策の領域では、正 統な文化と非正統な文化とを隔てる境界がいまだに存在していると指摘する(宮本 2008)。 5)宮本直美は、19世紀ドイツにおける市民階層の音楽活動への積極的関与について分析し、そこに活動の担い手で あった教養市民層の人々が求める教養の理念からくる道徳的要請が働いていたこと、このような要請が音楽を主 体的に聴くという美学的態度にもつながっていることを指摘している(宮本 2006)。こうした近代以降に構築さ れた美学的要請が、現在どのような影響力を持っているかに関しては、慎重な検討が必要である。しかしここで 私が音楽に対する積極的態度というとき、必ずしもそうした美学的・道徳的に要請される積極性を意味している わけではない。 ―72― 社 会 学 部 紀 要 第 110 号

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「いい演奏であったかどうか」ということが、聴 き手側の最大の関心事であり、もっとも話題にな ることだと思われる。以下では、コンサートにお けるパフォーマンスに焦点を当てた議論を紹介し ながら、この点をどのように議論に組み入れてゆ けばよいか考えたい。

4.非日常性への志向

サイードは、現代の音楽文化の主要な駆け引き の場として、コンサートにおけるパフォーマンス (演 奏 行 為)に 着 眼 し て い る(Said 1991= 1995)。サイードによれば、音楽のパフォーマン スは、音楽を通じた個人と社会との関係を媒介す る役目を果たす。ここでいう個人と社会との媒介 ということには、コンサートにおける演奏を通じ て、作曲家個人のアイデアが多くの聴き手に媒介 されるという基本的な意味が含まれるが、ここで のサイードの議論の力点は、演奏行為そのものが もたらす社会的効果の面に置かれている。また、 そうした演奏行為=パフォーマンスを可能にする 背景の存在、つまり音楽の専門教育やコンサート ホールでの聴取マナーといった社会的制度、さら には大企業のスポンサーという巨大資本の存在ま でをも視野に入れたものである。こうした指摘は 次の箇所によくあらわれている。 観客をコンサートに引き寄せるものは何か。 それは、聴衆のほとんどがどうあがいても、ま たどう望んでも、とてもまねのできないような ことを、まさにコンサートやオペラのステージ でパフォーマーが試みるからである。しかし、 この到達しえない実在性、ステージで目にする と衝撃的なドラマティックさをともなうそれ は、また背後でそれを可能にした制度や権力な くしてありえない。演奏家の後天的訓練や先天 的資質、コンサート団体、興行主、チケット業 者といった文化活動代理業者、種々雑多な社会 的・文化的過程(資本主義やテレコミュニケー ション革命、電子メディア、航空会社のツアー をふくむ)そして特定の音楽イベントを求める 聴衆の願望ないし欲求。こうしたものがあい まって、極限的催事(エクストリーム・オケイ ジョン)と呼べるものが出来上がる。それは日 常性を超えるなにかである。それは、なにもの にも還元できず、時間的にも反復不可能ななに かである。それはかなり厳密で融通のきかない 条件のもとでのみ経験できるようなものをその 核にもつ、なにかである。(Said 1991=1995: 45) サイードによる知見は、彼が「極限的催事」と 呼ぶところの、現代的なコンサート催事における パフォーマンスの「極端な」性質に着目したこと にあったといえる。こうした極端さが現れた要因 について、サイードはまず、19世紀半ば以降にお ける音楽家と聴衆の専門分化について言及する。 ヴィルトゥオーソ演奏家の登場と彼らによるコン サートホールに特化した編曲作品は、このような 音楽を取り巻く環境の変化をよく表している6) 彼らはこうした編曲を通じて、これまで様々な場 面でそれぞれの目的に応じて演奏されていた音楽 作品を、ただ自らの技巧を誇示するために、コン サートホールへと持ち込んだのであった。しかし ここで我々が注目したいのは、サイードがいまひ とつの着眼点として目を配る、観衆がコンサート に求める欲望という側面である。 これはスター崇拝の問題とも関わりあう。サ イードがここで極限的催事としてのコンサート・ パフォーマンスの代表例に挙げているは、20世紀 初期アメリカにおける代表的演奏家・指揮者であ るトスカニーニの演奏である。トスカニーニは、 その大衆的人気、ラジオ放送などのメディアへの 露出、そして厳格極まりないパフォーマンスの業 によって、今なお伝説化される存在である。よく 知られるように、アドルノはこうしたトスカニー 6)19世紀における主要な編曲形態は、公的な場で演奏されるオペラや交響曲といった大規模な楽器編成の音楽を、 家庭においても演奏できるよう小規模な編成(多くの場合ピアノ)に移し変えたものだった。サイードによれ ば、このような編曲形態の背後には、アマチュア演奏家の存在が大きくかかわっている(Said 1991=1995: 28)。 October 2010 ―73―

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ニが示す特異な音楽的・社会的性格に対して文化 産業論的観点から批判を加えた7) しかし、そうしたアドルノらの議論を批判的に 検討する中でサイードは、アドルノの批判とは異 なった論点を導き出す。それは現代のコンサート において体験される極端さそのもの、聴く者に日 常の生活からかけ離れたものであるかのような幻 想を抱かせるパフォーマンスの効果である。 トスカニーニの演奏はまさにショッキングなほ どの極端さを示している。アドルノが「鉄の規律 …というよりまさに鉄そのもの」といって描くよ う に(Adorno 1963=1998:50)、そ の パ フ ォ ー マンスは音楽を演奏することにまつわる偶然的要 素を捨て去った完璧すぎるコントロールを特徴と する8)。さらにトスカニーニの場合、その音楽レ パートリーがこれもまた極端に限定された「名 曲」で占められており、このことだけを取り上げ ても、この時代のコンサート催事のもたらす新し い社会的意味の一端が示される。トスカニーニの 時代、コンサートはそれまでのような近しい人々 によって共有されたコンテクストに基づく私的で 親密な対話の場ではなくなっていた。サイードが 強調するように、トスカニーニのコンサートは 「公の催事であって、そしてま!さ!に!そ!れ!だ!け!なの だ」(Said 1991=1995:49)。そ う し た 性 質 を もったコンサートでは、誰もが知る名曲を誰もが 知る演奏家=トスカニーニによって演奏される必 要があった。そこでは従来のように内省的な契機 を得るための音楽、人格的な陶冶を目的とした音 楽というよりは、パフォーマンスの極端さそれ自 体を受け止めるということが目的となったのであ る9) こうしたサイードの議論によりながら、コン サートにおけるパフォーマンスというものに着目 することによって、我々は音楽が聴かれる際の魅 力について、とりわけその快楽の次元に言及する ことができるようになった。これを非日常性への 志向という言葉で表してもよいだろう。ここでい われていることは、これまでの文化社会学的研究 によって度々批判にさらされてきた、音楽が人々 に抱かせる「自律性」幻想といってしまうことも できるものである。しかし、それを文化的・社会 的背景から説明し、そのイデオロギー性を暴き出 すことによっても、このような志向性そのものが ただちに霧散してしまうことはないということが わかる。それはむしろ、巨大な文化産業の出現に よって音楽がいたるところに拡散し、音楽を享受 することが日常的に容易になったからこそ、より 際立つものとして現れた音楽経験であるといえ る。クラシック音楽のファンカルチャーについて の研究においては、このような音楽のもたらす非 日常性、それらを志向する人々の欲望を含んだ議 論がなされる必要があると考える。

おわりに

クラシック音楽は、その聴取マナーや語られ方 そのものにある規範性が込められてきた。それは 芸術作品を真面目に受容しようとする姿勢であ り、作品の自律性を強調する言説である。このた めクラシック音楽の研究はその問題関心を、一方 ではこれまでの音楽学のように作品そのものの精 確な理解へと向け、他方では今日の文化研究に見 られるように、そうした音楽学の姿勢を含む、対 象の受容のされ方にはらまれるイデオロギー性を 問題とする方向へと向けてきたのであった。しか し、本稿でみてきたように、そこには演奏そのも のを人々がどう楽しんでいるのか、という視点が 欠けていたといえる。 ここではサイードらの知見を借りながら、パ フォーマンスとしてのクラシック音楽に着目する ことで、人々がその音楽にどうしてひかれるのか 7)アドルノによるトスカニーニ批判は、「音楽における物神的性格と聴取の退化」(Adorno 1963=1998)のほか、 いくつかの場面で述べられている。 8)アドルノはこうした特徴をもったトスカニーニによる演奏を、有機的統一体として再現されるべき作品を「物象 化」するものとして批判している(Adorno 1963=1998:50)。 9)これは、親密な共同体から離れた、都市的な音楽経験のもつ意味についての考察であると言い換えることもでき るかもしれない。こうしたことを考える際、たとえばベンヤミンは、近代の都市における群集≒公衆の経験する 「ショック」体験についていくつかの場面で語っている(Benjamin 1939=1995、ほか)。こうした近代における 知覚のありようと、ここでのコンサート文化論はどこかで関わりあうものがあるのだろうか。 ―74― 社 会 学 部 紀 要 第 110 号

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という問題を焦点化してきた。人々は音楽のパ フォーマンスを通じて、日常の中に拡散した音楽 文化の中にあって、非日常的な「極端さ」をどこ かで志向し続ける。こうした視点を加えること で、対象の果たすイデオロギー的機能を批判する だけではみえてこない、音楽文化に固有の性質に 光が当てられるのではないかと考える。 ただし、このように音楽をそのパフォーマンス に着目して論じるということは、クラシック音楽 をそのほかの様々な音楽やスポーツイベントなど と同等の位相で論じるということにつながる。こ のことは研究の方向性として間違ってはいないと 考えるが、そうするためには、いまだ残された文 化の価値区分の問題――様々な文化を「ハイ/ロ ウ」、「芸術/娯楽」に分類する姿勢――について きちんと論じる必要があろう。「文化」という概 念そのものの多義性が強調されるようになって久 しい今日、果たして「芸術文化」にくくられるク ラシック音楽が、社会の中でどのような役割や価 値を持ちうるのだろうか。この点を考えるために は、やはり従来の「芸術文化」の枠に囚われるこ とのない、幅広い視座の中に対象を位置づけて考 え直す必要があるものと考える。 参考文献

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An Approach to Sociological Research of Classical Music:

Classical Music as “a Unique Fan Culture”

ABSTRACT

This paper attempts to describe the musical culture of those who listen to classical music as “a unique fan culture”, through which we reconsider the sociological study of classical music in relationship to contemporary society. Today, classical music still has its own place in our daily lives and has its own cultural forms. To describe these unique contours of today’s classical music in our everyday lives is one of my aims in this paper. Moreover, we try to show that the listener of classical music is looking for something beyond ordinary life in their music listening experience.

Key Words : classical music, audience, performance.

参照

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