はじめに 哲学界の泰斗、西田幾多郎(1870~1945)が、東北帝国大学の哲学教室の教員らの誘いで仙 台に来訪し、講演を行ったのは、1935(昭和10)年 9 月のことであった。 1935年というと、西田はすでに1928年(昭和 3 )年に京都帝大を定年退官し、『一般者の自覚 的体系』、『無の自覚的限定』、『哲学の根本問題』、『哲学の根本問題 続編』など多くの著書を 発表して、いわゆる「後期西田哲学」の樹立に向け、思索に打ち込んでいた時期にあたる。そ の講演内容とは、一体どのようなものだったのだろうか。 これまで、その講演期間は26日から28日のこととされ1)、また講演の題目についてもはっきり とはわかっていなかった2)。しかしながら今回、東北大学史料館所蔵の公文書により、従来把捉 されてきた講演の日程は誤りで、本来は 9 月25日から27日の 3 日間であったことが明らかとな り、また題目についても「歴史的実在の世界」という、西田が当時最も関心を寄せていたテー マの一つであることがわかった。 そこで本稿では、今回見つかった新資料とともに、1935年の講演をめぐる関係者の言説や論 考、書簡などをたどりながら、できるだけ詳細に西田の来仙時の動向について復元し、その講 演の意義について考察してみたい。 一、西田と東北帝国大学の関係について 西田が東北帝国大学と記録上、直接的な関わりを持ったのは、1935年 9 月の講演が初めての 機会であったとみられるが、当時の東北帝国大学には、西田と深く関係した人物が多く在籍し ていた。 1935年当時法文学部教授を務め、哲学第三講座(哲学概論)の初代担当者であった高橋里 美(1886~1964)は、その処女論文「意識現象の事実とその意味-西田氏著『善の研究』を読 む-」3)で、初めて鋭利な西田哲学批判を展開した人物であった。「高橋は西田の直接の弟子で はなかったけれども、彼の哲学は西田哲学との真摯な対話を通じて形成されたものであり、そ の意味で高橋哲学は広義の西田山脈の一角、あるいは西田山脈に連なる一つの独立峰をなして いる」4)と評されるように、その生涯を通じて西田との交流は続いた。 三宅剛一(1895~1982)は、京都帝大哲学科にて西田に師事した教え子であり(1916~ 1919)、講演当時、理学部助教授として「科学概論」を担当していた。西田と三宅は「互いに信 頼しあい、(まただからこそ)誠実に哲学する者として一歩もひかず議論し、応酬した」5)間柄 に終生あったとされ、西田の死後、1954(昭和29)年に三宅は京大哲学科の再建を担った山内 得立に請われて、京都大学文学部哲学科哲学史第一講座教授に就任している。 他にも当時の法文学部には西田と交流のあった人物が多くいた。法文学部教授で哲学第二講 座(西洋古代中世哲学史)の初代担当者であった石原謙(1882~1976)もまた、西田と古くか ら交流があり6)、西田の講演を実現させるために繰り返し依頼を行った中心人物でもあった。同 じく法文学部教授で心理学講座を担当した千葉胤成(1884~1972)は、京都帝大哲学科にて心
西田幾多郎が仙台に来た日
村 上 麻佑子
理学を専攻しつつ、西田にも学んでいる。東北大学史料館所蔵の千葉胤成文書の中には、著作 集に掲載されていない「京都」と題される原稿が含まれており、それによると博士論文「心理 学の対象」の提出に西田の後押しがあったとされる7)。法文学部助教授の地位にあった河野与一 (1896~1984)は、第三高等学校に赴任していた二年間に、西田の「哲学概論」や「特殊講義」 を受講しており、西田との間でなされた交流について「西田先生の片影」8)というエッセーを書 き残している。 そうしたことからして、西田にとって陸奥の仙台、東北帝大において講演を行うということ は、親しい旧知の人々に招かれる出来事としての意味を持っていた。 さらに東北帝国大学の創立当初にさかのぼれば、第二代総長である北條時敬(1858~1929) は西田の金沢時代の恩師であり、また1919(大正 8 )年に京都帝国大学哲学科の助教授とし て、西田が招聘した田辺元(1885~1962)も、前職は東北帝国大学理科大学の「科学概論」の 講師(1913~1919)である9)。西田の姪にあたる高橋ふみ(1901~1945)も、1926(昭和元)年 に東北帝国大学法文学部に入学し(1929年卒業)、哲学の道に進んで石原謙、小山鞆絵(1884~ 1976)、オイゲン・ヘリゲル(1884~1955)、高橋里美らに学んでいる10)。 したがって東北帝国大学についても、西田にとって知人が多く在籍したつながりのある場と しての印象があったと考えられるだろう。 二、講演までのプロセス すでに1932(昭和 7 )年から、石原謙は西田に再三にわたり東北帝大での講演依頼を行って いたようで11)、西田は「仙台の大学の方にはいろいろ私の知己も多く私も一度行って見ようか ともおもひ居り」や、「毎度懇に仰せ下され私も一度仙台の方に参って見度もないでもないので すが」12)などと石原に返事を出している。高橋里美の記憶によれば、「哲学の連中が発議して、 一度先生ご自身の口から先生の哲学をお聴きしたいものだということになり、先生にそのこと をご依頼したところ、御快諾あって、わざわざ仙台に御来講になった」13)と端的に述べてあるが、 実際には 3 年も前から西田への講演依頼は懇ろに行われていた。 そしてついに、1935(昭和10) 8 月30日付の石原宛の書簡に「折角罷出ましても御期待に添 ふ様なお話もできまいと存じますが御差支がない様でしたら今度御地の方へ参って見ようかと 思って居ります…(中略)参りますとすれば私は九月末頃が都合がよいと存じます」とみえ、講 演のスケジュールが具体化する。 同年 9 月 6 日付の石原宛の書簡には、 学術振興会の会議は十九日という事故二十四五日頃からでも出かけ得るかと存じます 今慥 に何日からとは申し上げ兼ねますが 甚勝手がましくすみませぬがどうか二三回といふこと にお願いいたしたいと存じます どうも私の癖として外泊いたしますと夜よく睡眠ができ申 さず それに近来久しく講義を致さぬもの故講義に疲れます故 外に一回座談会と申す如き ものを致してもよろしいと存じます その方却って双方の為によろしいかも知れませぬ い づれ又 高橋君によろしく…(中略)それから身勝手の御願で御座いますが聴講者はなるべく 専門的に理解ある少数者といふことにお願いできますまいか 東京の学校で一二回話をいた しましたが甚多数にて閉口いたしました
とあり、西田から石原へ、講演に関する要望が伝えられている。それによれば、来仙の日程は 9 月24日か25日ころから、講演回数は 2 、 3 回、他に座談会を 1 回設ける、聴講者は専門的に 理解ある少数者に限る、といった条件があったことがわかる。 実際、当時の西田の講演記録を確認すると、講演を 2 、 3 日間に分けて行うことが一般的で あったようである14)。また地方紙『河北新報』にも、西田が講演を行うことを知らせる宣伝な どはみられず、一般向けに宣伝などは行われなかったと考えられ、概ね西田の意向に沿った講 演の場が準備されていた。 三、仙台での足取り それでは、西田の仙台での具体的な足取りを追っていこう。 東北大学史料館所蔵の公文書『講習講演会関係/昭和 8 ~11年』には、次のような通知文書が 残されている。 拝啓今回左記ノ如ク臨時課外講演有之候二付、御聴講被下度右御案内申上候 昭和十年九月十七日 東北大学法文学部長 石原謙 各教官殿(筆者註-毛筆書) 本多総長殿(筆者註-毛筆書) 世良庶務課長殿(筆者註-毛筆書) 講師 京都帝国大学名誉教授 西田幾太ママ郎氏 演題 「歴史的実在の世界」 時日 九月二十五日ヨリ二十七日迄、三回 九月二十五日(水)午後四時 二十六日(木)午後二時半 二十七日(金)同 これは1935年 9 月17日付で、当時法文学部長(任期;1934~1937)を務めていた石原謙から、 各教官、本多光太郎総長、世良庶務課長宛に通知された臨時課外講演の案内文書である。これに よれば、西田の講演は 9 月25日から27日までの 3 日間のスケジュールで組まれ、その演題も「歴 史的実在の世界」が予定されていたことがわかる。総長や庶務課長をはじめ、各教官へも案内が 周知されていることから、石原は哲学教室の関係者だけでなく、学内の幅広い有識者へ、講演へ の参加を呼び掛けていたとみられる。また石原が西田から 9 月 6 日付の手紙を受け取った後、10 日ほどで大学関係者に案内通知が出され、さらにその 8 日後には早速、西田による講義が開催さ れており、比較的短い準備期間のうちに、講演は実施されるに至ったことが確認される。 ちなみにこの公文書には、講演場所については記載されていないが、木村俊彦氏の論考(「『善 の研究』についての解釈学的考察」)によれば東北帝大法文二番教室(片平丁キャンパスにあっ た階段大教室)であったとされている。 また西田の日記である『寸心日記』にも次のように仙台滞在中の様子が書かれている。
『寸心日記』 実際の日程 日記の日付欄 西田による記述内容 24日 九月二十五日 上野発、仙台着。河野同行。定禅寺通ヤグラ橋本方面 25日 九月二十六日 午後四時より講演。本田ママ光太郎氏に逢ふ。 26日 九月二十七日 前日(筆者註-日記枠線の右脇に手書きされている) 二時半より講演。夜千葉、佐竹と会食。 27日 九月二十八日 前日(筆者註-日記枠線の右脇に手書きされている) 青葉山、八木山廻る。二時半より講演。夜卒業生と会食 ——————————(筆者註-手書きの線引きあり) 28日 松島を廻る。夜法文学部教授と会食。 29日 九月二十九日 〇・四十五分仙台発、夜九時半帰宅。 現在刊行されている『寸心日記』15)と先の公文書では、仙台での滞在期間と東北帝大での講 演期間に違いがあるが、実際の日記をみると16)「前日」と日記枠線の右脇に西田の手で付け加え られており、西田が日記の記載場所を誤ったことに自覚的であったことがわかる。また西田の 次男、外彦へ宛てた28日付の葉書には「二十四日にこゝに来り三日間講義をいたしけふは松島 などを見学いたし明日鎌倉に帰ります」と記され、高坂正顕宛書簡にも「私は二十四日から仙 台に来ています。明後日鎌倉に帰り」( 9 月27日付)とあることから、24日から29日の間来仙し、 25日から27日の 3 日間にわたって講演を行ったことは確実といえよう。 ではその具体的な足取りを追ってみたい。24日には河野与一が上野駅まで西田を迎えに行き、 午前10時上野発の急行にて来仙した17)。西田の「講義はいつかの御手紙にあった様に午後とし て置いて下さい 午前に考をねることもできると思ひますから」18)との意向を受け、翌日の25 日午後 4 時から講義は開始されている。講演初日は石原の出した学内通知によって、当時の総 長であった本多光太郎(物理学)も聴講に来ており、学内でも講演への関心が高かったことが 推察される。 西田の宿泊先については、『寸心日記』に「定禅寺ヤグラ橋本方面」とある。これは河野与一 がかつて暮らした「橋本組の控家の庭に臨む明治式の洋間」19)のことであり、定禅寺通に所在 した土木建設会社橋本店の洋館を指している。さらに28日には、高橋里美が北二番丁にあった 旧佐久間左馬太(陸軍第二師団長)邸に西田を迎えに行ったと記録を残しているので、その宿 泊先は複数あったとみられる。 26日のスケジュールも講演は午後 2 時半からで、前日と同様、午前中は考えをまとめる時間 に当てられたようである。この日は講演終了後、千葉胤成や佐竹(不明)と会食したとある。 続く27日には「青葉山、八木山廻る」(『寸心日記』)とあり、午前中は仙台城(青葉城)や瑞 鳳殿といった仙台市内の名跡を巡った可能性が高い。その後、午後二時半から講演が行われ、 その日の夜は芭蕉の辻にあった洋食屋、精養軒20)で「有志者」(『寸心日記』では「卒業生」)を 集めて、西田を囲む歓迎会が催された。 滞在 5 日目にあたる28日は、高橋里美らとともに自動車で丸一日、松島や多賀城へのドライ ブを楽しみ、夜は日記によると法文学部教授たちと会食している。そして宿に帰った後、西田 は「陸奥の 宿のとぼしび 夜はふけて 奥の細道 よみふけるかも」(西田外彦宛書簡)とい
う歌を詠んでいる。鎌倉に帰宅後も、鹿野治助や和辻哲郎宛の書簡21)には、平泉まで行きたかっ たが仙台で疲れ松島のみ観光したと述べており、「松嶋は流石によい」との感想を語り、松島の 旅の余韻を味わっていた。 最終日である29日の午前中の行動は不明であるが、午後 0 時45分発の上野行き列車へ乗車し、 午後 9 時半に鎌倉の自宅へ戻っている。石田宛の書簡で西田が提案していた座談会については 記録が残されておらず、結局行われることはなかったとみられる。 以上、西田の仙台滞在は 5 泊 6 日に及ぶものであった。滞在中の西田の世話に関しては、河 野与一が「応対には主として高橋里美さんが当った」22)と記しており、主に高橋里美が担って いたという。 四、講演の反響 講演題目である「歴史的実在の世界」は、西田が1937年改版の『善の研究』において「直接 経験の世界とか純粋経験の世界とか云ったものは、今は歴史的実在の世界と考える様になっ た」23)と述べているように、西田哲学の鍵概念といえるものであった。 仙台の講演と同じ1935年の 1 月に、信濃哲学会会員に向けて京都府教育会館で行われた講演 「現実の世界の論理構造」24)によると、「純粋経験は主観でもなく客観でもない、主観客観の区 別の無い立場から此の世界を考へること」25)であり、さらにこの「純粋経験」、「此の現実の世界」 の論理構造を考える試みとして、「歴史的実在の世界」が論じられている。 1934年10月に発刊された『哲学の根本問題続編』でも、 歴史的実在は空間的なると共に時間的、客観的なると共に主観的である、有なると共に無 である26)。 と述べ、また仙台での講演直後10月 4 日に行なわれた三木清との対談でも「歴史的実在は時間 的即空間的世界として、言い換へると、直線的即円環的なものとして成立する」27)と語っている。 このように当時繰り返しこの「歴史的実在の世界」に関する議論を展開しており、西田にとっ て最も関心のあるテーマの一つであったといえる。 では、 3 日間にわたり行われた東北帝大における西田の講演は、当地の人々にどのような反 響をもたらしたのであろうか。東北帝大法文学部において1934(昭和 9 )年から発刊が始まっ た雑誌『文化』には、1935年の講演に関する記録は残されていない。しかしながらこの時の講 演について、数人が文章に残している。 (1)高橋里美の場合 最も多く叙述しているのは、仙台にて西田の応対に当った高橋里美である。彼は「学者を怒 らせた話」という後年のエッセーの中で、「講談に痩躯を運ばれた先生の風貌は、誰かの批評し たように、形而上学そのものがそこに立っているようで、まだ口を開かれない前から、それだ けですでに聴衆に深い感銘を与えるものがあった」28)として感慨深く講演の思い出を語り、ま た講演直後にあたる1936(昭和11)年 1 月に『思想』に掲載された論文「西田哲学について」 にも、仙台での講演を受けた上での議論を展開している。
高橋は西田の講演内容をどのように捉えていたのか。エッセーには「先生を怒らせはしなかっ たかと思われる事件」として、27日の歓迎懇談会で阿部次郎(法文学部教授、美学講座担当) に促されて西田に述べた、次のような質問が載せられている。 先生は永遠の今の自己限定として世界歴史を解釈しておられるが、それは巻かれた一軸の 世界地図が巻き展げられる各瞬間に同緯度の海陸が現れてくるようなものであろう。しか しそこに現われる海を隔てた島と島との空間的な横の関係よりも、むしろ時間的に延びて いる一つの島の纏まりの方が一層密度が高く実在性が多いのではなかろうか、…(中略)要 するに、私のいいたかったことは、各瞬間に新しく誕生する世界における遠隔なる部分間 の関係よりは、時間的に延びる一つのものの部分間の関係の方がその密度と実存性におい て優るものがありうるということである。 この質問は「ぶっきら棒」で「一同白けきって、しばらくは言葉をさしはさむものもなかっ た」苦い思い出として記されているが、他方で高橋にとって西田の講演に対する率直な批判で もあったとみられる。 西田の語った「永遠の今」とは、「過去未来が総べて現在に含まれてゐるといふこと」であり、 「歴史は永遠の今の自己限定から成り立つ」とされ29)、これはまた「歴史的実在の世界」の論理 構造にも適用されている。また「世界歴史」については、「現在は主観客観としてまとまつたも のでそれぞれの国の時代を持ち、それが互に関係すると世界の歴史が出来るのである。其処に 世界的な歴史的現在が出来て其処から総べてのものが考へられる」30)としている。 こうした議論に対して高橋が批判したのは、西田の時間の捉え方であった。 もっともこういう見方の根底には、次のような私の主張がある。すなわち、過去の世界は、 各現在において全く消滅して全く新しい世界が出現するというようなものではない。現在 も数学的点ではなくして、或る大きさを持ち、それが重なり合いながら連続的に流れると いうことが、時間の根本的性格であるという思想である。 要するに、高橋にとって時間の根本的性格は連続的に流れるものであり、そうした時間と空 間を西田が矛盾対立の対立項として措定し、実在を論じることに批判的な見方を示したのであ る。 この点については、講演から 4 カ月後に出された論文「西田哲学について」にも、 私の見解によれば、生成や時間は有無の矛盾対立の弁証法的統一と考うべきではない。何 となれば、完全なる矛盾対立は同時的であり、その統一も亦同時的でなければならぬ。し かるに生成や時間は同時的でない限りにおいてのみ生成や時間である。それ故にここには 有無の矛盾対立がなく、無から有への連続的推移があるだけである31)。 とし、「時間の瞬間と空間の点を同一視することができない」ことが主張されている。 さらに同論文では、第二章において「西田哲学の根本構造」として「歴史的実在の論理構造」
の内容が紹介され、さらに第三章以降では「西田哲学の内在的批評」と「超越的批評」がなさ れている。その中で、「西田哲学の実在の論理的根本形式」が「真に弁証法的であるかどうか について不明なる諸点」が挙げられており、西田が用いる哲学の方法としての弁証法の問題点 を指摘した上で、「発展と逆発展とを包越する体系的全体性の概念」として「愛」を位置づける 「包弁証法」を持論として展開している。 こうした高橋の言説を追っていくと、西田の講演に対して高橋が真摯にその内容を受け止め、 さらに同じ哲学研究者として、発展的な批判を行おうと即座に対応していたことがわかる。 (2)細谷恒夫32)の場合 細谷恒夫33)は論文「西田哲学の解釈学的状況」34)の一章「西田哲学の性格とその理解への道」 において、 私達が西田博士の講演をきくなり、その論文を読むなりして気づく特徴の一つは、西田哲 学の行論の脈略は、そこにのべられてゐる命題相互の間の論理的連関によって展開すると いふよりは、博士によって予め見られてゐる世界の構造そのものを色々の側面から照し出 さうとする努力の表現であり、従って相接続する命題相互の間には必ずしも論理的連関が ない様に見える(少なくとも聴講者乃至読者としての私達には)といふことである。 とし、西田哲学の「論理を生み出し、背後からその論理を動かしてゐる具体的領域を」見よう とすることに、理解の目標を定めなければならないとする。そしてその理解のために西田哲 学に対して、ハイデガーのいわゆる解釈学的状況を取り上げて適用した。すなわち、ハイデ ガーが解釈のための前提として位置づけた三つの層(先持Vorhabe、先視Vorsicht、先把握 Vorgriff)のうち、西田哲学の「行為」が Vorhabe、「行為の弁証法的性格」が Vorsicht、「弁証 法的一般者」が Vorgriff にあたると位置付け、各層にわたり試論を展開している。 さらに「批判ではないが、その方向とでもいふべきもの」として、西田哲学の「行為」は著 しく芸術的創作(特に造形美術)の体験をモデルとしているが、「芸術的行為のみが勝義の行為 なのであろうか」35)、また「此の様な芸術的行為をモデルとして考へられた行為の弁証法的過 程の性格が、更に進んで弁証法的一般者にも移されてゐること」36)に疑問を呈している。 そして最後に、細谷はこうした自分の見解について、次のように述べている。 然し以上の様な疑問が起るのも、結局学問といふものに対して西田博士と私との間に理解 のしかたを異にする所があるためであるかも知れない。私の学問的興味は、一切の動きを 自己の弁証法的限定として包み込む絶対者に向ふよりは、むしろ諸々の動きをそれ自身の 内実に即してうきださせることに向かってゐる。…(中略)私の上の西田哲学解釈乃至批判 も結局は私の形而上学的感覚の欠如を物語るものに外ならないかも知れない。37) 細谷も語るように、西田哲学を解釈学的に試論するその手法は、西田と学問上の立場を異に し、一定の距離をもって論じることができたからこそ、可能なものであったといえよう。
(3)その他 哲学科の学生たちにも、西田の講演の影響はみられた。水野彌彦は、 この頃西田先生が東北大学の文学部で講演をせられたことがあり、私たちの間にも西田哲 学に心ひかれる者もあったので西田哲学、殊に西田哲学と先生の立場との対比が面会日の 話題の中心となった一時期があった。西田哲学の立場からの先生の立場に対する相当遠慮 のない質問や批判も出たが、先生は独特の緻密な論理によって懇切に自分の包摂の立場を 説明して居られたことを記憶している。先生は西田哲学を「悟り」の哲学と考え、現実の 過程性と分散性のうちにある有限な人間存在としての「凡夫」の立場を主張して居られた ように思う。38) と叙述しており、学生と教員の間で講演をめぐって議論が交わされていた様子が伝えられてい る。 他にも河野与一は「御講演は文化に関するものだったと思ふ」39)と記しており、西田の講演 のうち、特に文化に関する内容に関心を抱いていたとみられる。 (4)西田の感想 それでは、一方の西田自身はこの仙台での講演はどのように受け止めていたのか。講演直後 に三宅剛一に宛てて書かれた書簡には、 昨夜九時半頃帰宅いたしました この度は誠にいろいろと御世話に相成り難有御座いました 厚く御礼申上げます どうか高橋君によろしくお伝へ下さる様お願申上げます なるだけ人 の理解を得る様にと努力いたしたつもりですが力及ばず遺憾におもひます 会の後の高橋君 のお話を承りましても何となく壁を隔てて語る様な思が致しました40) と記されており、講演に対する人々の反応を「遺憾」とし、先の高橋との対話についても「何 となく壁を隔てて語る様な思」という複雑な気持ちを三宅に開陳している。これに対して三宅 がどう返信したのか、史料は残されていないが、教え子の三宅には自分の考えが分ってもらえ るという思いがあったからこその内容といえよう。結局のところ、西田にとって東北帝大にお ける講演は、聴衆に十分に理解してもらえたとは感じられない、不満足なものに終わったとい う印象だったとみられる。 ちなみに、三宅による西田の講演についての言説、論考は、管見の限り確認することができ なかった。西田と頻繁に連絡を取り、議論を行っている関係の近さからして、書く必要を感じ なかった、あるいは書きづらい事情があったのかもしれない。 おわりに 以上、1935年 9 月に 3 日間にわたって行なわれた西田幾多郎による東北帝大での講演につい て、東北帝大との関わり、講演実現までのプロセス、仙台での足取り、そして講演の反響を中 心にまとめた。
西田への講演依頼は、法文学部の石原謙を中心に懇ろに行われ、ようやく実現するに至った ものであり、法文学部関係者のみならず総長が聴講に来るなど、大学内でも注目度が高かった とみられる。また在仙中に、西田は青葉山や松島など仙台の名所も廻っており、その道中を楽 しんだ様子もみてとれる。 講演の反響としては、高橋里美や細谷恒夫が西田の講演後すぐに反応を示し、論考を記した ことは注目に値する。これは、彼らが同じく哲学を研究する者として真摯な態度を取っていた という事実とともに、東北帝大という独自の学問空間、すなわち、いわゆる京都学派に直接組 していない自由な立場にあったことによって、講演に対する率直な批判が生まれた可能性もあ るのではないだろうか。 東北帝大における講演は、西田自身にとって旧知の間柄の人々に招かれたものであったが、 その実、西田とは学問上の立場を異にする人々を前にした講演でもあり、「壁を隔てて語る」よ うな、ある種の居心地の悪さがあったのかもしれない。しかし、だからこそ可能な言論も生じ たと考えられるのである。 ―― 注 1 )『新版 西田幾多郎全集』(第24巻、岩波書店、2009年)「年譜」にも、「26-28日 東北大学で講演」(P363) と記載されている。 2 )木村俊彦氏によれば、「木場深定先生の御記憶でも、当時の講演題目は定かではなく、野辺地東洋、武市 健人両先生も同様であって、むしろ題目はなかったのではないかと言われる」とされている(「『善の研究』 についての解釈学的考察」『東海女子大学紀要』 4 号、1984年)。また河野与一の「御講演は文化に関する ものだったと思ふ」(「西田先生の片影」)や武市氏の「無に関するものだったか」という言説も、この論 考の註に記載されている。 3 )『哲学雑誌』第303・304号、1912年 3・4 月に掲載、『全体の立場』(岩波書店、1932年)に収録。 4 )野家啓一(解説)「「全体性の現象学」への道」『高橋里美 全体性の現象学』京都哲学撰書第17巻、燈影舎、 2001年、P395。 5 )酒井潔「講演録;西田幾多郎と三宅剛一-「歴史」ということをめぐって」『西田哲学界年報』 5 巻、 2008年、P22~23。 6 )石川県西田幾多郎記念哲学館所蔵の絵葉書には、石原が留学中(1921~1922)に西田に送った絵葉書が含 まれている。(「「西田幾多郎と東北大学ゆかりの人々」展」『東北大学史料館研究報告』第15号、2020年、 P79) 7 )「「西田幾多郎と東北大学ゆかりの人々」展」『東北大学史料館研究報告』第15号、P87。 8 )河野与一「西田先生の片影」『続 学問の曲り角』岩波書店、1986年。 9 )田辺が去った後、理学部「科学概論」の担当は、後にいずれも法文学部哲学科の教員となる小山鞆絵(講 師;1919~1921)、高橋里美(助教授;1921~1924)、三宅剛一(助教授;1924~1946)へと受け継がれて いる。 10)浅見洋『高橋ふみ-未完の女性哲学者』石川県七塚町、1997年。「西田幾多郎と東北大学ゆかりの人々」展」 『東北大学史料館研究報告』第15号、P82。 11)石原謙宛書簡:1932(昭和 7 )年10月21日付(『西田幾多郎全集』別巻、書簡集第 5 、1953年、P462) 12)石原謙宛書簡;1933(昭和 8 )年10月 3 日付(『西田幾多郎全集』別巻、書簡集第 5 、P478) 13)高橋里美「学者を怒らせた話」『高橋里美全集』第 7 巻、福村出版、1973年。初出は『心』(1962年))。
14)藤田正勝「後記(哲学の基礎問題)」『新版 西田幾多郎全集』第12巻、P398。 15)『西田幾多郎全集』別巻、日記第 1 、岩波書店、1951年、P522。 16)『寸心日記』の現物は、2019年 7 月、石川県西田幾多郎記念哲学館と東北大学史料館による主催・共催で 開催された「西田幾多郎と東北大学ゆかりの人々」展の際、井上智恵子氏に写真データをお借りして確認 させていただいた。また、その該当箇所の写真データは、哲学館から借用の上パネル展示を行った(「西 田幾多郎と東北大学ゆかりの人々」展『東北大学史料館研究報告』第15号、P68)。 17)石原謙宛書簡:昭和10年 9 月18日付(『西田幾多郎全集』別巻、書簡集第 5 、P541) 18)石原謙宛書簡:昭和10年 9 月18日付(『西田幾多郎全集』別巻、書簡集第 5 、P541) 19)河野与一「西田先生の片影」『続 学問の曲り角』、P174。この洋館は現在、宮城県明治百年記念事業県民 の森に所在している。 20)高橋里美「学者を怒らせた話」『高橋里美全集』第 7 巻、P217。 21)鹿野治助宛書簡:昭和10年10月 3 日付(『西田幾多郎全集』別巻、書簡集第 5 、P542)、和辻哲郎宛書簡: 昭和10年10月 7 日付(『西田幾多郎全集』別巻、書簡集第 5 、P543) 22)河野与一「西田先生の片影」『続 学問の曲り角』、P174。 23)『善の研究』改刷版、岩波書店、1937年 1 月、1936(昭和11)年10月「版を新にするに当って」。 24)『新版 西田幾多郎全集』第13巻、講演 2 ・講演小篇、岩波書店、2005年。これは「昨年の暮に出した書 物(哲学の根本問題続編)の中に『弁証法的一般者としての世界』といふ論文があるが、其の大体の要点 といふやうなこと」(P293)とあるように、1934年10月発刊の『哲学の根本問題続編』の中で展開した議 論であり、東北帝大での「歴史的実在の世界」の内容も同様であったとみられる。 25)「現実の世界の論理的構造」『新版 西田幾多郎全集』第13巻、P295。 26)西田幾多郎『哲学の根本問題続編』岩波書店、1934年、P284。 27)「西田幾多郎博士との一問一答」『新版 西田幾多郎全集』第24巻、2009年、P119。 28)高橋里美「学者を怒らせた話」『高橋里美全集』第 7 巻、P217。 29)「現実の世界の論理的構造」『新版 西田幾多郎全集』第13巻、P340。 30)「現実の世界の論理的構造」『新版 西田幾多郎全集』第13巻、P333。 31)高橋里美「西田哲学について」『高橋里美 全体性の現象学』、P366。 32)細谷恒夫は現象学が専門で、東京帝国大学文学部哲学科を卒業後、広島高等学校に務めたあと、1935年 4 月に東北帝大法文学部助教授に就任した。西田の講演当時は新任の教育哲学担当教員の地位にあった。 1949年からは教育学部で教鞭をとり、教育学部長を務めた後、1955年からは文学部哲学第一講座(現代哲 学)を高橋、三宅の後任として担当している。 33)西田は細谷のことを知る間柄にあった。1935(昭和10)年 4 月19日付の石原宛書簡には「細谷君をおとり の由それはよろしう御座いました 何卒同君によって我国に新しい教育学の流のつくられることを望みま す」と述べ、また京都帝大が細谷の希望する職に応じられなかったことを遺憾と述べている。 34)細谷恒夫『認識現象学序説』岩波書店、1936年。この著作の末尾に本論は付されている。註には、「私は 西田哲学を長く研究してゐるものでもなく、従って深く理解してゐるといふ自信もない。本論文も、直接 には博士の『哲学の根本問題』以後の比較的最近の著書と論文を手掛かりとし、又昭和十年九月東北帝国 大学での三日間に亙る講演を聴講して起草したものである」(P276)とある。 35)「西田哲学の解釈学的状況」『認識現象学序説』、P292。 36)「西田哲学の解釈学的状況」『認識現象学序説』、P292。 37)「西田哲学の解釈学的状況」『認識現象学序説』、P293。 38)水野彌彦「高橋先生の思い出」『高橋里美 人と思想』日本化研印刷出版部、1979年。 39)河野与一「西田先生の片影」『続 学問の曲り角』、P174。 40)三宅剛一宛書簡:昭和10年 9 月30日付(『西田幾多郎全集』別巻、書簡集第 5 、P541)