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斉如山と『国劇画報』 利用統計を見る

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(1)

斉如山と『国劇画報』

著者

有澤 晶子

著者別名

ARISAWA Akiko

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

44

ページ

5-15

発行年

2009

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00009289/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

斉如山と

はじめに 斉如山(一八七五

1

一 九 六 二 ) は 、 一九三二年、﹃国劇画報﹄創刊にた ずさわった。(この時期、伝統演劇の中で京劇は国劇と呼称した。本稿で は、京劇、国劇、伝統演劇と状況に応じて使い分ける)。京劇史の中では、 一 九 一

0

年 代 か ら 一 二

0

年代にかけて、相次いで世に出た京劇関連の刊行物 六 O 余りのなかで、重要な内容をもった雑誌として、﹃春柳﹄(一九一八

1

一 九 一 九 ) 、 ﹃ 戯 劇 月 報 ﹄ ( 一 九 二 八

1

一 九 三 一

O

)

、 ﹁ 戯 劇 叢 刊 ﹂ ( 一 九 三 二

1

一 九 三 五 ) 、 ﹁ 戯 劇 旬 刊 ﹂ ( 一 九 三 五 ) 、 ﹃ 十 日 戯 劇 ﹄ ( 一 九 三 七 j 一 九 三 九 ) とともにあげられている。そして、﹁国劇画報﹄に掲載された写真や文章 ( 1 ) は貴重なものであると述べている。ただし、内容についての詳掘を論じた ものは管見のおよぶかぎりではない。 ﹃国劇蘭報﹄をはじめ、ここにあがった雑誌は、 いずれも五年以内と短 命 で 、 一 九 四 O 年までには停止しているが、これは逼迫した社会情勢と経 済状況の混乱という外的要因とともに、それにたずさわる知識人たちの不

j

日 日日

安定な立場も関係していよう。斉如山はこれら多くの雑誌に執筆をしてお り 、 ま た 、 ﹃ 国 劇 画 報 ﹂ ﹁ 戯 劇 叢 刊 ﹂ の創刊にもかかわり、執筆の根幹をに なっている。なかでも﹁国劇画報﹄は、斉如山がたずさわった雑誌の中で も、斉如山が特に中心的役割をはたし、また国劇学会という研究および俳 優養成をめざした組織と関連をもっ定期刊行物でもある。 この﹃国劇画報﹄はよく名前はあげられるが、出版物として再版される こともなかった。だが、﹃国劇画報﹂ の編輯内容は、国劇を多角的実証的 に明らかにしようとする斉如山の意識が鮮明に打ち出されていると考えら れる。本稿では、編輯内容を分析することにより編輯方針の特徴をとらえ、 斉如山の編輯意図と、﹁国劇画報﹂がどのような価値をもつのかを明らか 争 ﹄ J , -ミ o v k y L ナ ' し 一 . 創 刊 の 趣 旨 ﹃ 国 劇 画 報 ﹂ の発刊母体は、北平国劇学会で、学会成立と同時に発刊が はじまっている。だが機関誌としてのみならず、 一般に公開された刊行物 五

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斉 如 山 と ﹃ 国 劇 画 報 ﹄ として発刊された。まずは、母体となったこの学会がどういうものなのか を検討してみよう。 (ご北平国劇学会 北平国劇学会について、第一回大会の記事が無記名で記者によって記さ れ て い る 。 それによると、国劇学会は梅蘭芳(ここでは、梅涜華または梅暁華の名 が用いられている)と余叔岩という社会的に周知された看板役者を発起人 として設立し、付属の養成所である伝習所が開設されたことが記されてい る。第一回の会では、胡適など数十人が出席し、会の前途についての討論 があったことを述べたあと、主に梅腕華が挨拶として発言した内容があげ られている。そこには、困難の時期にあって、このような演劇の整理をお こなおうとすることに二つの理由があるとしている。 一つには﹁演劇の力 というものはきわめて大きいものがある。多くの民族はその精神性の強さ や弱さを、みずからの伝統演劇の性質をものさしにしてはかることができ る﹂とする。これは、演劇という表現の存在意義が、社会的な啓蒙力にあ るのではなく、人の精神を表現でき、見る人の精神に与える力をもってい ることにあるという認識を示している。二つには﹁伝統演劇の包容力はき わめて広く、多くの芸術分野が伝統演劇と何らかの関係をもっている﹂と 述べ、演劇表現の総合性を意識していることがわかる。さらにまた、会設 立 の 動 機 と し て 、 アメリカ公演の折に接したアメリカにおける演劇研究団 体の活動に触発されたこと、そしてみずからもアメリカ演劇協会に加入し たという体験が大きくかかわっていることを吐露している。 ム ノ 、 アメリカ公演は移動期間も含めると一九三 O 年一月から七月までのおよ そ半年間に及んでいる。この間、梅蘭芳も斉如山も自国の伝統演劇の価値 を再認識することができ、そのことによって、自分たちのアイデンテイ ティーを認識し、困難の時期という状況下において成すべきことを見出し たということであろう。学会の縁起は、梅蘭芳と余叔岩連名による掲載と なっている。そこにおいてもまた、 アメリカ公演で国劇の価値を認識した ことを述べており、同時に、このまま伝統演劇を放っておくと、衰微する のは必至だと考えるに至ったとある。 学会も﹁国劇画報﹄ の編輯部も活動の拠点は北平の前門におき、﹁国劇 画 報 ﹄ の販売拠点は北平の永豊地区、天津そして青島、上海にも配し、広 く社会に向けて発信しようとしたことがうかがえる。 ( 二 ) 趣 旨 ﹃ 国 劇 画 報 ﹄ の 趣 旨 の 中 で 、 モデルとなる外国誌として、欧米の舞台画

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再 出 可 丘 、 日 本 の ﹃演芸画報﹄をあげている。それは、伝統演 劇研究がさかんとなり、刊行物も少なくないものの、﹁研究と劇評が主で、 文章と図版も重視したといった類のものはない﹂ため、文章と図版を重視 した誌面にしたいとの考えにもとづいている。﹁演芸画報﹂は明治四 O 年 ( 一 九 O 七年) 一月に創刊され、昭和一八年(一九四三年) 一 O 月 号 で 、 雑誌統合によって終刊となり、その後は﹃演劇界﹄にひきつがれている。 当時の留学生が持ち帰ったものかは不明だが、これらを模範とすること で、専門から見ても学術的な情報や知識が得られ、 一般から見てもビジユ アルで楽しみながら理解を深められる幅をもった誌面をめざしていること

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がわかる。さらに、園内の北平(現在の北京)、天津、上海では画報はあ るが演劇専門誌としてでているわけではないとしたうえで、北平国劇学会 がめざすのは、﹁国劇を振興し、文化を発揚し、教育を補助する﹂ことに あると述べている。こうして週一回の週刊誌として﹃国劇画報﹄は発刊さ れ る 。 誌面ではさらに研究動向について、以前のような曲調、声腔の変遷を研 究したり、戯曲の改編改良といった研究にはないことを主張している。そ して、傾向としては文献蒐集と図や写真の保存に重きをおくとしている。 その例としては、斉如山が撮影した精忠廟壁画の写真や朱過先が蒐集した 昇平署文献、あるいは梅蘭芳が蒐集した明清験譜、余叔岩が蒐集している 程徐の肖像画などがあげられる。 こうした傾向を受け、これらの研究成果をより多くの人が活用できるよ うにするために、資料を校訂整理することの必要性が新たに生まれ、さら にそれを発表提供する場としての画報の役割を強調している。蒐集した資 料を公に世に問うことによって、この分野の研究に新しい風を起こしたい ということも発刊の辞の最後に記されている。﹁図を経糸とし、文章を緯 糸として﹂、国劇の整理研究をおこなうという。 一般に聞かれた組織とな し、演劇関連刊行物のなかでも新たな道を聞く新機軸として位置づけよう と し て い る 。 問じく北平国劇学会が主幹する既刊雑誌に﹃戯劇叢刊﹄がある。これは 文 字 の み で 、 一九三二年に創刊され、斉如山、梅涜華等が発起人になって いる。倖芸子による発刊の辞には、旧劇は研究するに値しないという意見 もあるが、欠点はおおいとはいえ、その﹁学理や芸術は、確かに滅びるこ 斉 知 山 と ﹃ 国 劇 画 報 ﹄ とのない精神と豊かな価値をもっている﹂と国劇の価値を認め、劇評がメ インであった常套を打破し、﹁学術面の研究整理に重きを置く﹂という方 向を明言している。四期しかでなかったが、その内容項目は、専門の研究、 考証、戯文の警句などの解説ものや、論考、意見論評など五項目を立てて いる。このように二つの雑誌は、棲み分けがおこなわれている。二誌の共 通する精神は同じで、学術を重んじるところにある。学術研究の内容、方 向性は、それまでの長い伝統としであった曲調を重視する研究や、改編し 実際に演じる創作実践への傾注といったことではない。特に、﹃国劇画報﹄ では、研究資料文献、図、写真等の蒐集をしながら、それを分析し掲載す ることによって、演劇の歴史を多角的に見ていこうとしている。これらは いずれも、以前とは異なる演劇のとらえ方をしていこうとする強い変換の 志向を表明しているといえよう。斉如山がその先鞭をつけたことは、すで に別稿で述べたので重複はさけるが、この﹃国劇画報﹄が、研究の先端的 役割をにない、それ以降の研究の方向づけを示そうとしたことがわかる。 ニ.内容構成 (こ紙面構成 ﹁国劇画報﹂は、片面 B 4 サイズの四頁で、雑誌というより新聞といっ たほうが妥当である。特徴的なのは、第一面は紙面半分のスペースが一枚 の写真で組まれていることにある。墨筆の﹁国劇画報﹂という題字は、紅 豆 館 主 の 手 に よ る 。 紅 一 旦 館 主 ( 一 八 七 一 j 一 九 五 二 ) は 、 清 朝 の 皇 族 で あ っ た人物で、本名は愛新覚羅侍伺という。いわゆる﹁票友﹂(芝居好きが高 七

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斉 如 山 と ﹃ 国 劇 画 報 ﹄ じててプロ化する人、または演劇マニア)に属するが、京劇昆劇に精通し、 ( 2 ) 器用に何でもこなせた。 一頁めと四頁めに広告が挿入される。広告の一部 分は北平国劇学会自身による出版物の広告になっている。毎週金曜日に発 刊し、価格は大洋六分だった。 以下、旦ハ体的に紙面の内容構成を整理分類して検討する。 ( ニ ) ジ ャ ン ル 別 内 容 第一面には、写真一点が配置され、その解説が一面か二面に配されるこ ともある。全紙面を内容別に以下整理して、表 1 ﹁ ﹃ 国 劇 画 報 ﹄ 内 容 類 型 ﹂ にまとめ、その傾向を検討する。 尚 、

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却は発刊番号を指し、ーが一九三二年一月一五日付け発刊の第 一号を指し、毎週 1 期の定期で、却とは一九ゴ三年一 O 月二一日発刊の第 四十号を指す。ただしこれは、全発刊部数のおよそ半分強にあたる。内容 としては、①歴史的行事、②古舞台、③伝統演劇文物、④演目宣伝、⑤論 考、⑥芸談、⑦風俗、⑧演劇史、⑨脚本の九項目に分類整理して検討する。 表 1 ﹃国劇画報﹄内容類型 類 型 一 発 刊 一 内 容 ① 歴 史 的 行 事 一 1 一二十年前、南京国民政府の要人が北京訪問した際 一に、﹁正楽育化会﹂メンバーと記念撮影した写真(謹 一轟培、梅蘭芳、余叔岩、楊小楼) 一日一北平唯一の女科班崇雅社の集合写真 一 解 説 一四一国劇伝習署開学記念号 斉 如 山 提 供 、 -面記事 )¥ 一泊一北平国劇学会の落成舞台 一話一旗装の特集号梅巧玲扮する﹁雁門関﹂粛太后画 一部一旗装の特集号二劉妊ココ李宝琴による﹁探親﹂画 ↑ 斉 如 山 蔵 2 面 3 面 記 一 1 1 一 国 劇 学 会 第 一 回 事 写 真 一 一 国 劇 学 会 理 事 会 一

2

一 国 劇 学 会 第 二 回 一梅涜華とフランス国家劇院秘書長 ↑国劇学会理事張伯駒 ↑国劇学会指導部門の外観 一3 一 国 劇 学 会 第 一 二 回 一 学 会 編 集 部 外 観 一4 一 国 劇 学 会 第 三 回 の 二 一 王 洛 卿 の 近 況 ↑ ( 以 下 略 ) ② 古 舞 台 一 6 一故宮激芳粛の風雅存小舞台(清乾隆帝が演技した場 一所と伝えられる)、斉如山の解説 一ロ一故宮寧寿宮倦勤粛の小舞台(故宮博物館提供)、斉 一 如 山 解 説 一お一故宮寧寿宮の暢音閤舞台倖惜華解説 一弘一故宮重華宮激芳粛舞台 一泊一南府舞台斉如山解説 一刊一清昇平署(南府)舞台斉如山撮影 一犯一顕和園徳和園の舞台停惜華解説 一日一清乾隆年問、安南王院恵遺姪・院光顕が熱河にある 一福寿園の清音楼で観劇する図 一日一宋の舞台一清明上河図から斉如山解説 一日一四川高県桓侯廟舞台湾如山解説 一口一山西高泉県四望村后土廟の元代戯台斉如山解説 一回一四川自流井南華宮の舞台 一却一山西高泉県四望村后土廟の元代戯台正面写真 一 華 解 説 停 '惜

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一幻一平西の瑠璃渠村関帝廟の舞台 一沼一西安城陸廟舞台 一お一斯江省建徳県朱買臣廟の舞台と古朱池 ③演劇文物一 2 一 十 二 音 神 図 一 北 平 精 忠 廟 梨 園 会 の 壁 画 、 斉 如 山 撮 影 、 一 停 惜 華 解 説 一3 一 同 右 の 二 ( つ づ き ) 一4 一 同 右 の 一 一 一 ( つ づ き ) -面 一 7 一景山の観徳殿に把られている神像、斉如山により二 一十数年前に芝居関係者から聞いた伝説を記してい 一 る 。 一8 一北平精忠廟梨園会の壁画の四、斉如山撮影 一9 一 景 山 の 観 徳 殿 に 把 ら れ て い る 神 像 、

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の記事を見た 一王溶青からの手紙を掲載 一日一亀蕗(キジ・現クチヤ)の楽士像一斉如山解説 一回一宋代院画の岳陽楼図倖惜華解説 一辺一同光年間の北平における著名な票房﹁賞心楽事﹂の 一 翠 峰 庵 一泊一安徽省霊壁県項王廟の項羽虞姫像 一部一安徽省霊壁県項王廟の虞姫墓 一部一楊貴妃出浴像陳西省興平県馬鬼駅歳月如山解説 一却一王宝釧の像 一却一山西省蒲州普救寺全景﹁西廟記﹂の中の普救寺侍 一 惜 華 解 説 一泊一山西省大同玄武廟曹福の像斉如山解説 一訂一宋代の院画黄鶴楼図斉如山解説 一括一四十年前の黄鶴楼 2 面 3 面 一 3 一扮河湾の舞台となった山西省の柳家村の窟住居 フ ィ ー ル ド 写 一 4 一 華 清 池 と 演 劇 真 一 対 一 一 覇 橋 と ﹁ 折 柳 陽 関 ﹂ 一部一陳西省の撞関 一泊一陳西省山石﹁野山救母﹂ 一却一陳西省の撞関全景 斉如山解説 斉 如 山 と ﹁ 国 劇 画 報 ﹄ 一お一朱買臣の墓 古 楽 器 紹 介 一 部 一 墳 一訂一銅鼓 一お一銅琴の拓本 一指一胡琴の来歴 舞 台 絵 ・ 舞 台 一

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一昇平署扮装像譜一毎号一図を掲載している。梅蘭芳 版 画 一 一 所 蔵 。 そ の 後 、 百 科 全 書 な ど で 部 分 的 に 頻 繁 に 掲 載 一 さ れ 、 全 篇 が 上 梓 さ れ た 。 一1 一程長庚の群英会、綴玉軒蔵 一 ( 以 下 略 ) 験 譜 図 一

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一綴玉軒所蔵、明代験譜一毎号一つの脆譜が紹介され 一る。梅蘭芳所蔵の明代脆譜図は、半世紀あまりを経 一て百科全書などでも取り上げられ、験譜を論じる時 一には必ず用いられるようになっている。その後、外 一に流出したとされるが、二

O

O

二年に﹁梅蘭芳蔵戯 ( 3 ) 一 曲 資 料 図 画 集 ﹄ と し て 上 梓 さ れ た 。 一4 一 青 面 虎 の 験 譜 図 ④演目宣伝一 5 一民国七年上元節に新明大戯院でおこなった梅蘭芳に 一よる﹁上元夫人﹂初演(発刊の翌日が上元節を祝う 一梅蘭芳による同名の公演がおこなわれるに際し掲載 一 し た と あ る ) 舞 台 写 真 一 1 一余叔岩の寧武関(劇解説付き) 一 梅 暁 華 の 紅 線 盗 金 一 程 玉 霜 の 荒 山 涙 一 2 一 余 叔 岩 、 程 継 仙 の 鎮 檀 州 一 粛 長 華 、 劉 連 栄 の 春 秋 配 一

3

⋮ 余 叔 岩 の 洗 浮 山 一 梅 涜 華 と 楊 小 楼 の 別 姫 一 銭 金 福 の 慶 陽 図 一 天 津 の 愛 好 家 ( 票 友 ) 一 女 性 愛 好 家 の 美 龍 鎮 の 罵 殿 九

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斉 如 山 と ﹃ 国 劇 画 報 ﹄ 一 4 一王泊生の反串、董花蕩 一余叔岩と故王長林の殺山 一 子 連 泉 ( 小 翠 花 ) 一故散菊篇と余玉琴の青石山 一 ( 以 下 略 ) 扇 面 画 ・ 字 ・ 一 1 一 梅 暁 華 の 梅 花 園 絵 一 一 楊 小 楼 の 築 書 一

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一 梅 涜 華 の 仏 像 画 一

3

一 王 落 卿 の 歳 寒 三 友 一故昆曲家衰寒雲と張伯駒による梅花 一

4

一 梅 涜 華 の 仏 像 画 2 一 ( 以 下 略 ) 役 者 紹 介 一 2 一 武 旦 、 貫 子 林 一

3

一 故 時 小 福 一 ( 以 下 略 ) ⑤ 論 考 一 2 一黄阪調査記黄肢の宛乗から投稿 2 面

3

面 一

3

一劇﹁馬思遠﹂考停芸子 一

4

一内廷除夜の承応戯停惜華 一

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一投稿を歓迎するという記事を掲載 一 H 一 貼 旦 の 名 称 一辺一梅蘭芳の講義 一引の一対称について美学原理と国劇一 一部一グラデ

I

シヨン美学原理と国劇二 一 M m 一単純美学原理と国劇三 一訂一調和美学原理と国劇四 ⑥ 芸 談 一

51U

一 一 帯 劇 雑 憶 一 一 静 轟 培 の 演 技 に 関 す る 連 載 一回、日一安徽省貴池梅村での目蓮戯 一U 勺目、加、辺、話、部、錦、初、お一昇平署見聞 一 回 、 目 、 担 、 ぉ 、 U 、抱一戯班の逸話 ⑦ 風 俗 一

51U

一見曲酒令百則 一回一昇平署腰牌記斉如山 一抱一戯曲の中の方言斉如山

失街亭 一泊一老郎神説 一泊一清宮中昇平署魔王の衣装 一辺一演劇の神事 一お一福禄寿三星の衣装 一泊一芝居の中の断罪 ⑧ 歴 史 一

1 1

1

お、初、担一京劇の変遷斉如山 一回一西安劇社概況 一

ml

一乾隆以来の演劇の変遷 ⑨ 劇 本 一

11

ロ一見曲﹁虹寛関総本﹂綴玉軒蔵、停惜華解説 一 日

1

お一双合印(昇平署本)斉如山蔵 一

Ml

羽一失街亭斉如山蔵 一 泊

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崎一鳳還巣斉如山蔵 斉如山編 以上、項目にはあげなかったが、このほかに、付属に設立した役者養成 についての方針や講義内容に関する記事、古楽器関連の記事がある。 こういった記事の範囲は伝統演劇全体のどれほどの範囲を網羅している のか、現在刊行されている伝統演劇専門の百科事典﹃中国大百科全書戯曲 曲芸﹂(一九八三年八月)と比較して図示してみる。(図 1 記事項目比較) 内側の円が百科の項目、外側がそれに該当する﹃国劇画報﹄の項目となる。 以上の内容分類比較から明らかなのは、劇種と演出の項目以外は、﹃国 劇画報﹄がすべて網羅していることである。劇種とは、伝統演劇をその声 腔によってジャンル分けする概念で、これは一九五

O

年以降意識化され た。演出に関しては、百科においても詳細はないが、これは本来演出は存 在しないためである。斉如山が実質的な演出の先駆けをなしているが、当 時明確に意識化されてはいない。すなわち﹃国劇画報﹄は、演劇を歴史、 文学、文物、美術など各方面におよぶ総合的な文化現象として整理研究し ていることがよみとれる。さらにそこには、文献資料や、戯曲題材の遺跡

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を専門家、演劇従事者、一般読者を問わず、社会に意識させようとする意 図をくみとることができる。 ノ ノ 演 劇 文 物 / ¥ 養 成 所 方 針

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芸 談 ¥ 〆 美 術 ー / 、 教

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、 ¥ 、 、

¥ λ 一 仁 , J i ' ‘ ¥ ¥ / 論 考 演 技 ノ J J ¥ 、 研 究 著 述 J ↑ I l l i -I l l l 品川 I l l 1 1 1 1 1 1 1 ﹁ / 演 出

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ノ ノ 歴 史 演 劇 史 、 〆 ¥ 長 / 一 劇 札 ノ ¥ 歴 史 行 事 、 、 / / 劇 文 学 J 、 / ノ 風 俗 楽器紹介 j i l l λ / ¥劇本・演目/ 古舞台 古舞台および文物に対する努如山の考察 先にジャンル分けしたものの中で、特に特徴的な記事で、斉如山執筆に よる記事を中心に検討し、斉如山の考え方を明らかにしたい。 ( 一 ) 文 物 例 十 音 神 図 北 平 精 忠 廟 梨 園 メ』 A の 壁 画 斉 如 山 と ﹃ 国 劇 画 報 ﹄ 斉如山が自身で撮影までおこなったこの壁画については、停惜華が解説 を加え、四回にわたって掲載している。場所は北平崇武門外東暁市にあり、 清の乾隆年間に建てられた。現存していないので、現在にとっても貴重な 資料である。また、梨園の同業者組織である﹁行会﹂を置いた場所であり、 象徴的存在のこの場所の壁画を最初に画報の一面に連載したことは、新し い学会組織が伝統をふまえたものであることへの意識を表出しているとも 記事項目比較 考えられる。 倖惜華によると、図面の壁画には梨園の歴史物語が描かれているが、制 作者は不詳。長らくこの壁画は、箪笥で遮られていて、この存在を知る人 図1 はきわめて少なかったとする。斉如山がその存在を見つけ、中国演劇の歴 史および梨園の信仰を知る上で貴重な資料だと考え、撮影しようとしたが 最初は果たせなかった。 一九二人年に再度訪れて交渉し、撮影設備をとと のえて、箪笥も移動するなど、さまざまな障碍をのりこえて、ようやくは じめて撮影をおこなうことができたと、その苦労を記している。斉如山の 演劇文物に対する価値観により、それまで見過ごされてきた文物に光をあ てることができた一例である。 停惜華の解説によるその具体像は以下のとおりである。この壁画も写真 も、この紙面以外で眼にすることは現在できない。(斉如山は撮影当時、 北京画報と南京雑誌に提供、掲載したことがあり、それが最初の掲載であ ると注記されている。さらに、北平研究院がそれを複写して葉報に斉如山 の名を削って掲載したことも記している)。 壁蘭は八幅ある。梨園の神話と故事を内容とする。演劇史に関係すると はいっても、神秘的な傾向を多分に含んでおり、絵の原義を解明するのは

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斉 如 山 と ﹁ 国 劇 画 報 ﹄ 難しいという。博惜華はまず壁画の写真を掲載し、付随した文字資料が解 明できた時にその成果を掲載すると述べている。ただし、その後も掲載さ れた形跡はない。この刊では十二音神について名を記した後、次のような 役者が身につける芦の型ともいうべき内容をあげている。 以前は、あらゆる﹁費生﹂ つまり嶺をつける役柄は、﹁小生﹂以外の男 の役柄ということになるが、その声は﹁小龍虎音・雲音・鶴音・琴音・猿 音 ﹂ を 備 え て い な け れ ば な ら な か っ た 。 ﹁ 小 生 ﹂ は ﹁ 鳳 音 ・ 雲 音 ・ 鬼 音 ﹂ 、 ﹁ 老 日こは﹁費生﹂と同じで、さらに声は小さめ、﹁青衣﹂は﹁小生﹂と同様、 ﹁浄﹂は﹁大龍虎音・雷音﹂、﹁丑﹂役は﹁烏音﹂と表現される。またこれ ら各音は、歌い手の唇、歯、舌、鼻、喉で使い分ける。そのため梨園では これら諸々の音の神を記ることになった。倖惜華はこのように由来説明を お こ な っ て い る 。 その後、十二音神についての考察検討は斉如山が一連の著述﹁斉如山劇 学 叢 書 ﹂ の ﹃ 戯 班 ﹄ で詳しく論じている。斉如山が疑問を放置しないで、 暖昧模糊とした事柄を逐一考察し明らかにしていくという態度を示す一例 でもある。斉如山は、音の神の位牌を杷るのは、規模の大きめな祖師殿で 記る際であり、通常はないという。祖師の前方両脇に配置するとし、具体 的な名称を示している。 この﹃戯班﹄には﹁信仰﹂の章がもうけられており、﹁演劇界には迷信 がもっとも多いという人がいるが、実際はニのいいかたは全く通用しな ぃ。どの社会にもその崇拝する人はおり、どの団体にもその信仰するもの ( 4 ) がある﹂とし、正当な理由があるのだと冒頭で述べている。こういった考 えは、紙面の内容にも反映される。⑦風俗であげた﹁老郎神説﹂や﹁演劇 の神事﹂等の記事がその表れともいえる。 ( 例 2 ) 楊貴妃出浴像 彫像の掲載をとりあげた初期は、﹁楊貴妃出浴像﹂とある。斉如山によ ると、陳西省興平県馬鬼駅にあった像で、楊貴妃が湯浴みから出てきた様 を表現したものという。写真は、 ふくよかな表情と、手を顔にあてて動き のある姿態が鮮明である。ところが、現物は行方が知れない。斉如山は、 ﹁像は石質のようで、彫刻は繊細、作成年は不明。当地の人の話によると、 元明以前という。惜しいことにこの像は、数年前、忽然と姿を消した。調 査によると、外国人が大枚を積んで買い取ったという。国内のこういった 貴重な美術品はすでに紛失したものがはなはだ多い。囲内の者は、ほとん ど気に懸けないが、嘆かわしい﹂とやや激目印した口調で述べている。こう して掲載するのはこういった美術品への関心を国内の人はもっと重視し、 保存すべきであるとし、この﹁唯一無二の美術品﹂が紛失したことへの憤 りを渉ませている。同時に、別号に掲載している虞姫の墓は、﹁美術品と は言い難いが、国内でまた一墓一廟しかないものであり、関帝廟などと同 様に論じられない貴重なものである﹂とし、楊貴妃も虞姫も演劇との関係 は大変深いので、特に掲載する、としている。 確かに、中国の文物に対する保存意識は、公も民間もなかなか向上しな かった。特に社会情勢が不安なこの時期においてはなおさらで、斉如山の こうした啓蒙ともいえる提示につながっている。 斉如山の文献資料、図録、実際の写真といった資料蒐集に対する態度は、 北平国劇学会の会員規定 ( 8 期以降毎号に掲載している)にも鮮明に表れ ている。特別会員の項目に、 一回百元の会費納入か、または百元以上の価

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値がある物品図書を納める、ということを条件にあげているのもその表れ の 一 つ で あ ろ う 。 ( ニ ) 古 舞 台 ( 倒 1 ) 故宮の舞台 宮中舞台および地方にある古舞台を研究対象として注目することに関し ては、斉如山はその先駆け的存在ともいえる。故宮の舞台については、す べてを網羅している。地方の古舞台は、斉如山以降、住居にされたり放置 されたりで、八 0 年代後半に至るまで荒れるにまかせ重視されてこなかっ た。そういう意味でも、斉如山の先駆的な視点が際だつ。 歳 月 如 山 が ど の よ う に 分 析 し て い る の か 、 事 例 を み て み よ う 。 ﹁ 故 宮 激 芳 粛 の 風 雅 存 小 舞 台 ﹂ は 、 ﹁ 激 芳 曹 の 西 の 聞 で 、 乾 隆 年 間 に 創 建 。 全木造建築で、竹の紋様で緑色の斑点がほどこされている。西側の︿耳房﹀ は楽屋である。建物の寸法は以下のとおり﹂とあり、舞台奥行き、間口、 高さ等が記される。さらに、正面に乾隆帝による﹁風雅存﹂の額と対聯﹁金 掌落浮盤影動﹂﹁蓮査風送漏声遅﹂が明かされる。梁柱の対聯も記される。 これは嘉慶年間のもので﹁天作宮庭伝燕飛﹂﹁敬承堂構集鴻福﹂、上部の額 には荘恵皇貴妃による﹁温仁受福﹂と残されていると記される。そして、 額にはこういった吉祥調が多用されているが、舞台とは何の関連もないと 考 察 記 事 を つ け て い る 。 東の壁面には乾隆帝により﹁金昭玉粋﹂、対聯﹁瑞景瑳開楼錦繍﹂﹁歓声 珠閤奏雲留﹂とあり、これにより、乾隆帝が自ら演じた舞台とわかる。皇 族の老輩が伝える話によると、乾隆帝は演劇の歌唱を大変愛し、大きな舞 斉 如 山 と ﹁ 国 劇 画 報 ﹄ 台で演じるのは適さないため、自分の居室の中に舞台を設け、よく宜官に 命じて脇役をやらせていたという。また、自分の声がやや低音なので、当 時宮中で演じられていた見

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調は歌えず、そのため、特に別の調子を作り、 語りと歌唱が入り交じったものを演じ、宣官にもこれを学ばせていた。故 宮博物院にある月令承応戯や九九大慶等の台本は多くはみなこの調子のも のという。宮中および皇族は、みなこれを﹁御製腔﹂とよぴ、梨園のもの はこれを﹁南府腔﹂とよんだ。嘉慶年間、道光年間の宮中における演技歌 唱はみなこの調子のものであった。のちに﹁外学(民間の役者)﹂が加わっ て 、 よ う や く 皮 黄 ( 京 劇 ) が 宮 中 に は い っ た 。 し か し 、 。 光 緒 年 間 初 め に は 、 宮中では尚、京劇は連続しては演じなかった。光緒年間の末になって、最 初と最後の場以外は京劇でおこなうようになった。以前、演劇界の人で、 宮中に出仕したもので、この調子の音楽ができるものはほんのわずかだっ た。しかし、目下の演劇界で、この曲調ができるものはたいへん多い。写 真に写っている舞台上の二点の武器は、 一つは月斧で、楠でできている。 もう一つは宝剣で、彫刻と漆がほどこされきわめて美しい。どちらも乾隆 年 間 の も の で あ る 。 このように、舞台の様式、誰によって設けられ、どのように使われたの か、また、何を演じたのか、そして宮中演劇の内容と、民間での曲調の交 流といったことまで考察言及されている。 ( 例 2 ) 民間の舞台 民間の古舞台をとりあげたものをみてみよう o U期に掲載された平西の 瑠璃渠村関帝廟の舞台である。写真からは、舞台はすでに使用されておら ず、舞台の上は瓦礁が散乱しているように見える。

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斉 如 山 と ﹃ 国 劇 画 報 ﹄ 斉如山の解説によると、瑠璃渠村は、以前宮廷に瑠璃瓦を納めていた瑠 璃窯のある地域で、造営学杜が、当時の瑠璃窯の歴史に関する調査をおこ なったところ、関帝廟の舞台を発見した。造営学杜が調査検討をすすめた 結果、金遼時代の建築で、きわめて貴重なものと判明した。撮影後、国劇 画報へ提供があった。そこで、これを掲載し広く読者に供することにした と あ る 。 斉如山は写真を次のように分析する。﹁この舞台の特別な点は、本舞台 の脇に小舞台があることで、それは音楽奏者が座をしめた場所である。こ のような建築方法は、現在の思考ときわめて近い﹂ 0 このように外部からの提供もあり、それまで顧みられなかった建築物へ の関心を高める効果もあったようである。また、民間古舞台の分析をとお して、歴史的変遷を視覚的に組み立てることにも貢献している。 ( 三 ) 行 事 ・ 特 集 号 お 期 、 初期の二期にわたって﹁旗装﹂の特集号が組まれている。﹁旗装﹂ とは満州族の衣装のことである。これは、その一年前におこった九一八事 変(満州事変) の﹁国恥﹂を記念すると銘打っての特集号である。どのよ うな意味を与えているのか、詳細を見てみよう。 お期一面には、梅巧玲扮する﹁雁門関﹂粛太后画(綴玉軒蔵)となって い る 。 ﹁ 本 刊 の 第 一 面 に 、 一人の肖像を掲載することは適当ではないが、 この特別号は例外である。梅巧玲は﹁雁門関﹂の第一人者である﹂と記す。 梅巧玲(一八四二 1 一八八二)とは旦役の名優で、﹁同光名優十三絶﹂の 一人に数えられる。梅蘭芳はその孫にあたる。﹁雁門関﹂は、梅巧玲の代 四 表演目の一つで、記事では、宮中でおこなう見曲﹁昭代粛詔﹂だったもの を、梅巧玲が京劇として﹁雁門関﹂全八本に作り直したのだという。内容 としては、宋の太宗が遼の征伐に出征し、宋の楊家と遼の蒲太后が雁門関 で攻防をくりひろげ、最後は藁太后が降伏するまでを描いたものだが、梅 巧玲は最後を南北融和に改編した。﹁九一八事変の国恥を記念して、囲内 の人々が融和一致して圏外の敵と戦うことを願い、この写真を一面にし た﹂という。この演目﹁雁門関﹂の粛太后という人物に、囲内の一致団結 としての象徴的意味があるというのである。 二面にはひきつづき、その意義について記している。﹁国劇画報の立場 として、どのような方法でこの日を記念するか﹂、智恵をしぼった結果、 ﹁失地(満州)に思いを致し、その失地の地域風土に関するものを題材と すべきで、国内の人がそれを見て、失地に対する深い追憶をよびおこせる ものでなければならない。現在失った東北三省、すなわち満州の風土習慣 がよぴおこされる特別のものがある演目には何があるだろうか。何度も考 えた結果、︿旗装﹀というものが国劇の上でおそらくもっともそれに該当 する特殊なものではないか、と思うに至った。言、つまでもなく、︿旗装﹀ を見れば、今のひとはだれもがすぐに満州の服だとわかるし、しかも美し さを兼ね備えたものである。目下の満州はすでに占領されてしまった﹂ 0 そういった考慮の結果、﹁旗装﹂特集号を企画して記念することにした。 三面まですべて、過去の名優たちによる﹁旗装﹂舞台写真で埋まっている。 さらに、﹁旗装﹂そのものの伝統演劇の衣装の中における位置について、 ﹁なぜ近代の国劇では特殊な存在なのか﹂が説明されている。国劇のきま りでは、女性の衣装は、﹁一に勝(宮中の上着)、二に披(マント)、三に

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摺子(あわせて四に宮装、この他に武の役柄は葬(鎧)が加わる、これ が演劇の通常の先例である﹂。﹁祷子(はかま)襖子(綿入れ)にいたって はすでに伝統演劇の規範の中からはみ出して、すでに︿時装﹀(流行衣装) である。︿旗装﹀はそれより後にできたので、楽屋の衣装箱には、︿旗装﹀ を収めるおきまりの場所はなく、従って特殊なものということになる﹂ 0 このように、社会に対して伝統演劇がどのような意義があるのか、どう かかわっていくべきか、ということを強く意識していることがわかる。 ﹃ 国 劇 画 報 ﹄ の編輯構成およびその内容から、一斉如山の編輯意図を見て みると、その特徴は、第一に、実際の貴重な文物を一不すことによって歴史 的背景を明示している。第二にこれまで研究対象にのぼらなかった舞台美 術壮一寸の領域にふみこみ、総合的な文化であることを証明しようとしてい る。第三にそういった舞台美術の一つ一つにル l ツや規範があるのだとい うことを精査し具体的に示している。これらによって、価値観の定まらな かった伝統演劇が、深い歴史に裏打ちされた、中国人のアイデンテイ ティーを示すことのできるものであることを社会にアピールしようとした 意志を指摘できる。 おわりに 以上まだ一部分ではあるが、誌面内容をジャンルに分けてその特徴的な ものについて詳細を検討してきた。これは、現在の伝統演劇研究という面 から見てみると、歴史的遺産、文物に注目し、その図像資料の蒐集分析を おこなっていこうという明確な研究態度を示しており、総合的実証的な研 努 如 山 と ﹁ 国 劇 画 報 ﹄ 究には欠かせないものである。週刊でこのような内容のものを継続して出 していくことは、容易なことではない。斉如山の総合的な企画力が、西欧 の衝撃と伝統への反発の中で唯々諾々としていた伝統演劇に対して、打開 する扉の一つを示した。それは、文物や図像写真などへの関心を意識化す るという研究姿勢を生み出すものであった。この﹃国劇画報﹄に掲載され た記事は、その後、単行本としても充実させて上梓されたものが少なくな 一連の研究成果は、斉如山の飽くことなき興味と轍密な探求心から引 き起こされるものであったが、結果的に、それぞれの分野で専門的蓄積を

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もった人の意識を高め、時代をへても残るものを作り出す結果へつながっ 4 3 2 1 '主 た と い え る だ ろ 冶 つ 。 残る﹁国劇画報﹄ の分析と斉如山の宣伝力については、別稿で論じる。 ﹁中国京劇史﹄中巻中国戯劇出版社一九九九年九月七五四頁 ﹃京劇文化詞典﹄漢語大詞典出版社二 OO 一 年 一 一 一 月 六 一 六 頁 ﹁梅蘭芳蔵戯曲資料図画集﹄河北教育出版社二 OO 二 年 一 月 ﹁戯班﹄斉如山全集一九六頁台湾聯経事業公司一九七九年二一月 五

参照

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