カリフォルニア州デルハイにおける州立植民事業 : 実験的コロニーの建設と崩壊(1)
全文
(2) 66. 矢ケ崎. 典. 隆. -以上が6.4%を占めていた。. 同じ統計からわかるもうひとつの事実は,那)フォルニアにはきわめて小規模な農場 が多数存在することである。 は30・5%,. 10エーカー未満の農場は全体の9.2%,. 10-50エーカー規模. 50-100エーカー規模は14.7%を占めており,. 100エーカー未満の農場は実に 54・4%におよんでいた。アイオワの場合には100エーカー未満の農場は13.8%にとどまっ ていた。以上のことから,かJフォルニアの農場は大規模農場と小規模農場とに両極化 が進んでいることが明らかである。多数存在する小規模農場は,大土地所有制の伝統の なかで,か)フォルニア型の集約農業が発展する過程で生じたものであったo このような小規模農場が発生したひとつの要因として,さまざまな目的と形態をもっ たコロニー,すなわち集団入植地の存在があった。かJフォルニアの初期の入植事業の 多くは集団入植によって行われたし,開拓の過程で多様なコロニーが建設された。移民・ 民族集団がコロニーを建設した事例は多くあった(Noda1981)。ユートピアコロニーに 代表される文化集団による共同的で実験的なコロニーも多くみられた(Hine1953)。ま た,南か)フォルニアの開発を促進した土地開発コロニー,セントラルバレーに典型的 にみられた企業による分譲地コロニーは,土地の細分化と農村コミュ土ティの増加に大 きく貢献した(Thickens. 1946; Winther. 1953)。理想郷としてのイメージが形成された. か)フォルニアにおいて・さまざまな背景をもったコロテ-は,その社会構造と発展プ ロセスを象徴する存在のひとつとして位置づけることができるかもしれないo 本稿は,コロニー開発のひとつの事例として,か)フォルニア州政府がサンホアキン バレー北部のマセド郡に建設したデル-イ州立植民事業を対象とするものである(第1 図)。デルハイコロニーに関して行われた研究は多くか-が,最も本格的な検討は1930年 代後半に行われたスミスの報告である(Smitb1938;1943)。これらのスミス論文に大幅 に依存しながら,また,利用できる他の文献に基づいて,デル-イで行われた州立コロ ニーの建設から失敗にいたった経過について紹介し,か)フォルニアにおいては例外的 な存在であった行政主導型の植民事業の実態とその意義について考察することが本論文 の目的であるoか)フォルニアにおける他の形態のコロニー開発に関しても,順次,報 告を行って行きたいと考えている。 II州立コJ)ニー建設の背景 (1)農村地域の実感調査 か)フォルニアのジョンソン(Hiram. W.. Johnson)州知事は, 1915年の州議会の永 認に基づいて,カリフォルニア州植民および農村金融委員会(California Commission 。n Land. Colonization. and. Rural. Credits)を任命し,農村地域の実情を調査させている。. こうした背景には,農村人口と農業生産が増加し土地の細分化が進むにつれて,土地投 機業者によってコロニー形式の分譲地が数多く建設されたが,恵質な業者の詐欺行為が 横行して損害をうける入植者が増加しており,健全な農村地域の育成が危ぶまれるとい った認識が州政府にあったためであった。同委員食はさっそく州内各地の農村地域を視.
(3) 67. カリフォルニア州デル-イにおける州立植民事業. ■■■. h. 芸. C}. ゝせ ヽ∼. ...勺. Y ゝゝ Erヽ. \こ.-. _.+. 町. ー■ ○ ■.. I(,o.. p:r1. .,.覗. ヨ. 詣A.;Q >'. H. i. ㌢l■ i-''.. .⊂. P. 貞. i. ::i:, ∼ー■●..'J.I.1l. 考r. a. .<≡≧:. Lp-. 芯;.. i.:. ●81. ●■. 一●!qU. -岳. I. I. i... u ○l■{▲. JJlー7. ∩ET]. Er]. 一. i. ●. ■. lき. ●. ・-ヽ■l●r1. ●. I. .:<l. 8. E). ...F.3書`葉音芋 甲. ●. ●. I. t●t■●. ㌻王■・コこコ {td FrW ?●!4;vA. tFLt^4. 一○▲■. A. ■. ●●<'ゝ●'.. 藩a. ■I. ■. ・*!::;A: 一:.萌.:;;一. 監惑. f. P■. i'-i..:!藍・.ゝ.. ・'<r'. I. 〉'.育 ー1. I.. I. I. I. E). 日 .4). 一. I. ㌔. ■a. I. E]. ●. 一l. A-10. F!. ●. I. ●. ヾ. t. Fl ー. 匂. ●. 夢}. ′. f′o. ■. i. t. E). H. t. 一. 'いコ. ーl. ゝ皇. l. I. ■ゝ. aIi与. 、r. ■古. I. -.-.-}. ●■¢. {ー I. q. i. A. 五. ≧㌃. 月し. 撃v.,. I.. ■ヽ■. i;;-. ‖ I. I. †. E]. tr?A..... I)1T. 灯j. .10. I. l. -l盛■. メ. -ー託. .5te O く′ ∼. 「 I. E. 4.. I. .ノ. ∼■▲. ■■ ■ー■. I. I. LN. ・Gt. F ・E. 一●▲●. ●. ∼. 原.nご:潤. :&. +I. r.こl. I. ●. ■ ∫ ′. 49. d9N. (. a. Hi声. a. 計. -+A. :.∼. I. 王Z. ..上. ■lHCNJL○▲. H. Fl. …量皇. 一●t. I. ー. E)i. Ea 、ヽ■一. I. 恕. ・■. ti. ′. 王盲. l勺∃ー'.. :>罰T -.I-SI菖 【■. I. ■l. l. ■■■■. &丘.. I. I. .i.. 軸■●■、`rー. I. ■. t1-I. ■. u. ●. ∼. ∫. I. ●. i. i. P. EE c;a 'r. ●. ,+. lL. I+tlヽ一一J●つ. 5 ユ. l. 主、.:. 良. や.■. .と. tE=.. I. E]. u. ●● ■. 汁... ● I tL. A. (〝■rE.P. ヽ. ∼.,.○. ;-.!&i・d:P`'P. ′. EI. E). Y′. H▲n○. c<. lMCN. ■○J. _Jf. 蜜一粒. #:.'. :a.oB. 6. I. I. 層. E). ●. E)?J]. ヽ E) 暑.㌔ l毒J 丁f''r.,. c3. ●. ■ ヽ. 一石. f. All. ーI 也. L. 礼. I. &.I. IITy♂■`亡. E]. I-i. ●. II. .■一. b.. 一】. 笥⊥-. ヽ. I I. I. LJ. I. ・屯. t ●. ●. F. ●. EI. ○. 上V). 蛋.望「. 筆蔓藁聾. ∼. ●. ) iAeR?;. や\ :.jEe. 巳,. ヽ. I. 」h. ≒;;ユ=H.望洋. ヽ一 一. i. I. ∫. ∼::f:. :.A..v...,:. ■. ●■. a. 既. !1 ∩U. I. 二;..ここ. I. C4}. ●J. E]. 臥. EZ3 ○. A.I. f.I. :n.. '.%l:モ.. El 5'L. -r. ・=芋 +ー■. I. ..也 卓. ●. 吋t Iち. .T一. ○. ∴ 訟'#.. りF&一L. ○. l. ●.吉. I. I. 一旬. l-Iー. ヽ. ー. 一. 一. -_u!. く. E]. ■▲. I. I. .坤叫り二N661)tt2qluaqOH望.LJ(・LY-て. 磨. ヾ>. 妄.:至誠. 紬7TAWI‖E]ny′∼4(恥7凶貿岸饗&f・ロ1S. I.:. 亡-. r. _'f<. 惑yL:■. BT.. 1'. 亨7;. !. ・:,',5::,. ○. 也E] ー. ● ●. 1. ●. ○.-. I. t⊃. ¢. ヾ. P. Il.. 田■!. ■■.
(4) 68. 矢ケ崎. 典. 隆. 察し,さまざまな側面に関する調査の報告を翌年公表している(Report on. Land. Colonization. and. Rural. Credits. of the. State. of the Commission. of California,. 29. November. 1916).か)フォルニアの農村地域が抱えていた問題として指摘された点は以下のように 要約できる(Smith. 1943:. 400-403;. McWilliams. 1935:. 203・204)。 まず,土地が少数の地主によって独占的に所有されており,土地の集中化傾向はさら. に進んでいた。例えば, 310人の地主が400万エーカーの最良の農業用地を所有しており, 中には100万エーカー近くを所有する会社や,50万エーカーを所有する鉄道会社もあった。 カーン郡では,カーン郡土地会社(35.6万エーカー)含めて4つの会社が合計100万エー カー以上を所有していたし,マセド郡ではミラーとラクスが24.5万エーカーを所有して いた。このような土地の独占的所有のために,カリフォルニアでは農地が十分に利用さ れていない。. 2800万エーカーの可耕地のうち耕作されているのはわずかに1100万エーカ. ーであった。また,農村地域には土地を持たない多数の移動労働者や小作人が存在した。 カリフォルニアでは土地が投機の対象となっており,これが入植事業の失敗の要因と なっていた。. 30カ所あまりのコロニー集落が調査の対象となったが,. 1900年から1915年. の間に建設されたこれらの多くにおいて,不動産業者の間を転売されるうちに農地価格 は当初の数倍に跳ね上がった。このような地価の高騰は土地所有の集中化を加速化し, 借地農を増大させることになった。農村地域で富を築く者があるとすれば,その多くが 投機的な地価の上昇によって利益を得たものであった。一方,地価の上昇は農地の集約 的利用を促進するため,地主は自ら農業を行うことをやめてアジア系の小作人に貸すよ. うになった.こうしてか)フォルニア農村の各地にはアジア轟の小作人集落が増加した. また,農村コミュニティの崩壊が各地で観察された。 入植者が自立農業経営を実現するためには,公的な金融制度の整備が遅れている。個 人融資に対しては高金利と短期の返済期間が一般的であるため,土地購入者は持ち合わ せの資金を頭金の支払いに使い果たし,農場整備や作付けなどの初年度の支払いをすま すことさえ難しい状況がよくみられた。また,入植事業に際して,カリフォルニアの気 候やローかレな土壌条件に適した農法に関する知識が欠如しているため,土地の生産性 や開発経費に関して判断を誤ることも多かった。農業労働力は慢性的に不足していた。 この委員会は,適切な施策が実施されればこうした問題の多くが解決できるものであ るとした。この報告書に基づいて,. 1917年からカリフォルニア州政府が公立の入植事業. を展開することになる。 (2)カリフォルニア州植民事菓法 1917年にカリフォルニア州政府はか)フォルニア州植民事業法(California. State Land. SettlementAct)を施行し,植民事業の遂行のためにか)フォルニア州植民事業委員会 (California State Land. ンズ(WilliamD.. Settlement. Board)が組織された。新たに就任したスティーブ Stephens)州知事によって委員長に任命されたのは,濯概や入植事業. の権威として知られていたミード(EIwoodMead)であったo彼は西部諸州で濯救法の.
(5) 69. 那)フォルニア州デル-イにおける州立植民事業. 改革に尽力したり,かJフォルニア大学や合衆国農務省で濯親閲係の研究や計画・行政 に従事しており,一時はオーストラリアに招かれてヴィクトリアの濯概事業にあたった 1938: 5)。他の委員としては,資本家,実業家,弁護士,上院議 こともあった(Smith 員などの有力者4人が指名された。この委員会は行政組織改変のために1921年から1923. 年までの間は機能しなかったが,ミードは1924年までこの委員会の委員長として仕事を することになる(Smith. 1943:. 406)0. か)フォルニア州植民事業法に基づいてビュート郡のダーラムとマセド郡のデルハイ の2カ所で入植事業が実施されることになる。この植民事業法と植民事業委員会は入植 事業のモデルケースを創設することを目的としていた。それは共同の精神と充実した社 食組織を備えた小規模自立農民と農業労働者の自立的コミュニティの建設であり,ミー ド委員長の表現を借りれば,. 「知的で秩序のとれたコミュニティ生活」の実現であった。. 小規模家族農場を増加し自立農民の生活の向上をはかることはアメリカ社食の重要な命 題であったし,農業労働者に住宅を供給して彼らの定住化を促進し労働力の確保をはか ることも重視されていた。とくに,第一次世界大戦の終了によって復員軍人の定住化が 大きな社会的関心を集めており,農村生活は彼ら・にとって好ましいと考えられたoこう したコミュニティでは,必需品の購入,農産物の販売,そして農業生産の一部は共同に ょって行われうるものであり,共同活動を通して農民は農村地域の産業を活性化させ, 農産物の販売において主導権を取り戻し,高い経済水準と高いモラルが維持されると考 ●. ●. えられたわけである(Smith1943:402-403)。ただし,それは「独立した白人の農民や労 働者の組織」なのであった(Smith. 1943:. 405.ただし,傍点は筆者による)。. また,州政府が独自の土地開発政策をもち公共の問題として農村地域の開発を取り扱 1902 うべきであるという認識が存在したo当時,連邦政府の開発法(ReclamationAct: States Reclamation Service)が潅故事業を進め 午)に基づいて合衆国開発局(United. ていた。しかし,植民事業は単に貯水池や潅親水路などの土木事業的基盤整備にとどま るべきではなく,土壌条件の評価,濯漉施設の設置,農場の建設,農業指導などの点に おいて州政府はより積極的に関与し,より計画的・効率的な開発を展開すべきであると 考えられた。すなわち,農村コミュニティの総合的な建設を意図したわけである(Smith 1943:405-406)。しかも,州内には肥沃な未開拓地がたくさんあるのでこのような開発が 必ず成功するものであると確信されていた(Smith. 1943:. 403)。. ⅠⅠⅠデルハイ州立コ■ロニーの建設 (I)入植地の選定 植民事業を展開するためには濯概事業と集約的農業に適した広い土地が必要であり, そのためにまず土地提供者をつのった。-次に,専門家の援助を得てそれぞれの提供地を 検討して候補地を推薦し,価格を設定し,それに基づいて購入交渉が行われた(Smith. 1943:. 407)。第1コロニーの選択に際して40カ所(合計199,089エーカー)の申し出があり,そ のうちの6カ所が候補地にあがったが,ビュート郡ダーラムの土地が選択されたo. 6,219.
(6) 70. 矢ケ崎. 典. 隆. エーカーにおよぶこの土地の買収は1918年のはじめに行われ,5月には最初の分譲地の販 売が行われたoこの事業のために州政府は1917年に26万ドルを計上した.ほとんどの区 画がすぐに売却され好評であったので,植民事業委員会は新たな植民事業を計画した。 新しい実験コロニーの建設のために,州政府は1919年に100万ドル,さらに2年後にも100 万ドルを計上した(Smith. 1943: 410,. 438, 445)0. 第2コロニーに関しては64カ所(515,547エーカー)の土地売却の申し出があり,. loヵ. 所が候補地にあがったが,水利や土壌の点で高く評価されたマセド郡デルハイの土地が 選択された。これは,タ一口ックの6マイル南,サザンパシフィック鉄道とサンタフェ 鉄道との間に広がる健康地であり,サンホアキンバレーでも人口が多い地域に接してい たo地主であるサンフランシスコのウイルソン(EdgarM・Wilson)との交渉の結果, 1919年11月に,彼の私有地と彼が最大の株主であった会社の所有地をあわせて7,654エー カーの土地が,. 1エーカーあたり92.5ドルで購入された。当初の土地購入に含まれてい なかった750エーカーは,植民地の形を滑らかにするために後に追加購入されており,コ 1943: 410-411, 439)。これらの ロニーの面積は全体で8,400エーカーにおよんだ(Smith 土地は,それまで羊の放牧地として粗放的にしか利用されていなかった(Hohenthal 1930:. 288)。 デルハイの買収にあたって,当時農村地域にみられた地価の高騰と土地をめぐる投機 的状況が理解できるo地主であったウイルソンは, 1905年ころにこの土地の購入を始め ており,その多くはエーか-あたり10ドル程度で手に入れたものであったという。した がって,諸経費を含めても,エーカーあたり92.5ドルで州政府に売却すること′によって 莫大な利益を得たわけである.ウイルソンは,州への売却の数カ月前にある会社に対し てエーカーあたり75ドルで売却を申し出ていたというし,州政府との間に売却契約が成 立した時期に,日本人コロニーを代表する仲介業者がエーカーあたり100ドルで購入する ことを提案していたこともわかっている、. (Smith 1943:′440)0 それではデルハイの土地はどのような自然条件をもっていたのであろうか。. 1917年に 行われた調査報告は次のように述べている。「地域全体は風によって形成された地形で起 伏に富んでいるo土壌は全体的に中粒の砂性である--尾根の部分やその他の高い地区 の土壌は,低い地区と比べると粒が粗い○土壌の厚さは6フィートかそれ以上であるが, 地下3-6フィートに固いシルト性物質の蒔い層がある場所もみられる--窪地や低い 場所にある砂はもう少しローム状であり,構造が細かい砂に近い.これらの場所では固 いシルト状の地層がより多くみられ,普通は地表面近くにあるが,植物の根や水の透過 を妨げるものではないoこれらの層は,時には浸透による水の損失を防ぐために有効な こともあるo土壌は乾燥していたり未利用の状態では粘着性がなく柔らかく,_広範囲に 移動する傾向が強いoしかし,種子がまかれ濯漉されると,地表面は硬化し,風の影響 を受けにくくなる。土壌中には有機質が少なく,吸水性が強く,年間を通して耕作しや すいoこの地区には,アルか)性土壌はみられないし,地下水面は高くない.しかし, 同様な土壌をもった近くの地区では,水を使い過ぎたため,低地部で地下水面が上鼻し.
(7) 71. カリフォルニア州デル-イにおける州立植民事業. たり,わずかではあるがアルか)の集積がみられた--この地域の大部分の土地はまだ 未利用の状態にある。利用されている土地には,ライ麦,小麦,大麦,マイロが栽培さ れている。バリコ近くのセクション1の一部でみられた濯概地のアルファルファ栽培で は,. 1年に6回の収穫によってエーカーあたり7-9トンの収穫があげられた。ここで. はカボチャ,サツマイもジャ,#イモ,メロン,モもブドウ,マイロ,その他の作物 が立派に栽培されている」. (以上,. Smith. 1943:. 433から引用)。. このように,デルハイの選定にあたって,土地条件が極めて悪いという認識は存在し てはいなかった。デルハイでは濯概による果樹栽培を中心とした農業コミュニティの建 設が目的とされたが,後述するように,こうした土壌条件に関する誤った認識が入植事 業にとって大きな障害となるわけであるo (2)入植地の達成 デルハイコロニーの実際の建設にあたったのは,監督官に任命されたパッカード(Walter E.Packard)と濯概土木技師のウイ1)アムズ(MiloB.Williams)であった.パッカー ドはかJフォルニアの農業指導員の副リーダーであり,インペリアルバレー農業試験場 の所長も努めた専門家であったし,ウィリアムズはダーラムコロニーの建設にあたった 1943: 411)。 実績をもっていた(Smith. 1922年9月の土地分譲状況を示した第2図から,デル-イコロニーにおける土地分割方 式を知ることができる。販売された区画には,. ′農場用区画,家禽用区画,労働者住宅用. 区画,市街地住宅用区画の4種類があった。コロニーの中心となる農場用区画の面積は 10エーカーから60エーカーで,平均すると28エーカーであったo. これらの多くは,タウ. ンシップ制に基づいた各セクションを機械的に細分化したもので,正方形あるいは長方 形の規則的形態をしていた。また, 3-10エーカーの面積をもつ家禽用区画も50あまり用 意された。家禽農場はデル-イコロニーの当初の計画には含まれてはいなかったが,農 場用区画を購入できるだけの資金をもたない人々のために,また,土壌が貧困なために. 作物栽培が困難であると評価された地区におい七土壌条件に左右されない経営形態とし て導入されたものであった(Smith. 1943:. 415・416).農業労働者用区画は,植民事業を通. して労働力の定着化と安定僕拾化をはかるためであり,0.87エーカーから2エーカーの広 さをもっていた。ダーラムコロニーでは労働者用分譲地の売れ行きがよかったため,チ ルハイではこの区画が増やされている。また,市街地区画として,デルハイとバリコの 市街地で住宅用地の販売が計画された. この地域では農業を行うためには濯漉が不可欠であるoデル-イコロニーはライト濯. 概法に基づいて設立されたタ-ロック濯概地区の商魂部に位置しており,上流部で取水 されたトゥ-ルミ-川の水を濯概用水として利用するために濯漉施設を建設する必要が あった。主要港概パイプの建設によって水をデル-イまで導水し,さらにそれを各農場 に分配するわけであるが,土地の起伏が大きく土壌が多孔性なため,揚水ポンプ場とコ ンクリートパイプによる分水システムによって各農場まで水を供給することが計画され.
(8) 隆. 典 矢ケ崎 72. 。吋叫り11uatHatllaSput2JJOuO!S!A!Q.S3I10]hU!TqndJOluatHLn!da凸.I:!u10J!tt2UJO21t:1S. (y6鮮NN6t)庖凶懸命W鞘沸凹磐壁責了、](恥 囲N鯨.
(9) 73. 那)フォルニア州デル-イにおける州立植民事業. た。実際には,コロニーを4つの単位区域に分けて濯概の整備が進められたo西側の第 1. ・第2区域では1920-21年の冬に濯概パイプの敷設がほぼ完成し,第3区域では192ト (パリコ)区域では1922/23年の冬から1923/24年の冬にかけて 22年の冬に,そして第4 1943: 411)。多量のコンクリートパイプを供給するためにパイプ製造 行われた(Smith 工場が建設され,サザンパシフィック鉄道からの引き込み線が敷設されたoまた,濯概 と同時に,起伏地形とハードパンの存在によって低地部では排水不良となるため,排水 用の井戸とポンプを多数設置しなければならなかったo 以上のような主要パイプ施設や農場への分水システムなどの濯概施設の建設に加えて, 各農場では重力濯概のために圃場を平坦化する作業が必要であったので,こうした造成 費用は合計するとエーカーあたり120ドル以上におよんだというoこれらの経費は入植事 業委員会の当初の予想をかなり上回るものであり,予算を大幅に食いつぶすことになっ た(Smith. 1943:. 413)。土地の購入にあたって州政府は1エーカーあたり92・5ドルを支. 払っており,濯概用水の利用にエーカー当たり17ドルが必要であること,そして,標準 的な農業用区画の販売価格はエーカー当たり200-300ドルであったことを考えあわせる と,コロニーの建設がかなりの財政的負担を強いられており,経済的ゆとりをもたずに 行われたことが明らかになる。 さらに,この植民事業の特徴のひとつは,区画の測量と分割や濯概システムの建設ば かりでなく,入植者がすぐに農業経営を始められるように農場をかなり整備することで ぁった。入植事務所は,計画,測量,契約,農場・市街区・事務所の建設の監督のみな らず,各農場のレイアウトや諸施設の配置なども行った。住宅や酪農に関する法律,下 水に関する水質基準,家庭用の水供給,保険,配管,ペイントやコンクリートの混合, 煙突の建設や大工仕事など,きまざまな事柄に関してアドバイスを行った(Smith1943: 417)0. これらの事業と平行して市街地の建設も進んだ。サザンパシフィック鉄道に沿ってデ ルハイ(300エ-カー)が,サンタフェ鉄道に沿ってバリコ(200エーカー)が市街地と して計画されたが,とくにデル-イ市街地はモテルタウンとなるべく詳細な計画に基づ いてかなりの予算が投資された。サザンパシフィック鉄道の一方の側では,住宅地区の なかにシヴイツタセンター,大きな公園,運動場,学校をもった中心地があった¢大き な住宅街区の中央には近隣公園運動場が計画されたoシヴイツタセンターではミッショ ンアドべ建築様式が採用されて美観の統丁がはかられた.鉄道線路の反対側には,倉庫 や工場のために鉄道の引き込み線が敷設された。都市計画に基づいて,事務所ビル,パ イプ工場,倉庫,飯場,納屋,店舗,スタッフ用住宅など,デル-イコロニーを発足さ せるために必要な施設が市街地に建設されていった(Smith. 1943:. 416)。. (3)人権者の募集と区画の販売 デルハイコロニーの分譲地の販売は1920年4月27日に始まったoしかし,さまざまな点 において,分譲地の販売は事務局が意図したようには遊行しなかったo.
(10) 74. 矢ケ崎. 典. 隆. まず,入植事業を成功させるために,入植希望者に対して面談を行って,ふさわしい 人々を選抜するという方針が掲げられた○こうした方針は第1コロニーであったダーラ ムにおいてはある程度可能であったが,デル-イコロニーにおいては,分譲の当初から 入植希望者数が区画数を下回っていたため,最小限の資格を満たしている応募者に対し ては販売が行われることになったoもっとも,入植者は合衆国市民であるか,市民にな る意志を誓った者という条件がつけられていたので(State of Public. Works,. Division. of Land. Settlement‥. of California, Department. n・d・, b‥ll),日本人を含めてアジア系. の移民は入植の対象から除外されたことになる。. 多様な背景をもった人々がデル-イコロニーに迎えられたo入植者の380/.は農場から 直接やってきた者,. 23%は農場で育った者,. 27%は20年以上にわたって農業を行ってき た者, 8%は農場での経験を全くもっていない着であった。濯概農場に暮らした経験を もつ者はごくわずかであった(Smith 1943‥ 418)o復員軍人も多く,一時は入植者め半 数を占めていたo法律的には旧軍人が優先されることになっていたが,応募者の絶対数 l. が区画数を常に下回っていたので,このような条件は一般の人々の入植を阻害する要因 にはならなかった(Smith 1943: 418). 1922年の報告によると,応募してきた人々の職 業には次のようなものが含まれていた:商店経営者,土木技師,自動車修理工,巡回販 売員・看板書き・左官・帳簿係,電信技師,大工,写真家,アフリカのガイド・ハンタ ー,バンドリーダー,牧師・オーケストラ演奏家,花屋,ラジオ技師,映画映写機技師, 船大工,水夫,学校教師,幼稚園教師・ピアノ教師,弦楽器教師,演説法教師,ダンス 教師,不動産セールスマン,連邦土地銀行の不動産鑑定士,婦人用帽子制作者,ドレス 縫製者,敷物制作者,電車の車掌,蒸気機関車技師,電気技術者,自動車セールスマン, チェス製造者,銀行家,庭師,消防士,整骨療法医,医師,看護婦,パン鼠住宅塗装 屋,靴製造者,速記者,配管エ,警察官,飛行家(Smith. 1943: 418)0 それでは,このような入植者の経済的負担はどのようであったのであろうか。. のパンフレット(State. of California, Department. of Public. W・orks,. Division. 1922年 of Land. Settlement‥ n・d・, b)から分譲価格をみよう。農場用区画は最小の16.56エーカーから最. 大の55・98エーカーまで,エーカーあたりの価格は125ドルから355ドルまで(平均229ド ル),分譲価格は3,312ドルから13・262・8ドルまでの範囲であった。農場用区画の購入希 望者は,自己資金として1500ドル(後には2・500ドルに改定されたが, 1923年には再び1,500 ドルとなる)を所有していなければならなかった。こうした自己資金の中から,頭金と して土地価格の5. %と農場整備費用の40%を支払い,農機具や家畜の購入経費と生活費. をまかなうわけであったo分譲価格残金の返済は,年利率5%で,、土地に関しては36.5 午,整備費用に関しては20年で行えばよかったoただし,事業所が作付け作業を代行す る場合にはその費用は現金で支払われなければならなかった(Smith. 1943: 445-446)。一. 例をあげれば,区軸18番は面積が28・57エーカー,エーカーあたりの価格は245ドル,分 譲価格は6,999・65ドルであったので,頭金は349・98ドル,半年ごとの返済金額は199.49 ドルであったoなお,労働者区画の購入希望者については頭金さえもっていればよかっ.
(11) 75. カリフォルニア州デル-イにおける州立植民事業. た。. 実際には,前述の自己資金をもたなくても入植できたようである。というのは,区画 に応募してから稼いだ現金やクレジットが入植資金にあてられた'からであった。入植地 事務所で働いた入植者はたくさんいたo家族はコロニーにとどまって準備を進める一方, コロニー以外の事業所で働いたり前の職業にもどって現金収入を得た者もいた.復員軍 人は政府からの収入があった。さらに,入植者がそれぞれの分譲区画で行った作業に対 してクレジットを受けるシステムもあり,それを土地や整備費用に対する頭金として利 用することもできた。建築資材やその他の必要物品を後払いで手に入れることができた。 このような点を考慮すると,入植当初の支払いは極めて容易であったといえよう(Smith 1943:. 451-452)0. こうした状況は,民間業者から個人的に土地を購入して農業を開始する場合と比較す るときわめて恵まれていた。アンダーソンは,州の他の地区での最近の調査では,少な くとも3,500ドルから5,000ドルの自己資金がなければ標準的な個人がデルハイ植民地と 同様な規模の土地を購入し改良することができないと指摘しているo一般に利用できる 購入プランは,土地価格の10%を頭金として支払い,残金を10年で返済する方法であっ た(Anderson. 1922:. 22)0. さらに,入植者に土地証書が与えられたダーラムコロニーに対して,デルハイでは州 政府と入植者との間に販売契約が行われたのみであった。法的には州政府が土地を所有 しているため,入植者は不動産の課税対象から除外されたわけである(Smith. 1943: 445)。. このような比較的恵まれた状況にもかかわらず,デル-イコロニーでは最初から土地 区画を販売することが難しかったo分譲が始まった1920年4月27日から9月30日までに販 58の労働者用区画のうちの47であり,合計で 売されたのは97の農場用区画のうちの67, 1943:. 41区画が売れ残った(Smith. 421)。こうした状況を打開するために,デルハイコ. ロニーに関するさまざまな宣伝活動が展開された。ミード委員長は各地で宣伝活動を行 ったし,雑誌や新聞はデル-イコロニーに関する記事を頻繁に掲載した。広報機関,農 業試験場,鉄道会社も宣伝活動に参加した。サンタフェ鉄道は中西部の農民3万人にあ 1921年には植民事業局は1万通の問い合わせを受けてい 1935: 422)0 る。サザンパシフィック鉄道はデル-イ駅を改装している(McWillisms. てて手紙を送ったこともあり,. こうした努力にもかかわらず分譲地は依然として売れなかった。第3区域が販売された (パリコ)区域が分譲された時に 1922年秋に第4 時には,北部全体が売れ残ったため, は特別の販売キャンペTンが実施された。販売区画は農場区画97と労働者区画8であり, 販売促進のためのパンフレットが1万5千部配布された(State public. Works,. Dividion. of Land. of California,. Dept・. Settlement:. n.dリa)。農業フェアが開催されて,入植 地の発展とコミュニティの様子が紹介されたし,パリコには特設の土地事務所が開設さ れた。しかし,分譲が始まってもほとんど応募者は現れなかったし問い合わせもなかっ た。バリコ土地事務所は数日で閉鎖された。こうしてキャンペーンは失敗に終わったわ けである。バリコ区域と同時に分譲されていた旧分譲区域(農場用区画34と労働者用区. of.
(12) 76. 矢ケ崎. 典. 隆. 画3)とをあわせても,受理された応募は農場用区画への21件と労働者用区画への6件 のみであり,しかも,実際に入植したのはこれらの一部のみであったという(S血ith1943: 422)0. 1923年3月にはデル-イコロニーの概要と分譲資料をのせた12真にわたるパンフレッ of California,. ト(State. Department. of Public. Works,. Division. of Land. Settlement:. 「なぜ州政府が入植 n・d・,b)が作成されており,分譲された87区画に関する情報のほか, 事業を援助するのか」について,植民事業の歴史,濯概,気候,作物等について簡単な 説明が行われている。こうしたパンフレットのほかにもさまざまな版売促進策が行われ たが, 1923年にはほとんど何も版売されなかったという。. 1924年12月31日の時点で売れ 残っていた土地は合計で3,528エーカー,その評価額は933,527.36ドルにおよんだ(Smith 1943:. 423)0 また,入植者のなかには転出者も多く,所有権の移動が頻繁に行われた.スミスによ. ると, 1920年と1930年の10年間に所有権の移動がなかったのは115区画,この期間に所有. 者が2人であった区画は155,. 3人の区画は51,. 4人の区画は11, 5人の区画は2であった. このうち52区画が労働者用区画(3エーカー未満)で,労働者用区画の所有権は農場区画 に比べてより頻繁に移動したといえる。これらの移動の多くは初期の段階で行われた(Smith. 1943:. 420)0 Ⅳ. 初期の入植活動と評価. (1)初期の点集とコミュニティ 入植が始まって間もなくの時期にどのような農業活動が展開され,どのようなコミュ ニティが形成されたかについてはまとまった資料がないが,断片的な材料から初期の状 況をある程度知ることができる。 農業をはじめて認識されるようになった初期の問題のひとつに風害があった。. 1920年. の春には風害がとくに大きく,作付けの始まったばかりの多くの作物が失われた。風害 の防止対策として,凪が強くなる前に作物が成長できるようにまとめて作付けを行った り,ライ麦を帯状に植えて防風を試みたり,肥料やワラをスキ込んで土壌の定着化をは かったりしたが,多くの作物が失われ続けた.防風林として竹林が植えられた場合もあ ったがうまく行かなかった.未入居の農場用区画が多くあったため,そこから吹き込む 強風を止めることは難しかった。また,ウサギによる被害に対しても何もすることがで きなかったので,若芽が食い荒らされた。後にウサギ防止用のワイヤーがブドウ園の周 囲に張られたが,ブドウ樹木はすでに被害を受けていた(Smith. 1943:. 429)0 1922年6月までには,アルファルファ作付け面積は1,369エーカー,果樹園は347エーカ. 1925年には,果樹園面 積は800エーカー,ブドウ面積は350エーカー,そしてアルファルファ面積は2,400エーカ ー,ブドウほ343エーカー,サツマイモは100エーカーであった。. ーに増加したoアルファルファは平均してエーカー当たりの収穫が4.5トンであり,6-10 トンの収量のある畑もあった(Smith 1943: 429, 431)0.
(13) 77. 那)フォルニア州デル-イにおける州立植民事業. また,アルファルファを飼料として,州政府と地元銀行からの融資を利用して,入植 者が酪農牛を導入している。酪農業の振興のために,合衆国農務省は専門家ををデルハ イに駐在させているし, 1922年夏には, 211頭の改良雑種と32頭の純血種牛がデルハイに 存在しており,. 115轟のミルク生産は平均39・75ポンドであったoその年の秋には州農務. 省が29頭のツベルクリン陽性牛を処分しなければならなかったが,酪農業は急速に発展 Poultry 1943: 430)。養鶏についてみると,家禽生産者組合(The をはじめた(Smith Breeders)が組織されており,. 1922年春に2方羽以上の雛を購入している。鶏舎は全体で. 21,000羽の鶏卵用雌鳥を収容でき,合計すると長さ0・5マイルにおよんだo入植者のなか 1羽あたり年間250個以上の卵の生産が には2,000羽の鶏卵用雌鳥を飼育する者もおり, 期待された(Anderson. 1922:. 22)0. このような農業活動にもかかわらず,農業生産からの利益は少なかった。果樹やブド ウ栽培の場合には投資が回収できるまでにかなりの時間がかかったし,単位面積あたり の作物の収量は極端に低かった。果樹園やブドウ園に換金作物を混植することが奨励さ れたが,うまく行かないことも多かった。入植者の大部分にとって,諸経費と返済金を 支払い,生活費を捻出することは不可能に近かった。その結果,間もなく滞納者が急速 に増え,負債を調整してくれるように要望がでるようになるほどであった(Smitb1943: 430)。 入植者の共同活動は初期のデル-イの特徴のひとつであった。1922年3月のはじめにデ ルハイを視察して『か)フォルニア・カントリーマン』に報告を書いたアンダーソンは, 協同組合を中心とした共同活動にきわめて高い評価を与えている。最も重要な共同活動 Association, Co-operative Inc・)による共同購入であっ は,デルハイ協同組合(Delhi た. 「この組織はコロニーの入植者から構成きれており,入植者のために,購入,販売,. そして物品の取り扱いを行うエージェントとして組織されたものである。. 1921年11月は. じめからこの組合は入植者が必要とするさまざまな物品の取り扱いに大変忙しくしてき た。 12月と1月には90トンの石炭が運び込まれ,次に安い近くの燃料業者と比べると,ト. ンあたり4.5ドルの得になった--12月15日から2月1日までに105トンの干し草が州の干 し草生産地域から搬入されたoこれについてはトンあたり1,ドルから3ドルの節約となっ た-・・今までに, 15,000本の果樹, 70,000本のブドウ樹や切り杖が購入されたが,小売 価格と比較して5%から20%安く仕入れられた・・-・4貨車分のフェンス用支柱やブドウ 樹用の杭が組合によって購入された。′この場合の節約は入植者が卸売価格で支柱や杭を 購入できたことになる。多くの場合,この節約嶺は-1千本あたり3ドルから7ドルにお よんだ。同様の額の節約は、,この冬にブドウ園に格子状にはる100マイルのワイヤーにも いえた。共同購入によって最も節約額が大きかったのは,家禽用の育雛器の購入であっ 1922: 21-22)0 (Anderson た。これだけでも,入植者は27%安く購入できた」 1921年には,組合は1万ドルをかけてコミュニティホールが建設された。旧地主であっ たウイルソンから5千ドルの寄付が送られたので,彼にちなんでウイルソンホールと呼ば れた(Hobentbal. 1930:. 256)。このホールでさまざまな合食や催しが行われたoアンダ.
(14) 78. 矢ケ崎. 典. 隆. -ソンはこれを「デル-イコロニーという大きな家族にとっての団襲の場」と呼んでい る。コロニー以外の人々に対しては正当な額のレンタル料が課せられるが,これは組合 にとってのひとつの収入源でもあった(Anderson. 1922:. 22)。また,デルハイコロニー には『デル-イニューズ』という週間新聞も発行されていた(Hohenthal 1930: 256)0 しかし,以上のような共同活動は長続きすることはなく,共同事業のほとんどはしば らくすると消滅してしまったという。デル-イの監督官は,初期には積極的に行われた 共同購入の努力はいずれも失敗に終わったと1924年に述べている(Smith. 1943:. 419-20)。. (2)植民事蕪に対する初期の評価 デルハイ植民事業に対する評価は,実験コロニーの推進者,実際の入植者,そしてア メリカ社食一般ではそれぞれ異なっていたし,それは時間の経過とともに変化した。 前述のように,分譲地の版売状況は好ましくはなかったし,農業経営も順調には展開 されなかったが,デル-イコロニーの分譲が始まってしばらくの間は,デルハイはダー. ラムとともにアメリカの土地政策における大胆な革新として全国的な関心を集めること になったo植民事業の推進者であったミード委員長とパッカード監督官は,. 1921年にコ モンウェルスクラブにおいてダーラムとデル-イの植民事業は成功であったと強調して いるoアイダホやサウスカロライナをはじめとして,合衆国の多くの州から代表団がデ ルハイを訪問したし,ヨーロッパからの視察も行われた。いずれの代表団もデルハイの 成果に対して熱狂的であったとし,う(McWilliams 1935: 205-206)o合衆国の農村に関す る州政府の開発政策を検討した-ンダーソンは,ダーラムとデル-イに言及しながら, 州政府の監督による集団入植事業をそのひとつのタイプとしてあげており,同様な事業 が他の州においても実施されたり計画されたりしていることを指摘している(Henders。n 1926)。 また,前述したアンダーソンは, 載された記事のなかで,. 1922年の『かJフォルニア・カントリーマン』に掲 「デル-イは,州政府の目的が達成されたことを証明しており,. 共同はこのコロニーにおける合言葉であり,. 190区画に居住する700人におよぶ人口のほ とんどが,入植者自身が設立した協同組合の規則に従って共同的コロニーを成功させて. いる」 (Anderson1922:9)と述べている。このような成功の要因としてあげられている のは,資産の少ない人々が土地投機の犠牲者になることを心配せずに勤勉なコミュニテ ィのなかに土地を獲得できること,入植事務所の職員の献身的な努力によって入植者へ の指導や援助が十分に行われていること,協同組合が効率よく組織・運営されているこ と,そして住民の間には共同の精神がみなぎっていることであった。デル-イは, 「入植 者個人ばかりでなくコミュニティ自体の利益のために,コミュニティがひとつの単位と して成長し共同しあうことができることの積極的証明なのである」と結論づけられてい る(Anderson. 1922:. 9,. 21)0 入植が始まって間もない時期におけるこのような肯定的な評価と、は対照的に,・前述し. たように,農業生産はなかなか軌道にのらなかった′し,州政府への諸経費の返済を怠る.
(15) 79. カリフォルニア州デル-イにおける州立植民事業. 入植者も増えたし,各種の共同活動もしだいに縮小していったo. こうして, 1925年頃ま. でには,入植者の閤にも入植事業関係者の聞にも,デル-イ入植事業が失敗に終わった (未完:次号に続く) という評価が定着するようになるわけである.. 文 Anderson,. S. (1922):Delhi-A. co10perative. 献 The. colony.. Callfomia Countlyman. (3),p.9;. 8. pp.. 21-23. B.. Henderson, Hine,. R.. (1926):State. Economics. Utili& Ⅴ.. Hobentbal,. in agricultural. policies. 2, pp.. of Land. Joumal. settlement.. Public. and. 284-296.. (1953): Callfornia's utop由n colonies. New A. (1930):-A history Turlock of也e. H.. York:. Norton. 209p.. Library,. district. M.A.. University. thesis,. of. California. C. (1935):Factories in the jield,the sto坪Of migratory fami Peregrine Barbara: Publishers, Inc. (1971 edition), 335p.. McWilliams, Santa. C. (1949):Califomia.・ the gyleai exc砂tion. Santa. McWilliams,. labor in CalljTomia.. Peregrine. Barbara:. Inc.,. Smith,. 377p. K.. Noda,. JACL. Colony.・ 1906・1960.Livingston:. (1981): Yamato. Livingston-Merced. Chapter,. 231p. R. ∫.(1938):An economic Delbi. Ph. D. dissertation,. Smith,. R.. Smith,. I. (1943):The. analysis. University. California. state. of the California. of California. land settlements. land settlements at Durham. and. at. Durbam. and. Delhi. Hilgardia. 15. (5),pp. 399-492. State. of California,. Information. Department. for intending. of Public settlers. Division. Works,. regarding California.. the. Ballico. of Land. Settlement. unit of the Delhi. (a.d.,a):. Land. Settle-. County, Delhi, Merced Department Division of Land Settlement California, (n.d.,b): of Public Works, of in Merced for intending settlers regarding the Delhi State Land Settlement Information ment,. State. County, Thickens,. California.. Ⅴ. E.. (1946):Pioneer agricultural colonies of Fresno County. 25 (1),pp. 17-38; 25 (2),pp. 169-177. Socie砂伽rterly Vance, E., J. Jr. (1972):California and the search for the ideal. Annals Amm'can. Winther,. Geog71abhe7S. 0. 0. (1953): The. pp.94-103.. 62, pp. colony. California mston'cal of the Association. of. 185-210. system. of southern. California. Agn'cultural. msto7y. 27. (2),.
(16)
関連したドキュメント
Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A
Kashiwara and Nakashima [17] described the crystal structure of all classical highest weight crystals B() of highest weight explicitly. No configuration of the form n−1 n.
We have introduced this section in order to suggest how the rather sophis- ticated stability conditions from the linear cases with delay could be used in interaction with
In [T] it was shown that there is a bijection between isomorphism classes of cluster-tilted algebras of type A n (or equivalently isomorphism classes of quivers in the mutation class
[r]
2681 Leaf Life Lignin Manganese 5% Manganese Sulfate FSA Soil deficiency must be documented by testing. 2884 Humic 600 Humic Acid
Types: CPA - Crop Production Aid, DPC - Disease and Pest Control, FSA - Fertilizer and Soil Amendment, LPA - Livestock Production Aid, PH - Processing and Handling. WSDA
Amount of Remuneration, etc. The Company does not pay to Directors who concurrently serve as Executive Officer the remuneration paid to Directors. Therefore, “Number of Persons”