鹿 野 し の ぶ 北朝一家司 の 人生

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であることから︑文安元年︵一四四四︶に従一位左大臣を追贈

された︒この経緯について分析した結果︑貞成の関与が大きく経有への敬意と共に自身の太上天皇宣下の布石として行われた

と結論づけた︒

さらに︑崇光院の歌壇︵グループ)の一員として︑歌合など

に参加している経有の和歌活動について言及した︒結果︑経有

の和歌表現の特徴は︑伏見院歌壇で特徴的に用いられたものを追随するところが多いことから︑崇光院を伏見院に重ね合わ

せ︑伏見院歌壇の再興を強く願っているものと分析した︒

一︑伏見宮と庭田家

北朝の天皇である崇光天皇の近習として仕えた家柄に庭田家

がある︒本稿で取り上げる庭田家の十三代︑経有は和歌文学辞典などの辞典類に立項されていないが︑その後の伏見宮家に影響を与えた注目すべき人物である︒その経有の事蹟と︑現存す

る数少ない和歌について分析し︑当時の詠歌背景についても考 キーワード崇光院・庭田経有・貞成親王・看聞日記・伏見宮

︻要旨︼

南北朝期という乱世においては南朝対北朝という構図だけで

はなく︑北朝内においても皇位継承に関して争いが窺われる︒

その時代の波に翻弄された伏見殿・崇光院の家司︑庭田経有に焦点を当て︑その事蹟を考察する︒経有は庭田家十三代目の当主である︒その姉・資子は崇光天皇に仕え︑伏見宮栄仁親王を生んだ︒また︑経有の女︑幸子︵敷政門院︶は栄仁親王の子・貞成親王︵後崇光院︶に出仕し事実上の正室となり︑彦仁親王︵後花園天皇︶を生んだ︒このよう

に経有は天皇家と深い関わり持つ重要な位置にあった︒経有は栄仁親王の即位と同時に自身の栄達を望んでいたことを明らか

にする︒その意に反し︑官位は従四位下右近衛少将であり︑つ

いに公卿にはならず生涯を閉じる︒その後︑後花園天皇外祖父

鹿 野 し の ぶ 北朝一家司人生

庭田経有伝記考

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るが︑この二人の母は飛鳥井雅家女であるという︒この飛鳥井雅家女は︑足利義持から信任された歌壇の指導者である飛鳥井雅縁︵宋雅︶の兄弟である︒なお︑雅家の兄弟に飛鳥井経有が

おり︑私撰集などでは庭田経有との混同も見られる︒

さて︑庭田家と皇室の関わりをもう少し確認しておく︒栄仁親王は三條実治女治子を室とするが︑その子後崇光院貞成親王

は経有の女・幸子を室としている︒そして︑幸子は後花園天皇

の母となり︑経有は外祖父となる︒さらに幸子の子貞常王は経有の孫にあたる重有女盈子を室としている︒以上のことを系図にまとめて示すと次のようになる︒ 察する︒庭田家の祖は宇多源氏であり︑諸家は楽道を家職として世襲

し︑鎌倉時代の末より宮廷師範となり︑代々側近として奉仕す

るようになったという︒南北朝期に至ると綾小路家と称される

が︑その後︑庭田・田向と狭義の綾小路家の三家に分かれる︒

そして︑音曲に関する伝統は主として狭義の綾小路家に伝わ

る︒その一方︑庭田大納言重資の女資子が崇光天皇の典侍とな

り︑栄仁親王の母となったために︑この一門の人々は伏見宮家

に由緒をもつこととなった︒室町時代には庭田・田向・綾小路

の三家はもとより︑五辻︑慈光寺の庶流諸家も奉公した︒この資子の兄弟が経有である︒経有には重有と幸子の一男一女があ

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経有大納言重資男新続古今雑上一四位﹂と追贈後の官位で部類される︒経有に関連する記録を年譜にまとめる︒

︻経有略年譜︼   二︑経有の年譜

﹃庭田家譜﹄の十三代経有の項目を示す︒

十三代  経有  ︿重資二男/母不詳﹀ 叙従五位下︿年月日/不詳﹀正平十九年正月五日  叙正五位下任右少将従四位下薙髪︿以上年月/日不詳﹀ 応永十九年五月十五日卒生辰及享年不詳  文安元年五月六日方三十三年祭以後花園天皇外祖父之故贈左大臣従一位経有の生年は不明︑応永十九年︵一四一二︶五月十五日没と

ある︒享年はおそらく七十歳代であろう︒康永元年︵一三四二︶頃の生まれとなる︒崇光天皇よりも約十歳年少︑栄仁親王より

も約十歳年長ということになり︑年齢的に双方の相談役として適切であったと考える︒﹃庭田家譜﹄には﹁従四位下﹂とあり︑後掲の﹃康富記﹄には﹁正四位下﹂とある︒父祖と同じ官職を継

ぐことが第一義であるが︑経有は公卿に終ぞならなかった︒崇光院の御代が短く︑その後は娘幸子と共に貞成を支えたためで

あろう︒没後︑後花園天皇の外祖父ということにより︑従一位左大臣が追贈されたが︑その経緯については後述する︒

また︑﹃看聞日記﹄応永三十一年五月十四日条には﹁明堯禅門子孫有廿五六人︑曾孫まては可有四十余人云々︑繁盛珍重也﹂

とあり︑法名が明堯であると知られる︒

さて︑経有は﹃新続古今和歌集﹄に一首入集する勅撰歌人で

もあり︑作者名は﹁源経有朝臣﹂と見えるが︑書陵部蔵勅撰集

﹃作者部類﹄には﹁大臣﹂の項目の最末尾に﹁贈左大臣従一位源

1364貞治

1 5経有叙正五位下後愚昧記 3 この一万首作者右兵衛督源経 昧記 26内裏舞御覧叙位聞書正五位下源経有﹂︹後愚 1367

4

空華集 3 1368応安

1 御文庫記録 21し︑る︹ 1370

8 すか後光厳御記 19 1371

3 12

崇光院仙洞歌合このか︒経有出詠※1 23後光厳院譲位後円融天皇践祚 1372応安

7 20経有光厳院年忌参会伏見殿両院御幸記 1374応安

1 29後光厳院崩御 1375 1378永和 永和

3 3 4

17 26 23崇光院指月庵招引経有同行※2 経有ら︑召人ることについて意見す※2 同行※2 り︑ 百番歌合﹂︵崇光院経有出詠※1 4

5 5 5 5

25 2 6 18 27経有大光明寺警固につきさる※2 経有古剣妙快臨川寺五山昇格抗議る※2 経有荘内喧嘩について問答す※2 経有書下について意見す※2 する※2 1382永徳

4 11後円融院譲位 1392明徳

11 30崇光院出家 1393明徳

4 26後円融院崩御 1394応永

7 15杉殿庭田資子薨去

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厳天皇の御代であり︑経有は内裏の舞御覧に参仕している︒貞成親王が記した﹃椿葉記

見殿︵稿者注・崇光︶と御中よく申通られ侍る﹂とあり︑元々 ﹄には︑﹁内裏︵稿者注・後光厳︶は伏 12

その関係は良好で︑家臣も双方に仕えていたという︒貞和四年

︵一三四八︶践祚の崇光天皇の御代においても︑経有が近侍し

ていたわけだが︑後光厳の御代にも朝廷に仕えていたことが確認される︒崇光天皇は南朝によって観応二年︵一三五二︶十一月七日に廃され︑正平七年︵一三五二︶三月には八幡へ︑同年六月二日

には賀名生へ幽閉されている︒賀名生における崇光院の文学活動が知られる資料として︑京都北野東向観音寺蔵﹃崇光天皇宸翰

続ける姿が知られ︑特に﹃事文類聚﹄を取り寄せることを厳命 ﹄が存する︒宸翰には崇光院が不自由な生活の中でも学問を 13

している︒当該資料には﹁興仁﹂の署名と四月十四日の日付の

みが記される︒崇光院が正平九年の三月二十二日には河内金剛寺へ移されていることを考え合わせると︑この書状が記された

のは正平八年四月十四日となろう︒そして︑この時幕府の擁立

によって親王宣下も神器もなく即位した後光厳に仕え︑都にい

たと思われる経有にこうした依頼をしていたのではないか︒ま

た︑室町期における事文類聚の記録については住吉朋彦氏に詳

しい

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が︑氏に拠れば最も古いものは﹃空華日用略集﹄永和二年

︵一三七六︶三月十五日条の記事に見えるものとされる︒当該資料はそれを二十年以上も遡る貴重な資料である︒貞治六年に話を戻すと︑この年︑後光厳天皇は﹁国士﹂坊城俊冬︵三月二三日歿︶と油小路隆家︵四月三日歿︶の二人を失う︒ 三︑伏見殿の近臣であり︑朝廷に仕える経有

経有に関する記録の初見は︑貞治三年︵一三六四︶一月五日

に正五位下に叙されたとする﹃後愚昧記﹄の記事となる︒後光

1398

3 陽記 2崇光院四十九日忌経有一品経供養書写 5 18鹿す︹ 5 26栄仁親王出家同時経有出家庭田経有記 8 13殿る︒殿 1399 1406 1412一九 一三 応永

12 5

11 15庭田経有卒 伏見殿五十番歌合明堯出詠※1 栄仁親王伏見殿帰還せらる 1417応永二四

2 12治仁王薨去貞成王伏見宮家相続 1425応永三二

4 16貞成王親王宣下 1429永享

12 27後花園天皇即位 1431

11この貞成親王正統廃興記起草 1433永享

文完成 2椿 1434永享

3 16庭田幸子後花園院母︶︑従三位 8 27貞成親王椿葉記後花園院奏覧

9 10

1 22 後花園天皇椿葉記納受返書貞成親王

所望め︑ 1444文安

5 6経有贈従一位左大臣 1447

11 27貞成親王に︑太上天皇尊号宣下 1448

3 4庭田幸子に︑敷政門院女院号宣下 4 13敷政門院崩御 1456康正

8 閏六月※1図書寮叢刊後崇光院歌合詠草 29貞成親王崩御後崇光院

※2不知 10

11

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盤走珠︑珠走盤︒偏中正︑正中偏︒ 羚羊掛角無蹤跡︑猟狗遶林空踧蹈︒

とあるのを踏まえている︒後述するが伏見宮は代々禅寺を菩提寺としており︑経有も禅宗に深く帰依していたと思われ︑克勤

の一字を取って名乗ったのではないかと考える︒

四︑伏見殿の側近中の側近として奉仕する経有

その後︑応安期は後光厳が意のままに政治を行い︑その皇位継承について後光厳は息子の緒仁親王に︑崇光も栄仁親王にと

それぞれ考えるが︑崇光の考えは退けられ︑応安四年に緒仁親王︵後円融天皇︶の即位が決まった︒これより後︑後光厳と崇光は対立する︒﹃椿葉記﹄には︑﹁さる程に︑本院︵稿者注・崇光︶︑新院︵稿者注・後光厳︶たちまちに御中悪く成て︑近習の臣も心々に奉公引わかる﹂と記される︒経有は応安元年栄仁の親王宣下に伴い家司として栄仁を支える︒また︑崇光院の側近とし

て奉公している様子が︑崇光院御記である﹃不知記

知記﹄については︑近年︑小川剛生氏が世阿弥の幼少期の記事 ﹄に残る︒﹃不 11

として明快に分

基の連歌を絶賛した大光明寺の住持崇格の言葉を話題にしたの 析︑再び注目されている︒その世阿弥と二条良 17

が経有であった︒永和四年四月二十五日条である︒於寺︑昨日崇格物語︑先日猿楽観世垂髪︑於准后連歌当座構美句事︑経有申出之處︑此句たゝ非殊勝︑分真実法文心︑神妙之由︑長老褒美以外也︒

ところで︑この長老は大光明寺の古剣妙快とされる︒この古 経有は後光厳の悲しみを察し︑詩を朗詠したことが﹃空華集﹄十

八に見える︒ 15

﹁書後光厳天王御題瘞玉集後﹂  丁未歳︒朝廷近臣藤氏黄門某︒捐者二人︒蓋皆国士也︒有下歌于列者一人︒蓋羽林源公某也︒賡和者若干人︒廼朝廷士大夫︒及禅苑英衲也︒倡和既︒羽林編一巻︒装潢而進之︒先皇被覧︒喟然曰︒社稷未安︒天何フノ二臣之速邪︒遂宸翰瘞玉二字︒賜題目筆︒勢璨然︒如二雲漢昭回スルカ ︒雖介圭鴻璧之賜︒於

二臣︒於虖白雲在︒黄門弗︒後之視︒不独発スルノ 乎玉樹之哀︒抑又増ンカ乎鳥號之慕也歟︒羽林其トメ而蔵

︿羽林名経有自克齋﹀後光厳を﹁先王 ﹂とすることから︑譲位の後に記録されたもの

である︒この詩に後光厳は﹁瘞玉﹂の字を書き記したという︒

また︑経有は自らを﹁克齋﹂と称したことも記される︒この﹁克斎﹂という名は︑中国宋代の禅僧︑圜悟克勤に影響を受けたも

のではないか︒経有は︑崇光院﹃仙洞歌合﹄︵以下︑﹃仙洞歌合﹄︶

において︑

けだものは岩木に角をかけまくもかしこき跡は雪も残さず

︵四十番・冬動物・右持︶

という詠歌を残しているが︑これはたとえば﹃正法眼蔵﹄第三十七・春

夾山圜悟禅師︑嗣五祖法演禅師︑諱克勤和尚︑云︑ 秋に 16

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く望んでいたためであるといえる︒このことを裏付ける経有自筆の記録﹃庭田経有記

﹄がある︒これは古く︑後小松院御記か 18

とされた伏見宮御記録で﹃大日本史料﹄にも掲載されるが︑村田正志氏により経有の日記であると指摘され

19

た︒応永五年

︵一三九八︶五月十八日条・二十六日条の短い記録である︒そ

の二十六日条の全文を示す︒

廿六日  霽  親王︵稿者注・栄仁親王︶御方  今日於指月庵御素懐御戒師国師被参申只如夢如︑被御前途之處俄如此之御進退︑併彼相国︵稿者注・義満︶申沙汰也︑凡天照太神以来一流之御正統既以失墜言語者也︑只溺悲涙了︑心空上人自八幡来︑此間於善法寺法華経︑其間為御祈祷社頭之處︑於武内御殿祈念︑寶殿内聊震動吉瑞由被申︑雖然已以御出家︑神慮誠匪測〳〵多年之御前途如空︑無念至何事如之哉︑御年四十八︑於今者無後栄御事歟︑故大納言︵稿者注・重資︶素意奉察者也︑先皇先祖之御照覧︑就内外勿躰哉︑彼申沙汰云神慮云冥慮︑方以匪測〳〵︑日月未墜地如何︑御領喪失且御心中無比類事歟︑莫言〳〵︑此巻可丙丁童子〳〵御領数百ヶ所飛行︑結句如此之御進退︑今古無其例矣︑只不歎息老命頗無益歟︑予又依此厳命先立出家︑已公私含恨︑前縁匪測者歟

この日︑栄仁親王が指月庵において出家する︒その時の様子

を﹁天照太神以来一流の御正統は既に以て失墜︑言語に絶する

ものなり︑只︑悲涙に溺れ了んぬ﹂︑﹁今に於いては後栄御事無 剣妙快は同記永和四年三月十七日条によれば︑大光明寺の新任

の住持となった折に崇光院を寺に招引している︒その際︑経有

らは崇光院と共に寺へ参る︒そこで︑斎食を受けるが︑その際

の席次は﹁今日其座次第︑対シテ長老︑照寺司・次予︑次

経有・経時・・・﹂とある︒また大光明寺は臨済宗相国寺の塔頭寺院で︑伏見宮家歴代の菩提寺である︒古剣妙快と五山に関する記事としては︑永和四年五月十八日条に経有が︑妙快は臨泉寺を五山に入れることに反対していると崇光院に語ったと

ある︒崇光院は経有をまさしく近く侍らせ︑その言を逐一御記

に書き留めている︒

また︑﹃不知記﹄には永和四年三月二十六日条や五月六日条

など年譜に示したように︑右少将としての経有の仕事ぶりを如実に示す記事がある︒後光厳と崇光との対立にあって︑崇光の側近に戻った経有は昇叙の機会を得ることなく︑右少将のまま職掌を全うしていた︒

五︑栄仁親王出家と経有

しかし︑経有は栄達を諦めたわけではなかった︒それは栄仁親王の受禅を切望していたことから推察される︒永徳二年

︵一三八二︶四月十一日に後円融が譲位した折︑再度期待され

た栄仁親王の即位はなく︑崇光院流の王位継承運動は挫折し

た︒しかし︑明徳三年︵一三九二︶十一月三十日の崇光院の出家に際しても経有は共に出家することはしなかった︒これは崇光院の流れを汲む皇統の復活を強く信じ︑栄仁親王が即位する日を待ち続けたことの証左となろう︒それは自らの栄達をも強

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だことと関わりがあるといえる︒貞成は︑この望みについて﹃椿葉記﹄に縷々記し︑息である後花園天皇に訴えている︒後花園天皇は︑後光厳︑後円融に続く後小松院の猶子となり︑皇位を継承した︒貞成は︑﹃椿葉記﹄に皇統における猶子の具体例を挙げながら︑次のように記している︒

御猶子は一代の儀にて︑仁明も嵯峨の子孫にてこそわたら

せ給へ︒又花園院は後伏見院の御弟なれとも︑御子になし申されて御位に即しかとも︑つゐには嫡孫光厳院こそ皇統

にてましませ︒されは︑御猶子は一代の御契約にて︑誠の父母の御末にてこそわたらせ給へ︒事あたらしく申へきに

はあらす︒︵中略︶崇光院も徽安門院の御子の儀にてあり

かしとも︑実母陽禄門院と申︒これらは女院にてましませ

とも︑御猶子の例の準拠は同事にて侍へし︒又追号の例は︑文武の御父草壁太子を長岡天皇と申す︒光仁の御父施基皇子は田原天皇と申き︒されは上古より︑帝王の父として無品親王にてはてたるためしなけれは︑御猶子の儀にはよる

まし︒実の両親をこそ大事にすべきであると述べ︑血縁関係を重視し

ている︒そして学芸について一通り述べた後に再び﹁大かた院

の御猶子にてわたらせ給とも︑誠の父母の申さむ事︑ないかし

ろにおほしめすへからす﹂と記し︑﹃史記﹄の例を示した後に︑

これに続けて︑崇光院以来の近習について記される︒

又崇光院以来この御所奉祗の人々︑まつ近習につきて申︒綾小路ちかくは重資卿︑老後に大納言になりて四代中絶の家を興せり︒その息女︑崇光院位の御時︑典侍にわたりて きか﹂と崇光院流が皇統として断絶せざるを得ないことを激し

く歎く︒その背景には義満の思惑があったことを示

20

す︒経有自身については﹁歎息耐えず︑老命頗る無益か︑予︑また此の厳命に依り︑先立 ︑出家す﹂と述べている︒繰り返すが︑経有は崇光院没後︑栄仁親王の即位を信じ︑出家せずにその日を待ち続けた︒しかし︑栄仁親王の出家によって彼の願いは絶たれ︑

しかもその栄仁親王に経有は出家を厳命されたのである︒出家後︑﹁明堯禅門﹂と名乗ってからの記録は少ないが︑宋雅判・点の﹃伏見殿五十番歌合﹄に七

次結番交名﹂︑同十九年正月十四日﹁賦山何連歌懐紙﹂がある︒ 応永十五年七月二十三日﹁賦何船連歌懐紙﹂︑同十八年二月﹁月 首︑﹃看聞日記﹄紙背に︑ 10

その文学活動は脈々と続いていた︒経有は応永十九年五月十五日に没する︒その後は︑回忌ごとに貞成親王により丁重な供養

が行われている︒

六︑追贈﹁従一位左大臣﹂

経有三十三回忌の折に︑﹁従一位左大臣﹂が追贈されたこと

が﹃康富記

贈官などは全く先例のないことであった︒ 将軍足利義持の二人のみであり︑故正四位下右近衛権少将への 先例を探すと足利義満の同母弟である足利満詮と室町幕府四代 有が出家していることから︑事は難航した︒その対応について ﹄文安元年︵一四四四︶五月六日条に詳述される︒経 21

この追贈は︑﹃庭田家譜﹄にもあるように︑後花園天皇祖父

であるということが最大の理由であるが︑今少しその背景を考

えてみるに︑後崇光院貞成親王が︑自身の太上天皇宣下を望ん

(8)

葉和歌集﹄に十二首︑計三十首が確認され

4

る︒

まず︑勅撰集﹃新続古今和歌集﹄に一首入集することについ

て考察する︒足利義教が具体的に勅撰集の企画を始めたのは︑永享五年︵一四三三︶八月辺りからとされる︒﹃看聞日記﹄にお

ける勅撰集成立に関する記事として︑永享六年五月二十七日条

に︑南御方・幸子に詠進を求められたとある︒幸子は先掲松薗氏

意であった︒その約半年後の十月二十二日条には次のように見 の指摘のように︑詠歌に関しては積極的ではなくむしろ不得 5

える︒ ︵前略︶昨日御色直珍重之由禁裏へ為御使参︑室町殿へ も付三条申︑抑故源大納言重資卿・明堯禅門・源宰相詠歌等撰集所望之間︑飛鳥井許へ宰相︵稿者注・庭田重有︶持参︑抑飛鳥井書状︑新玉津島社へ室町殿御法楽題卅首書進︑来月廿一日可御詠進之由申︑源宰相許へ状也︑留守之間予返事領状申︑被入御人数之条眉目也︑雖比興可詠進之由畢︑︵下略︶貞成は︑和歌の不得手な幸子の名誉を挽回するかのように庭田家一門の勅撰集入集を所望し︑撰集の業に従事した飛鳥井家

に詠草を託した︒しかし︑重資二首︑経有と重有は一首ずつが入集するという結果であった︒

では︑経有の﹃新続古今集﹄︵雑歌上・一七七九・﹁題しらず﹂︶入集歌を分析する︒人しれぬ和歌のうらみに鳴く千鳥たえぬ跡をも世にのこさ

ばや大意は︑他の人が与り知らないこの和歌の道における恨み 按察典侍殿とてさふらひ給︒加階して三位殿︿杉殿と申﹀︒

とて親王の御母にて︑おもき人にて侍き︒前宰相経兼卿は大納言の嫡孫にてあり︒郢曲は前源中納言信俊卿の弟子に

て︑淵酔かたの事をかたのごとく伝へ侍るなり︒神楽催馬楽はつたへす︒長資卿・経秀なと相続せり︒又庭田宰相重有卿は︑これも大納言の孫にて侍れとも︑庶子にてある也︒君の御母儀の兄弟なれは︑いまは外戚にてあるなり︒不肖なからも官祿

につきて御めくみあるへき人なり︒

﹃庭田家譜﹄を確認すれば︑八代目の時賢は従二位右中将︑九代有資・十代経資は中納言︑十一代茂賢は左中将を極官とし

ている︒これを﹁家之中絶﹂と記し︑十二代目重資を﹁中興の祖﹂

としている︒次は十三代目経有を話題とすべきところ︑﹃椿葉記﹄では︑その息十四代目重有について記している︒つまり︑中納言でさえ﹁家之中絶﹂としているものを︑右少将であった経有については記すに及ばず︑むしろ︑あえて書かないことで︑後花園天皇の母である幸子の父︑経有が正四位右少将という官位で良いはずがなかろうと暗に指示しているのではないか︒

その経有への贈官が文安元年五月で︑貞成親王の太上天皇宣下が文安四年︑翌五年には幸子に女院宣下があり︑経有への贈官は︑幸子や貞成の女院或いは太上天皇宣下への布石であった

といえよう︒

七︑経有の和歌活動

経有の和歌は勅撰集に一首︑歌合に十七首︵﹃仙洞歌合﹄六首︑

﹃百番歌合﹄四首︑先掲﹃伏見殿五十番歌合﹄七首︶︑私撰集﹃菊

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二句目﹁身をしら玉﹂の﹁しら﹂に﹁知らぬ﹂の意を掛け︑沈淪する我が身はどこへ行くのかすら分からない︑と詠み︑はか

ない露の行方に我が身の行く末を重ね︑その身を﹁せむかたや

なき﹂とし︑沈淪する我が身のやるせなさを表現している︒上句﹁しづみける身を﹂の先行例として﹃竹風和歌集﹄

いつまでか雲よりうへと思ひけんふかくも淵にしづみける身を︵第四・文永六年五月百首和歌・雑・七四七︶

が挙げられる︒中川博夫氏は﹁前期京極派の歌風形成には関東歌壇の清新な詠風が影響し︑宗尊の詠作も京極派歌人に摂取さ

れたとおぼしい﹂とされ︑宗尊詠と伏見院詠の影響例を示し︑

このことは持明院統・伏見宮に連なる﹃菊葉集﹄や後崇光院の

﹃沙玉集﹄といった後期京極派とされる歌人にもつながる傾向

であることを指摘され

23

た︒経有歌もその一例となろう︒京極派歌風の継承という点については︑稿者もこれまでに﹃仙洞歌合﹄

における崇光院グループの和歌表現が︑伏見院歌壇を追随する

ものであることを指摘し

24

た︒当該歌合における経有歌では

国土にはるのこころやおほふらしくもゆき雨もさらにほど こす︵五番・春天象・右持︶

という歌が︑﹃風雅集﹄︵雑中・﹁雑歌の中に﹂・一六八七︶

大空にあまねくおほふ雲のこころ国つちうるふ雨くだすな

とある為兼歌を踏まえたものである︒この為兼歌については岩佐美代子氏が﹃法華経﹄薬草喩品を踏まえ詠じていることを指摘し︑﹁その文句取りを脱して︑自然の大意志が聖代の恵みと呼応する︑スケールの大きい秀作︒為兼独特の伏見院讃歌であ を︑鳴く千鳥のように歎き︑この先︑我が庭田家における歌の功績を世に残したいものだ︑というほどのもので述懐歌であ

る︒二句目﹁和歌のうらみ﹂の﹁うらみ﹂は﹁浦見﹂と﹁恨み﹂の掛詞で︑﹃匡房集﹄など平安中期にも見られる措辞だが︑用例

は九例を見るのみである︒この表現は︑経有の父︑重資も﹃仙洞歌合﹄で用いている︒

あらずなる和歌のうらみの霜のつるふりぬとだにもしる人

やみる︵冬動物・七八︶重資歌において﹁和歌のうらみ﹂は﹁あらずなる﹂つまり︑昔の

ようでなくなってしまった和歌の道を恨むというほどの意にな

ろう︒すると経有の﹁和歌のうらみ﹂も華やかな世界から遠の

いた今を歎き︑しかし︑絶やさぬようその功績を残したいとい

う強い意志が感じられる表現であ

22

る︒勅撰集の入集を所望する貞成が送った詠草の中に入っていたものであろうが︑かなり直接的な願いを込めた歌を送ったことになる︒また︑撰者の雅世

もそれに応える撰歌をしたということになろう︒次に歌合の歌を考察する︒﹃仙洞歌合﹄および﹃百番歌合﹄は応安〜永和期の成立で︑歌合の形式に編纂したものと考えられ

るが︑これまで見てきたように︑経有が崇光院の側近として活動していることから︑これらの歌合の編集にも関与したかと推察する︒

その﹃仙洞歌合﹄にも経有の述懐歌が見られるので取り上げ

よう︒ しづみける身をしら玉のゆくへだに時へだたらぬせむかた やなき︵六二番・雑雑物・右持︶

(10)

もと

と見え︑実は﹃伏見院御集﹄にも

そことなき花のかをりにかすまれて春ものふかき宿の曙

︵春曙・一二七︶

と見える︒定家詠は﹁春とはいえ室内に籠もり︑心の奥深くに春の到来を思う

院 ﹂と解されるが︑春が深まるという点で伏見 25

詠を摂取した表現といえる︒ 27

また︑叙景歌でありながら︑伏見院歌を継ぐ崇光院流一統の将来を期待するかのような詠も見られる︒歌枕﹁伏見山﹂の読

み方に特徴が見て取れる︒﹃菊葉和歌集﹄入集歌︑伏見山松ある方は夜をこめて花よりしらむ曙の色

︵春下・一七八︶

この初句﹁伏見山﹂は︑ここでは山城国の歌枕で︑持明院統の御領として経済基盤となり︑伏見宮家に相伝された場所であ

る︒この伏見の名を持つ﹁伏見山﹂の﹁松﹂で﹁伏見﹂の世の繁栄を暗示し︑その繁栄を示す松がある方は︑今は夜深いがこれ

から花が咲き︑﹁曙の色﹂に照らされ明るくなってくる︑つま

り伏見院の流れであるこの一統が︑栄えてゆくことを暗示する

かのような表現がとられている︒こうした読みぶりは後崇光院貞成親王の歌に継承されていく︒﹃沙玉集﹄には﹁伏見山﹂を詠

んだ歌が多く見られる︒

こうした詠法︑伏見院歌壇から続く崇光院とその流れを汲む

ものを称賛する経有の思いは︑出家後︑明堯と名乗ってからも

なお持ち続けた︒応永十三年閏六月十一日に催行された﹃伏見殿五十番歌合﹄では る﹂とされてい

25

る︒経有歌はこの為兼歌を摂取し︑伏見院を崇光院に置き換えて詠じたものといえよう︒さらに当該歌合にお

ける伏見院詠との関わりを見てみたい︒

すずしさはおとにながるる谷水の行かたみえぬはやましげ山︵十八番・夏地儀・右勝︶

これは﹃伏見院御集﹄に︑

流るるも見えぬみ山のくさがくれ音のみしるき谷のした水

︵一二〇七番歌﹁

26

水﹂︶

とあり︑歌材が共通することと︑聴覚による涼感という共感覚的表現など同趣向である︒

この傾向は私撰集﹃菊葉和歌集﹄入集歌にもいえる︒

花の跡の青葉こぐらき池水に春もの深く鳴く蛙かな

︵春下・﹁六十番歌合に﹂・二五〇︶

これは﹃伏見院御集﹄に見える次の二首を摂取していると分析

する︒①花のあとの青葉にかはる色を見てものうらめしみ春やゆく

らむ︵﹁暮春述志当座﹂・二九六︶②春やいづく青葉木ぐらき木の下にかはづこゑする夕暮れの池︵﹁暮春歌中に﹂・一五七︶①の初句と②の二句目の措辞を摂取し︑②の下句の﹁かはづ﹂

と﹁池﹂という景物を摂り︑①②の暮春の心を﹁春もの深く﹂と表現している︒この﹁春もの深き﹂という表現は﹃六百番歌合﹄

︵春部・﹁余寒﹂・十番・左勝︶の定家詠が﹃風雅集﹄︵春上・三四︶に

霞みあへずなほふる雪に空とぢてはる物ふかきうづみ火の

(11)

堯︵経有︶独自の表現である︒雪と空とが一体となり真っ白に

なった富士を︑ほのぼのと一足早く朝日が薄赤く染め上げる様子を詠んでいる︒歌合の勝敗は番による相対的な判断がなされ

ていることはいうまでもないが︑そうであっても︑経有の義兄弟にあたる宋雅の判で︑一勝とは評価が低く︑こうしたことと勅撰集入集歌一首という点も関わりがあろう︒飛鳥井流の秀歌観からは認められる詠歌ではなかった︒

さて︑次に経有の和歌のうち︑詠歌背景に漢籍の受容があり︑連歌論とも関わりがあるものを挙げてみたい︒﹃菊葉集﹄入集歌である︒

くれなゐをながす一葉にみかは水わきて涙の露やそめけん

︵恋二・﹁六十番歌合に﹂・一二二五︶紅葉の葉に詩を書いて御溝水に流した故事のように︑あの人も涙の露を紅色に染めたのだろうというほどの意である︒三句目

﹁御溝水﹂は﹃年中行事歌合﹄に﹁寄御溝水恋﹂︵七三︶と題する二条良基の﹁ながれての名にやたちなん紅の一葉をうけし水ぐ

きのあと﹂という歌が知られる︒良基の行事解説に﹁此左は︑

もろこしに︑紅葉に詩を書きて御溝にながし侍る事の因縁有る

にや︑我が国にも︑柿葉に思ふ心をしるしてうかべたる事も侍

るにや︑こと長ければ細にしるさず﹂とあるように︑﹃俊頼髄脳﹄以来歌学書類に指摘される︑いわゆる﹁紅葉題詩﹂の説話を背景としているが︑この﹃年中行事歌合﹄の歌の背景として鈴木元

氏は連歌論書﹁故事本語本説連歌聞書﹂にも﹁紅葉のふみ﹂に 28

ついて言及されていること︑またこれが﹃排韻﹄といった五山文学とも関係していることを指摘している︒禅宗と深く関わり 岩戸あけしそのかみよりや君が代を一つ流れにうくるかし

こさ︵五十番・右・負・﹁祝言﹂︶

と詠んでいる︒初句﹁岩戸あけ﹂は西行などにも用例が見られ

るが︑勅撰集には﹃風雅集﹄︵賀歌・二二〇一・﹁暦応元年大嘗会悠紀方神楽歌︑近江国鏡山﹂・藤原隆教︶に光明天皇即位の大嘗会和歌として

岩戸あけしやたのかがみの山かづらかけてうつしきあきら

けき代は

とある他は﹃新拾遺集﹄に一首見えるのみであり︑下句の﹁一

つ流れ﹂は﹃続拾遺集﹄所収の釈教歌などにも見えるが︑﹃風雅集﹄︵神祇歌・二一二四・﹁神祇を﹂・光厳天皇︶に︑

たのむまこと二なければいはし水ひとつながれにすむかと

ぞ思ふ

また︑同じく﹃風雅集﹄︵賀歌・二一八七・﹁百首御歌の中に﹂・花園院︶に

みなかみにさだめしすゑはたえもせずみもすそ川のひとつ

ながれに

と見える︒こうした持明院統の歴代の天皇に関わる詠歌の措辞

を用いて︑皇統が一統となることを詠んでいる︒持明院統の和歌を熟知し自らの和歌表現にも活かしている︒

もちろん︑経有独自の表現もある︒それは同歌合の明堯︵経有︶歌で唯一︑勝となった︑

降り積もる雪と空とは一つにてよそより早き富士の曙

︵卅四番・右・積雪︶

という歌の二句目﹁雪と空とは﹂である︒これは他例がなく明

(12)

注︵ 一九八〇年︶参照︒ 1︶平山敏治郎氏﹃日本中世家族の研究﹄︵法政大学出版局

店︶︒    名表記寸考︱﹂︵﹃文学﹄四巻六号二〇〇三年一一月岩波書 2︶村井章介氏﹁綾小路家三位と綾小路前宰相︱﹃看聞日記﹄人

3︶小川剛生氏﹁伏見殿をめぐる人々︱﹃看聞日記﹄の人名考証

︱﹂︵﹃科研報告書・伏見宮文化圏の研究︱学芸の享受と創造

の場として︱﹄研究代表者森正人氏  二〇〇〇年︶︒

三首は飛鳥井経有の歌であり︑他二首も飛鳥井経有の歌と捉 4︶﹃題林愚抄﹄に経有を作者とする歌が五首入集するが︑うち

えた︒

七夕の袖の涙のはれまにてあふよ曇らぬ月やみるらん

︵秋一・三〇五三・経有︶

なびきけるみづかげ草にしられけり二の星のかよふこころ

は︵秋一・三一二二・経有朝臣︶

また︑﹃六華和歌集﹄には﹁源経有﹂の歌として一首載せる︒

せきかぬる涙をだにももらさずはいくよもやどれ神の月影

︵恋・一四六三︶

これは﹃新千載集﹄︵恋一・一一四一・﹁暦応三年八月十五夜三首歌講ぜられけるついでに︑人人題をさぐりて歌つかうまつ

りけるに︑恋月といへる事を﹂︑初句﹁せきわぶる﹂五句﹁袖

の月影﹂︶に﹁従三位経有﹂の詠として入集︒飛鳥井経有の歌

である︒これらは本稿の考察対象としていない︒

なお︑経有の短冊については管見に及んでいないが︑調査

を継続したい︒

5︶幸子の行動については︑松薗斉氏﹁伏見宮家の南御方︱そ

の物詣を中心に︱﹂︵﹃朱﹄五五号  二〇一一年一二月  伏見稲 を持っていた経有であれば︑その詠歌背景として五山の文学の影響は明かである︒八︑まとめ

南朝と北朝という対立だけでなく︑崇光院と後光厳院の兄弟

が関与する北朝内の皇位継承争いがあった︒その兄弟の双方に仕えていた経有は︑兄弟不仲になってからは崇光院・栄仁親王

の家司としての勤めを十分に果たした︒崇光院流は賀名生から

の帰京時︑皇位継承を断念するよう約束させられていたと

29

う︒しかし︑それにもかかわらず栄仁践祚を推す崇光院の意志を汲み取り︑経有は栄仁が出家するまで︑崇光院流の皇統の復活を願ってやまなかった︒それはまた自己の栄達を望んでい

たことにもなるが︑生前は叶えられず︑経有は公卿になること

はなかった︒しかし︑没後に後花園天皇の祖父となり︑従一位左大臣の贈官があり︑その願いが叶えられたのである︒庭田家

にあって官位は低く︑歌人として百首歌なども現存していない

が︑崇光院に近侍し院へ情報伝達など逐一行い︑和歌表現にお

いても伏見院から続く崇光院流の伝統を守るという点で重要な役割を担っていた︒時代の波に翻弄されながら自己の信じるところを愚直に全う

した人物の︑地道な活動もあって継承されていったのが伏見宮文化圏であったと考える︒本稿では言及できなかったが︑﹃菊葉和歌集﹄の成立など︑今後︑さらに伏見宮文化圏を具体的に考察していきたい︒

(13)

﹁羚羊は角を枝に掛けて足跡を知られないようにする﹂に続く文言から︑﹁猟狗﹂が︑ここでは道を求める人の意であり︑﹁求道者は︑仏道のまっただ中にいることをいう﹂とするように︑崇光院グループもまさに修行のような活動のまっただ中にい

る︑と解釈を考え直した︒

二〇一三年四月︶︒   知記﹂︵崇光院宸記︶を読み直す︱﹂︵﹃観世﹄八〇巻四号 17  ︶小川剛生氏﹁能の大成者たち世阿弥の少年期︵上︶︱﹁不

18︶宮内庁書陵部蔵︵伏

746︶︑原本未見︒国文学研究資料館デー

タ画像に拠る︒

一九四四年二月︶︒ 19 ・︶﹁後小松天皇の御遺詔﹂︵﹃国史学﹄四七四八合併号

  談社学術文庫二〇〇二年︶︒ 20︶横井清氏﹃室町時代の一皇族の生涯﹃看聞日記﹄の世界﹄︵講

 21︶増補史料大成﹃康富記﹄︵臨川書店一九八五年︶に拠る︒

込んだ歌がある︒ここでは︑藻屑のように扱われた詠草が玉 残らずよ波の藻屑を玉とみるより﹂と﹁和歌のうらみ﹂を詠み 22︶﹃後花園院御集﹄︵五〇二︶にも﹁寄るべなき和歌のうらみも

のように扱われるようになり︑わだかまりも解けて︑歌道に

おける恨みもなくなったというほどの意味になろうか︒憂鬱

な経有歌との相違に注意したい︒

二〇一六年十二月︶︒ 23︶﹁中世和歌表現試論﹂︵﹃国語と国文学﹄九三巻一二号︑

二〇一五年三月︶︒ 24︶﹁崇光院﹃仙洞歌合﹄﹂について﹂︵﹃語文﹄一五一輯︑

  二〇〇三年下巻二〇〇四年︶︒ 25  ︶﹃風雅和歌集全注釈﹄︵笠間書院上巻二〇〇二年中巻 荷大社︶に詳しい︒

4175-2806︶東京大学史料編纂所蔵︵︶に拠る︒

 7︶図書寮叢刊﹃看聞日記﹄︵養徳社一九六五年︶に拠る︒

紙焼C 8︶宮内庁書陵部有栖川宮旧蔵︵原本未見・国文学研究資料館

660︶に拠る︒なお︑﹃続作者部類﹄には﹁四位﹂に部類さ

れている︵小川剛生氏﹃中世和歌史の研究︱撰歌と歌人社会

︱﹄塙書房 二〇一七年五月参照︶︒

  書院一九八九年︶︒  9︶井上宗雄氏﹃中世歌壇史の研究南北朝期﹄改訂新版︵明治

所収︒解題執筆時点では明堯について︑明らかにならないと  10︶図書寮叢刊﹃後崇光院歌合詠草類﹄︵明治書院一九七八年︶

されているが︑経有のこと︒

 11︶﹃伊地知鐵男著作集Ⅱ﹄︵汲古書院一九九六年︶参照︑解釈

は小川剛生氏指導の慶應義塾大学大学院における院生の調査

より教示を得た︒

  閣出版一九八四年︶に拠る︒ 12   ︶村田正志氏﹃村田正志著作集第四巻証註椿葉記﹄︵思文

13︶現在︑東京国立博物館寄託品である︒

  学﹄十一号一九九三年七月︶︒ 14︶﹁室町時代に於ける﹃事文類聚﹄享受の位相﹂︵﹃和漢比較文

15 ︶﹃五山文学全集﹄︵思文閣一九七三年︶に拠る︒

16︶岩波文庫に拠る︒なお︑この一節はもと﹃詩人玉屑﹄に載り︑

﹃愚問賢注﹄や﹃十問最秘抄﹄に引用されていることは周知の

ことである︒さらには﹃和刻本  事文類聚﹄にも引用されてい

る︒さらに︑禅語としては﹃従容録﹄に載る︒また︑該歌の解釈について︑拙稿︵注

24︶において︑﹁先人の跡を辿ろうにも︑

しるべがない﹂としたが︑この︑禅語を踏まえた解釈として︑

(14)

︵ 26︶﹃伏見院御集﹄一一四四番歌・﹁山水﹂に第二句﹁みえぬみま

やの﹂とある︒

  志氏校注︶﹄︵明治書院二〇一四年︶参照︒ 27︶和歌文学大系﹃為家卿集/瓊玉和歌集/伏見院御集︵石澤一

年︶︒   28︶﹃室町連環中世日本の知と空間﹄︵勉誠出版二〇一四

十月二十三日条を参照︒  29︶﹃満済准后日記﹄︵続群書類従完成会一九五八年︶永享五年 和歌は断らない限り︑﹃新編国歌大観﹄の本文を適宜漢字を当

て引用した︒

﹇付記﹈   本稿執筆に際し︑﹃崇光天皇宸翰﹄の特別閲覧をお許しくだ

さった京都北野東向観音寺︑上村法玄様︑熟覧に際し︑貴重

なお時間を割いてくださった東京国立博物館学芸企画部博物館情報課︑田良島哲氏に心よりお礼申し上げます︒

  本稿は平成二十八年度和歌文学会大会︵東京大学︶において発表した際のご教示を踏まえ︑加筆訂正したものである︒ご教示くださった諸氏に心よりお礼申し上げます︒

︵しかの  しのぶ︑本学非常勤講師︶

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