ことを指摘し︑その成立事情や執筆目的を諸資料を援用して具体的に考察した︒それが﹃明治孝節録﹄の二孝子譚にどのよう
に受け継がれているかを検討することで︑少なくとも本話に関
しては︑褒賞譚と考えられないこと︑﹃明治孝節録﹄の背後に﹁君
のために身命を賭して尽くせる人材の育成﹂が見え隠れしてい
ること︑などを明らかにした︒
一 はじめに
﹃明治孝節録﹄︵以下﹃孝節録﹄と略︶は︑江戸時代後期から明治初期にかけての孝子・節婦を中心とする善人伝を集めた作品
である︒その編者は近藤芳樹で︑宮内省蔵版として明治十年六月の刊
収めてい 附録三九話︵本編に比して非常に簡明・簡略︶︑計一七七話を 記を持っている︒本書は全四巻からなり︑本編一三八話︑ 1 2
る︒巻頭に明治九年二月太政大臣実美題とする題詞
﹁万古清風﹂を置き︑続いて議官兼二等侍講福羽美静の﹁明治孝節録序﹂︵明治十年七月︶︑更に三等侍講元田永孚の﹁明治孝節 キーワード近藤芳樹︑権蔵・利吉︑澤宣嘉︑杉民治︑玉田永教
要 旨
﹃明治孝節録﹄は︑従来︑褒賞譚を集めた作品と見るか否か
で見解が分かれていた︒また︑全一七七話を総合的・俯瞰的に検討することで作品世界を明らかにしようとする研究はあった
が︑一つの話に関して︑その典拠や周辺を詳細に追いかける研究は皆無であった︒本稿は︑編者近藤芳樹の出身地長州の孝子
を題材とした巻三の三十話﹁権蔵・利吉﹂二孝子譚を取り上げ
て︑多角的に考察したものである︒
その結果︑芳樹が幕末の早い段階から村田清風からの忠孝伝執筆の依頼を受けていたこと︑その目的が﹁忠孝の士﹂を育て
ることにあったこと︑などが明らかになった︒また︑﹃明治孝節録﹄の二孝子譚に関しては︑典拠が﹃香川津孝子伝﹄である
小 野 美 典 ﹃ 明治孝節録 ﹄ 巻三 の 三十話 と ﹃ 長州孝子伝 ﹄﹃ 香川津孝子伝 ﹄
︱︱近藤芳樹の孝子伝編集︱︱
︿
論文﹀
は︑先学による調査・研究が進んでいる︒西谷成憲は︑﹁﹃大蔵省考課状﹄の簿冊記録を中心にとりあげ︑それに﹃府県史料﹄
などから補完したのではないか
文章を作ろうとすれば︑かなりの文飾と虚構とを駆使しなけれ 両者の本文を検討し︑﹁﹃大蔵省考課状﹄から﹃明治孝節録﹄の 所載の人名が多く見られることは認めつつも︑共通の話を持つ 西谷説に批判的で︑﹃大蔵省考課状﹄の﹁褒賞ノ部﹂に﹃孝節録﹄ ﹂と推測した︒一方︑勝又基は 4
ばならない﹂とした︒また︑﹃府県史料﹄の最も早い提出府県で
も明治九年三月から翌十年にかけて一部を提出した鳥取県で
あった点︑﹃孝節録﹄の編集時期︵芳樹の日記から﹁明治八年五月二十四日〜同年十月九日﹂と判明︶と齟齬しており︑﹁﹃府県史料﹄が﹃明治孝節録﹄の編纂に用いられた可能性は極めて低
い﹂とした︒そして︑﹃大蔵省考課状﹄よりも新聞からの採録が多いことを指摘し︑﹁﹃明治孝節録﹄は新聞や写本・刊本孝子伝
など︑民間の営為を基層とする部分があった
﹂との見解を述べ 5
ている︒この勝又の指摘には注目したい︒﹃孝節録﹄は官製出版で︑政府高官・関係各省等のほかに各府県にも下賜され︑尋常小学科・高等小学科・中学校・師範学校の教科書として使用されて
い
6
る︒かつ︑前掲の福羽序傍線部②の﹁官府賞与の簿冊等﹂を
もとにしたという点から︑﹃孝節録﹄が江戸時代から既に存在
した褒賞制度を維新政府が施策に取り込んだ︑その一端として暗黙のうちに理解されがちであったところを︑踏みとどまろう
としているのである︒事実︑勝又は注
3の論考で﹁﹃明治孝節録﹄
の編纂は︑従来考えられているのとは異なり︑明治期の褒賞と 録序﹂︵明治九年十月︑漢文序︶︑近藤芳樹の﹁明治孝節録例言﹂
︵明治八年十月︶がそれぞれ置かれている︒また︑十二葉ある挿絵は︑芳樹と同じ山口県出身の日本画家・大庭学僊が描いて
い
3
る︒本書の成立に関しては︑福羽の序に次のように記す︵﹁⁝﹂は省略を示す︒以下同断︶︒
⁝こゝに明治十年にあたり︑明治孝節録の書なれり︒こ
の書はこれ︑わが明治聖主の親愛したまふところの皇后宮
の内旨によりて成れるものなり︒皇后宮⁝侍する所の女官
をしてなにくれの書をさぐらしめ筆記せしめたまへり︒こ
の孝節録も︑①もとは新聞紙などよりぬき出たるが︑つも
れるなり︒しかるに︑編いまだならざりしとき︑明治六年皇城の炎上にあたり︑其稿本もまた灰燼となれり︒美静侍講の任たるにより︑かねて其事にあづかれるをもつてふ
たゝび其挙におよび︑②官府賞与の簿冊等より其伝のいち
じるきをとりあつめて︑これを皇后宮に奉ぬ︒こゝにおい
て︑近藤芳樹をして其作文をなさしめたまへり︒名づけて明治孝節録とよべり⁝︵濁点・句読点は稿者︶
皇后︵昭憲皇太后︶は︑もともと孝子節婦譚を新聞など︵傍線部①︶から集めていたが︑皇居炎上でそれも灰燼となった後︑福羽美静が﹁官府賞与の簿冊等﹂︵傍線部②︶から蒐集して奉呈
したものを︑近藤芳樹が編集したのが﹃孝節録﹄だという︒編集の原資料となった︑この﹁官府賞与の簿冊等﹂に関して
二 近藤芳樹と孝子伝
近藤芳樹は︑幕末から明治初期にかけて活躍した歌人・国学者であ
8
る︒享和元年︵一八〇一︶五月二五日に生まれ︑明治一三年︵一八八〇︶二月二九日に没した︒周防国岩淵村︵現在
の山口県防府市︶の農家の長男であったが︑才が認められて支援者を得て勉学に励み︑士分に取り立てられて︑藩命により長州藩士近藤家を嗣いだ︒それ以降︑芳樹の活躍は目覚ましく︑藩主・藩士らの前で国学・歌文を講じ藩校明倫館で教える傍ら︑多くの著作をものしている︒維新後︑明治八年には宮内省に出仕し︑皇学御用掛・歌道御用掛︵後に﹁文学御用掛﹂に合併︶と
して勤め︑歌会始の点者や明治天皇の地方巡幸の随行者などを拝命し︑その紀行文も著してい
9
る︒そうした中で︑芳樹最晩年
の仕事の一つとして︑皇后の意を受けた﹃明治孝節録﹄を編集
したのである︒
ところで︑芳樹の孝子伝編集は︑何も明治に入って皇后の内旨によって始まったのではない︒藩内で家業を﹁国学家﹂から
﹁儒者家﹂とし︑萩城下に私塾﹁抄宗寮﹂を開いたこ
10
ろ︑嘉永年間(一八四八〜一八五三)に︑芳樹と孝子伝との関係を窺わせ
る資料が見られる︒以下︑検討を加える︒
︻甲︼近藤芳樹宛村田清風書簡︵案文
嘉永三年戌仲冬清風 近藤芳樹へ忠孝の四本を作れかしと頼む言葉也 近藤芳樹に与う︵案文︶嘉永三年十一月清風芳樹倶在萩 ︶ 11 直結するものではなかった﹂と指摘する︒
そうした一方で︑﹃孝節録﹄内の一七七話を詳細に分類する
ことにより︑﹃孝節録﹄の持つ作品世界︑編集目的に迫ろうと
する論考も見られ
7
る︒近世後期から明治初期の政治・教育・メディア・女性史など様々な分野からの検討が加えられ︑研究の蓄積がなされつつあ
るのが﹃孝節録﹄だといえる︒稿者は︑歌人であり国学者でもある近藤芳樹に興味を持って調査を進めてきた︒そして︑芳樹の文学的営為を見ていくうち
に︑﹃孝節録﹄という作品も視野に入ってきた︒芳樹の著作や周辺資料を調査するうちに︑芳樹が幕末のかなり早い段階から長州藩内の孝子伝とかかわりを持っていた資料を知ることと
なった︒﹃孝節録﹄研究において︑全一七七話の詳細な分析と比較検討によって︑作品全体が志向する世界を明らかにする方法は重要である︒その一方で︑先行していたある逸話・伝承に関して︑芳樹︵あるいは同時代人︶が何かを読み取り︑それを然るべく変容させて﹃孝節録﹄に取り込んでいったとしたなら
ば︑その足跡を辿ることによって﹃孝節録﹄の一面を炙り出す
ことが出来るのではないか︒
このような見通しのもと︑本稿では︑﹃孝節録﹄巻三の三十話﹁権蔵・利吉﹂の話を取り上げて︑その原資料となったと思
しき﹃香川津孝子伝﹄︑更には﹃長州孝子伝﹄ほかの諸資料を援用しながら︑芳樹の﹃孝節録﹄本文形成の一端を探ってみたい︒
た︒この書簡の出された前年の嘉永二年閏四月にはイギリス船
マリナー号が浦賀に来て我が物顔に測量を実施したことも関係
して︑同年末には幕府が諸大名に海防強化を命じた︒書簡の日付の一か月前には孝明天皇が二度目の海防勅諭を下している︒
そうした流れの中で︑︻甲︼の書簡は読み解くべきである︒右の双句で清風は︑海防の重要性を述べるとともに︑内政面
では︑﹁文道﹂すなわち﹁武道﹂と対になるものとしての﹁学問︑芸術︑文化︑道徳﹂などを尊重して﹁忠孝﹂を領民に教え︑国︵藩︶
の独立・繁栄の基礎を千年後までも見据えて固めることの必要性を提言している︒
そして書簡に戻ると︑清風は﹁和漢忠孝の士﹂の伝記を著そ
うとはしていたもののままならず︑藩校﹁明倫館﹂の学頭であっ
た山縣文祥︵太華︶に﹁忠経﹂の注釈書の執筆を依頼したが︑山縣の病気でそれもかなわなかった︒双句を書した翌四年︵辛亥︶︑八谷通宜から﹁忠経和字觧﹂を贈られて喜んだとい
14
う︒そ
して︑傍線部③で清風は︑これらの著作に添える﹁和漢の忠孝
の伝﹂の執筆を芳樹に依頼しているのである︒
ここで注目すべきは︑清風書簡では﹁孝﹂とは記さず︑必ず
﹁忠﹂を伴った﹁忠孝﹂の形で記している点である︒そして︑傍線部②︵とその書き下し文︶に顕著なように︑﹁忠孝の伝﹂が夷狄︵戎狄︶・外寇を払うことと対になって捉えられている点に
も注意が必要である︒武道で外寇を払うとともに︑文道で﹁忠孝﹂を教え︑千年先まで見据えた国づくりを目指しているので
ある︒しかも︑﹁孝子の伝﹂ではなく︑﹁忠孝の士の伝﹂である︒江戸時代には︑﹁忠﹂と﹁孝﹂は表裏一体であった︒勝又基は︑ ①公涪渓御入湯之刻小臣清風か拙筆を徴す乃 ②振起武風威戎狄払海冠于萬里之外尊重文道教忠孝固邦基於千年之後 之雙句
を書して奉りぬ爾来和漢忠孝の士の伝を著て国恩を報せん事を懐くといへとも老衰日々相迫り徒然ニして送日月前ニ山縣文祥
ニ忠経の和字觧をあらわせかしと頼むといへとも是又旧冬偏枯
を病んて執筆自由ならす然る処辛亥十二月廿日八谷通宜より忠経和字觧一冊をおくる抃舞して喜事限りなし③願はくハ此冊子
と舘本の孝経とへそゆる和漢忠孝の士の伝書を足下著述して上板し闔国の子弟をして忠孝の道をひらふ楷梯となさは幸甚々々足下有意則乃下筆して願ふ言爾り 十二月廿一日 清風拝書
村田清風は︑藩主毛利慶親︵後に﹁敬親﹂と改名︶に登用され
て藩政改革を推進し︑財政・兵制の改革︑殖産興業などに顕著
な功績をあげ︑藩の基盤を固めて維新への原動力を築いた人物
である︒傍線部①の﹁公﹂は︑藩主毛利慶親のこと︒慶親が涪渓︵現在の長門湯本温泉︶に湯治に来た折︑清風が傍線部②
の双句を書いて奉った︒わたくしに書き下す︒武風を振起して戎狄を脅し︑海
清風は諸外国に対する防備の必要性を藩主に早くから献言し 文道を尊重して忠孝を教へ︑邦基を千年の後に固む 寇を萬里の外に払ふ 12
ており︑天保一四年︵一八四三︶には萩城東の﹁羽賀台﹂で︑総勢一万四千人余が参加した大操練が実施されてい
13
る︒弘化二年
︵一八四五︶には海岸防備の部署が定められるなど︑三方を海
に面している長州藩にとって︑海防整備は喫緊の課題であっ
右の書簡は︑清風全集未収録の資料を収めた﹁拾遺
﹂に収載 16
されたものである︒年次未詳で︑日付︵七月廿八日︶のみが判明している︒この書簡の年次は重要である︒手掛かりとしては︑傍線部①﹁浦賀一件治り⁝﹂が考えられ
る︒﹁再来﹂と記していることから︑嘉永六年︵一八五三︶六月
のペリーの浦賀来航︑もしくは翌七年二月から六月のペリー再来を指すものと推測可能であるが︑﹁ペリー﹂等の具体的な文言はなく︑ましてや幕末の浦賀は大事・小事︑様々な事件の舞台となったところなので︑傍線部①のみを根拠とした年次推定
は危険であろう︒傍線部③の﹁来る寅丑年の事﹂は未詳︵割り書き
も原文のママ︶︒もし来年が丑年という意であれば︑この書簡
は嘉永五年ということになるが︑越年︵年跨ぎ︶のことを言っ
たものであろうか︑それならば同六年の可能性もある︒年次判定に寄与するのは︑傍線部④の彗星記事である︒この彗星は︑書簡の日付﹁七月二八日﹂の二・三日以前から夕暮れの西の空に現れたという︒﹃近世日本天文史料
﹄の﹁彗星・客星﹂ 17
の項を閲すると︑該当する彗星としては﹁クリンケルフュス彗星︵クリンカーヒューズ彗星とも︶﹂が浮かび上がる︒この彗星に関する古記録で︑清風が見たのと近い記述を持つものを以下に二例掲げ
18
る︒
A︹嘉永六年七月︺同十七日より始まり︑暮時より戌の方に彗星現はる︵けん星とも云ふ︒二十二日迄次第に北へよりて見
えけるが︑其の後は曇りて見えず︶︒︿江戸﹃武江年表
﹄﹀ 19
B︹嘉永六年七月︺廿二日 いつの比よりか知らね共︑盆後よ その著書の冒頭で﹁表彰する為政者の側には︑孝子を讃えるの
に加えてもう一つの狙いがあったはずだ︒それは︑封建体制を強化しようという狙いである︒﹁忠孝﹂と言われ︑﹁忠臣は孝子
の門より出る﹂と言われる︒つまり家族制度に従順な人間は︑封建制度にも従順だということである
筆依頼が︑夷狄・外寇と対になって記されていることは留意し 要な課題となった時期であった︒芳樹への﹁忠孝の士の伝﹂執 出した嘉永三年は︑先に見た通り︑外寇に備えた﹁海防﹂が重 戸時代全体を通じての概観であるが︑清風が芳樹に書簡を差し ﹂と述べる︒これは︑江 15
ておくべきである︒
︻乙︼大津忠之︵次郎三郎︶宛村田清風書簡秋暑中君上益々御機嫌よく御座遊ばされ恐悦奉り候そこ元御無事ここ元家中無事罷在り候一︑①浦賀一件治り先は平安去り乍ら再来も計り難く用心専一
に存候⁝一︑②芳樹に御両国の忠孝伝編集の事︑先達て申置候清水宗治︑渡辺通忠死︑瀬戸崎高□大道の孝女︑香川津の孝子その外之あるべく□□候よう申さるべく候一︑③来る寅丑年の事︑唯当年々々元にて御首尾よく来年末まで不都合之あり候てはムダに相成候④この両三日以前より彗星西天へ薄暮出で候由御気遣い下さるべく候国家の為め保養専一に存候 七月廿八日清風 忠之殿
であった人物︒当時︑宗治は毛利の配下だったが︑秀吉は備中・備後両国を下付する旨の信長からの誓紙を宗治に密かに送り服属を勧めた︒しかし宗治はそれを断って誓紙を毛利氏に届けて披露し︑結局は節を曲げないまま自刃し︑高松城は救われる︒毛利氏からすれば︑宗治は尽忠類稀なる人物と言える︒その﹁至忠﹂を愛で︑かつ藩士の﹁模範﹂とすべく﹁忠孝伝﹂に入れるよ
うに指示したのであろ
21
う︒渡辺通は︑天文一二年︵一五四三︶の﹁月山富田城の戦
い︵第一次︶﹂で毛利元就・隆元父子が敗れて死を覚悟した際︑元就の甲冑を纏って身代わりを務め︑尼子の追撃軍を誘い出し
て奮戦し︑討ち死にした武将である︒これで毛利父子は九死に一生を得たといわれ
22
る︒瀬戸崎高□は未詳︒北浦漁業の中心地・長門市仙崎はかつて
﹁瀬戸崎﹂と呼ばれていたので︑この地に関係ある忠孝の士か︒
﹁大道の孝女﹂とは︑﹃孝節録﹄巻四の三十三話に載る﹁石川いし﹂
のこと︒夫出奔の後も義父母に孝養を尽したので︑藩主が褒賞
し本願寺門主も染筆の法名と菓子を与えたという︒そして︑﹁香川津の孝子﹂と書かれているのが︑本稿で考察しようとする﹃孝節録﹄巻三の三十話﹁権蔵・利吉﹂の話である︒
︻甲︼の芳樹宛書簡で考察した通り︑清風は﹁忠﹂と対になる
﹁孝﹂の重要性を認識していた︒外国勢力が台頭しつつある中︑忠義な藩士・領民を育てることは急務であった︒そして︑︻乙︼
の息子忠之宛書簡は︑嘉永六年六月三日のペリーの浦賀来航
︵六月十二日には出航︶直後に書かれたものであった︒︻甲︼の時以上に夷狄・外寇への備えが有形︵ハード面︶・無形︵ソフト り人々ほうき星出るよし申合︑夜前いぬゐの方にあたり︑如此の星︑色は至てうすく白色にみゆ︒⁝五つ過にみたるにも
はやみへず︒宵の間也︒︿紀州﹃小梅日記
﹄﹀ 20
Aに依れば︑彗星は江戸で七月十七日から二十二日まで︵そ
れ以後は曇天で不明︶︑夕暮れ時の西北西に現れ︑次第に北に見えるようになったという︒Bは紀州藩校﹁学習館﹂の督学で
あった川合梅所の妻・小梅の日記︒七月十五日の盆過ぎから二十二日まではこの彗星が見えていたようで︑戌亥︵北西︶に宵︵日没から夜中前まで︶の間見えていたという︒二十三日以降には彗星記事はないが︑見えなくなったか否かは不明であ
る︒︻乙︼の傍線部④の彗星も︑書簡の日付の二・三日前︵七月二十四・五日頃︶よりも以前から夕暮れ時の西の空に現れてお
り︑清風の見たのと同じ彗星が江戸と紀州で見られていたと考
えて間違いなかろう︒
よって本書簡は︑嘉永六年七月二八日のものと確定できる︒
そして︑傍線部②が重要である︒清風は︑この時までに芳樹
に防長二か国の﹁忠孝伝﹂の編集を申し置いていた︒︻甲︼の書簡を裏付ける記述であるとともに︑やはり︑﹁孝子伝﹂ではな
く﹁忠孝伝﹂である点には注意したい︒﹁先達て申置候﹂がここ
で切れるか︑或いは下の各忠孝の士を修飾するかで︑若干文意
が異なってくるが︑清風が息子の大津忠之︵唯雪・次郎三郎と
も︶を通じて芳樹に対し︑特に﹁清水宗治﹂以下の五人の伝は必ず入れるように要求したものと考えてよかろう︒清水宗治は︑秀吉による有名な備中高松城水攻めの際に城主
孝子がいた︒父・長七は藩の軽卒で︑先妻との間に嫡子・元右衛門と次子・権蔵︑後妻との間に三男・利吉︑ほか二人の女子を儲けた︒権蔵は親孝行で︑継母にも実の母同様
に仕え︑藩の小者頭という役で得たわずかの切り米で︑自身の食事・衣類はかまわず︑父母に不自由をさせなかった︒文化一二年︵一八一五︶︑継母は出産したものの産後の肥立ちが悪く︑権蔵は義弟の利吉に相談して良医・良薬を求
めたが効なく︑命も危うく見えた︒権蔵は利吉に﹁この上
は神のご加護にすがるしかない︒金比羅社に七日七夜参詣
しよう﹂と言い︑断食の上︑湯茶も断ち︑日に幾度も潮を浴びて禊をし︑三十町余り離れた萩新堀の法光院境内にあ
る金比羅社に参詣して母の本復を祈った︒満願となる十二月十一日も母の介抱を妹たちに任せ︑日暮れ過ぎに禊をし
て赤裸・素足で社参した︒ところが︑この日は雪霰をまじ
えた烈風が吹きすさぶ荒天で︑帰途︑家まであと二十町と
いう雁島︵地名︶辺りで︑兄弟は手足も凍えて正気を失く
し︑往来の人も絶え果てた中で絶命してしまった︒︹﹃孝節録﹄本編︺
これとほぼ同一の話を記す﹃長州﹄﹃香川津﹄は︑ともに山口県立山口図書館に版本が蔵されている︒それを底本として以下
の考察を進め
23
る︒
まず︑全体を︻本編︼・︻後日談ほか︼の二部に分けて︑﹃孝節録﹄﹃長州﹄﹃香川津﹄の間の異同を以下に示す︒︵︿孝﹀︿長﹀︿香﹀
は各々の略︶ 面︶の両面で急がれた時である︒人心教化に忠孝伝が有益と考
えられ︑防長両国の忠孝伝の編集を芳樹に慫慂するように言
う︒具体的に挙げられた人物は︑返り忠をすることなく毛利家
に忠節を誓い散っていった清水宗治︒藩主の身代わりとして死
んでいった渡辺通︒この二人がまず挙げられる︒彼らは︑死を賭して藩主を守り︑忠節を誓った人物たちであった︒清風が意識した﹁孝﹂の先にこのような﹁忠﹂が存在したこと︑そして︑
この意識は当然芳樹にも理解されていたであろうことは︑押さ
えておく必要があろう︒
三 香川津の二孝子︵権蔵・利吉︶と孝子伝
前章の書簡︻乙︼で︑清風が特に名を挙げて芳樹に依頼した
のが﹁香川津の孝子﹂であった︒そして︑この話は最終的には
﹃孝節録﹄に掲載されるが︑それ以前に︑管見に入る範囲では二度ほど単独の作品︵孝子伝︶として板行されている︒﹃長州孝子伝﹄︵以下﹃長州﹄と略︶と﹃香川津孝子伝﹄︵以下﹃香川津﹄と略︶である︒本章ではそれらに関して︑周辺資料も援用しなが
ら考察したい︒
まず︑﹁香川津の二孝子﹂の話の梗概を以下に掲げる︒﹃長州﹄・
﹃香川津﹄・﹃孝節録﹄︵巻三の三十話︶ともに︑﹁本編﹂と﹁後日談ほか﹂の二部構成だが︑﹁本編﹂部分はほぼ同一の話である︵細部の異同は後に触れる︶︒ここでは﹃孝節録﹄所収本文の﹁本編﹂部分の概略を示す︒
長門国阿武郡小畑村香川津に︑権蔵・利吉という二人の
⑧石碑建立︿孝﹀翌年藩主帰国して山縣半七に碑文を書かせ︑
石碑建立 ︿長﹀藩主儒臣に命じて碑文を書かせ︑
石碑建立︵帰国の件なし︶
︿香﹀翌年藩主帰国して山縣半七に碑文を書かせ︑
石碑建立⑨母の病後︿孝﹀兄弟の死の報に涙に沈み程なく死去 ︿長﹀︵記載なし︶
︿香﹀藩の褒賞書き下げ文を引用して ﹁長七妻も無程相果候由﹂⑩編者の言︿孝﹀﹁天理天数の義﹂から兄弟の死を解説 ︿長﹀﹁名誉は天地と共にとゞむ﹂として 兄弟の死を解説 ︿香﹀なし︵奥書で兄弟の行動に言及︶
右を一瞥して︑﹃孝節録﹄と﹃香川津﹄がほぼ一致していると
いうことがわかる︒異なる点は︑⑦﹁褒章内容﹂において︑﹃香川津﹄の方が﹁米三俵﹂と具体的に記す点であるが︑これは﹃香川津﹄が藩からの﹁賞美﹂の﹁書き下げ﹂の﹁覚﹂を転記してい
ることによるものである︒﹃孝節録﹄は藩の﹁書き下げ﹂を掲載
していないので︑この点を除けば︑両者は⑩﹁編者の言﹂以外
は完全に一致している︒一か所︑本文を例示する︒
︿孝﹀今日満願の日に当れりとて︒権蔵利吉の二人云合せ︒折
ふし父の長七︒幷に嫡子元右衛門も︒留守なれども︒母の ︻本編︼①父の名前︿孝﹀長七︑︿長﹀権助︑︿香﹀長七②兄弟関係︿孝﹀先妻の子二人と後妻の子一人
︿長﹀先妻の子二人と後妻の子一人 ︿香﹀先妻の子二人と後妻の子一人③兄弟の名︿孝﹀長男元右衛門・次男権蔵・三男利吉︑ ︿長﹀兄︵長男・次男不明︶利吉︑三男権蔵︑ ︿香﹀長男元右衛門・次男権蔵・三男利吉④母の病気︿孝﹀産後に病気︑︿長﹀懐妊してから病気がち︑
︿香﹀産後に病気⑤兄弟の死︿孝﹀雁島で倒れ介抱の甲斐なく死去︑ 権蔵二二歳︑利吉一六歳 ︿長﹀鶴江の千本川の川岸で死去︑利吉二二歳︑ 権蔵一六歳 ︿香﹀雁島で倒れ介抱の甲斐なく死去︑ 権蔵二二歳︑利吉一六歳
︻後日談ほか︼⑥藩の対応︿孝﹀即座に検屍︑江戸在の藩主に急使︑
藩主より褒賞 ︿長﹀即座に検屍︑褒賞︵藩主の江戸在の件なし︶
︿香﹀即座に検屍︑江戸在の藩主に急使︑ 藩主より褒賞⑦褒章内容︿孝﹀米穀︑石碑建立︑金子下賜︑年忌法要︑ ︿長﹀米穀︑石碑建立 ︿香﹀米三俵︑石碑建立︑金子下賜︑年忌法要
となると︑﹃長州﹄と﹃孝節録﹄﹃香川津﹄との関係が問題とな
る︒前掲の三本の異同を見ると︑﹃長州﹄のみが①で父の名を﹁権助﹂とし︑③で利吉・権蔵の長幼の順を逆にする︵結果的には継母と継子の関係が異なってくる︶など︑重要な点で食い違い
を見せている︒﹃孝節録﹄編者の近藤芳樹は﹃長州﹄の存在を知っ
ていたかもしれないが︑﹃孝節録﹄の執筆段階では︑恐らくは
それに依拠することなく︑﹃香川津﹄の本文のみによって﹃孝節録﹄を書き上げたのではないかと思われる︒
﹃長州﹄のこのような特異な本文は︑編者が又聞きによって本文を作成したことに起因しているのだろう︒﹃長州﹄の末尾
には︑﹁永教曰二子其親に厚事閔曽にもおとらさりしに信余り
て天地の変を避るの智なくあやまつて天年を保ことあたはす
⁝男永辰長門に下り其あらましきゝ記し侍りぬ﹂とする︒
﹃国書総目録
﹄では﹃長州﹄の編者を﹁永敬﹂とするが︑稿者 27
はこれは誤りと考える︒正しくは﹁永教﹂で︑﹃長州﹄の編者は神道講釈師﹁玉田永教
﹂もしくはその周辺と推測するが︑それ 28
に関しては別稿に譲り︑これ以上ここでは触れない︒
ともあれ︑その永教が本文中に顔を出して論評を下す︒そし
て末尾で﹁息子の玉田永辰が長門国に下って︑その﹁あらまし
︵概略︶﹂を聞き︑記した﹂とする︒永辰が長門国萩で二孝子の年忌に出くわしたか︑或いは石碑を見るかして興味を持ち︑城下の人に二人の逸話を聞いたのであろう︒父・永教のもとに話
を持ち帰り︑その内容に肉付けをして文章化し上梓したのが
﹃長州﹄と推察される︒ 介抱は︒妹どもに任せおきて︒満願の賽をせんと︒日の暮過より︒いつもの如く汐をあひて︒身を禊ぎ︒赤裸徒跣のまゝながら︒萩新堀法光院境内なる金比羅社
へとこゝろざし︒脇目もふらず急ける⁝
︿香﹀今日は七日満願の日に当りければ︒権蔵利吉二人は言合
せて︒折節父の長七幷に惣領元右衛門も留守なれども︒母の介抱は︒妹両人に能よく︒いひふくめおきて︒兄弟は満願の御礼参りをせんとて︒日の暮過より例の通りに汐をあびて其儘に︒赤裸徒跣にて︒萩新堀法光院境内の︒金比羅の社へとこゝろざし︒脇目もふら
ずいそぎける︒
満願の日に垢離を取って兄弟が裸・はだしで金比羅社に参る場面である︒両本の一致に異論はなかろう︒なお︑当該箇所の碑文︵文化十三年に山縣太華が作文︶は︑﹁期満︑則将躬詣祠而拝謝︑比日昏出浴于海︑即躶跣而行﹂が全文であ
24
り︑父や長男
の不在︑妹たちへの看病の依頼などは書かれていない︒碑文を共通祖本として﹃孝節録﹄﹃香川津﹄が別々に出来上がったと考
えるのは無理である︒例示は一つに留めるが︑﹃孝節録﹄と﹃香川津﹄の本文は︑⑩
の部分を除いてかなりの部分が類似もしくは一致してい
25
る︒次章で考察する通り﹃香川津﹄の成立は慶応三年︵一八六七︶なの
で︑﹃香川津﹄を粉本にして﹃孝節録﹄が成ったと断言してよか
ろ
26
う︒
︻甲︼﹃香川津﹄の著者奥書︵全文
上の御恩をも︒わすれぬ道理に相成自然と忠義も出来申すべ 何卒人の子たるもの︒①孝行の道に心を尽さば︒有難き ︶ 30
く︒人と生れて︒人たるの道をしらねば︒鳥けだものにもおと
りて︒はづかしき事なれば︒二人の孝子のなりゆきを︒くわし
く書つけて︒世の人の教草ともせまほしとて︒②今の県令杉某︒せちにこひければ︒そのこゝろざしにめでゝ︒おのれが才
のみぢかきもうちわすれ︒なが〳〵しくもかきつゞるころは︒③丁卯の十月なり︒
花押
︻乙︼慶応三年八月の澤宣嘉宛杉梅太郎書簡︵全文
④香川津二孝子之儀を︑追々被聞召上︑既に追悼之御歌をも下 ︶ 31
し玉はり︑難有御事奉存候︑⑤然処右事跡︑漢文碑名等は素ゟ田夫野人読得候事相成不申︑又和文雅言に而相綴り候而は︑和歌に而も詠し︑古学之端成とも心得不申而は矢張意味通じ兼候
に付︑誰人茂輙く読得候様︑⑥平かなに而始抹明白相分り候様書綴り︑世に公にいたし候はゞ︑孝道教訓之一端にも可相成哉 と考候処︑右思立被聞召上︑或は其理茂可有之事と被思召︑且
は二孝子之志を御垂憐被遊︑出格之訳を以︑御筆を被為取︑一篇之文に御綴り被遊︑御下渡被仰付候はゞ︑二孝子地下之栄は申迄も無之︑読者之感奮もいか計に而歟可有之與存候︑乍爾ヶ様之儀卒爾ニ御願等可被申出筋共不考候得共︑各様迄申越置候間︑宜敷御折を以︑被仰上被下度致御願頼候︑以上︒
⑦八月晦日杉梅太郎 さて︑﹃孝節録﹄の二孝子の話は︑﹃長州﹄からの本文の影響
は受けず︑専ら﹃香川津﹄の本文に依拠して︑ほぼ同文に近い形で成立したことがわかった︒となると︑﹃香川津﹄の編集目的は考察する必要があろう︒また︑大きな違いである⑩﹁編者
の言﹂も注目すべきである︒次章において︑﹃香川津﹄の成立背景とその編集の目的を取
り上げ︑次々章において﹃孝節録﹄を取り巻く諸問題について考察したい︒
四 澤宣嘉の﹃香川津孝子伝﹄の成立の経緯とその執筆目的
幕末の尊攘派公家として著名な澤宣嘉が︑二孝子の没した翌年に建立された碑文︵山縣太華作文︶ほかの資料を参照して著
したのが﹃香川津﹄である︒これは︑澤自身の手になる奥書︑並びに周辺資料ではっきりと断言できる︒以下に資料を挙げる
が︑その前に︑澤の略歴をまとめてお
29
く︒澤宣嘉︵一八三六〜一八七三︶は︑権中納言姉小路公遂の男
で︑澤為量の養嗣子︒﹁文久三年︵一八六三︶八月十八日の政変﹂
で三条実美らと長州にのがれ(七卿落ち)︑同年平野国臣らと生野の変を起こすが失敗︒各地を転々として再度長州に入り︑慶応三年︵一八六七︶まで当地に潜居した︒維新後は九州鎮撫総督・長崎府知事などを歴任し︑初代外務卿として明治初期の外交を担った︒この二度目の長州潜伏の際に︑﹃香川津﹄を執筆
したのである︒
慶応三年八月晦日︒注
転居後間もない澤に︑二孝子の話をし︑五十回忌の歌を所望し 認を措いている﹂︵六四一頁︶と書かれている︒その杉が︑小畑 当つては︑全力を尽して居る︒卿も亦︑杉に対しては全幅の信 梅太郎であった︒﹃生野義挙と其同志﹄には﹁杉は⁝卿の保護に 岐守の別荘に移っており︑その斡旋・準備などを行ったのが杉 同年八月某日に萩の弘誓寺から同じく萩の小畑にあった毛利隠 23の﹃生野義挙と其同志﹄によれば︑澤は︑
たのであろう︵傍線部④⑩︶︒恐らくは﹃夢のなごり﹄の
91・ 92
番歌が︑その時に詠まれた歌ではあるまいか︒
さらに杉は︑傍線部⑤⑥で︑﹁二孝子の事跡を書き記した碑文︵前述の山縣による︶は漢文体で︑教養のない田舎者などに
は読めないだろうから︑最初から最後まで判りやすいように平仮名で書いたものを作ってほしい﹂と述べる︒そして︑二伸の傍線部⑧で︑山縣の碑文の和解と藩の二孝子遺族への褒賞文
︵写し︶を渡している︒実際︑﹃香川津﹄では︑本文に続くもの
として︑﹁孝子へ兼て御賞美の例に因て︑米を下されける︒御書下げ左之通﹂として︑﹁覚/一米三俵/坪井甚右衛門組/御六尺/長七﹂以下︑﹁御褒美﹂帳の写しと思われるものがそのま
ま転載されている︵三章の⑦の考察を参照︶︒以上︑いささか細部にわたりすぎたかも知れないが︑﹃香川津﹄の成立事情をまとめるならば︑以下のようになろう︒
すなわち︑慶応三年八月某日に萩の小畑に移ってきた澤に
は︑杉から既に二孝子の話が伝えられていて︑その五十回忌に際しての和歌の詠作依頼もあった︒杉は︑山縣の碑文は漢文体
で教養のない者には理解できないので︑平易でわかりやすい文 御次御詰中様二白︑⑧碑文和解並御褒美帳写し共差越申候間︑是亦被差上可被下候︑以上︒
︻丙︼﹃夢のなごり﹄の
91・ 92番 歌 32
⑨親に事ふる道のまめ〳〵しき人は君に仕ふるもしかそあ
りける⑩ことし香川津なる二人の孝子の五十回なりとて歌
こはれけれはそのことのよしをつはらにきゝてけるにも⑪
かゝるくしひ事を千とせの後にもかたりつかはおやにつか
へ君につかふるにさかしき人いくたりかいてくめるとおも
ふなへに孝子の事もあはれにて
91おやのため雪とその身は消にけり笋ほりし人はものかは 92はらからのかはねを雪に埋ますはうつもれぬ名を世にのこさ
め
33
や
まず︑︻甲︼から見る︒傍線部②の﹁今の県令杉某﹂というの
は︑︻乙︼の書簡の差出人﹁杉梅太郎﹂のことである︒杉は一般
には杉民治の名で知られ︑吉田松陰の実兄である︒当時︑当島・浜崎の代官を勤めていた︒その杉から︑二孝子の事跡を詳細に書き記したものを﹁教え草︵教えの種となるもの︑教材︑教本︶﹂
にしたいとの願い出があり︑澤が執筆したというのである︒傍線部③の﹁丁卯﹂は慶応三年のことで︑同年十月に奥書が記さ
れたことがわかる︵なお︑澤は同年十二月二日に位階を復され︑二十八日に帰洛の途に就いた︶︒
︻乙︼の書簡で︑更に詳細な経緯が判明する︒まず︑日付は
一方︑澤は二孝子の話から何を読み取ったか︒杉の本意は理解した上で︑更に加えられる要素を看取した︒それは︑︻丙︼
の詞書と和歌に端的に示される︒すなわち︑傍線部⑨で述べる︑
﹁親に仕えるのに誠実・実直な者は︑君に仕えるに際しても誠実・実直であり︑﹁孝﹂の道は﹁忠﹂の道に通じる﹂とする考え
である︒そして傍線部⑪で︑このような﹁奇霊事︵﹁霊妙なこと﹂︑
ここでは﹁めったにあり得ないこと﹂程度の意︶﹂を千年後まで語り継げば︑親に仕え君に仕えるのにしっかりとした者が何人
か出てくるだろう︑と述べる︒
91番歌では︑﹁二孝子と比べた
なら︑﹁雪中の筍﹂伝説で知られた孟宗などは物の数にも入ら
ない﹂と︑反語による厳しい口吻で二孝子を称揚する︒続く
92
番歌では︑﹁兄弟の亡骸を雪に埋めなかったならば︑後々まで残る﹁名﹂を残すことが出来はしない﹂と︑これも反語で歌い上げる︒﹁亡骸となって雪中で死去したからこそ︑﹁名﹂は後世
に埋もれることなく残った﹂という認識が見える︒ここには︑
﹁孝﹂という徳目が﹁現世利益・実利を生む﹂という考えは容喙
されない︒﹁孝行者は周りの者たちが︑そして藩主が︑国が褒賞する﹂という考えはない︒澤の閲歴は︑前掲の通り苦難の連続であった︒﹁八月十八日
の政変﹂﹁七卿落ち﹂﹁生野の変﹂︑ことごとく敗者の側に立って
いる︒ごく少数の︑腹心の部下を引き連れての潜行・潜居の生活を続けた澤にとって︑﹁忠﹂なる者の必要性・重要性は誰よ
りも実感していたことであろう︒時には自らの命を擲ってでも主人を助ける﹁忠﹂なる者が必要であった︒しかし︑そうした人物は︑簡単に現れるものではない︒幼少期から﹁孝﹂の大切 章にしてほしいと依頼した︒併せて︑碑文の和解と御褒美帳の写しを渡した︒これらをもとに﹃香川津﹄の本文は完成し︑同年十月には著者奥書が草されることとなった︒
ところで︑二孝子の話を平易な平仮名書きのものとして作成
するに際しての︑目的・意図は那辺にあったのだろうか︒前掲三つの資料に依れば︑澤と杉との間に︑微妙な認識のずれが感
じられる︒傍線部②の直前の﹁とて﹂が受ける文章の始まりをどこに求
めるかによってやや解釈が異なってくるが︑少なくとも杉は
﹁世の人の教草︵教本︶ともせまほし﹂と考えたことは確かであ
ろう︒広く領民に本話を伝え︑教育の場で活かそうと考えたの
である︒当島代官という政治的立場がそれを考えさせたのだろ
うし︑安政の大獄で処刑された吉田松陰という教育者を実弟に持っていたことも関係していよう︒実際︑澤の手になる﹃香川津﹄は︑萩の浜崎御船倉にあった郷学校﹁朋来舎﹂︵校名は澤の命名︶で教科書として用いられてい
34
る︒また︑杉の書簡︻乙︼
の傍線部⑥でも︑﹁孝道教訓之一端﹂になると考えている︒杉は︑二孝子の話から﹁孝道の教訓﹂を読み取り︑領民にそれを教育
する題材として﹃香川津﹄を執筆することを乞うたのである︒
これは︑澤も十分理解していたはずで︑前章の注
25で︑﹃孝節録﹄
にはなくて唯一﹃香川津﹄が単独で持つ本文として指摘した﹁誰
にても此通りに致さねばならぬ事なり︒世の親たる者︒子たる
もの︒能きゝおぼへおくべし﹂というのは︑まさに﹁領民への教え﹂﹁教導﹂の立場からの︑﹁親への諭し﹂が加わった記述で
あり︑﹃孝節録﹄には不要と判断されて削除されたのであろう︒
あるべけれども︒また天数を以ていふときは︒二子の薄命
こゝにきはまりて︒神もこれに助を加へ給ふことあたは
ざるなるべし︒されば天理天数の義を知らば︒必ずしも︒疑ふ所なかるべからんか︒︹﹃孝節録﹄巻三の三十話末尾部分︺
傍線部②は︑読者が抱く︑本話への素朴な感想︵疑問︶であ
ろう︒傍線部①に記す通り︑二孝子は誠心誠意︑まさに身命を賭して神に祈った︒にもかかわらず︑二人は死んでしまう︒そ
れのみか︑この文章の数行前には﹁継母はさらぬだに︒重き病
に取そへて︒兄弟の者の死せしを悲しみ︒ただ涙に沈みて居
たりしが︒これもほどなく空しくなりにけり﹂と書かれ︑二人
の死が継母の死の遠因になったかのような記述もなされる︒取
りようによっては救いようのない話である︒
かろうじて救われる点は︑二孝子の地元・香川津に頌徳碑が建てられ︑﹁金子若干たまひて︒永く孝行の徳をあらはされし
より︒今に至ても︒年忌ごとに︒厚くとぶらはるる﹂ことかも
しれない︒しかし︑﹁若干﹂の金である︵﹁そこばく﹂は︑古く
は数量の多さ・程度の甚だしさを示したが︑ここは﹁若干金︵い
くらかの金︶﹂の意︶︒読者には︑腑に落ちない︑合点のいかな
い話であり︑編者芳樹もそれを敏感に感じ取ったからこそ︑傍線部③以下の﹁天理・天数﹂の解説を施したのであろう︒それ
でもなお明快な説明となっていないのがわかっていたのか︑最後は﹁疑ふ所なかるべからんか﹂と突き放した疑問で擱筆する︒
ちなみに︑本話への違和感は大正期の人々も抱いたようであ さを教え込んでいてこそ︑その先に﹁忠﹂なる者があらわれる︒母の命の代わりに自らの命を投げ出した香川津の二孝子の姿
に︑忠臣の姿を重ね合わせていたのではあるまいか︒
五 ﹃明治孝節録﹄の二孝子の話
三章では︑﹃孝節録﹄が﹃香川津﹄をほぼ粉本とする形で作ら
れていることを述べた︒また︑四章では︑﹃香川津﹄の執筆目的が︑依頼者の杉には﹁民衆教化のためのテキスト編集﹂にあっ
たこと︑著者の澤がそれを理解したうえで﹁孝であるものは君
に対しても忠である﹂という認識のもと︑忠義を尽す者を育て
るために孝行を奨励する著述をなそうとしたこと︑以上を述べ
た︒本章では︑﹃孝節録﹄の二孝子の話について考察したい︒三章で概観したように︑﹃孝節録﹄と﹃香川津﹄の最も大きな違いは︑︻後日談ほか︼の部分の末尾に﹁編者の言﹂を﹃孝節録﹄
のみが記すことであった︒﹃香川津﹄にも﹁奥書﹂という形で編者の言は付せられるが︵四章で考察︶︑あくまで﹁奥書﹂であり本文とは呼べない︒また︑この奥書を﹃孝節録﹄は一字も取り込んでいない︒やはり︑﹃孝節録﹄の独自本文である﹁編者の言﹂
は全文を見る必要があろう︒
嗚呼二孝子︒①かくの如く誠を尽し身を致して︒金比羅
の神にいのるに︒②神さらに愍みを垂れ給はで︒これを
よそに見給へるが如くなるはいかにと︒疑へる人もあれ
ど︒すべて物にまれ人にまれ︒③天理と天数とあり︒さる
は天理を以ていふときは︒二子の孝心︒神の感応かならず
である︒
A此書は︒①孝悌忠信の操行ある者をえらび︒四民のうちにて︒
むねと農工商の︒訓戒となさむが為に︒編輯せり︒
B嗚呼②孝悌忠信の︒何物たるを知らざる愚夫愚婦にして︒か
へりて親に孝を致し︒主に忠を尽し︒兄弟に睦じく︒朋友に信ありて︒士以上の︒書を読み︒道を知れる人にも︒まされ
るがあるは︒何を学びてしかる⁝
Aは︑その冒頭部分であるが︑傍線部①にはっきりと﹁孝悌忠信の操行﹂と記す︒芳樹が本書を編集した目的は︑﹁父母に
よく仕え︵孝︶︑兄姉や目上の者に従順で︵悌︶︑心から主人や主君に奉仕し︵忠︶︑互いを信頼しあう︵信︶︑そうした行いを
した者を選び︑四民の中で主として農工商の身分の者たちの訓戒とするため﹂だった︑というのだ︒﹁孝悌﹂﹁忠信﹂と二字熟語に分けると︑後半の﹁忠信﹂は﹁真心を尽くして偽りのない
こと﹂程度の意となるが︑芳樹が傍線部①で取り上げたのは︑
あくまで四つの徳目﹁孝・悌・忠・信﹂である︒それを︑再度強調しつつわかりやすく解説したのが︑Bの傍線部②であろ
う︒﹃孝節録﹄は︑﹁孝節﹂の文字を持つがゆえに︑孝子節婦の話
を集めた作品と理解されやすかった︒もちろん︑大筋はそれで間違いなかろう︒しかし︑編者芳樹は︑孝子節婦に限定されな
い﹁孝・悌・忠・信﹂の者の話を編集することで一貫していた︒二孝子の話は︑その中の﹁孝﹂であり︑その先には﹁忠﹂が見据 る︒大正十二年刊の﹃詳訳 明治孝節録
蒙を始め広く一般の人々の閲読に便せんが為﹂とその目的を述 版であるが︑訳者はその序で﹁今回口語体に訳述したのは︑童 ﹄は﹃孝節録﹄の口語訳 35
べ︑﹁時代の推移などを考へて二ヶ条ほど省略した﹂と断って︑本話﹁権蔵 利吉﹂︵巻三の三十︶と﹁長野県貴属某の妻﹂︵巻四
の五︶を削除している︒ともに目次に標題を記すが︑該当部分
に話はない︒一章で述べた通り︑﹃孝節録﹄は教科書としても使用されたが︑明治十三年に文部省地方学務局が出した通牒
︵教科書調査結果を踏まえたもの︶では︑﹃孝節録﹄の巻二は小学校教科書としての採用が禁止されている︒同省は理由を示さ
ないが︑先行研
究では巻二の六﹁せん女﹂の 36
適切だったからと推測されている︒しかし︑巻一・三・四は問題 話が小学生には不 37
とならなかった︒大正期に入って﹃詳訳 明治孝節録﹄が巻三 の﹁権蔵 利吉﹂の話を省略したのは︑やはり﹁時代の推移﹂に鑑みて︑本話が童蒙︵子供︶や一般の人々には受け入れがたい
と判断されたからであろ
38
う︒
つまるところ︑もし本話を﹁褒賞﹂譚として捉えたならば︑非常に後味の悪い話となってしまう︒﹁米穀下賜︑頌徳碑建立︑若干の金子の下賜による年忌法要﹂といった﹁褒賞﹂内容にし
ては︑あまりにも犠牲︵二孝子と継母︶が多すぎる︒大正期に
は既に普遍的な説得力は持ち得ていない話であった︒にもかか
わらず︑本話を﹃孝節録﹄に取り込んだ︵しかも︑粉本ともい
える﹃香川津﹄本文をそっくりそのまま流用して︶理由は︑那辺にあるのだろうか︒
ここで注目したいのは︑芳樹の手になる﹁明治孝節録例言﹂
者の編集意図も明らかになった︒生野の変の失敗で二度目の長州潜居をしていた澤宣嘉は︑世話をしていた杉民治から二孝子
の話を聞かされていた︒また︑五十回忌の和歌の依頼も受けて
いた︒慶応三年八月某日に萩の小畑に転居した澤に︑杉は平易
でわかりやすい二孝子譚を書くことを依頼し︑諸資料も用意し
た︒それらをもとに﹃香川津﹄は完成し︑同年十月の著者奥書
が草された︒杉の依頼は︑領民に﹁孝行﹂を教える際の教本作成に主意があったが︑澤はそれを理解した上で︑﹁忠﹂を見据
えた﹁孝﹂の大切さに中心をおき︑﹁忠孝の士﹂を育成するため
の忠孝譚を書き上げようとしたのである︒
こうした﹃香川津﹄をほぼそのまま取り込んだ﹃孝節録﹄の二孝子の話は︑どうしても﹃香川津﹄の方向性を持たざるを得な
い︒かつ︑本来的に二孝子の話は︑﹁褒賞譚﹂とするには素材
としての瑕疵を持っていた︒読者からすれば︑その多大なる犠牲と結果としての褒賞があまりにも釣り合わないのだ︒芳樹は
それを知ったうえで︑それでもあえて大幅な本文改訂もなさず
に﹃孝節録﹄に取り込んだ︒褒賞・恩賞とはやや離れた位置に
ある﹁孝﹂を実践した孝子の話を提示すること︑それ自体に意味があったのである︒
注︵
1︶ただし﹁六月﹂とするのは表見返し︒本稿が底本とした明治 10年刊本の複製本では全巻とも奥付に﹁明治十年十一月出版
/宮内省蔵版々権所有/文学御用掛/近藤芳樹編輯﹂とする︒
なお︑国会図書館蔵の明治
10年刊本は奥付を持たない︵ウェ
ブ閲覧︶︒ えられている︒為政者が期待︵あるいは強制︶する忠孝は︑決して褒賞・恩賞を伴ったものではない︒損得勘定を離れた所で︑身命を賭し
て全てを放擲して主君や親に尽くしてこそ忠孝の輝きが増す︑
と教化する︒それは︑忠を尽くされる側の理論にほかならない
のである︒
六 おわりに
本稿は︑﹃孝節録﹄巻三の三十話という非常に狭い範囲に限定しての考察である︒全一七七話のうちの一話に触れたに過ぎ
ない︒しかし︑権蔵・利吉の二孝子の話を通時的に見た時︑数多の話を一括して見た時には見えなかったものが浮かび上がっ
てきた︒
まず︑長州藩の村田清風という政治家が︑藩内教化のために忠孝譚を纏める考えを持っていたことがわかった︒それは︑幕末という風雲急を告げる時代に︑夷狄・外寇への︵精神面での︶備えとして必要性を感じ取っていたものだった︒清風自身も︑
また取りまとめが期待されていた山縣太華も︑それを成すこと
が出来ず︑清風からの依頼は近藤芳樹にもたらされた︒芳樹は清風の依頼の真意がわかっていただろうが︑結局のところ︑芳樹の手でそれらが纏め上げられることはな
39
く︑明治に入って皇后の内旨を受けて﹃孝節録﹄という形で完成した︒
﹃孝節録﹄の二孝子の話は﹃香川津﹄を粉本として成った︒同一話は﹃長州﹄としても纏められているが︑芳樹はこちらは参照しなかったと思われる︒本稿では﹃香川津﹄の成立過程と編
成立事情﹂︒越後に依ると︑﹃孝節録﹄は各方面への下賜後︑吉川半七ほか数名の書肆に発売が許され︑明治
11年から同
26
年の間に少なくとも六七三〇部が出版されているという︒ま
た︑﹃孝節録﹄の修身教科書としての使用に関しては︑注
西谷論文ほか︑左記の論考にも触れられる︒ 4の 中村紀久二﹃教科書の社会史﹄︹岩波書店︑平成
4年 四〇〜四七頁︺ 6月︑ 水田聖一﹁近代日本における教育制度の形成と道徳教育﹂︹富山国際大学﹃人文社会学部紀要﹄第
2巻︑平成
14年 3月︺
︵
7︶注 4の西谷論文のほか︑左記のものなどがある︒
菅野則子﹁望まれる維新期の女性像﹂︹名古屋歴史科学研究会
﹃歴史の理論と教育﹄第一三一号︑平成
21年 11月︺
︵
8︶芳樹の略歴と業績については左記の拙稿ほかを参照︒ 小野美典﹁近藤芳樹の編集した類題和歌集について︱﹃類題阿武の杣板﹄﹃類題風月集﹄﹃類題和歌月波集﹄︱﹂︹日本大学国文学会﹃語文﹄一三五輯︑平成
21年 12月︺ 小野美典﹁山口県立山口博物館蔵﹃近藤芳樹自筆歌集﹄につい
て︱芳樹の他の歌集との関係︑そして木戸孝允との関係︑附翻刻︱﹂︹日本大学国文学会﹃語文﹄一四四輯︑平成
24年 12月︺ 小野美典﹁近藤芳樹﹃牛乳考﹄について︱﹃寄居歌談﹄から﹃舐蘇小言﹄﹃牛乳考﹄へ︑そしてその執筆意図︱﹂︹日本大学法学部﹃桜文論叢﹄九三巻︑平成
29年 3月︺︒
︵
9︶明治天皇の東北・北海道巡行︵明治
9年︶︑北陸巡行︵同
11
年︶に随行し︑それぞれ﹃十符の菅薦﹄︵四巻︑同
9年 11月刊︶・
﹃陸路廼記﹄︵二巻︑同
13年 6月刊︶を著している︒
︵
10︶抄宗寮に関しては左記の拙稿を参照︒
小野美典﹁抄宗寮叢書と福原元僴の﹃緑浜詠草﹄﹂︹日本大学国 ︵
2︶﹃孝節録﹄の本文は︑明治
10年刊の宮内省蔵版の複製本であ
る日本精神振興会刊行本︹左記参照︺に依った︒﹃孝節録﹄の複製・翻刻には以下のものなどがある︒
﹃明治孝節録 完﹄︹中興館書店︑大正
3年 6月︺ ﹃明治孝節録 昭和善行録﹄︹日本弘道会︑昭和
13年 8月︺ ﹃明治孝節録﹄一〜四︹日本精神振興会︑昭和
11年 10月︑明治 10年版の複製︺ ﹁明治孝節録﹂︹国民精神文化研究所﹃教育勅語渙発関係資料集第一巻﹄昭和
13年 3月︺ 宮本誉士﹁翻刻 明治孝節録 巻一巻二/巻三巻四﹂︹明治聖徳記念学会﹃明治聖徳記念学会紀要﹄復刊四四号/復刊四五号︑平成
19年 11月/ 20年 11月︺
︵
海僊に就いた︒維新後は東京で活躍する︵左記の影山論文で 藩に生まれ︑同藩御用絵師朝倉震陵に学び︑京都に出て小田 3︶大庭学僊︵一八二〇〜一八九九︶は︑長州藩の支藩徳山毛利
は学僊が皇居障壁画を描くにあたり芳樹の推輓があったこと
を推測する︶︒﹃孝節録﹄と学僊の関係については左記を参照︒
影山純夫﹁国学者近藤芳樹資料に見る画家達﹂︹野村美術館﹃研究紀要﹄第一〇号︑平成
13年 3月︺ 勝又基﹁善人伝のゆくえ﹂︹岩波書店﹃文学﹄隔月刊第
5巻 平成 1号︑ 16年 1月︺
︵
等褒賞との関連において︱﹂︹﹃多摩美術大学研究紀要﹄第 4︶西谷成憲﹁﹃明治孝節録﹄に関する研究︱明治初期孝子節婦
11
号︑平成
8年 3月︺
︵
5︶注 3の勝又論文
︵
6︶越後純子﹃近代教育と﹃婦女鑑﹄の研究﹄︹吉川弘文館︑平成 28年 11月︑四五〜五一頁︺の第二章第一節﹁﹃明治孝節録﹄の
はいずれも近世毛利家中に連綿とその家名を存している﹂と記す︒入道月清は宗治の兄︑信賀は毛利側の検使で︑共に宗治の後を追って自刃︒
︵
22︶﹃列伝体防長史﹄︹下尾善太︵著・刊︶︑大正
3年 邊通﹂の項では︑﹁元就殿戦シテ退ク降露坂ニ及ビ追騎甚急ナ 2月︺の﹁渡
リ通代リテ戦死シ元就僅ニ免ル元就其子長ヲ愛撫シ長ク之ヲ禄ス﹂とし︑殿を務めて危殆に瀕した元就が︑自らの身代
わりとなって死んだ﹁通﹂の遺児﹁長﹂を寵愛したことを記す︒
︵
23︶山口図書館には﹃長州﹄が二冊蔵される︒一方は︑もう一方
の内題︵一丁オ︶を改刻して更に巻末に歌を加えるなどしてお
り︑恐らく増補されたものと思われる︒﹃香川津﹄は三冊蔵さ
れ︑ともに同一である︒なお︑左記のAに﹃長州﹄﹃香川津﹄
の翻刻︑B・Cに﹃香川津﹄の翻刻︑Cには更に﹃香川津﹄の影印と現代語訳が載り︑それぞれ参照した︒
A﹃明倫叢書第六輯 巴城孝子伝﹄︹山口県萩市明倫小学校内明倫叢書刊行部発行︑昭和
9年 3月︺ B澤宣一・望月茂﹃生野義挙と其同志﹄︹春川会︑昭和
行月未詳︑同年 7年︵刊 C﹃香川津二孝子二百年祭︱親孝行の兄弟の物語を後世に﹄ 10月の著者序がある︶︺
︹香川津二孝子二百年祭実行委員会発行︑平成
29年 3月︺
︵
24︶碑文は︑夙に﹃防長風土注進案﹄の﹁当島宰判﹂に採録され
ている︒また︑注
土注進案﹄本文に依った︒ 所は両者一致しており︑引用は句点が存する左記の﹃防長風 23のCにも資料として掲載される︒当該箇 山口県文書館編﹃防長風土注進案
昭和 20当島宰判﹄︹マツノ書店︑ 58年
4月︑九三頁︺
︵
25︶唯一︑左記の﹃香川津﹄本文の傍線部を﹃孝節録﹄が欠く︒ 文学会﹃語文﹄一五八輯︑平成 29年
6月︺
︵
11︶﹃村田清風全集下巻﹄︹山口県教育会︑昭和
38年 三九七〜三九八頁︺ 6月︑
︵
12︶﹃村田清風全集﹄の傍線部②では﹁海冠﹂と翻字しているが︑
﹁海冠﹂では文意不明︒内容から推して﹁海寇︵海賊の意︶﹂の誤植と考えた︒
︵
13︶﹁羽賀台大操練﹂は︑﹃山口県百科事典﹄︹大和書房︑昭和
57
年
4月︑六二二〜六二三頁︺に依る︒
︵
宗﹂と呼ばれた八谷梅顚がいたが︑その周辺の人物か︒ 14︶八谷通宜の﹁忠経和字觧﹂は未詳︒当時︑藩内には﹁詞壇の
︵
15︶勝又基﹃親孝行の江戸文化﹄︹笠間書院︑平成
29年 一〇頁︺ 2月︑
︵
年 16︶松本二郎﹃村田清風全集拾遺﹄︹三隅町教育委員会︑平成元 9月︑一五〜一六頁︺
︵
17︶大崎正次編﹃近世日本天文史料﹄︹原書房︑平成
6年 五一三〜五一六頁︺ 2月︑
︵
18︶この彗星は﹁一八五三年第三彗星﹂である︒左記の論考に詳
しい︒
箕輪敏行﹁二つの彗星資料︵1853年第
3彗星︶﹂︹東亜天文学会
﹃天界﹄No,926平成
14年 7月︺
︵
19118︶金子光晴校訂﹃︵東洋文庫︶増訂武江年表
昭和 2﹄︹平凡社︑ 43年 7月︑一三六頁︺
︵
20256︶志賀裕春・村田静子校訂﹃︵東洋文庫︶小梅日記
凡社︑昭和 1﹄︹平 49年 8月︑一一〇〜一一一頁︺
︵
21︶﹃国史大辞典
7﹄︹吉川弘文館︑昭和
61年 和に同意し高松城兵は助けられた︒宗治・月清・信賀の後裔 治﹂の項︵松岡久人執筆︶には︑﹁宗治の自刃により輝元も講 11月︺の﹁清水宗
知識と学問をになう人びと﹄吉川弘文館︑平成
19年 4月︑四六
〜七一頁︺
三矢田光﹃玉田永教と玉田三兄弟﹄︹金光教島之内教会発行︑平成
28年 8月︺
︵
29︶澤の経歴は︑注
典類に依った︒ 23の﹃生野義挙と其同志﹄を中心に︑各種辞
︵
30︶闕字は二文字分の空白で示した︒ただし︑︻甲︼の闕字はちょ
うど行末となっており︑平出の可能性もある︒
︵
31︶注 23﹃生野義挙と其同志﹄の六四二〜六四三頁︒
︵
32︶﹃夢のなごり﹄本文は︑注
号で付した︒ 録に依る︒歌番号は︑稿者が便宜的に﹃夢のなごり﹄の通し番 23﹃生野義挙と其同志﹄所収の附
︵
33︶この
名は世に残りける﹂という形で︑﹃香川津﹄の巻頭に置かれて 92番歌は︑﹁はらからのかばねを雪に埋みてぞ埋もれぬ
いる︵詞書は﹁香川津なる二孝子か事をきゝて感泣のあまり
に﹂︶︒
︵
34︶﹃萩市史・第二巻﹄︹萩市編集発行︑平成元年
一〇八六〜一〇八七頁︺︒なお︑これに依ると︑朋来舎では澤 3月︑一四九頁︑
の手になる﹃教民の詞﹄も教科書として使われ︑﹁日待︑祭事︑頼母子講等︑寄り会候度々読聞せ︑婦人小児迄ふしをつけ︑歌ひ覚えさせ﹂たという︒﹃教民の詞﹄は長文ではあるが︑七五調からなる平易で口調のよい道徳・教訓の教えである︒
︵
35︶関儀一郎訳﹃詳訳明治孝節録﹄︹東洋図書刊行会︑大正
12
年
11月︺
︵
36︶左記の論考参照︒また︑注
4の西谷論文︑注
6の越後論考
でも触れる︒
大森正﹁明治一三年の文部省地方学務局による教科書調査に 世の中に心得違いたせしものは︒継母は継子と中あしきものゝ
やうにおもひ︒たま〳〵なかのよきものありても︒他より色々
と言ふものなるに︒此権蔵母子は誰ひとり︒継子か︒生の子か︒其母と子のあいだを︒批判するものなかりける︒誠にたぐひ
まれなる事どもにて︒誰にても此通りに致さねばならぬ事
なり︒世の親たる者︒子たるもの︒能きゝおぼへおくべし︒
︵
26︶既に注
事ができる﹂との指摘がある︒ 慶応三年︿一八六七﹀年跋刊︶に典拠と言うに足る一致を見る 3の勝又論文で﹁刊本﹃香川津孝子伝﹄︵一巻一冊︒
︵
27︶﹃増補版国書総目録第
5巻﹄︹岩波書店︑平成
2年 籍総合目録データベース﹂も同様である︒ 六八五頁︺︒なお︑国文学研究資料館のウェブ上の﹁日本古典 5月︑
︵
巡歴して神道講釈を行った︒﹃長州﹄の引用本文末尾に登場す 田家に出入りして﹁主計﹂と名乗り︑同家の免許を得て全国を 徳島藩士横山伊之助の男︒上京して垂加神道を学び︑のち吉 28︶玉田永教︹宝暦六年︵一七五六︶〜天保七年︵一八三六︶︺は︑
る﹁永辰﹂は玉田永教の子息・玉田永辰︵一七七九〜一八三七︶
である︒玉田永教については左記などが詳しい︒
福井好行﹃玉田永教﹄︹大政翼賛会徳島県支部発行︑昭和
18年 10月︺ 河野省三﹃神道史の研究﹄︹中央公論社︑昭和
19年 一八二〜二〇二頁︺ 7月︑ 引野亨輔﹁平田篤胤と﹁俗神道家﹂の間︱神道講釈師玉田永教 を事例として︱﹂︹﹃近世 近代の地域社会と文化﹄清文堂︑平成 16年 3月︑二七四〜二九五頁︺ 引野亨輔﹁講釈師﹂︹横田冬彦編﹃身分的周縁と近世社会
5・
関する考察﹂︹東京教育大学大学院教育学研究科﹃教育学研究集録﹄第一一集︑昭和
47年 3月︺
︵
妻を殺害する話︒殺害の瞬間を描いた挿絵を伴う︒ 37︶病床の夫に尽す妻に悪僧が甘言を弄して迫り︑貞操の堅い
︵
原題が﹁妻より妾におくるふみ﹂と題される話である︒﹁妾︵め 38︶もう一話削除された﹁長野県貴属某の妻﹂︵巻四の五︶は︑
かけ・てかけ︶﹂なる語が不適切と考えられて標題まで改変さ
れ︑標題だけを残して本文省略となったのであろう︒ただし︑文部省が不適切と考えたと推測されている注
話は収載されている︒ 37の﹁せん女﹂の
︵
39︶清風が実名を挙げて依頼してきた忠孝譚に︑芳樹は個別で
の対応はしている︒たとえば︑﹁石川いし﹂に関しては︑﹁元治元年︵一八六四︶秋七月/藤原宜寸﹂と署名のある文章を草
し︑それを刻した頌徳碑が慶応元年︵一八六五︶十月に﹁いし﹂
の郷里に建てられている︒左記を参照︒
御園生翁甫編﹃続防府市史﹄︹同書刊行会︑昭和
35年 五一六〜五一七頁︺ 11月︑ ﹁顕彰の碑
1孝婦石川阿石の碑﹂︹ふるさと大道を掘り起こ
す会編集発行﹃ふるさと大道﹄
5︑昭和
59年 4月︺
︹付記︺ 本稿を成すにあたり︑資料の閲覧・写真撮影等の便宜を賜っ
た山口県立山口図書館に衷心よりお礼申し上げる︒
︵おの よしのり︑本学准教授︶