「歴 史 の 道 」

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1 圖目

奈良市 山陵町(奈 良大学)〜 桜 井市 初瀬 約33.4km

奈 良 大 学 一 山 陵八 幡神 社 一 佐 紀 町 一 三 条 大 路 一 大 宮 町 一 奈 良市 街 地(三 条 、橋 本、樽 井 、今 御 門 、勝 南 院 、中 新 屋 、元 興 寺 、井 上 、など)

京 終 一 帯 解 一 榛 本 一 天 理 一 丹 波 市 一 三 昧 田 一 柳 本 纏 向 一 芝 一 三 輪 一 金 屋 一 慈 恩 寺 一 黒 崎 一 出雲 一

伊 勢 辻 一 初 瀬(吉 野 館)

,初緊 《 ・タ コ、

い よ い よ宝 来 講 の 出 発。1日 目 は、 大 学 か ら奈 良 市 街 地 に 出 て、 上 街 道 を一 気 に 南 下 。 奈 良 盆 地 東 南 端 、長 谷寺 の 門前 町 、桜 井 市 初 瀬 ま で の コ0ス 。 初 瀬 は 古 代 か ら 「東 国へ

の 出入 ロ」 といわ れ 、伊 勢 を 目指 す 宝 来 講 に は 、 ま さ に ぴ った りの 中 間 目標 。 平 坦 な 道 が 続 き、 体 力 ・気 力 も まだ十 分 。鼻 唄 混 じ りの道 中 で あ る。 た だ 、 こ の1日 目に は 、三

条 通 とい う難 関 が あ る。 人 々 の好奇 の 視線 に 耐 え 、 こ れ を や り過 ご して か ら、 よ うや く ス タ ー トとい う気 分 に な る こ とが 多 い 。 ま た 「平 坦 な 道 だか ら 」 「ま だ元 気 だ か ら」 と

走 り回 った もの に は、 翌 日以 後 、 き っ ち りツ ケ が 回 って くる こ と も忘 れ て は な らな い。

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出 発

宝来 講 出発 の 朝。 前 日の最終 寄合 を終 えて 、準備 は万 全?の はず で あ る。 史学 科 実 習 室 に続 々 と参 加 者が 集 ま って くる。 江戸 時代 の旅 人の朝 は、俗 に 「七 っ(午 前4時)発 ち」 な ど と い う。 これ はか な り早 い部 類 と して も 「あけ明六 っ(午 前6時)」 は「 般 的 で あ り、 そ れ で も今 よ りはか な り早 い。宝来 講 の朝 は それ ほどで もな いが、午 前7時30分 集合 、8時 出発 。 日頃寝 坊 を して い る者 に は多 少 つ らい。

朝が早 い たあ、 遠 距 離通学 の 自宅生 な どの 中に は、友 人 の 下宿 に泊 ま って くる者 もあ る。

実 習室 を 、妙 に興奮 した あわた だ しい空 気 が包 む。 サ ポー ト車 に皆 の 大 きな カバ ンや荷物 を積 み 込 む者 ・ 自分 の装 束 を っ ける者、 歩数 計 な どを チ ェ ッ クす る者 、思 い思 いに準 備 を整 え る。8時 少 々前 に実習 室 を あ とにす る。法被 、 ひ しゃ く、瓢 箪 な ど をつ け た一 同 が 、 奈良 大 学A棟(本 部 ・研 究 棟) の前 に勢 揃 い して 、セ レモ ニー が始 ま ると、 出発 は 目前 で あ る。

出 発 セ レ モ ニ ー

この セ レモニ ー も、 ただ形式 的 な もの とい うだ けで は な い。 目的 はふ たっ 。近 世 伊勢 講 の形 を借 り るの だ か ら、 そ の背景 で あ る村 共 同体 に も目を 向 けね ば不 完 全 だ。 伊 勢講 に よ る参 宮 の多 くは 講員 の総 参 りで は な く、 くじな どで 選 ばれ た者 だ けが 行 く、 いわ ゆ る 「代 参 」 で あ った。代 参 者 は村 の代 表 で あ り、 参宮 を終 え て村 に帰 れ ば、神 に近 づ い た存 在 と して扱 われ る。 村 と参 宮 者 を 切 り離 して 考 え る こ とは出来 な い。宝 来 講 の場合 、 村 にあ た る よ うな 共 同体 はな いが 、 も っと も 近 い存在 は 「奈 良 大学 」 であ ろ う。 セ レモニ ー で戴 く挨 拶 だ けを 聞 いて いれ ば ピ ンと こな いが 、 こう考 えて み ると学長 先 生や学 部 長先 生 な ど、 い ま まで挨 拶 を 賜 った方 々の 顔 は 、庄屋 さん 、 あ る いは年 寄役 、で な けれ ば宮座 の 一膀(いちろう)…に見 え て こな いだ ろ うか。

そ して ・ い ま ひ とっ 。伊勢 参 宮 に 限 らず 、宗 教 聖地 巡 拝 な どの 旅人 に対 して 、旅費や食事な ど を施す 習慣 が あ る。 「施行(せぎょう)」とい う。現 在 で も四国 で は 「お接 待 」 とい う言 葉 が生 きて お り・遍 路 に対 す る施 しは大 師へ の供 物 、 と考 え られ て い る。 そ こで 、 で あ る。r近 世 の習 慣 を再 現 す る」 との大 義名 分 に よ り、 セ レモ ニ ー に集 ま った 関係 者 か ら、堂 々 と援助 を受 け る(強 要 す る?)こ とが 出来 るの であ る。貧 乏 所帯 の 宝来 講 に と って は、 こち らが 主 目的だ とい う噂 もな い で はな いが、 最近 は内実 を知 った大 学 関係者 が 見送 りに出 て こな くな った 、 とか一?

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サポ ー ト車 へ の積 み 込 み 作業(第3回)

道 中1日 35

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「歴 史 の 道 」

いよ い よ 出発 で あ る。 セ レモニ ー終 了 の後 、先達 の 声 を合 図 に ス ター ト、 さ っそ うと裏 門を 出 る。

全 員 、 これ か ら始 ま る未知 の旅 路 に 向か い 、意気 揚 々 と歩 いて い く。

ふ れんど

裏 門 を 出て す ぐ喫茶 「風恋 人 」前 の 坂道 を登 る。 丘 を越 え て カー ブ の後 、 っ き当た りを左 折 す る。

さい だい じ

約150m歩 くと右手 にの ど か な 田園風 景が 広 が る。 遠 方 に奈 良競 輪 場 が 見 え るほか、 西大 寺周 辺 の景 観 を一 望 に見渡 す 事が で きる。

約700m歩 く と左 手 に全 長275mの 挿 易 皇 后 陵 が見 え て くる。神 功 皇 后 はr日 本書 紀 』巻 第 九 に繋

ながたらしひめのみこと ちゆうあい

長 足 姫 尊 と して記 され る4世 紀 後 半 頃 の 人物 で あ るが 、実 在 した か ど うか は定 か で な い。 仲 哀天 皇 の皇后 で あ ったが、 天皇 崩 御 のの ち、 自 ら軍 を率 いて蕪 襲 ・薪羅 征 討 に赴 いた。 その帰 国後 、 筑紫 (福 岡県)に お いて第15代 誌 聯 天皇 を生 み 、 そ の即 位 まで の69年 間 、摂 政 と しそ 護茜 の括 繍 と共 に政 治 を 行 っ た と い う。

神 功 陵 に連 な る森 が 笛薩it神 社 で あ る。 大学 が 移転 し、現在 の コー ス とな って か らは 、例 年 この 神 社 に立 ち寄 って 、道 中 の安 全 を祈願 して い る。 西側 か ら神 社 へ登 る坂 道 もあ るが それ は登 らず 、約 150m先 左 手 の鳥 居 を く ぐり、神 社 正面 の石 段 を 登 って参 拝 す る。

山陵 八幡神社 参拝

これ か ら伊 勢 まで の約130㎞ の旅 の安 全 を祈 願 す る。 先 述 の よ うに、 村 共 同 体 を背景 とす る近世 の参 宮 に と って 、氏神 へ の道 中安全 祈 願 は、欠 か す ことので きな い行 事 で あ った。 宝来 講 に お い て は 「村 共 同 体 」 も 「氏神 」 も仮 の もの とは いえ 、近世 の旅 再現 を標 榜 す る以 上 、 こ こ も近世 の 旅 人 に な り きっての安 全 祈願 で あ る。 大 学所 在 地(山 陵村)の 氏 神 と は いえ 、我 らの講 は名 前 に

「宝 来 」 を冠 した まま なの で 、若干 の矛 盾 あ り。 実 は大学 が 宝来 町 に あ った ころ も、 隣町 ・菅原 町 の 菅原 天 神 で安全 祈 願 して いた 。 この 点 は 「再 現 」 ゆえ の こ とと して御 理 解願 うこ とに しよ う。

参 拝 の作 法 は、 まず二 礼 し、柏 手 を二 回 打 ち 、最 後 に一 礼 して終 わ る。 一 同 、 こ こで履 物 を微 調 整 し、 この先 の旅 路 に備 え る。

参 拝 が終 わ る と石 段 を降 り、伊 勢 を 目指 して再 び歩 き始 め る。近 鉄 京 都 線 の踏 切を渡 り、最初 の十 字 路 を左 折 、す ぐ 「歴史 の道 」 の石灯 籠 が 立 っ分 岐 点を右 へ登 る。

せいむ ひ は す ひめ

約300m歩 くと前 方後 円墳 に挟 まれ た道 に な る。 右 手 は成 務天 皇 陵 、 左 手 は 日葉 酢媛 命 陵 で あ る。

この 一帯 は礫 盾 列 古墳 群 と呼 ばれ 、重 要 な古 墳 が 集 中 して い る。深 い緑 と濠 に囲 まれ たノJ、径 は、 と きお り 自転 車 や散 策の人 が 往来 す る程 度 。 古代 の雰 囲気 が 満 ちあふ れ て い る。

わかたらしひこ やまとたけろ

第13代 成 務 天 皇 は稚 足彦 天皇 と してr日 本書 紀 』 巻第 七 に記 述 が あ り、 日本 武尊 の弟 に あた る。記 述 その もの は短 いが、 国郡 に造 長 、県 邑 に稲 置 を お いて支 配 した とい う。 ま た 日葉酢 媛 命 はr日 本書

すい にん みのす くね

紀 』巻 第六 に第11代 垂仁 天 皇 の 皇后 と して 記述 が あ る。媛 が 亡 くな った お り野 見宿 禰が 、殉 死 の代 わ りに土 で 作 ったん 馬で 霊 を慰 め るこ とを天 皇 に進 言 、 出雲 国 よ り土 部 を 呼 び寄 せて 土の 人馬 を作 った ことが 埴輪 の起 源 とな った と して い る。 しか し、宮 内 庁管 理 の陵 墓 で あ るた め、考古 学 の成 果 もな く 実証 に乏 しい。

ここか ら、歴 史 の道 の標 識 に次の ポ イ ン ト 「佐 紀 神 社 」の名 が 見 え るの で 、 これに従 って進 む。林 を抜 けて 左 に曲 が ると山上 八 幡 神 社 が あ り、 この前 か らは歴 史 の 道 の 石 標 が 約100m毎 に あ る。 八 幡

36道 中1日 目

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おんまえ

神 社 よ り約300m歩 く と御前 池 が あ る。 そ の手 前 に あ る標 識 か ら、 この標 識 が 「佐紀 神 社 」 を示 す 方 向 と は逆 に ・御 前 池東 側 に沿 って 進 む。 正 面 に佐 紀 幼稚 園が 見 え、 っ きあ た りを左 折 す る と左 手 に 大 社 佐紀 神 社 が あ る。 佐 紀神 社 は御 前 池 を挟 ん で東(字 亀畑)と 西(字 西畑)に 鎮 座 して い る。 佐紀 神 社 の標 識 と は逆 に進 ん だ の に、 ま た佐紀 神 社 が あ らわれ る とは奇妙 な もの で あ る。

あめのこや ね ふ っ ぬし むり のみあがた

佐 紀 神 社 の祭 神 は天 児屋 根命 ・経 津主 命 ・六 御県 命 で あ るが、度 会延 経 のr神 名帳 考証 』 は道 祖 神 とす る・ 社 伝 に よ る と、天武 天皇2年(673)に 鎮 座 し、超 昇 寺(現 廃 寺)の 建 立 に伴 い鎮守 神 と して 尊 崇 され て いた が 、治 承4年(1180)と 天 正6年(1578)の 両 度 、兵 火 に よ って 焼 失 した とい う。 江戸 期 の古 図 に は 「二条 宮 」 とあ り、r大 和 志 』 に は大 宮 と称 した とあ る。 西畑 にあ る同名 社 は江 戸 期 の古 図 には みえ ず 、r平 城 旧社 考 』 で は亀 畑 の社 か ら分 祀 した と伝 え て い る。 江 戸末 期 に分祀 され た ので あ ろ う。

りゆ うこ う

また 、佐 紀 幼 稚 園 の裏 手 に は隆 光 大 僧 正(1649〜1724)の 墓 石が あ るが 、正 面 か ら見 えず 、 案 内板 が道 沿 いに立 って い る。

大 社 佐紀 神 社 よ り約150m歩 くと右手 に平 城 宮 跡 が 現 れ る。 こ こが平 城 宮 跡 の 北端 で あ る。 宮跡 に 沿 って約100m歩 くと三 叉 路 に 出 るが、 それ を 左 へ 進 み 、 み や と通 り(歌 姫 街道)に 出て 右折 す る。うたひめ

約200mで 佐紀 駐 在 所 横 の交差 点 に 出て 、 信 号 を 渡 り、平 城 宮跡 内 の遊 歩 道 を 歩 く。

平城 宮 は、和 銅3年(710)に 藤原 京 よ り遷 都 、造 営 され た平 城 京 の大 内 裏 で 、 東西1.3km、 南 北1 kmの 広 さが あ った。 大 極殿 お よ び朝 堂十 二 堂 の 土壇 が復 元 され て い る。 昭和34年(1959)よ り発 掘 調 査 が行 わ れ ・現 在 も続 いて い る。 瓦 ・土器 ・箸 ・櫛 ・ま げ ものの ほか 、i大 な量 の 木簡 が 出土 して お り、

今 後 の 成果 が 期待 され る。

遊 歩道 は近 鉄奈 良 線 の 手前 で 東 に 向 きを 変 え 、 みや と通 りに合 流 して踏 切を 渡 る。池 を配 した シル クロー ド博記 念館 を右 手 に見 て 、 約250m先 の 路 地 を左 折 し、蔵 の 目立っ 狭 い道 を行 く。 左 手 に正 行

古代 と現代の接点 を歩 く

平城宮跡 の道を行け ば、あたり一面か古代遺 跡の宝庫 。 しか し最近話題とな ったのは、こ み箱撤去 問題であ った。 ごみ箱 があるから観 光客や市民 かごみを残 していく。い っそ撤去 して しまえば持 ち帰 ってくれるの では一 とい う発想か らの 「作戦 」である。その後の成果 も まず まず とか。一方、宮跡南部 には近鉄奈 良線か通 っており、最長10両の電車 か頻繁 に 行き来する 。 「古代 宮跡」と 「ゴミ問題」

「古代宮跡 」と 「ラ ッシ ュアワー」 まさ に

「古代」 と 「現代 」かここに接 している。

寒艇蹴 平 城 宮 跡 を行 く(第3回) 沿 道 の ま ち① 奈 良 市(奈 良 県)人 ロ357,302所 帯数124,380面 積211.60k㎡

(人 ロ 、所 帯数 な どの デ ー タ は 平 成5年11月 末 〜12.1現 在 。以 下 各 市 町村 とも 同 じ)

沿 革 〕 明治22年 町制 、 同31年 市 制 施 行 。 そ の 後 合 併 で 次 々 と市 域 を 拡 大 、 昭和32年 現 在 の 市 域 に 。

概 況 〕西 部 は住 宅 地 、 中心 部 は 旧市 街 地 、 東 部 は 山 間 地 域 。広 大 な 市 域 の 大 部分 は こ の東 部 に属 する 。

街 道 〕 西 か ら 市 街 地 へ は 暗 越 奈 良 街 道(三 条 通)、北 か ら は 京 街 道(奈 良 坂 越)、南 か らは 上 街 道(伊 街 道 ・初瀬 街 道)や 中街 道(高 野 街 道)、 東 か ら は伊 賀 街道(奈 良 坂 で 京 街道 と合 流)と 、 ま さ に四 方 か ら道 か集 ま る 。宝 来 講 では 、市 域 非 端 か ら暗 越 道 、上 街道 を通 って 、 南 の天 理 市 へ 抜 ける 。

道 中1日 37

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ながや おう

寺 、北新天 満 宮が あ り、正面 に は奈良 そ ご うが見 え て くる。 建 設 の 際 に多 数 の木 簡が 出土 、 長屋 王 の

てんむ ふ じわらのふひ と

邸 宅 跡 と して脚 光 を浴 び た。 長 屋王 は天武 天 皇 の 孫 と して 生 まれ 、 養 老5年(721)藤 原 不 比等 の死 後 の右 大 臣、神 亀 元 年(724)聖 武天 皇 即位 と共 に左 大 臣 とな り、藤 原 氏 に対 抗 す る勢 力を な したが 、天しようむ

おおみや

平 元 年(729)密 告 に よ り自殺 した。 この奈 良 そ ご うの 西 北角 で 国 道24号 線 大宮 バ イパ スの 高架 を く ぐ り右折 、24号 線 の 東側 歩 道 を南 へ進 む。

大宮 通 り(阪 奈道 路)と 交 差後 、三 条 大路 二 丁 目交差 点(奈 良 シテ ィホ テ ル前)を 左 折 、三 条 大路 (県道1号 線 く鱈 り遽 奈良 街 道)に 入 る。 こ こよ り鎌 施 まで は、 三 条 大 路 の旅 で あ る。

この道 は、幕 府 か ら脇 街道 に指 定 され て い た。享 和 ・文 化 年 間(19世 紀 初頭)に 幕府 が 製作 した分ぷん けん か ぶとこえな ら みちみ とりえ ず

間絵図(r加 太 越 奈良 道 見取絵 図』)が 残 され て お り、非 常 に質 の高 い参 考資 料 にな る。

暗 越 奈 良 街 道

三 条大 路 は古代 よ り存在 す る古 い道 路 で 、平城 京 の 時代 に は都 城 の 中 の 主要 道 と して、 またそ の 延 長 は難 波地域 へ の 最短 距 離 と して重 要 視 され た。 中世 以後 は 暗越 奈良 道(奈 良側 で は暗越 大坂 道)と 呼 ばれ 、豊 臣期 に本 格的 に整 備 され た 。江 戸 期 に は玉造 二 軒 茶屋(現 在 のJR大 阪環 状線 玉 造駅 東側)が 起 点 とされ 、参 勤交替 や大 坂 〜奈 良 間の 物 流 商業 路 、 ま た奈 良 の諸寺 や 長谷 寺 へ

の参詣 路 、伊勢 参 宮 の道 と して もに ぎわ った。

玉造 を 出た道 は、 国道308号 線 と近鉄 奈良 線 の中 間付 近 を東 進 、 深 江 、松 原 な どを 経 て生 駒 山 系 に突 き当 た る。 これ を一気 に登 るの が暗 峠 の道 で あ る。生 駒 山 系 は西側 に険 し く、東 側 に穏 や かな ので 、東進 す る と きの厳 しさはひ と しお だ。 峠 の頂 上付 近 が大 阪 ・奈良 県境 にな るが 、 当時 の面影 を偲 ばせ る石 畳 が残 って い る。下 り道 は登 り道 ほ どの 険 しさ もな く、や がて近 鉄 生駒 線 ・ 国道168号 線 の通 る生 駒 谷 に下 りて くる。 これ を横 切 って 今 度 は橦 ノ木 峠 を登 り、矢 田丘 陵 の 北 端 部 か ら富 雄 谷 へ 向 けて下 る。 この 途 中 に は 「追 分 」 とい う地 名 が残 り、郡 山方 面へ の 道 を分 け る。茶屋 本 陣 や道 標 も建 って い る。 さ らに下 って 、砂 茶 屋 で 富r..;を 渡 る。 東坂 、宝 来 と東 進 、 尼 ヶ辻 で近 鉄橿 原 線 と交 差 、 旧都 跡 村 内 を一 直線 に進 ん で三 条 通 に っ な が って い る。

宝来 町 旧キ ャ ンパ ヌ時 代 の宝 来講 は 、垂仁 天 皇 陵西 側 付近 か ら この道 に 入 って いた。 また、 今 で も足 な ら しと して 、毎 年本 番前 の 時期 に、額 田〜奈 良(約19㎞)を 歩 くことに して い る。

玉造稲荷神社

玉造 鶴橋

蓬苗

樵 ⑫ 宝 蘇 茶 屋

追分

近椌ノ木峠小瀬

生駒南生駒

¥ ︑ 晦 ∠ ) ズ 鰐

豊浦水走松原

鉄奈 大学

近鉄奈良

猿 沢池 上 街 道

三 条 大 路

現 在 の三条 大 路 は 、 自動 車 の往 来が 激 しい。 歩道 もあ るに はあ るが 、 申 し訳 程度 の整 備 状態 で 、歩 行者 に とって は非 常 に歩 きづ らい。 しば し我 慢 の旅 とな る。

こもがわ

まず菰川 橋(菰 川)を 渡 る。 しば ら く行 くと、左 手 に県 営 プ0ル が あ り、変 電 所前交 差 点 を越 え 、 窩橋(さ ほ佐 保 川)を 渡 る。佐 保 川 も古代 よ り存 在 す る古 い川 で あ る。 平 城 京の 排水 路 と して 、右 京 の萩

しの

篠川 と ともに重要 な役 割 を持 ってい た。

さか え しらふ じ

三 条栄 町交 差 点を 直進 し白藤高 校前 を 通 り、JR関 西 本線 の 踏 切を 渡 るとJR奈 良 駅前 の広 場 北側 に出 る。 広場 に は2基 の常 夜 灯 が立 って い る。 南側 は文 久2年(1862)に 建 て られ、八 幡大 菩 薩 ・天照

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ヨ 嚇

常夜燈'口 JR奈題=コ

π

=浄教霊巖院=

隈 陣 ﹁ 獺

念圭

条町

村酒造

話二=

「 道 皇大 神 ・春 日大 明神 の 神 号 が三 面 に刻 まれて いる。北 側 は文 化11年(1814)に 建 て られ、火 袋石 前 面 に金 比羅大 権 現 の神 号 を刻 み、竿 石 に 藤栄 講 、台石 に三 条西 町 ・三 条 村 中 、 そ して墨屋 治郎 兵 衛 を筆頭 に寄進 者の名 前 が刻 ま れ て い る。

条 通

JR奈 良 駅前 の交 差 点 を渡 って、三 条通 商店 街 に入 る。

奈良 市街 地 で最 大 の繁 華街 で あ り、銀 行 ・ホ テル ・書店

・レス トラ ン等、現代 の新 しい建物 と、清酒 ・骨董 ・筆 墨 ・漢 方 薬 ・大 和茶 ・奈 良 漬等 を商 う老 舗が 混 在 して 、 独特 の賑 や か さがあ る。 近年 、 歩道 の整 備が 行わ れ 、新 しい店 舗 の進 出が 激 しいが 、昔 なが らの老 舗 も多 い。 少 し詳 し く見 て み る こと に しよ う。

JR奈 良 駅前 の交 差 点 を過 ぎる と、 ダイエ0、 ニ ノ ミ ヤ 、 ジ ョー シ ンとい った大 型 店舗 の並 ぶ一 郭が あ る。

の あた りに は近 世の建 物 は見 当 た らな い。初 めて街道 ら しい家 並 が見 られ るの は 、JR駅 前 の交 差 点 か ら200m ほ ど進 ん だ付 近 にな る。 道 の右 側 に清 酒r男 窺 童の 岡村 酒造 と、漢 方 薬 の菊岡 が 古 い店 構え を残 して い る。 岡村 酒造 は近年 ガ ラス戸 や 店 内 を改 装 したが 、従来 の 建物 を う ま く生 か した部類 と いえ る。 菊岡 の店先 にあ った 「縛 本家 き くおか 」の石 標 は、残 念 なが ら、平 成4年(1992) 春 の 自動 車 突入 事故 で 折 れて しま ったが 、店構 え は事故 前 その ま ま に復 元 され た。

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東向商店街(東向通)

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三 輪 ・伊 勢 へ

奈良市街 奈良町

0100m

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道 中1日

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菊 岡の 店 先 に は覆 堂の かか った地 蔵 が あ るが 、r加 太越 奈良 道見 取絵 図 』 の三 条村 付近 に もそれ ら しき小祠 が 見 え て い るので 、 この あ た りか らが 近世 の 三 条村 に な るので あ ろ う。 この一 郭 を通 ると き は菅笠 、法 被 に草:.%̲/.きが妙 に絵 に な る。 しか し、宝 来 講 を知 らな い人 々 に と って は、仮装 行 列の よ よ うにで も見 え る ので あ ろ う。 冷 や かな視 線 ・冷 笑 ・苦 笑 を い ただ くこ とに もな る。

かいか

JR駅 前 か ら約300m歩 くと、 左 手 に開 化 天 皇 陵 が あ る。 開 化天 皇 は第9代 天皇 で、r日 本書 紀 』 巻第 四 に記 述が あ るが 、事 績 の 記 述 はな く、 そ の存在 が 疑 問 視 され て い る。

ホ テル フ ジタ奈 良 、NTT奈 良 営業 所 、 奈良 銀 行 な ど 、比較 的大 きな ビルの 建 ち並 ぶ 中を抜 ける と 、 左手に真宗本願寺 派あ藩籔無 右手に真宗大谷派の鞘 寺があ る。近世の奈良町絵図を見 ると、 この 一 角 は 「寺 町 」 の よ うにな って い るのが わ か る。

正面 に信 号 の あ る交差 点 が見 えて くる。 「や す らぎの道 」で あ る。左 側 、交 差 点北 西角 に 「奈 良市 観 光セ ン タ0」 が あ り、ノト休止 す る。 ここで 草 鞍 の者 はそ の履 き具 合 を確 か め 、調 整す る。 市販 の 草 鞍 の 中 に は、 こ こで 早 くも使 用不 能 、 と い う例 が あ った 。 ち なみ に、 こ こは旧奈 良 郵便 局 の跡地 で あ る。局 舎 が 手狭 に な った が増築 の用 地 が な く、周辺 の道 路 も混 雑 が激 しくな って きた た め、大 宮地 区 へ 移 転 した 。 同 じよ うな 事情 で 、 旧市 街地 か ら大 宮 へ 移 転 す る公 共施 設 が 多 く、 奈良 町03策 等 罧 た あ った市 役 所 も移 転 して 、跡 地 は 「な らま ち セ ンター」 とな って い る。

再 び歩 き 出 して 「やす ら ぎの 道 」 を横 断 す る と、 また小 規模 な商店 が並 ぶ。骨 董 の珍壺 亭 、筆 墨 の 一 心 堂、 大 和 茶 の仲 家 、中室 金 物 店 な どが 、古 い建物 で 残 って い る。改 装 で若 干 手 を入 れて いるが 、 奈良 漬 の今 西 本 店 、 ぜ いた く豆 本 舗 も、 建 物 自体 は古 か ろ う。意 外 な の は三 条会 館 レ ジャー ビルで あ る。奈良 大 生 に は 「天 まで あ がれ 」三 条 店 、 とい った方 が馴 染 みの 建物 か も しれ な い。 表 か らは気 が っ かな い が 、側 面 や 裏側 を見 る と、年代 物 の ビルで あ る こ とが わ か る。

右 側 に 紫 色 の 外 装 も毒 々 しい シネマ デ プ トを 見 て進 む と・十 字路 に出 る・左 側 に に 「さ くら通 り」

こ に し

(1992年12月 に 小 西 通 か ら改 名)の ゲー トが あ り、 これ を 北へ 抜 けれ ば近 鉄奈 良 駅 へ 出 る。反 対 に 、 この辻 か ら南 へ 向 か う道 は箪 街道 。 この先 、Lt芦 ・朱 蓬 ・橿笛 を経 て 国道24号 線 の西側 に並行 し、入

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三条通 菊岡 の店構え

朱(儲 市)・量(雛 郡高取町)・縫 茉(鵠 郡薙 町).糀(吉 野郡下市町)方面や孟

じよ う こうや

条(五 條 市)、 高野 山(和 歌 山県 伊都 郡)方 面 へ 至 る道 で あ る。高 野 街道 と も呼 ばれ 、上 街道 と とも に奈 良 盆 地 の南北 交通 を担 う重 要 な街 道 で あ った。 辻 か ら南 へ2軒 目東側 には、朱塗 りの 鳥居 と棚 が

目立擢 翻 と延命地蔵尊がある。 ビノレ群 に押 され気味の小 さ腔 間である爪 延命地蔵の樽.木 造 半蹴 像 は13世 紀 前半 の作 とい うか ら、 奈良 の奥 深 さを知 ら され る。

さ らに 直進 す ると、 右 側 に道 か ら少 し下 が って 大 きな ゲ ー ムセ ンター‑rADYURAKU」 が あ り、 その 少 し先 の左 側 に は、優 雅 に して豪 壮 な南都 銀 行 本店 が建 っ 。 この 東側 の角 の丁字 路か ら左 に入 るアー ケー 附 きの道 は蟹隔 店街で、これを抜 ければ近鉄奈良駅の東 ・ ・襟 罐 の噴水前 に出る.丁 字 路 を直 進 す るとす ぐまた 丁字 路が あ り、今 度 は右 に 同 じよ うな ア ー ケ.̲̲.̲ドの商店街 が あ る。 もちい ど の セ ンタ.̲̲.街(餅飯 殿 通)で あ る。 この あ た りが桔 朱 町 で 、 江 戸 時代 に も奈良 の 中心 地 と して栄 えて

こう さつ ば

い た・ 当 時 は高札 場 が設 け られて お り、道 の左 側 に は当 時 を 再 現 して 高札 が掲 げ られて い る。

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r加 太 越奈 良 道 見取 絵 図 』 道中1日 目41

(9)

餅 飯殿 通東 側 の角 は、現 在 空 き家 とな って いるが 、木造 三 階 建 てで 一見 旅 館 風 の建 物 で あ る。 この 空 き家 と東 隣の 春 日物産 との 間 、 自動販 売機 の横 に奈良 市 道 路元 標 が あ り、近 代 に な って もこ こが奈 良 の道 路 の基 準 点 で あ った こ とを物語 る(㊥)。

橋本 町 の東 側 は種 笄 町で 、 翼播 寺 ・暮 告大社 や 初勢 ・i3ttに通 じる上 街 道 の 入 口 に位置 す る こ とか ら、江 戸 時代 には多 くの旅 籠 が建 ち並 ん で いた。 寛文10年(1670)の 史料 に よ る と、 町 内 に11軒 の旅 籠 が あ った とい い(獺 碗 通史3)、文 久2年(1862)のr浪 花講 定 宿 帳 』、 明治15年(1882)改 正 のr一 新 講 定 宿 帳』 に、 「小刀 屋善 助 」 の名 前 が みえ る。

うねめ

道路 元 標 よ り約100m行 くと、 前 方の 視界 が ひ らけ 、猿 沢 池 の ほ と りに出 る。 手 前 の采 女 神 社 角 を

な ら まち

右折 し、池 の 西側 を 南下 して 、 いわ ゆ る 「奈良 町 」 に入 るが 、宝 来講 一 行 は池 の ほ と りで 小休 止 と し て いる。池 越 しに興 福寺 の緑 が 見 え 、五重 塔が 顔 をの ぞか せ て い る。 いか に も奈良 、 とい う光 景 で あ

るた め、 テ レ ビ取 材 の あ った第1回(1986)で は、塔 を背 景 に歩 いて ほ しい と い う注文 が 付 いた。

出発 が早 く朝 食 抜 きの者 も多 いた め、 ここで サ ポー ト隊 か らお に ぎ りの 配 給 が あ る。

上 街 道 の 旅 ・ 奈 良 町

い さ

再 び出発 、 猿沢 池 の西 ほ と りを歩 き、2基 の 常夜燈 の 間 を抜 けて 、率 川 に架 か る小 さな石 橋 を渡 る。

こ こが初 瀬 へ 向 か う上 街道 の起 点に な るので あろ う。現 在 の常 夜 燈 は大 正9年(1920)銘 の ものだ が 、

「燈籠 講 」の 旅籠 案 内本(明 治 初 期)や 一 新 講定 宿 帳(明 治15年 、1882)の絵 図 に も同 じよ うな 常 夜 燈 が 描 かれ て い る。r大 和 名 所 図会 』(寛 政3年 、1791)には その 描写 が な い こ とか ら、絵 図 の常 夜燈 は 江 戸後期 に建 て られ 、現 在 の もの は その再 建 と思 われ る。 また 、石橋 の 橋 脚 に は 「明和 七年 庚 寅 五 月 吉 日」(1770)、 「椿 井町 施 主嶋 屋嘉[]」 銘の 石柱 が使用 されて い る。 率 川 の 流 れ の 中 に は、船 型 状 の小 さな 中洲 が あ って、 た くさん の石 仏が並 べ られて い るの も目を 引 く。

いまみ かど

率川 を渡 る と今御 門町 に入 る。 奈良 町 は現在 、奈良 で 最 も古 い町 並 を残 して い る地 域 で 、景 観 保 存 に も力 を入 れ て い る。景 観 に配 慮 して ア ス フ ァル トを土 色 と して お り、奈 良 市 街地 各 所 で 見 か け る、

春 日大 社 の 吊燈 籠 を模 した 街灯 も、最 初 に導入 された の は この付 近 で あ っ た。 少 々進 む と、道 は幅3 mほ ど にな る。近 世 の町場 の 中で もかな り狭 い道 だ ったの で あ ろ う。大 人 数 の 宝 来講 が 通 る と、軒 先

に触 れ そ うな感 じさえす る。 左 手 に猿 田彦(道 祖)神 社 の あ る辻 で 、 道 は 少 々東 に食 い違 って さ らに

しよ うtlみ

南下 、勝 南 院 町 に入 り、 旅館 ・料理 屋 ・食 料品 店 な どの並 ぶ 町 を抜 け る。 この 付 近 に は、 近世 の建 物 がかなり残 っている。窪雛 手の残 る家 も見 られる。

都市計画道路彩撃醗窩嫡線 をわたると箪薪崖町に入るが、 この交差 点東南角 に新 しい道標が立 って い る。 さ らに進 む と また古 い町並 が残 り、家 々の軒 先 に は庚 申信 仰 に よ る く くり猿 が 吊 り下 が って い る。左 側 に は町家 の 現代 的 再 生を 模索 して新築 された 「うずらや鶉 屋倶 楽 部 」 、飾 り出窓 の あ る藤村 家 な ど、

右 側 に は老舗 の旅 館 「は り新 」 な どがあ る。 やが て道 は丁 字 路 に突 き当 た る。 正 面 は菊 岡工芸 で 、奈 良 の工 芸 品 を取 り扱 って い る。奈 良 町 には良 く似 合 う店 構 え で あ る。

丁字 路 を左 折 した上街 道 は、菊 岡工 芸 の2軒 隣 の辻井 薬 局 角 です ぐま た右 折 し、 再 び南 を 向 く。 左

ざ らし

手 に吉 田蚊 帳㈱ が あ るが 、蚊 帳 は江戸 時 代 に繁 栄 した 「奈 良 晒 」 の流 れ を くむ奈 良 の特 産 品 で あ る。

この 先の 出屋 敷 町付 近 に は今 も蚊 帳工 場 が並ぶ 。

42

(10)

道路元標

明治政府の道路管理策の中で、諸街道の里程取調 の基準 点 とな っていたのか道路元標である。明治6年(1873)12月20 日太政官達第413号 に 「(前略)東 京は 日本 橋、京都は三 條橋 の中央を以て国内諸街道規程 の元標となし大阪府及各 県 はその本庁所在地 に於て四達枢要の場所へ木標を建て之 を管 内諸道規程の元標 と定む可き事、但東京京都両府は国 内諸街道の元標を以て管内諸道の元標 と致す可き事、各府 県共管轄地界へ木標を取建てる可き事(後 略)」 とあ り、

道路 元標が建 っている道は明治初期に街道であ った こと、

当初の材質か木であ ったことがわかる。元標が石造にな っ たのは、大正8年(1919)4月11日 のr道 路法』公布 に伴う

『道路元標二関スル件』(大 正11年[1922]8月18日 、内務 省 令20号)で 「道路元標ニハ石材 其 ノ他 ノ耐久性材料 ヲ使 用 スヘ シ」 「道路元標ハ別記様式 二依ルヘシ」と形 状 ・寸 法 を示されてからであり、またその位置も 「位置 ヲ表示 ス ル為 道路二面 シ最近距離二於 イテ 路端二建設 スヘシ」と規 定 している(嚇 元髄i鞠て』)。

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上 街道 と上 ツ道

上街道 は、奈良町から天理を経て、三輪までほほ一直線に南北 に通 じている道である。この道を南へ 行 くと、天理市の南部で奈 良期の計画道路 ・上 ツ道 と重な っている。

平城京 と藤原京を結ぶ道 として、下ツ道 ・中ツ道 ・上 ツ道が計画 された。下ツ道は平城 京の朱雀大 路よ り、中ツ道は左京四坊よ り、 また上 ツ道は左京七坊 より、2.1km間 隔で並行 しなが ら南へ た どる 道であ った。上 ツ道の天理以北は 山地となるのでプラ ン上の道 と考 えられているが、実際 の道は山地 を避け て西に寄っていたと思われ、この部分も上街道 と重なっている可能性がある。

近世奈良盆地の街道も、西か ら下街道 ・中街道 ・上街道で名称は奈 良期と似ている。上街 道は上ツ 道 と重なる ことからこの名があるようだが、そのほかは名称 に関連性 がない。下 ツ道は 中街道 として 主要道の地位を保 ったが、中ツ道は橘街道 と呼ばれる地 方道にな り、利用 は少 なか った。

奈良町 と庚 申信仰

奈 良町は、元興寺の旧敷地内にできた町である。平城 遷都 に伴 って藤原京 から移築された元興寺 は、

宝 徳3年(1451)の 土一揆 と天 文元年G532)の 一 向一揆でほほ廃虚 と化す 。永禄 〜天 正頃(1528〜92) にかけてここに民家が建ち並 び、奈 良町の基 礎が作られた。江戸期に入 り泰平の世 とな って商業 が発 展 してくると、建 吻に対する様 々な要求が生まれ、現在 の町家の原型か できた。現在の町家は、間 ロ が狭 く奥行の深い敷地、道路に面 した平入りの 主屋(母 屋)、 その裏 に坪庭、そ して廊下でつな がれ た離 れや蔵かある、という形式 であ る。この町屋 は、奈 良町の中でも特 に中新屋町 ・西新屋町 ・芝新 屋町地域 に多 く残 る。

菊 岡工芸の突き当た りから、上街道を離れて右へ少 し行 くと、奈良町資料館の出ロがあ り、町木戸 が再現 されている。館内には館の所有者 ・南氏の美術 コレクシ ョンのほか、江戸期か ら明治期 に使用 さ れた民具 や看板、そ して庚 申信仰に関する品々 が展示 されている。資料館の前をさらに進み、左 折 す ると庚 申堂があらわれる。 この御堂が奈 良町の庚 申信仰の中心 とな って いる。

庚 申信 仰は、中国の道教の影 響を受け、中世以来各地で行われた。十干の庚 と十二支 の 申の組み合 わ さる 日が庚申の 日で、60日毎 に巡 ってくる。 この 日、人間の体 内に潜む三P(さんし)の虫 が睡眠 中に 抜 け出 し、天に昇って天帝に悪事を告げ、報告 を受 けた天帝はその人の寿命を縮めると言われて いる。

そのた め、この 日には当番の家 に集 まって夜 を明 かし、帝釈天 ・青面金剛 ・猿田彦等 の神を祭るほ か、

三Pの 虫が嫌がるというこんに ゃくを、天帝の いる北 を向いて無言で食べ、虫か抜け出すのを防 ごう とした。また、寿命 を縮められぬ ように申のぬ いぐるみ をつく り、 くくり猿(身 代わり猿)と して身 代 わりにした り、庚 申塚を建てた りした。江戸期 には、 この庚申を中心 として数多くの講ができ、頼 母子 なども行 って、相互扶助機関の役割も果た した。奈 良町では青面金剛を杞 ってお り、像は丈45㎝、

室町期 から伝わる木彫彩色像である。

道 中1日 43

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100mほ ど進 む と、 左 側 に発 萸 寺塔 跡 が残 る。 元 興寺 は藁 縫 元 年(588)、 藻 萸 寺(築 鳶 等)と して 飛 鳥の地 に 建 て られ たが 、平城 遷都 に 伴 って 霊亀2年(716)奈 良 に移 り、 現在 の難 醗 町 ・猿沢 池東 通.蘂 麺芝 茜 町.誹 鍛 通に 囲 まれ た 東西2町.南 北4町 の広 大 な地 に中 心伽 藍 を建 立 し、 この 際 に 元 興 寺 と名 を 改 め た。 当時 は南 都 七 大 寺 の ひ とっ と して、 東 大 寺 に次 ぐ高 い寺 格 を誇 る寺 院 で あ った が、平 安遷 都 以 後次 第 に勢 力 を失 い、 わず か に奈 良期 の僧 智 光 の描 い た極 楽浄 土 曼茶羅 を 中心 とす る 浄 土宗 の 道 場 と して、 庶 民信 仰 の よ り ど ころ とな った。宝 徳3年(1451)の 土0揆 と天 文元 年(1532)の 一 向一揆 で ほ とん ど廃 虚 にな り、 現 在 で は極 楽坊 ・観音 寺 ・十輪 院 の建 物 の みが残 って い る。

ごりよう

左側 にあ らわ れ る土 塀 は御 霊 神社 の もの。奈 良 町の氏 神 で あ る。 この 先 の辻 で 、道 は若 干 西 へ食 い 違 って い る。 少 し進 む と、右 側 に洒 落 た建 物 の元 興寺 郵 便局 が あ る。 この郵 便 局 は奈良 市 内 で も っと も古 く、 局舎 も時代 を 感 じさせ る もの で あ ったが 、昭和63年(1988)に 建 て替 え られて 、現 在 の 局舎 と な った。 古 い郵 便 局 は 旧街 道 沿 いに あ るこ とが 多 く、 旧街 道 を 捜す さいの 目印 に もなる。

ちゆうじようひめ

右 側 に並 ぶ 古 い民 家 を 見 て 、 十 字 路 を ひ とっ 過 ぎ る と、 右 側2軒 目に 中 将 姫霊 場 の 石 碑 の あ る 嵩 秣寺 が あ る。 この付 近 が11̲1̲̲町で 、江 戸 時代 か ら書 き続 け られ て い るr井 上 町 中年代 記 』 の 町 と し て知 られ て い る。第6回(1991)の 時 は、 マ ンシ ョン建設 反 対 の看 板が 目立 って いた。近 世 的 な 町 の機 構 に とって 、 マ ン シ ョ ンは大 き な脅 威 で あ る。 また、道 の 左 側 、循 環 道 路 の手 前一 帯 の広 い さ ら地 は

「国際 交 流 セ ンター」 の 用地 で 、 これ もまた 町の機構 に大 き な影響 が あ ろ う。 この先 ど うい った展 開 にな るの か 、 関心 を寄 せ た い。

京 終

なかっじ

循 環 道 路 を 渡 り、 中 辻 町 に入 る と、 こ こまで の 町並 よ りは 、若干 密 度 が うす く感 じられ て くる。 家

かいのつか

屋 と家屋 の あ いだ に空 間 が増 えて きた た めで あ ろ うか 。 さ らに進 む と肘 塚 町 に入 る。道 の 東 半 分 を 占 拠 した よ う に鎮 座す る祠 は補 萌 神 。文 字 通 り椚 の木 を祀 って い る。家 並 を抜 け た ところ に流 れ るのが

の と

能 登 川で 、 これ を渡 る と道 幅 が 若 干広 くな る。 この右側 に常 夜 灯 が2基 立 って い る。 と もに文 政13年 (1830)銘 にな って お り、 向 か って 右側 の もの は 「金 毘羅 大権 現}、 左 側 の もの は三 面 に 「天 照 皇大 神 宮 」 「春 日大 明神 」 「八 幡 大菩 薩 」 と刻 ん で い る。文政13年 に は大規 模 な お か げ まい りが お こ ってお り、 それ にか か わ る もの と して 重要 な もの で あ る。能 登 川 は奈 良 の 町の 南端 と されて い た よ うで 、 こ

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r大 和名 所 図 会 」 44

(12)

の あた りを策霧 を 呼 ん だ。 現在 もこの地 名 が残 って い る。

げんほう

常 夜灯 よ り100mほ ど進 む と、 左 側 に不 動 明 王石 仏 の祠 堂 が あ る。 これ が 玄肪 僧 正の腕 を埋 め た 塚 で あ る と いわ れ る こ とか ら、 「肘 塚 」 の地 名が っ い た と され る。 玄 防 は遣 唐使 と して唐 に渡 り、法 相 の教 学 を極 め た高僧 で あ る。 また 、 この不動堂 の境 内 に は付 近 の街 道 沿 い にあ った と思 われ る石 造 物 が集 め られて お り、道 標 の ほか 、六 字 名 号碑 、 回国 供 養碑 、西 国 三 十 三所 供 養碑 な どが あ る。

帯 解

京終 を過 ぎ ると、 右手 にはJR桜 井線 が 並行 し、市 街地 を 離 れ 田 園風 景 とな る。左 手 に は工 場 が並 ぶ が 、 特 に蚊 帳工 場 が 目につ く。 先 述 の よ うに、 奈 良 晒 の 系統 を ひ くもの で あ ろ う。最 近 で は 同 じ

「透 け物 」 の故 か 、 レー スの生 産 も多 い よ うで あ る。 上 街 道 はひ たす ら南 へ進 む 。岩井 橋(岩 井 川) の手 前 、 右側 に地蔵 堂 が あ る。

300mほ ど進 む と島崖 籔 で 、小 規 模 な集 落 が あ る。 誇輩 酒店 の 向 か い に建 つ 井 上 家 は、 竹 を格 子 に 使 った め ず ら しい外 観 で あ る。 これ を過 ぎる と しば ら くは町並 ら しい町並 もな く、建て売 りな ど の新

な がい

しい住 宅 と事 業所 、 それが 途切 れ る と水 田が のぞ く、 とい った風 景の繰 り返 しに な る。永 井 に入 って また小 さな集 落 が あ るが、 これ もす ぐ途切 れ 、 田園風 景 とな る。 とて も奈 良 の近 郊 を歩 いて い る と は 思 え な いの どか さで あ る。

岩井橋か ら約2㎞ 、亀畿暁橋(地 蔵 院川)を 渡 ると箒酵の集落に入 る。帯解 は典型的な丘陵街村で あ り、帯 解 と い う地名 も、 「帯 の よ うに長 い峠」 を意 味す る 「帯 峠(お び と うげ)」 の転uCLと考 え ら れ る。

橋 を渡 る とす ぐ、右 側 に子 安 山帯 解 寺(帯 解子 安地 蔵 尊)が あ り、 こ こで 小 休止 を とる。 この 寺 は r一大 和名所 図会 』 に も記 載が あ り

、 そ の ほ とりに は地 蔵 院1ゆ 流 れ も描 写 され て い る。 平安 時代 、笠

と く

徳 天皇 の 皇后 が 懐胎 した折{こ の地 蔵 尊 に祈 願 して 清 和 天皇 を安 産 した と伝 え られ る。 このた あ に古 来 安産 祈願 で知 られて お り、帯 解 寺 の名 も この故 事 に よ る。 本 尊 は鎌 倉期 の 作 といわれ る木彫 半 蹴 像 の地 蔵菩 薩 で 、国 の重 要文 化 財 に指 定 されて い る。

休 憩 を終 えて上 街 道 へ戻 る。 小 さな坂 を上 が って 十 字 路 を越 え る と、奈 良 町以 来 ひ さび さの落 ち着 い た町 並 とな る。 しか し、 ほ どな くこれ は途 切れ 、 前方 が 開 けて くる。左 側 に は宝寿 山龍 象 資聖 禅 寺 が あ り、帯 解 地蔵 奥 の 院 と称 して い る。 この前 で道 は短 い下 り坂 とな り、丘 陵 は終 わ って い る。 再 び 田園 地帯 に 出た道 は、 ま っす ぐに南 下 を続 ける。

蔵 之 庄 大和 棟 の集 落

帯解 を過 ぎ ると、 道 の右側 は水 田が 開 け、左 側 に は新 しい住 宅 が並 ぶ 道 とな る。 しば らく行 くと右 側 に も家が 並 び は じめ 、 田中町 の 集 落 に入 る。 街道 の右 側 に沿 って い る民 家 は、 すべ て街道 よ り一段 低 く建 て られ て い る。 この よ うな 景 観 は、 低 い と こ ろに あ った道 に合 わせ て 家 を建て たあ と、 改修 で 道 が 嵩上 げ され てで きあが る ことが多 い。道 の左側 に較 べ て 、 右側 に は古 い 家屋 が多 いの で、 こ こ も その よ うな経緯 に よ る もの と思 わ れ る。 その右 側 の家 を よ く見 て い くと、軒 に看板 吊 りの残 る家(高 原 家)が あ る。同 家 は かつ て薬 種 商 を営 ん で いた。 こ こに吊 られて い た看 板 も保 管 されて い る。

道 中1日 目45

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大和棟の住宅

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帯 解 よ り約1㎞ 、高井病 院が 左 手 の遠 方 に見 え る。 「㈱ サ ン リ0ス 関 西 」 の看板 の 手前 に流 れ る水 路 が 、奈 良市 と天理市 との市境 で あ る。 こ こよ り天 理市 畿 芝 差 町 に入 る。

高井 病 院 横 の交 差点 を渡 る と、左 側 に も民 家 が 並 び始 め る。 さ らに約300m先 の右 手 に 、杉 玉(酒 林)の 吊 られ て いる酒屋(喜 多 商 店)が あ る。 この周 辺 も昔 なが らの景 観 を 数多 く残 して い る。

さ らに約100m進 む と蔵之 庄大 橋(ぼ だ菩 提仙 川)を 渡 り、 両側 に笑 耗 績 が 並 ぶ集 落 とな る。 大 和棟 はいせん

ひえだ てんhみ

屋 根 型 に特 徴 の あ る家屋 で 、奈良 盆 地 とその周 辺 、特 に稗 田環 濠 集落 か ら天 理 ・三 輪 に か けて 稠 密 に 分 布 す る。 傾 斜の あ る草葺屋 根(現 在 は トタ ンをか ぶせ て い る もの が多 い)の 両側 の妻 を壁 土 や 白漆

たかへ

喰 で塗 り堅 め、 その上 を細 く本 瓦葺 き した もので 、 この部 分 を高 塀 と よび 、先 に獅 子 や鳩 、 あ る いは 七 福神 の鬼 瓦を置 く。 妻 の隣 に は傾 斜 のゆ るい瓦 葺 きの釜 屋(台 所)が 続 き、 一個 の 家屋 を形 成 して

い る 。

楢 町 から 櫟 本 へ

なら ならかわ

蔵 之 庄 町 を離 れて約500m進 み 、楢 川橋(楢 川)を 渡 る と楢 町 の 集 落 に入 る。 さ らに約100m先 左 側 に は楢 神 社 が ある。子 育て の神 と して有 名で 、楢 の一 字 を も らって名 付 け る とい う信 仰 が あ る。境 内 に参 宮 常 夜燈 が1基 建 ってい る。

楢 町 と隣接 して灘 的が あ る。 楢神 社 よ り約100m進 む と、 「左 不 動 山大 師道 」 と彫 られ た昭 和10

わにラ

年(1935)5月 の道 標 と、指 型を 大 き く浮 き彫 りに し 「和 珊 坂下 傳 構 地道 」 と彫 られた 昭和15年(1940)

しきだい わににいますあかさかひ

11月 の道 標 が 立 って い る。 こ こか ら東 に向か う と和 爾 の地 で あ り、 その 記念 碑 や式 内社 和=爾坐 赤坂 比 古神 社 が建 って い る。

上 街 道 は さ らに南 へ進 む。 約100m先 の千檀 菓 子 店 の植 え込 みの 中 に 「山 ノ辺 ノ道 、左 た っ た 」 と 刻 まれ た 自然石 の道標 が あ る。店 主 が趣 味 で作 って建(た もの ら しい(r・ 騰 路・遡票の施 瀦 好)。

沿 道 の ま ち② 天 理 市(奈 良 県)人 ロ68,62了 所 帯 数26,185面 積86.3了k㎡

沿 革 〕 中心 地 の丹 波 市 は 明治22年 山 辺 村 、 同26年 丹 波 市 町 。 昭和29年 周辺 町 村 と 合併 し天 理 市 に。

概 況 〕 市 域 西 部 は奈 良 盆 地 、 東 部 は 大 和 高 原 。 西 部 地 域 は 県 内 最 大 の 古 墳 地 帯 で 、 古 代 か ら 中 心 地 と し て栄 え た。 現 在 は 「山の辺 の 道 」 を 中心 とす る観 光 都 市 、 天理 教 を 中 心 と す る 宗 教都 市 の 両 面 があ る 。

街 道 〕 市 域 西 部 を上 街 道 、 中 街 道 の2本 が 南 北 に 通 り 、 西 部 と東 部 を 貫 い て 、高 瀬 街 道 な ど 山 間 部 と 盆 地 を連 絡 す る 道 が走 る 。伊 賀 方 面 へ の 短 絡 路 は古 代 か ら この ル ー トを 抜 け て い た 。 宝来 講 で は 、北 か ら 市 域 に 入 り、 櫟 本 、丹 波 市 、柳 本 と大 集 落 を 串 刺 しに して ま っす ぐ南 下 、 南 の 桜 井 市 へ 抜 け る 。

46道 中1日

(14)

さ らに約200m行 くと、丁字 路 二っ を 鍵 の手 状 に進 む変則 四叉 路 に 出 る。 まず 正 面 に古 風 な 消 防 器 具 庫 が 見 え ・ こ こで 東 西方 向 の道 と丁字 路 に な って い るが 、少 し西側 に食 い違 って慧灘川 に橋 が架 か って お り・ また 南へ 向 いて 進ん で い くわ けで あ る。どちらの丁字路 も大 き く隅 切りが してあるので、 道 と して の 連 続性 は一 見 して もわ か る。

たつた

この 東西 方 向の 道 は・都 祁 と竜 田を結 ぶ 高瀬 街道 で、 ここは両者の交 点として交通の要衝 とな って いた・ ひ とっ 目の 丁字 路 右側 手前 、隅切 りの途中には享保12年(1728)8月 吉 日銘 の道標があ り、 この 四辻 の 重要 性 を示 して い る・ た だ、現在 の 道標 につ いて い えば 、南面の 「右な ら 左 たったみ ち」 は 問題 な い もの の・ 西 面 は 「右 ほ う里 う じ 左 はせ み ち」 を示 して お り、左 右の 関係 が 全 く逆 にな って い る・ お そ ら くど こか らか移 動 して きた の であ ろ う。

寛政3年(1791)刊 の 『大和名所図会』を見る と、道 路 を隔てた高洞 日の ほとりに道標 らしいものか描か れている。 これを この道標 と考える と、西面の指示 地 名は符合するが、今度は南面が合わない。この南 面 の字 の書体 は西面 と若干異 なっているので、南 面 の文字 は移動の際に刻まれたと考えてみる。少 々苦 しい解釈 だが、石造 道標への追刻はかなりの例かあ るの で、可能 性と しては全 くないわけでもない。

さ らに大胆 に推理 すれば、 この面 には別の文字が 刻 まれ ていたとも考 えられる。断面 を見 ると、南面 だけか薄 くな っているの である。頂部の造作も この 面だけ様子が異な るの で、も ともとはも う若干厚み を持 って いた と思わせな くもない。

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掘 鑑 愚 』 当 少 し寄 り道を して、高瀬街道をここよ り東へ少 し行 くと、糺誹 神社が ある。r大 和名所図会』を 見 ると・ この辻 か ら神 社 に向 か う道 に は鳥居 が 建 て られ て お り、高札 場の よ うな もの も見 え る。 現 在 は ・高 瀬 街 道 と国道169号 線(天 理 街道)の 交 差 点 が これ に近 い姿 に な って い る

。 鳥居 前 に は 、上 街 道 の辻 に建 って いた と考 え られ る道標 が保 存 されて いる。

上 街 道 へ 戻 り、 高瀬 川を渡 ると、古 い民 家 が何 軒 か残 って いる。右手に文政3年(1820)銘 の愛宕山 常夜 灯 が あ り、左 手 に は天 理警 察署 櫟本 分署 跡 参 考館 が あ る。天 理 教教 祖 ・中山 み きが一 時 投 獄 され た所 で 、 明 治期 の建 物 が保 存 されて い る。

在 原 神 社(在 原 寺)

上街 道 は さ らに南 に進 み 、西名 阪 自動 車道 の高 架 下 を く ぐる。 そ して約100m先 の西川靴店 を左 へ

ありわら

入 ると在 原神 社 が あ る・第2回(1987)以 来 、天 気 の良 い時 は ここで昼 食 を と って い る。在 原神 社 は元 は在 原 寺 とい い平 安期 に創 建 され たが・ 明治9年(1876)に 廃仏 段釈 に よ り神 社 とな った もの で あ る

『大 和名 所 図 会 』 に は在 原 寺 と して本 堂 や寺 門 な どを描 いて お り

、 に ぎわ いの あ った ことを窺 わ せ る が・現在 その面影 は全 くない。本堂1ま笑 繍 齢 舗 町の齢 寺 に腱 されており、この地にはわず か に小 さ な祠 堂 と案 内板 が その存在 を示 す の みで あ る。西名阪道のす ぐ足 もと、天理 インターの至近 で あ るが 、 ど こ とな くの どか な空間 で あ る。

道 中1日 47

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境 内 の入 口に は 「在 原 寺 」 と刻 まれ た石 標 が立 って い る。 この 石 標 の 裏 面 に は 「在 原神 社 」 と刻 ま れ て いるが 、 おそ ら く明 治以 降 に追 刻 され た もの で あ ろ う。同 じ く入 口に は愛 宕 山常 夜灯 が 立 って い る。 また 、 この在 原 寺 は謡 曲r井 筒 』 の舞 台 とな って お り、境 内 に は曲 にゆ か りの井 戸 が残 されて い る。 他 に はめ お と竹 、 芭蕉 句 碑 や 「下 馬 」碑 な どが あ る。下 馬 碑 の 側 面 に は 「天平元 年 」の銘 が あ る が 、真偽 は定 か で な い。

天 理 市 中 心 街

昼 食 を終 え 、上 街道 に戻 る。 約200m先 で小 川 を渡 るが 、 その ほ と りに安 政7年(1860)銘 の 道標 が 立 って い る。r正 一 位 平 尾姫 丸 稲 荷大 明神 」 「従 是 東 五 丁 」 とあ り、 こ こよ り東 にあ る姫丸 神 社へ の 道 を示 して い る。 正一 位 を 賜 って い る こ とか ら、昔 は栄 えて いた で あ ろ うが 、現 在で は小 さな祠堂 が あ るのみ で あ り、 さびれ て い る。姫 丸 神 社 へ の道 標 は約200m先 に も う一 っ 、 安政7年(1860)銘 の小 さな もの が あ る。

古 い町 並 を歩 いて い くと、2本 目の姫 丸 神 社 道標 か ら約150m先 の 右 手 に浄 土院 が あ る。 庫裡 の裏 庭 には、近 くの道路 脇 の 土 中 か ら発 見 され た道標 が 保 管 されて い る。上 街 道 に立 って い た と思 わ れ る が 、原 位 置 は未 詳 で あ る。 浄 土 院 か ら100mほ ど進 む と、右 側 に明 治32年(1899)銘 の常 夜灯 が あ り、

上街道 は こ こで 斜 め左 に折 れ る。100mほ どの 間 は、 左 側 に小 さな 大 師堂 や背 の高 い樫 と楠 、 右側 に 古 い家屋 が並 び、 少 しばか り現代 ばな れ した景 観 で あ る。右 側 に は蔵 を 改造 したモ ー タ0プ0ル が あ るが 、 これ は酒 蔵 と して 使 用 されて いた もの。 この元 酒蔵 を所 有 す る大 塚酒 店 は天 明年 間の創 業 で 、 昭和52年(1977)ま で 自家 銘 柄 を醸 造 して い たが 、現 在 は生 産を 中止 して い る。

大 塚酒店 を過 ぎ る とす ぐ左側 に 「従是 東 笠 山荒 神 へ 二里 左 な ら」 「右 はせ」 と刻 まれ た道標 が

か さやJこ うじん さ くらい か さ で ら

あ る。笠 山荒神 は桜井 市 笠 にあ り、 か ま どの神 と して 知 られ る。 ちな み に 長谷 寺門前 に も笠 山荒神 を 示す道 標 が あ る。

上 街道 は この道 標 に従 い右 折 す る。 この あ た りか ら天 理教 会 詰 所 や 母 家 の高 い建物 が 随所 に み られ るよ うにな り、天 理教 の法 被 を着 た信 者 も多 く、宗 教 都 市天 理 の イ メ ー ジを彷 彿 と させ る。

昊鍾 市 は昭和29年(1954)4月 、笄 表 希 ・三 薩 量 ・覇 莉 ・締 栄 先 播 荏 ・灘 ∂)6町村 が合 併 し、 日本 で最 初 に宗教 団体 名 を と って 名付 け られ た 。市 内 は天 理 教一 色 と言 って も過言 で はな く、独特 の雰 囲 気 が あ る。

笠 山荒 神 道標 よ り約300m先 の 甲 賀詰 所 の前 で 斜 め左 に曲 が る。 浦 西 商店 の角 を右折 、少 々雑 然 と

なかおお じ

した感 じのす る町 を500mほ ど進 む 。 中央 分 離 帯 の あ る広 い道 を渡 るが 、 これが 天理 中大 路 、 さ らに

ほんどおり

100m先 で 天理 本通 商店 街 と交 差 す る。 いず れ も右 に とれ ば天理 駅 前 に達 す る。 本通 商店 街 は 、 旧天 理駅 前 か ら天 理教 会 本 部 へ と続 いて お り、 ア ー ケ ー ドが上 街道 を乗 り越 して い る様 は、ふ たっ の道 の 力 関係(?)を 見 る思 い もす る。

かわは らじょう

これ を過 ぎる と、上 街道 沿 い に はま た古 い町並 の 商店 街 が続 く。 この あ た りが川 原城 町で 、街 道 か ら東 へ少 し入 った川 原城 会館 の 旧館 に は、 上街 道 に あ った と思 わ れ る道 標 が3基 集 め られ て い る。 上 街道 は丁字 路 に突 き当 た って左 折 、す ぐ宮 西 商店 の角 を 右折 し ク ラ ン ク状 に進 む。 約100m先 の旅 館 富士 の 南隣 には常夜 灯 が 立 って い る。

48道 中1日 目

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丹波市

木造アーケードが残る市跡と風格ある町並

丹 波 市

たんば いち

国道25号 線 を横 切 り、 丹波 市 町 に入 る。約100m進 む と橋 が あ り、60mほ どお いて も う一 つ あ る。

一一つ 目 は布 留川北 流(北 布 留川)ふ る 、 二 つ 目が その本 流 の布 留 川 で あ る。 布 留 とは宕 塾 宮 の こ とで あ り、希 留 川 は石上 神宮 の北 の谷 間 よ り流 れ て きて い る。

二 っ 目の橋 を渡 るとす ぐ左 手 に宮 崎酒 造㈱ が あ り、 「天 理 の里 」 「杜 氏 の魂 」 「白堤 」を製 造 して い る・ この周 辺 も旧街道 の古 い町 並 が続 く。 ゆ る い左 カ ー ブに そ って 行 くと、道 は右 に折れてまた真 南 に向 き直 る。 この付近 には なぜ か こ う した形 状 の 道 が多 く、 これ で3か 所 目で あ る。 しか しこ この 家 並 は少 々特異 で 、 この右折 点 か ら数 十mで 不 意 に大 き く開 けて い る。道 と も広場 と もいいが た い景 観 だ が 、 これが 南へ200mほ ど続 い て お り、一 部 だ け残 され た よ うな ア..̲..ケー ド状 の木 造 屋根 が 目に 入 る。 こ こが丹 波市 の市跡 で あ る。 元 来天 理地 域 は この 丹波 市 が 中心 で あ った が 、国 鉄桜 井 線 天理駅 (市制 施 行 時 に丹波 市駅 か ら改称)が 、 昭和40年(1965)北 方 に移 され 、 国 鉄 ・近鉄 天 理 総 合駅 と して ター ミナル が形 成 されて か らは衰 退 の一 途をた ど って い る。

近 世 の 丹 波市 は宿 場 と して も機 能 して お り、距 離 的 に も上 街道 の 中間 地 点 とい う利 を得 て 栄 え た。

道 の右 手 に続 く豪壮 な民家 が 、 当時 の繁 栄ぶ りを しのばせ る。 な かで も木 造 屋根 の 西側 にあ る辻 家 は、

い まい か しは ら

塗 籠 の 高二 階 に入母 屋 の屋根 を載 せ 、一 見今 井 町(橿 原市)の 民 家 を思 わ せ るよ うな造 りで あ る。

古 い木 造 屋根 が残 って い るの は、紙 類 を取 り扱 う堀 商店 の前 で 、荷 下 ろ しな ど に便 利 なた め その ま ま残 して い るそ うであ る。 ま た、屋 根 は広 い道 の東 側半 分 だ け に あ り、 西側 の柱 は道 路 中 央 に並 んで いて 、少 々不 自然 な印象 を受 け る。 もと もと、 この道 の 中央 に は川 が 流 れ て お り、馬 の飲み水、鮮魚 の洗 い水 な どに使用 され て い た。 この川 を はさん で 東西 両 側 に あ った道 の うち、 東側 の 道 だ け に屋 根 が か か って いたが、 川が 暗渠 にな り、東 西の道 が 広 い一 本 の道 にな った た あ現 在 の よ うな景 観 にな っ た。 (い纏 ます)

こと しろぬ し

堀 商店の南には市座神社があ る。祭神は事代主命で、丹波市の市の神 として信仰 を集めて きた。境 内には 「天保元年太神宮」 「文化八年藤堂家御武運長久願主油屋長蔵」 「文化四年扇屋彦四郎」 と刻

道 中1日 49

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まれ た常 夜灯 や 、丹 波 市 町道路 元 標 が残 されて い る。

三 昧 田

丹 波 市 をあ とに して上 街 道 を歩 く。家 並 が 切れ る と、右 側 には再 びJR桜 井 線が 並 行 して くる。市

まが た

営 ガ ス製 造 所 の前 を 過 ぎ る と、 その す ぐ南側 で布 留 川支 流 の勾 田 川 を渡 る。小 さな橋 に は、 石仏 が欄 干 の よ うに並べ られ て い る。約300m行 くと 、右 手 の 線 路 を隔 て た池 の ほ と りに 「史 跡 岡 田為 恭遭 難i

れいぜい ためちか

おかだ

之 地 」 と刻 まれ た石 碑 が 立 って い る。 岡 田 為 恭(1823〜64)は 冷 泉 為 恭 と も号 し、幕 末 に活 躍 した画 家で あ るが 、尊穰 派 に幕 府側 謀者 であ る と され 、天 諜 の対 象 とな り、元 治元 年(1864)に こ こで 暗 殺さ れ た。

さん まいで ん

の どか な 田園風 景 をぬ けて三 昧 田町 に入 る。 周 囲 に家 屋 な どが 少 な いの で、道 の左 側 に続 く山並 み

み わ

を見 渡 す こ とが で きる。 正面 近 くに見 え る容 姿 端麗 な山 が 三輪 山で あ る。

町 の入 口に は八坂 権 現 の 社殿 が あ る。文 久3年(1863)9月25日 、 この社 の裏 手で 岡見 留 次 郎 ら天珠 組 の志 士5人 が 藤堂 藩 士 に よ って 捕 らえ られ て い る。

さ らに上 街道 を進 む と、突 き当 た りに藤 棚 が あ り、 そ の下 に芭 蕉 の句 碑 が立 って い る。 句 碑 に は 1輩猷れて 宿か 者昆1や藤の花 はせを」 と刻 まれている。貞享5年(1688)、 葎贅の俳 人松尾芭蕉 は 顯 峠 蔀 梛 塾 村)を 越えて赫 ・に入 り、初瀬 ・鵠 ・論 ・菜ロ鞘 などを吟行 した あと、再び 大和を経て萌右へ向か った。 この旅の途 上、丹波市周辺 では宕望(天 理市希瘤町)や 極麗 滝(同 篭筆

や ぎ かしはら みみなし

町)を 訪 ね 「耳成 山 の 東 、八 木 とい う とこ ろ」 に宿 泊 して い る。 この 「八木 」 は八木 町(橿 原 市)で

つ ぎ おとぎ

はな く、夜 都 岐神 社(天 理市 乙 木 町)付 近 の こ とで はな いか といわ れ て い る。 この句 は そ の時 に詠 ま

しば

れ 、彼 の 著作r笈 の 小 文 』 に収 録 され て い る。 一一方 、句 碑 は文 化11年(1814)春 、芝(桜 井 市)の 人 、

「風来 庵 雪酔 」 に よ って 建 立 され た もので あ る。 こ うい った近 世 の句碑 は 旧街道 を示 す 目印 と して重 要 で あ る。

上 街道 は この句碑 前 で大 き く左 へ 曲が って東 を向 き、 わず か の 間 なが ら都祁 の 山 々を 正 面 に見 て歩 く。

大 和 神 社

さほの しょう

句 碑 か ら約300mで 国道 と交 差 、佐 保 庄 の集 落 に入 った と こ ろで 、家 並 に沿 って 右折 し、再 び南 を

おか

向 く。 こ こで古 代 の上 ツ道 と重 な って い る。 約200m進 む と左 手 に岡地 蔵 が あ る。 地 蔵 の 光 背 には永

おおやまと

禄 元 年(1558)の 銘 が あ る。 そ して 、斜 め に走 って い る国 道 と再 び交 差 、約400m行 くと 、右 手 に大 和

やまぺ

神 社 の参 道 が あ らわ れ る。 こ こで 例年 小休 止 を とって い る。 大和 神 社 は大 和 国山辺 郡 の 筆 頭 に挙 げ ら れ る名神 大 社 で 、13,000坪 の広大 な境 内 に祀 られて い る。 祭 神 は笑 歯窺 大神 ・ア\年 曳 大 神 ・御葦 大神

とな って い る。r大 和 名所 図会 』 に もその記 載 が あ る。

ま た、 この 周辺 に は大 小 の多 数 の古墳 が 集 ま って お り、 大和 古 墳 群 と呼 ばれて い る。 大 和 神社 の手

くちやま

前 に池 を挟 ん で馬 口山 古 墳 が あ り、 さ らに神 社 よ り約300m進 む と、柿 の 木が生 い茂 り、 一 見 果樹 園 に見 え る小 山が あ るが 、 これ も古 墳で あ る。 案 内板 に は賄 壕 古 墳 と記 して あ る。 この よ うな古墳 が 上 街道 の周辺 に多数 見 受 け られ る。

50道 中1日 目

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