︿研究へのいざない﹀
梶 川 信 行 鈴 木 雅 裕 教室 で 読 む 古事記神話 ︵ 三 ︶ ︱ 還降改言 から 還坐之時六嶋 まで︱
還降改言
是
ここに、 二
ふた柱
はしらの 神
かみの 議
はかりて 云
いはく、
ふとまにに 〈 此 の五字は 音 を 以 よ〉 卜 相 ひて 詔 りたまひしく、
こおんもちゐうらなのと い ひ て、 即 ち 共 に 参 ゐ 上 り、 天 つ 神 の 命 を 請 ひ き。 爾 く し て、 天 つ 神 の 命 以 て、
すなはともまのぼあまかみみことこしかあまかみみこともち「 今 吾 が 生 める 子 、 良 くあらず。 猶 天 つ 神 の 御 所 に 白 すべし」
いまあうこよなほあまかみみもとまをの 如 し。 是 に、 伊 耶 那 岐 命 先 づ 言 はく、
ごとここいざなきのみことまいと の り た ま ひ き。 故 、 爾 く し て、 返 り 降 り て、 更 に 其 の 天 の 御 柱 を 往 き 廻 る こ と、 先
かれしかかへくださらそあめみはしらゆめぐさき「 女 の 先 づ 言 ひしに 因 りて、 良 くあらず。 亦 、 還 り 降 りて 改 め 言 へ」
をみなまいよよまたかへくだあらたい「あなにやし、えをとめを」
といひ、 後
のちに 妹
いも伊
い耶
ざ那
な美
みの命
みことの 言
いひしく、
「あなにやし、えをとこを」
といひき。
いられる称えことば︒マニはおそらく︑あらわれた兆のまにま
に事を決する意であろう︒ウラは裏︑心︑梢などと同語で︑そ
れが活用して動詞ウラフ・ウラナフとなり︑神意のあらわれに
よって吉凶を判ずる意になった︒つまり卜占は神意と交わり︑人間の問にたいする神の答をうかがう方式であって︑どこの国
でも古くからおこなわれていた︒︵中略︶大事にさいしておこな
われる宮廷の公式の卜法のこと﹂︵注釈︶︒﹁中臣氏の管掌した占
いか﹂︵鑑賞︶とする説もある︒天の御柱 ﹁教室で読む古事記神話︵二︶
︱
淤能碁呂島から不入子之例まで︱
﹂︵﹃語文﹄一六三輯︶参照︒︻補説︼伊耶那岐と伊耶那美による国生みは︑水蛭子・淡島という島
の成りそこないを生むところから始まるが︑天つ神の助言を得
ることで︑無事に果たされる︒こうした︑失敗↓助言↓成功と
いう話型は︑古今問わず多く見られるものである︒﹃古事記﹄
の中で言えば︑国譲り神話がそうである︒初めは天菩比命︑次
に天若日子が地上に派遣されるが︑どちらも失敗に終わってし
まう︒そして︑思兼神らの助言に従い︑三度目に派遣した建御雷神によって︑国譲りは果たされたと記されている︒神倭伊波礼毗古命︵=神武天皇︶による東征も︑その一例︒行
く手を遮る登美能那賀湏泥毗古の討伐も︑一度目は失敗に終わ
る︒そして︑戦いの中で負傷した五瀬命の﹁背に日を負ひて撃
たむ﹂という発話に従い︑進路を変えたことで討伐が完遂する︒
このような話の展開は︑普遍的な話型と言ってよいが︑それ
ゆえ︑陳腐なものになりやすい︒しかしながら︑ありふれた話 ︻本文︼
於是二柱神議云今吾所生之子不良猶宜白天神之御所即共参上請天神之命爾天神之命以布斗麻邇爾上 此五字以音ト相而詔之因女先言而不良亦還降改言故爾返降更往廻其天之御柱如先於是伊耶那岐命先言阿那邇夜志愛袁登売袁後妹伊耶那美命言阿那邇夜志愛袁登古袁
︻校異︼
特に問題となるべき異同はない︒
︻口訳︼ そこで二神は相談して︑﹁今私が生んだ子はよくない︒もう一度天つ神のもとに参上して申し上げよう﹂と言って︑一緒に参上して︑天つ神ご指示を求めた︒そこで天つ神の仰せによっ
て占いをして仰ることには︑﹁女が先に言葉をかけたことがよ
くなかった︒また︑返り降って︑改めて言いなさい﹂と仰った︒
それで︑そのようなことで︑返り降って︑さらに天の御柱を行
き廻ること︑前のようであった︒ここに︑伊耶那岐命がまず言
うには︑﹁なんとまあ︑愛おしい女の人でしょう﹂と言い︑後
に伊耶那美命の言うには︑﹁なんとまあ︑愛おしい男の人でしょ
う﹂と言った︒
︻語注︼二柱の神 伊耶那岐と伊耶那美を指す︒天つ神 ﹁教室で読む古事記神話︵二︶
︱
淤能碁呂島から不入子之例まで︱
﹂︵﹃語文﹄一六三輯︶参照︒ふとまに ﹁動物の骨をやいてうらなうものをいう﹂︵時代別︶︒
﹁フトマニのフトは︵中略︶神に関する名詞・動詞と複合して用
一般に天文観測施設だとされる︒天武朝の占星台の設置も︑七世紀の東アジアにおける﹁近代化﹂の動きの中で生まれたもの
の一つなのであろう︒天武の﹁天文・遁甲﹂は︑この時代︑大陸から伝わった近代科学だと言ってもよいが︑﹁ふとまに﹂は伝統的な方法だった︒
﹃魏志﹄︵倭人伝︶に︑﹁骨を灼きて卜し︑吉凶を占ふ﹂と︑卑弥呼
の時代の占いが伝えられている︒また︑﹃古事記﹄の天の石屋戸の神話にも︑﹁天の香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて︑︵中略︶占合ひまかなはしめ﹂たとする話が見える︒須佐男命の乱暴狼藉を﹁見畏﹂んだ天照大神が︑天の石屋戸に隠れたことに
よって︑高天原が﹁常夜﹂になってしまったことの対策の一つ
である︒言うなれば︑占いは国家の危機を脱するための重要な施策の一つであった︒今年は新天皇が即位し︑秋には大嘗祭が行なわれる︒悠紀殿
と主基殿が設けられ︑神とともに天皇が神饌を食する儀礼であ
ると言われる︒そこで使用される米は︑卜占によって献上され
る国が選ばれる︒平成の大嘗祭では︑悠紀国が秋田県︑主基国
が大分県であったが︑この時は亀の甲羅を焼く亀卜が行なわれ
たと言う︵鎌田純一﹃平成大礼要話 即位礼・大嘗祭﹄錦正社・二〇〇六︶︒今回の大嘗祭に関しては︑令和元年五月八日︑宮内庁が卜占
に使用する亀の甲羅の画像を公開した︒小笠原諸島で捕獲した
アオウミガメの甲羅で︑縦二四センチ︑横一五センチ︑厚さ一
ミリに加工されたものであると言う︒それをあぶって︑ひびの入り方で悠紀国と主基国が定められるのだが︑それは五月十三 型は︑よくある話として︑リアリティを感じさせることも事実
だろう︒神話では︑時に荒唐無稽で現実離れした内容が物語ら
れる︒そうした話も︑右の話型をなぞることで︑現実味を持っ
て受け止められることを可能にしていると言えるだろう︒
︻余滴︼占いは古代の科学 テレビで朝の情報番組などを見ている
と︑今日の運勢というコーナーが目につく︒なぜか︑どの局も西洋占星術だが︑筆者にはたわいのないお遊びにしか見えな
い︒何の興味もないのだが︑現在も占いを信じる人が多いのか
も知れない︒しかし︑古代社会において︑占いは単なるお遊び
ではない︒科学と言ってもよいものだった︒政治にとっても重要な意味を持っていたのだ︒
﹃日本書紀﹄天武天皇四年︵六七五︶正月条に︑﹁始めて占星台
を興つ﹂とする記事が見える︒天文を観察し︑吉凶を占う部署
とされているが︑同じく天武天皇の即位前紀には︑天武は﹁天文・遁甲を能くしたまふ﹂とも伝えられている︒壬申の乱の際︑天に黒雲が現れた時には︑﹁親ら式を秉り︑占ひて曰はく︑﹁天下両分の祥なり︒然して朕遂に天下を得むか﹂とのたまふ﹂と
されている︒﹁式﹂は陰陽道の占いの具である︒その結果であ
ろうが︑壬申の乱を勝ちに導き︑王権を打ち立てた天武は︑我
が国の歴史上初めて天皇を名乗る︒飛鳥浄御原令を制定するな
ど︑古代国家の建設に力を尽くした︒
かつての新羅の都慶州︵韓国慶尚北道︶に︑瞻星台と呼ばれ
る円筒形の石積み建造物がある︒用途は不明だが︑﹃三国遺事﹄
によれば︑善徳女王の時代︵六三二〜六四七︶に建設されたもので︑
の天の石屋戸の神話では︑真男鹿の肩を焼いたのが﹁天之波波迦﹂︵朱桜︶である︒現代の宮中で︑神話の世界が再現されたの だが︑いったいひび割れをどのように判別するのだろうか︒ 日︑宮中で﹁斎田点定の儀﹂として行なわれた︒悠紀国が栃木県︑主基国が京都府であると言う︒また︑亀の甲羅をあぶるために燃やすものは﹁波波迦木﹂であるとも伝えられたが︑﹃古事記﹄
大八嶋国
如
かくのごとく此 言
いひ竟
をはりて、 御
み合
あひして、 生
うみし子
こは、 淡
あは道
ぢ之
の穂
ほ之
の狭
さ別
わけの嶋
しま〈別を訓
よみて和
わ気
けと云
いふ。 下
しも此
これに 効
ならへ 〉 。 次
つぎに 伊
い予
よ之
の二
ふた名
なの嶋
しまを 生
うみ き。 此
この 嶋
しまは、 身
み一
ひとつ に し て 面
おも四
よつ 有
あり。 面
おもご と に名
な有
あり。故
かれ、伊
い予
よの国
くには愛
え比
ひ売
め〈此
この三字は 音
おんを 以
もちゐよ。 下
しも此
これに 効
ならへ〉 と謂
いひ、讃
さぬ岐
きの国
くには飯
いひ依
より比
ひ古
こと 謂
いひ、 粟
あは国
くには 大
おほ宜
げ都
つ比
ひ売
め〈 此
この 四 字 は 音
おんを 以
もちゐよ 〉 と 謂
いひ、 土
と佐
さの国
くには 建
たけ依
より別
わけと 謂
いふ。 次
つぎに、 隠
お岐
き之
の三
みつ子
ごの嶋
しまを生
うみき。亦
またの 名
なは、 天
あめ之
の忍
おし許
こ呂
ろ別
わけ〈許呂の二字は 音
おんを 以
もちゐよ〉 。次
つぎに、 筑
つく紫
しの嶋
しまを 生
うみ き。 此
この 嶋
しまも 亦
また、 身
み一
ひとつ に し て 面
おも四
よつ 有
あり。 面
おもご と に 名
な有
あり。 故
かれ、 筑
つく紫
しの国
くには 白
しら日
ひ別
わけと 謂
いひ、 豊
とよの国
くには 豊
とよ日
ひ別
わけと 謂
いひ、 肥
ひの国
くにを 建
たけ日
ひ向
むか日
ひ豊
とよ久
く士
じ比
ひ泥
ね別
わけ〈 久 よ り 泥 に 至
いたるまでは 音
おんを 以
もちゐよ〉 と謂
いひ、熊
くま曽
その国
くには建
たけ日
ひ別
わけ〈曽の字は 音
おんを 以
もちゐよ〉 と謂
いふ。次
つぎに、伊
い岐
きの嶋
しまを 生
うみき。亦
またの名
なは、天
あめ比
ひ登
と都
つ柱
はしら〈比より都に至
いたるまでは音
おんを 以
もちゐよ。天を訓
よむこと天
あめの 如
ごとし 〉 と 謂
いふ。 次
つぎに、 津
つ嶋
しまを 生
うみ き。 亦
またの 名
なは、 天
あめ之
の狭
さ手
で依
より比
ひ売
めと 謂
いふ。 次
つぎに、 佐
さ度
どの嶋
しまを 生
うみ き。 次
つぎに、 大
おほ倭
やまと豊
とよ秋
あき津
つ嶋
しまを 生
うみ き。 亦
またの 名
なは、 天
あめの御
み虚
そ空
ら豊
とよ秋
あき津
つね根 別
わけと 謂
いふ。 故
かれ、此
この 八
やつの嶋
しまを先
まづ生
うめるに因
よりて、大
おほ八
や嶋
しま国
くにと謂
いふ。
売と言い︑讃岐国は飯依比古と言い︑粟国は大宜都比売と言い︑土佐国は建依別と言う︒次に︑隠岐の三子の島を生んだ︒また
の名は︑天の忍許呂別︒次に︑筑紫の島を生んだ︒この島も︑身体が一つで顔が四つある︒顔ごとに名がある︒そこで︑筑紫国は白日別と言い︑豊国は豊日別と言い︑肥国を建日向日豊久士比泥別と言い︑熊曽国は建日別と言う︒次に︑伊岐の島を生
んだ︒またの名は︑天比登都柱と言う︒次に︑津島を生んだ︒
またの名は︑天の狭手依比売と言う︒次に︑佐度の島を生んだ︒次に︑大倭豊秋津島を生んだ︒またの名は︑天の御虚空豊秋津根別と言う︒そこで︑この八島を先に生むことよって︑大八島国と言う︒
︻語注︼御合 ミアヒと訓む︒文脈上は︑ミトノマグハヒと同じ意味
である︒尊敬の意を表す接頭語ミは︑﹁もっぱら名詞に接する
ので︑見=合フと考えた方がよいようである﹂︵時代別︶とされ
る︒だが︑﹃古事記﹄の中で︑﹁御﹂を見るの意と解せる例は確認できない︒少なからず動詞にミが付く例もあることからも︑
ここは文字通りに捉えてよい︒淡道之穂之狭別嶋 現在の兵庫県淡路島を指す︒﹁阿波国へ渡る海道にある嶋なり﹂︵記伝︶という︒﹃万葉集﹄には︑ヤマト
ヂ・アヅマヂ・アフミヂ・キヂ・コシヂ・シナノヂ・ツクシヂ
などの例が見える︒確かに︑アハヂはアハ国︵徳島県︶に至る道
のことだろう︒
だが︑国生みの順序に基づくと︑アハ国よりも先に生まれて
いる︒したがって︑﹁阿波国へ渡る海道﹂といった理解は︑一 ︻本文︼此言竟而御合生子淡道之穗之狹別嶋訓別云和気下効此次生伊予之二名嶋此嶋者身一而有面四毎面有名故伊予国謂愛上比売此三字以音下効此讃岐国謂飯依比古粟国謂大宜都比売此四字以音土左国謂建依別次生隠伎之三子嶋亦名天之忍許呂別許呂二字以音次生筑紫嶋此嶋亦身一而有面四毎面有名故筑紫国謂白日別豊国謂豊日別①肥国謂建日向日豊久士比泥別 自久至泥以音熊曽国謂建日別曾字以音次生伊岐嶋亦名謂天比登都柱自比至都以音訓天如天次生津嶋亦名謂天之狹手依比売次生佐度嶋次生大倭豊秋津嶋亦名謂天御虚空豊秋津根別故因此八嶋先所生謂大八嶋国︻校異︼①について︑﹃古事記﹄の写本中︑古い時代の真福寺本・兼永筆本では︑︻本文︼の通りだが︑時代が下る諸写本では︑﹁肥国謂建日別日向曰豊久士比泥別﹂とされる︒﹁肥国﹂以下の記述
を一つの神名と見るか︑日向国との二つと見るか︑という違い
である︒﹃古事記﹄からの引用が見える﹃先代旧事本紀﹄にも︑
﹁肥国謂建日別日向国謂豊久古比泥別﹂とある︒一つの神名と見た場合︑肥国のみが異様に長いことが疑問の一つとされる︒
だが︑この箇所を二分すると︑﹁面四有﹂という記述と一致し
ない︒神名の長さも気になるが︑一つの神名としておくのが穏
やかだろう︒
︻口訳︼
このように言い終えて︑性交に及び︑生んだ子は︑淡道の穂
の狭別島︒次に︑伊予の二名島を生んだ︒この島は︑身体が一
つで顔が四つある︒顔ごとに名がある︒そこで︑伊予国は愛比
る︒一方︑文字通り二つの名と採り︑﹁もう一つの総称を﹁阿波国﹂ともいうから︑﹁二名﹂と言ったものか﹂との説もある︵新潮︶︒だが︑あくまでも﹃古事記﹄で︑粟国は四国の一部として記されていることから︑この説には疑問も持たれている︵記學︶︒国土の実態に則してみると︑北四国︵愛媛県・香川県︶・南四国
︵徳島県・高知県︶の差が﹁二名﹂につながるのではないか︒上空
から見ると︑四国は中央構造線を挟んで南北にはっきりと分か
れている︒当然︑古代的な視点ではないが︑実際の航路におい
ても︑その違いは実感されたのではないか︒北側は瀬戸内航路
だが︑潮の流れを読みながらの航海で︑古代の王権にとっての
メインルートであった︒一方の南側は海流の寄せる海である︒紀貫之の﹃土佐日記﹄には︑土佐から都へ上る行程が記される
が︑たびたび波風により足止めを食っていたことが窺える︒一
つの島でありながら︑そうした二面性が︑﹁二名﹂という神名
として把握されたのではないか︒身一つにして面四つ有り オモは人の顔を意味する︒四国そ
れぞれを人体に見立てて表している︒国土は単なる土地ではな
く︑神々の身体として認識されていた︒国土生成が人体の生成
と同じように語られていたことと同じ発想が︑ここに見える︵﹁教室で読む古事記神話︵一︶
︱
天地初発から神世七代まで︱
﹂﹃語文﹄一六二輯︶︒伊予国は愛比売 伊予国︵愛媛県︶を神格化したもの︒神名のエは︑兄・姉の意味︑もしくは愛おしいの意とされる︒兄・姉
のエはヤ行だが︑音仮名﹁愛﹂はア行のエである︒岐・美二神
の唱和にあった﹁えをとこ・えをとめ﹂と同じく︑愛おしいの 般化しすぎているきらいもある︒そこで︑次のように考えてみ
るのはどうか︒この島の前段階は︑形がはっきりとしない﹁淡嶋﹂であった︒それが︑﹁淡﹂いながらも﹁道﹂を備えた島へ︑着実に国の形を成してきている︒つまり︑﹁淡嶋﹂から﹁淡道﹂
の﹁島﹂へ︑という進歩がここに窺えるのではないか︒ちなみに︑
アハヂの国名表記は︑﹁淡路﹂が﹃日本書紀﹄や木簡などで確認
できるが︑﹁淡道﹂は︑今のところ確認できない︵北川和秀﹁古事記の国名表記﹂﹃國學院雑誌﹄一一二巻一一号・二〇一一︶︒
ホは︑アハ︵粟︶と関連して植物の穂の意とするのが一般的︒
ワケは地方に分け封ぜられた者の意︒﹃日本書紀﹄に︑﹁日本武尊と稚足彦天皇と五百城入彦皇子とを除きての外︑七十余の子
は︑皆国郡に封させて︑各其の国に如かしむ︒故︑今の時に当
りて︑諸国の別と謂へるは︑即ち其の別王の苗裔なり﹂︵景行四年︶とある︒サは美称と見てよいと思われるが︑初めを意味し
て﹁最初の別﹂とする見方もある︵講義︶︒伊予之二名嶋 四国全土の総称︒古代四国は伊予が中心で
あったことから︑島全体の名となった︒﹃万葉集﹄には﹁淡路島
中に立て置きて 白波を 伊予にめぐらし︵中略︶﹂︵三八八︶
という例があるが︑ここでの﹁伊予﹂も四国全土を指す︒二名については︑﹁名は借字にて二並なり︒︵中略︶此ノ嶋は︑飯依比古と愛比売と女男並び︑建依別と大宜都比売と又並べる
を︑二並と云か﹂と言う︵記伝︶︒後に︑﹁二つ並ぶ意ならば﹁フ
タナミ﹂であって﹁フタナミ﹂が﹁フタナ﹂となることはあり得
る﹂との説へ発展していく︵講義︶︒ただし︑島が二つ並ぶので
あって︑島の中に二つ並んでいる意でないことも付け加えられ
おきたい︒たとえば︑﹃続日本紀﹄の対外記事は︑すべて日本海側であり︑太平洋側は皆無である︒当時の日本という国家が朝鮮半島︑より広くは大陸を意識していたということだろう︒天之忍許呂別 ﹁天之は美称︒忍は多し︑許呂は凝で︑多く
の島々が凝り固まっている所からの名であろうか﹂︵大系︶と言
うが︑﹁忍は多し﹂はどうか︒﹁大の約りたるなり﹂︵記伝︶との説もある︒しかし︑形容詞であるなら︑﹁語幹のオホ︵オ︶か連体形オホキとなるのが普通﹂︵全註釈︶であり︑やや無理がある︒一方︑オシは﹁押・排﹂で︑﹁接頭語︒︵中略︶下の動詞を単に強調する場合とがある﹂︵時代別︶とされる︒コロは凝るの意︒島々
が強力な力で固まっていることを表すと見ておくのがよいだろ
う︒オノゴロ島と似た神名だと言える︒筑紫嶋 現在の九州に相当︒﹁此の島も亦︑身一つにして面四つ有り﹂とされる︒すなわち︑筑紫国・豊国・肥国・熊曾国
だが︑ここに日向国が含まれていない︒したがって︑イザナキ
が禊をした場所である﹁筑紫の日向の橘の小門のあはき原﹂︑
ニニギが降臨した﹁筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ﹂と
いった記述と矛盾する︒この点については︑早くから問題にさ
れてきたが︑通説と言えるものはない︒一方で︑ヒムカとクマ・ソ︵背︶は表裏の関係で︑実は筑紫島は︑筑紫︵筑前・筑後︶︑豊国︵豊前・豊後︶︑肥︵肥前・肥後︶︑熊曾︵日向・曾︶だとする説もある︵全講︶︒筑紫島の中に日向も含
まれている︑とする見方である︒あるいは︑天孫降臨の地とし
て日向だけが特別視されたのか︒筑紫国は白日別 おおよそ︑現在の福岡県に相当する︒七世 意とすべきところ︒讃岐国は飯依比古 讃岐国︵香川県︶を神格化したもの︒イヒ
は﹁飯︒米を蒸したもの﹂︵時代別︶︒ヨリは霊威が依りつくこと︒比古は男の意である︒つまり︑食べ物の霊威が依り付く男の意
︵全書︶︒豊かな土地であることを表わす名だと考えられる︒神名上は︑次に現れる粟国のオホゲツヒメと対になる存在だとさ
れる︒粟国は大宜都比売 阿波国︵徳島県︶を神格化したもの︒オホ
は﹁物事をほめ尊ぶ意﹂︵時代別︶︑ケは食べ物を意味する︒﹃古事記﹄中︑この段以外にもオホゲツヒメの名は見え︑それらを同一神と見るかどうかで説が分かれる︒一元的に捉えるより
も︑オホゲツヒメに関わる複数の神話と見たほうが良いだろ
う︒土佐国は建依別 土佐国︵高知県︶の神格化したもの︒ヤマタ
ノヲロチを退治したタケハヤスサノヲ︑タケミナカタをねじ伏
せたタケミカヅチの例から︑﹁健々しい人の意﹂︵大系︶︑﹁勇猛
な霊が依り憑く男子﹂︵新潮︶と考えられる︒エヒメと対で︑瀬戸内の穏やかさと太平洋の猛々しさの反映か︒隠岐之三子嶋 島根県に属する隠岐諸島︒平安期の辞書﹃和名類聚抄﹄によると︑知夫・海部・周吉・隠地の四郡からなる︒現在は︑島前︵知夫・海部︶・島後︵周吉・隠地︶の二つが中心で︑
さらに島前は︑中ノ島︵海部︶・西ノ島・知夫里島︵知夫︶の三島
となる︒﹁三子島﹂は︑島前を指すとも言う︵記伝︶︒すると︑島後が親ということになる︵全註釈︶︒佐渡とともに︑日本海が視野に入っている点は︑注意をして
いわば筑紫全体に偏在するのである﹂︵注釈︶︑﹁西国九州を漠然
とさす神話的名辞﹂といった指摘は重要である︵菅野雅雄﹁古事記神話に於ける﹁日向﹂の意義﹂﹃古事記の神話︹古事記研究大系
店・一九九四︶︒日向が特別視された結果︑一国名としては挙げ 4︺﹄高科書 られなかったのだろう︒伊岐嶋 長崎県に属する壱岐島のこと︒朝鮮半島への交通路 として重視されたという︒また︑実際の出土物からも︑交易の拠点として機能していたことが指摘されている︵高田貫太﹃海の向こうから見た倭国﹄講談社・二〇一七︶︒天比登都柱と謂ふ 壱岐の別名︒海中の孤島を神格化したと見るのが通説︵記伝・大系・全訳注︶︒津嶋 対馬のこと︒ツは︑ナニワヅ・ニキタヅなどの例から港を意味する言葉︒船が行き着く島の意︒﹁津﹂の字があてら
れるのも港の島ということを反映している︒
﹃魏志﹄︵倭人伝︶の記述によると︑朝鮮半島から日本に向かう行程は︑帯方郡↓韓国︵馬韓︶↓狗邪韓国︵加羅・金海︶↓対馬↓一支国︵壱岐諸島︶↓末廬︵佐賀県︶となる︒平安時代には︑女真族が対馬・壱岐を襲来し筑紫にまで及んだ︑いわゆる刀伊の入寇なども一例として挙げられる︒外国からの船が辿り着く初め
の島であったことが窺える︒ツシマは︑東アジアという世界の中で︑日本への玄関港であった︒天之狭手依比売 直前にも天之忍許呂別が登場するが︑アメ
ノという美称は︑天の石屋戸の神話に頻繁に現れる︒天児屋命・天の金山・天の香山・天の波波迦・天手力男神など︒この天は︑高天原を指していると見るのがよい︒ 紀末頃には︑筑前・筑後に分化︒神名は﹁明るい太陽の意﹂︵全書︶
というのが通説である︒以下︑それぞれの神名に﹁日﹂が形容
を伴って用いられる︒筑紫島全体が︑﹁日﹂を顕彰していると言ってよい︒豊国は豊日別 福岡県東部から大分県を指す地︒七世紀末に は豊前・豊後に分かれる︒神名は︑﹁光り豊かな太陽の意﹂︵大系︶︒﹁豊穣をもたらす太陽の男性の意﹂ともされる︵全講︶︒肥国を建日向日豊久士比泥別 おおよそ︑佐賀県・長崎県・熊本県を含む地名︒後に︑肥前・肥後に分化︒ここの神名は︑他のものと比べて長たらしいものとなっている︒また︑どのよ
うに区切られるかも判然としない︒ここでは︑タケヒ・ムカヒ・
トヨクジヒ・ネ・ワケとしておく︒タケヒ・ムカヒとも︑日を称える言葉であることは前述の通り︒クシヒは豊奇霊の意とす
るのが一般的︒ネは﹁親愛と尊敬の意をこめた接尾語﹂だとい
う︵時代別︶︒このネ・ワケは︑後のオホヤマトアキツシマの神名と共通する︒熊曽国は建日別 熊本県の南部から鹿児島県にかけての総称︒クマは﹁隈﹂で辺境の意か︒タケヒは﹁勇ましい太陽の意か﹂
︵大系︶︒後に︑日向・大隅・薩摩に分化︒筑紫嶋の国名で日向が挙げられないことには︑意味があるよ
うに思われる︒﹃古事記﹄において日向国はあるにも関わらず︑
ここで登場しないことは不審ではある︒だが︑﹁筑紫の日向の橘の小門のあはき原﹂︑﹁日向の高千穂のくじふるたけ﹂に見え
る﹁日向﹂は︑単なる地名ではなく︑日に向かう・もしくは日
が向かう︑といった意味合いが強い︒そうした時︑﹁ヒムカは
かねて 遠遠し 高志の国に﹂とあり︑高志国が含まれていな
い︒ただし︑畿内とすると︑律令制下では五畿︵大和・山背・河内・和泉・摂津︶となり︑天智天皇が宮をかまえた近江や皇祖神天照大御神を祀る神宮が鎮座する伊勢の地を含まないことになる︒
したがって︑畿内を中心とした周辺諸国︑としておくのがよい
だろう︒ サデについては︑魚などをすくい取る漁具の叉手網の意︵新潮︶とも言うが︑名義未詳とされる︵記伝・大系・全訳注︶︒佐度嶋 現在の新潟県佐渡島︒﹃続日本紀﹄によると︑伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐の六国は︑流罪の内で最も重い遠流の地︒本土周辺の島々の最果てであった︒そうした国土意識は︑﹃延喜式﹄︵祝詞︶にも︑﹁四方の堺︑東の方は陸奥︑西の方は遠つ値嘉︑南の方は土佐︑北の方は佐渡より彼方の処を︑汝等疫の鬼の住処と定めたまひ﹂と見える︒他の島が﹁亦の名﹂として神名が挙げられるのに︑佐渡島は特に挙げられていないことは疑問も持たれる︒この点︑資料的
な不備とする説もある︵全書︶︒﹃日本書紀﹄には︑北部の海岸に
﹁肅愼﹂が船に乗ってやってきて︑﹁島の東の禹武邑人﹂をさらっ
た話が載せられる︵欽明五年︶︒﹁肅愼﹂は﹁人に非ず︵中略︶鬼魅
なり﹂と見られていた︒佐渡はたしかに日本の一部であったが︑異民族が訪れる異境でもあったと言える︒神名を持たなかった
のは︑そうした事情によるのではないか︒大倭豊秋津嶋 アキヅは︑穀物が実ることに関連するものと
の説がある︵講義︶︒トヨはオホ同様に美称で︑そうした実りが豊穣であることを表している︒
この島名の範囲については︑本州と見る説︵新講・全集・注釈・鑑賞・新編︶︑畿内を指すとする説︵全講・全註釈・全訳注・新版︶で分かれる︒国生みの段では︑明らかに視線が西向きに展開して
いる︒そこに東国は含まれていないと考えた方がよいのではな
いか︒また︑ここでの国を総称して︑﹁大八島国﹂という︒だが︑八千矛神の歌謡には︑﹁八千矛の 神の命は 八島国 妻まき
︵全註釈より引用︶
と︑宇宙軸が変化したのだ︵千田稔﹁横大路の歴史地理﹂上田正昭編﹃探訪古代の道 第一巻 南都をめぐるみち﹄法蔵館・一九八八︶とする説が
ある︒しかし︑二つの宇宙軸は交替したのではあるまい︒その後も共存していたと見るべきであろう︵梶川﹁阿騎野と宇智野
︱
﹃万葉集﹄のコスモロジー
︱
﹂﹃万葉集と新羅﹄翰林書房・二〇〇九︶︒太陽の昇る東を優位とする空間認識は︑キリスト教の教会が皆東向きに建てられている点からも窺え︑必ずしも日本固有のものではないという指摘もある︵西郷信綱﹁方位のことば﹂﹃日本の古代語
を探る 詩学への道﹄集英社新書・二〇〇五︶が︑いずれにせよ︑﹃古事記﹄のこの神話は西向きの国家観に基づいていると見られ
る︒国生みの神話は﹃日本書紀﹄︵神代上・第四段︶にも見える︒正文と五つの一書である︒正文は淡路州・大日本豊秋津洲・伊予二名洲・筑紫洲・億岐洲・佐渡洲・越洲・大洲︵周防大島か︶・吉備子洲という順に産んで行く︒しかし︑第一・第六・第九の一書では﹁大日本豊秋津洲﹂が最初に生まれている︒﹁淡路洲﹂
から生まれるのは第七・第八の一書で︑﹃古事記﹄の形はむし
ろ少数派である︒また︑﹁大日本豊秋津洲﹂から生まれるもの
には︑壱岐・対馬が入っていない︒大八島の﹁八﹂は︑実数ではあるまい︒﹃古事記﹄と﹃日本書紀﹄
とでは︑大八島の認定に違いが見られる︒﹃書紀﹄の一書も同
じではない︒共通するのは︑本州︑四国︑九州︑隠岐︑佐渡の五つである︒大八島は宣命に言う﹁現神と大八島所知す天皇﹂
の版図である︒記紀はそれを実数と見て︑あれこれ割り振って
いるが︑一書を含め︑個々にその解釈が異なっているのだと言 天御虚空豊秋津根別 畿内と周辺の豊かさを言う︒大八嶋国 ﹁八﹂は実数ではなく︑聖数であるともされる︵注釈︶︒ここでは︑淡道之穂之狭別嶋から大倭豊秋津嶋まで︑計八つの島が生まれているから実数と見てよいが︑より根本的な問題としては︑重要な指摘だろう︒すなわち︑大八嶋国という観念が先行して︑それに見合うように合理化された結果が︑こ
こでの島生みであるということである︒
︻補説︼伊耶那岐と伊耶那美は︑天つ神に﹁命を請ひ﹂︑天つ神の﹁の
りたまひき﹂ままに子を産んでいる︒ここで生まれた日本列島
は︑やがて天皇の国になるのだから︑当然と言えば当然だが︑大八島国は天つ神の意志に基づいて生まれたということにな
る︒国生みの神話は淡路島から始まっているが︑それは明らかに西向きの国家観を前提として展開されている︒四国と九州は各国の名が挙げられているが︑東国の方はまったく視野に入って
いない︒纏向遺跡の建物群が西向きで統一されていたこと︵桜井市教育委員会﹃纏向遺跡第一六六次調査現地説明会資料﹄二〇〇九年十一月十四・十五日︶からも窺えるように︑それは三世紀にまで溯れる世界観であったと考えられる︒南北の宇宙軸が︑グローバル化
の中で海彼からもたされたものであったのに対して︑これは大和の王権独自の世界認識であったと考えなければならない︒ア
ジア大陸に対するこの列島の位置と形が生んだ宿命的な世界観
であろう︒
ところが︑七世紀の末に︑西向きの大王から南向きの天皇へ
に存在する小さなものだった︒古代におけるクニとは︑現代人
の考える﹁国﹂という概念と︑相当に隔たりがあったというこ
とになろう︒辞書的に言えば︑クニとは﹁土地︒陸地︒天や海に対していう﹂
︵時代別︶とされる︒﹁行政区画としての国家﹂︵時代別︶とも定義
されている︒前者が原義であり︑後者が律令国家における﹁国﹂
という概念であろう︒その両者の間にも大きな違いがあるよう
に思われる︒
﹃出雲国風土記﹄の場合で言えば︑﹁出雲国﹂とは律令体制に基づく﹁国﹂であろう︒その中に九つの﹁郡﹂があり︑さらには
﹁郷﹂がある︒国府のある﹁意宇の郡﹂には﹁母理の郷﹂以下︑一一の郷が存在した︒ところが︑﹁国引き﹂の神話では︑﹁波良
の国﹂︵隠岐の島か︶を突き刺して﹁国来国来と引き縫へる国﹂は
﹁闇見の国﹂であるとされる︒これは﹁国家﹂ではなく︑原義と
しての﹁土地︒陸地﹂の意の例であろう︒
﹁闇見の国﹂とは︑﹁松江市新庄町付近﹂︵植垣節也﹃風土記︿新編日本古典文学大系﹀﹄小学館・一九九七︶︒東は中海︑北西南の三方は︑低い山々で囲まれた狭隘な平地である︒どんなに多く見積もっ
ても数百人規模の集落であったと見られるが︑その狭い地域が
﹁国﹂と呼ばれている︒それは律令体制に基づく﹁意宇の郡﹂の一部であり︑明らかに﹁郡﹂よりも小さい︒﹃万葉集﹄に見られ
る﹁吉野の国﹂︵三六︶は︑吉野離宮の置かれた狭隘な盆地である︒大和国吉野郡の中の一地域だが︑それと同じである︒したがっ
て︑﹁闇見の国﹂や﹁吉野の国﹂こそ︑クニという語の原義を反映していると見ることができる︒ う︵注釈︶︒国生みの中で︑外国の誕生がまったく語られていないという点にも注意をする必要があろう︒そもそも︑﹃古事記﹄には外国に関する記事がほとんどない︒その点で︑中国・朝鮮の国名
が延べ一三〇〇例を超える﹃日本書紀﹄とは異質である︒それ
については︑﹁外部にある世界はあえて問題にしない︒自分た
ちの﹁古代﹂はそれとはかかわらないところにあった︑という自己主張である﹂︵裵寛紋﹃宣長はどのような日本を想像したのか ﹃古事記伝﹄の﹁皇国﹂﹄笠間書院・二〇一七︶とする見方もある︒
︻余滴︼国という概念はいつも揺れている このところ︑ジャマイカ生まれのケンブリッジ飛鳥︵文理学部の卒業生︶や︑日米二重国籍
の大坂なおみなど︑ハイブリッドの﹁日本人﹂の活躍によって︑日本という﹁国﹂や﹁日本人﹂というものをどう考えるかという点で︑意識に揺れが生じている人が多いのではないか︒しかし︑
﹁国﹂という概念が揺れているのは︑決して現代だけではない︒
﹃古事記﹄には︑いわゆる︿国生みの神話﹀があるが︑そこで
は︑﹁国生み﹂という語を使用していない︒しかし︑その直後
の神々の生成の段で︑﹁既に国を生み竟へ﹂とされていること
を踏まえ︑一般に﹁国生み﹂と言われているのであろう︒
ところが︑生んでいるのは﹁嶋﹂である︒まずは﹁淡道の穂
の狭別嶋﹂︑﹁次に伊予の二名嶋﹂︑﹁次に筑紫嶋﹂というように︑次々と﹁嶋﹂を生んで行く︒そして﹁伊予の二名嶋﹂の場合︑﹁面四つ有り︒面毎に名有り﹂として︑﹁伊予国﹂﹁讃岐国﹂﹁粟国﹂﹁土左国﹂という名が挙げられる︒すなわち︑﹁国﹂とは﹁嶋﹂の中
いがあったと考えられる︒
クニには現在も﹁故郷︒郷里﹂︵﹃広辞苑︹第六版︺﹄︶という意味
がある︒﹃万葉集﹄にも﹁雁がねは 本郷しのひつつ 雲隠り鳴
く﹂︵四一四四︶という例が見られる︒大伴家持の歌である︒﹁本郷﹂とは︑家持自身の表記と見られ︑それはまさに﹁故郷︒郷里﹂
の意で用いられている︒これは律令体制に基づく﹁国﹂ではな
く︑懐かしい人々の住む出生地の意であろう︒
しかし最近︑こういう﹁くに﹂という語の使い方をする人と︑
あまり出会わなくなった︒郷里について﹁お国はどこですか﹂
と聞くことも︑すっかり過去のものになってしまったように思
われる︒とは言え︑現在はクニという概念に揺れが生じて来た時代だからこそ︑クニの意味を改めて見つめ直してみる必要が
あるのではないか︒自分にとってのクニとは︑いったいどんな
ものなのだろうか︒ また︑﹁郡﹂は﹁郷﹂によって構成される︒ところが︑たとえ
ば﹁意宇の郡﹂の中の﹁安来の郷﹂の場合︑﹁闇見の国﹂よりそ
の平地面積は遥かに広い︒﹁国﹂と﹁郷﹂の違いは単なる面積で
はない︑ということなろう︒古来︑そこに生活していた人たち
が一つの共同体と意識していた地域がクニであるのに対して︑大和の律令国家が﹁郡﹂の下位概念として勝手に設定したエリ
アが﹁郷﹂ということではないかと考えられる︒
﹃出雲国風土記﹄には︑人々が生活の中で自然に意識されて
いたクニやサトとともに︑律令体制の中で制度化された﹁国﹂
﹁郷﹂が混在している︒概ね︑前者が古く︑後者が新しい︑と
いうことであろうか︒また︑前者が生活者の感覚であるのに対
して︑後者は行政的な制度だと言ってもよい︒もちろん︑そう
した事情は﹃古事記﹄や﹃万葉集﹄でも同じであろう︒何が﹁国﹂
で何が﹁郷﹂かということは︑時代や地域性によってかなり違
還坐之時六嶋
然
しかくして 後
のちに、 還
かへり 坐
いましし 時
ときに、 吉
き備
びの児
こ嶋
しまを 生
うみき。 亦
またの 名
なは、 建
たけ日
ひ方
かた別
わけと 謂
いふ。 次
つぎに、 小
あづき豆 嶋
しまを 生
うみ き。 亦
またの 名
なは、 大
おほ野
の手
て上比
ひ売
めと 謂
いふ。 次
つぎに、 大
おほしま嶋 を 生
うみ き。 亦
またの 名
なは、 大
おほ多
た麻
ま上流
る別
わけ〈 多 よ り 流 に 至
いたる ま で は、 音
おんを 以
もちゐよ 〉 と 謂
いふ。 次
つぎに、 女
め嶋
しまを 生
うみ き。 亦
またの 名
なは、 天
あめ一
ひとつ根
ね〈 天 を 訓 む こ と 天
あめの 如
ごとし 〉 と 謂
いふ。 次
つぎに、 知
ち訶
かの嶋
しまを 生
うみ き。 亦
またの 名
なは、 天
あめ之
の忍
おし男
をと 謂
いふ。 次
つぎに、 両
ふた児
ごの嶋
しまを 生
うみき。 亦
またの 名
なは、 天
あめの両
ふた屋
やと 謂
いふ 〈 吉
き備
びの児
こ嶋
しまより 天
あめの両
ふた屋
やの嶋
しまに 至
いたるま では、 并
あはせて 六
むつの嶋
しまぞ〉 。
れたとされている︒それは一般に︑岡山県の児島半島を指すと
される︒現在の岡山平野は縄文時代から︑その大部分が﹁吉備
の穴海﹂と呼ばれた入江であり︑かつて児島半島は瀬戸内海に浮かぶ島だった︒したがって︑それは︿吉備の国の児の島﹀と
いう名前であろう︒吉備国はキビ︵黍︶の国ではないかとする説がある︒﹃豊後国風土記﹄︵総記︶に︑﹁豊国﹂という国名の由来を語る話があるが︑白い鳥が飛んで来て餅になったと言う︒その報告を受けた景行天皇が﹁豊国と謂ふべし﹂と言ったので国名にしたのだとされ
る︒このように︑吉備国にも黍という穀物に関わる何らかの伝承があったのではないかと推定されるのだ︵木村紀子﹃﹁食いもの﹂
の神語り 言葉が伝える太古の列島食﹄角川書店・二〇一五︶︒黍はインド原産で︑弥生時代に朝鮮半島を通じて日本にもた
らされたとされる︒しかし︑なぜそれが吉備と呼ばれるほどに︑
そこで定着したのか︒その点は不明だが︑播磨灘とその周辺に
は小豆島・飯依比古︵讃岐︶・粟国がある︒瀬戸内航路が穀物の生産と関係があるのではないか︒
しかし︑﹁吉備の児島﹂が現在の児島半島を指すとすると︑中国地方がすっぽりと抜け落ちてしまうことになる︒どういう順番で生まれたか︑ということとともに︑どこが抜け落ちてい
るかということも︑王権の世界認識を考える上では重要であろ
う︒古代の吉備には大規模な古墳群が存在するが︑一般に︑畿内や出雲と並び︑大きな勢力を持っていたと言われる︒した
がって︑出雲と並び︑吉備も大倭豊秋津島とは別の国と考えら
れていたのか︒ ︻本文︼然後還坐之時生吉備児嶋亦名謂建日方別次生小豆嶋亦名謂大野手上比売次生大嶋亦名謂大多麻上流別自多至流以音次生女嶋亦名謂天一根訓天如天次生知訶嶋亦名謂天之忍男次生両児嶋亦名謂天両屋自吉備兒嶋至天兩屋嶋并六嶋︻校異︼特に問題となるべき異同はない︒
︻口訳︼
このようなことがあって後、お帰りになる時に、吉備の児島
を生んだ。またの名は、建日方別と言う。次に、小豆島を生ん
だ。またの名は、大野手比売と言う。次に、大島を生んだ。ま
たの名は、大多麻流別と言う。次に、女島を生んだ。またの名
は、天一根と言う。次に、知訶島を生んだ。またの名は、天之
忍男と言う。次に、両島を生んだ。またの名は、天両屋と言う。
吉備の児島から天両屋の島まで、合わせて六つの島である。
︻語注︼還り坐す時 オノゴロ島にお還りになる時︵記伝・大系・集成・注釈︶とする見方が通説である︒しかし︑その場合オノゴロ島
をどこに想定するのか︒﹁還ってさらに西へ生み廻るのを﹁還坐之時﹂と示すととるのはいかがなものか﹂︵注解︶とする疑問
もある︒現実に存在した島だと見るべきであろうが︑以下の島々の並び方を見ると︑一つの方向に向かって並んでいるわけ
ではない︒したがって︑どこに向かって﹁還り坐す﹂のかは︑具体的に想定できない︒未詳︵記學︶︒吉備の児島 ﹃先代旧事本紀﹄でも大倭豊秋津島の次に生ま
ば︑野で手の作業に関わる女神の意か︒大島 山口県の東部︑柳井市東側の屋代島︵大島郡周防大島町︶
とする説︵大系・全註釈・注釈・全訳注・集成・新版︶が有力だが︑﹁な
お問題を残す﹂︵新編︶︑﹁不明﹂︵記學︶とする注もある︒柳井市
を走るJR山陽本線に大畠という駅があり︑現在はその近くか
ら屋代島に渡る橋が架かっている︒その下が﹃万葉集﹄に詠ま
れた﹁大嶋鳴門﹂︵大畠瀬戸︶とされ︑﹁これやこの 名に負ふ鳴門の 渦潮に﹂︵三六三八︶とうたわれている︒平城京の官人た
ちにもよく知られていたのであろう︒
また︑愛媛県今治市の大三島とする説もあるが︑宣長は屋代島︵山口県周防大島町︶のほか︑宗像大社の中ツ宮の鎮座する大島
︵福岡県宗像市︶などをも挙げており︑特定していない︒吉備の児島︑小豆島に続く形だが︑どちらにせよ︑順番に並んでいない︒
しかし︑宗像大社に祀られる三女神は︑天の安の河の誓約の時
に初めて登場する︒次の女島も︑国東半島の東北の姫島と見ら
れ︑瀬戸内航路の島である︒あえて玄界灘の島とせず︑屋代島
でいいのではないか︒大多麻流別 大島の別名である︒﹁名義未詳﹂︵大系・新編︶︒水が溜まることによるとする説︵全集︶︑船溜まりとする説︵全註釈︶がある︒女島 ﹁日女嶋なるを︑日ノ字の脱たるなり﹂︵記伝︶とされる︒
それを受けて︑大分県国東半島の東北︑沖合五キロほどにある姫島とする説︵大系・集成・全訳注・新版・記學︶が有力である︒周防灘の東の入口にあたり︑面積が七平方キロ足らずの小さな島
である︒だとすれば︑瀬戸内海には江田島︑大三島︑倉橋島な また︑難波津から瀬戸内航路を西に向かうと︑家島群島や小豆島などがあり︑その先に﹁吉備の児島﹂がある︒以下の島々は︑東から西へときちんと並べられているが︑そこだけが順番通り
ではない︒すなわち︑中国地方が抜け落ち︑﹁吉備の児島﹂が特筆されている形である︒それはどうしてなのか︒その点を考
えてみることも重要であろう︒建日方別 ﹃先代旧事本紀﹄でも︑吉備の児島の別名とされ る︒名義未詳︵大系・注釈・全訳注︶︒﹃万葉集﹄に﹁天霧らひ 日方吹くらし﹂︵一二三一︶という歌がある︒この﹁日方﹂は﹁風位
の名︒太陽のある方向から吹く風というが︑未詳︒︵中略︶東南風︑西南風等の説がある﹂︵時代別︶︑﹁日方風︒日の方角から吹く風
という︒東南風︑西南風説がある﹂︵多田一臣﹃万葉集全解
神天皇二十二年九月条に︑﹁吉備に幸して︑小豆島に遊したま 小豆島香川県の小豆島︵大系・全訳注・注釈︶︒﹃日本書紀﹄応 書房・二〇〇九︶とされる︒ 3﹄筑摩
ふ﹂と見える︒淡路島に狩した時の記事だが︑﹁淡路より転りて﹂
とあるので︑この時は海上を行ったものと思われる︒しかし︑
﹁吉備に幸して﹂とされているのは︑古代の交通網では吉備国
からのルートがメインだったからであろう︒小豆島は瀬戸内海
の真ん中にあり︑現在も岡山︵新岡山・日生︶・香川︵高松︶両方か
らの定期航路がある︒なお︑小豆が取れたので︑この島名になっ
たかと言われる︒大野手比売 小豆島の別名だが︑名義未詳︵記伝・大系・注釈・全訳注︶とされる︒しかし︑オホは誉め言葉︒﹁野﹂は甲類のノ
だから︑野としか考えられない︒テは手︑ヒメは女性︒とすれ