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「経済学と未練なく一生のお別れ」をした河上肇と

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(1)

「経済学と未練なく一生のお別れ」をした河上肇と

『国富論』の行方 : 関西学院への「寄贈」をめぐ って (1)

著者 井上 ?智

雑誌名 経済学論究

巻 75

号 3

ページ 27‑48

発行年 2021‑12‑10

URL http://hdl.handle.net/10236/00029967

(2)

「経済学と未練なく一生のお別れ」

1)

をした河上肇と『国富論』の行方

関西学院への「寄贈」をめぐって

2)

(1)

Kawakami Hajime’s Sale of a First-Edition Copy of Wealth of Nations to Kwansei Gakuin University

Economist, Communist and a man of letters

井 上 琢 智  

KAWAKAMI Hajime (1879-1946), an avid reader of literature as a young man, studied at Tokyo Imperial University from 1896 to 1902, specializing in political science in the faculty of law and economics in graduate school. He was appointed to the faculty of Kyoto Imperial University in 1908, where at first his research theme was the modern economics of Irving Fisher and others. He gradually came to focus on classical political economy as represented by Adam Smith’s Wealth of Nations. Kawakami also studied Karl Marx’s Das Kapital and other works of Marxism political economy. Unsatisfied by academic research, however, he retired from Kyoto Imperial University in 1928 and became more seriously involved in political activism (as seen in his change

1) 193934日の石川興二宛書簡で「お陰で愈々経済学と未練なく一生のお別れをする決心 が出来ました」(『河上肇全集』第26巻、252頁、岩波書店、1984)と書いている。なお、本

『全集』は第Ⅰ期全28巻、第Ⅱ期全7巻(「続」と表記)、別巻1巻(全36巻:1982-1986)

からなっている。本論文でこの『河上肇全集』からの引用に際しては、①、続①、別巻と略記 し、その後の数字は頁を示すが、「頁」を省略する。ただし、注では「頁」を入れる。また、石 川については、脚注28を参照のこと。引用文中における〔 〕の補足は、筆者によるものであ る。また、引用文中、縦書きを横書きに変更したため、繰り返し表記を示す縦書きで使われた略 号は、略号を廃し、文言の繰り返しで示している。

2) このテーマについての先駆的な論述は、田中敏弘「河上肇と『国富論』」および「『国富論』初版 本と河上肇博士の感想二章」(『アダム・スミスの周辺─経済思想史研究余滴─』日本経済評論 社、1985、26-28頁および29-33頁)がある。

(3)

of political affiliation from the Labor-Farmer Party to the Communist Party). When he was arrested in 1933, he declared he would leave the political movement. Although expressing his hope to engage in purely theoretical research on economics including a complete Japanese translation of Das Kapital, after release from prison in 1937 he made a “no-regrets farewell to economics forever” in 1939. He presented 670 books and other publications on Marxism, Das Kapital included, to the Probation Office of the Ministry of Justice in 1941, and he also sold off his other economics documents. At that time (1942) he sold a first-edition copy of the Wealth of Nations to Kwansei Gakuin University. He purchased books on classical Chinese poetry (kanshi) and other publications with his own funds and led the life of a man of letters, composing kanshi and practicing calligraphy. JUGAKU Bunsh¯o (1900-1992), scholar of English literature, respected Kawakami as mentor in his own life and mediated the sale of the Wealth of Nations to the university on his behalf. Jugaku said that this change in Kawakami’s life was not an abandonment of communism (tenko) but what could be called “eko,” or “conversion” — as Jugaku put in English — to the way of life pursued by a seeker of Truth.

Takutoshi Inoue

  

JEL

B19, B31, N00

キーワード:河上肇、寿岳文章、関西学院大学、『資本論』、『国富論』(初版)

Keywords:Hajime Kawakami, Bunsh¯o Jugaku, Kwansei Gakuin University, Das Kapital (Kautsky’s edition),Wealth of Nations (1th edi- tion)

目次

.

はじめに

.

河上と『資本論』と『国富論』(初版)

1.

『資本論』について  

2.

『国富論』(初版)について

.

新たなる旅 ─マルクス学者から実際運動家へ─

.

河上肇 ─経済学者から文人へ─

.

『国富論』の関西学院大学への「寄附」(以下、

4

号に掲載)

.

おわりに

(4)

I.

はじめに

1879

(明治

12

)年

10

20

日、河上肇は、河上すなお忠 ・タヅ(田鶴)の長男と して山口県玖珂郡錦見村の母の実家で生まれた。同年

3

月にタヅは離縁となっ たためであった3)。河上肇が生涯世話になった河上謹一4)はタヅの兄であった。

1888

(明治

21

)年

3

8

日、河上は岩国尋常小学校を卒業後、私立岩国学 校5)に入学し、

1893

(明治

26

)年

7

28

日に同校を卒業した。在学中、回覧 雑誌『会報』を編集・執筆した。同年執筆した「日本工業論」で肇は、「戦艦 ヲ造ラントスルヤ又之ヲ仏人ニ委任シ多量ノ金銭ヲ費ヤシ

· · ·

我レニ勇アリ武 アリ才アリ智アリト雖モ大ニ損

· · ·

是レ実ニ我邦工業ノ盛ナラザルノ至ス

· · ·

予輩ハ大ニ工業の隆盛ニスベキ必要ヲ感ズルモノナリ」と書いた。すなわち

「世人常ニ尚武ヲ唱へ敢テ工業ノ盛ンニス可キコト察セザルモノ〔此〕是々皆然リト ナス」と批判し、「強国」に必要なものは「工業化」(㉑

545-46

6)であると主 張した。

1893

(明治

26

)年

9

月、河上は山口高等中学校(山口高等学校となる)の 予科に入学したが、

11

月同盟休校事件の首謀者として除名処分とされたもの の、暮れには復学した。

1895

4

月、学制の変更により同校予科から山口県 尋常中学校第五年生に編入され、同年

7

20

日、第一回卒業生となり、

9

月 に山口高等学校の文科に入学した。当初、河上は医科を志願しようとしたり、

3) 「年譜」別巻、206頁。なお、以下の肇の経歴は、この「年譜」を基礎にしている。

4) 河上謹一(1856-1945)は、岩国藩の貢進生として大学南校に入学し、1878(明治11)年、東 京大学を卒業し、第三回文部省派遣の留学生として1879年イギリスに派遣され、ユニヴァーシ ティ・カレッジ・ロンドンでW. S.ジェヴォンズから経済学を学び、1880年からキングス・カ レッジ・ロンドンに転学し、L.レヴィーから商法外国為替等を学んで18828月帰国した。

帰国後、農商務省権少書記在職のまま、843月から東京商業学校校長となった。さらに日本 銀行取調役、日本銀行支配人等をへて、1897年日本銀行理事になり、1899年住友銀行に入社 したが、1904年辞任し、神戸須磨に隠棲した(井上琢智『『黎明期日本の経済思想─イギリス留 学生・お雇い外国人・経済学の制度化─』日本評論社、2006、151-52頁)。なお、謹一につい ては、一海知義「河上肇と河上謹一−晩年の交流−」(杉原四郎・一海知義『河上肇─人と思想

─』新評論、1986)。水田洋「経済学事始一その明治日本への導入」『思想の国際転位−比較思 想史研究』名古屋大学出版、2000、231頁)などの文献がある。

5) 岩国学校については、「防長教育会と岩国学校」(続⑤132-34)がある。

6) 『会報』一号、ペンネームは「 (㉑545-46)。なお、続⑤の表・表紙に『会報』2号の写 真が掲載されている。「岩国学校時代の回覧誌」(続⑤134-36頁)がある。

(5)

法科を志願するものに対して「弁護士

· · ·

〔は〕皆生活に困つてゐる」(別巻

207

)と聞かされた結果であった。

1895

(明治

28

)年前後には河上は与謝野鉄幹の『東西南北』(

1896

)にある

「元気のいい彼の詩」を愛唱し、国木田独歩・田山花袋・柳田国男・宮崎湖処子・こ し ょ し 太田ぎょくめい玉 茗 の『抒情詩』(

1897

)、島崎藤村『若菜集』(

1897

)に「少なからぬ興 味を感じ」、自らも「楓月」「天保狂夫」(『会報』でも使った号)を用いてさか んに詩をつくった。このように「従来身を文科に置きて窃に将来の大詩人を気 取った」河上ではあったが、「転学を思ひ立ち、幾多の故障と難関とを排して、

遂に法科に転学」し、

1898

(明治

31

)年

7

9

日卒業し、

9

月には東京帝国 大学法科大学政治学科に入学し、伯父謹一宅に寄寓した。初年度の講義では、

経済学を金井のぶる延 、

E. E.

フォックスウエル7)に、憲法を穂積八束に、国法学 を一木喜徳太郎に学び、応募した「憲法に対する一疑義に答ふ」が『万朝報』

11

15

日に掲載された。

1901

(明治

34

)年

4

3

日、河上は神田青年会館における公徳養成風俗改 良演説会での木下尚江や内村鑑三の演説に「最も心を惹かれ」「思想の上に、大 学教授の講義よりも遙かに強い影響を受けた。また、田中正造の天皇への直訴 事件を受けて

12

20

日に本郷の中央会堂8)で開催された鉱毒地救済婦人会 主催の演説会を聞いた河上は「着ている二重外套、羽織、襟巻を寄附」し、

23

日の『毎日新聞』に「特志の大学生」として報道された。

他方、

1902

(明治

35

)年

4

21

日、河上は『万朝報』の懸賞に応募し、新

7) このE. E.フォクスウェエルの東京大学お雇い外国人教師就任については、井上琢智「H. S.

フォックスウエル文書と日本」(関西学院創立125周年記念 大学図書館特別展示会『印刷技術 と聖書〜「読む」キリスト教への変容〜』2014、102、104頁)および井上琢智「フォックス ウェル文書に見るお雇い外国人簿記・経済学教師の雇用 ─東京商業学校と東京大学─」『経済学 論究』(関西学院大学)第68巻第3号、2014年、99-123頁)を参照のこと。また、アーネス

トの兄H. S.フォックスウェルについては「フォックスウェル文書について」(関西学院大学図

書館Web、「経済思想家の手稿と自筆書簡」に掲載されている。また、このデジタル資料は、同 館「デジタルライブラリー」に含まれる「コレクション紹介」に所収されている)を参照のこと。

8) のちに関西学院第四代院長になるC. J. L.ベーツ(1877-1963)は1902年来日後、1年間は 日本語の訓練をうけ、この中央会堂の担当をしていた(ルース・M・グルーベル監修、神田健 次/池田裕子編『ベーツ宣教師の挑戦と応戦』関西学院大学出版会、2019、237頁)。

(6)

体詩「花の運」が当選し、その後何回か当選した。この頃、ジャーナリストを 志し、就職運動を試みたが、不首尾に終わり、河上は

7

11

日に法科大学政 治学科を卒業したものの、穂積陳重が推挙した三井銀行入社もまた不首尾に終 わった。その後、「憲法上天皇の地位を論ず」(『明義』に掲載)、「帝国憲法変更 ノ手続二関スル疑義」(『国家学会雑誌』に掲載)するなど、法学関連の論文を執 筆する一方、キリスト教社会主義者

Richard T. Ely

French and German Socialism in Modern Times

1883

)を飜訳する一方、大学院に進学し、松崎 蔵之助のもとで、「経済史、特に近世経済政策史」を専攻し、徳川時代の経済思 想史に関する論文を相次いで発表し、河上は経済学者として出発した。他方、

穂積陳重が開設した法理学演習に参加し、

1903

2

25

日、「社会主義の勃 興と其の研究の必要」(『明義』に掲載)など、社会主義の研究を公表する一方、

8

20

日、「経済学上ノ根本問題ニ関シ現代諸大家ノ学説ヲ評シテ自家ノ所見 ヲ述ブ」を『国家学会雑誌』に公表し、経済学界デビューを果たした9)

II.

河上と『資本論』と『国富論』(初版)

「河上には蔵書の収集癖はなかったが、自分にとって重要な書物への愛着は 強く、謹呈された書物、謹呈した書物、あるいは古本屋に売った書物について、

多くの情報を残しており、そのいくつかは河上の思想遍歴を照らし出すもので ある」10)。その代表的な書物が『資本論』であり、『国富論』であった。

1917

9

30

日から

10

2

日、

12

日から

17

日までの間に

9

回にわたり掲載さ れた「マルクスの『資本論』」のなかで、河上は「従来屡々経済学上の聖書と 称せられ、或いは今も猶、時としては爾か称せられつつあるものが、古今を通 じて只二つある。即ち其一はアダム・スミスの『富』にして、其二はカアル・

マルクスの『資本』である。もちろん『富』は『国富論』を、『資本』が『資本

9) 河上肇のブルジュア経済学の研究プロセス(ピエルソン『価値論』飜訳、フィシャア『資本及利 子歩合』抄訳、ボェーム・バウェルク、タウシッグ、クラークらの研究については、「鈍根の私」

『自叙伝』、続⑤209-10)を参照のこと。詳細は、井上琢智「河上肇の経済学原論研究─『経済 学原論』への道─」(本『経済学論究』第53巻第3号、199912月、609-33頁)を参照の こと。

10) 杉原四郎『杉原四郎著作集 Ⅲ 学問と人間 ■河上肇研究■』藤原書店、2006、533頁。

(7)

論』を指し、前者が「個人主義の経済学」を後者が「社会主義のバイブルと称 される」と指摘している(⑨

133

11)

それでは、河上はこの『資本論』(初版)や『国富論』(初版)を研究対象と して手にしたのはいつであったろうか。この問いに明確に答える記述や資料を 示すことは現時点では困難である。というのは、「翻刻本があるならば、研究 上には少しも差し支えない」12)との姿勢を持つがゆえに、初版などの稀覯本の 収集をしなかったのはもちろん、加えて「我に放散の弊ありて、収集の嗜なし

· · · /

一方では、

· · ·

よく『放散』

· · ·

した」13)河上は、自らの蔵書目録などは

作っていなかった14)。これは、河上の息子政男の家庭教師を務めて以降、生涯 親しくした寿岳文章が自らの蔵書の記録「壽岳文章蔵書図書原簿」15) を残した

11) 杉原四郎はこの文章に「個人主義経済学と· · ·社会主義経済学とを二分するという構想」を読み 取り、その骨子が『近世経済思想史論』(1920)として公刊されることになったと指摘する(杉 原四郎前掲書『杉原四郎著作集 Ⅲ』193頁)。

12)〔マルクス著(大原社会問題研究所編)『原文対訳資本論初版首章及付録』の例言〕、19288 1日、弘文堂書房(⑯447頁)。

13) ノート「閉戸閑筆 其二」。なお、羽村氏蔵、河上文庫寄託された「閉戸閑筆 其一」の説明が なされているが、「閉戸閑筆 其二」への言及はない(㉑618、㉓136)。細川元雄「河上肇の書 物収集について─二通のはがきより−」(⑪「月報」13、19831月、10頁)を参照のこと。

14)「従来河上は愛書家ではあるが、書物収集家ではないと言われてきた。そして私の理解は、寄贈 本を除いて全く読まない書物については自ら収集せず、大学の研究室か図書館かで買入れ、よ り広範囲の利用を考えるというのが河上の書物に対する性向であったと思っていた· · ·」もの の、河上には「レーニンの書物をすべて取り揃えたいという河上の意志が明記され、大正十四

〜十五年頃の河上の関心領域とともに、私的収集家志向としても興味深いものである」。たしか に、レーニンについては、「レーニンの弁証法」(訳、大正14年。翌15年には『レーニンの弁 証法』として出版)、昭和に入ってからも、レーニン著(木下半治訳)『何を為す可きか』の叢書 編纂者例言(昭和4年)などを書いている(「著作索引」別巻48頁)。

 ただし、河上は京大の「公用図書主任」や「附属図書館商議会委員」に就任し、1915年には

「英文書目、独文書目」というノートを作成して、収集すべき図書を図書館司書に指示していた し、「追々自分のライブラリーを少しでも豊にせねばならぬと思ママい 立申候」と考えていた(細川 元雄前掲「月報」「河上肇の書物収集について─二通のはがきより−」10頁)。

15) この「壽岳文章蔵書図書原簿」は、寿岳の居宅「こうじつ向 日 庵」に保存されていた「向日庵資料」と 称されている資料群の中に含まれている。これは「1930123日〜19911225日」

の蔵書の原簿であり、全4冊からなり、一冊あたり5,000冊が納められている。これは「『書 誌学とは何か』〔1930〕を書いた直後から、寿岳は蔵書に登録番号を与え、受入年月日と著者、

書名、出版年などの項目欄のある原簿に書き入れ」ている(寿岳文章 人と仕事 展 実行委員会編

『図録 寿岳文章 人と仕事 展』20213月、向日市文化資料館、18頁)。したがって、最初の

(8)

のとは対照的であった。とはいえ、『資本論』にせよ、『国富論』にせよ、研究 上の必要から、その各版対照作業をする必要に迫られると、その各版を何等か の形で手許に置く必要がある。

1.

『資本論』について

河上は『資本論』を「汲めども竭きぬ知識の宝庫」と考えていたが、「付録に マルクスの学説の大綱が紹介されてあった」『最近経済論』(

1897

)の田島錦治 や「不変資本、可変資本などいふ訳語」を造語した福田徳三など同時代の経済 学者の中では、「最初ブルジュア経済学にかぢりついてゐた」ため「『資本論』

の門戸を窺ふことにおいて最後の一人であった」。ただ、経済原論に「学問に 志した発端から最も興味を感じて」いた河上は、その講義内容を「マルクス叙 述をもつて徹頭徹尾なんとしても全く抜き差しならぬものと考へて」変更した のは、

1925

年度や

1926

年度の講義からであり、

1927

(昭和

2

)年度の講義を

『経済学大綱』(

1928

)として出版した(続⑤

208-11

)。この

27

8

2

日、

宮川実に『資本論』飜訳の協力を依頼したが、それは河上が岩波茂雄から『資 本論』の邦訳の依頼を受けたため、すでに出版予告をしていた高畠素之訳『資 本論』16)よりも刊行期日を早めるためであり、

10

6

日第一巻第一分冊を刊 行した(別巻

167

)。

その『資本論』について、河上は「今確かなことは記憶にない」としながら も、「私が最初に買つて来たのは英訳本で、ドイツ語のエンゲルス版を手に入 れたのは、それよりも後れてゐる。何遍となく繙いたのは、カウツキー版〔い 登録番号「1」は、寿岳本人の『書誌学とは何か』で、最終番号「19431」は舟木祐『柳田国男外 伝』日本エデタースクール出版社寄贈本である。なお、この「原簿」1冊目の背に「壽岳文章」

とあり、表紙には“F. Mamia & Co., Osaka”とあり、同社の特製本である。

16) 高畠素之訳『資本論』は1920615日から23年にかけてに『マルクス全集』の第9 として出版された(大鐙閣)。さらに、19251025日から261015日にかけて4 冊本として新潮社(旧改訳版)から出版されている(大村泉,宮川彰編『新MEGAII

『資本論』および準備労作)関連内外研究文献・マルクス/エンゲルス著作邦訳史集成』八朔社、

1999)。その後、新改訳版が改造社から1927年に出版されている。なお、翻訳の底本は、『資 本論』「原本第六版を基礎として」いるが、旧改訳版では「カウツキー編平民版」が「非常な助 け」になってなされたものであり(改造版、第一巻第一冊「旧改訳序文」3頁)「新改訳版は、

旧改訳版(新潮社版)を基礎として幾多の修正を加えたものである」(同書1頁)。

(9)

わゆる民衆版で、当時までに

1914, 1926, 1928

年に出版されていた〕の第一 巻だが、それには購入の年月日が扉に書き残してある筈だ。カウツキー版は何 冊か持つてゐたが、ボロボロになるまで使つたのは、一冊だけである。これは 福井〔孝治〕君に進呈した〔

1942

1

26

日〕ので、今〔

1943

17) 私の手 許には残つていない。尚ほ私の手許に残つてゐたマルクス主義文献は、昭和六

1931

〕年にその筋の命により、手放しがたく思ふ物まで尽く官憲の手に収め た」(別巻

233

)。

このような経緯をへてから河上は『資本論』研究を本格的におそらく上記の 英訳版やカウツキー版を主として利用し研究を始めたのだが、「まだ、マルク ス経済学の影響は絶対にない」(続⑤

210

「最初ブルジュア経済学にかぢりつ いてゐた」(続⑤

209

)時代ではあるが、

1917

(大正

6

)年

9

月から

12

月にか けて『大阪朝日新聞』に「マルクスの『資本論』」〔連載

9

回〕を掲載し(

1918

1

1

日に同タイトルで講演し、のちに『社会問題管見』収録、⑨

132

)、

「啓蒙運動を始めるぞといふ決意」聞いた「友人小島祐馬〔と〕、櫛田民藏の両 君が、私の知らぬ間に、京都の書肆弘文堂の主人に話をされ」(続⑤

236-37

) た結果、

1919

1

20

日には「マルキストらしい色彩の現れ出した」18)『社 会問題研究』を刊行し、この『研究』

10

冊(

1919

11

20

日刊行)に掲載 したのが、「松浦〔要〕氏『全訳資本論』の批判」(⑩

456-63

)である。

この訳書について、『批評』の記者は「訳文は極めて流暢で飜訳的臭味を脱 して居て通読し易いものである。

· · ·

要するにこの訳書はマルクス研究の専門 家の仕事である丈けに、手に入つたものであり親切なものである。早く続冊が 出て資本論全訳を吾等の机上に見たいものである」(⑩

461

)と高く評価した。

この「評言を見て稍々迷つて居た」河上は、『資本論』を公刊したばかりの生 田長江が『改造』

11

月号に掲載した「誤訳の程度(松浦氏訳『資本論』の誤

17)『自叙伝』に収録されている「自画像」の第一校脱稿は194363日で多くの修正があり、

それを清書した第二校脱稿は同年103日である(続⑤492)。

18)「大正6年の『貧乏物語』、7年の『社会問題管見』は落陽の紙価を高めた名著だが、ここにはま だ人道主義者としての氏の姿しか現はれてゐない」『エコノミスト』1933215日掲載、

本人による書取<続⑤197>)。この『エコノミスト』の記事は「河上氏の思想変遷」「博士の 根本思想は大転換」(続⑤197)と評価している。

(10)

訳について)」を読んだものの生田の公刊した『資本論』を手にしないままで、

公表したのがこの書評であった。

河上は、

3

つの松浦の邦訳に該当する独文と二つの英訳を、引用書名・版本 を明らかにしないままで比較・検討し、この訳本の中には「立派な誤訳暴訳と して挙ぐるべきものが、いくらでもある、ほとんど無数にある」との生田によ る批評を紹介し、それだけで「此拙稿は全部反古にしても可い」のであるが、

「既に書き終えたる此の一文」(⑩

463

)を公刊した。

その後、生田訳を入手し、その後出版された高畠素之らの訳本を比較・検討 して書いたのが、翌

1920

(大正

9

)年

10

1

日に「三種の『資本論』邦訳」

(『経済論叢』第

11

巻第

4

号)である。この論文は、ほぼ同時期に出版されて いた「第一は、商学士松浦要氏の独力計画に成るもので『全訳資本論』と題し、

大正

8

9

月に其の『第一冊』が公にされた」もので、「第一巻第一篇の第一 章より第三章」までの邦訳であり、「第二は、生田長江氏の同じく独力計画に 成るもので、『資本論』と題し、大正

8

12

月に其の「第一分冊」が公刊さ れた」もので、「第一巻第一篇の第一章より第三章まで、及び第二篇の第四章」

の邦訳であり、「第三は、高畠〔素之〕、左右田〔喜一郎〕、坂西〔由蔵〕、高橋

〔誠一郎〕、寺尾〔琢磨〕、大塚〔金之助〕、金子〔鷹之助〕、福田〔徳三〕の八氏 が分担して訳筆を執るといふ計画」のもので、福田博士が其れに校注を加へら るゝ筈となってゐる。之は『マルクス全集』の第一期の事業に属するもの」で

「近頃公刊されたのは、『資本論』の『第一巻第一冊』である。その発行は

· · ·

大正

9

6

月になつている」(⑪

251-59

)。

この論文は、『資本論』のドイツ語原文(ただし、引用原典は示されていな い)と英訳原文(

Moore and Aveling

訳で

Untermann

の校訂本19)もしくは

19) おそらく、この英訳は利用した版は確定できないが、以下のものであろう。

Capital A Critique of Political Economy, by Karl Marx, volumeⅠ,The Process of Capitalist Production, translated from the third German edition, by Samuel Moore and Edward Aveling, and edited by Frederick Engels, revised and amplified to the fourth German edition by Ernest Untermann, Chicago, Charles H. Kerr &

Company, 1915, 1919. Capital A Critique of Political Economy, by Karl Marx, vol.Ⅱ, The Process of Circulation of Capital, by Frederick Engels, translated

(11)

William Reeves

Bellamy Library

版)を参考にしながら、松浦訳の書評と 同じく、三例を挙げて、比較・検討し、各訳本の誤訳等を指摘しているが、「そ の全体に亘つての価値判断を下すことは、暫く差控へて置くの外あるまい」と しながらも、「数年前までは殆ど思ひも寄らなかつたマルクスの資本論の邦訳 の計画が、同時に並行して三種までも着手されてゐると云ふような、マルクス 学の我国に於ける興隆を祝し、且つ三種が仮令三種までゞなくても、せめて一 種なり二種なりが、完全に最後まで遂行されて、吾々が兎も角日本文で資本論 を読み得る日の、一日も早く到来せんことを祈つ」た(⑪

259

)。

このように既刊の三種ある『資本論』邦訳の難事業に河上はどのように取り 組んだのであろうか。すでに前述したように高畠素之訳『資本論』(新潮社版、

1927

6

月「新改訳版について」)の刊行を意識して、

1927

(昭和

2

)年

8

2

日、宮川実に『資本論』飜訳の協力を依頼し、同年

10

6

日第一巻第一分 冊が刊行した。ただ、河上の邦訳事業は、『資本論首章』ではあるが、『資本論』

の各版対照に取り組むことから始めるという本格的なものであった。

すでに

1925

(大正

14

)年

6

5

日の櫛田民藏宛書簡で「資本論首章の各版 参照版発行の件、〔大原社会問題〕研究所の御同意を得ました様子、私にとつて は第一勉強になるのであり、

· · ·

多少アトに残る意義有る仕事になり、かねて 研究所に対し多年の因縁20)に酬ゆる万一ともならば、本懐の至り

· · ·

先ず第 一版を拝借

· · ·

研究所の外へ持ち出すことをお許し下さる様子

· · ·

各版参照の 底本としては、やはりカウツキー版を土台にしようと思ひますが、ついてはあ の版本を少なくとも二冊ひきさいて、表裏を台紙にはりつけ、それへ私の仕事

from the second German edition, by Ernest Untermann, Chicago, Charles H. Kerr

& Company, 1915, 1919.Capital A Critique of Political Economy, by Karl Marx, volumeⅢ,The Process of CapitalistProduction as a whole, by Frederick Engels, translated from the first German edition, by Ernest Untermann, Chicago, Charles H. Kerr & Company, Co-operative, c1909.いずれも関西学院大学図書館が所蔵している。

20) 1918年秋頃、大原孫三郎は新たに社会問題研究所を設立する用件で、河上に会見を求めたが、

研究所を社会主義思想普及の手段としたいとする河上の提案を大原は受け入れず、物別れに終 わったために、河上は東京帝国大学の高野岩三郎を紹介した(㉔94-97頁)。「創立の当初は河 田〔嗣郎〕、米田〔庄大郎〕の両君が研究員として参加されたが、私は之に加はらなかつた」(㉔ 96頁)。

(12)

を書き入れて行かうかと思ひます。

· · ·

それで研究所に沢山あるカウツキー版 を二冊頂戴できれば、結構ですが、しかし之は本屋でいつでも手に入れること が出来るのだから、毫も大事なお願いではありません。なお、弘文堂主人は、

月々四百円位のことなら、

· · ·

引続き支出して行く能力があると申して居りま す」(㉔

168

)と書いていた。

この『資本論』各版参照版のアイデアは、もちろん各版対照版である『国 富論』のキャナン版(

1904, 2 vols., 1920

2nd ed.

〉,

1922

3rd ed.

〉,

1925

4th ed.

〉)から出たものであり、『資本論』各版対照を行おうとの計画を実施 するために、『資本論』初版を手にする必要に河上はせまられた。当時日本に おける『資本論』初版の蔵書状況について、河上は

1928

8

1

日の「マル クス著(大原社会問題研究所編)『原文対訳資本論初版首章及付録』の例言」の なかで以下のように語った(⑯

446-49

)。

「吾々は先づ何よりも『資本論』の第一版が今日容易に入手しがたき稀覯本

に属する

· · ·

私の知る限りでは、京阪地方で本書を蔵するものは、今日では大

原社会問題研究所、京都帝国大学経済学部21)のほか、大原社会問題研究所の 高野岩三郎氏および森戸辰男氏、大阪商科大学の河田嗣郎氏を算へることがで

21) 河上が利用できたと思われる京都帝国大学経済学部所蔵の『資本論』は、河上が「『資本論』は図書館 からも姿を消してしまひ、学生たちはそれを一瞥することすらできなくなつてゐる昭和18年の現 在」(続⑤211-12)と書いるものであろう。なお、①Der Produktionsprocess des Kapitals, O. Meissner, 1867. – (Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie/ von Karl Marx ; 1. Bd. ; Buch 1)初版の京大経済学部図書室への購入は1928年で購入元は村上英四 郎であり、同年、②購入元が服部春一であるものがある。また、③Der Cirkulationsprocess des Kapitals, herausgegeben von Friedrich Engels. – O. Meissner, 1885. – (Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie/ von Karl Marx; Bd. 2 ; Buch 2) 版の同所蔵は、1923年で「ビュッヒャー文庫(岩崎小弥太氏寄贈)」に含まれている。さら に、④Der Gesammtprocess der kapitalistischen Produktion, herausgegeben von Friedrich Engels; T. 1. Kapitel 1 bis 28, T. 2. Kapitel 29 bis 52. – Verlag von Otto Meissner, 1894. – (Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie / von Karl Marx ; Bd. 3 ; Buch 3)T. 1. Kapitel 1 bis 28 and T. 1. Kapitel 28 bis 52の初版の同所蔵は、1923年度で「ビュッヒャー文庫(岩崎小弥太氏寄贈)<19241

〔1923年度〕受入、文庫の整理は1965年>」に含まれている。なお、河上が京大所蔵本に言 及したのが、192881日のことなので、同時期の所蔵された①もしくは②を指している のであろう。これらの情報については、後述の『国富論』に関するそれと同様、京都大学経済学 部図書室のお世話になりました。記して謝意を表します。

(13)

きるが、二三年前までは、私はそれがたゞ大原社会問題研究所に蔵されてゐる ことを知つてゐるのみであつた。私自身は久しき以前より一本を入手せんこと を希望してをり、知人の海外に遊ぶものある毎に、もしも之れを発見したなら ば価を問わず購入してくれよと依頼するを常としてゐたが、遂にこれを入手し えなかつた。たゞ、一二年前海外の一書店にその売品となれるものあることを 知つたけれども、それは余りに高価であつたため、私は遂にこれを断念せざる をえなかつた。アダム・スミスの『国富論』第一版の如きは、『資本論』第一 版に比すれば、約百年以前の刊行に属するが、今日これを入手することは必ず しも困難でなく、現に蔵書の乏しき私でさえ一本を蔵してゐるほどであるが、

『資本論』第一版は、今より約六十年前の刊行に属するにも拘らず、それは遙か に入手しがたき稀覯本に属するのである。尤も如何に稀覯本であつても、もし その翻刻本があるならば、研究上には少しも差し支えない。

· · ·

『国富論』につ いては、−各版の異同は『資本論』に比較すれば極めて些細であるにも拘わら ず、キャナン教授の綿密なる各版対照合本がある

· · ·

。此の如く『資本論』第 一版は、稀覯本であつて、しかも翻刻本がない」。「最初私は、大原問題研究所 の嘱託により、『資本論』の首章の各種版本の異同22)を─キャナン版の『国富 論』に倣つて─ 一冊子に纏める計画を樹てた。

· · ·

『資本論』の

· · ·

第一版と 第二版との間において、あまりに湛しきがために、これを見易きやう簡単に纏 めることは、技術上殆ど不可能である。それゆゑに最初の計画を抛棄し、初版 における原文だけを日本語訳と対照して翻刻することに計画を改めた。

· · ·

」。

「リプリントの基本として使用されたものは、マルクスが嘗て友人クーゲルマ

· · ·

に署名して贈つた稀有の珍本で、大原社会問題研究所の所蔵」本であっ

た。いずれにせよ、河上はその研究に使った『資本論』は主としてカウツキー 版であり、その初版を手に取り研究したのは、この「各版対照版」の編集の際 であり、生涯にわって蔵書とすることはなかったと思われる。

22) 河上には、「資本論第一版と第二版との相違」『経済論叢』第21巻第3号、1925)がある(⑭

240-51)。なお、この比較に際して用いた初版は「私の知る限りにおいて、日本では、大原社会

問題研究所がこれを備えてゐるだけ」のものであり、第二版とカウツキー版との三つの版を比較 している。

(14)

このようにして河上は宮川との共訳として岩波版『資本論』第一巻第一分冊 を「完全に邦語に移植しうると自信するものではない」けれども「世運の急な る、これが普及の一日もゆるが忽 せにしがたきを信」じ、「実現されうる最廉の価格」

(⑯

425-26

)で

1927

(昭和

2

)年

10

6

日刊行し、第一巻第五分冊〔文庫本〕

の出版は、

1929

(昭和

4

)年

6

月で、同改造社版の第一巻上冊の刊行は

1931

(昭和

6

)年

5

月であった。この岩波文庫版第一分冊『資本論』の「邦訳への 序言」(

1927

10

6

日)で「翻訳の台本となしたるものは、カウツキーの 普及版(

Volksausgabe, herausgegeben von Karl Kautsky, Stuttgart, 1921

) と明言している(⑯

427

)。

2.

『国富論』(初版)について

1923

(大正

12

)年

6

5

日には後に詳述するように滝本誠一旧蔵書を所蔵 することになる『国富論』の入手状況を示す情報を『資本論』ほど現時点では 得られていない。『資本論』と同様、『国富論』の邦訳史および各版対照を行っ た「竹内法学士訳『富国論』」〔『経済論叢』第

14

巻第

4

号、

1922

〕で、『国富 論』の河上の利用状況を知ることができる(⑪

458-63

)。

河上は日本における邦訳二種を挙げ、「最も古い」ものとして石川瑛作訳の

『英国亜当斯密氏著、富国論』(

1884-85

)を挙げ、次に三上正毅訳の『アダム・

スミス富国論 全』(

1910

)があると指摘してのち、これが「アシュレーの抜粋 本の飜訳」と注記した。そしてこの「竹内学士の企てられたものは其の全訳で

· · ·

定本にはキャナンの校訂本〔

1904

〕が用ひられ

· · ·

差当たり公にされたの

は其の第一巻であるが、二巻、三巻とも近く公刊せらるゝ筈だという」。

その上で、河上は三種の『国富論』の冒頭の邦訳を比較して、「竹内氏の訳文 が一番善いに相違ないが、

· · ·

石川氏の訳文

· · ·

三上氏に比較して、遙に原文に 忠実なのは勿論、一々の単語についても略ぼ同様の違ひがある」(⑪

459

)。と はいえ、キャナン版には「頭注を揚げ、又脚注を附せり 余は之に益せられた る所甚だ多し」と竹内は書いているにもかかわらず、「読者に頒つことに甚だ吝 なるは何故であるか?」と尋ね、其の例として「第一篇第五章」を挙げて、「後 の版に

Equal quantities of labour, at all times and places, may be said

〔こ

(15)

のイタリックは河上による〕

to be equal value to the labour

と書いてある所 は、スミス原本第一版では、

Equal quantities of labour must

〔このイタリッ クは河上による〕

at all times and places be of equal value to the labour

と なって居り、又それに引続く言葉は、同じく第一版では、たゞ

He must always lay down the same portion of his ease, his liberty, and his happiness.

とな つて居る〔

vol.

, p. 38, l. 23-25

〕のに、第二版以降では、之に条件を加へて

In his ordinary state of health, strength and spirit; in the ordinary degree of his skill and dexterity, he must always · · ·

となつて」おり、「勿論キャナ ン脚註(1)に明記してあることであるが

· · ·

訳者は

· · ·

総て無視して居られる」

と指摘した上で、その脚注

(1)

に河上は、

(1) vol.

, p. 35

〔これは、第一 篇第

5

章の最初の頁数である〕」と付記している。なお、このキャナンによる 注は以下の通りである。1[Ⅰ

reads ‘Equal quantities of labour must at all times and places be’

]、2

The words from ‘In his ordinary state of health’

to ‘dexterity’ appear first in ed. 2.

](

Cannan ed., p. 35

)。

1923

(大正

12

)年

6

5

日、京大経済学会主催で「教授の方からは殆ど他 に手伝人が無つた」が「陳列は本庄君が主として骨を折られた」(㉔

522-23

「アダム・スミス生誕二百年講演会」23) が開催され、滝本誠一は自ら所蔵す

23) この「アダム・スミス生誕二百年」では講演会とともに「展示会」が実施されているが、1916 年には「マルサス生誕百五十年記念展覧会および記念講演会が開催されている(『京都大学経済 学部百年史』1999、270-71頁)『大阪朝日新聞』(192365日)は「スミス生誕記念に 際して」の記事を掲載し、『中外商業新報』(192365日)は「学者の口から躍如たる経 済学始祖の面目−帝国大学に於ける都下大学連合生誕二百年記念講演会─」の記事を掲載してい る。この講演会は、「都下各大学連合のアダム・スミス生誕二百年記念講演会は三日午後一時か ら帝大法学部第二講堂に開かれ金井博士の開会の辞の後早大塩沢、慶大高橋、帝大山崎、商大福 田の各教授が立ってスミスの諸方面を論じ同六時二十分阪谷男の閉会の挨拶で散会した、当日は 各大学の経済学者は素より阪谷男、添田博士、志立鉄次郎、井上準之助諸氏の顔も見え頗る盛会 であった、諸氏の講演の大要は左の通りである」。講演者とタイトルは以下の通りである(内容 は省略)。塩沢博士「経済学に於ける想源としてのアダム・スミス」、高橋教授「スミスと重商主 義」、山崎博士「貨幣問題より見たるスミス」、福田博士「厚生哲学の闘士としてのスミス」「厚 生哲学の闘士としてのアダム・スミス」<『商学研究』第3巻第2号、191312月として公 表>)。出典はいずれも、神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」デジタル版である。

 この福田の講演直後に左右田喜一郎、高橋誠一郎、三浦新七から批判があり、論文公表後には 杉村廣蔵が「福田博士の『アダム・スミス論』(同誌第3巻第3号)で、また京大の谷口吉彦が

(16)

「アダム・スミスの学説に関して福田博士の教えを乞う」『経済論叢』第18巻第5-6号、1924 3月)で福田を批判した。それに対して福田はそれぞれに反論した。これがいわゆる「アダ ム・スミス論争」と呼ばれるものであるが、福田はその『福田徳三全集』(1925-26)には、本 論文を再録しなかった。そのために『福田徳三著作集』でも再録しない予定である(詳細は、金 沢幾子編『福田徳三書誌』2011、日本経済評論社、560-61頁)。

 なお、An inquiry into the nature and causes of the wealth of nations, by Adam Smith; v. 1, v. 2. – Printed for W. Strahan, and T. Cadell, 1776. (London) 版の受入(上野文庫:創設は1956年)は1957年と1983年であり、An inquiry into the nature and causes of the wealth of nations, by Adam Smith; vol. 1, vol. 2, vol.

3. – Printed for Messrs. Whitestone [and 19 others], 1776. (Dublin)の初版の受入 は、1923年で購入元はSweet & Maxwellであるが、この初版ダブリン版の2セット目は、

1975年に受入(上野文庫)れられている。なお、この京大の「生誕二百年」について、 本庄栄 治郎・岡崎文規・河上福平共編「スミス関係書目」『経済論叢』第18巻第1号、370-82頁、

19241月)に付されたのがこの書目である。第1類 スミスの論著・書簡及び伝記,第2 スミスに関係ある和書に二大別され,それぞれさらに細分されている。これとは別に『経済論 叢』の同じ号の本庄栄治郎「記念会記事」があり、そのなかに展覧会の陳列品の説明と出品者別 目録(383-94頁)がある。杉本俊朗は「<文献紹介>アダム・スミス書誌解説(『国富論』刊 200年特集 文献紹介)『経済資料研究』京都大学、12号、1977、34頁)で「当時主要 出陳品目録が配布された模様であるが,これがどんなものであったかわからない」と書いてい るが、河上のもとで学んだ堀経夫は19229月、東北帝国大学助教授に就任し、翌238 1日神戸港を出港し海外留学をした。その間の192365日に「生誕二百年」が開催さ れているが、堀はこの記念会に出席し(476頁)、この目録を手にし、タイトル上に‘T. Hori’

とサインしている(この目録は、現在関西学院大学学院史編纂室に所蔵されている堀経夫が河 上肇の講義を筆記したノート(「NOTE: DISTRIBUTION OF WEALTH, HISTRY OF ECONOMICS(京都帝国大学受講ノート)/ By Prof. Kawakami(河上肇)」期間:1919 9月〜97日<469頁>)に挟み込まれている(『国富論』初版は8部出品されている) これについては、堀経夫「リカードゥ研究50年の回顧」(本『経済学論究』第36巻第4号、

1973)を参照のこと。これは、経済学史学会関西部会大会(1973610日)での講演で ある。同講演録は、堀経夫博士喜寿記念事業委員会編『経済学の研究と教育の五十年』非売品、

1973年、11月、467-91頁)に再録されている。なお、杉原四郎は「河上肇の初期の経済学史 講義」『関西大学経済論集』第234/5号、1973<杉原四郎『日本経済思想史論集』未来社、

1980、284-305頁に再録>)の執筆に際して、「大正中期の河上の学史講義については、· · · 有者の御厚意で私はこの二つのノート〔他は福田有作の受講ノート〕を参照することができた」

(『関西大学経済論集』28頁注3<再録、286頁>)と書いているが、分析はしていない。

 なお、田中敏弘は前掲論文「河上肇と『国富論』」で「博士の脳裏には『国富論』初版がスミス 生誕二百年〔1923615日〕に· · · 陳列されたことが懐かしくうかんでいたと思われる」

と書いている(27頁)。なお、このエッセーで田中は、関西学院大学の購入日が、19423 9日であったことについて、河上「博士は多分わざわざえらばれ」、その理由を「3月の〔日本 軍の〕ジャワ侵攻が開始されたころ」(27頁)であり、『国富論』の公刊が39日であったこ とに因んでいると推測しているが、その明確な根拠を示す資料は今のところ発見しえていない。

(17)

る『国富論』初版を出品し、河上は「スミスの著作」を講演した。そのなか で「生前に公にした著作は二部で

· · · The Theory of Moral Sentiments. · · ·

その初版は一七五九年

· · ·

生存中第六版まで重ねられた。

· · · An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations · · ·

没後公にされた著作

は二つ

· · · Essays on Philosophical Subjects · · · Lectures on Justice, Police,

Revenue and Arms

後者は

· · ·

キアナン教授が校閲して出版したもの」と紹 介しているが、『国富論』等の展示の様子についての言及はない(⑭

531-32

)。

III.

新たなる旅 ─マルクス学者から実際運動家へ─

「大正十三〔

1924

〕年頃に始めた経済学から哲学への新たなる旅」を河上 が始めたが、それは

1921

年の刊行した『唯物史観〔研究〕』を書評した『エコ ノミスト』の筆者が「ここではまだ、

· · ·

全然所見を示してゐな」かった河上 が「マルキシズムの哲学的基礎である唯物弁証法」を求める旅であった(続⑤

216

)。その旅の結果「昭和の始め頃に漸く私は本物のマルクス学者として自 分を仕上げたることが出来た」と思った河上は、「経済原論の講義が徹頭徹尾

『資本論』の解説そのものになり」「もはや私が大学教授として止まることが出 来なくなり」「無産者運動の実践に接近」することとなった(続⑤

244-45

)。

その途上、前述のように

1927

(昭和

2

)年

10

6

日には岩波文庫版『資本 論』第一巻第一分冊を刊行し、

10

14

日には京大社研大会に指導教官として 出席し、講師に森戸辰男を紹介し、同月大山郁夫とともに上野書店刊「マルク ス主義講座」の監修者となったし(続⑤

245

)、

1928

1

29

日の普選最初の 総選挙で労農党の山本宣治のための演説を引受けるなどした。それに対して、

3

15

日共産党への全国大弾圧があり、

17

日には岩波書店の争議に対して争 議団を支持する書簡を河上が岩波茂雄に出したことで、岩波書店との関係は悪 化していった(別巻

242-43

)。

そのようななかにあって

1928

(昭和

3

)年

4

1

日には『資本論入門』第 一巻第一分冊(弘文堂、

1929

2

25

日第

8

分冊刊行)を刊行したが、京都 逆に、当初の代金支払いの予定は、33日であったが、寿岳に同道すべき「同大学司書、文学 士武藤誠文学士の都合」延期になり、69日となったとのことである(㉓316頁)

(18)

帝大の学生も含まれていた共産党への弾圧のために、文部省や京大学内では河 上の進退が問題となり、

4

16

日には総長から辞職の勧告があり、翌

17

日に は京都帝国大学に辞表を提出するととともに、同時に新聞記者団に「辞表理由 書」24)を公表し(⑯

157

、続⑤

258

)、

4

18

日に依願免本官され、京大社研 に解散命令が出された(別巻

244

)。

その後、

1930

(昭和

5

)年

1

2

日、東京へ移転するまでの間に『経済学 大綱』(

1928

)、『資本論入門』(第一巻上冊、

1929

4

月)、『マルクス主義経 済学の基礎理論』(

1929

12

月)などを刊行する一方、

1928

12

22

24

日の間開催されていた新労農党結成大会開催の最終日に解散命令が出て、他の 代表者とともに検束、当日釈放、

1929

2

15

日三条青年会館での全国農民 組合聯合大会で演説・検束、

3

15

日、三条青年会館での山本宣治(

3

5

日 刺殺)の告別式での「告別の辞」の朗読前に中止となるなど「実践」を果たし ていった。まさに河上が書くようにこれら「無産運動の実践への関与が、一切 の予定を狂はし」、「昭和三年末、静かなる書斎生活の終焉」(続⑤

266

)が訪 れた。

1930

(昭和

5

)年

1

2

日の東京移転を河上はこの「新労農党への参加は 私にとって退却でなく一つの進出であった」と評価したものの、「最初から駄 目だった」(続⑤

341

)との認識が示すように、

1930

10

11

日「労農同盟

24) 河上は、この「辞職理由書」(日付は16日)のなかで「(一)マルクス主義講座の広告文にある 余の文章の不穏当なること、(二)香川県に於て選挙の際余のなしたる演説に不穏当なる箇所あ りしこと、(三)社会科学研究会々員中より治安を紊乱する者を出だせしこと」との辞職勧告に 対して河上は「毫も辞職の必要を認めざるものなれども、· · ·総長及び余の属する学部の意思を 尊重すべきものと認め、茲に辞意を決定する」と書いた。それに対して「学問上において博士と 論争すること、· · ·しばしば」であった福田徳三は「笛吹かざるに踊る」(1928424 五月八日『東京朝日新聞』<井上琢智編『厚生経済研究』「福田徳三著作集」第19巻、信山社、

2017、361頁>)を書き、「博士に退職を強要した理由なるものは、形式的にも、実質的にもな

んらの意味をもたざるものである。河上博士が断乎としてこれを否定したのは当然千万なこと である」と強く総長・学部を批判した(同上、369頁)。この福田の記事について『東京朝日新 聞』(193059日)は、福田の死に際して「· · ·時々発表していた論説には独特のカミソ リのごとき鋭さを含有し、昭和三年四月、労農党の解散にともなって各大学に加えられた当局の 圧迫を怒って公開した博士の「笛吹かざるに踊る」の一文は、世人の記憶に残るところである」

との記事を掲載した(金沢幾子編前掲書『福田徳三書誌』289頁)。

(19)

の革命的本質」のなかで「即時解消の理論的根拠を示し」、「常任委員会で即時 解消論を唱え」たため、河上は、上村進、神道寛治とともに、

10

23

日に除 名された(別巻

250

)。なお、この新労農党は

1931

7

月まで存続した。除名 後の

1930

12

月には『資本論』の翻訳に専念したこともあり、翌

31

5

18

日に宮川との共訳の『資本論』第一巻上冊(改造社)を刊行した。さらに

「三十二年テーゼ」(ドイツ語版)を

1932

(昭和

7

)年

6

28

日、村田陽一と 共訳し、パンフレットとして公表したが、その訳文が『赤旗』に掲載された。

そのこともあり

8

12

日、急遽地下潜伏を強いられ、その翌日

13

日〜下旬 に、河上は日本共産党中央委員会より、党員に推薦されたことを知り、「たう たうおれも党員になることが出来たのか!」(正式な入党は

9

9

日)と「喜」

んだ(別巻

252

)。

IV.

河上肇─経済学者から文人25)へ─

1933

(昭和

8

)年

1

12

日、大塚武松、吉川宗充、櫛田民藏、西川一草亭の 東京出張所、蟹江誠三医師、椎名剛美へと続いた地下潜伏の地での逮捕であり

(別巻

252

および同巻杉原四郎「月報」

36

2

)、中野警察署へ連行留置(続⑥

64

)され、

1

26

日、検事は河上を治安維持法違反の容疑で起訴状提出した。

1933

4

18

日、池田予審判事に提出した「今後の生活方針」で、「

· · ·

刑以前にもし釈放の許可を得ましたならば、私はぜひ『資本論』の飜訳を完成 いたしたいと考へて居ります。

· · ·

今回モスカウのマルクス・エンゲルス研究 所から校訂本が出版されることになつて居まして

· · ·

今後はそれが底本となる 筈でありますが、〔同研究所の決議により〕日本語訳を委託されて居り

· · ·

れを老後における最後の事業として是非完成致したく存じてゐるところ」(続

122

)と書いた26)。しかし、

1934

(昭和

9

)年

1

16

日、教務主任に提出

25) 一海知義『文人河上肇』藤原書店、2010、「一海知義著作集 6」。なお、この本の「二人の文人」

として漱石と河上とが扱われているが(9頁)、同時に、この二人を「現代漢詩人」と評してい る(30頁)。

26) 193381日、公判が開かれ、検事は、懲役7年を求刑、88日、懲役5年の判決、た だちに下獄決意した(続⑥185頁)。その日に『赤旗』は河上除名の記事を掲載した(別巻、254 頁)。なお、肇の甥河上荘悟は「実践から身を引く」と河上が声明し「党から除名されました」

と記している(『河上肇と左京─兄弟はどう生きたか─』かもがわ出版、2002、27頁)

(20)

した「現在の心境」では、「実際運動は、合法的のものであろうと否とは問わ ず、全く之と関係を絶つ決心であります。

· · ·

マルクス主義レーニン主義の研 究も最早や廃止する決心であります。

· · ·

かねてより計画し来れるマルクス原 著資本論の飜訳も最早や断念する決心をいたしました」というものの、あくま でも「マルクス主義の基礎的理論に関して、

· · ·

之を根本的に訂正する必要を 感じて居りませぬ」(続⑥

277

)と書いた。それゆえ、同年

12

16

日、「甚だ 勝手な申分のやうでありますが

· · ·

一ヶ年前に申上げた私の出獄後の方針なる ものを此際一応訂正し、

、 純

、 理

、 論

、 的

、 研

究は之を継続するものと御承知置き願ひた いのであります」(㉒

597

)と「経済原論研究」の継続を述べた。ところが、

12

21

日には、「合法非合法を問はず実際運動と絶縁すること、政論

· · ·

に筆 を絶つこと、マルクス主義に関する宣伝(プロバガンダ)を目的とする

· · ·

筆を断念すること、これらは以前の決意と少しも変化はありません。一、ただ

、 純

、 理

、 論

、 的

、 研

究は出獄後之を継続するや否や、現在の所では

、 未

定であると御承認 願ひたく存じます」と書いて、「

、 純

、 理

、 論

、 的

、 研

究」ですら、その研究遂行の意志 を後退させた。

1934

(昭和

9

)年

12

26

日、「決意の恢復」と題して著書・

論文・パンフレットの執筆はもちろん「純理論的研究に属する諸著作又は翻訳 等をも一切断念し、完全にマルクス主義と絶縁することに致したく存じます」

(㉒

604-05

)と書いた。ここで、河上は、実際運動、さらにはマルクスの理論

研究をも抛棄する決意を表明した。この決意は、

1935

(昭和

10

)年

2

1

日 になると、担当検事から「何か研究せよ」と言われ、「宗教肯定の立場から仏 教の研究」(㉒

607

)に従事する一方、「この頃から、本格的に短歌や詩をつく りはじめる」(別巻

257

)ように変った。

1936

(昭和

11

)年「〔谷内〕所長、

4

月上旬、河上の仮釈放を本省に上申」

(続⑥

406

)、

4

18

日「宗教(仏教)とマルクス主義」(未定稿)を提出し、

4

20

日、所長宛て同稿を出獄後修正のうえ発表する許可願いを提出した(㉒

610

)。

10

13

日、指定用紙に「釈放後の生計方針」を書くように命じられ、

何度か書いたものの、修正を求められ職業欄に「恩給としての収入が月に百数 十円ある筈ですから、私は出来るだけ生活を簡素にして、なるべく人類の進歩

参照

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