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マレーシアのイスラムの中心地コタ・バルを訪ねて

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Academic year: 2022

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マレーシアのイスラムの中心地コタ・バルを訪ねて

著者 鈴木 早苗

権利 Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization (IDE‑JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名 海外研究員レポート

ページ 1‑2

発行年 2006‑03

出版者 日本貿易振興機構アジア経済研究所

URL http://doi.org/10.20561/00050062

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- 1 -

      2006 年 3 月 31 日        鈴 木  早 苗   

マレーシアのイスラムの中心地コタ・バルを訪ねて     

2 月半ば、マレーシアの都市、コタ・バル(Kota Baharu)を訪れた。コタ・バルはマレー シアの東北部クランタン州の州都で、タイとの国境に位置する都市である。クランタン州は マレー人が多くを住み、イスラム教を信仰している。市内の中心には、クランタン州立モス クがあり、マレーシアにおけるイスラムの中心地であると思い知らされる。今回はクランタ ン州都、コタ・バルの町の様子、人々、歴史などについて報告する。 

 

(1) タイとの国境の街 

コタ・バルからタイの国境までは約 40 キロ。マレーシアと国境を接するタイ南部にはイス ラム教を信仰する人々が多く住んでいる。仏教国タイではマイノリティーだ。1970 年代から、

これらの人々はタイからの分離・独立運動を繰り返してきた。タイ政府はマレーシア政府がこ の分離独立運動を密かに支援していると非難してきた。具体的には、マレーシア政府が、タ イ南部のイスラム過激派に軍事訓練を供与しているというものだが、マレーシア政府はこの 事実を否定している。 

2004 年にも大規模なイスラム過激派による暴動が起こり、タクシン・タイ首相は鎮圧に乗 り出した。その弾圧のため、マレーシア国内に難民として流れ込む人々もいた。マレーシア ア政府はこの件でタイ政府に説明を求めている。この件を直接担当した首相特別秘書官によ ると、タイ南部の問題はイスラム対仏教という宗教的なものではなく、タイ政府がバンコク を中心とする都市部の経済発展に力を入れ、地方の経済発展を軽視してきた結果、タイ南部 の貧困化が進み、貧困層が反政府勢力となって暴徒化したためであるという。 

 

(2) 人々・食べ物・伝統工芸その他 

  コタ・バルはマレー半島東海岸から車で 20 分という距離にあることから、日差しも強く、

常に海風が吹く街だった。市内を闊歩する健康そうな女性はほとんどがマレー系でイスラム 教を信仰し、チュドンと呼ばれるスカーフを頭に巻く。コタ・バルの気候のせいか、その服装

(バジュ・クロンと呼ばれる寸胴のかぶり服)はクアラルンプールより色彩が派手な気がし た。赤、青、黄、緑、といった原色の色が目立ち、大柄の花が描かれているものをよく目に した。聞けば、クランタンのバティックの柄などだという。 

バティックと並び、もう一つ、クランタン州の伝統工芸品はソンケットと呼ばれる金や銀 の糸をふんだんに使った絹織物だ。マレー人男性が正装する際、腰巻として利用される。こ の織物の柄は基本的には格子柄である。どことなく、タイの織物の代表的な柄に似ている。 

市内の中心に建つ州立モスクに寄り添うようにセントラル・マーケットがあった。そのマー ケットの三階には、ひしめくようにバティックやソンケットなどの布地が売られていた。ブ ースのように仕切られたお店にはまたもや派手な色の服を着たおばちゃんたちが布を売って

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- 2 - いた。 

イスラム教徒が多く住むコタ・バルでは当然の事ながら、ほとんどのお店ではお酒が売られ ていない。中国料理のお店もごくわずかである。酒好きの私としては、夜の食事はお酒があ ってこそ話が弾み、お店につい長居してしまう。だが、マレー人はお酒も飲まないのに、お 店でおしゃべりに花が咲く。彼らはかなりの宵っ張りである。ここコタ・バルでもその習性 を垣間見ることができる。それはナイトマーケットだ。クアラルンプール市内でも数多くの ナイトマーケットが開かれている。それぞれのマーケットは基本的に週に一回、曜日を決め て開催している。私の住むバンサー地区は毎週日曜の夜にナイトマーケットを開く。しかし、

コタ・バルのナイトマーケットは年中無休、毎日 18 時から始まり、夜中の1時ごろまで続く。

屋台の脇に座って夜更けまで話し続けるコタ・バル人。そして、朝8時にはセントラルマーケ ットで野菜や肉、布を売り始める。寝不足にならないのだろうか。朝が弱い私は不思議で仕 方がない。 

日々の食事を垣間見るため、地元の人々がよく出かけるレストランに行ってみた。そこに は生野菜、魚の唐揚げ、カレー、鶏肉の唐揚げと豊富な食材が並んでいた。それぞれの食材 を別のお皿に取り、ご飯のお皿とともにテーブルに並べれば、クランタン州の伝統的な料理 の出来上がり。好きなだけ欲しいものを取り、おしゃべりをしながらにぎやかに食べる。途 上国の地方は貧しいとの感覚を少なからず持っていた私は、餓死者の記録がないというマレ ーシアの豊かさを実感した。 

 

(3) 日本軍侵攻の足がかり 

  コタ・バル市内にあるムルデカ広場(独立広場)の脇に、第二次世界大戦記念館という建物 がある。実は、コタ・バルは 1941 年 12 月 8 日、日本軍がマレー半島に最初に上陸したところ だ。日本軍は、時を同じくして、中立国家タイにも進出し、タイ政府から日本軍に協力する 了解を取り付け、その見返りとしてタイ政府にクランタン州、トレンガヌ州などのマレーシ ア北部の州をタイに譲渡する合意まで成立させていた。もちろん、米国、英国、(旧)ソ連 を中心とする連合国軍に日本は降伏し、この合意は無効になった。この記念館は日本軍がマ レー半島に侵攻し、同半島を支配していた英国を降伏させ、半島全土を支配下に置く過程、

その後、連合国軍に降伏する経緯までを写真や日本軍が残していった遺品などとともに紹介 している。 

  この日本軍がマレーシアに残した痕跡のなかで、その後のマレーシアの歴史に大きな影響 を与えたのが、抗日戦線と結びつき力をつけたマレー共産党の台頭である。日本軍に対する 抗日戦線(ほとんどが中国系だったようである)がマレー半島に起こり、それは中国の共産 化の影響から広がりつつあったマレー共産主義勢力と結びついた。日本からマレー半島の支 配権を取り戻したい英国は日本軍に対抗させるため、この抗日・共産主義勢力を支援した。

記念館に置かれた説明文によれば、これが、マレー共産党の発祥だという。マレー共産党は 第二次世界大戦後、マレーシアを共産国家にしようと政府にさまざまな働きかけを行ったが、

多くの場合、ゲリラ化し反政府運動を展開した。独立直後のマラヤ連邦、その後のマレーシ ア政府が国内安定のために最も力を注いだのがこのマレー共産党の撲滅であった。 

参照

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