1.はじめに
1989年の東ヨーロッパ諸国の改革以来,中央ヨー ロッパでは特に都市における変化が著しい1)。ドイツ 統一とともに首都となったベルリンをはじめ,ワル シャワやプラハ,ブダペストなど中央ヨーロッパ諸国 の主要都市は,あたかも永い眠りから突然目覚めたか のような変貌ぶりである。そうした変化は,いわゆる 都市の再生事業の名の下に,建築物の建て直しや修復 作業にも現れている。あちこちに腕の長いクレーンが 立つ都市は,さながら巨大な工事現場と化している。
筆者は,1990年代以降の中央ヨーロッパの都市の変 化に目を向けてきた。その間,特に強い印象を持った のが,都市の中でもとりわけ旧市街地の変化がめざま しい点であった。具体的には,①歴史的建築物の修 復,再建,②老朽化した建築物の建て直し,③道路の 補修や歩行者用通路の整備,④中心商店街の拡充など があげられる2)。いずれも,旧市街地が中心性を取り 戻すことを念頭に置いたものであり,都市の歴史を物 語る旧市街地を尊重するヨーロッパならではの動きと みることができる3)。
このように中央ヨーロッパの都市では,歴史的建築 物や景観を重視する都市整備事業が進められている。
整備対象の建築物や地区の選定など具体的な事業は,
もちろん事業主や行政の意思決定によっている。事業 の対象地区の機能や住民の特性,建築物の所有関係な ど都市整備事業は,政治や経済,社会などさまざまな 視点からの関心事になっている。地理学においても,
たとえば山本(2007)は,ドイツにおける都市政策の
枠組みとプログラムを紹介し,都市ガバナンスのあり 方についての検討を加えている。また,ドイツの都市 における整備事業の進展を分析した伊藤(2003)とIto
(2004)は,住民の特性によって住宅整備の動向が大 きく異なり,結果として住宅景観に差異が生じる点を 指摘している。
しかし,中央ヨーロッパの都市では,なぜ歴史的景 観が重視されるのか,といった疑問についてはどうだ ろうか。グローバル化が進む現代世界において都市の 景観がいずれ近似する傾向にある中で,中央ヨーロッ パでは歴史的な都市景観が維持され,あるいは整備さ れていること,これによっていわゆる「ヨーロッパら しい」都市景観が保たれている点をどのように考えた らよいのだろうか。
歴史的景観の保全は,ヨーロッパの当事者にとって は自明のことなのかもしれない。しかし,ヨーロッパ の外からこの地域を理解する際には,検討しておくべ き根本的な課題であるように思われる。ヨーロッパの 都市景観が歴史的に形成されてきたことは言うまでも ないことだが,都市の景観が積極的に維持されている 点に目を向けたとき,そこには景観への価値づけと,
ヨーロッパの人々の都市に向ける何らかのまなざしが あると,筆者は考えている4)。
そこでこの小論は,中央ヨーロッパの都市において 積極的に進められている歴史的建築物の修復など景観 の整備に注目し,その意義について考察する。その 際,都市整備の対象となる建築物や景観が,第二次世 界大戦前,特に19世紀後半から20世紀前半にかけての 時期につくられたものである点に注目する。この時期 に都市に向けられた都市内外の人々のまなざしが,あ
中央ヨーロッパにおける都市景観の意義
*−ブダペストの旅行ガイドブックを用いた考察−
加賀美 雅 弘 地理学
**(2 0 0 7年8月3 1日受理)
* Significance of urban landscape in Central Europe : Viewed in tourist guidebooks on Budapest / KAGAMI Masahiro
** 東京学芸大学(184―8501 小金井市貫井北町4―1―1)
るべき都市の形態を生み出したのではないかと考える からである。具体的な事例としてハンガリーのブダペ ストを取り上げ,まなざしを反映するものとして,当 時刊行された旅行ガイドブックの記述内容を整理し,
いかなる場所や建築物が注目されていたのかを引き出 す。これによって当時形成されたと考えられる都市像 を浮かび上がらせ,それを踏まえて今日行われている 歴史的景観の整備の意味を検討する。
2.近代化とともに形成された都市景観
中央ヨーロッパの都市にはかなり共通した景観がみ られる。キリスト教会が建造され,その高くそびえる 塔が都市のランドマークになっているほか,類似の様 式を持つ建築物が多いこともその理由の一つである。
近代以降でも,バロック,新ゴシック,新ルネサン ス,ユーゲント様式などの建築様式は,国を超えて ヨーロッパ各地で受け入れられ,共通の都市の景観を 構成している。教会の多くが新ゴシック,大学や劇場 が新ルネサンス,行政官庁には新古典主義の建築物が 国を超えて多くみられるのも共通しているが,それは それぞれの建築様式の意味がヨーロッパで一様に理解 されているからである。建築様式に対する共通の価値 観があることから,ヨーロッパ各地に類似の景観が生 み出された。この点でこれら建築様式は,まさにヨー ロッパ共通の文化であるといえよう。
もちろん,都市がこうした景観の類似性を持つ背景 には,地域間における情報の流動が活発になされてき たことがあげられる。特に19世紀以降の近代化ととも に交通網が整備され,人の移動が活発になると,都市 は建設ラッシュを迎え,同じような様式の建築物が建 てられた。
人口の増加とともに市街地も拡大した。それまで中 央ヨーロッパの都市は,中世以来の小ぢんまりした市 街地にすぎなかった。それがこの時期,都市に工場が 建設され,商業活動が活発になると,働き口を求めて 農村や地方から多くの労働者が都市に押し寄せた。市 街地を取り囲んでいた都市壁が取り除かれ,都市の規 模は飛躍的に大きくなった5)。特に19世紀後半の会社 設立ブーム(Gründerzeit)の時期には,都市は企業家 とともに大量の労働者が居住する場所となった。都市 には豪奢あるいは壮麗な建築物とともに,安価な労働 者住宅が建て込むことになった。
また,19世紀以降,近代国家が成立し,国家間での 競争が激化すると,都市は国家を体現する場所となっ た。特に都市の景観は,国家の繁栄ぶりを示す格好の
手段となった。権力の象徴としての王宮や行政庁舎,
経済力を誇示する証券取引所や商店,高い文化を示す 大学や劇場が建てられ,近代的な都市の特徴として広 幅の直線道路や環状道路,都市公園などが配置され た。また,誇り高い文化や歴史を語るさまざまなモ ニュメントが設置されているなど6),この時代の都市 は,国家の繁栄と連動しながら発展したのである。
こうして市街地が拡大し,都市はそれまでとは比べ ようもないほど広い空間を確保し,その構造も多様化 していった。この傾向は第二次世界大戦を経て今日ま で継続され,中央ヨーロッパの都市はますますその規 模を拡大しつつある。にもかかわらず,都市を特徴づ けているのは依然として歴史的中心地である旧市街地 である。そこにある歴史的建築物や景観こそが都市の 政治や経済,文化の歴史を語る装置として存在してい るからである7)。
では,なぜそうした装置が都市の「顔」としての意 味を持ち続けているのだろうか。この疑問をとく鍵の 一つとして,ここでは19世紀以降に発展した都市観光 に目を向けてみたい。
景観に関心を寄せる観光が発達した経緯については すでに多くの論考8)があり,ここでそれを子細に述べ る余裕はない。ただ,こうした観光への関心が特に18 世紀以降に流行したロマン主義的思考と博物学的関心 と連動している点についてだけいくらか触れておこ う。
17世紀頃までのヨーロッパでは,人類世界はキリス ト教に代表されるように一元的なものと見なされ,共 通の価値観や規範に則った社会と暮らしを確保するこ とが求められていた。そこでは普遍性や類似性が尊重 されていた。それが18世紀にはいると,多様性や特殊 性へと関心が移ってゆく。都市に暮らす人々にとっ て,都市の外の世界は魅力あるものとしてとらえられ るようになった。地方や山岳地,あるいは民族の伝統 文化などへの関心が高まった。いずれも従来の規範に とらわれない新しい世界を強く志向するロマン主義的 な思想の中で芽吹き,ある種の流行のような盛り上が りを見せるようになった9)。もちろん,こうした流れ の背景には,非ヨーロッパ世界についての情報が次第 に増えてきたことに見逃せない。ジャポニズムやオリ エンタリズムの流行は,まさしくヨーロッパの外の世 界への関心が呼び起こしたものであった10)。観光は,
そうした日常と切り離された「別世界」を垣間見る機 会として生まれたのである。
その一方で,この時代に博物学への関心が高まった ことも観光の発達に重要な役割を果たした。それは,
世界の多様な文化や知識を,視覚を通して得るという 行為を定着させた点で大きな意義を持っている(吉 見,1992)。博物学の発展は,都市に多くの施設を作 り出した。まず博物館や動物園が設けられたが,都市 にいながらにしてそうした欲求を満たす場所として 人々の関心を集めた。
しかし,視覚の欲求は根本的には都市の個性を求め るところになったし,それぞれの都市にある建築物 は,都市固有の歴史や文化を反映している。そうした 景観を見て歩く観光がこの時期に発展した。
その結果,都市は19世紀に景観を見て楽しむ場所に なった。この時期,中産階級の台頭とともに余暇が市 民の間に浸透してくるが,都市内部での散歩や周遊,
あるいは他の都市への観光が盛んになっている。都市 には,こうして余暇を楽しむ人々が歩きまわるように なった(コルバン,2000)。いわゆる都市の観光は,
近代以降さかんになるが,当初は美術館や博物館を訪 ね,あるいはサロンで社交に勤しむのが中心だった。
それが19世紀になると都市を歩き,景観を楽しむこと に代わるようになった。それは,都市の建築物を単体 としてではなく,都市景観の一部としてとらえる視点 の誕生を意味していた。
ちなみに,こうした景観を楽しむ観光の対象として 都市が注目されてゆく過程で,その弾みになったもの として19世紀に始まった都市を舞台にしたさまざまな イベントをあげることができる。たとえば国際博覧会
(通称,万国博覧会)。国際博覧会は,それまでパリ で行われてきた物産展覧会を国際的なものに拡充した ものとして,1851年にロンドンで始まっている。以 後,パリやウィーンなどのヨーロッパの都市を中心に して,アメリカ合衆国のフィラデルフィアやシカゴ,
さらにはオーストラリアのメルボルンなどで開催され ている。しかし,都市が単に産業博覧会の開催地であ るばかりでなく,開催国にとっても参加国にとっても 国家の繁栄ぶりを誇示する場所であった点は重要であ る。とりわけ開催国にとっては,国威発揚やナショナ リズムの高揚,さらには外国からの関心を集めること が期待されている。都市で開催されたこれら展覧会 は,したがって都市景観の整備とも連動した。ロンド ン博覧会(1851年)の会場クリスタル・パレスやパリ 博覧会(1889年)に建設されたエッフェル塔は,国家 にとっての都市景観の重要性を今に伝えている11)。
このように19世紀の近代化の時代以来,都市は対外 的にその景観を見せつける場所へと変容した。特に首 都は国家の表看板としての意味を強く持つようになっ た。都市は急成長を遂げ,その景観は内外から注目さ
れるようになった。
ただし,都市観光にみられるように,都市における あらゆる建築物や景観が脚光を浴びたわけではなかっ た。特定の建築物や景観が選択され,そこに人々の眼 は集中した(Towner,1996)。結論から言えば,都市 を代表すると見なされる建築物や景観が存在し,そこ を訪ねることで都市観光が確立していた。
そしてこの傾向は,基本的には今日も変わっていな い。都市の観光の最重要ポイントは,依然として特定 の建築物や景観に限られており,特定の地区のみが観 光客が訪れる舞台になっている。そしてそれに対応す るかのように,都市の再生事業の一環として現在進め られている歴史的建築物の整備事業の多くは,圧倒的 にこうした観光スポットを対象にして行われている。
つまり,19世紀後半以降に観光化とともに注目される ようになった建築物や景観が,今日の都市景観整備事 業の対象になっている。それは,観光化とともにこれ らの建築物や景観がその都市を代表するものとして位 置づけられ,いわゆる「顔」としての意味を持つよう になったからではなかろうか。
以下では,こうした仮説に基づいて,19世紀後半以 降の観光化とともに,都市の特定の建築物や景観が注 目されるようになることを確認する。具体的には,中 央ヨーロッパの都市の中でも特に19世紀後半に急成長 を遂げ,観光地としても知られるようになったハンガ リーの首都ブダペストの事例を取り上げる。
3.旅行ガイドブックにみるブダペストの景観
ブダペストは近代以降,長くハプスブルク帝国内に あったが,1867年のアウスグライヒによってハンガ リー王国が成立すると,その首都として位置づけら れ,以来急速な発展を遂げた。ブダペストは1872年に 三つの小都市(オーブダ,ブダ,ペスト)が統合され てできた新しい都市だが,1880年代の好景気も手伝っ て旧市街地を中心にした大規模な造成事業が積極的に 展開され,19世紀末には中央ヨーロッパ有数の大都市 に成長した12)。
19世紀後半以降,都市観光への関心が高まる中で,
ブダペストは中央ヨーロッパで最も多くの観光客を集 める都市の一つに成長した(加賀美,2005)。その際,
観光地としての都市の見どころを紹介した旅行ガイド ブックは,観光客の行動の拠りどころとなり,観光地 の形成にきわめて大きな影響を及ぼした13)。
ではこの当時,ブダペストの町の中でも特にどのよ うな場所が観光の対象になったのか。ここでは,旅行
ガイドブックとして当時のヨーロッパで最もよく知ら れ,使用された通称『ベデカーBaedeker’s』の記述を みてみよう14)。ハンガリーは『オーストリア・ハンガ リー』の巻にまとめられており,19世紀半ば以降,版 を重ねてきた15)。ブダペストに関する記述は,ブダ地 区(当時はオーフェン地区)とペスト地区に分けられ ている。
以下では,1887年版(第21版)と1903年版(第26版)
におけるペスト地区についての記述をたどることにす る。19世紀後半以降のブダペストの市街地化が特にペ スト地区において劇的に起こったこと,とりわけ1896 年の建国千年祭によって飛躍的に多くの建築物が建て られたことから,この二つの時期のガイドブックの記 述内容を比較することによってブダペストの観光地と しての特色についての考察が容易になると考えるから である。
なお,原文はドイツ語であり,訳出に際して基本的 にはドイツ語部分はすべて日本語にした。ただし,博 物館など建物内の詳細についての記述部分は省略し た。また,すべての街路名と,著名なものを除く人名 と建築物名は原語のまま表記した。一方,原文におい てハンガリーの人名および地名のハンガリー語表記が カッコ書きで添えられている場合には,それをハンガ リー語でカッコ内に併記した。
ま ず,1887年 版 に お け る ペ ス ト 地 区 の 記 述 部 分
(p.271〜277)をみてみよう。
ペスト地区
ローマ帝国時代にさかのぼるこの町は,中世初期 にはすでに都市としての体裁を整えていた。しか し,16〜17世紀のオスマン帝国支配により壊滅。こ こ150年ほどの間にようやく復興し,再び繁栄して いる。今日ペスト地区は,ウィーンと並ぶ帝国内で 最も重要な商業中心地である(特に穀物の取引)。 ここ十年余りの間に規模の大きな建物がいくつも建 てられた。広範囲にわたる都市拡張計画(環状道 路,電線敷設)が完了している。特にドナウ川沿い 一帯が美しく,徒歩1時間ほどに範囲内に目を見張 るような建物が並んでいる。
Franz Josef広場(Ferencz József tér)に面して,鎖 橋とは反対側にアカデミー館がある。このすばらし いルネサンス様式の建物は,Stülerの設計で1862〜
64年に建設。アカデミー(会員300名以上)は,ハ ンガリー語の普及とハンガリーの科学(神学を除 く)の 発 展 を 目 的 に し てStefan Széchenyi伯 爵 に よって創設された。多彩な色の大理石の柱を持つ美
しいエントランスホールには,Franz Deákの石膏像 が置かれている。1階は図書室(毎日午前10時〜午 後4時開館)。階段の昇り口には,右にハンガリー の 詩 人Michael Vörösmarty(1800〜1855),左 にAl- exander Kisfaludy(1772〜1844)の立像 が そ れ ぞ れ 置かれている。2階には著名なアカデミー会員の肖 像画(それぞれ名入り)が掛けられた部屋がある。
ついで広い会議室にはハンガリーの風景を描いた4 つの絵(Ligeti作)が飾られている。会長の部屋に
はAlex. Wagnerによる「トランシルヴァニア地方
からのイザベラ女王の逃亡」の絵が飾られている。
2階分の天井を上げた豪奢な大広間は主に祭事に利 用される。24本の赤い大理石の柱が並び,女像柱が 丸天井を支えている。3階と4階は国立絵画館(旧 Esterházy絵画館,1865年に国が130万フローリンで 買収)になっている(入館無料:水・金曜は午前9 時〜12時と午後1時〜5時;日曜は午前9時〜午後 1時,それ以外は建物の東側,Akademie小路に面 した受付で対応)。800もの絵画(うち50はスペイン のもの)のほかに銅版画(5万点)やスケッチ(3 千点)などがある。ハンガリー語,ドイツ語,フラ ンス語のカタログがある。
アカデミーの前には,花崗岩の台座の上にStefan
Széchenyi伯爵の銅像(Engel作)が置かれている。
Franz Josef広場の東側にはStefan大公ホテル,Co- burg皇太子の宮殿とDiana浴場,広場の南側には中 廊玄関のついた商取引場の建物がある。その建物の 前 に はFranz Deákの 記 念 碑(Huszár作)が 建 っ て いる。広場の中央にはもちろん,ハンガリー国王フ ランツ・ヨーゼフの騎馬像が置かれている。広場の 南につながっているEötvös広場にはJosef v. Eötvös
(1871年没)の立像(Huszár作(1879年))がある。
Franz Josef広場から南に向かうと,ドナウ川に面
したFranz Josef波止場(Ferencz József rakpart)に出 る。この波止場は中央税関まで続いている。波止場 に面して華やかなカフェが並び,波止場への車両の 乗入れは禁止されている。きわめて快適なプロム ナードになっており,ペスト地区きっての通りとし て知られる。美しい夏の夕方など,ここに置かれた ベンチや椅子(椅子使用料3クローネ)はすべて埋 まり,華やかな人々が散歩を楽しんでいる。波止場 沿いの道は,新取引所のそばを通ってRedouten公 園(Vigadó tér)にまで至る。この公園の東側に面 する建物Rdouten(Vigadó)は,1859〜65年にロマ ネスクとムーア様式の折衷で建てられたもの(Feszl の設計)。内部の構造は美しく,優雅な舞踏広間や
コンサートホールなどがある。階段室にはハンガ リ ー の 伝 説 を 描 い た フ レ ス コ 画(ThanとLotz 作),食堂には二つの大きな壁絵「マティアス王の 馬 上 試 合」(Wagner作)と「ア ッ テ ィ ラ の 宴」
(Lotz作)がある。
さらに波止場を進むと,ハンガリー保険協会の立 派な建物が見えてくる。その隣はグランドホテル
Hungariaである。さらに進むと,樹木が茂るPetöfi
広場に着く。ここに立っているのは,1882年に除幕 された ハ ン ガ リ ー の 詩 人Alexander Petöfi(1822〜
49)の銅像(Izsó作,Huszár改作)。広場の後方に は小さなギリシャ正教会がある。その内部にはギリ シャの典礼に特有の設備が設けられ,ギリシャ聖像 の絵が描かれた壁(イコノスタシス)によって内陣 が 側 廊 と 分 け ら れ て い る。さ ら に 少 し 行 く と,
Schwur広場(Eskü tér)に建つ市の教区教会の前に
出る。これはペスト地区最古の教会で,後方の部分 は1500年頃にゴシック様式でつくられ,バロック様 式のファサードが1726年に付け加えられた。教会の 裏手にあるRathaus広場(Városház tér)には,1844 年につくられた旧市庁舎が建っており,独特の塔が 目 を 引 く。さ ら に,Leopold小 路(Lipót utcza)を 南に下ると,新市庁舎にたどり着く。初期ルネサン ス様式で,美しい階段室と大理石の大広間がある
(Lotzのフレスコ画がある)。
ドナウ川沿いにみられる新しい建物として,まず 巨大で新しい中央税関(Fövámház)があげられる。
ここには鉄道が延びており,ドナウ川両岸のペスト 地区とオーフェン地区を結ぶ路線につながってい る。もう一つあげられるのが,いわゆるエレベータ である。これは,穀物の貯蔵に使われる巨大な建物 である。エレベータから北東にSoroksárer小路を行 くと,Bakács広場に立つ新しいFranz街区の教会が ある。ロマネスク様式で1867〜79年に建てられた
(Ybl設計)。こ こ に はThanとLotzの フ レ ス コ 画 がある。Soroksárer小路をさらに進むと,市街地が 終わるところに巨大な新しい屠畜場(Vágó hid)が 現れる。200万フローリンという巨額の費用をかけ て1870〜72年にベルリンの建築家Hennickeの設計 で建てられたもので,専門家には見る価値がある。
玄関口には二つの巨大な雄牛の群れの像が置かれて いる(R.Begas作)。
中 央 取 引 所 か らZollamt環 状 道 路(Vámház
körút)を東に向かうとCalvin広場に着く。この広
場には1883年につくられた記念碑的な井戸がある。
広場の南側には飾り気のない改革派教会が建ってい
る。
Calvin広 場 か ら 幅 広 のÜllöer通 り(Üllöi ut)を 南東方向に行くと,右側のKöztelek小路(12番地)
に農業および教材博物館がある(日・月・火曜は午 前10〜12時と午後2時〜4時開館)。きわめて内容 が豊富だが,素人にも興味深いところである(館 長:Franz Girókuti)。Köztelek小路を 隔 て て 立 派 な 新しい病院がある。さらに通りを進むと,左側に植 物園が見えてくる(毎日午前9〜12時,午後2〜7 時開園)。そしてその先に現れるのが堂々たるLu- doviceumの建物。1837年に国が建設し,現在はHon- véd士官のための軍学校である。Ludoviceumの先に
はOrezy庭園がある。
Calvin広場の北東,Museum環状道路に国立博物
館がある。メインファサードにはコリント様式の円 柱が立っている。ここはペスト地区で最も重要なコ レクションである。ハンガリーの古代の収集物は 火・金曜,自然科学と民族学の収集物は月・木曜,
絵画は水・土曜および第三日曜(午前9時〜午後1 時)に公開されている。ただし,チップ(50クロー ネ)を払えば毎日自由に見ることができる。入口は 建物の左側。
博物館の庭園にはハンガリーの3人の詩人,すな わちBerzsényi, kisfaludyとKazinczyの青銅製の胸像 がある。博物館の近隣には,いわゆる大富豪地区が ある。そこにはAlexander Karolyi伯爵のフランス・
ルネサンス様式の新しい邸宅や,ハンガリーの大地 主(Esterházy, Festeticsなど)の邸宅 が 集 ま っ て い る。
博物館からSándor小路を隔てて反対側に国会議 事堂がある。1866年に建てられた見栄えのしない建 物である(午後の会議の参観可,チケット前売りは Landhausの窓口)。新しい高等 工 業 学 校(Museum 環状道路),物理学研究所(Esterházy小路),新 し い獣医学研究所(Rottenbiller小路)はいずれも見事 な建物で,専門家必見である。Kerepescher通りの 国立劇場は,外見は大したものではないが内部がす ばらしい。これに隣接する旧Beleznay庭園では技 術関連の展示がなされている(土曜を除く毎日午前 9時〜午後1時,午後3〜5時)。同じ道をさらに 市街地から外に向かって行くと国民劇場がある。
Tabak小路(Dohány utcza)を少し行くとシナゴー
グ が あ る。ム ー ア 様 式 の レ ン ガ 造 り(Förster設 計)。そこから程近いRombach小路には新シナゴー グがある。これはムーア・ビザンチン様式をとって おり,1872年に建てられている(WagnerとKallina
設計)。
Karl環状道路をさらに行くと,巨大なKarl兵舎
(Karóly lakótanya)がある。もとは皇帝カール六世 が 設 け た 傷 痍 軍 人 館 で,Grenadier小 路(Gránátos
utcza)側が正面になる。Martinelli設計のルネサン
ス様式。その反対側には,美しいルネサンス様式の ファサードを持つ郵便・電信局がある。
そこからServiten広場(Szervita tér)とDeák広場 を越えてElisabeth広場(Erzsébet tér)に着く。ここ には美しい公園とあずまやがある(ThanとLotzの フ レ ス コ 画 あ り)。こ れ に 隣 接 す るJosef広 場 に は,ハンガリー総督だったJosef大公(1796〜1847)
の青銅製の立像(Halbig作(1868年))がある。こ こからParatin小路(Nádor utcza)を北に向かうと,
Széchenyiプロムナードに至り,1786年にヨーゼフ 二世が建てた巨大な兵舎に行き着く。なお,この兵 舎は市街地の拡大とともに将来は縮小されるだろ う。
Waitzner大通り(Váczi körut)には,まだ完成し
ていないLeopold教会がある。この教会はロマネス
ク様式のドームを持つ。1854年にHildの設計で着 工され,その死後,Yblが新しい設計で構築中であ る。ここから東に向けて2.5kmのAndrássy通りが 市民公園までまっすぐに延びている。この道に面し て並ぶ建物は,ウィーンのRing環状道路沿いのよ うに華やかなものが多い。中でも道路の左側に見え る歌劇場は1270人収容で,1870〜74年にYblの設計 で造られた。右側にはハンガリー国営鉄道の営業所 で,ここにはレストラン「Ruscher」がある。外郭 環状道路との交差点であるオクトゴンを越えると,
道幅はそれまでの40mから45mに広がる。道路の 右側には音楽アカデミーと芸術家ハウスが見えてく る。いずれもイタリア・ルネサンス様式でLangの 設計による(常設展示あり,入館料30クローネ)。 さらに国立美術学校はRauscherの設計で,ファサー ドのデザイン(Sgraffito模様)が美しい。その先,
邸宅が並ぶ円形の広場「Rond-Point」に進むと,右 側には屋外劇場が見える。街路樹が茂るAndrássy 通りの先には掘抜き井戸があり,その奥が市民公 園。そこには国の産業展示場がある。
市 民 公 園(Városliget)は,革 命 に 伴 う1849年 の 武力衝突の際には市民の居住地になったが,今では 特に日曜の午後,たくさんの市民が散歩に訪れる。
そこには大きな池(Nagy tó)があり,多くの人が 集まっている。夏はボート遊び,冬はスケートに利 用されている(池の端にスケート協会の建物があ
る)。池 に は 島 が 二 つ あ り,Széchenyi島 に は カ フェ,Palatinal島(Nádor sziget)にはレストラン(た いてい音楽演奏つき)がある。また動物園もあり,
訪ねる価値がある(入場料30クローネ,レストラン あり)。
市内最北部のドナウ川にはMargarethen島(Mar-
git sziget)がある。所有者であるJosef大公が数百
万グルデンの巨額を投じてこの島を魅力ある公園に 整備した。なお,Margarethen島を他の島と連結さ せて,Margarethen橋の中央の橋脚をそこに置く計 画がある。島の最上流部と最下流部の二ヵ所に蒸気 船が停まる。最下流部に近いところにレストランが あり,夏の夕方には頻繁に軍隊音楽が演奏される。
そこから島の西側を馬車軌道で約10分,ほぼ木陰の コースを,車窓左側にOfen地区の丘を見ながら進 んで島の最上流部にある掘抜き井戸のところまで行 ける。この井戸からは,ドナウ川対岸の旧オーフェ ン地区を望むことができる。島には硫黄泉(35℃)
があり,瀟洒な温泉館で温泉浴が楽しめる。その近 くには二つのホテルの他に何軒かの邸宅があり,保 養客が賃貸で滞在している。また評判のレストラン が一軒ある(夏は毎日ジプシー音楽つき)。
次に,1903年版『ベデカー』におけるペストの記述 部分(p.392〜402)をみてみよう。なお,1887年版の 記述と共通する部分が多いので,異なった記述の箇所 には下線を付した。
ドナウ川左岸の市街地(ペスト地区)
ドナウ川左岸のペスト地区で最も華やかなのがド ナウ川沿いの一帯である。約5kmにわたってここ には新しい建物が並んでいる。町の中心は内側環状 道 路(Zollamt環 状 通 り(Vámház körút),Museum 環 状 通 り(Muzeum körút),Karl環 状 通 り(Károly
körút))に囲まれている。また,この環状道路から
北 に 向 か う 約4kmのWaitzner環 状 道 路(Váczi körút)は,町を半円状に大きく取り巻く大環状道 路に合流する。この大環状道路は街路樹が美しく,
Margareten橋 か らBoráros広 場 に 至 る ま で,順 に Leopold(Lipót),Theresien(Teréz),Elisabeth(Er- zsébet),Josef(József),Franz(Ferencz)の 名 称 で 呼ばれている。なお,さらにその外側に三番目の環 状道路(Hungária körút)もつくられている。
Franz Josef広 場(Ferencz József-tér)の 北 側,鎖 橋(Láncz hid)の近くにアカデミー館がある。ベル リンの建築家Stülerの設計によって1862〜64年に造
られた美しいルネサンス様式の建物である。建物の 東側,Akadémia小路側には,アカデミー財団の名 を 浮 き 彫 り に し た 青 銅 製 の 看 板 が 置 か れ て い る
(1893年,Holló作)。ア カ デ ミ ー(会 員300名 以 上)はStefan Széchenyi伯爵によって1825年に創設 された。その目的は,ハンガリー語の普及とハンガ リーの科学(神学を除く)の発展にある。1階の左 側は図書室(約14万冊所蔵)。2階の会議室にはハ ンガリーの風景を描いた4つの絵(Ligeti作)が飾 られている。2階分の天井を上げた豪奢な大広間は 主に祭事に利用される。24本の赤い大理石の柱が並 び,女像柱が支える丸天井には,Karl Lotz作のハ ンガリーの歴史的シーンを描いた絵が描かれてい る。
3階 と4階 は 国 立 絵 画 館(旧Esterházy絵 画 館,1871年に国が買収)になっている。876もの古 い絵画(うち50はスペインのもの)のほかに銅版画
(5万点)やスケッチ(3千点)などがある。ドイ ツ語,フランス語,ハンガリー語のカタログがあ る。館 長:E. v. Kammerer,管 理 者:G. v. Térey博 士とA. Nyári博士。
アカデミーの前にはStefan Széchenyi伯爵(1860 年 没)の 銅 像(Engel(1900年 没)作)と,ハ ン ガ リーの言語研究家Szarvasとハンガリー史研究家の Salamonの 胸 像(い ず れ もJankovitz作,1899年 と 1902年)が置かれている。Franz Josef広場の東側に は市の施設(警察署),Coburg皇太子の宮殿とDi- ana浴場,広場の南側にはイオニア式の中廊玄関の
ついたPester Lloyd社の商取引場の建物(自由党の
クラブも所在)がある。その建物の前には,1867年 の「ア ウ ス グ ラ イ ヒ」で 名 を 馳 せ た 政 治 家Franz Deák(1876年没)の青銅製の坐像(Huszár作(1887 年))が建っている。広場の南につながるEötvös広 場には,作家であり政治家だったJoseph Freiherr v.
Eötvös(1871年 没)の 立 像(Huszár作(1879年)) がある。
Franz Josef広場から南に向かうと,ドナウ川に面
したFranz Josef波止場(Ferencz József rekpart)に出 る。この波止場は徒歩20分ほどの長さで中央税関ま で続いている。波止場に面して人気のカフェが並 び,波止場への車両の乗入れは禁止されている。き わめて快適なプロムナードは,ペスト地区きっての 通りである。美しい夏の夕方など,ここに置かれた ベンチや椅子(椅子使用料3クローネ)はすべて埋 まり,華やかな人々が散歩を楽しんでいる。波止場 沿いの道は,取引所(Tözsde ; Lotz作のフレスコ画
がある美しい会堂,取引の時間:正午から午後1 時,新しい取引所がSzabadság広場に建設中)のそ ばを通ってRedouten公園(Vigadó広場)にまで至 る。この公園の東側に 面 す る 巨 大 な 建 物Rdouten
(Vigadó,入館:平日は午前9時〜12時と午後1時
〜5時,日 曜 祭 日 は 午 前9時〜12時,料 金:40ヘ ラー)は,1862〜65年にロマネスクとムーア様式の 折衷で建てられたもの(Feßlの設計)。内部の構造 が美しく,優雅な舞踏広間やコンサートホールなど がある。階段室にはハンガリーの伝説を描いたフレ スコ画(ThanとLotz作),食堂には二つの大きな 壁 絵「マ テ ィ ア ス 王 の 馬 上 試 合」(Wagner作)と
「アッティラの宴」(Than作)がある。
さらに波止場を進むと,ウィーンとオルショヴァ 行き蒸気船の停泊場。その下流側にはHungariaホ
テルとBristolホテルがある。その先,樹木が茂る
Petöfi広場には,ハンガリーの詩人Alexander Petöfi
(1823〜49)の 銅 像(Huszár作(1882年))と,2 本の塔を持つギリシャ正教会がある。さらに少し行 くと,美しく新しい建物が建つSchwur広場(Eskü
tér)に着く。1867年,フランツ・ヨーゼフ 王 の 戴
冠に際して,ここで宣誓がなされたことで知られ る。広場の左側には市の教区教会がある。これはペ スト地区最古の教会で,後方の部分は1500年頃にゴ シック様式でつくられ,バロック様式のファサード が1726年に付け加えられた。1890年には内部の改修 がなされている。そこから南東方向,Váczi通り62 番地には新市庁舎がある。これはSteindlの設計で 1869〜75年に建設されたもので,初期ルネサンス様 式,美しい階段室とすばらしい会議室がある(Lotz のフレスコ画がある)。
Franz Josef波止場の最南端には,巨大な中央税関
(Fövámház)が あ る。1870〜74年 にYblの 設 計 で 造られたルネサンス様式の建物である。これに隣接 し て,中 央 市 場(Köyponti vásárcsarnok)が1897年 に完成している。取引所のところでFranz Josef橋
(Ferencz Józsefhid)を渡ってドナウ川右岸に渡る ことができる。そこから10分ほど南に歩くとエレ ベ ー タ が あ る。さ ら に 北 東 に5分 ほ ど 行 く と,
Bakáts広場に立つ新しいFranz街区の教会がある。
この教会はロマネスク様式で1867〜79年に建てられ て お り(Ybl設 計),袖 廊 と 内 陣 に はThanとLotz のフレスコ画がある。Soroksárer小路を進むと左側 に巨大な新しい屠畜場(Közvágóhid;見学は午前中 がベスト,問合せに応じる,木曜に牛の市あり)が 現れる(エレベータから徒歩20分)。1870〜72年に
ベルリンの建築家Hennickeの設計で建てられたも ので,玄関口には二つの巨大な雄牛の群れの像が置 かれている(R. Begas作)。
中央取引所のところから内側環状道路が始まる。
Vámház環状道路を行くとCalvin広場に着く。この
広場にはDanubius井戸がある(Feszler設計,1883 年)。広場の南側には4本の柱で飾られた入口のあ る改革派教会が建っている。
Calvin広 場 か らÜllöer通 り(Üllöi-út)を 南 東 方 向に行くと,左側の28番地に大学病院がある。その 反 対 側,道 路 の 右 側33〜35番 地 に は 工 芸 博 物 館
(Orsz. magyar iparmüvészeti muzeum)がある。Lech- nerとPártosの設計で1893〜97年につくられた。オ リエント風の独特の建築様式が異彩を放っている。
メインファサードの中央には,高さ47mのドーム が設けられているほか,外壁を飾るカラフルな植物 模様はマジョルカのタイルでつくられている。館 長:E. v. Radisics。
さらにその先,左側にはStefanie小児病院(Ste- fánia szegény gyermek kórház),市 立 少 年 孤 児 院 Josephinum, Victoria Regia-Hausな ど が あ る 植 物 園
(Egyetemi füvész-kert),さらにはHonvéd士官のた め の 軍 学 校 で あ るLudoviceumの 建 物 が 見 え て く る。Ludoviceumの先には美しいOrezy庭園がある
(入園券:午前中は本館右側,午後はLudoviceum 小路の先の入口)。さらに,Calvin広場から35分の ところに二つの大きな市立病院(kórház)があり,
さ ら に12分 行 く と,左 側 に 公 務 員 住 宅
(Tisztviselötelep)と市民公園(Népliget)がある。
こ こ か らCalvin広 場 に は 市 電 で 戻 る こ と が で き る。
Calvin広 場 の 北 東,Museum環 状 道 路(Muzeum körút)に 国 立 博 物 館(Nemzeti muzeum)が あ る。
1802年にFranz Széchenyi伯爵によって図書館が寄 贈され,1836〜44年にM. Pollakによって設計され た。メインファサードにはコリント様式の円柱が 立っている。ここはブダペストで最も重要なコレク ションであり,近代絵画の展示場でもある。階段室
にはM. Thanの比ゆ的なフレスコ画,Lotzによ る
フリーズ(帯状装飾),ハンガリーの文化史をよく 示 す 絵 な ど が あ る。博 物 館 の 入 口 は,Föherczeg-
Sándor小路側にあり,3階の建物中央より左に入
る。館長:Emmerich von Szalay。
博物館の屋外階段の前には,元館長Johann Arany
(1882年没)の青銅像が建つ(Strobl作(1893年))。 博物館の庭園にはハンガリーの詩人(Berzsenyiと
KazinczyはVay作,KisfaludyはFerenczy作)の 青 銅製の胸像がある。また,Fr. Széchenyi伯爵の立像
(Istók作)もある。博物館の北側,Föherczeg-Sándor 小路には1866年にYbl設計の旧国会議事堂,そこか らさほど遠くないMuseum環状道路の6番地には高 等工業学校(Müegyetem:新築)がある。
博物館の近隣には,いわゆる大富豪地区がある。
そこにはハンガリーの大地主(Esterházy, Festetics,
Károlyiなど)の美しい邸宅が集まっている。Mu-
seum環状道路から南西に向かってGróf Károlyi小 路を行くと大学広場(Egyetem-tér)に着く。そこに は大学と美しい大学教会がある。大学は学生数4000 人で,そのバロック様式のファサードは1900年に造 られた。Franziskaner広場(Ferencziek-tere)の北 西 側にはルネサンス様式の大学図書館(約30万冊所 蔵)が建っている。
Kerepesi通りの右側には1837年に造られた国立劇 場があり,さらに行くと1875年にFellnerとHellmer が設計した国民劇場がある。そのはす向かい,József 環状道路とNépszinház小路の交差点のかどに国立 実業学校があり,技術博物館(特に重要ではない)
を併設している。Kerepesi通りの終点(Museum環 状道路から徒歩20分)には通商大臣Baross(1892年 没)の青銅製の立像(Szécsi作(1898年))があり,
そこからまっすぐ行くとハンガリー国営鉄道の東駅 に到達する。そこから左にRottenbiller小路を行く と,王立獣医学アカデミー(M. k. állatorvosi akade- mia)があり,そこから程なく見えるカトリックの St. Elisabeth教会は,1900年にE. Steindlの設計に基 づ い て ゴ シ ッ ク 様 式 に 改 修 さ れ た。逆 に,右 に Koztemeto通 り を ゆ く と,広 大 なKerepeser墓 地
(Kerepesi temetö)に達する。そこにはLudwig Bat- tyány伯爵やFranz Deák, L.Kossuthらの著名な墓が ある。
再び,内側環状道路まで戻ろう。Karl環状道路
(Károly körút)に近いDohány小路にシナゴーグが ある。ムーア様式のレンガ造り(Förster設計(1861 年))。その近く,Rombach小路を北に行くと正統 派 シ ナ ゴ ー グ が あ る。ム ー ア・ビ ザ ン チ ン 様 式 で,1872年 に 建 て ら れ た(WagnerとKallina設 計
(1872年))。Karl環状道路をさら に 行 く と,中 央 市民会館(Központi Városház)がある。もとは皇帝 カール六世が設けた傷痍軍人館で,Martinelli設計 のルネサンス様式(Városház小路からが正面)。
Koronaherczeg小路とZsibárus小路 の か ど に は,
美しいルネサンス様式のファサードを持つ郵便・電
信局(SkalnitzkyとKoch設計(1873年))がある。
プロテスタント教会が建つDeák広場を越えてさら に行くと,Elisabeth広場(Erzsébet-tér)に着く。こ こには美しい公園とあずまや(ThanとLotzのフレ スコ画あり)がある。そして,これに隣接するJosef 広場(József tér)には,ハンガリー総督だったJosef 大公(1796〜1847)の青銅製の立像(Halbig作(1869 年))が置かれている。さらにここから南に隣接す るGisela広場(Gizella tér)は,詩人M. Vörösmarty
(1855年没)を記念したものになる予定である。
Josef広場からParatin小路(Nádar-utcza)を北に向 かうと,自由広場(Szabadság tér)に至る。ここに は1898年,古い建物を取り壊したあとに目を見張る ような建物が新たに建てられた。広場の西側に新し い取引場,東側にはオーストリア・ハンガリー帝国 銀行が置かれている。
広場の北西側,ドナウ川に面したところには国会 議事堂(Országház)が建っている。面積17,745m2, 石灰岩でつくられた後期ゴシック様式の壮大な建物 で あ る。1883年 のE. Steindl(1902年 没)の 設 計 に より1883年着工,約3200万クローネの建設費をかけ て1902年に完成した。全長255m,奥行きは最大123
m。中央部分と両翼からなり,中央部分は高さ96m
のドームと,ドナウ川に面したところに高さ78m の2本の塔を持つ。両翼のうち,南側が下院,北側 が上院。外壁には90もの石造が飾られている。特に 西側の壁面にはハンガリー王Arpadからフェルディ ナンド5世,そしてオーストリア・ハンガリー帝国 の将軍や政治家が示されている。またメインの門に は,ラ ヨ シ ュ 大 王 と マ ー チ ャ ー シ ュ 王Matthias
Corvinusの像が置かれている。
国 会 議 事 堂 の 南 側 に は,Julius Andrássy伯 爵
(1890年没)の 青 銅 製 の 騎 馬 像(Zala作)が 置 か れ て い る。国 会 議 事 堂 の 東 側 に は あ る 司 法 局
(Igazságügyi palota)は,1896年 にHauszmannの 設 計によりルネサンス様式で建造された。6本の円柱 の 上 に 正 義 を 示 す 銅 製 の 三 頭 立 て の 像(Sennyei 作)が置かれている。内部で見るべきは美しい階段 室で,正義の女神ユスティティアの像(Strobl作)
と天井画(Lotz作)が見事である。また,国 会 議 事堂から見て司法局と道を挟んで右側には,農耕省
(Földmivelésügyi ministerium)と 法 務 省(igazsá- gügyi ministerium)がある。国会議事堂からWaitzner 環状道路(Váczi körút)に向かってAlkotmány小路 を進むと,左側に1890年にHauszmann設計の裁判 所(Törvényszéki palota)がある。Feszty作のフレス
コ画が美しい陪審裁判所や刑務所がある。また,こ れに隣接するジャーナリスト年金基金館(24番地)
は,1890年にQuittnerの設計で建てられている。
Waitzner環状道路(Váczi-körút)の北端には西駅 がある。そこから南に下りると,まだ完成していな
いLeopold街区の大聖堂に至る。これは高さ96mの
ドームを持ち,1851年にHildの設計で着工され,
その死後,Ybl(1891年没)が新しい設計で建設中 である。
大聖堂の北東には,1872年に整備が始まった全長 2.3kmのAndrássy通 り が 市 民 公 園 ま で 延 び て い る。この道に面して並ぶ建物は華やかなものが多 い。中でも道路の左側に見える歌劇場はイタリア・
ルネサンス様式で,1870〜74年にYblの設計で造ら れた。客席の天井画はLotzの作品「オリンポス山」
である。さらに,大環状道路との交差点であるオク トゴンを越えると,道幅はそれまでの35mから45m に 広 が る。道 路 の 右 側 に は 音 楽 ア カ デ ミ ー
(Zeneakadémia;67番地)と旧芸術家ハウス(Müe- sarnok;69番 地)が 見 え て く る。い ず れ も イ タ リ ア・ルネサンス様式でLangの設計(1876年)によ る。さらに国立美術学校はRauscherの設計で,ファ サードのデザイン(Sgraffito模様)が美しい。
Andrássy通りを行くとRondeau(Körönd)と呼ば れる広場に到達する。ここでは,左側にトランシル ヴ ァ ニ ア 地 方 のBethlen Gábor侯(1629年 没)と Stephan Bocskay(1606年没)の青銅製の立像(それ ぞ れVastagh作(1902年);Holló作(1902年)), 右側には,対オスマン帝国戦でSzigetvár防衛の功
労者Nik. Zrinyiの青銅製の立像(台座には戦死した
トルコ兵が設けられている)(Róna作(1902年)) がある。前庭を持つ邸宅が並ぶこの通りの終点に,
建国千年祭記念碑が建っている。半円形状の円柱廊 には14のハンガリー王の像が立ち並ぶ。そして中央 に聳え立つ高さ36mの円柱のてっぺんには大天使 ガブリエルの像が置かれている。これらの建築の設
計はSchickedanz,彫像はZalaの作品である。記念
碑に向かって右側にはSchickedanzとHerzogの設計 によって1894年につくられた新芸術家館(Új Müe- sarnok)があり,芸術展の会場になっている。また 12月1日〜1月15日と4月15日〜6月15日には交互 に国際展示会も開かれる(入館費:1クローネ,日 曜祭日の午後は40ヘラー)。一方,記念碑に向かっ て左側には,1900年にSchickedanzとHerzogの設計 に よ っ て つ く ら れ た 造 形 美 術 館(Szépmüvészeti Muzeum)がある。
市民公園(Városliget)は,約116ha,1797年に造 成されたもので,特に日曜日の午後にはたくさんの 市民が散歩に訪れる(市営のカフェレストランでは 軍隊音楽あり)。公園の北 部 に は 大 き な 池(Nagy tó)があり,夏はボート遊び,冬はスケートに利用 されている。池に浮かぶSzéchenyi島には訪れる価 値 の あ る 王 立 農 業 博 物 館(Magyar Királyi Me- zögazdasági Muzeum,館 長:Árpád vo Balás)が あ る。これは,1896年の建国千年祭のイベント会場と して造られたロマネスクやゴシック,ルネサンス様 式の建物を基にして,1902〜04年に造営された。こ こではハンガリーの農産物の生産と利用が目に見え るかたちで展示されている。
農業博物館の東には,小規模な産業の展示(ハン ガリーの家内工業は見る価値あり)のある通商博物 館(Kereskedelmi Muzeum)と 交 通 博 物 館(Kö- zlekedési Muzeum)がある。隣接するAlt-Ofen地区
(Ös-Budavár)には,千年祭で喝采を浴びた夏の音 楽,Variété劇場がある。池の近くには掘抜き温泉
(Artési fürdö;硫黄泉,67℃),ウィーンのプラー タのような多くの芝居小屋,動物園(Állatkert)な どがある。
市民 公 園 の 南 部 を 通 るStephanie通 り(Stefánia- út)には,特に日曜日の午後に多くの人々が訪れ る。こ の 通 り の 左 側 に は 市 立 博 物 館(現 在 閉 鎖 中),そ の 先 の 右 側 に は パ ー ク ク ラ ブ の 庭 園 と Lechner設計 の 地 質 学 研 究 所,競 馬 場 な ど が あ る
(Lóverseny広場)。
市内最北部のドナウ川 に はMargareten島(Mar- gitsziget)がある。所有者であるヨーゼフ大公が数 百万グルデンの巨額を投じてこの島を魅力ある公園 に 整 備 し た(入 園 料:平 日25ヘ ラ ー,日 曜50ヘ ラー)。島へのアクセスは別記を参照のこと。蒸気 船(鎖橋から島の最上流部まで20分,帰りの運賃:
平日は40ヘラー,日曜祭日は80ヘラー)は,島の最 上流部と最下流部の二ヵ所に停まる。最下流部の船 着場の近くにレストランがあり,夏の夕方には頻繁 に軍隊音楽が演奏される(演奏代:1.5〜3クロー ネ)。そこから島の西側を徒歩30分,もしくは馬車 軌道で約10分(20ヘラー)走ると,最上流部にある 掘抜き井戸に着く。対岸には旧オーフェン地区が見 え る。島 に は ボ ー リ ン グ で 掘 り 当 て た 硫 黄 泉
(43.3℃)があり,1871年にYblの設計で建てられ
た瀟洒なMargareten温泉館で温泉浴や飲泉が楽し
める(温泉浴は1.20クローネ,8日以上滞在には温 泉税10クローネ)。あふれた水は,しつらえた岩場
を通って水槽にためられている。温泉の近くには二 つのホテルの他に,保養客向けの邸宅がある。また 一軒のレストランもある(ジプシー音楽つき)。島 の東側には13世紀の修道院跡が残されている。
以上にみられるように,1887年版と1903年版を比べ ると,記述内容は基本的にかなり共通している。いず れにおいても,Franz Josef広場からFranz Josef波止 場,Calvin広場,Andrassy通りを経て市民公園,そし
て最後にMargareten島の順でたどっている。その間,
アカデミー館をはじめ,中央税関,エレベータ,屠畜 場,国立博物館,シナゴーグ,郵便・電信局,国会議 事堂などの建築物が見どころとして示されている。
『ベデカー』では,観光客にとって重要とされる場 所や建築物が書体を変えて強調されている。最も強調 されているのがゴシック書体で示されており,中でも 特に重要なものにはアステリスク(*)がつけられて いる。ゴシック書体に次いで重要な場所は,イタリッ ク書体になっている。そのうちでも重要度が高いもの にはアステリスクがつけられている。つまり,見どこ ろや目印になる場所や建築物が,最も重要度が高い*
付きゴシックをはじめ,ゴシック,*付きイタリッ ク,イタリックの順に4つの段階で示されている。
1887年版で強調されている場所は77箇所であった が,そのうちの55箇所が1903年版でも強調されてい る。また,1887年版においてゴシック書体で示された 18箇所のうち,16箇所が1903年版でも最重要レベルの 見どころとして受け継がれている(表1)。これをみ る限り,ペスト地区における観光の最重要スポットは ほぼ固定しているといえよう。
そこで次に,ペスト地区におけるこれら重要観光地 の分布を示したのが図1と図2である。いずれの時期 においても半円形上に走る内側環状道路の囲まれた地 区 に 集 中 し て い る の が わ か る。ド ナ ウ 川 に 沿 っ た
Franz Josef波止場付近と,国立博物館やシナゴーグ近
くを走る内側環状道路沿いに見どころが集中してい る。
一方,変化もみられる。1887年版では見どころとし て強調されているのが55箇所であるに対して,1903年 版では107箇所へとほぼ倍増している。こうした増加 の理由として,この15年ほどの間にペスト地区に新し い 建 築 物 が 多 く 建 て ら れ た こ と が あ げ ら れ る。ま た,1903年版で紹介されている順路は,はるかに郊外 にまで及んでいる。人口の増加とともに市街地が拡大 し,それに応じてさまざまな建築物や施設が設けら れ,観光の対象になったこと,特に1896年に開催され
た建国千年祭の前後には国会議事堂など多くの建物が 建てられ,ブダペストは大きく発展する。1903年には 都 心 か ら 北 東 方 向 に ま っ す ぐ 延 び るAndrassy通 り と,その先の市民公園に見どころが広がっている。建 国千年祭の会場として整備された市民公園が新しい観 光スポットになったことが示されている。
しかし,こうした分布から読み取れるのは,この時 期の観光のスポットが圧倒的に市街地の中心付近に集 中していることであろう。少なくとも『ベデカー』を 持つ観光客が訪れるのは,ペスト地区の中心部とそこ から郊外の公園に達するアンドラーシ通りに限定され ている。19世紀後半の当時,人口の増加に伴ってペス トの市街地はかなり拡大していたにもかかわらず,旅 行ガイドが紹介するペスト地区とは,著しく限定され た場所のみを対象にしている。なぜ町の中心に多いの か。それは見どころとして評価される建築物が何らか の意味を持っているからだろう。
そもそも観光客は,何のために建築物を訪れるのだ ろうか。たとえば『ベデカー』のようなガイドブック
を利用して外国から訪れる観光客は,ブダペストの建 築物を見たり博物館を訪ねたりすることによって,単 に建築物の形状を確認し,展示物を見るにとどまらな い。建築物の来歴,つまりそれを取り巻くブダペスト やハンガリーの歴史や文化を理解したりする機会を得 ることができるはずである。
たとえばペスト地区の中心地区に集中する見どころ としての建築物は,①国会議事堂,中央省庁:ハンガ リー国家を示す建築物,②病院,駅,市場などの目立 つ様式を持つ建築物:ハンガリーの経済力を示す建築 物,②博物館,美術館:ハンガリーの文化水準を示す 建築物などである。いずれの建築物も人々の目を引く 特徴あるデザインを持つが,観光客はこれらを訪ねる ことによってブダペストという都市やハンガリーとい う国家の歴史や文化を理解することもできるのであ る。
著名人のモニュメントも見逃せない建築物である。
ペスト地区にはハプスブルクの皇族をはじめ,ハンガ リーの王族や政治家,さらには学者や芸術家の立像や 表1 『ベデカー」で最も強調されるペスト地区の観光スポット
1887年 1903年
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24
*アカデミー館
*国立絵画館 Redouten ギリシャ正教会
市の教区教会 旧市庁舎 新市庁舎 中央税関 エレベータ
*屠畜場
*国立博物館 国会議事堂
*シナゴーグ
郵便・電信局 Josef立像
歌劇場
*市民公園
*Margarethen島
→
→
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*アカデミー館
*国立絵画館 Redouten
(ギリシャ正教会)
(市の教区教会)
新市庁舎
(中央税関)
(エレベータ)
(屠畜場)
*工芸博物館★
*国立博物館
大学 シナゴーグ 中央市民会館
(郵便・電信局)
(Josef立像)
*国会議事堂★
*司法局★
*歌劇場 新芸術家館★
*市民公園
*Margareten島
Baedeker(1887,1903)より作成
*印:*付きのゴシック書体で表現されている場所・建築物 カッコ表記:1903年にゴシック書体表記でなくなった場所・建築物
★印:1887年以降に建てられた施設・建築物
→印:基本的な変化がない同一の施設・建築物
坐像が広場や庭園に設置されている。『ベデカー』で 紹介されているペスト地区のモニュメントは,1889年 版には10箇所あったが,1903年度には新設されたもの も含めて15箇所に増加している。
これらモニュメントは,ハンガリーの政治や経済,
歴史をおのずと想起できる仕掛けになっている。そも そもモニュメントは,過去の記憶を一般大衆に定着さ せ,さらにそれを繰り返し増幅させる役割を果たして いる16)。とりわけ人物像は,歴史にリアリティを吹き
込み,記憶を生々しいものに仕立て上げる装置として 効果的である。人目につきやすい場所に設置されたモ ニュメントを目にすることによって,市民はもちろ ん,観光客も,おのずと都市や地域,国家や民族の過 去と現在がつなげてとらえる機会を持つことになる。
この点でモニュメントは,歴史的建築物と同様に土地 の記憶をとどめる役割を果たしている。
さらに,これら観光地スポットが集中する地区にお いて,当時の観光が圧倒的に徒歩でなされたことも指
● ゴシック書体により最も強調されている建築物
○ イタリック書体により強調されている建築物
■ ゴシック書体により最も強調されている広場・面的施設
□ イタリック体により強調される広場・面的施設
* モニュメント
図中番号は表1中の番号に対応する
図1 1887年版『ベデカー』で強調された観光スポットの分布
Baedeker(1887)より作成
摘しておく必要がある。『ベデ カ ー』に も あ る よ う に,ブダペスト観光は徒歩を基本としていた。観光客 は歩いて観光スポットをまわっていた。これによって 観光客は,歩きながら目的のスポットだけでなく,町 並みや景観にも目を向けた。その結果,観光スポット が集まる町の中心部は,多くの観光客が集まり,おの ずとブダペストで最もよく知られた場所となっていっ た。
以上を踏まえると,ブダペスト観光の発達は,歴史 的建造物が集中する中心地区の景観がブダペストの代
表的な場所に仕立て上げたとみることができる。ハン ガリーの歴史や文化を語るこれら景観がある地区は,
多くの観光客が抱くハンガリー旅行への期待に応える 十分の迫力を持っており,多くの人々がこの地区を訪 れることによってブダペストやハンガリーを理解する ことになったのである。
このような都市の中心地区の景観への関心の高まり は2冊の『ベデカー』の変化として,ハンガリーの歴 史についての記述が増えている点からも知ることがで きる。ハンガリーは19世紀後半以降,観光地として一
● ゴシック書体により最も強調されている建築物
○ イタリック書体により強調されている建築物
■ ゴシック書体により最も強調されている広場・面的施設
□ イタリック書体により強調される広場・面的施設
* モニュメント
図中番号は表1中の番号に対応する
図2 1903年版『ベデカー』で強調された観光スポットの分布
Baedeker(1903)より作成
般の関心を集めているが,それはドイツ語圏をはじめ とする西ヨーロッパにおいて,ハンガリーがマジャー ル人,すなわち9世紀頃にウラル山地付近から今日の ハンガリー盆地に移動してきた遊牧民を祖とするヨー ロッパ世界の中でも特異な文化を持つ民族の国家とと してとらえられてきた(サーヴァイ,1999)。
こうしたハンガリーに対する西ヨーロッパの人々の まなざしは,ロマン主義の流れの中で結晶化してゆ く。色鮮やかな刺繍を施した民族衣装を身にまとい,
広大なハンガリー平原で放牧を営む彼らの姿は,西 ヨーロッパにはないエキゾチックな世界を想起させ た。アジアを連想させるハンガリー文化は,ヨーロッ パの中のオリエントであった。19世紀後半,経済の成 長とインフラの整備が進むにつれて,ハンガリーはお のずと西ヨーロッパの人々にとって魅力ある観光地と なっていった17)。
とりわけハンガリーの首都ブダペストは,ハンガ リーへの人々の関心が凝集する場所となった。観光客 の眼はこの町特有の建築物や景観に向けられた。その 際,彼らを指南したのが旅行ガイドブックだった。19 世紀後半から20世紀初頭にかけての時期のペスト地区 を紹介した旅行ガイドブックの記述は明らかに都市の 中心地区に集中していたが,それが,ブダペストに対 する観光客や読者(特にドイツ語圏)のまなざしを特 定の景観に集中させることにつながっていった。
また,ブダペスト市民にとってのブダペストの景観 への関心も,旅行ガイドブックの記述と深くかかわっ ていた。そもそも旅行ガイドブックが取り上げている 場所や建築物は,ハンガリーの政治や経済,文化と密 接に結びついたものであり,それゆえに市民にとって も関心のあるものが多い。この点で旅行ガイドブック の記述は,ブダペスト市民のまなざしを代弁している とも考えられる。その結果,旅行ガイドブックを利用 した観光の発達とともに,都市に向けられる人々のま なざしは固定化する傾向をたどったのであり,ブダペ ストの中心地区に集中する特定の建築物や歴史的町並 みに人々の関心がますます集められることになったの である。
4.中央ヨーロッパの歴史的都市景観の意義
4.1 都市景観の記憶
ブダペストに限らず中央ヨーロッパの都市景観は,
一般にさまざまな時代の建築物からなっている。中世 以来の町並みをとどめる旧市街地から第二次世界大戦 後に生まれた郊外の住宅地に至るまで,都市の建築物
は多様であり,明瞭に異なった景観で構成されてい る。現在の都市住民にとってなじみある都市とは,そ うした多様な景観からなっている。中央ヨーロッパの 都市の多くは,二度の世界大戦によってその歴史的景 観を失った。大戦後の復興によってある程度は復元さ れ,修復されたものの,都市の景観は圧倒的に新しい 建築物でつくり出されている。したがって戦後の復興 と経済成長,さらにはグローバル化の中で生み出され た新しい景観こそが住民にとってなじみ深いはずであ る。
一方,大戦後に社会主義体制を敷いた国々では,マ ルクス・レーニン主義あるいは1950年代初めまでのス ターリン主義の下でソ連型の都市建設が進められ,労 働者のための集合住宅や文化センター,工場が建設さ れ,社会主義イデオロギーを表象するモニュメントが 設置された。こうして生み出された西ヨーロッパとは 異質の都市景観が,社会主義国の人々にとってごく日 常的な景観であった。
しかし,1989年の政治改革以来,都市景観には大き な変化が現れている。道路などのインフラの整備と並 行して,多くの歴史的建築物の修復や整備に多額の費 用がかけられ,大規模な工事が行われている。
たとえば,中央ヨーロッパの都市で始まった歴史的 景観の整備という点で大規模かつ著名な事例としてあ げられるのが,ドイツの都市ドレスデンであろう。ド レスデンはザクセン王国の首都として栄華をきわめた 歴史都市だが,第二次世界大戦末期の徹底的な空爆に よって旧市街地の90%が破壊された18)。大戦後は東ド イツの都市として再建されたが,それは旧市街地に あった歴史的景観はすべて取り除き,住宅団地と幅広 の道路など社会主義特有の景観を作り出すものであっ た。こうした歴史を徹底的に軽視した街づくりがなさ れた背景には,西ドイツとの差別化を図ることによっ て,国家の存在意義がアピールされていたからだとい われる。結果として,ドレスデンの都市景観は,その 長い歴史とはまったく無縁のものとなった。
1990年のドイツ統一以来,この町の旧市街では景観 の変化がきわだっている。旧王宮の修復,失われた旧 市街地の建築物の復元が進められている。しかし,特 筆されるのは,町の中央にあった聖母教会の再建事業 であろう。巨大なドームを持つこの教会は,18世紀に 建設されて以来,ドレスデンの都市景観を特徴づけて きた。しかし,空襲によって瓦礫となってしまい,戦 後は再建されず戦災記念として放置されていた。1990 年代に再建工事が開始され,2005年に完成。歴史的景 観の復元による都市再生事業の象徴的な事例といえ