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南アジア研究 第21号 007松尾 瑞穂「争点化するセクシュアリティ」

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(1)

執筆者紹介 まつお みずほ●日本学術振興会特別研究員(PD) 文化人類学、ジェンダー医療人類学 ・2007、「女性の身体」、池田光穂・奥野克己(編)『医療人類学のレッスン』、学陽書房、 172-198 頁。 ・2007、「インドにおける生殖医療技術と不妊の医療化―マハーラーシュトラ・プネー の医師の言説から―」、『南アジア研究』、19、30-59 頁。

争点化するセクシュアリティ

─英領期インドにおける R・D・カルヴェーの産児制限運動を中心に─

松尾瑞穂

1 はじめに

インド政府は、

1952

年に世界に先駆けて人口抑制政策を開始して以来、 たびたびその方向性や名称を転換させつつも、今日まで一貫して「人口問 題」に取り組んできた。しかし出生率や人口増加率の低下に集約される「成 果」(表1)が目指されるあまり、女性の避妊手術に特化したターゲット 方式を敢行するなど、その手法がしばしば批判の対象となってきたのは周 知のとおりである。独立後の国家形成という大事業のなかで、身体そのも のが統治・管理の対象となる過程は、まさにフーコーのいう生政治(

bio-politics

)[フーコー

1986

]の展開として捉えることも可能であろう[松 尾

2007

a

]。 だが、家族計画は、一方では個的身体を超えた人口という「全体」を志 向する統治であると同時に、他方ではカーストや階層、宗教、ジェンダー という社会的要因による集団間の差異を作り出してきた。その差異とは、 保健家族福祉省の統計やセンサスには表立って表れないものの、しばしば メディアや人びとの間で、懸念すべき問題として語られるようなものであ る。具体的には、都市に住む上位カーストのミドルクラスの間で出生率が 劇的に減少しているのに対して、農村に住む低カーストの貧困層は「産み すぎている」というものであり、家族計画を実施する「近代的な」ヒンドゥー 教徒に対して、産児制限を禁止する「後進的な」ムスリムが「増殖してい る」というものだ[

cf. Jeffery and Jeffery

2008

]。こうした都市/農村、

(2)

ミドルクラス/貧困層、高カースト/低カースト、ヒンドゥー/ムスリム、 男性/女性といったあらゆる

2

項対立は、単純であるがゆえに、「人口問題」 をめぐる集団間の差異を顕在化させる言説として広く流通している1。そ れゆえ、家族計画はつねに政治的な闘争の場となってきた[

Hodges

2008

]。 こうした集団間の差異を顕在化させる志向性は、家族計画の歴史に、あ る種の「必然」として埋め込まれたものであるともいえる。なぜならば、 家族計画とは個人や夫婦の希望や意図を超えて、だれが子どもを持つに相 応しいのか、だれが持つべきではないのかを国家が線引きすることを、究 極的には意味しているからだ。家族計画が産児制限運動(

birth control

movement

)という名のもとで開始された欧米や日本においても、家族 計画にはつねに、この集団間の差異の生成や構築という側面がつきまとっ てきた[荻野

1994

2008

]。

20

世紀初頭は、欧米でマーガレット・サンガー、マリー・ストープス ら女性運動家が推進する産児制限運動が世界的な盛り上がりを見せた時代 である。たしかに産児制限とは、望まない妊娠、出産からの「救済」、ひ いては生殖という重荷を背負った性からの「解放」を女性にもたらすフェ ミニズム運動であった。だが同時に、誰が、どのような子どもを何人持つ ことが望ましいのかという選別にも関わることから、優生学とも結びつき を強めていくという両義性を持っていた[荻野

1994

]。 インドにおいても、イギリス植民地期の

20

世紀はじめから、産児制限 運動を推進しようとする動きは各地で見出される[

Shrivasta

2004

,

Ahluwalia

2008

, Hodges

2008

]。しかし、フェミニズム運動としての側 面を強く持っていた欧米では、産児制限運動は主に女性活動家によって担 われたのに対して、後述するように、インドのそれはバラモンを中心とす る男性の社会改革者によって推進されたという大きな違いがある。産児制 限運動が欧米で広まりつつあったころ、同時代のインドでは、人口や生殖、 セクシュアリティは、どのような観点から議論されていたのだろうか。そ して、それは現代インド社会においてしばしば先鋭化する「人口問題」と どのように接合しているのだろうか。こうした問いに答えるためには、イ ンドで「人口」というものが見出され、対象化された時代にさかのぼり、 そこでどのような議論や思想が展開されたのかを検討する作業が必要とな るだろう。

(3)

そこで本稿では、インドにおける今日の人口政策の歴史的展開を解明す

る作業の一環として、

20

世紀初頭から半ばにかけての産児制限運動を具

体的に検討することを目的とする。その際には特に、ボンベイおよびプー

2を舞台として、新マルサス主義的な観点から産児制限を説いた

R

D

カルヴェー(

Raghunath Dhondo Karve

)の活動に注目しながら、上述 の問いを明らかにしていきたい。 カルヴェー(

1882

-

1953

)は、インドではじめて産児制限クリニックを 開設した、産児制限運動の先駆者として知られる人物である。だが、今日 に至るまで彼の活動は、産児制限運動の研究史のなかでも短く言及される にとどまっており、著作の分析や検討はほとんどされてこなかった。この ことは、同時代に同じボンベイ管区で活動した

N

S

・ファルケー(

Narayan

Sitaram Phadke

)や

A

P

・ピッライ(

Aliyappin Padmanabha Pillay

) らと比較すると、より顕著である[

cf. Ahluwalia

2008

]。それにはおそ らく、ファルケーやピッライが、アメリカ合衆国のマーガレット・サンガー やイギリスのマリー・ストープス、エディス・ハウ

=

マートン、ハブロック・ エリスのような国際的な活動家とつながりを持ち、彼女たちの発行する雑 誌にしばしば記事を寄稿し、主著を英語で刊行していたという当時の国際 的な認知度の高さとも関係しているだろう3。 カルヴェーの主な仕事としては、

1927

年から

26

年間毎月発行されたマ ラーティー語の月刊誌『サマージ・スワースタャ(社会の健康/福祉)』 があるが、当然ながらそれらをすべて検討することは容易なことではない。 本稿では、この膨大な資料への足掛かりとして、限定的ではあるが具体的 に紙面を分析することで、

20

世紀初頭から半ばにかけてのインドにおけ る産児制限運動の展開に新たな考察を加えるとともに、セクシュアリティ をめぐる当時のインド社会の状況を明らかにすることを目指すものである。

2 女性を対象とした医療の導入

まず、産児制限運動について論じる前に、インドにおいて女性を対象と した医療がどのように始まったのかについてごく簡単に示す。イギリスは インド大反乱(セポイの乱)を経た

1858

年にインド統治法を発布し、実 質的な植民地支配を開始した。それに伴い、インドにも近代的公衆衛生政 策が導入されることとなったが、これはヨーロッパで当時広がりはじめて

(4)

いた公衆衛生運動の強い影響を受けており、細菌学や熱帯医学の誕生とも 深い関係にあった。 しかし、植民地政府による公衆衛生政策の初期の目的は、第一にインド に居住、駐屯するイギリス人官吏と軍隊の健康を維持することであり、現 地住民への介入は、あくまでもその目的を達成するためにのみ実施される ことになった。イギリスのインド統治は、現地社会への「不介入」を基本 としており、その原則は公衆衛生政策においても例外ではなかったといえ る。インドにおける公衆衛生は、植民地行政府による積極的な普及という よりは、むしろ篤志家による自発的な寄付や慈善活動の推奨を通してなさ れていた[

Pati and Harrison

2001

:

4

, Qadeer

1998

:

270

]。

このようななか、植民地期のインド女性の健康に関しては、つぎに挙げ

る民間組織が中心的な役割を果たしていた。第一には、

1886

年にはじめ

てインド女性の健康というものに焦点をあてて創設されたレイディ・ダ ファリン財団(

Lady Dufferin Foundation

)である。これは、ヴィクト リア女王の後援を得た当時のダファリン総督夫人が代表を務めた組織であ り、パルダーという女性隔離の習慣によって男性医師の診察が困難なイン ド女性のために、女性医師を育成すること、および看護師や助産師のよう な女性医療者によって医療行為を提供することを目的としていた。そして、 その活動はすぐに出産をはじめとする生殖領域に特化されていった。特に 「不衛生な出産環境」と「無知な産婆」が、高い妊産婦死亡率、新生児死 亡率の原因とされ、ダファリン財団が設立した病院での出産の医療化が目 指された[松尾

2003

]。このレイディ・ダファリン財団を皮切りに、

1903

年にはカーゾン(

Lady Curzon

)、

1914

年にウィリングトン(

Lady

Willington

)、

1920

年にはチェルムスフォード(

Lady Chelmsford

)、そ して

1924

年にはリーディング(

Lady Reading

)ら、総督である夫の赴任 に伴ってインドへやって来たイギリスの上流階級の夫人によって、女性へ の医療行為に特化した慈善組織が創設されていく[

Arnold

2000

:

89

]。 第二には、世界各地からインドに渡来したキリスト教ミッションである。

1888

年までには、イギリスやアメリカからやって来た

50

人以上の女性宣 教医師がインドで医療活動に従事していたといわれている[

Qadeer

1998

:

269

]。キリスト教宣教医師の活動は、「現地人」であるインド人の 魂の救済と、身体的疾病からの救済という「二重の救済」を目指したもの であり[

Arnold

2000

:

88

]、ミッションによる医療活動は教育活動ととも

(5)

に活発に行われていた。 だが、植民地政府に支援された慈善組織やミッションは、インド女性の 健康を向上させるためには、生殖環境の整備が必要だとする意見は一致し ていても、産児制限にはそれぞれ不介入の立場を貫いていた。キリスト教 ミッションが産児制限を積極的に否定していたのは元より、主にイギリス の上流婦人によって担われた慈善組織にとっても、性にまつわる事象は避 けられたことは想像に難くない。ダファリン病院では、

1934

年以降には 産児制限指導も開始されるが、一般向けに広く実施されていたわけではな い。また、植民地政府もインドにおける産児制限に関する一致した公式見 解というものは有しておらず、特別に推進もしなければ、アメリカ合衆国 のコムストック法4のような格別に厳しい規制もしないという曖昧な態度 を保っていた[

Ahluwalia

2008

:

117

]。

3 R・D・カルヴェーの家族計画

一方で、インド国内においても、英語教育を受けた現地人エリートのあ いだで、自らの社会への反省的まなざしとそれに伴う社会改革運動が育ち つつあった。なかでも、イギリス政府、植民地行政府、社会改革者、保守 派を巻き込んで大きな議論を巻き起こしたのが、幼児婚やサティーの禁止、 寡婦再婚問題といった、インド女性をめぐる問題である[

Chatterjee

1989

、粟屋

2003

]。本稿で論じる産児制限運動も、インド社会の向上を 目指した社会改革運動のひとつに位置づけられるものである。

1920

年代 後半には、

1928

年にマドラスに新マルサス主義リーグが設立されたのを 皮切りに、各地で同様の運動が広がっていった。 インドにおける産児制限運動の歴史のなかで、特異な地位を占めている のが

R

D

・カルヴェーである。

R

D

・カルヴェーは、著名な教育者、社 会改革者である

D

K

・カルヴェー5の長男として、

1882

年にボンベイ管 区のムルドに生まれたチットパーヴァン・バラモンの数学者である。ここ でカルヴェーの年譜を簡単に示しておきたい(表2)。

1891

年、彼が

9

歳 のときに母親のラダバーイーが出産時に死亡するという出来事が起こる。 この経験が、度重なる妊娠と出産は女性の健康に大きな負担となるという 彼の考え方に大きな影響を与えたとされている[

Ghokale

1999

]。女子教 育と寡婦再婚問題に取り組んでいた父の

D

K

・カルヴェーは、パンディ

(6)

ター・ラマーバーイー6の助言を受け、

2

年後の

1893

年に自らも寡婦との 再婚を果たしている7

D

K

・カルヴェーはプーナにある名門大学のファー ガソン・カレッジで数学教授を務める傍ら、プーナ郊外に寡婦の地位向上 と女子教育を目的とする組織を創設し、後には、インド初の女子大である

SNDT

女子大学をボンベイに設立した人物である。このような家庭環境の もとで育った

R

D

・カルヴェーは、自身も学問を修め、数学の修士号を 取得している。そして

29

歳のとき、当時

21

歳であったグング・ゴレ(結 婚後、マラティ・カルヴェー)と恋愛結婚をしている。社会改革運動のな かで幼児婚の禁止が進められていたとはいえ、

29

歳と

21

歳の結婚は、当 時でも革新的であっただろうことは容易に推測されよう8

R

D

・カルヴェーは、ボンベイのエルフィンストーン高等学校、同カレッ ジで教鞭をとったのち、

1919

年には奨学金を得てパリに

1

年半留学する 機会を得た。彼はそこで、当時ヨーロッパの知識人の間で流行していた新 マルサス主義9の影響を受けたといわれている。だが、影響を受けたのは 新マルサス主義だけではない。パリで数学のディプロマを取得したカル ヴェーは、徹頭徹尾「西洋風」になってインドへ帰ってきた。ゴーカレー は伝記のなかでその様子を、「彼は食べるもの、生活の仕方、服装、学問 の手法から思考法までもフランス式を学び、取り入れていた。肉食や飲酒 に関しても禁忌はなかった。足の先から頭の先まで紳士(

sāheb

)のやり 方に魅了されていた。糊の効いた白いシャツにタイ、背広とコート、背広 のポケットに入れられた時計、足には高級な靴。手入れの行き届いた口髭 をたくわえてやって来たラグナートは、典型的なフランス紳士のように見 えた」[

Ghokale

1999

:

100

]と記している。 帰国するとカルヴェーはグジャラート・カレッジに奉職したが、大学の 人事に不満を抱き、翌年には辞職する。その間の家計は妻のマラティが支 えたが、無職になったカルヴェーは、経済的理由から、ヨーロッパから輸 入した避妊具の販売や施術をはじめたという[

Tribhuvan

2008

]。それが、 ボンベイを拠点として、インドはもちろんのこと、アジアでも初となる産 児制限クリニックである。ちなみに、マリー・ストープスがイギリスでは じめて産児制限クリニックを開始したのと、アメリカでマーガレット・サ ンガーらがアメリカン・バースコントロール・リーグを設立したのが同じ

1921

年であったことを鑑みると、いかにカルヴェーの行動が当時の先端 を行くものであったのかを伺うことができるだろう。

(7)

1922

年にはカルヴェーはボンベイのウィルソン・カレッジの数学教授 となるものの、

1923

年に出版した『家族計画』と『性感染症について』とい う

2

冊の本がキリスト教系の大学で問題となり、家族計画の仕事を辞める か、大学を辞めるかの選択を迫られる。「数学は自分以外でも教えられるが、 家族計画の仕事をできるのは自分しかいない」と啖呵を切ったカルヴェー は大学を辞職し、それ以降、産児制限運動に生涯を捧げることとなった。 なかでも重要な仕事が、

1927

7

月から

1953

11

月、すなわちカル ヴェーが死去するまで続いた、産児制限の知識と情報を伝えるマラー ティー語の月刊誌『サマージ・スワースタャ(

samāj svāsthya

)』の刊行で ある10。次章では、この雑誌を詳しく検討していきたい。

4 『サマージ・スワースタャ』にみるセクシュアリティ

4-1 『サマージ・スワースタャ』の概要 前述したように、『サマージ・スワースタャ』は

1927

7

15

日に創 刊され、カルヴェーが死去した翌月の

1953

11

月まで続いた雑誌である。 カルヴェー個人による自費出版の形態を取っていたため、正式な部数は不 明であるが、およそ

3000

部前後だと思われる11。発行元は、カルヴェー が避妊具の輸入のために立ち上げたライト・エージェンシー、印刷所はボ ンベイのヴァイッダャ・ブラザース社である。ここでは、

1927

7

月の 創刊号の構成内容をやや詳しく見ていきたい。なお、雑誌は本文

22

頁と 宣伝広告

2

頁の計

24

頁からなっている。 目次

1

.われわれの理念………

1

2

.貞淑さとは何か?………

3

3

.家族計画について………

9

4

.新旧のニュース………

11

5

.新刊書レヴュー………

13

6

.ブラフマチャリヤ………

15

7

.中絶の一つの理由………

16

8

.風邪はどのように引くのか……

17

9

.ボンベイの社会衛生………

18

(8)

このような構成は、基本的には以後もほとんど変わらないが、

1927

10

月号から読者からの手紙や質問が寄せられるようになり、

Q&A

という かたちで取り上げられはじめている。また、「シャラダの手紙」というエッ セイや、ヨーガのポーズを図入りで示した体操シリーズのような連載も号 が進むにつれて始まった。なかには、弟のディンカルやその妻であるイラー ワティーをはじめとした関係者による寄稿もあった。『サマージ・スワー スタャ』で複婚について述べた「

2

人の妻」という特集を組んだときには、 イラーワティー・カルヴェーもインドの婚姻制度に関するエッセイを寄せ ている[

Kotbagi

2005

]。

R

D

・カルヴェーが『サマージ・スワースタャ』創刊号に寄せた理念は、 次の通りである。 本誌の主な目的は、社会と個人の身体的、精神的な健康/福祉につい て議論することである。ごく普通の読者にとっては、こうしたきわめ て重要な話題についての情報を得ることは大変難しいことだろう。な ぜならば、多くの著者や報告者は、羞恥心または恐怖心から、こうし た主題を論じることを躊躇しているからである。われわれはこうした 障壁がなくなることを望んでいる。われわれは思想的な論争を議論す るだけでなく、読者になるべく具体的、かつ実践的な情報を提供する つもりである。「カーマシャーストラ」(性の科学)という言葉はこれ まで誤解して用いられてきた。われわれはこの語を「セクシュアリティ の科学的思考」という意味で使わなければならない。そうであれば、 誰もこれについて憤慨や反論はしないだろう[

Karve

1927

July

]。 この短い所信表明からは、当時、性にまつわる事柄を口にするのさえ憚 られたであろう状況がよく伺える。その中にあって、カルヴェーが「科学 的」アプローチを取ることでセクシュアリティに接近しようとする姿勢が 示されている。だが、同時にどれだけそれが「科学的思考」に基づいてい ると強調しても、表紙に裸体の女性が描かれたこの雑誌は、創刊の当時か らたびたび印刷拒否にあうなど順調な出だしとはとうてい言い難い状況で あった。この創刊号自体も、印刷会社の突然の拒否で出版が遅れたことを、 カルヴェーは非難がましく弁明している[

Karve

1927

July

]。

(9)

4-2 カルヴェーが取り上げた他の活動家 さて、雑誌のなかではどのような人たちが登場するのだろうか。カル ヴェーは、「新旧ニュース」というコーナーのなかで、マーガレット・サ ンガーがインドに会議のためやってくること、マリー・ストープスがイギ リス国内に家族計画の向上のため看護師のチームを派遣すること、日本で 産児制限が始まるらしいこと、など幅広い国内外の動きを紹介している [

Karve

1927

August

]。また、創刊号のなかの「家族計画について」とい う記事のなかでは、アニー・ベザント、

M

K

・ガンディー、ラビンドラナー ト・タゴールらに言及が及んでいる。 アニー・ベザントは、アイルランド生まれの女性であり、

1877

年にロ ンドンでマルサス同盟を組織し、避妊方法について詳述した『人口の法則』 を著した、当時の代表的な産児制限運動家である[荻野

1994

]。だが、神 智協会の指導者であったブラヴァツキー夫人との出会いを通して、

1889

年にはこれまでの社会主義から神秘主義に傾倒し、そののちは、禁欲主義 以外の産児制限には反対を唱えるようになった。インド研究の文脈では、 産児制限運動家としてのベザントよりも、インド民族運動の代表的な指 導者の一人であり、インド国民会議の議長を担ったという点が知られて いるだろう。だが、神智協会に入会する以前の彼女は、イギリスにおける 産児制限運動の草創期にきわめて大きな影響を与えた人物としても有名 である。 カルヴェーは、ベザントの言葉として、「家族計画は新婚夫婦に必要不 可欠であり、ブラフマチャリヤを守れない、あるいは守りたくない夫婦は 家族計画を実行するべきである」、「家族計画の発展という点からみるとサ ンガー夫人の果たした役割は大きい。貧しい人びとは金持ちの人びと同様 に家族計画に関する情報を持つべきだ」というものを紹介している。ア ニー・ベザントはのちに家族計画について批判的な態度を取るようになっ ていくのだが、誌面ではインドの民族運動に大きな影響力を与えたベザン トと家族計画との結びつきが強調されている。それは、サンガーの『バー スコントロール・レヴュー』誌に、産児制限に肯定的な意見を寄せ、海外 の産児制限活動家とも交流が深かった詩人のタゴールの場合も同様である [

Karve

1927

July:

10

]。したがって、産児制限に一時期とはいえ好意的 であった著名人は、その活動や言説が紹介され、しばしば過大な評価が与 えられていた。

(10)

4-3 ブラフマチャリヤへの批判 その一方で、手厳しい批判を展開したのが、

M

K

・ガンディーが唱えた、 自己抑制による性欲のコントロールである「 ブラフマチャリヤ (

brahmacharya

)」という思想・手段に対してである。もともと、ブラフ マチャリヤとは、バラモン男子が学住期に師のもとで従うべき自己抑制で あり、現在ではそれが転化して、男性独身者(特に性経験のないもの)の ことを指す場合もある。ガンディーの場合は、ブラフマチャリヤは男女限 らず、強健な身体と健康な生活のために追及すべき理想であると推奨され ている。そして、ガンディー自身も認めているように、強健な身体と健康 をもたらすとされるブラフマチャリヤの実践は、とくに産児制限との関わ りのなかで主張されるようになっていく。

たとえば、『

The Health Guide

』(

1965

)というガンディーの健康論を

まとめた本では、「男女は肉欲的な思いを抱いて触れ合ってはならない、 夢の中といえどもそれを考えてはいけない」、「神が与えた力を、厳しい自 己修練によって維持し、肉体だけでなく、精神と魂のエネルギーと力に変 容していかなければならない」と主張されている[ガンジー

1982

]。ガン ディーは、子どもを望むとき以外は、夫婦は性関係をもつべきではないと 説き、そのために寝室を分けるといった身体接触自体をなくすべきだとし た。それは、性交や自慰行為による精液の放出は、心身を維持する力の喪 失につながるとする考えに基づいていた[

Gupta

2001

]。 ブラフマチャリヤを重視するガンディーにとって、

R

D

・カルヴェーやバー スコントロール・リーグのメンバーらが進めようとする、避妊具を用いた産 児制限とは、性的快楽に浸りながらも親になる責任だけは回避するという、 「悪徳」以外の何物でもなかった。「人為的な(避妊)方法は、悪徳にプレ ミアをつけるようなもの」であり、「獣欲にひたっておいて、自分の行為 の結果から逃げようとするというのは、いっそう悪いこと」であると激し く非難した[ガンジー

1982

:

218

]。ちなみに、

1935

年にインド各地での 講演旅行のために来印したマーガレット・サンガーは、ワルダにあるガン ディーのアーシュラムを訪問し対談を行ったが、その際にもガンディーは こうした自身の見解をはっきりと示し、対談はかみ合わずに終わった12。 カルヴェーに限らず、当時のバースコントロール・リーグのメンバーた ちは、人口抑制の手法としてはブラフマチャリヤを積極的には評価してい なかった。新マルサス主義では、個々人の理性に訴える禁欲ではなく、婚

(11)

姻制度のなかで有効な避妊を実施することのほうが、より現実的だと考え られていたからである。特にカルヴェーは、「動物は子孫を残すためだけに、 ごく限られた期間だけ性交をするのに対して人間だけが年中性欲に陥って いる」というガンディーの戒めを、非論理的であるとして受け入れなかった。 ガンディーとサンガーが対談をした

1936

年の『サマージ・スワースタャ』

4

月号では、カルヴェーは「ガンディーは子どもが欲しい時だけ性交すべ きで、それを生涯貫いてきたとサンガー夫人に言ったそうだが、それがど れだけ正しいのか、彼の自伝から見てみよう」と書き、ガンディーの自伝 を詳細に読み解いている。その結果、「彼自身、

37

歳にしてようやくブラ フマチャリヤの境地に到達したにも関わらず、それを若い人にも追従させ ようとしている」のであり、それは「まったくもって狂気の沙汰」だと厳 しく非難した[

Karve

1936

April

]。そして、「ある人に可能なのだから他 の人にも可能である」というガンディーの問いかけは、「

25

歳のレスラー が

2

マン(

mann

13を持ち上げられるのだから、小さな子どもにも出来る と言っているに等しい」のだと結論付け、その主張を退けた[

Karve

1936

April

]。 『サマージ・スワースタャ』では、創刊号から一貫してたびたび「ブラフ マチャリヤ」について取り上げられており、カルヴェーにとっても無視し えない大きな関心事であった。さらに、読者からの手紙や質問にもブラフ マチャリヤに関する相談が数多く寄せられており、カルヴェーの記事への 反響も大きかったと思われる。当時は、ブラフマチャリヤが社会改革と結 びついて新たな意味を付与され、「健康な身体」をもつ「健康な国民」と いうものが求められた時代である[

Gupta

2002

]。したがって、ブラフマ チャリヤに賛成/反対に関わらず、ガンディーの主張は人びとのセクシュ アリティのあり方にも、大きな影響力を持ちえたと言えるだろう。だから こそ、国内外の著名な産児制限運動家は、何とか産児制限への賛同をガン ディーから得ようと努力したが、ガンディーは避妊具の使用には最後まで 反対であった。

5 産児制限運動と優生思想

ここまで述べたような

R

D

・カルヴェーの活動と前後して、英語教育 を受けたエリート男性らによって、マドラスやボンベイ、デリーなどの主

(12)

要都市にバースコントロール・リーグが次つぎと創設されている。マハー ラーシュトラの場合は、カルヴェーはもちろんのこと、優生思想を強く説 いた

N

S

・ファルケー(チットパーヴァン・バラモン)14、性科学者の

A

P

・ピッライ(タミル・バラモン)15をはじめとして、専門職につくバラ モンがそこには名前を連ねている。

1930

年にプーナに作られたバースコ ントロール・リーグの発起人も、すべて医師、判事、弁護士などの職業を 持つチットパーヴァン(コーンカナスタ)・バラモンであった。したがって、 少なくともマハーラーシュトラにおける産児制限運動は、カルヴェーや ファルケーをはじめとする高位カースト男性(なかでも特にはチットパー ヴァン・バラモン)による社会改革運動としての性質を強く持っていたと いえるだろう。 当時インド国内ではじまりつつあった産児制限運動では、生殖とはあく までも「非セクシャル」な行為であり、女性の身体は「非セクシャル化さ れた再生産のための身体」であると強調されていた[

Anandhi

2000

:

144

]。これは、特にバラモンをはじめとする上位カーストの純潔、貞操 な「母」としてのインド女性が理想化され、あくまでもそれに見合うかた ちで産児制限を進める必要があったためである。産児制限とは、貞淑さが 求められる上位カーストではなく、むしろ性と生殖の自己抑制が可能では ない「低カースト、低階層の野放図なセクシュアリティ」を規制しようと する試みとなっていった[

Anandhi

2000

:

144

]。

N

S

・ファルケーは、『サマージ・スワースタャ』が創刊された同じ

1927

年に、マーガレット・サンガーの序文が寄せられた『インドにおける性問 題(

sex problem in India

)』という本をボンベイで出版している。「すべ

ての愛と憎しみの起源は不明だと述べたのは

H

G

・ウェルズ16だと思うが、 私は優生学という魅力的なテーマといつ恋に落ちたのか分からない」 [

Phadke

1927

]というはしがきから始まるこの本は、全編にわたってファ ルケーの優生学への心酔に満ちたものである。しかしファルケーは、優生 学自体は西洋起源の思想としながらも、アーリヤ人にとっては結婚とは「よ り適格な人種(

a fi t race

)」を生み出すための手段だったのであり、優生 学はインドの伝統に基づいているのだと主張した[

Phadke

1927

]。ファ ルケーの思想は、ヒンドゥーの古典文献に優生学の思想を見出し、優生学 を「アーリヤ人種」の質の向上へと結びつけることで、当時の「アーリヤ 主義」を唱えるナショナリズム運動とも親和性を高めていった。それと同

(13)

時に、子どもを持つべきではない不適格者(

unfi t

)として、精神障害者 やハンセン病患者などに断種を勧めるべきだとした[

Phadke

1927

]。 一方、性科学者であった

A

P

・ピッライも、カーストや階層によるセ クシュアリティの違いを主張した。すなわち、上位カーストやミドルクラ スの女性と下位カーストや労働者階層の女性の間には性欲や性交回数に明 確な違いがあるとし、性の喜びはミドルクラスの男女の間にのみ存在する のであり、下層階級は動物のように欲望にとらわれた性交をするばかりで あると考えた。また、基本的に性欲は男性のみに限定されており、上位カー ストやミドルクラスの女性には性欲ではなく、母性が自然なものだとされ た。そしてピッライは、ファルケー同様に、ミドルクラスと「劣悪な」階 層とには、質の良い子どもを産み育てるための「肯定的」産児制限と、子 どもを産ませなくさせる「否定的」産児制限をそれぞれ使い分けることが 必要であると考えていた[

Shrivasta

2004

, Ahluwalia

2008

]。 このように、優生学の影響を強く受け、健康な国民を産む母親の重要性 を、民族主義や階層との関連で説いていたファルケーやピッライをはじめ とするバースコントロール・リーグのメンバーたちの思想は、手段が大き く異なるとはいえ、ガンディーが唱えるブラフマチャリヤの思想と多くの 点で似通っていた。それは、性と生殖を切り離し、女性のセクシュアリティ を再生産(

reproduction

)の領域にのみ限定することで、性そのものは 不可視化され、不問に付されていたという点である。そのなかにあって、 本稿で取り上げるカルヴェーの思想には大きな違いが見出される。 数学者であったカルヴェーの思想をひとことで表すならば、「徹底した 合理主義」だといえるだろう。彼は、家族計画に取り組むかたわら、

1932

年 に ボ ン ベ イ で 設 立 さ れ た イ ン ド 合 理 主 義 者 連 盟(

Rationalist

Association of India

)のメンバーでもあり、社会から「迷信」の根絶を 目指す活動にも従事していた[

Kotbagi

2005

:

16

]。家族計画を実施しな ければ、インドという国は将来的にきわめて大きな困難に直面するだろう と、産児制限の有益性を食糧問題の解決と国家の発展から論じていたカル ヴェーの見解は、当時ヨーロッパの知識人の間で流行していた新マルサス 主義のアプローチを強く反映したものである。その一方で、「何人の子ど もを、どんな間隔で持つのか、あるいは、まったく持たないということま でを自分で決めることは、だれにも奪うことの出来ない女性の権利である」 [

Bapat

1971

:

78

]とも述べており、今でいうリプロダクティブ・ヘルス

(14)

ライツの先駆けとなる考えを強く持っていた。そうした点から、カルヴェー の活動は、マーガレット・サンガーらのフェミニズム運動とも呼応するも のである[

Karkal

1998

]。 カルヴェーはセクシュアリティそのものに肉薄しようとしたのであり、 性と生殖を包括的に捉えていた。だが、まさにその点こそが、カルヴェー の活動をきわめて困難なものとしていたのだとも考えられるのである。『マ ヌ法典』におけるブラフマチャリヤなどの性規制に依拠したり、『マハー バーラタ』や『ラーマーヤナ』に出てくる恋愛結婚に言及したりすること で、インドの伝統文化のなかに「適格な人種(

fi t race

)を産み出す」優 生学的志向性を見いだそうとしたファルケーらとは異なり、「無神論者」 だと自ら公言していたカルヴェーは、どのような宗教であれ合理的ではな いと思われる教条は容赦なく非難した。それは、たとえブラフマチャリヤ という手法に賛成しかねるとはいえ、インド民族運動におけるシンボル的 な政治指導者であった

M

K

・ガンディーのことを「非論理的」な「狂人」 だと痛烈に批判することにも表れているだろう[

Karve

1936

August

]。 カルヴェーは女性の性的欲望を否定せず、性的快楽とそれを追及する性 行為を、男性の場合と同様に自然なものと見なしていた。『サマージ・スワー スタャ』では、「科学的視点から」性器の仕組みや、性交の体位、性的快楽、 オーガズムといったセクシュアリティにまつわる事象が詳細に論じられて いる。インド社会のジェンダー規範もひとつの「迷信」だとするカルヴェー にとっては、性そのものはあくまでも生物学的な現象に過ぎず、偏見なく 追及すべき科学的課題だと考えられていたといえるだろう。このようなカ 表1 インドの人口動態指標 1951年 1981年 1991年 最新年次 粗出生率 (1000 人あたり) 40.8 33.9 29.5 23.8 (2002 年) 合計特殊出生率 6.0 4.5 3.6 2.9 (2004 年) 人口増加率(%) 1.25 (1941∼51年) 2.22 (1971∼81年) 2.14 (1981∼91年) 1.93 (1991∼2001年) 乳児死亡率 (1000 人あたり) 146 110 80 58 (2005 年) 妊産婦死亡率 (10 万人あたり) ̶̶ ̶̶ 398 (1997∼98 年) 301 (2001∼03 年)

出典:Family Welfare Statistics in India 2006,Ministry of Health and Family Welfare, Government of Indiaをもとに筆者作成

(15)

表2 R・D・カルヴェー関連年譜 年齢 出来事 1882 1 ボンベイ管区ムルドに D・K・カルヴェーの長男として誕生(1 月 14 日) 1882 1 オランダで世界初の避妊クリニックが開設 1883 2 フランシス・ゴルトンが「優生学」(eugenics)という用語をはじめて使用 1890 9 聖紐式 1891 10 母親ラダバーイーが死去(27 歳) 1891 10 教育のためプーナへ移住 1891 10 父 D・K・カルヴェーがファーガソン・カレッジに数学教授として着任(∼1914 年) 1893 12 父親が寡婦(23 歳)と再婚(3 月 11 日) 1896 15 父親がヒングネに「ヒンドゥー女性の家」を設立し、寡婦再婚問題と女子教育に尽力する 1897 16 10th standard 修了(数学で一番を取る) 1901 20 エルフィンストーン・カレッジ(ボンベイ)入学 1903 22 B.A. 取得 1906 25 教員養成ディプロマ終了 1907 26 エルフィンストーン高等学校に教員として勤務 1908 27 エルフィンストーン・カレッジに数学教授として勤務(∼1917 年) 1908 27 ビームラーオ・アンベードカルがマハールとしてはじめて大学入学資格試験に合格、 エルフィンストーン・カレッジに入学 1911 30 グング・ゴレ(21 歳)と結婚 1914 33 アメリカでマーガレット・サンガーが産児制限運動開始 1917 36 ダルワール・カレッジ(現カルナータカ州)に勤務 1917 36 イギリスでマリー・ストープスが『結婚愛』を出版 1919 38 フランス、パリへ単身留学(1 年半) 1920 39 ディプロマを取得しインドへ帰国 1920 39 グジャラート・カレッジ(アーメダバード)に勤務(∼1921 年) 1921 40 ボンベイにインド初のバースコントロール・クリニック開設 1921 40 ライト・エージェンシーを設立 1921 40 マリー・ストープスがイギリス初の避妊クリニック開設 1922 41 ウィルソン・カレッジ(ボンベイ)に数学教授として勤務(∼1926 年) 1927 46 マラーティー語の月刊誌『サマージ・スワースタャ』の刊行開始(7 月15 日、∼1953 年) 1927 46 N・S・ファルケーがボンベイで『インドにおける性問題』を出版 1930 49 プーナ・バースコントロール・リーグが設立 1931 50 『サマージ・スワースタャ』1931 年 9 月号の記事により逮捕される 1933 52 『サマージ・スワースタャ』のグジャラート語版刊行 1933 52 『サマージ・スワースタャ』グジャラート語版 1933 年 12 月号の記事により逮捕 1934 53 A・P・ピッライが雑誌『結婚の衛生』刊行(∼1936 年) 1935 54 ロンドンのバースコントロール・リーグ代表のエディス・ハウ = マートンが来印し、カルヴェーと面会 1936 55 マーガレット・サンガーが来印し、M・K・ガンディーと対談(3 月) 1937 56 インド合理主義者連盟の機関紙『理性(Reason)』の編集長を務める 1938 57 『サマージ・スワースタャ』1938 年 8 月号の記事により逮捕 1942 61 妻マラティ死去(52 歳) 1952 71 インド政府が家族計画を開始 1953 72 R・D・カルヴェー、ボンベイで死去(10 月 14 日)

(16)

ルヴェーの急進的な姿勢は、広く社会の支援を取り付けることが求められ る社会運動家にしては、あまりに「ナイーブ」であったといえるかもしれ ない。 こうしたカルヴェーの姿勢は、当時のインド社会では、まったくといっ ていいほど受け入れられることはなかった。毎号表紙に女性の裸体が描か れた雑誌は何度も印刷拒否にあい、雑誌を取り扱う場所もきわめて限定的 であった17。また、複数の相手との性交渉やスワッピング、ホモセクシュ アリティについても否定しないカルヴェーは、時として必要以上に挑発的 で急進的すぎるきらいがあった。そうした理由から、カルヴェーはインド 刑法(

The Indian Penal Code

1860

)の第

292

条で規定されたわいせつ

罪で逮捕され、少なくとも

3

度有罪判決を受け、罰金を支払っている18。興 味深いのは、彼自身が属するバラモン・コミュニティから、最も大きな反 発と抵抗を受けているという点だ。

1931

9

月号に掲載された「姦通に ついて」と題する記事は、プーナの「正統派バラモン」と称する人々によっ て提訴され、裁判沙汰となっている19。全財産をつぎ込んで雑誌の刊行を 続けた

R

D

・カルヴェーにとって、産児制限運動とはまさに自らの人生 をかけた大仕事であり、多大な犠牲を払って信念を貫き通したのである20

6 おわりに

本稿では、

R

D

・カルヴェーの思想と活動をてがかりとしながら、お もに

1920

年代以降のボンベイおよびプーナにおける産児制限運動につい て論じてきた。マハーラーシュトラにおいては、バラモンの知識人階層に よって担われた産児制限運動は、これまでは「バースコントロール・リー グ」のメンバーとしてひとくくりにされ、内部の多様性が十分に検討され てきたとは言い難い。そのようななかにあって、本稿ではカルヴェーの思 想が性と生殖をめぐって、ファルケーやピッライといった他の運動家とは 異なる位置づけにあることを示唆した。 ファルケー、ピッライのような産児制限運動家や、方法は違うとはいえ 「人口問題」について発言したガンディーも含めた当時の知識人の多くは、 性と生殖を分離し、まさに人口の再生産にあたる「生殖」にのみ議論を特 化することで、特に女性にとっての性というものは否定し続けた。それに 対して、カルヴェーは性と生殖とが一体となったより広義の産児制限を志 向していたということを指摘できる。その一方で、急進的なカルヴェーの

(17)

言説は、当時のインド社会では大きな抵抗を生み出したことも事実である。

20

世紀初頭から半ばにかけてのインドにおける産児制限運動は、まさに 政治的争点のアリーナとしての家族計画の特徴を十分に示すものである。 マラーティー語という現地語で大衆向けに書かれた雑誌は、英語の書物 や雑誌を刊行したファルケーやピッライらとは異なる読者層を獲得した可 能性も高い。雑誌には、毎回具体的な避妊具の使用法や紹介が掲載され、 輸入避妊具の宣伝も盛んに行われていた。今後の課題としては、雑誌の読 者から寄せられたさまざまな手紙や相談と、それへのカルヴェーの回答を 詳細に検討することで、婚姻や性規範、性行動といったセクシュアリティ をめぐる当時のインド社会の状況を具体的に明らかにすることが挙げられ る。それによって、これまで研究のなかでは等閑視されてきた、産児制限 運動の「受けとめ手」である一般大衆の受容や反応を論じることが可能に なると思われる。 また、近年では

R

D

・カルヴェーの業績を再評価しようとする動きが、 マハーラーシュトラ州では始まりつつある。一部であるとはいえ、インド 国家が抱える「人口問題」を憂慮する知識人階層の間では、マハーラーシュ トラに現れた「早すぎた予言者」[

Bapat

1971

]として、カルヴェーを積 極的に現代的な文脈へと位置づけようとする傾向も見出される21。本稿で 取り上げた、産児制限から派生するさまざまな問題は、現代インド社会に おける人口や階層、バラモン性、さらには地域ナショナリズムとも関連す るきわめて現代的な事象なのだといえるだろう。 1 マハーラーシュトラ州プネー県ムルシ郡に位置する筆者の調査村においても、バラモンやマラ ーター・デーシュムクをはじめとする上位カーストの家族は自発的にお金を払って避妊手術を 受けているのに対して、報奨金が支払われる政府病院での手術キャンプに来るのは、保健職 員や小学校教員に連れて来られた低カースト女性が多数を占めているといった、家族計画の 実施をめぐるカーストと階層の差異は明確に存在する[松尾 2007b]。だがここで問題にして いるのは、実証的データの有無には関わらず、都市に住む上位カーストのミドルクラスの間で、 階級やカースト、宗教の違いから「人口問題」を捉えようとする視点である。「増えなくてもい い人たちが増えて、我々のような専門職に就く知識階層がこのまま減ってしまえば、将来インド はどうなるのか」という憂慮は、筆者が知る限り、少なくともマハーラーシュトラ州プネーに暮ら すミドルクラスの人びとの間では、それほど珍しいものではない。

(18)

2 地名は、議論の対象とする時代に従って表記している。 3 それはひいては、現在の研究者にとっても彼らの残した資料へのアクセスが相対的に容易で ある、という点にもつながっている。 4 コムストック法とは、アメリカ合衆国で1873年に成立したわいせつ郵便物郵送禁止法であり、 受胎を防止するか、または堕胎を引き起こすことを意図するすべての記事および品物の郵送が 禁じられた。これによって、避妊に関する情報提供、避妊具の郵送が不可能となった。 5 DK・カルヴェーは、長年女子教育や女性の地位向上に果たした活動の功績が認められ、文民 を対象としたインド政府の最高位の賞にあたるバーラタ・ラタナーを1958年に受勲している。 6 パンディター・ラマーバーイー(1858-1922)は、マハーラーシュトラ出身の著名な女性教育活動 家。バラモンであり、幼少のころからサンスクリット教育を受け、『高位カーストのヒンドゥー女 性』(1888年)を執筆した。 7 当時のバラモン社会では禁止されていた寡婦再婚を行ったカルヴェー夫婦は、社会的制裁を 受け、自身の生家に立ち入ることも許されなかったと、妻のアナンディバーイーが回顧している [Anandibai Karve 1963]。ちなみに、R・D・カルヴェーの異母弟にあたる次男シャンカルはケ ニアに移住した医師、三男ディンカルは科学者および社会改革運動家であり、四男ビャスカル は社会改革運動家として、父の施設の管理を手伝った。三男ディンカルの妻は社会学者、人類 学者として著名なイラーワティー・カルヴェーである。 8DK・カルヴェー(1858年生まれ)は14歳のときに8歳の妻と幼児婚をしている。また、DK・カル ヴェーとほぼ同年代のM・K・ガンディー(1869年生まれ)も、13歳で同年の妻と結婚をしている。 この点からみると、社会改革者の第二世代にあたるR・D・カルヴェーとマラティによる29歳と 21歳の恋愛結婚とは、例外的であるとはいえ、社会変化の一端を示しているといえるだろう。 9 新マルサス主義とは、1820年代ころにヨーロッパに誕生した思想であり、「人口過剰が貧困を もたらすというマルサスの理論そのものは認めるが、その回避策としては、マルサスが主張した 結婚延期や禁欲のような当事者にとって苦痛の大きい、したがって実行も難しい方法よりも、 早婚を認めたうえで、結婚後の生活に人工手段による避妊を導入するほうが有効だとする立 場」[荻野1994: 29]のことをいう。 10欧米起源の「バースコントロール」という語に代わるものとして、マラーティー語で「家族の組 織/計画」を意味する「サンタティ・ニヤマン(santati-niyaman)」という語を新たに考案したの もカルヴェーである。マラーティー語雑誌の刊行にも表れているように、カルヴェーはより多く の大衆に向けて家族計画を普及させることに心を砕いていたといえるだろう。

11193310月号には発行部数3200部とある[Karve 1933 Oct]。値段は12アナ(āna)、定期

購読者はカルヴェーのもとを直接訪れるか、小切手を郵送することになっていた。あるいは、プ ーナ在住のディンカル・カルヴェーのもとにバックナンバーが置いてあり、読者は直接そこで購 入することもできたようである。郵送範囲はボンベイ管区に限られており、「ポルトガル領(引用 者注:ゴアのこと)には郵送出来ない」との注意書きが見られる[Karve 1932 June]。 12もっとも、サンガーにとっては、世界的にも著名な独立運動家であるガンディーと対談を行うこ とが、メディアでの自身の存在感を高めることにつながると考えられていたようである。アメリ カからやってきた多数の新聞記者を伴った、サンガーとガンディーとの対談の様子は世界中に 配信された[荻野1994]。 131マンは約40kgである。

(19)

14 NS・ファルケー(1894-1978)は、コールハプールのラジャラーム・カレッジの哲学教授であり、 著名なマラーティー小説の作家である。 15 AP・ピッライ(1889-1956)は、1929年にソラプールに優生思想協会を設立し、のちにボンベ イを拠点に活動した性科学者。1908年に創立したイギリスの優生思想協会の強い影響を受 け、インドでも1920年代にデリーマドラス、ボンベイなど各地で協会が設立されたが、ソラプー ル優生思想協会もその一つである。ロンドン本部とつながりを持ち、支援を受けていた。 16イギリスの著名なSF作家。ダーウィニズムを信奉し、バースコントロール運動も支持した。マー ガレット・サンガーやマリー・ストープスとも親交があり、ストープスが発足した「建設的バース コントロールと種の向上のための協会(CBC)」の副会長にも名を連ねている[荻野1994]。 17『サマージ・スワースタャ』の取り扱いエージェントは3ヶ所であり、うち1つはカルヴェー自身が 興したボンベイのライト・エージェンシー、他にはプーナ近郊ヒングネにある父親の女子教育施 設と弟ディンカルの自宅であった。 18わいせつ罪で逮捕されたRD・カルヴェーの裁判で弁護士を務めたうちのの一人が、後に独立 インド初の法務大臣となるビームラーオ・アンベードカル(Bhimrao Ambedkar)である。アン ベードカルはダリットの健康と経済状態の向上のためには、バースコントロールは有効だと考え ていた[Ahluwalia 2008: 62]。また、カルヴェーもメンバーだった「インド合理主義者連盟」 は、「迷信とブラーフマニズムの両方に囚われているダリットを救い、科学的方法で思考するこ とを教える」ことを目的としていた[Tribhuvan 2008]ため、そこでもアンベードカルと関係があ った可能性もある。カルヴェーは1936年から同組織の機関誌の編集者も務めていた。 19問題となった「姦通について」という記事のなかで、カルヴェーは、姦通(不倫)がヒンドゥーの 古典である『ヴァガバット・ギーター』や『マハーバーラタ』のなかに頻発することを指摘し、ヒ ンドゥー教では姦通は罪だとは考えられていないにも関わらず、現代のヒンドゥー教徒がこれ を問題視するのは全く宗教的根拠に基づいていないと結論付けた。 20カルヴェーが経済的困窮を極めたであろうことは、義妹のイラーワティー・カルヴェー[Irawati Karve 1963]や社会学者のドゥルガーバーイー・バグワット[Ranade 1998]のエッセイなどか らうかがい知ることができる。ドゥルガーバーイーの父親と友人であったカルヴェーは、家に来 てもいつもお茶すら飲まなかったというが、その理由は「相手に返せないものは受け取らない」 ということだったという[Ranade 1998]。伝記によれば、妻が死去した際、その遺体をリヤカ ーに乗せ、1人で火葬場まで運んだとされている[Ghokale 1999]。 21たとえば、プネー出身の映画監督であるアモール・パレカルによるR.D.カルヴェーの生涯を映画 化した作品『Dhyās parva(熱望の時代)』や、プネーの出版社によるカルヴェーの著作集シリー ズの刊行を目指す動きなどが挙げられる。 参照文献 マラーティー語

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要旨 本稿では、インドにおける今日の人口政策を歴史的経緯に位置づけるために、

20

世紀はじめのインドにおいて、誰の生殖能力がどのように管理されるべきもの と見なされており、また、具体的にどのような人々がこうしたバースコントロール 活動に従事していたのかを明らかにすることを目的とする。特に、ボンベイ管区マ ハーラーシュトラ地域で活動したR・D・カルヴェーの思想と実践に注目すること で、同時代の「バースコントロール・リーグ」のメンバー内の相違点について指摘 する。R・D・カルヴェー(

1882

-

1953

)は、インドではじめて産児制限クリニッ クを開設した、産児制限運動の先駆者として知られる人物である。 だが、今日に至るまで彼の活動と思想は、産児制限運動の研究史のなかでも短く 言及されるにとどまっており、著作の検討や分析はほとんどなされてこなかった。

(22)

本稿では、その膨大な資料への足掛かりとして、刊行された雑誌を具体的に分析す ることで、

20

世紀初頭から半ばにかけてのインドにおける産児制限運動の展開に ついて新たな考察を加えるとともに、セクシュアリティをめぐる当時のインド社会 の状況を明らかにすることを目指す。 Summary Contested Sexuality:

the Birth Control Movement of R.D. Karve in British India Mizuho Matsuo

Th e purpose of this paper is to examine birth control movements led by social reformers in early 20th century India. It focuses on analysing the works of Raghunath Dhondo Karve (hereafter R.D. Karve), in an eff ort to trace historical debates over birth control and women’s sexuality in British India. R.D.Karve (1882-1953) was a professor of mathematics and one of the leading birth control advocates in Bombay presidency. He was strongly infl uenced by Neo-Malthusian ideologies whilst based in Paris and this experience encouraged him to start a birth control clinic in Bombay in 1921 (which, notably, was the fi rst clinic of its kind in Asia). Karve was also responsible for publishing a magazine titled ‘Samāj Svāsthya’, which appeared on a monthly basis for twenty six years; its purpose was to widely disseminate information on family planning. Despite these accomplishments, there have been relatively few attempts at examining Karve's views and work. Th is gap becomes all the more surprising when we compare the scholarship available on N.S. Phadke and A.P. Pillay, who were Karve's peers and also active in birth control movements within the Bombay presidency. Phadke's and Pillai's relative fame can be partially explained by the fact that most of their major works were published in English, and that they retained lasting connections with well known international activists and sexologists such as Margaret Sanger, Marie Stopes, Havelok Ellis, etc. Karve, in comparison, published his views on the theme of birth control in Marathi, which has contributed to them being ignored in many recent analyses. Th is paper seeks to redress this imbalance, by carefully analysing Karve’s writings, especially those available in ‘Samāj Svāsthya’; in this manner, this contribution seeks to provide new insights into the deployment of birth control movements in early 20th century India.

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