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Vol.41 , No.2(1993)014福士 慈稔「新羅の仏教公認と受容形態に関する一考察」

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Academic year: 2021

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印 度 學 佛 教 學 研 究 第 四 十 一 巻 第 二 號 卒 成 五 年 三 月 六 四

は じ め に 近 年 、 中 古 期 新 羅 史 研 究 は 度 重 な る 金 石 文 の 発 見 に よ り 新 た な る 展 開 を 迎 え 、 新 羅 六 世 紀 時 の 王 権 論 、 そ れ に 伴 う 官 位 制 ・ 六 部 の 問 題 等 の 政 治 制 度 史 的 な 研 究 が 発 表 さ れ 、 又 、 制 度 史 研 究 の 手 法 を 以 て 僧 官 制 ・ 寺 典 等 の 仏 教 統 制 機 関 に 関 す る 研 究 も 諸 学 会 に 於 い て 注 目 を 集 め て い る 。 し か し な が ら 仏 教 に 関 す る 研 究 は 史 料 上 の 制 限 か ら 対 象 が 七 世 紀 中 葉 以 降 に 限 ら れ 、 必 然 的 に 仏 教 公 認 及 び そ れ を 契 機 と す る 新 羅 六 世 紀 時 の 受 容 形 態 に 関 す る 言 及 は 少 な い 。 又 、 金 石 文 を 中 心 と し た 王 権 と そ れ に 付 随 す る 研 究 は 六 世 紀 を 対 象 と す る も の の 、 新 羅 の 仏 教 受 容 初 期 の 問 題 、 つ ま り 現 存 史 料 に 記 さ れ て い る 王 の 出 家 及 び 王 妃 の 出 家 と い う 異 常 な る 事 柄 に 関 し て は 、 沈 黙 を 守 り 、 い や 寧 ろ 意 図 的 に 無 視 し て い る 感 す ら す る 。 し か し な が ら 王 権 が 固 ま り つ つ あ っ た 新 羅 六 世 紀 時 の 法 興 王 ・ 真 興 王 と い う 最 高 権 力 者 の 出 家 を ど の よ う に 取 り 扱 う べ き か 、 日 本 の 皇 位 継 承 権 を 有 し て い た 古 人 大 兄 皇 子 や 大 海 人 皇 子 等 の 出 家 、 ま た は 梁 の 武 帝 の 白 衣 の 菩 (薩 的 形 態 等 と 同 一 視 す べ き か ど う か 、 最 高 権 力 者 の 出 家 自 体 に 様 々 な 問 題 が 内 在 し 、 中 古 期 新 羅 史 研 究 ・ 新 羅 仏 教 史 研 究 に と っ て 最 初 期 に 取 り 上 げ ら れ る べ き 問 題 で あ る 。 よ っ て 、 こ の 小 論 で は 新 羅 仏 教 受 容 初 期 の 形 態 、 特 に 法 興 王 ・ 真 興 王 を 中 心 と す る 王 族 の 出 家 と そ れ に 伴 う 権 力 構 造 に 関 し て 、 現 存 の 利 用 に 耐 え う る と さ れ る 史 料 と 数 年 前 に 韓 国 で 発 見 さ れ た 筆 者 が 真 撰 と 考 え る (1) ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ を 併 用 す る こ と に よ っ て 若 干 の 問 題 提 示 を 試 み た い 。 一 現 存 資 料 に み ら れ る 新 羅 王 族 の 出 家 (2) 先 ず 、 ﹃ 三 国 史 記 ﹄ 新 羅 本 紀 に よ る 法 興 王 の 仏 教 関 係 の 記 載 は 、 (1) 十 五 年 。 肇 行 仏 法 。 (異 次 頓 説 話 、 省 略 ) (2) 十 六 年 。 下 令 禁 殺 生 。

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-604-(3) 二 十 七 年 秋 七 月 。 王 嘉 。 諮 日 法 興 。 葬 於 哀 公 寺 北 峯 。 以 上 で あ る 。 法 興 王 十 五 年 (﹃ 三 国 史 記 ﹄ の 法 興 王 代 の 紀 年 は 、 一 年 繰 り 上 げ る べ き で あ り 、 実 際 は 十 四 年 、 五 二 七 ) の 肇 行 仏 法 と 十 六 年 の 下 令 禁 殺 生 の み 窺 え る に す ぎ な い の だ が 、 し か (3) し 、 ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ 巻 第 三 に は 興 輪 寺 完 成 に 期 し 、 ﹁ 晃 旛 を 謝 し て 方 抱 を 披 き 、 宮 戚 を 施 し て 寺 隷 と 為 し 、 主 と し て 其 の 寺 に 住 し 、 躬 ら 弘 化 に 任 ず ﹂ と し 、 更 に ﹁ 真 興 乃 ち 徳 を 継 ぎ 聖 を 重 ね 、 衰 職 を 承 け 九 五 に 処 り 、 威 は 百 僚 を 率 い 号 令 畢 く 備 は る 。 因 っ て 額 を 大 王 興 輪 寺 と 賜 ふ 。 前 王 の 姓 は 金 氏 、 出 家 し て 法 雲 と い い 法 空 と 字 す ﹂ と し て 、 法 興 王 が 出 家 し 興 輪 寺 に (4) 住 し た こ と が 記 さ れ 、 又 、 ﹃ 海 東 高 僧 伝 ﹄ に も ﹁ 王 、 位 を 遜 き て 僧 と 為 り 、 名 を 法 空 と 改 め 、 三 衣 と 瓦 鉢 を 念 い 、 志 も 行 い も 高 遠 に し て 一 切 を 慈 悲 せ り ﹂ と あ る 。 ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ ・ ﹃ 海 東 高 僧 伝 ﹄ に ょ り 法 興 王 の 出 家 が 知 ら れ る の で あ る 。 (5) 次 に 、 ﹃ 三 国 史 記 ﹄ 新 羅 本 紀 に よ る 真 興 王 代 の 仏 教 関 係 の 記 載 は (1) 五 年 春 二 月 。 興 輪 寺 成 。 三 月 。 許 人 出 家 為 僧 尼 奉 仏 。 (2) 十 年 春 。 梁 遣 使 與 入 学 僧 覚 徳 送 仏 舎 利 。 王 使 百 官 奉 迎 興 輪 寺 前 路 。 (3) 十 四 年 春 二 月 。 王 命 所 司 。 築 新 宮 於 月 城 東 。 黄 竜 見 其 他 。 王 疑 之 。 改 為 仏 寺 。 賜 号 日 皇 竜 。 (4) 二 十 六 年 。 陳 遣 使 劉 使 与 僧 明 観 来 聰 。 送 釈 氏 経 論 千 七 百 余 巻 。 (5) 二 十 七 年 春 二 月 。 祇 園 実 際 二 寺 成 。 立 王 子 銅 輪 為 王 太 子 。 遣 使 於 陳 。 貢 方 物 。 皇 竜 寺 畢 功 。 (6) 三 十 三 年 冬 十 月 二 十 日 。 為 戦 死 士 卒 。 設 八 関 鑓 会 於 外 寺 。 七 日 罷 。 (7) 三 十 五 年 春 三 月 。 鋳 成 皇 竜 寺 丈 六 像 。 銅 重 三 万 五 千 七 斤 。 鍍 金 重 一 万 一 百 九 十 八 分 。 (8) 三 十 六 年 。 春 夏 旱 。 皇 竜 寺 丈 六 像 出 涙 至 踵 。 (9) 三 十 七 年 。 秋 七 月 。 王 嘉 。 論 日 真 興 。 葬 干 哀 公 寺 北 峯 。 王 幼 年 即 位 。 一 心 奉 仏 。 至 末 年 祝 髪 被 僧 衣 。 自 号 法 雲 。 以 終 其 身 。 王 妃 亦 敷 之 為 尼 。 住 永 興 寺 。 及 其 麗 也 。 国 人 以 礼 葬 之 。 以 上 で あ る 。 真 興 王 五 年 ( 五 四 四 ) に 、 人 が 出 家 し 僧 尼 と な り 仏 を 奉 ず る こ と を 許 し た こ と 、 入 学 僧 覚 徳 の 帰 朝 、 仏 寺 の 建 立 、 八 関 麺 会 、 そ し て 真 興 王 が 末 年 に 祝 髪 し 僧 衣 を 被 り 法 雲 と 号 し た こ と 、 又 、 王 妃 が 出 家 し 尼 と な り 永 興 寺 に 住 し た こ と 等 が 記 さ れ て い る 。 更 に 、 ﹃ 海 東 高 僧 伝 ﹄ に は 王 の 出 家 に 関 し て 詳 細 に ﹁ 王 、 幼 年 に し て 柞 に 即 き た れ ど も 、 一 心 に 仏 を 奉 じ 、 末 年 に 至 り 祝 髪 し 浮 屠 と 為 り 、 法 服 を 被 り 自 ら 法 雲 と 号 し 、 禁 戒 を 受 持 し 三 業 清 浄 と な り 、 遂 に 以 て 終 焉 せ ら る ﹂ と し て い る が 、 こ こ で 特 に 注 意 を 要 す る こ と が 、 正 史 で あ る ﹃ 三 国 史 記 ﹄ に 真 興 王 の 出 家 が 明 記 さ れ て い る 点 で あ る 。 次 に 、 王 族 の 女 性 の 出 家 に 関 し て は 、 先 の ﹃ 三 国 史 記 ﹄ 新 羅 本 紀 真 興 王 三 十 七 年 条 の 真 興 王 妃 の 出 家 、 そ れ に 関 連 し て 新 羅 の 仏 教 公 認 と 受 容 形 態 に 関 す る 一 考 察 (福 士 ) 六 五

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-605-新 羅 の 仏 教 公 認 と 受 容 形 態 に 関 す る 一 考 察 (福 士 ) 六 六 同 新 羅 本 紀 真 平 王 三 十 六 年 条 に 真 興 王 妃 比 丘 尼 の 死 去 の 記 事 が あ る 。 ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ の 撰 者 一 然 が 永 興 寺 の 創 主 に 関 し て ﹁ 按 ず る に 真 興 は 乃 ち 法 興 の 姪 子 な り 。 妃 の 思 刀 夫 人 は 朴 氏 に し て 、 牟 梁 里 の 英 失 角 干 の 女 な り 。 亦 、 出 家 し て 尼 と 為 り (7) た れ ど も 、 而 も 永 興 寺 の 創 主 に は 非 ざ る 也 ﹂ と し 、 又 、 ﹃ 三 (8) 国 遺 事 ﹄ 王 暦 の ﹁ 妃 の 忠 弓 夫 人 は 英 失 角 干 の 女 な り 、 髪 を 剃 り て 尼 と 為 る ﹂ と し て 、 こ の 頃 の 借 字 表 記 法 に よ っ て 諸 資 料 (9) 間 の 王 妃 名 に 思 刀 ・ 忠 弓 と 若 干 の 混 乱 が 見 ら れ る が 、 こ の 真 興 王 妃 は ﹃ 三 国 史 記 ﹄ で い う と こ ろ の 思 道 に 比 定 さ れ る 。 そ ( 10) し て ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ 巻 第 一 に は 第 二 十 四 真 興 王 。 即 位 時 年 十 五 歳 。 太 后 擾 政 。 太 后 乃 法 興 王 之 女 子 。 立 宗 葛 文 王 之 妃 。 終 時 削 髪 被 法 衣 而 逝 。 と し て 、 真 興 王 母 の 出 家 が 知 ら れ 、 又 、 (1) ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ 巻 ( 11) ( 12) ( 13) 第 三 、 (2) ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ 王 暦 、 (3) ﹃ 海 東 高 僧 伝 ﹄ に は 、 (1) 王 妃 亦 創 永 興 寺 。 慕 史 氏 之 遺 風 。 同 王 落 彩 為 尼 。 名 妙 法 。 亦 住 永 興 寺 。 有 年 而 終 。 (2) 妃 巴 丑 夫 人 。 出 家 名 法 流 。 住 永 興 寺 。 (3) 王 妃 亦 奉 仏 為 比 丘 尼 。 住 永 興 寺 焉 。 と し 、 記 載 箇 所 に 王 妃 名 を 記 し て い る の は (2) 巴 丑 の み で あ り 、 諸 史 料 に よ っ て 巴 丑 ・ 巴 弓 ・ 保 刀 ・ 保 道 と 表 記 が 異 な る が 、 法 興 王 妃 の 出 家 が 知 ら れ 、 こ こ で 永 興 寺 を 中 心 と し た 王 族 の 女 性 達 の 出 家 が 窺 わ れ る 。 さ て 、 以 上 の よ う に 現 存 史 料 に よ り 法 興 王 ・ 法 興 王 妃 ・ 真 興 王 真 興 王 母 ・ 真 興 王 妃 、 王 族 五 名 の 出 家 が 知 ら れ る の で あ る が 、 史 料 に は 個 々 の 出 家 の 事 実 の み 記 さ れ て い る に す ぎ ず 、 又 、 そ れ ら 史 料 も 高 麗 時 代 の 成 立 で あ り 史 料 相 互 間 に 交 錯 が み ら れ る こ と か ら 、 個 々 に 問 題 が 内 在 す る も そ れ 以 上 の 解 明 は 不 可 能 に 近 く 、 新 た な る 史 料 か ら の 考 察 が 必 要 と な る 。 二 ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ に み ら れ る 王 族 の 出 家 ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ に は 法 興 王 ・ 真 興 王 の 出 家 に 関 し て の 直 接 的 な る 記 事 は 見 当 た ら な い 。 し か し 間 接 的 で は あ る が ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ の 記 事 を 契 機 と し 、 今 ま で 出 自 不 明 で あ っ た 仏 教 公 認 の (14) 立 役 者 異 次 頓 が 法 興 王 の 孫 と い う こ と が 判 明 す る 。 こ れ に よ り ﹃ 三 国 史 記 ﹄ に 仏 教 を 公 認 し た 法 興 王 の 仏 教 関 係 の 記 載 が あ ま り に も 少 な く 、 又 、 五 二 七 年 の 公 認 か ら 興 輪 寺 の 工 事 着 工 ま で 七 年 も 問 が あ る こ と か ら 、 仏 教 公 認 を 五 三 四 年 乃 至 五 (15) 三 五 年 と す る 説 も あ る が 、 ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ に よ っ て 五 二 七 年 の 異 次 頓 の 実 在 性 と 殉 教 の 史 実 性 が 浮 か び 上 が り 、 自 分 の 孫 を 殉 教 さ せ て ま で も 仏 教 を 公 認 し た 法 興 王 の 仏 教 に 対 す る 期 待 と 、 そ の 仏 教 受 容 初 期 に 於 け る 法 興 王 の 主 体 性 が 窺 え る 。 そ こ で 法 興 王 は 実 際 に 出 家 し た の か 、 出 家 し た な ら ば そ の 原 因 は 何 か 、 政 権 は 誰 に 委 ね た の か と い う こ と が 問 題 と な る 。 こ

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-606-こ で 、 ﹃ 三 国 史 記 ﹄ で は 真 興 王 即 位 に 際 し 真 興 王 幼 少 に よ る 王 母 摂 政 が 記 さ れ て い る が 、 し か し 、 法 興 王 か ら 真 興 王 へ の 移 行 に 関 し て ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ は 興 味 あ る 記 事 を 提 供 し て い る 。 っ ま り 魏 花 郎 条 の (1) 只 召 太 后 當 国 而 置 花 郎 以 公 為 其 首 號 日 風 月 主 。 只 召 者 保 道 女 也 。 為 立 宗 公 夫 人 生 真 興 大 王 。 而 法 興 大 王 愛 玉 珍 宮 主 無 立 意 。 只 召 憂 之 公 乃 暁 大 義 干 玉 珍 而 立 之 。 時 人 莫 不 (義 。 又 、 同 じ 魏 花 郎 条 の (2) 玉 珍 初 嫁 英 失 公 未 幾 受 幸 干 法 興 大 王 生 比 墓 公 。 大 王 欲 立 為 太 子 。 公 諫 之 日 臣 女 無 骨 品 而 具 與 英 失 混 慮 恐 未 可 也 。 法 興 崩 只 召 太 后 降 比 壷 公 王 子 位 。 と い う 記 事 で あ る 。 (1) は 法 興 王 の 娘 只 召 が 葛 文 王 立 宗 公 と の 子 供 で あ る 真 興 を 法 興 王 の 次 の 王 に 立 て よ う と 考 え て い た が 、 法 興 王 は 魏 花 郎 の 娘 で あ る 玉 珍 を 寵 愛 し て い て 真 興 を 王 に し よ う と す る 考 え が 無 く 、 そ こ で 只 召 と 魏 花 郎 が 玉 珍 を 説 得 し て 真 興 を 王 と し た 。 (2) は 魏 花 郎 の 娘 玉 珍 は 最 初 英 失 公 と 結 婚 し て い た が 法 興 王 の 寵 愛 を う け 比 毫 を 生 む 。 法 興 王 が 比 毫 を 王 位 継 承 権 を 有 す る 太 子 に し よ う と し た が 、 魏 花 郎 は 玉 珍 が 骨 品 が 低 く 、 又 、 比 毫 が は た し て 英 失 公 の 子 か 法 興 王 の 子 か 不 明 で あ る と し て 法 興 王 を 諫 め た 。 法 興 王 が 崩 じ て 只 召 は 比 毫 を 王 子 (太 子 ) の 位 か ら 降 ろ し た 。 若 干 解 釈 が 困 難 で あ る が 、 (1) と(2) を 総 合 す る と 法 興 王 は 周 囲 の 反 対 を お し き っ て 比 毫 を 太 子 と し 、 法 興 王 の 死 後 只 召 等 は 比 毫 を 王 子 (太 子 ) の 位 か ら 隆 う し て 真 興 を 王 と し た 、 と い う こ と に な る 。 こ こ で 、 法 興 王 在 世 中 は 出 家 の 有 無 に か か わ ら ず 法 興 王 の 意 向 が 反 映 さ れ 、 法 興 王 死 去 の 後 に 、 法 興 王 の 意 向 に 反 し 、 真 興 が 即 位 し た と い う こ と か ら 法 興 王 か ら 真 興 王 へ の 移 行 に は 若 干 の 問 題 が あ っ た こ と が 窺 え る 。 更 に 、 現 存 史 料 に よ る 法 興 王 の 出 家 に 伴 っ た 筈 の 法 興 王 妃 の 出 家 が 、 ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ で は 王 の 寵 が な く な っ た 結 果 出 家 さ ( 16) せ ら れ た と い う 受 動 的 な も の と な っ て お り 、 そ の 出 家 さ せ ら ( 17) れ た 筈 の 法 興 王 妃 が 五 三 九 年 銘 の 川 前 里 書 石 文 に は 出 家 名 で は な く 夫 乞 支 と い う 世 俗 名 で 刻 さ れ 、 真 興 ・ 立 宗 葛 文 王 と 共 に 書 石 文 の 主 要 人 物 と な っ て い る 。 法 興 王 の 死 去 は 五 三 九 年 七 月 と さ れ 、 こ の 巡 遊 は 七 月 三 日 と な っ て い る 。 巡 遊 が 法 興 王 死 去 の 前 か 後 か 問 題 と な り 、 そ の 解 釈 が 大 き な ネ ッ ク と な る が 、 も し こ こ で 法 興 王 か ら 真 興 王 へ の 移 行 に ク ー デ タ ー 的 な も の を 考 え 、 王 位 継 承 を め ぐ っ て 法 興 王 ・ 玉 珍 ・ 比 毫 と 法 興 王 妃 ・ 只 召 ・ 真 興 ・ 立 宗 葛 文 王 の 対 立 を 想 定 す る な ら ぽ 、 川 前 里 書 石 の 段 階 で 法 興 王 か ら 摂 政 の 只 召 と 立 宗 葛 文 王 と の 体 制 に 移 行 し て い た と 考 え る こ と も 不 可 能 で は な い 。 そ の 場 合 、 法 興 王 が 出 家 し た と す る な ら ぽ は た し て 信 仰 に 基 づ く 純 粋 な る 出 家 と す る こ と が 出 来 る か ど う か 、 つ ま り 王 位 継 承 の 混 乱 時 に そ の よ う な こ と が 可 能 で あ っ た か ど う か が 問 題 で あ 新 羅 の 仏 教 公 認 と 受 容 形 態 に 関 す る 一 考 察 (福 士 ) 六 七

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新 羅 の 仏 教 公 認 と 受 容 形 態 に 関 す る 一 考 察 ( 福 士 ) 六 八 る 。 も し 出 家 し た と す る な ら ば 譲 位 に 伴 う 受 動 的 な も の と し 、 或 は 、 ク ー デ タ ー を 隠 す た め の 後 代 の 潤 色 と す る ほ う が よ い か も し れ な い 。 又 、 も し ク ー デ タ ー が な い と す る と ﹃ 海 ( 18) 東 高 僧 伝 ﹄ 法 空 条 賛 の ﹁ 梁 武 を 以 て 之 に 比 す る は 非 な る 也 。 彼 は 人 主 を 以 て 大 同 寺 の 奴 と 為 り 帝 業 を 地 に 墜 せ り 。 法 空 は 既 に ( 王 位 を ) 遜 き て 、 以 て 其 の 嗣 を 固 め 、 自 ら 引 き て 沙 門 と 為 れ り ﹂ と い う 記 載 の ﹁ 嗣 ﹂ と は ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ に よ る と 法 興 王 死 去 の 後 に 太 子 か ら 降 ろ さ れ た 比 壷 と さ れ 、 生 存 中 は 法 興 王 の 影 響 が 依 然 と 存 す る こ と か ら ﹃ 海 東 高 僧 伝 ﹄ の 覚 訓 が 梁 の 武 帝 と 法 興 王 の 出 家 と の 相 違 を 述 べ て い る に 拘 ら ず 、 梁 の 武 帝 の よ う な 白 衣 の 菩 薩 的 出 家 と 考 え る 必 要 が あ る 。 次 に 真 興 王 に 関 し て は 、 摂 政 只 召 の 存 在 、 及 び 当 時 の 王 族 女 性 達 の 権 力 構 造 の 解 明 が 重 要 な る 問 題 と な る 。 ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ 二 花 郎 条 の ﹁ ( 二 花 郎 ) 公 、 淑 明 公 主 と 永 興 寺 に 出 居 し 仏 道 に 専 心 す 。 (只 召 ) 太 后 、 亦 こ れ が 為 に 帰 依 し 、 亦 〇 太 子 落 彩 受 戒 す ﹂ 、 同 じ く 醇 原 郎 条 の ﹁ 文 弩 、 国 仙 を も っ て 花 郎 の 首 と な る な り 。 故 に 仙 花 と 曰 く 。 醇 原 、 永 興 寺 に 美 室 に 従 う 。 後 に (醇 原 郎 は ) 弥 勒 仙 花 と 加 号 さ る ﹂ 等 の 記 載 か ら 、 只 召 を 始 め と す る 女 性 の 出 家 が し ら れ る が 、 そ の 他 に ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ に は 、 現 存 史 料 に 見 ら れ る 新 羅 王 権 論 と は 異 な り 、 二 五 代 真 智 王 が 真 興 王 の 寵 を 受 け た 美 室 に よ っ て 王 位 に 就 き 、 好 色 放 蕩 に よ っ て 真 智 王 母 思 道 と 美 室 に よ っ て 廃 位 さ せ ら れ た と い ( 19) う こ と や 、 二 六 代 の 真 平 王 代 に 宮 中 に 三 人 の 女 性 の 行 政 が あ ( 20) り 王 も そ れ に 従 っ た と い う こ と 等 、 女 権 の 強 さ が 窺 わ れ る 記 載 が み ら れ る 。 花 郎 任 命 権 の 所 在 は 、 只 召 、 真 興 王 、 美 室 の 順 に な る が 、 真 興 王 在 位 中 の 五 七 二 年 頃 に は 美 室 が 花 郎 任 命 権 を 有 し て い た と 考 え ら れ 、 又 、 五 七 二 年 以 降 、 史 料 中 に 真 興 王 主 体 の 記 載 が み ら れ な い こ と 等 を 考 え 合 わ せ る と 、 真 興 王 末 年 の 出 家 を 五 七 二 年 以 降 と す る こ と も 可 能 と な ろ う 。 結 語 以 上 、 私 見 を ま と め る と 、 新 羅 の 仏 教 公 認 は 法 興 王 が 主 体 と な り 王 族 の 殉 教 を 出 す ほ ど 仏 教 に 期 待 を 込 め て 公 認 し な が ら も 、 法 興 王 を 中 心 と し た 一 部 貴 族 内 の 信 仰 に 留 ま っ た 感 が 強 く 、 又 、 法 興 王 も 含 め 、 只 召 ・ 真 興 王 ・ 美 室 等 の 出 家 が 、 権 力 を 喪 失 、 あ る い に 譲 渡 後 の 出 家 と 考 え ら れ る こ と か ら 、 出 家 後 の 影 響 力 の 存 続 が 今 後 の 課 題 と な る と こ ろ で あ る が 、 と も か く も 新 羅 仏 教 が 、 実 権 を 掌 握 し て い た 王 、 及 び 宮 中 の 女 性 を 中 心 に 展 開 さ れ て い っ た こ と が 窺 わ れ る と い う こ と で あ る 。 更 に 推 論 が 許 さ れ る な ら ば 、 そ れ ら 女 性 の 仏 教 信 仰 、 及 び 女 権 の 存 在 が 、 二 七 代 善 徳 女 王 ・ 二 八 代 真 徳 女 王 と い う 女 帝 の 出 現 の 布 石 と な っ て い た と も 考 え ら れ る 。 現 段 階 で は あ く ま で も 問 題 提 示 に す ぎ な い が 、 今 後 、 金 石 文 及 び ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ の 真 為 を 踏 ま え 、 残 さ れ た 課 題 を 解 明 す る 所 存 で あ

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-608-つ 。 1 ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ の 真 偽 に 関 し て は 、 権 真 永 ﹁ 筆 写 本 花 郎 世 紀 の 史 料 的 検 討 ﹂ (﹃ 歴 史 学 報 ﹄ 第 一 二 三 輯 、 一 九 八 九 年 九 月 韓 国 ) 、 弘 中 芳 男 ﹁ 権 氏 の 説 林⋮筆 写 本 ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ の 史 料 的 検 討 に つ い て ﹂ ( ﹃ 韓 国 文 化 ﹄ 七 、 八 月 号 、 一 九 九 一 年 ) を 参 照 さ れ た い 。 2 ﹃ 三 国 史 記 ﹄ 巻 第 四 新 羅 本 紀 第 四 法 興 王 条 、 朝 鮮 史 学 会 本 三 九 -四 〇 頁 。 3 ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ 巻 第 三 興 法 第 三 原 宗 興 法 条 、 大 正 蔵 四 九-九 八 八 上 。 4 ﹃ 海 東 高 僧 伝 ﹄ 巻 第 一 釈 法 空 条 、 大 正 蔵 五 〇 、 一 〇 一 九 上 。 5 ﹃ 三 国 史 記 ﹄ 巻 第 四 新 羅 本 紀 第 四 真 興 王 条 、 朝 鮮 史 学 会 本 四 一-四 三 頁 。 6 ﹃ 海 東 高 僧 伝 ﹄ 巻 第 一 釈 法 雲 条 、 大 正 蔵 五 〇 、 一 〇 一 九 中 。 7 ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ 巻 第 三 興 法 第 三 原 宗 興 法 条 、 大 正 蔵 四 九 、 九 八 八 上 。 8 ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ 巻 第 一 王 暦 第 一 、 大 正 蔵 四 九 、 九 五 九 上 。 9 南 豊 鉱 ﹁ 漢 字 ・ 漢 文 の 受 容 と 借 字 表 記 法 の 発 達 ﹂ (﹃ 韓 国 古 代 文 化 と 隣 接 文 化 と の 関 係 ﹄ 韓 国 精 神 文 化 研 究 院 編 、 一 九 八 一 年 一 〇 月 韓 国 ) 。 末 松 保 和 著 ﹃ 新 羅 史 の 諸 問 題 ﹄ (東 洋 文 庫 、 一 九 五 四 年 一 一 月 、 一 六 七 -一 八 六 頁 ) 参 照 。 10 ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ 巻 第 一 紀 異 第 一 真 興 王 条 、 大 正 蔵 四 九 、 九 六 七 下 。 11 ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ 巻 第 三 興 法 第 三 原 宗 興 法 条 、 大 正 蔵 四 九 、 九 八 八 上 。 12 ﹃ 三 国 遺 事 ﹄ 巻 第 一 王 暦 第 一 、 大 正 蔵 四 九 、 九 五 八 下 。 13 ﹃海 東 高 僧 伝 ﹄ 巻 第 一 釈 法 空 条 、 大 正 蔵 五 〇 、 一 〇 一 九 中 。 14 拙 稿 ﹁ 新 羅 仏 教 研 究 と 花 郎 世 紀 ﹂ (﹃ 東 方 ﹄ 第 七 号 、 東 方 学 院 、 一 九 九 〇 年 一 二 月 ) を 参 照 さ れ た い 。 15 李 其 白 著 ﹃新 羅 時 代 の 国 家 仏 教 と 儒 教 ﹄ (韓 国 研 究 叢 書 第 三 十 五 輯 、 韓 国 研 究 院 、 一 九 七 八 年 八 月 韓 国 ) 。 16 ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ 魏 花 郎 条 。 17 田 中 俊 明 ﹁新 羅 の 金 石 文 1 蔚 州 川 前 里 書 石 ・ 己 未 年 追 銘 ﹂ ( 一 ) ( 二 ) (﹃ 韓 国 文 化 ﹄ 一 〇 、 一 二 ・ 一 月 号 、 一 九 八 四 -一 九 八 五 年 ) 。 18 ﹃ 海 東 高 僧 伝 ﹄ 巻 第 一 釈 法 空 条 、 大 正 蔵 五 〇 、 一 〇 一 九 中 。 19 ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ 醇 花 郎 条 。 20 ﹃ 花 郎 世 紀 ﹄ 夏 宗 条 。 ︿ キ ー ワ ー ド ﹀ 新 羅 王 族 の 出 家 、 花 郎 世 紀 、 法 興 王 、 真 興 王 (東 方 研 究 会 専 任 研 究 員 ) 新 羅 の 仏 教 公 認 と 受 容 形 態 に 関 す る 一 考 察 (福 士 ) 六 九

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