カリリオン事件とイギリスにおける監査制度改革議 論
著者 林 隆敏
雑誌名 同志社商学
巻 71
号 6
ページ 1349‑1375
発行年 2020‑03‑13
権利 同志社大学商学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2020.0000000153
カリリオン事件とイギリスにおける監査制度改革議論
林 隆 敏
Ⅰ はじめに
Ⅱ カリリオン事件の概要
Ⅲ FRCの対応
Ⅳ イギリス議会等の対応
Ⅴ 総括−むすびに代えて
Ⅰ は じ め に
イギリスのウルバーハンプトンに本社を置き,ロンドン証券取引所に上場していた大 手建設会社カリリオン社(Carillion Plc.)が,業績予想の大幅な下方修正から短期間の うちに破産申請したことを受け,イギリスでは,議会主導による監査制度改革の議論が 進められている。その内容は,監査事務所の強制的交代制度の見直しから監査人および 監査業務の規制当局である財務報告評議会(Financial Reporting Council:以下,FRCと いう。)の改革まで,幅広くかつ大胆なものである。欧州連合において
2014
年に制定さ れた,2006年法定監査指令の改正指令および社会的影響度の高い事業体(Public Inter-est Entities:以下,PIE
という。)に関する法定監査規1
則を国内法化し,監査規制の強化 を図ったばかりのイギリスにおいて,さらに幅広く大胆な制度改革が叫ばれるほど,カ リリオン社の破綻は社会の関心を集めた出来事であったようである。
イギリスは,近代的な会計職業専門家(Accounting Profession)発祥の地であり,勅 許会計士(Chartered Accountant)による自主規制を基礎とした監査制度の設計と運用が 行われてき
2
た。しかし,はっきりした境界線を引くことはできないものの,近年は勅許 会計士による自主規制が後退し,公的な規制が前面に押し出されているように感じられ る。現在進行中の監査制度改革議議論もこの流れを汲むものである。このような傾向 は,イギリスに限らず日本を含めて多くの国・法域においてみられる。そこで本稿で は,カリリオン事件の概要ならびに本稿執筆時点での
FRC
およびイギリス議会等の対────────────
1 2006年法定監査指令の改正指令およびPIEに関する法定監査規則の内容については,林(2014)を参 照されたい。
2 百合野正博教授は,イギリス(ロンドン)での在外研究の経験(百合野(1991))を踏まえて,学会・
研究会等での議論の際に,勅許会計士の社会的な地位が高く,勅許会計士が社会のさまざまな場面で活 躍していることがイギリス経済社会の特徴であるとともに,日本とは根本的に異なる点であると主張さ れる。
(1349)119
応をできる限り網羅的かつ正確に整理・紹介し,日本の監査制度への示唆を考えた
3
い。
Ⅱ カリリオン事件の概要
1.カリリオン社
カリリオン社は,1903年創業の老舗建築会社であるターマック社(Tarmac Plc.)か ら
1999
年7
月に分離独立した会社であ4
り,破産申請当時,イギリス第
2
位の建設会社 であった(The Construction Index(2018))。同社は,借り入れにより調達した資金によ
5 り競合他社を買収して事業規模を拡大し(House of Commons(2018, pp.13-14)),近年 はイギリスで盛んなプライベート・ファイナンス・イニシアティブ事業あるいはコンセ ッション事業に多数参画し,「統合サポートサービス事業(integrated support service)」を事業の柱の一つとしていた。同社は,破産申請直前の決算(2016年
12
月期)では5,214.2
百万ポンド(約7,481
億6
円)の売上高を計上し,全世界に従業員約
4
万3,000
人(イギリス国内約
19,000
人)を抱える会社であった。しかし,2017年7
月以降,巨額の 業績予想下方修正を繰り返し,半年後の2018
年1
月15
日に破産を申請した。[第
1
表]は2014
年度から2016
年度におけるカリリオン社の主要財務数値を,[第2
表]は2016
年度におけるカリリオン社のセグメント別売上高をそれぞれ示している。────────────
3 百合野(2016,第6章)は,イギリスの勅許会計士が影響を受ける社会的経済的コンテクストはイギリ ス固有のものであり,たとえ会計監査の本質が一つであったとしても,社会が異なればそれの発現形態 が同一であるとは限らないため,日本の会計士監査の辿るべき道筋は,日本の社会的経済的コンテクス トに照らして形成され,機能すべきであるとする。他の国・法域の制度研究にあたって重要な意味を持 つ主張である。
4 当時のターマック社の建設部門を分離してカリリオン社が新設され,骨材部門は同年末に南アフリカの 鉱業会社アングロアメリカン社(Anglo American Plc.)に買収された。
5 カリリオン社は,このランキングが公表されるようになった2009年から2017年まで,毎年,バルフォ ア・ビーティー社(Balfour Beatty Plc.)に次ぐ売上高2位の地位を維持しており,税金等調整前当期純 利益は2014年度から4年連続で1位であった。
6 本稿におけるポンド の 円 換 算 は,当 該 年 の 年 間 平 均TTB(2014年 は170.21円/ポ ン ド,2015年 は 181.10円/ポンド,2016年は143.48円/ポンド,三菱UFJリサーチ&コンサルティング(http : //www.
murc-kawasesouba.jp/fx/year_average.php))による。
[第1表]カリリオン社の主要財務数値 (単位:億円)
項目 2014年度 2015年度 2016年度
総売上高 6,930.8 8,306.9 7,481.3
営業利益 340.6 379.2 261.0
税金等調整前当期純利益 217.0 252.5 210.5
総資産 6,621.8 7,008.8 6,360.6
純資産 1,522.5 1,842.3 1,047.3
(出典)カリリオン社の年次報告書に基づき,筆者作成。
同志社商学 第71巻 第6号(2020年3月)
120(1350)
52.2%
5.9%
12.6%
29.3%
支援サービス PPPプロジェクト 中東建設サービス 他の建設サービス
ここで,比較によってカリリオン社の規模を理解するために,同じ建設業に分類され ていても業容・業態は異なることを念頭に置いた上で,同時期における日本の総合建設 業者の売上高上位
5
社(いわゆるスーパーゼネコン)の主要財務数値を確認する。[第3
表]を参照されたい。イギリス建設会社の第
1
位であるバルフォア・ビーティー社の売上高は1
兆2,458
億 円であり,日本の第5
位である竹中工務店と肩を並べるが,カリリオン社に相当する売 上高の会社は第6
位の長谷工コーポレーション(7,873.5億円)である。日本の大手総 合建設業者と主要財務数値で比較する限りでは,カリリオン社の企業規模は,抜本的な 監査制度改革議論を巻き起こすほど大きいとは思えな7
い。したがって,カリリオン社の
────────────
7 同時期の従業員数(平均臨時雇用人員を含む。)は,大林組17,754人,鹿島建設19,084人,清水建 ↗
[第2表]カリリオン社のセグメント別売上高の構成
(注)【支援サービス】英国・カナダ・中東における施設管理,施設サービス,エネルギ ーサービス,鉄道サービス,道路保守サービス,ユーティリティサービス,リモ ートサイト宿泊サービス,およびコンサルタント業務。【PPPプロジェクト】英 国・カナダにおける官民連携(Public Private Partnership)プロジェクトへの投資。
【中東建設サービス】中東・北アフリカにおける建築・土木活動。【その他の建設 サービス】イギリスにおける建築,土木・開発事業,およびカナダでの建設活動。
(出典)カリリオン社の年次報告書に基づき,筆者作成。
[第3表]日本の総合建設業者上位5社の主要財務数値 (単位:億円)
項目 大林組 鹿島建設 清水建設 大成建設 竹中工務店
総売上高 17,778.3 17,427.0 15,160.5 13,946.8 11,050.0
営業利益 1,063.8 1,110.8 946.7 1,174.7 913.7
税金等調整前当期純利益 1.072.6 1,085.2 936.1 1,1778.0 898.6
総資産 19,519.1 18,867.8 17,229.4 16,608.2 13,180.6
純資産 5,616.6 4,740.5 4,856.6 5,212.8 5,664.7
(注)竹中工務店の決算日は2015年12月31日,他の4社はすべて2016年3月31日である。
(出典)各社の年次報告書に基づき,筆者作成。
カリリオン事件とイギリスにおける監査制度改革議論(林) (1351)121
破綻は,企業規模以外の点で社会の注目を集めたと思われる。
イギリス議会下院(House of Commons)(庶民院と訳されることもある)の報告書
「カリリオン」(House of Commons(2018, pp.3 and 7))によれば,カリリオン社はイギ リス社会において重要な会社であり,同社の崩壊は,以下のような批判を受け,また重 大かつ不確実な影響を多方面に及ぼすと考えられている。
同社の破綻は突然であり,公表されていた財務状況は良好であった。しかし,同社 は破綻時に
70
億ポンド(1兆44
億円)の負債を抱え,わずか2,900
万ポンド(42 億円)の現金しか有していなかった。それにもかかわらず,同社は2016
年度に7,900
万ポンド(113億円)の記録的配当金と上級役員に対する多額の業績連動報酬を支払っていた。
同社の
2017
年3
月に公表された2016
年度財務諸表は,監査人であるKPMG
によ り,真実かつ公正な外観を示しているとの意見を表明されたが,2017年7
月に,同社は
8
億4,500
万ポンド(1,212億円)の工事損失引当金を計上し,利益の下方修正を公表した。工事損失引当金は
2017
年9
月に10
億4,500
百万ポンド(1,449 億円)にまで増加し,過去7
年間の利益を合計した金額に達した。同社には,約
43,000
人(イギリス国内19,000
人)の従業員がおり,同社の広範な サプライチェーンでは,さらに多くの人々が雇用されていた。すでに2,000
人を超 える人々が仕事を失った。同社は,破産申請時に約
26
億ポンド(3,730億円)の年金債務を抱えていた。同社 の破綻は,他の年金制度への課金により一部出資されている年金保護基金(Pen-sion Protection Fund)に過去最大の影響を及ぼす。確定給付年金制度に加入してい
た
27,000
人の社員は年金保護基金から減額された年金を支給されることになる。同社は,30,000社に及ぶ仕入先,下請業者,その他の短期債権者に対して約
20
億 ポンド(2,870億円)の債務を有しており,支払いが遅いことで有名であった。年 金制度と同様に,これらの債権者は同社の清算により債務をほとんど回収できない であろう。同社は,イギリスの公共部門における主要な戦略的供給業者であった。政府全体で 約
450
件の建設およびサービス契約を締結しており,道路や病院の建設から学校給 食や防衛施設の提供に至るさまざまな事業に携わっていた。政府は,同社が提供し ていた重要な公的サービスの継続性を確保するために,すでに1
億5,000
万ポンド────────────
↘ 設18,955人,大成建設17,759人,竹中工務店14,670人であり,いずれもカリリオン社の43,000人に
較べるとかなり少ない。これには,日本の建設業界における重層下請構造(工事全体の総合的な管理監 督機能を担う元請のもと,中間的な施工管理や労務の提供その他の直接施工機能を担う1次下請,2次 下請,さらにそれ以下の次数の下請企業から形成される構造(国土交通省(2018))の存在が影響して いると思われる。
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122(1352)
(215億円)の税金を拠出し
8
た。
2.カリリオン事件の経緯
カリリオン社の経営が破綻した最も大きな原因は,大幅な赤字受注を行ったことによ る。同社の取締役であった
Keith Cochrane
氏は,カリリオン社の事業モデルについて,「ロールス・ロイス並みのコストをかけて車を作り,ミニクーパー並みの値段で売って いた。」と表現している(Kiladze(2018))。赤字受注をした場合には,会計処理上,損
────────────
8 同社の管財人(Official Receiver)であるDave Chapman氏は,2018年8月6日に,カリリオン社が提 供していた病院,学校,道路,鉄道,その他の主要な社会インフラに関する公共性の高いサービスにつ いて,サービスの中断や重大な事故なしに継続的に提供できるようになったことを宣言した。その際,
同 氏 は,同 社 の 破 綻 を「イ ギ リ ス 史 上 最 大 の 事 業 活 動 の 清 算」と 評 し て い る(Insolvency Service
(2018))。
[第4表]カリリオン事件の経緯
2017年3月 カリリオン社が2016年12月期の年次報告書(当期純利益129.5百万ポンド(186億円)を計 上した財務諸表およびKPMGによる監査報告書(無限定適正意見)を添付)を公表。過去最 高額の配当(7,900万ポンド,113億円)および多額の役員報酬を支給。
7月 カリリオン社が8億4,500万ポンド(1,212億円)の工事損失引当金を計上する旨を公表。株
価が70% 下落。
9月 カリリオン社が10億4,500万ポンド(1,499億円)の工事損失引当金を計上した中間決算を公表。
12月 カリリオン社が政府への支援を要請したが,支援得られず。
2018年1月 カリリオン社が裁判所に破産を申請,受理。
1月 FRCがカリリオン社に関連する調査の開始を決定。
5月 議会下院のビジネス・エネルギー・産業戦略委員会および労働年金委員会が報告書「カリリオ ン」を公表。
5月 FRCがカリリオン社に関連する調査(財務諸表の虚偽表示および会計監査)の進捗状況を公表。
6月 FRCが大手監査事務所に対する年次検査結果を公表。
10月 CMAが監査市場の調査を開始。
12月 CMAが報告書「法定監査サービス市場の調査(中間報告)」を公表。
12月 BEISが報告書「FRCに関する独立レビュー」(通称,キングマン・レポート)を公表。
2019年1月 FRCがカリリオン社に関連する調査(財務諸表の虚偽表示および会計監査)の進捗状況を公表。
4月 CMAが報告書「法定監査サービス市場の調査(最終報告)」を公表。
4月 議会下院のビジネス・エネルギー・産業戦略委員会が報告書「監査の将来」を公表。
4月 BEISが報告書「監査の質および有効性に関する独立レビュー(意見募集)」を公表。
12月 BEISが報告書「監査の質および有効性に関する独立レビューに関する報告書」を公表。
2020年1月 FRCがカリリオン社に関連する調査(財務諸表の虚偽表示および会計監査)の進捗状況を公表。
(凡例)BEIS : Department for Business, Energy and Industrial Strategy:ビジネス・エネルギー・産業戦略省 CMA : Competition and Markets Authority:競争・市場庁
FRC : Financial Reporting Council:財務報告評議会
(出典)House of Commons(2018),カリリオン社の年次報告書,金融庁(2019)に基づき,筆者作成。
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失引当金を計上しなければならないが,同社の引当ては不十分であった。カリリオン社 は,2017年半ばに突如として工事損失引当金の多額計上を発表した。同社の
2016
年12
月期の当期純利益は1
億2,900
万ポンド(185億円)であり,当該引当金の計上によ って大幅な赤字となった。この発表後,ロンドン証券取引所におけるカリリオン社の株価は
70% 超下落し,金融機関は一斉に融資を引き上げ,政府の支援も得られず,結果
として破綻に至ったのである。
House of Commons(2018, p.3)によれば,カリリオン社の台頭と破綻は,無謀さ,傲
慢,貪欲の物語である。同社のビジネスモデルは,買収,負債による資金調達,新しい 市場への拡大,および仕入先からの容赦ない現金の強奪(relentless dash for cash)であ った。同社は,事業活動の実態とは異なる計算書類を開示し,配当金を毎年増加させ た。また,年金制度への十分な資金拠出のような長期債務は軽視された。会社がまさに 崩壊し始めたときでさえ,取締役会は役員賞与の増額と保護に関心があった。カリリオ ン社は存続不可能であった。同社が崩壊したことではなく,同社の経営が長く続いたこ とが謎であると述べられている。このようなカリリオン事件の経緯は,[第
4
表]のように示される。Ⅲ FRC の対応
イギリスにおける監査人,会計士および保険数理士を規制し,企業のコーポレート・
ガバナンス・コードおよびスチュワードシップ・コードを設定する役割を担っている
FRC
は,カリリオン社の破綻直後から,同社財務諸表の作成,承認および監査に関す る調査を実施している。この調査は2020
年1
月現在も継続中であるが,これまでの経 緯は以下のように整理できる。FRC
は,カリリオン社の破産申請を受け,2018年1
月15
日に,「カリリオンに関す るFRC
の声明」(FRC(2018 a))を公表し,FRCには同社の監査に関する状況および 関連する会計専門家の行動を調査する権限があることを宣言した。また,FRCは,同 年1
月29
日に「カリリオン社の財務諸表の監査に関する調査」(FRC(2018 b))を公 表し,KPMGによるカリリオン社の財務諸表監査(2014年度から2017
年12
月末まで)について調査を開始することを決定し,監査人が倫理基準および監査基準に違反してい ないかを検討することを明らかにした。次いで,同年
5
月16
日には,「カリリオンに関 連するFRC
調査の最新情報」(FRC(2018 c))と題して,KPMGによるカリリオン社 財務諸表の監査および当時の財務担当取締役であったRichard Adam
氏とZafar Khan
氏 に関する調査の主な焦点は,工事契約に関する会計処理,リバース・ファクタリング(買掛債務に対応する売掛債権の買い取りサービスの利用),退職給付,のれんおよび継
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124(1354)
続企業の前提であることと,具体的な調査内容が公表された。
翌
2019
年になってもカリリオン事件に対する社会の関心は高く,FRCは,1月22
日 に「カリリオンに関連するFRC
調査の最新情報」(FRC(2019 a))と題して,調査の 経過報告と調査対象が複雑であるため調査は2019
年も継続して行われる旨を公表した。同年
2
月26
日には「カリリオン社の財務諸表に関する調査の拡張」(FRC(2019 b))を 公表し,2013年度の財務諸表の作成,承認および監査も調査対象とすることを報告し た。2020
年1
月10
日 に は,「カ リ リ オ ン に 関 連 す るFRC
調 査 の 最 新 情 報」(FRC(2020))により,カリリオン事件の規模と複雑さは異例であり,膨大な量の文書および 情報を分析しなければならず,調査は現在も継続中のため,2020年夏までに調査の第
1
段階を完了することが見込まれると公表した。イギリスでは,カリリオン事件に端を発して監査制度改革が活発に議論されている が,上述のとおり,カリリオン社財務諸表の監査については,監査の失敗が生じたの か,もし生じたのであればその原因は何かについては,未だ明らかにされていない。
なお,カリリオン事件の調査とは別に,FRCは,カリリオン社財務諸表の監査を担 当していた
KPMG
に対して定期的な監査品質検査(Audit QualityInspection)を実施し
9 ている。2017年2
月から2018
年2
月までを対象とする検査(以下,2017/2018検査と い う。)で は,8つ の 大 手 監 査 事 務 所 の う ちKPMG
が 突 出 し て 低 い 評 価 を 受 け た。KPMG
の監査は次のように酷評されている(FRC(2018 d, pp.4-6))。すなわち,検査 対象監査23
件のうち,評価結10
果が「良好または僅かな改善を要するのみ」であったの は
14
件(61%)(前年度は15
件(65%))であり,FTSE350構成銘柄発行会社(以下,FTSE350
社という。)の監査16
件に限定すれば,この割合が50% に低下する(前年度
は
65
%)。翌年度までにこの割合を少なくとも1190% とすることが FRC
の目標であるの で,KPMGには相当の努力が求められる。このような2017/2018
検査の対象である監査 の全体的な品質,および過去5
年間の品質の低下傾向は容認できないものである(un-acceptable)。FRC
は,KMPG 監査チームが経営者に対して問題を提起し異議を唱える(challenge)範囲や職業的懐疑心を行使する姿勢,および事務所全体としての業務執行 に一貫性が欠けていることに懸念を抱いている。
────────────
9 FRCは,法令に基づいて認められた監査規制当局であり,PIE等の監査を担当するイギリスのすべて の監査事務所を対象として,監査品質検査を実施している。検査の頻度は,原則として,大手監査事務 所(Deloitte, Ernst & Young, KPMG, PWC, BDO, Grant Thornton, MazarsおよびMoore Stephens)は毎 年,その他の監査事務所は3年に1回である。
10 評価結果は,「良好または僅かな改善を要するのみ」,「改善を要する」および「相当な改善を要する」
の3種類である。
11 カリリオン社の2016年度財務諸表(2016年12月31日決算)の監査も2017/2018検査の対象に含まれ て い る が(FRC, AQR 2017/18 Reviews, https : //www.frc.org.uk/auditors/audit-quality-review/aqr-audit- reviews/aqr-2017-18-reviews),個別の監査については言及されていない。
カリリオン事件とイギリスにおける監査制度改革議論(林) (1355)125
このような厳しい検査結果やカリリオン事件に対する激しい批判を受けて,KPMG は,2018年
11
月に,財務諸表監査を引き受けているFTSE350
社に対し,コンサルテ ィング等の非監査業務の提供を停止する方針を発表した(Kleinmanm(2018))。Ⅳ イギリス議会等の対応
[第
4
表]に示したとおり,カリリオン事件の発生を受けて,イギリス議会下院,ビ ジネス・エネルギー・産業戦略省(Department for Business, Energy and Industrial Strat-egy:以下,BEIS
という。)および競争・市場庁(Competition and Markets Authority:以下,CMAという。)が主体となり,同事件が発生した背景,明らかとなった課題,
将来に向けての改善策などが議論され,複数の報告書が公表されている。以下,それら の報告書に示された改革案の骨子を紹介す
12
る。
1.「カリリオン」
カリリオン社の破産申請と強制清算を受け,イギリス下院のビジネス・エネルギー・
産業戦略委員会および労働年金委員
会による合同調査が行われ,201813 年
5
月に「カリリオン」と題された報告書(House of Commons(2018))が公表された。
同報告書では,カリリオン社のビジネスモデル,コーポレート・ガバナンス,財務報 告に関する取締役の責任や,外部牽制機能を果たすべき投資者,監査人,年金規制当 局,会計・監査の規制当局である
FRC,政府などの責任が検証されている。同報告書
に示された会計監査に対する結論は以下のように整理できる。①
KPMG
による監査の失敗KPMG
は,カリリオン社の監査を19
年間に渡って担当し,合計2,900
万ポンドの監 査報酬を受け取った。KPMGは,その間,一度も同社の計算書類に対する監査意見を 限定することなく,同社の取締役が彼らに提示した数字を承認した。しかし,経営者に 問題を提起し異議を唱える心構えがKPMG
にあれば,工事収益および過去の買収で計 上された無形資産(のれん)に関する非常に疑わしい仮定に注意すべきことに気づいた はずである。これらの仮定は,監査された年次計算書類に示された同社の財政状態等の 基礎となるものである。同社の積極的な会計判断に対して職業的懐疑心を行使せず,ま────────────
12 2018年12月18日に公表された「FRCに関する独立レビュー」(Kingman(2018))を除く。同報告書 は,カリリオン事件を契機として規制機関であるFRCに対する批判が高まったことを受けて,FRCの 所轄官庁であるBEISがJohn Kingman卿に委託した独立レビューの報告書である。同報告書では,
FRCを廃止し,明確な法的権限を持った新機関を設立することを中心とする83個の提案がなされてい る。
13 カリリオン社の破産申請により同社の確定給付年金が減額支給される見通しであるため,労働年金委員 会(Work and Pensions Committees)が関与したものと思われる。
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126(1356)
た声を上げなかったことで,KPMGは同社に共謀したことになる。KPMGはその帰結 について責任を負うべきである。(para.124)
② 監査市場の寡占状況
大規模株式会社の監査市場は四大監査事務所の寡占状況にある。この状況はずっと続 いており,会計事務所の新規参入その他の競争がこの確立された秩序を揺さぶるという 見通しはますます遠くなりつつある。KPMGがカリリオン社の監査を長期間にわたっ て担当していることは,単独の失敗事象ではない。それは,売り手寡占による市場の失 敗の徴候であった。監査の質と監査に対する信頼を高めるより競争の激しい市場の到来 を待つことは失敗に終わった。今こそ根本的に異なるアプローチを採る時である。
(para.210)
③ 監査事務所の利益相反
有意義な競争の欠如は絶えず利益相反を生み出す。カリリオン社の場合,KPMGは 外部監査人,Deloitteは内部監査人であり,EYはコンサルティング業務を提供してい た。PwCは,カリリオン社に,同社の年金制度に,そしてカリリオン社との契約に関 して政府に,さまざまなアドバイザリー業務を提供していたが,四大監査事務所の中で は利益相反が最も少ない事務所であった。そのため,PwC は,管財人により破産処理 に関する特別マネージャーに指名された。経済には,信頼を生みだす監査・専門業務の ための競争市場が必要である。(para.212)
④ 法定監査市場に関する調査
ビジネス・エネルギー・産業戦略委員会および労働年金委員会は,政府が法定監査市 場に関する調査を
CMA
に委託することを勧告した。また,委託にあたっては,四大監 査事務所をより多くの監査事務所に分割することと,監査および監査以外の専門業務を 提供する事務所から監査部門を切り離すことという2
つの検討事項を明示的に委託事項 に含めることが求められている。(para.213)本報告書における上記のような批判や提言を受けて,これ以降の改革議論が展開され ることとなった。
2.「法定監査サービス市場の調査」
上述のイギリス議会下院の報告書「カリリオン」において,法定監査市場の調査を
CMA
に委託すべきとの提言がなされたことを受け,イギリス政府はCMA
に調査を委 託した。CMAは,2018年10
月に調査を開始し,同年12
月18
日に「法定監査サービ ス市場の調査:中間報告書」(CMA(2018))を公表,その後,同報告書で提案された 改善提案に対するコメント募集を行い,2019年4
月18
日に「法定監査サービス市場の 調査:最終報告書」(CMA(2019))を公表した。カリリオン事件とイギリスにおける監査制度改革議論(林) (1357)127
(1)中間報告書の概要
中間報告書では,監査業界が質の高い監査を提供できなかった主たる要因として,以 下の
4
つが示されている(para.3.2)。(a)監査人の選任と監視:監査委員会が監査人を選任するという制度のみでは十分では なく,監査の質に焦点を合わせた選任・監視を行うべきである。
(b)非常に限られた監査人からの選択:規制,会社の組織構造,四大監査事務所以外の 事務所(以下,中小監査事務所という。)の競争力など様々な要因から,監査人の選択 肢は非常に限定されている。
(c)監査事務所の組織構造:監査事務所の収入の大半を監査業務以外から得るという組 織構造があるために,監査の質を高めようというインセンティブが働かない。
(d)規制:議会下院によるカリリオン事件に関する調査でも確認されたように,多くの 利害関係者が現在の規制は不十分であると考えている。
このような問題意識に基づいて,「中間報告書」は,監査の質を向上させるインセン ティブを最大化させることを目的として
6
つの改善策を提案した。[第5
表]はそれら の提案を整理したものである。以下では,上記の改善策のうち
1, 2, 5
および6
に関する議論を簡潔に紹介する。[第5表]CMA「中間報告書」が示した改善策 質の高い監査を
提供できない要因 改善策 改善策に期待される効果
(a)監査人の選任と 監視(監査の質に焦 点を合わせた競争の 促進)
【改善策1】規制当局による監査委員会の監
視(監査委員会が経営者から独立しており,
監査の質に焦点を合わせて監査人を選任して いることを当局が監視)
・監査の質に着目した監査人選任を促進 する
・監査委員会の外部に対する説明責任を 高める
・中小監査事務所の参入障壁を低くする
(b)非常に限られた 監 査 人 か ら の 選 択
(持続可能な競争環 境)
【改善策2】共同監査の強制(FTSE350社に
関する監査は共同監査とし,少なくとも片方 は中小監査事務所とする。四大監査事務所の 市場占有率を制限することも代替案)
【改善策3】中小監査事務所の参入障壁を低
くするための他の施策(パートナーの法人間 移動を容易にする)
【改善策4】監査市場の復元力を保つ仕組み
・監査の質を犠牲にすることなく,中小 監査事務所が経験を蓄積できる
・四大監査事務所が三大監査事務所とな るリスクの軽減により監査市場の復元 力を保持する
(c)監査事務所の組 織構造(監査人個人 の監査の質へのイン センティブを高める)
【改 善 策5】監 査 業 務 と 非 監 査 業 務 の 分 離
(組織構造上の完全分離または運営上の分離)
・監査人の意識を監査の質に完全に集中 させる
(d)規制(基準の設 定,監査事務所のレ ビュー,基準を満た さない監査の特定)
【改善策6】ピア・レビュー(規制当局の依
頼によるピア・レビューの実施,規制当局へ のレビュー結果の報告および規制当局による ピア・レビュー対象会社の選定)
・監査事務所に説明責任を果たさせる
・監査事務所間の監査の質の相対的水準 を可視化することで競争を促す
(出典)CMA(2018, p.86(Table 4.1)and pp.87-128)に基づき,筆者作成。
同志社商学 第71巻 第6号(2020年3月)
128(1358)
① 規制当局による監査委員会の監視【改善策
1】(pp.87-92)
CMA
は,監査人が独立した立場で懐疑心を保持して監査を実施するように動機づけ るために,監査人の選任および監査業務の監視に関する権限を会社から独立した団体に 移行する案も検討した。しかし,それでは株主の監査人選任権を剥奪することになるこ と,また,独立した団体が監査委員会と同じ役割を果たすことはできないのではないか との危愼から,投資家を含む多くの利害関係者がこの案に反対した。そのため,監査委 員会が監査人の選任および監査業務の監視に関する権限を保持するものの,監査委員会 を規制当局の厳しい監視下に置くことが提案された。なお,ここで「規制当局」とは,「FRCに関する独立レビュー」で検討された
FRC
に代わる新しい規制機関を意味する。この提案によれば,監査委員会は,監査人の選任について規制当局に以下を直接報告 する義務が課される。
監査人の選任にあたり独立性および監査の質を優先して検討したこと。
会社の経営者から独立して監査人を選任したこと。
監査人選任の幅を広げるために利益相反の調整を行ったこと。
中小監査事務所(Challenging firms)を公平に取り扱ったこと。
また,監査委員会は,監査期間を通じて,規制当局に以下を直接報告する義務が課さ れる。
経営者に対して単に監査の質について質問するだけでなく,実質的な監査の質を評 価するような行動をとったこと。
経営者と監査人との意見が相違した論点。
さらに,監査委員会が適切に行動しなかった場合に監査委員会に対する戒告等の情報 を一般に公開するか株主に書簡を発行する権限が,規制当局に付与される。
② 共同監査の強制【改善策
2】(pp.92-102)
イギリスでの四大監査事務所による監査市場の寡占状況を緩和し,中小監査事務所が 大規模会社を監査する際の参入障壁を低くするために,片方の監査事務所を中小監査事 務所とする共同監査の強制導入が提案された。提案された共同監査では,監査責任は双 方の監査事務所に課され,双方の監査事務所が単一の監査報告書に署名することが予定 されている。
この共同監査には,双方の監査事務所が監査業務を相応に分担することや,業務分担 を定期的に入れ替えることなど,バランスのとれたアプローチが必要であると考えられ ている。中小監査事務所が大規模会社の監査を担当する能力を持つようになるには時間 がかかるため,例えば,共同監査の強制は次回の監査人選任のタイミングで導入するこ とや,大規模会社の中でも比較的規模の小さい会社に先に共同監査を導入し,共同監査 の概念に慣れた後により大きく複雑な会社への導入を進めるなど,段階的な導入が検討
カリリオン事件とイギリスにおける監査制度改革議論(林) (1359)129
されている。
この提案に対して,四大監査事務所および意見交換した多くの監査委員会委員長は反 対であった。主な反対理由は以下のとおりである。
共同監査が,監査の質,監査人の独立性,監査人選任の幅を向上させるという証拠 はない。
共同監査では,一部の業務については他方の監査事務所に依拠せざるを得ず,監査 全体を監督することができない。このことから,監査上の判断を誤ったり,見落と しをしたりする可能性がある
共同監査では,2つの監査事務所間で業務の重複が生じるため,監査報酬が上が り,場合によっては監査業務の遅れにつながる可能性がある。
共同監査では,監査報告書に
2
つの監査事務所が署名することから,監査に問題が 生じた場合の責任も双方の監査事務所が負うことになるが,監査を適切に実施した 監査事務所も責任を負うのは不合理である監査人の強制交代の場合,現任の
2
つの監査事務所は入札に参加できないことか ら,共同監査ではかえって会計監査人の選択の幅を狭めることになる。このような利害関係者の反対意見に対して,CMAは,以下に示す諸点を検討し,共 同監査の強制導入を提案してい
14
る。
a.監査市場の競争促進(監査人選定の選択肢の増加)
共同監査により中小監査事務所の競争力を高めるためには,中小監査事務所が共同監 査人として監査する能力を備え,共同監査を担当できるとの評価を得る必要がある。フ ランスでは,多くの大会社が四大監査事務所を好むが,一定数の会社が共同監査に四大 監査事務所と中小監査事務所のペアを選んでい
15
る。フランスの例だけでは共同監査に関 する証拠としては限定的であるが,共同監査の強制導入により監査市場の競争を促し,
監査人選任の幅が拡がると考えられる。また,共同監査の強制による監査市場の競争促 進は,どのような方法で共同監査を導入するかに依存する。
b.監査市場の復元力への影響
共同監査により,中小監査事務所の規模を相当程度拡大させることができることが見 込まれ,監査市場の復元力(resilience)をより強化できると考えられる。仮に四大監査 事務所の一つが監査を実施できなくなったとしても,規模が拡大した中小監査事務所が
────────────
14 共同監査を行う一方の監査事務所が監査業務全体を管理して当該監査に対する責任を負い,もう片方の 監査事務所が監査業務の一部を分担する方式(「中間報告書」では「シェアード監査」と呼ばれている)
も検討されたが,この方式では中小監査事務所の規模拡大につながるかどうかに疑問が残ると考えられ ている。
15 フランスでは,会社法により,連結財務諸表の作成を要する会社は共同監査を受けることが強制されて いる。ただし,共同監査人の一方を中小監査事務所とすることは要請されていない。また,共同監査人 間の監査分担はほぼ同等に行われなければならないとの制限がある。
同志社商学 第71巻 第6号(2020年3月)
130(1360)
受け皿となることができる。
c.監査の質への影響
共同監査の実施が監査の質に及ぼす影響については意見が分かれる。共同監査により 監査事務所が会社から得る報酬金額が減ることによって会社への経済的依存度が下が り,監査人の独立性に対する負の影響を弱めることができるとの意見がある。一方で,
規模が小さい方の監査人が他方の監査人の監査にただ乗りしたり,会社が共同監査人の 意見を個別に聞き,自社に都合のよい意見を取り入れたりすることにより,かえって監 査の質が低下するとの意見もある。
共同監査の強制が監査の質向上につながるという明確な関係は検証できていないが,
共同監査で監査の質が低下するとの検証もできない。よって
CMA
は,共同監査が監査 の質低下につながるとは考えず,職業的懐疑心を強め,監査の質向上につながる可能性 があると考える。③ 市場占有率の制限【改善策
2
の代替案】(pp.102-109)CMA
は,共同監査の代替案として,市場占有率の制限も検討している。市場占有率 の制限とは,何らかの形で四大監査事務所の大規模監査市場における占有率に一定の上 限を設けることを意味する。市場占有率を制限する方法としては,例えば,監査事務所 ごとに上限を定める方法や四大監査事務所全体の上限を定める方法が考えられる。この 制限率は,中小監査事務所の規模を大きくし,監査市場の競争を高めることができるよ うに低く設定されるべきであり,中小監査事務所の規模増加に伴い,適宜調整されるべ きであると考えられている。市場占有率制限の導入に対して,中小監査事務所はおおむね賛成であり,四大監査事 務所も反対ではなかった。投資家のコメントは賛否両論であるが,CMAが個別に連絡 をとった投資家の多くは反対であった。また,監査委員会の委員長の多くも反対であっ た。ただし,賛成・反対に関係なく,実際に導入することの困難さについて指摘があっ た。
市場占有率制限を導入すると四大監査事務所の入札参加の機会が減少することから,
短期的には監査人の選択の幅を狭め,監査報酬を増加させ,監査の質を低下させる虞が ある。共同監査も市場占有率の制限も,ともに中小監査事務所の競争力を高めることが 見込まれるが,市場占有率の制限よりも共同監査の方が,短期間とはいえ監査の質と競 争に悪影響を及ぼすリスクが低いと考えられ,CMAは共同監査の導入を支持してい る。
④ 監査業務と非監査業務の分離【改善策
5】(pp.115-124)
監査事務所が同一の会社に対して監査業務および非監査業務を同時提供することによ る利益相反を防止する仕組みは既に存在する。例えば,EU規則(European Parliament
カリリオン事件とイギリスにおける監査制度改革議論(林) (1361)131
and the Council of the European Union(2014, article 4 and article 5))により,監査依頼
人への特定の非監査業務の提供制限や,非監査業務にかかる報酬の上限制限(グループ 監査報酬の70% を限度とする)がある。しかし,現状の規制に対しては以下のような
懸念が示されており,監査人が質の高い監査を行うように動機づけるには十分ではない と考えられる。監査業務と非監査業務の報酬は同一事務所内でプールされるため,監査パートナー も非監査業務からの利益を直接享受している。
監査事務所は収入の大半を非監査業務から得るため,非監査業務が監査事務所のガ バナンスや投資判断に大きな影響を及ぼしている。
監査業務では職業的懐疑心の保持・発揮が重視されるが,非監査業務では依頼人と 協力して働くこと(協調性)が重視される。監査業務と非監査業務が同時提供され る場合,このような文化的な違いから問題が生じる。
このような文化的な違いが独立性を阻害し,厳しい監査を行うことの妨げとなる可 能性がある。例えば,非監査業務を提供している会社の監査業務について競争入札 が行われることになった場合,非監査業務を長期間提供する中で強化された会社と の関係により,監査業務の競争入札が公平に行われないリスクがある。
このような懸念への対応策として,監査業務を実施する組織と非監査業務を実施する 組織を完全に分離する(すなわち,監査業務のみを実施する組織を作る)ことが考えら れる。しかし,監査事務所は国際的なネットワークに所属していること,および,非監 査業務で得た知識と経験を監査に活用していることを考慮すると,完全な組織上の分離
(full structural split)は現実的ではなく,これに代わる方法として運営上の分離(opera-
tional split)が想定されてい
る。16CMA
が考えている運営上の分離は,次のような特徴を備えたものであり,監査業務 を実施する組織と非監査業務を実施する組織がシステムやそれぞれの業務で得た知見を 共同利用できるような分離方法である。監査業務を実施する組織と非監査業務を実施する組織は,それぞれの役員会,経営 者,スタッフ,および資産を有する。
監査業務を実施する組織と非監査業務を実施する組織は,それぞれの報酬財源およ び年金基金を有する。
パートナーが同じ事務所内で監査業務を実施する組織と非監査業務を実施する組織 間で移動することを制限する(スタッフの移動は制限されない。)。
監査業務を実施する組織と非監査業務を実施する組織の間で振替価格を設定する。
────────────
16 日本では,非監査業務の提供は監査法人ではなく別法人が行うことが多いため,すでに組織上または運 営上の分離がある程度行われていると考えられる。
同志社商学 第71巻 第6号(2020年3月)
132(1362)
例えば,非監査業務を行う組織のスタッフを監査業務に利用する場合は,組織間で 設定した振替価格を用いて業績測定を行う。
システム,ブランド,ノウハウ,およびバックオフイス業務については,監査業務 を実施する組織と非監査業務を実施する組織が共用することを可能とする。
このような
CMA
の提案に対するコメントでは,組織上の完全分離を支持する意見も あったが,監査事務所,経営者,監査委員会,および投資家は,以下のような理由でお おむね反対であった。また,非監査業務の実施が監査業務の実施に及ぼす影響は,非監 査業務の同時提供を禁止することで対応できるのではないかとの意見もあっ17
た。
監査業務は国際的なネットワークのもとで行われていることから,イギリスのみで 組織上の分離を行うことは実現困難である。
非監査業務を行う専門家に簡単にアクセスできなくなることで,監査の質が低下す る可能性がある。
監査業務のみを実施する組織では幅広い業務を提案できないことから,優秀な人材 を採用することが困難になる可能性がある。
監査業務のみを実施する組織の設立は,中小監査事務所が特定業界の経験を積むこ とを阻み,彼らにとっては極めて不利な結果となる可能性がある。
監査業務のみを実施する組織は,大規模依頼人に対する報酬依存度が高まり,かえ って独立性に悪影響を与えることになる可能性がある。
監査業務のみを実施する組織では投資規模が小さくなり,監査市場に何かあった場 合に耐えることができなくなることから,監査市場の復元力が低くなる可能性があ る。
⑤ ピア・レビューの実施【改善策
6】(pp.124-128)
ピア・レビューの導入により,質の低い監査が実施されている場合にはそれを適時に 特定し,監査終了までにそのような監査を防止できる可能性があることから,ピア・レ ビューは規制当局の重要なツールの
1
つであると考えられている。ピア・レビューの実施にあたっては,規制当局がレビユー実施者(reviewer)を任命 し,レビューの対象とする監査業務を選定する。ピア・レビューの対象は,全ての会社 とすることも,無作為に選択することも,特定のリスクが高い会社とすることも考えら れる。また,特定の監査領域についてはレビュー実施者が法定監査人と同様に監査を実 施する(shadowing the statutory auditor)ことも考えられる。独立性を高めるために,ま た,規制当局がピア・レビューのコストを負担するために,FTSE350社の監査報酬に
────────────
17 カリリオン事件による監査人への批判の高まりを受けて,EY, KPMG, PwCは,監査事務所と会社との 間に利益相反があるのではないかという一般的な誤解を回避するために,将来的にFTSE350社の監査 依頼人に対する非監査業務の提供を止めることを公表している。
カリリオン事件とイギリスにおける監査制度改革議論(林) (1363)133
課金することも考えられる。
CMA
は,ピア・レビューの内容について以下を想定している。監査調書および監査プロセスのレビュー,財務分析の実施 重要な領域に対する監査手続の再実施
監査委員会およびレビュー実施者を任命した規制当局へのレビュー結果報告書の提 出
法定監査人が監査報告書に署名する前に,監査委員会と経営者がレビュー結果報告 書を利用して,法定監査人に問題を提起し異議を唱えることができるようにするこ と
CMA
は,ピア・レビューは規制当局の有用なツールの1
つであると考えており,監 査の質に関する透明性を高めるために,規制当局の依頼によるピア・レビューの実施と 規制当局へのレビュー結果の報告が提案されている。また,業務の重複を防ぐためにピ ア・レビュー実施者のレビュー対象は重要な領域に限定すること,ピア・レビューは監 査報告書発行前に行うことなども想定されている。(2)「最終報告書」の概要
上記の議論を踏まえて,CMAは,2019年
4
月l 8
日に「最終報告書」(CMA(2019))を公表した。[第
6
表]は,最終報告書において提案された改善策を整理したものであ る。以下では,これらの改善策に関する議論を簡潔に紹介する。
① 監査人を選任・監視する監査委員会に対する規制当局の監視【改善策
1】(pp.132- 143)
監査委員会は,新しい規制当局による厳重な監視下に置かれるべきである。これによ って監査委員会の説明責任が高まる。監査の質に重点を置いて監査委員会に監査人の選 任と監視を行わせると同時に,中小監査事務所に対するバイアスを緩和する必要があ る。そのために
CMA
は,政府に対して以下を法律で定めることを勧告している。監査人の選任と監視に関する監査委員会の活動について最低基準を設定する権限を 規制当局に付与する。
監査委員会に情報提供と報告のいずれかまたは両方を要求する権限を含めて,監査 委員会が上記の基準に準拠しているかを監視する権限と,必要に応じて監査委員会 にオブザーバーを配置する権限を,規制当局に付与する。
監査委員会の活動に満足できない場合,必要に応じて,たとえば公的懲戒処分を行 ったり,株主に直接声明を出したりして,是正措置を講じる権限を規制当局に与え る。
同志社商学 第71巻 第6号(2020年3月)
134(1364)
② 共同監査およびピア・レビューの強制【改善策
2 a】
FTSE350
社は,少なくとも2
つの監査事務所による共同監査を受ける必要があり,そのうち少なくとも
1
事務所は中小監査事務所でなければならない。例外として,制度 変更当初は,規模が大きく複雑な組織の会社は,共同監査の代わりに規制当局が指定す る定期的なピア・レビューの対象となる。この改善策は,許容できる選択肢と監査業界 の復元力の向上をともに実現することを目的としている。そこで,CMAは,政府に対 して,共同監査制度を導入してそれを長期的に定着させるためには,規制当局に柔軟な 権限を与えるように法律を定めることを勧告している。提案されている枠組みの骨子は以下の通りである。
共同監査人のうち少なくとも
1
つは中小監査事務所でなければならない。FTSE350
社の大部分を対象とする。規制当局は,共同監査を免除する基準を定めるべきである。
中小監査事務所による単独監査を認める。
共同監査は段階的に導入することとし,会社は,次の入札時までに共同監査に移行 する。
現在の監査事務所強制交代制度の要件は別として,個々の監査委員会は,共同監査 人を選任する時期を自由に調整できるようにする。
共同監査人の作業分担をできるだけ均衡させ,各監査人が少なくとも監査報酬の
30% を受領するようにする。
イギリスにおける現在の監査人の責任制度は変更しない。共同監査人は監査業務に
[第6表]CMA「最終報告書」が示した改善策 質の高い監査を
提供できない要因 仕組み 改善策 改善策に期待される効果
監査人の選任と監 視
一貫して質の高い監査 を提供するために FTSE350社 の 監 査 委 員会の有効性を高める
【改善策1】規制当局による
監査委員会の監視
・監査の質に着目した監査人の選任と監視を促進す る
・監査委員会の外部に対する説明責任を高める
・中小監査事務所の参入障壁を最小限に抑える 選択肢の数
中小監査事務所に 対する参入障壁 監査市場の復元性
監査市場の復元性を高 め選択肢を増やす
監査市場におけるさら なる集中を制限する
【改善策2 a】共同監査およ
びピア・レビューの強制
【改善策2 b】四大監査法人
の財務的困難または破綻の 影響を緩和する措置
・共同監査により,中小監査事務所は,品質を犠牲 にすることなく,投資,経験の獲得,専門知識の 構築を行うことができる
・ピア・レビューにより,中小監査事務所は,経験 と評判を獲得し,品質保証を提供する機会が得ら れる
・財務的困難に直面しているか破綻した四大監査法 人の依頼人およびスタッフが他の四大監査事務所 に移る範囲を制限する
監査人個人の監査 の質へのインセン ティブ
監査パートナー個人が 監査の質をより一層重 視する
【改善策3】監査業務と非監
査業務の運営上の分離
・監査委員会に対する説明および監査業務と非監査 業務の間の利益分配の禁止により,監査人が監査 と監査品質に完全に集中する
(出典)CMA[2019, p.129(Table 4.1)and pp.132-203]に基づき,筆者作成。
カリリオン事件とイギリスにおける監査制度改革議論(林) (1365)135
ついて連帯責任を負う。
共同監査の適用を免除された会社の監査についてピア・レビュー担当者を指名する 権利を規制当局に付与する。ピア・レビューについては,レビュー担当者は四大監 査法人以外でなければならない,レビューは事後的な書面審査ではなく同時に行わ れるものでなければならないなどの要件が示されている。
「中間報告書」では共同監査の導入とピア・レビューの導入が別個に議論されていた が,「最終報告書」では,ピア・レビューは,共同監査が導入されない会社の監査に対 する代替措置と位置付けられている。
③ 監査業務と非監査業務の運営上の分離【改善策
3】
国際的なネットワークの関係から,組織上の分離(完全分離)はリスクが高いため,
運営上の分離が提案された。当初は四大監査事務所を規制対象とするが,この規制を中 小監査事務所に拡大する権限を規制当局に付与する。運営上の分離の詳細は,今後,規 制当局が定めることになるが,主たる要件として以下が想定されている。
監査部門と非監査部門間の利益分配は行わない。監査パートナーの報酬は,監査部 門の利益にのみ紐付けられる。
監査部門を対象とした財務諸表を作成する。
監査業務への非監査業務專門家の利用などにあたっては,透明性の高い振替価格の 適用と規制当局による検証を行う。
監査部門の業務には,監査人が提供すべきと考える規制当局への報告などの監査関 連業務を含む。
監査業務部門には非監査業務部門とは別の最高経営責任者と役員会を置く。役員の 過半数は独立非業務執行者とする。
監査業務部門の役員会は,監査業務部門内の報酬と昇進に関して責任を負う。
監査業務部門の役員会は,年次総会を開催し,年次報告書を作成する。
監査業務部門内の報酬と昇進は,監査業務部門の役員会が設定し監視する品質基準 に基づき,監査の質と強く連動させる。
イギリス議会下院の報告書である「監査の将来」(House of Commons(2019))で 言及されている監査業務終了後の非監査業務の提供に関するクーリング・オフ期間 に関しては,規制当局が現在検討している倫理基準の見直しの中で検討されるべき である。
④ 規制当局による
5
年後の進捗レビューの実施(pp.129-131)CMA
は上記3
つの改善策の他に,改善策の完全適用から5
年後にその効果を評価す るためのレビューの実施を提案している。レビューにあたって検討する項目として,以 下が示されている。同志社商学 第71巻 第6号(2020年3月)
136(1366)
独立機関による監査人の指名
監査事務所における監査業務と非監査業務の構造上の分離 共同監査の強制に係る調整の必要性
3.「監査の将来」
イギリス議会下院のビジネス・エネルギー・産業戦略委員会による調査が
2018
年11
月から開始され,その調査結果が2019
年4
月2
日に「監査の将来」(House of Com-mons(2019))として公表された。同報告書は,「法定監査サービス市場の調査:最終
報告書」(CMA(2019))や「FRC に関する独立レビュー」(Kingman(2018))などで 言及された改革案を基本的に支持しつつ,全体として監査の質向上と改革を強いトーン で求める報告書となっている。報告書に含まれる主な主張・提言を列挙すると以下のと おりである(House of Commons(2019, pp.84-91.))。① 監査業務の質
現在生じている問題を,「期待ギャップ」すなわち監査人が実施すべき事項と一般社 会または利害関係者が監査人に期待する事項との相違であるとする監査業界の見解は受 け入れられない。これは,現在の枠組みのもとで実施が求められていることを監査人が 実施していないという「提供ギャップ」の問題である。経営者による不正な財務報告 は,その性質上常に重要である。重要な不正の発見は,今後とも監査において優先的事 項であり続けなければならない。
監査人はより将来志向になるべきである。現在,FRCが行っている継続企業の前提 などに関する報告や監査を強化する監査基準改正作業を支持する。それに加えて,「監 査の質および有効性に関する独立レビュー」(BEIS(2019 b))において,監査の役割と 範囲を拡大し「将来志向の意見」を表明する機会を監査人に与えることを検討すべきで ある。また,Kingman(2018)が規制当局に検討を促した,監査人による段階的発見事 項(Graduated
Findings)の報告を強制すべきである。
18「監査の質および有効性に関する独立レビュー」は,保証の水準や報告が異なるもの であるとしても,監査の範囲を年次報告書全体に拡大することを検討すべきである。そ こでは,監査人は,感じていることを監査報告書に率直かつ明確に述べることを奨励さ れるべきである。また,監査人がより多くの責任を引き受けることや率直な報告を行う ことを妨げる障害(無限責任など)があるのであれば,そのような障害を取り除く提案
────────────
18 監査人の発見事項を,単に「はい/いいえ」または「合格/不合格」として記載するのではなく,例え ば,見積りについて,「慎重である」,「バランスが取れている」または「楽観的である」のように「段 階的」に記載すること。このような報告により,監査人が到達した結論に関する透明性を高め,最終的 に株主が経営者に問題提起したり異議を唱えることのできる情報をより多く提供できると考えられてい る。
カリリオン事件とイギリスにおける監査制度改革議論(林) (1367)137