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その他のタイトル Uber die Staatszielbestimmungen des G. G. : Zur Erorterung uber die rechtliche

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(1)

ドイツの国家目標規定について : わが国の憲法二 五条、特に同条二項が有する規範的拘束力を論じる 手がかりとして

その他のタイトル Uber die Staatszielbestimmungen des G. G. : Zur Erorterung uber die rechtliche

Verbindlichkeit vom Art. 25, besonders Art. 25 Abs. 2, der japanischen Verfassung

著者 岡田 裕光

雑誌名 關西大學法學論集

巻 50

号 4

ページ 658‑717

発行年 2000‑11‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00023596

(2)

一 は じ め に

︱一国家目標規定の本質

1沿革と意義

2プログラム規定との対比

3その他の類似概念との対比

三国家目標規定が有する規範的拘束力の具体的内容

1一般的理解

2後退禁止原理

四 ま と め に か え て

ドイツの国家目標規定について

岡 田 わが国の憲法二五条︑特に同条二項が

有する規範的拘束力を論じる手がかりとして 四

五 八

(3)

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

六 五 九 ︶

憲法二五条の法的性格という議論では︑憲法二五条がプログラム規定であるのか否かということが論じられている

が︑この議論においては法的権利に関する論点と規範的拘束力に関する論点が併存している︑ということが指摘され

(1 ) 

ている︒前者の論点では︑憲法二五条で保障する権利が法的権利か否か︑特に具体的権利か否か︑ということが論じ

られ︑他方︑後者の論点では次のことが論じられる︒すなわち︑憲法二五条に基づいて国家に課せられる義務に規範

的拘束力が認められるか否か︑換言すれば︑この義務は法的義務であり︑したがって︑憲法二五条に対する違反が違

憲と評価されるのか︑それともこの義務は法的義務ではなく政治的義務に過ぎず︑したがって︑憲法二五条に対する

違反が違憲と評価されず︑せいぜい政治的努力義務への違反となるにとどまるのか︑ということが論じられるのであ

(2 ) 

さて︑このように憲法二五条の法的性格という議論においては二つの論点が存在しているのであるが︑現実的視点 る ︒

(3 ) 

を重視するならば︑この内︑後者を中心に論じるべきである︒その理由として︑次のようなものが挙げられる︒すな

わち︑まず第一に︑憲法二五条から法律による具体化なしに直接︑具体的な権利を導けるのか︑という議論につき今

(4 ) 

日︑学説判例に争いがないという点︑第二に︑社会保障法制が整備された今日では︑憲法二五条から具体的権利を導

(5 ) 

くことができるのかという論点を論じる実益がないという点︑である︒また︑規範的拘束力に関する議論においては

大別して︑規範的拘束力の有無に関する論点と︑その強弱に関する論点に分けられるが︑憲法二五条に規範的拘束力

が認められることについても今日︑学説判例に争いがない︒そもそも学説と判例との対立点は︑憲法二五条に規範的

は じ め

(4)

を導くという解釈は全く成り立たないのだろうか︒ 義が認められない︒

一 方

第五

0

巻 第 四 号

拘束力が認められることを前提にして︑その規範的拘束力を強く見るか弱く見るかというところにあったということ

( 6)  

を考えると︑憲法二五条の法的性格という議論においては規範的拘束力に関する論点︑それも規範的拘束力の有無で

はなく︑その強弱を中心に論じるべきこととなるのである︒このことは国家裁量との関係でいえば︑これを広く見る

か狭く見るか︑すなわち国家裁量が強く統制され︑理論上︑違憲になりやすいのか否か︑また違憲審査基準との関係

ところで︑この論議において特に気になるのが憲法二五条二項である︒この二項の位置付けについては従来︑憲法

二五条の一項と二項の関係との絡みで論じられていたが︑従来の議論を見るに︑この二五条二項はあまり重視されて

こなかった感がある︒この関係につき大別して︑いわゆる︑

在し︑従来の通説である前者に対して今日︑二五条に強い規範的拘束力を求めるべく︑後者の一項二項峻別論が有力

(7 ) 

に主張されているが︑この一項二項峻別論の立場においては︑この二項は概してプログラム規定と解され︑大した意

一項二項一体論の立場においては︑この二項は同条一項に吸収され独自の意義が認められ

なかった︒このような二五条二項の位置付けは妥当なのか︒この二項に独自の意義を認めるべく︑強い規範的拘束力

ここでドイツに目を転じてみる︒ドイツ連邦共和国基本法︵以下︑基本法と略す︶には︑わが国の憲法二五条︑特

に同条二項に近似する憲法規定として国家目標規定

(S ta at sz ie lb es ti mm un g)

という法概念が存在している︒そして

本論において展開するように︑このドイツの国家目標規定に規範的拘束力が認められることについても今日︑争いが

ない︒そこで本稿では︑わが国の憲法二五条︑特に同条二項が有する規範的拘束力を論じる手がかりを得るべく︑こ では︑その厳格さという論議に影響するものである︒

関法

一項二項一体論と一項二項峻別論という見解の対立が存 六

六 六

0 )

(5)

ドイツの国家目標規定について

に関するドイツの議論を概観してみることとしたい︒

一 七

︵ 六

六 一

の二項から強い規範的拘束力を導く可能性を考える手がかりを得るべく︑この国家目標規定︑特にその規範的拘束力

( 1

)

戸波江二﹁生存権訴訟における判例と学説﹂公法研究四八号(‑九八六︶七三頁以下︒

( 2

)

同・七三頁以下では︑規範的拘束力の論点と裁判規範性の論点を分類して︑都合三つの論点︑すなわち﹁第一に︑最も基

本的な問題として︑憲法二五条を直接の根拠として︑⁝⁝裁判上訴求可能な具体的な給付請求権﹂が導けるか否かという論

点︑﹁第二は︑憲法二五条が立法府・行政府に対して課している国民の生存権を保障すべき義務は︑政治的・道義的義務に

とどまるのか︑あるいは︑それは︑法的義務であって︑その不作為は違憲と評価されるのか﹂という論点︑﹁第三は︑憲法

二五条に裁判規範性があるか︑つまり︑裁判において︑憲法二五条が︑社会保障立法ないしそれに関する国家行為を違憲と

する根拠となり得るか﹂という論点が存在することを指摘する︒しかしながら本稿では︑憲法二五条論においては規範的拘

束力と裁判規範性を区別する実益がいささか乏しい感があるといった観点からあえて両者を同一のものとして扱う︒した

がって本稿では両者をひとまとめにし︑規範的拘束力という用語で表現することとする︒

( 3

)

法的権利に関する議論よりも二五条にどのような規範的拘束力が認められ︑どのような場面で国家活動が違憲と評価され

るのかということを論じるべきであると主張する論者としては︑例えば中村睦男﹁生存と憲法﹂樋口陽一編﹃講座憲法学第

四巻﹄(‑九九四︶六一頁以下︑奥平康弘﹃憲法

I I I

﹄︵一九九三︶二四七頁以下などが挙げられる︒

( 4

)

学説の通説である抽象的権利説は判例と同様︑憲法二五条から具体的権利を導くことに否定的立場を採る︒また以前より︑

具体的権利とは具体的な給付請求権を意味すると解すべきであり︑一般に具体的権利説と位置付けられている学説は具体的

権利説たりえていないことが指摘されている︵例えば︑中村・前掲書六一頁︶︒その上で︑具体的権利を具体的な給付請求

権と捉えるならば︑﹁プログラム規定説ばかりではなく︑抽象的権利説も︑ひいては具体的権利説さえも具体的権利性を否

定し」ており(戸波•前掲七三頁)、いよいよ学説と判例に争いがないということになる。

( 5

)

この点を指摘するものとして︑例えば阿部照哉﹃憲法︹改訂︺

(一九九四︶一五四頁などが挙げられる︒また︑学説が批

判の対象にしている諸判例は︑憲法二五条より直接︑具体的な給付請求権が導けるのかということを主要な争点としていな

い︒社会保障法制の整備に伴い︑これらの事例では︑具体的な給付請求権が既に法律上存在していたからである︒したがっ

(6)

関法 第 五

0 巻

第 四 号

て︑判例を批判するに際しても︑社会保障法制が整備された今日においては︑憲法二五条につき︑その法的権利性を論じる

実益は乏しいものとなるのである︒ただ他方で︑本稿とは異なり︑現実的視点を重視しない立場に立てば︑法的権利に関す

る議論は全く無意味ではないということになる︒例えば︑藤井樹也﹁憲法における﹃権利﹄の三重構造?﹂民商法雑誌一︱

四巻六号(‑九九六︶九六六頁以下では︑社会保障法制の整備により︑法的権利に関する議論を行なう実益がないとしても︑

このような議論を行なうことは理論上︑意味があると述ぺている︒ちなみに近年︑憲法二五条から具体的な給付請求権を導

くことができる︑という見解が存在することに注意を要する︒つまり事前的にはともかく︑事後的に︑時ところを限定する

ことにより︑国家賠償訴訟を通じて国に直接︑一定の具体的な給付を請求することができる︑といったことが指摘されてい

るのである︵例えば︑佐藤幸治﹃憲法︹第三版︺﹂︿一九九六﹀六ニ︱頁など︶︒

( 6 )

判例は周知のように︑憲法二五条に規範的拘束力を一応︑認めており︑学説でも通説的見解によれば︑憲法二五条は法的

権利であって︑国家に課せられる義務には規範的拘束力が認められるということが言われており︑したがって︑憲法二五条

に規範的拘束力が認められる点に学説判例上︑争いは見られない︵この点を指摘するものとして︑例えば野中俊彦・中村睦

男ほか﹃憲法

I[

新版]﹄︿︱九九七﹀四五一頁︶︒それでは︑学説は判例の何を批判しているのかといえば︑その規範的拘

束力の程度、強弱である(戸波•前掲七二頁)。そして一般に、これを強く見る朝日訴訟第一審判決を肯定的に捉え、これ

を弱く見る朝日訴訟最高裁判決などの諸判例を批判しているのである︒このように︑そもそも学説と判例が対峙している点

は規範的拘束力の程度︑強弱なのであるから︑これを中心に︑憲法二五条の法的性格が論じられるべきである︑ということ

に な る ︒

(7)このような主張をする論者としては例えば藤井•前掲九五七頁以下、さらに反パターナリズム的な見地をも加味したもの

としては西原博史﹁︿社会権﹀の保障と個人の自律﹂早稲田社会科学研究第五三号(‑九九六︶一四八頁以下を参照のこと︒

また︑今日では従来の福祉国家論に対する根本的な批判も提起されている︒この点につき︑例えば中村・前掲書六五頁以下︑

松井茂記﹁福祉国家の憲法学﹂ジュリスト一 0 二ニ号(‑九九三︶七二頁以下などを参照のこと︒

︵ 六

六 二

(7)

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

標規定という言葉自体はイプセン そもそも︑この国家目標規定という法概念を創設したのは誰なのか︒フィッシャー

(I ps en )

が一九四九年︑ハンプルク大学での講演に際して︑社会的法治国家性を

(1 ) 

位置付けるために創設したものとされている︒ただイプセン自身は︑国家目標規定を簡潔に︑﹁法原理的な目標規定﹂ の本質を検討することとしたい︒ 沿革と意義

国 家 目 標 規 定 の 本 質

︳ 九

︵ 六

六 三

(F is ch er )

によれば︑国家目 まず最初に確認すべきことであるが︑基本法には国家目標規定なる用語は存在していない︒これは基本法上の社会 国家規定︵基本法二 0 条一項および二八条一項︶や環境保護規定︵基本法二 0a 条︶といった憲法規定を位置付ける

一 九

九 0 年︑ドイツ統一の際に締結されたドイツ統一条約は︑この国

家目標規定を基本法に増補するよう︑連邦の立法機関を促し︑これを受けて実際に一九九四年︑第四二回憲法改正法

律によって︑前述の環境保護規定という国家目標規定がさらに増補され︑この時に国家目標規定なる法概念が脚光を

浴びた感があるが︑後述するように︑この国家目標規定という法概念は︑語としては︑基本法制定直後から存在する

ものなのである︒

ところで︑国家目標規定とは何なのか︒この国家目標規定はわが国の憲法二五条二項に近似すると述べたが︑この

法概念はわが国では未だ周知のものとなっていない感がある︒そこでまず︑この国家目標規定がどのような内容のも

のであり︑本当にわが国の憲法二五条二項と近似しているのか否か︑ということを明らかにするため︑国家目標規定 ために法解釈上︑存在する法概念なのである︒

(8)

国家目標規定という法概念を定義付けたのである︒ 第五 0

巻 第 四 号

(2 ) 

と定義付けるに止まった︒国家目標規定という法概念につきドイツで最初に包括的︑根本的な概念形成を行なったの

(3 ) 

はショイナー

(S ch eu ne r)

であるとされている︒彼は当初︑社会国家原理を位置付けるために国家目標規定とは別

の法概念を用いていたのであるが︑後に国家目標規定という法概念を用いるようになった︒そして彼が一九七二年︑

ドイツで初めて︑国家目標規定という法概念を基本法上の規範カテゴリーとして︑包括的かつ根本的な議論を行なっ

(5 ) 

た の

で あ

る ︒

まず彼は国家目標規定を次のように定義付けている︒すなわち国家目標規定とは︑﹁動的性質を有しており︑将来︑

生じるであろう社会問題について言及し︑国家活動を限界付けるというよりも︑国家活動に道を指し示す﹂憲法規定

(6 ) 

である︒また︑﹁一般的ないし限定的な形式で︑国家活動に対する原理や指針を示し︑命令や指示をもって︑特定の

(7 ) 

方向へと方向付け︑客観的責務を負わせる﹂憲法規定とも述べている︒このように彼は︑国家目標規定とは国家に不

作為ではなく︑作為を求める憲法規定であり︑裏を返せば︑国家に作為を求める憲法規定が国家目標規定と位置付け

られ得ることを示している︒その上で彼は︑国家目標規定のいくつかのメルクマールをその中で示しているが︑例え

ばツァイ

( T s a

i )

は︑これらのメルクマールの内︑国家活動に対する規範的拘束力を有する︑というメルクマールを

決定的なものとして挙げている︒イプセンは︑基本法が社会国家理念の採用に不十分であることを指摘するために消

(9 ) 

極的に︑この国家目標規定という法概念を用いたようであり︑規範的拘束力については特に積極的な方向で意識して

はいなかったようであるが︑ショイナーは規範的拘束力をもって国家に作為を求めるものという形で積極的に︑この

このような彼の概念形成︑特に︑国家目標規定は規範的拘束力をもって国家に作為を求める憲法規定であるという 関法

四 〇

六 六

四 ︶

(9)

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

︵ 六

六 五

( Jo )  

定義は︑今日における学問的論議の方向枠組みに大きな影響を与えた︒もう一っ︑今日の国家目標規定概念形成に重

大な影響をもたらしたものがある︒専門家委員会﹁国家目標規定/立法委託﹂の議事録である︒この専門家委員会は

連邦政府が一九八一年︑国家目標規定を基本法に増補するべきか否かを検討するために設置したものであり︑その議

事録において国家目標規定が次のように定義づけられている︒すなわち︑﹁国家目標規定は規範的拘束力を有する憲

法規範であり、特定の責務ー~観的に規定された目標ーを継続的に尊重、履行するよう、国家活動に指図するも

のである︒これは国家活動に特定のプログラムを輪郭付け︑これによって国家活動に対する︑また法律その他の法規

( 11 )  

解釈に対しても方向性ないし指針を提示するものである﹂︒

この定義でもショイナーと同様に︑国家目標規定が規範的拘束力をもって国家に作為を求める憲法規定であること

( 12 )  

が示されている︒この定義も後の議論に強い影響を与えており︑今日︑国家目標規定という法概念を理解するにつき︑

( 13 )  

以上のような︑ショイナーなどによる概念形成の影響を受け︑あるいはこれに追随する論者が数多く見られる︒

では今日︑ドイツの論者は国家目標規定をどのように説明しているのだろうか︒この点につき︑例えばヘッセ

(H es se )

は次のように述べている︒すなわち︑国家目標規定とは﹁現在および将来の国家活動に対する責務や指針

( 14 )  

を拘束力をもって規定する﹂ものであると述べている︒彼は続けて︑次のように述べている︒﹁憲法的に規定された

目標設定

(N i e ls e t zu n g )

は︑⁝⁝政治的な目標設定に優位する︒その限りで立法府の内容形成の自由

(G es ta lt un gs

( 15 )   f r e i h e i t )

が制限される﹂︒さらに︑﹁国家目標規定はそれのみでは何らの効力も有しない︒これは︑立法府に⁝⁝直

接に適用される法に置き換えられ︑具体化するよう︑指図するものである︒行政府や裁判府の責務領域では︑この国

( 16 )  

家目標規定は法解釈⁝⁝の基準となりうる﹂︒また彼は︑基本法では国家目標規定が一般的なものに限定されている

(10)

カ ッ ツ

(K at z)

はその著書で︑独立のセクションを設けて︑国家目標規定を次のように説明している︒﹁国家目標

規定は規範的拘束力を有する憲法規定であって︑国家活動に特定の﹃プログラム﹄を提示するものであり︑全ての国

家活動︹がこれを︺⁝⁝尊重し︑実現しなければならないものである︒この国家目標規定は実体的な基本内容を有し︑

︵単なるプログラム的宣言ではなく︶それにより︑全ての国家活動に対する方向付け︑指針となるものであり︑国家

活動に対する指標︑道標となるものである︒国家目標規定の不確定さ︑曖昧さはその際︑必然的で永続的な憲法の変

( 18 )  

革を命じるものであり︑当然ながら︑裁判的なコントロールやサンクションの可能性を弱める﹂︒

ショルツ

(S ch ol z)

は次のように述べている︒すなわち国家目標規定とは︑﹁一方で︑︵単なる︶客観法的な保護な

らびに価値決定であり︑他方で︑⁝⁝憲法より下位の法規定立により︑具体的で有効な現実化を行なうに必要な諸条

( 1 9 ) ( 2 0 )  

件を保障する﹂︒彼はこのように述べ︑また国家目標規定の定義付けに際して︑ショイナーの定義を引用したのち︑

次のように続ける︒すなわち︑国家目標規定たる基本法二 0a 条は︑﹁確かに︑直接に拘束力を有する憲法委託では

ない︒しかしながら︑国家目標として︑この基本法二 0a 条は単なる︵憲法政策的な︶プログラム的格言などではな

く︑所管の国家機関を実体的に︑積極的で適確に︑環境保護政策を行なうよう義務付けるものである︒けれども│

( 21 )  

国家目標の本質ゆえー︑⁝⁝︹所管の国家機関には︺広範な活動の余地

( br e Si t pi el ra um )

が 認

め ら

れ る

﹂ ︒

以上の論者によれば︑やはり国家目標規定とは規範的拘束力をもって国家に作為を求める憲法規定である︑との理

解が示されているのであり︑したがって今日︑環境保護規定など︑国家に作為を求める憲法規定を国家目標規定と位

置付ける論者も数多く見受けられるが︑このヘッセらの叙述の中にはその他に︑特に気になる箇所が二点あった︒ 第五 0

巻 第 四 号

( 17 )  

J

とを指摘するのである︒

関 法

︵ 六

六 六

(11)

9 0  

>  

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

四 一

︵ 六

六 七

第一に︑カッツやショルツは明示的に国家目標規定と︑いわゆるプログラム規定

( P

r o

g r

a m

m s

a t

z )

との異質性を

強調していた︒国家目標規定という法概念は基本法制定直後より存在したことは前述したが︑

( 22 )  

という法概念はドイツ帝国憲法期に既に存在していたものであり︑ワイマール憲法期においては後述するように国家 一方︑プログラム規定

に作為を求める憲法規定を位置づけるためにしばしば用いられた︒ということは︑すなわち今日︑国家に作為を求め

る憲法規定を位置づけるために国家目標規定という法概念を用いている論者は︑これをプログラム規定と位置づけう

るにもかかわらず︑あえてこれを用いず︑国家目標規定という法概念をわざわざ用いているということになる︒これ

は何故か︒このことを明らかにすべく︑まず国家目標規定とプログラム規定とを対比させ︑その相違を明らかにした

い︒さらに本稿では国家目標規定の本質についての理解を深めるため︑また未だ周知のものとなっていない感のある

国家目標規定をわが国に紹介するという意味も込めて︑プログラム規定以外の類似概念との対比も試みることとした

それから第二に︑ショルツは国家目標規定の本質ゆえ︑カッツは国家目標規定の不確定さ︑曖昧さゆえ︑国家機関

には広範な裁量が認められ︑したがって国家目標規定の規範的拘束力︑特に司法府による裁量統制は弱いものになる

旨のことを指摘する︒ヘッセも国家目標規定の一般性を指摘し︑また国家目標規定はそれのみでは何らの効力も有し

ないことを指摘していた︒これはどういうことか︒この点は主として︑国家目標規定の本質を検討したのちに触れる

こ と

と す

る ︒

なお︑ドイツでは全ての論者がこの国家目標規定という語を用いているわけではなく︑また︑これを用いる論者の

中でも︑基本法上︑どの規定が国家目標規定なのかという点につき争いが見られるが︑本稿ではドイツで国家目標規

(12)

プログラム規定は宣言規定

( D

e k

l a

m a

t i

o n

)

などとは異なる︒宣言規定とは︑﹁ただ︑その名宛人を道義的ないし政

治的に義務付けるものであり︑法的には義務付けないものである︒⁝⁝︹このような宣言規定は︑︺概して規範的性

( 24 )  

格を有さず︑ただ⁝⁝﹃宣言的﹄性格のみを有する﹂︒このような︑そもそも規範的性格すら有しない宣言規定とは

( 25 )  

異なり︑プログラム規定は﹁確かに客観的意義の法を含むもの﹂であり︑規範的性格は認められるものの︑﹁いかな

( 26 )  

る拘束力も展開する能力のない﹂規定であるという点で︑すなわち規範的拘束力を有さず︑せいぜい国家機関を道義

的ないし政治的に義務付けるにすぎないという点で︑宣言規定と共通しているのである︒ 例えばミュラーープロムレイ と認識しているのだろうか︒ 曰ワイマール憲法におけるプログラム規定 2  第五 0

巻 第 四 号

定と位置づけることが特に問題視されておらず︑またわが国の憲法二五条との対比という点も勘案して︑基本法上の

社会国家規定と環境保護規定︑この二つを国家目標規定の具体例として揚げ︑これらを中心に︑ドイツでの国家目標

プログラム規定との対比

まずプログラム規定との対比であるが︑そもそもプログラム規定とは何なのか︒この点につきわが国では︑その意

味するところが未だはっきりとしていない感があり︑このため時として議論の混乱が生じてい︐和︒それではドイツに

おいて︑今日︑国家目標規定という法概念を用いる論者はワイマール憲法におけるプログラム規定をどのようなもの

( M

u l

l e

r   , 

B r

m o

l e

y )

 

規定に関する議論を見てみることにしたい︒ 関法

は次のように説明している︒まず︑ ワイマール憲法期における 四 四

六 六

(13)

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

四 五

六 六

九 ︶

ミュラー'プロムレイはこのようにプログラム規定を説明しており︑彼によれば︑プログラム規定とは規範的性格

は認められるが︑規範的拘束力は認められない規定ということになる︒プログラム規定に規範的性格を認めるか否か

については︑彼と異なる立場も存在するのであるが︑いずれにせよ︑規範的拘束力の欠如という点は後述するように︑

( 28 )  

彼を始め︑今日︑国家目標規定という法概念を用いる論者の大半が指摘するところなのである︒

それではワイマール憲法下においては︑どのような憲法規定がプログラム規定と位置付けられ︑その規範的拘束力

が否定されたのか︒結論から言えば︑直接に適用することができない憲法規定︑法律による具体化を必要とする憲法

規定がプログラム規定と位置付けられた︒当時は﹁現実的効力をもつ法か単なるプログラムかという二者択一論﹂的

( 2 9 )  

な考えが主流であり︑法律による具体化なしに直接︑適用できる憲法規定には規範的拘束力が認められるが︑そうで

ない憲法規定︑法律による具体化を要する憲法規定には規範的拘束力が認められなかった︒そして︑法律による具体

化がなされるまでは規範的拘束力が認められない憲法規定は︑法律による具体化がなされた後も規範的拘束力が認め

られない︑というように︑オール・オア・ナッシング的な考え方が為されたのである︒

その上でミュラー'プロムレイは︑法律による具体化を要する憲法規定として二種類の憲法規定を挙げている︒第

一に︑法律の留保が付記されているなど︑﹁明示的に立法府に対して︑立法による具体化︑現実化を求める﹂憲法規

( 3 0 )  

定である︒そしてもう一っ︑法律による具体化を要する憲法規定を挙げている︒その内容が﹁具体性を欠くため︑直

( 31 )  

接的にではなく︑むしろ具体化法律の定立により初めて適用される﹂憲法規定である︒この後者の典型が︑社会的基

( 32 )  

本権規定など国家に作為を求める憲法規定なのである︒

したがって︑ワイマール憲法下においては︑国家に作為を求める憲法規定は︑権利規定であるか否かに関わらず︑

(14)

第五

0

巻 第 四 号

( B r o h m

)   は︑いわゆる社 プログラム規定と位置付けられ︑二者択一論的な考えと相侯って︑その規範的拘束力が否定されたのである︒

( 33 )  

ところが︑特にワイマール憲法の末期には︑その二者択一論的な考え方に疑問が提起されるようになった︒その内

容が抽象的であるなど︑直接に適用することができないとしても︑何らかの規範的拘束力が認められて然るべきであ

り︑法律による具体化が必要だからといって︑頭から一切の規範的拘束力を完全否定する論理必然性はない︑という

このような立場はプログラム規定を︑直接的な規範的拘束力は認められないものの︑間接的な規範的拘束力は認め

られる︑言い換えれば︑法律による具体化が為されるまでは具体的な規範的拘束力をもって国家機関を拘束しないも

のの︑法律による具体化が為された後には︑具体的な規範的拘束力をもって国家機関を拘束しうると解するのである︒

但し︑拘束されるのは立法府以外の国家機関︑主として行政機関であり︑立法府に対する規範的拘束力は相変わら

(L uc ke ) 

は次のように述べている︒すなわち︑確かにワイ

マール憲法下において︑プログラム規定は﹁現実的な効力や適用力

( ak t l l u e e G el tu ng n  u d  A nw en db ar ke it )

を欠い

たもの﹂と解されていたが︑﹁ワイマール期の終わり頃までにはプログラム規定を︑規範的に義務付ける命令と解す

ることはしばしばあった︒しかしながら支配的見解によれば︑ ワイマール憲法には立法府に対する⁝⁝実体的な拘束

力が全く認められなかったので︑少なくとも立法府は当時︑プログラム規定の拘束力を無視することができた﹂︒ま

たミュラー'プロムレイは次のように述べている︒すなわち︑プログラム規定は﹁立法府に作為を呼び掛けるもので

あ︹るが︺⁝⁝︑立法府に拘束力をもって活動を義務付けていない︒⁝⁝プログラム規定に含まれる責務を立法府が

( 35 )  

履行しなくても︑結果として違憲とはならなかったのである﹂︒この理由につきブローム ず ︑

一切認められなかった︒この点につき︑ リューケ 疑問が有力に提起されるようになったのである︒

関 法

四 六

六七〇

(15)

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

口基本法におけるプログラム規定

あ る

四 七

︵ 六

七 一

会的基本権規定について︑次のようなことを述べている︒﹁ワイマール憲法はその第二章で⁝⁝﹃社会的基本権﹄

⁝⁝を定めていた︒しかしながら︑この憲法規定が持つ実効性は結局︑ほとんど無かった︒⁝⁝一般に︑憲法規定は

専ら法ではなく政治的な決定であると解された︒このため︑裁判所が他の政策活動の正当性を︑この憲法規定に照ら

して審査することはできなかった︒したがって︑立法府が基本権に直接︑拘束されることは否定された︒司法は立法

( 36 )  

に従うべきであり︑立法が司法に服するべきではないからである﹂︒このように一方で憲法は法ではないという観念

に基づき︑他方で議会中心主義的な観念に基づき︑立法府に対する規範的拘束力はとうとう完全否定され続けたので

ここで一っ︑疑問に感じることがある︒前述のように今日︑国家目標規定という法概念を用いる論者はプログラム

規定を規範的拘束力が欠如しているものと捉えた︒しかし︑ワイマール憲法末期においては︑確かに立法府に対する

規範的拘束力は欠如しているものの︑それ以外に対する規範的拘束力については︑これを認める見解が見受けられる

のである︒それにも拘らず︑なぜ︑この点を無視して︑プログラム規定を規範的拘束力が欠如しているものと捉える

のだろうか︒この疑問は一先ず置いておいて︑話を戦後に進める︒

さて︑ワイマール憲法下においては前述のように︑国家に作為を求める憲法規定はプログラム規定と位置付けられ

た︒戦後︑基本法にも︑このような国家に作為を求める憲法規定が社会国家規定などの形式で存在することになった

のであるが︑けれども基本法下においては︑少なくともこのような憲法規定に規範的拘束力を認めない見解は明確に

排除されることになった︒社会国家規定のような形式の憲法規定に規範的拘束力が認められる点︑および立法府に対

(16)

認められない﹂と解する見解が存在したことをベンダ せいぜい 第五 0

巻 第 四 号

( K i t t n e r )

は する規範的拘束力も認められる点が二 0 条三項で明示されることとなったからである︒この点につき︑例えばミュ

ラー'プロムレイは次のように述べている︒﹁ワイマール憲法とは異なり︑基本法は⁝⁝二 0 条三項⁝⁝において︑

立法府もまた憲法定立者の決定に服することを明らかとし辺﹂︒またリューケも次のように述べている︒﹁基本法二〇

︵ 避

条三項⁝⁝に基づき︑基本法が⁝⁝プログラム規定を排除したということは︑もはや疑う迄もなし﹂︒

学説には当初︑この基本法二 0 条三項などを額面どおりに理解しない見解が見受けられた︒例えば社会国家規定に

つき︑基本法制定当初はこれを﹁﹃実態のない空疎な概念

( s u b s t a n z l o s e n B l a n k e t t b e g r i f

f ) ﹄︑曖昧で内容のない形式︑

﹃ プ

ロ グ

ラ ム

( P

r o

g r

a m

m )

﹄と位置付けられ︑要するに政治的な価値は認められるものの︑法的な価値は

( B

e n

d a

)

は紹介してい板︒あるいはキッツナー

次のような見解が存在したと紹介している︒﹁当初⁝⁝︑基本法における社会国家命令を再び︑プログラム規定的付

属品に格下げするような解釈がなされた︒このような解釈の主唱者⁝⁝は︑法治国家性と社会国家性は⁝⁝全く相容

れないものであり︑この解決はただ社会国家原理の法的性格を否定することによってのみ可能である︑というテーゼ

を 有

し て

い ︵

四 ﹂

けれども今日では︑このような解釈は一般的に支持されていない︒ベンダは先程のような紹介につづけて次のよう

に述べている︒﹁このように⁝⁝︹社会国家規定をプログラムなどと解するような︺当初の解釈的試みは既に克服さ

( F

a n

g m

a n

n )

は︑﹁⁝⁝社会国家原理は直接に適用される法であ れ︑今日ではもはや論じる迄もない︒⁝⁝社会国家規定は規範的拘束力をもって全ての国家権力を義務付ける国家指

( 41 )  

針なのである﹂︒またキッツナーも︑﹁⁝⁝︹社会国家原理の法的性格を否定する見解︺に付き従うものはいなかっ

た﹂と述べてい紅︒他にも︑例えばファングマン 関法

四 八

︵ 六 七 ︱

‑ ︶

(17)

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

(M od el ) 

り︑全ての国家作用によって尊重され︑実現されねばならないものであることは︑今日ではもはや議論の余地の無い

ことである﹂と述べてい紅︒またモーデル

有し︑特に立法府や行政府がその裁量を行使するに際して拘束力を有する法である﹂

は︑﹁社会国家条項はプログラム規定ではなく︑むしろ効力を

( 4 4 )  

と述ぺ︑シュナップ

(S ch na pp )

は次のように述べている︒﹁⁝⁝﹃社会国家﹄は﹃実体の無い空疎な概念﹄

四 九

六 七 三 ︶

でもないし︑﹃社会﹄という

形容詞から法的概念たる特質を排除することもできない︒むしろ社会国家条項は﹃かなり具体化を要する原理

j

( 45 )  

あったとしても︑直接に適用される法なのである﹂︒

このように今日では︑基本法二 0 条三項などを額面どおりに解し︑シュナップの叙述にもあったように︑たとえ法

律による具体化を必要とするような抽象的な憲法規定であったとしても︑規範的拘束力が認められないと解釈するこ

とは一般的に否定され︑国家機関に対する規範的拘束力が当然に認められるようになったのである︒この点につき︑

ミュラー'プロムレイは次のように述べている︒﹁拘束力を有しないプログラム規定という規範類型は︑⁝⁝基本法

においては異質なものなのである︒むしろ基本法における::

. .

.  

憲法規定の性質は︑⁝⁝拘束力のあるものと認識しな

( 46 )  

くてはならないという結論を導く﹂︒またシュテルツェル

(S te rz el )

も次のように述べている︒﹁ワイマール憲法から

意識的に転換しており︑もはやプログラム的なもの︑拘束力のない宣言などは存在していない︑というように基本法

を特徴づけることができる︒規範的拘束力を有するという要請は︑⁝⁝︹基本法二 0 条一二項などに︺誤解されようの

( 47 )  

ない形で明示されている﹂︒

以上のように︑今日では基本法︱

1 0

条三項といった明示規定により︑国家に作為を求める憲法規定にも当然に︑規

範的拘束力の存することが認められるようになったが次に︑この位置付けが問題となる︒

(18)

第五 0 巻 第 四 号

この問題に対して今日なお︑プログラム規定という法概念に固執し︑このような憲法規定をプログラム規定と位置

付けるといった見解が見られる︒ただ︑このような見解を採る論者は︑プログラム規定という法概念を︑規範的拘束

( 48 )  

力を有するものと理解しなおした上で︑プログラム規定という法概念を用いているのである︒プログラム規定という

法概念を規範的拘束力を有しないもの︑規範的拘束力に消極的なものと理解すれば︑基本法二 0 条三項などとの関係

で問題となる︒したがって︑この法概念を規範的拘束力を有するもの︑規範的拘束力に積極的なものと理解しなおせ

ば︑今日においてもなお︑国家に作為を求める憲法規定をプログラム規定と位置付けられるのではないか︑というわ

けである︒実際︑前述したように︑ワイマール憲法下においては部分的ながら規範的拘束力を認めるプログラム規定

説というものが存在したのであり︑確かに︑プログラム規定を︑規範的拘束力を有するものと捉えなおすことも不可

けれども︑ミュラー'プロムレイは次のように述べ︑このような見解を批判している︒﹁︹今日︑ 一部で︺プログラ

ム規定と位置付けられている︑基本法上の責務規定の性質は疑う迄もなく︑立法府を含む全ての名宛人に対して︑規

範的拘束力を基礎付けることができるものである︒すなわち︑その限りでこの﹃プログラム規定﹄は︑

法におけるそれと本質的に異なるものである︒それゆえ結果として︑誤解を避けるために︑﹃プログラム規定﹄とい

( 49 )  

う歴史的に厄介な概念を︑ワイマール憲法における︑拘束力のない責務規範と位置付けるべきである﹂︒彼はこのよ

うに述べ︑今日︑社会国家規定などをプログラム規定と位置付ける論者は︑この法概念を︑ワイマール憲法における

それとは本質的に異なるものとして︑すなわち規範的拘束力を有するものとして用いていると指摘した上で︑誤解を

避けるため︑プログラム規定という法概念はワイマール憲法下における当初の理解のように︑ 能なことではない︒ 関法

五 〇

ワイマール憲

一切の規範的拘束力を 六

七 四

(19)

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

有しないものと位置付けるべきであり︑規範的拘束力を有するものとして︑プログラム規定という法概念を理解する

前述したように︑

ワイマール憲法期においては国家に作為を求める憲法規定に規範的拘束力を認めることについて

は概して消極的︑限定的な態度が採られた︒特に当初は︑プログラム規定は一切の規範的拘束力を有しないものと理

解されたのである︒このため︑プログラム規定という法概念は︑規範的拘束力が認められないという歴史的陰影を有

する︒しかしながら︑基本法に存在する社会国家規定などには上述のように︑国家機関に対する規範的拘束力が認め

られて然るべきである︒それにもかかわらず︑これをプログラム規定と位置付けると︑その歴史的陰影のため︑プロ

グラム規定ゆえに規範的拘束力が認められないのではないか︑との誤解を招く恐れがある︒

今日︑国家目標規定という法概念を用いる論者は︑ワイマール憲法下において︑規範的拘束力を完全否定しないプ

ログラム規定説が存在したにもかかわらず︑プログラム規定を規範的拘束力なきものと評価するのはなぜかという疑

問を提起したが︑その解答になりうるものがここにある︒そのような誤解を回避するため︑今日︑国家目標規定とい

う法概念を用いない論者も含め大半の論者が︑社会国家規定などをプログラム規定と位置付けることに消極的な立場

を採るのである︒

国家目標規定の本質としての規範的拘束力

その上でさらに︑これを積極的に位置付けるべく︑プログラム規定とは別の︑新たな法概念を創出し︑用いる論者

( 50 )  

が見受けられるようになった︒そしてその際に創出された法概念の︱つで︑今日︑特に多用されていると思われる法

( 51 )  

概念が国家目標規定なのである︒

J

とに否定的な評価を示しているのである︒

︵ 六

七 五

(20)

目標規定と位置付けるべきことを主張しているのである︒

第五

0

巻 第 四 号

ミュラーープロムレイは前述したように︑プログラム規定という用語が有する歴史的陰影︑およびこれに伴う議論

の混乱を回避するため︑プログラム規定をもはや規範的拘束力を有しないものと断定した上で︑次のように述べてい

る︒すなわち︑プログラム規定とは異なり規範的拘束力を有するということを明示するため︑社会国家規定などを

﹁基本法の下では拘束力に関する共通性ゆえに︑⁝⁝国家目標規定という用語で捉えられるべき﹂ことを主張してい

( 52 )  

る︒彼は国家目標規定という法概念を規範的拘束力を有するものと位置付けた上で︑社会国家規定などは基本法二〇

条三項に基づき規範的拘束力を有して然るべきであるから︑これをプログラム規定と位置付けるべきではなく︑国家

彼のように︑プログラム規定は規範的拘束力を有しないもの︑国家目標規定は規範的拘束力を有するものというよ

うに理解する論者は他にも見られる︒例えばバドゥーラ

(B ad ur a)

は次のように述べている︒﹁国家目標に関する憲

法規範は国家責務を対象とし︑特定の国家責務を立法によって︑およびー制限的にー政府

(R eg ie ru ng )

に対する規範的拘束力を有する︹ので︺⁝⁝︑

( 54 )  

確に区別されるのである﹂︑と述べている︒ や行政府

( V

 

er wa lt un g)

によって処理するよう︑規範的拘束力をもって規定する︒今日の文言使用

(h eu ti g Sp ra ch ge br au ch ) 

によれば︑これはプログラム規定︑すなわちアピール作用︑国家活動を具体的な規範的拘束力なしに促す作用を有す

る憲法上の︑政治的な目標規定ないし努力規定とは異なる︒⁝⁝︹国家目標規定は︑︺無意味なものでも単なる飾り

( 53 )  

でもない﹂︒またツァイも︑このバドゥーラの見解を引用した上で︑﹁その限りで︑国家目標規定は少なくとも︑国家

ワイマール憲法下に見受けられた拘束力なきプログラム規定とは︑明

以上を要するに︑国家目標規定という法概念を用いる論者は︑何故︑これをプログラム規定と位置づけうるにもか

関法

六 七

六 ︶

(21)

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

概観してみることにしたい︒ プログラム規定との対比により︑規範的拘束力を有することが国家目標規定の本質に属することが明らかとなった

が︑いくつかの文献では国家目標規定の本質を明らかにするため︑こういった類似概念との対比が行なわれている︒

そこで国家目標規定についての理解をより深めるため︑また︑後述する議論に資する事柄を理解すべく︑この対比を

まず基本権規定との対比である︒基本法の基本権規定では社会的基本権がほとんど排除されており︑その大半が古

典的防御権を主として保障するものである︒この古典的防御権とは何か︒ショイナーによれば︑﹁国家活動に対する

( 5 5 )  

責務や指針を示すものではなく︑その限界付けに資するものである﹂︒またリューケによれば︑﹁古典的基本権は個々

( 56 )  

人に第一次的に︑個人の権利領域および自由領域への国家的侵害を防ぐ法的権利を授けるものである﹂と述べている︒

このように古典的防御権とは︑国家に不作為を要求するものなのである︒ ①

古 典 的 防 御 権

(k la ss is ch Ab we hr re ch t)  

( 一 )

かわらず︑あえて国家目標規定という法概念を用いているのか︑という最初の問いに対しては︑次のように答えるこ

とができるだろう︒すなわち︑国家目標規定とプログラム規定は規範的拘束力の有無という点でその違いが認識され

ており︑プログラム規定の歴史的陰影ゆえ︑規範的拘束力が認められないとの誤解を招く点に抵抗を感じ︑このよう

な誤解を回避するため︑彼らはあえて国家目標規定という法概念を用いているのである︒

その他の類似概念との対比

基本権

(G ru nd re ch t)

との対比

六七七

(22)

J

の点につきクライン る ︒

第五 0

巻 第 四 号

既にこの点で︑基本権規定は国家目標規定とは異なる︒国家目標規定は国家に作為を求める憲法規定を位置付ける

法概念であり︑前述のショイナーや専門家委員会の定義にも示されていたように︑国家活動に不作為を求め︑これを

限界付けるものではなく︑国家に作為を求めるもの︑国家活動を促し︑その方向を示すものなのである︒この点で基

本権規定と国家目標規定との相違点が認められる︒このような相違点を指摘するものとして︑例えばジーモン

( S

i m

o n

)

は次のように述べている︒すなわち基本権は基本的に﹁国家活動に対する限界付けに資するものであり︑

特定の個人ないし集団に具体的な請求権を保障するものであるが︑国家目標規定は動的性質を有する︒これは立法活

( 5 7 )  

動に道を示し︑裁判府には解釈指針として資するものである﹂︒なお︑このジーモンの叙述の中に動的性質

( d

y n

a m

i s

c h

 

Z ug )

という言葉が用いられている︒国家目標規定に対する︑前述したショイナーの定義にも見られた

ものであるが︑これについては国家構造規定との関係で後述することとする︒

それからもう一っ︑違いがあると言われる︒例えば︑

だ客観法的作用のみを展開するが︑基本権の場合︑主観的︑すなわち訴求可能な公権︵公的防御権︶が問題となり︑

これは国家活動を促すというよりも限界付けるものである︒この点で基本権と国家目標規定は︑憲法上の様々な規範

( 5 8 )  

類型において最も対立するのである﹂︒このフィッシャーの叙述には先程の相違点︑国家活動を限界付けるものか方

向付けるものか︑という相違点の他に︑もう︱つの相違点が述べられている︒主観的権利を基礎付けるか否かであ

︹あり︑︺⁝⁝個別的に︑保護目的の授益権者がこれに内在しており︑なるほど︑解釈によってもこれが明らかであ

関 法

フィッシャーは次のように述べている︒﹁国家目標規定はた

( K l e i n )

は︑﹁原則として︑この国家目標規定に認められるのは︑ただ客観法的効果のみで 五 四

六 七

八 ︶

(23)

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

( 59 )  

る場合にかぎり︑ここから主観的権利が生じるのみである﹂と述べており︑またクレプファー

(K lo ep fe r)

うに述べる︒﹁憲法的性質にとり︑原理的に決定的なこととして︑新しい環境保護原理はその文言上︑何らの主観権

(M er te n)  

的形態をも示さず︑したがって市民の権利義務を何ら示すものではない︒基本法二 0a 条は︑国家権力を名宛人とし

( 60 )  

ているのである﹂︒メルテン は次のように述べている︒﹁基本法上の基本権は︑第一次的に主観的な市民

( Pe t e rs )

は次のように述べている︒﹁国家目標規定はただ客観法的内容のみを有する︒すなわち︑ 権および人権が浮き出てくるものであ︹る︺⁝⁝︒国家目標規定は⁝⁝︑市民に主観的権利を付与するものではな

( 61 ) 

い ﹂

︒ ペ

ー タ

ー ス

当該規範に義務付けられた国家はこれを尊重しなくてはならないが︑国民は違法ないし違憲な国家活動に対抗する請

( 62 )  

求権を基礎付けるために︑これを用いることができないのである﹂︒またゾンマーマン

標規定は﹁市民に主観的権利を保障することなしに︑特定の目標追求を国家権力に義務付ける憲法原理と定義付けら

れ る

﹂ と

述 べ

て い

︵ 砂

クラインのように︑国家目標規定のみを根拠として主観的権利を基礎付けられうるとする見解も見受けられるので

( 64 )  

あるが︑あくまで例外的︑限定的であり︑国家目標規定のみを根拠として基本権が基礎付けられることは︑原則とし

( 65 )  

てはありえないという点で見解が一致しているのである︒これに対して︑基本権規定は通常︑それのみを根拠として

当然に主観的権利が基礎付けられる︒このように第一次的に主観的権利を基礎付けるのか否かという点でも︑国家目

基本権保護義務

(g ru nd re ch tl ic he Sc hu tz pf li ch t)  

標規定と基本権規定は相違していると言えるのである︒

, ̲ ︐  

五五

︵ 六

七 九

は次のよ

他方︑最近の基本権理論の展開によって︑古典的防御権たる基本権規定にもう一っ︑別の側面があることが指摘さ

(S om me rm an n)

は︑国家目

(24)

無いものとなるのではないか︒

第五

0

巻 第 四 号

一定の作為義務を導くという解釈が 例えばハインツ

(H in ds )

は次のように述べている︒﹁連邦憲法裁判所の判例および最近の学説では︑基本権はた

だ純粋に︑主観的防御権を形成するだけでなく︑同時に国家活動が向かわねばならない客観的価値秩序も形成してい

( 66 )  

る﹂︒またフィッシャーは次のように述べている︒﹁伝統的な理解を越えて︑基本権は客観的価値決定を有し︑これと

の関係で国家保護義務も引き出されるので︑基本権は国家目標規定とかなり接近しており︑その限りにおいて国家目

︵ 釘

標規定と同じような︑あるいはかなり類似した作用を有する﹂︒リューケも︑﹁古典的基本権はー社会国家原理と結び

ついてー今日ではさらに︑給付権的要素も有する﹂と述べてい紅︒このように文言上︑古典的防御権規定たる基本権

規定を︱つの価値決定と見て︑その基本法上︑決定された価値を実現するため︑

( 69 )  

提示されているのである︒

このような︑基本権規定に基本権保護義務を見いだすという解釈は︑但し基本法に明示されていない権利を導くほ

どのものではなく︑せいぜい国家給付に対するタイルハーベ

( 70 )  

であるが︑とにかくこの基本権保護義務論の展開により︑国家に不作為を求める側面のみならず︑作為を求める側面

まで見いだされるようになった以上︑

関法

(T ei lh ab e)

を目的とする権利が派生的に導かれるだけ

フィッシャーが述べていたように︑基本法上の基本権は国家目標規定と大差の

けれども一般には︑それでもなお︑国家目標規定と基本法上の基本権とは同一視できないと解され︑この両者には

いくつかの相違点があると指摘されている︒例えばショイナーは︑次のように述べている﹁たとえ今日における展開

が基本権規定の消極的防御権的理解を越え︑そこに含まれる客観的規範設定が明らかにされたとしても︑この規定の れている︒いわゆる基本権保護義務である︒

五 六

︵六 八

0 )

(25)

ド イ

ツ の

国 家

目 標

規 定

に つ

い て

規定は異なるものであると解されているのである︒

五七

六 八

( 71 )  

基本原理は︑特定の個人ないし集団の法的地位︑生活領域の保障である﹂︒またメルテンはこの基本権保護義務につ

( 72 )  

き︑﹁ただ第二次的に認められるにすぎない﹂と述ぺている︒以上の叙述からも明らかなように︑基本権規定は︑そ こから基本権保護義務が導かれるとしても︑それはあくまで第二次的︑抑制的︑例外的に認められるにすぎない︒基 本権規定の第一次的な側面はやはり︑国家に作為を求める側面ではなく︑古典的防御権を基礎付け︑国家に不作為を 求める側面なのである︒これに対して国家目標規定は国家の活動を促し︑方向付ける側面が第一次的なのである︒こ のように同じ国家に作為を義務付ける点で同じであるにもかかわらず︑当該義務が第一次的に認められるか否かとい

う点で︑両者は相違すると考えられているのである︒

また実はフィッシャーも次のようにも述べ︑なおこの両者を区別している︒﹁国家目標規定と基本権保護義務は原 則として︑二つの相違点がある︒第一に︑保護義務は︑たとえほんの例外にすぎないとしても︑訴求され得るもので あり︑第二に現存する権利の保障に向けられた静的な保護義務⁝⁝に対して︑多くの国家目標は動的な社会国家原理

( 73 )  

に相当する﹂︒このように︑基本権保護義務は仮にも権利に対応した義務であり︑憲法訴願を提起し得るものである︒

しかしながら︑国家目標規定は前述のように︑主観的権利を第一次的に基礎付けるものではなく︑国家目標規定に基

づく義務も︑権利に対応した義務ではない︒したがって原則として憲法訴願を提起することができないのである︒ま

た︑基本権保護義務は静的性質を有するが︑国家目標規定は︑古典的防御権との対比でジーモンが指摘していたよう

に動的性質を有するという︑性質上の違いも挙げられており︑こういった諸点ゆえ︑やはり︑基本権規定と国家目標

(26)

次に立法委託との対比がしばしば為されている︒立法委託は時に憲法委託

( V

e r

f a

s s

u n

g s

a u

f t

r a

g )

と も

呼 ば

れ る

( 7

4 ) 

本来は立法委託と憲法委託は別概念なのであるが︑多くの文献などでこの両者が同一のものとして扱われているので︑

立法委託とは何か︒リューケは次のように述べている︒立法委託とは︑﹁立法府に対して立法活動をするよう︑

( 75 )  

⁝⁝指図するものである︒この命令は立法府を義務付ける﹂︒またクラインは︑﹁立法委託は立法機関に規範定立を具

( 76 )  

体的に義務付ける﹂ものである︑と述べている︒このように︑立法委託とは時間的な限界を設けているものもあれば︑

( 77 )  

そうでないものもあるが︑とにかく︑立法府に規範的拘束力をもって︑その作為を求める憲法規定なのである︒この

ように︑国家機関に規範的拘束力をもって︑その作為を求める点で︑立法委託は国家目標規定と近似するものと言え

る︒例えばフィッシャーは︑﹁立法委託は国家活動を促す︑拘束力ある規範であるという点で︑国家目標規定と共通

している﹂と述べてい板︒またどちらも第一次的に主観的権利を基礎付けるものではない点で︑両者は共通している

と言われることもある︒例えばリューケは︑﹁立法委託や国家目標規定からは通常︑主観的権利が生じない﹂︑と述べ

( 79 )  

ている︒また前述した専門家委員会﹁国家目標規定/立法委託﹂の議事録においても︑立法委託も国家目標規定も共

( 80 )  

に基本権とは異なり︑原則として主観的権利を基礎付けないと述べている︒

このように︑国家目標規定と立法委託は共通点がいくつか見受けられるのだが︑これらはあくまで別概念である︒

し て

本稿でもそのように理解することとする︒

に )

立法委託

( G

e s

e t

z g

e b

u n

g s

a u

f t

r a

g )

との対比

例えば︑国家目標規定は当然に立法委託を含み︑したがって立法委託は国家目標規定の下位概念であるとの理解に対

( 8 1 )  

ツァイは﹁二つの規範類型における特徴の違いを見誤っている﹂と評している︒ 関

第五

0

巻 第 四 号

五 八

六 八

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