• 検索結果がありません。

日本軍のタケク進駐

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "日本軍のタケク進駐"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

日本軍のタケク進駐

――タケクにおける仏印武力処理とその後を中心に――

The invasion of the Japanese Army in Thakhek, Laos

—Focus on the Japanese coup de force in Thakhak and the ensuing months—

菊池 陽子

東京外国語大学大学院総合国際学研究院

KIKUCHI Yoko

Institute of Global Studies, Tokyo University of Foreign Studies

  はじめに

  1.日本軍にとってのタケク   2.タケクの武力処理    2.1.武力処理時の兵力    2.2.武力処理の準備    2.3.武力処理の実行   3.武力処理後のタケク    3.1.フランス兵の追走    3.2.第 38 軍司令部移転計画    3.3.日本によるタケク支配   おわりに

キーワード:ラオス、タケク、日本軍、仏印武力処理

Key Words: Laos, Thakhek, The Japanese Army, The Japanese coup de force in Indochina

ᮏ✏䛾ⴭసᶒ䛿ⴭ⪅䛜ᡤᣢ䛧䚸 䜽䝸䜶䜲䝔䜱䝤䞉 䝁䝰䞁䝈⾲♧㻠㻚㻜ᅜ㝿䝷䜲䝉䞁䝇䠄㻯㻯㻙㻮㼅㻕ୗ䛻ᥦ౪䛧䜎䛩䚹 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja

(2)

要旨

本稿では

ラオス中南部の一都市

タケクにおける

1945

3

9日の日本軍による仏印武力処理と

その後の状況について明らかにすることを試みる

この時期のタケクに関する研究は管見の限りなく

使用できる史資料も日本兵による回想録が中心であり

当該時期の全体像を明らかにすることは困難で ある

しかし

日本側の史資料からは

第二次世界大戦末期において

タケクに第

38

軍司令部を移 転し

タケクをインドシナにおける最終的な日本軍の籠城地の一つとしようとしたことや

当時のラオスの 状況の一端が明らかになる

こうしたラオス各地の状況を明らかにし

積み重ねていくことが

当該時 期のラオスの全体像を明らかにすることにつながると考える

Abstract

In this paper, I will examine the Japanese coup de force in Thakhak, a city in the south-central part of Laos, on March 9, 1945 and the ensuing months. As far as I know, there are no studies on Thakhek during this period and the memoirs of former Japanese soldiers are the only available documents. It can be said that it is diffi cult to clarify the entire picture during this period. How- ever, these documents show that the Japanese army had a plan to move the 38

th

Army headquar- ters to Thakhek and construct one of the fi nal bases at the end of World War II. Furthermore, they show a part of the situation in Laos at that time. It will be necessary to gather more docu- ments and continue to examine the situation in each region of Laos. I believe that these efforts will illuminate the entire picture of what was happening in Laos during this period.

はじめに

筆者は

拙稿

日本軍のルアンパバーン進駐

1)において

第二次世界大戦末期のラオス北部

ル アンパバーンにおける日本による支配の一端を考察した

そこで

第二次世界大戦中

ラオスにおいて は

、 1945

3

9日の 「

仏印武力処理

」 (

明号作戦

までフランスによる単独支配が継続していたこ と

日本が実際に支配したのは敗戦までの約

5

カ月間であったことを指摘した

さらに

短期間ではあ るものの

この時期はラオス史にとって歴史的な転換点であると認識されているが

史資料の制約から 研究がほとんどなされていないこと

ラオスにおける日本支配について考察するには

ラオスの各地域の 情報と具体的な事実を積み重ねていく必要があることも指摘した

なぜなら

日本軍はラオスの各地域 に進駐したが

地域によって進駐した部隊が異なり

進駐の時期や期間

進駐した地域での活動な どが異なっていたと考えられるからである2)

このような問題意識から

ルアンパバーンに次いで

パクセを中心としたラオス南部における日本軍の

(3)

状況について

拙稿

日本軍のラオス南部進駐

——

仏印武力処理後のパクセを中心に

——」

3)でまとめた

本稿では

前述の二稿と同じ問題意識から

ラオス中南部のタケクについて武力処理及びその後の日 本軍の状況について可能な限り明らかにしたい

管見の限り

この時期のタケクに関する研究はない

本稿で使用する史資料は

ほとんどが軍人の回想録や連隊史を中心とする日本側の史資料

及びラ オス人の自伝やインタヴューである

筆者は本テーマに関して史資料の調査

ラオスでのインタヴューを

継続中であり

本稿は現時点で使用できる史資料を利用した中間報告である

1.  日本軍にとってのタケク

タケクはメコン川に沿ったラオス中南部

カムムアン県の県都である

フランス植民地期にメコン川に沿 って建設されたラオス南北をつなぐ

13

号線植民地道路と

ベトナム中部ビンにつながる

12

号線とが交 差した位置にある

フランスのラオス統治における主要都市の一つで

理事官府が置かれていた4)

。 1943

年の統計では

タケクの人口は

8100

人で

そのうちラオス人が

800

10% )、

ベトナム人が

6900

85% )、

中国人が

300

4

)、

その他

100

1% )

となっている5)

フランス植 民地期のラオスでは都市人口に占めるベトナム人の割合が高かったが

なかでもタケクは人口の

8

割強 がベトナム人と

当時のラオスにおいて最もベトナム人の割合が高い都市であった

こうした人口構成は

日本軍がタケクに進駐した

1945

3

月時点でも同様であったと考えてよいであろう

日本の戦況が悪化するなか

大本営は印度支那駐屯軍の編成を強化し

作戦軍としての性格を明 らかにするため

、 1944

12

月20日

38

軍に改称した6)

38

軍司令官に着任したのは

陸軍 でフランス通であるとされていた土橋勇逸であった7)

土橋は

仏印武力処理の約

1

か月前

仏印各 地を視察し

各地で武力処理を準備している軍隊の現地指導を行っているが

ラオスの視察において は

まず

ハノイからタケクに入っている

。 1945

2

月7日にタケクに到着する8)

、 9日に北上してビ

エンチャンに行き

再びタケクに戻って南のサワンナケート

パクセに向かいカンボジアを経てサイゴンに 行った9)

タケクを拠点にラオスのメコン川沿いの都市を南北に移動していることから考えて

当時

タ ケクはラオスの諸都市の中でベトナムからのアクセスが最もよかった地であったと言えるであろう

こうしたベトナムとのアクセスの良さが関係していると考えられるが

タケクではおそらく日本の軍が駐屯 する以前に昭和通商株式会社

以下

昭通

が業務を行っていた

昭通は軍命を受けて日本陸軍 への兵器や物資納入のために活動した特殊な商社で

、 1939

4

月に設立された10)

。 1941

12

月 の開戦後

南方地域への事業に参入し

、 1943

6

月にハノイに支店を設立

陸軍の庇護の下に仏 印での事業を拡張していた

同年

12

月にはサイゴンに支店を開設することも決定した11)

タケクに支店 を開設していたのか

社員が派遣されて活動をしていただけなのか

また

どのような活動をしていた のかもはっきりしない12)

仏印での事業を拡張するなかで

ラオスにまで事業の範囲が及び

遅くと も1944年末にはタケクで何らかの活動を行っていたと考えられる

具体的なことは何もわからないが

(4)

1944

12

月にタケクのフランス人理事がサインをしている書類の中に

タケクに昭通があったことが記さ れている13)からである

また

タケクに駐屯していた日本兵が回想録で昭通での会合の約束について 記載しており

そこに添えられた当時のタケクを描いた地図に昭通の所在地が記載されている14)

後述 するように

、 1945

2

タケクには第

7

方面軍野戦貨物廠西貢支廠タケク出張所15)

以下

タケク 出張所

が開設されたが

その出張所長の回想録でも

昭通がアヘンを買い付けていたことが指摘さ れている16)

ここから

日本軍が駐屯していた期間

タケクにおいて支店あるいは事務所を構えていた と考えてよいであろう

ラオスにおいてはタケクの他にビエンチャンとルアンパバーンでも昭通は活動してい たようである17)

昭通の事業に続き

貨物廠

そして

、 7

月には第

38

軍野戦兵器廠タケク支廠18)

が開設された

日本軍にとって

タケクは兵站拠点とみなされていたと言える

タケクのアクセスの良さ

兵站拠点としての可能性は

後述するように

この地に第

38

軍司令部を 移動させるとの計画に繋がったと考えられる

また

南方軍が連合国軍の仏印上陸に備えてパクセに 司令部を移転しようとしていたこと

38

軍は最終的な籠城地の一つとしてボラウェン高原に陣地を構 築していたことをすでに拙稿で述べた19)

パクセやボラウェン高原とのアクセスの良さもタケクが選ばれ た要因となったと考えられる

タケクは

仏印武力処理後の日本軍にとって

作戦を計画し展開してい く上で重要な地であった

2.  タケクの武力処理 2. 1.  武力処理時の兵力

大本営は

仏印当局の対日不信行為を厳しく監視摘発し

対日協力を督促するため

、 1944

年1月

仏印に対し憲兵約

100

名を増派し

、 2

独立混成第

34

旅団を派遣した20)

これに伴い

、 2

月から

1945

1

月までのどこかの時点で

それまで日本の部隊が駐屯していなかったタケクに

独立混成第

34

旅団から警備隊が派遣された

。 1945

1

27

日朝

タケクの武力処理にあたる部隊として

歩 兵第

83

連隊第

12

中隊がビンから車両でタケクに移動を開始した

。 28

日夜

タケクに到着し

、 1

月末 日

独立混成第

34

旅団警備隊と警備を交代した21)

。 2

月中旬

タケク出張所要員

6

名がサイゴンか らパクセを経てタケクに到着し

、 2

16

タケク出張所を開設した

出張所開設に伴い

特設自動 車隊

牛車隊

現地人による黄牛荷車輸送

も編成されてタケクに到着し始めた22)

。 3

月に入ると

野戦貨物廠西貢支廠ビエンチャン出張所開設要員

5

名もタケクに到着した23)

明号作戦開始の直前 には

南方軍第一憲兵隊ビン分隊にタケク分遣隊が

11

名で編成され

タケクに派遣された24)

さらに

陸軍の要請でラオスでの物資買い付けに協力するために軍属となった三井物産の社員

2

名が

、 3

月9 日25)

サイゴンからタケクに到着した26)

したがって

明号作戦直前

タケクに駐在していた日本の部隊は

一個中隊

憲兵隊

特設自動 車隊

タケク

ビエンチャン両出張所要員

三井物産社員の他

タケク出張所所長の回想録によると

(5)

討兵団師団軽重隊であった

憲兵隊タケク分遣隊員の回想録では

中隊が約

200

27)となっているが

出張所所長の回想録では

中隊

( 120

)、

憲兵隊

( 20

)、

軽重隊

( 20

)、

特設自動車隊

( 20

)、

貨物廠

(19

の計

190

名であったとなっている28)

数は異なっているが

両者の記述から

明号作戦時のタケクの日本軍の兵力はおおよそ

200

名であったと言ってよいであろう

それに対してフランス側の兵力は

出張所所長の回想録では

680

名と推定29)されているが

前述の 三井物産社員

川島の自伝によれば約

150

30)とされており

かなり異なっている31)

2. 2.  武力処理の準備

歩兵第

83

連隊第

12

中隊を中心とする日本軍は

タケクに

2

か所あった仏印軍兵舎の武力処理を 準備した

兵舎はタケクの町の北端と南部のメコン川沿いにあり32)

川島によれば

前者は約

100

後者は約

50

名の兵力で

両兵舎あわせてフランス将兵は

20

名程度で

ほとんどは現地兵であっ た33)

2

月16日に開設したタケク出張所について

出張所長の回想録によると

武力処理までの活動は以 下のようであった

出張所は

当初

家屋の借上げについてラオス側34)との話し合いがつかず第

12

中隊の中に開設したが

ラオス側との交渉の結果

ベトナム人小学校に移動した

開設にあたり

サ イゴンから異動した出張所員の他

現地の人35)を含み

出張所要員は約

20

名であった

出張所は 南方軍

300

万の

3

年分の食糧

、 1

年分の被服

必需品の集積命令を受けており

とりあえずの集積

目標を米

5000トン 、

食油の米に対する比

、 10

3

での集積としていた

出張所開設後

米は

陸路で西貢米が毎日到着するようになり

39

軍管轄下のバンコク支廠から粳米

5000トンも輸送され

そのため

米の集積のための新たな場所を探す必要が生じ

タケク市街地の調査偵察を行った

その際に

フランス側が密偵を付けてつきまとった36)

3

月に入ると

ビエンチャンにも野戦貨物廠西貢支廠の出張所を開設することが決定され

その開設 要員としてサイゴンからビエンチャン出張所要員

5

名がタケクに到着した

。 3

8

37)には

軍属となっ た

2

名の三井物産社員が到着した

三井物産社員のうち

、 1

名はタケク出張所嘱託として派遣されて いた38)

武力処理に関しては

中隊が戦闘を担当し

タケク

ビエンチャン両出張所は

戦闘部隊の給与 担当と出張所周辺の交通遮断

戦闘後の敵の糧秣

被服及び自動貨車等交通機関並びにラオス地 区すべての資料の接収担当となった39)

タケクにおいては

戦闘準備とともに

その後

兵站拠点とするための準備も進めつつ

3

月9日を迎 えることになった

(6)

2. 3.  武力処理の実行

歩兵第

83

連隊史によると

タケクでは

、 3

9日の 22

時過ぎ

仏印軍の武力処理が開始された

北端兵舎には

中隊員が三車両で向かい

兵舎正面で車から降りると兵舎に突入した

兵舎攻撃中

仏印軍渉外担当将校の叫び声を聞いたが

兵舎に突入すると姿はなく

逃走した後であった

北端 兵舎での戦闘は朝には終了したが

日本側に戦死傷者が生じ

仏印軍の逃亡者が多数いた

一方

南部の兵舎は

10

日の午後になって降伏した40)

三井物産社員

川島の自伝によると

川島はフランス語に堪能であったため

タケク駐屯部隊の隊 長からフランス人捕虜の通訳として戦闘に参加することを要請された

部隊が北端兵舎41)に突撃した際

川島は兵舎の陰に隠れているように言われた

攻撃が始まると

フランス人将兵は真っ先に兵舎から逃 げ出し

指揮官を失ったラオス人の兵士たちは兵舎の中を逃げ回って暗闇の中に消えてしまったという

したがって

捕虜は

1

人も出ず

戦闘は

1

時間にも満たないもので

午前

2

時半頃には兵舎を後にした

日本側には

3

名の戦死者が出た

夜が明けると

メコン川沿いの南部の兵舎でまだ敵が降伏していな いと

フランス語による降伏説得を頼まれた

フランス人の隊長は

川島の降伏勧告を拒否し

折衝の末

一時休戦とし

後刻折衝を重ねることになった

そこで日本側はその場から離れたが

昼頃

その隊 長は視察のつもりでタケクの町中を歩いていたそうで

日本兵に捕まってしまった

隊長が日本に捕らえら れたことで

たてこもっていた兵士たちは全員降伏した42)

タケク出張所長の回想録によると

、 22

銃声を聞くと

出張所員は交通を遮断した

町中では憲 兵隊が教会の教主やタケク省長副官

ママ

を連行していった

銃声は約

1

時間で止み

北端兵舎の 状況を見に行くとフランス人将校はほとんど逃げていた

一方

南部兵舎は

高さ

3メートル以上の防

塁のために攻撃が意のままにならず

膠着状態が続いていた

。 10

日朝になって

フランス語の得意な 軍属の川島嘱託が降伏勧告を行い成功した

昼頃

タケク省副理事官

ママ

他数名のフランス人を 捕らえ

憲兵隊に引き渡した

戦闘が終了すると

憲兵隊とともにフランスの要人の私宅の家宅捜索

接収に当たった43)

上記の回想録の記述から

タケクにおける武力処理は

3

9日の夜中から実行され 、 2

か所あった 仏印軍兵舎のうち

、 1

か所は

1

時間程度で

もう1か所は翌日の昼頃に戦闘が終わったこと

フラン ス将兵はほとんどが逃亡したが

フランス人行政官や神父などとともに日本軍の捕虜となった者もいたこ と

日本軍は戦闘が終了するとフランス人の住居等を接収したことがわかる

日本軍は短時間でフラン

スに代わってタケクの権力を掌握することに成功した

武力処理が成功した後

タケクでは

日本軍が

捕虜として捕らえたフランス人を非戦闘員も含めて 殺害した

戦後

殺害に関わったとして憲兵隊タケク分遣隊員がフランスに逮捕され戦犯として起訴さ れた

戦犯として起訴されたが

武力処理後にタケクに着任したために

フランスによる事件の追及に よってはじめて事件を知ったというタケク分遣隊員は

回想録の中で

関係者は真相を語ることなく

(7)

戦後いち早く離隊していなくなり

実体は明らかではないと回想している44)

しかしながら

当時タケクにいたタケク出張所長の回想録にも

川島の自伝

この時期のタケクを扱 ったラオス語の書籍

当時

タケクで教員をしていたシンカポ

シコートチュンナマリ

等に聞き取りをし て書かれた

にもこのフランス人殺害のことは記述されている

いずれも殺害したという事実のみで

殺 害の理由は明らかにされていないが

事件当時

タケクにいた人々の間には広く知られていた事件であ ったと考えられる

川島は

捕らえられたフランス人隊長だけではなく

神父

医師

その他非戦闘 員のフランス人を逮捕して一人残らず日本刀で斬り殺したと述べている45)

出張所長は

取り調べが終 わった捕虜を

直径3メートルほどの穴の周りに座らせて日本刀で処刑した様子を記述している46)

穴の周りで処刑したという記述は

前述のラオス語の書籍の記述と共通している

シンカポの記憶をも とにしていると考えられる47)記述によると

日本兵はフランス人弁務官

チボー神父

フランス兵らを捕ら えた

夜の

8

時頃タケクの住民が怖いもの見たさで刑場に行くと

、 10

名以上のフランス兵が穴を掘らさ れていた

そこに

車で

4

1

組に縛られたフランス人が連れてこられた

穴が広さ

4× 8メートル 、

深さ2メートルになると

日本兵はそこに石灰と水を入れた

フランス人を穴の周りに並べると

日本刀 を振り下ろした

。 1

組に縛られた

4

人が一緒に石灰水の穴の中に落ちた48)

また

当時

タケクでシ ンカポの下で学んでいた

T

氏も日本兵によって

フランス兵のみならず神父も捕らえられ殺害されたことを

記憶している49)

戦後すぐにラオスに入ったアメリカの

OSS (

戦略情報局

の報告によると

この時

タケクで殺害さ れたのはフランスの文官

25

名を含む約

40

名だとされている50)

なぜタケクでこれだけ多くのフランス人を 殺害しなければならなかったのか

その理由ははっきりしない

しかし

武力処理によってフランス権力 を追い払った後

ラオスの人々の前でフランス人を殺害したことは

日本兵による蛮行だけではなく

日 本がフランスに代わって権力を掌握したことを

タケクの人々に強く印象付けることになったと考えられる

ラオスにおいては

武力処理直後にフランス人が殺害された記録が残っているのはタケクだけである

3.  武力処理後のタケク 3. 1.  フランス兵の追走

武力処理実行時に

フランス兵が逃走したことはすでに述べた

逃走したフランス兵は

前述のシン カポ

シコートチュンナマリ

、 「 1945

3

9

日本はインドシナでクーデターを行い

、 2 、 3

時間 で完全にフランスの抵抗を停止させ

完全に権力を掌握した

私は

フランス人やフランス兵が町から 逃げ出し森に入っていくのを見た

。」

51)と自伝で述べているように

町から離れ森に隠れた

。 T

氏も森の 中に逃げたフランス人がいたこと

そうしたフランス人に食料を提供していたラオス人がいたことを覚えて いる52)

日本軍もそうした情報をつかんでおり

タケクの武力処理が終了すると

中隊は小隊に分かれて

(8)

ケク郊外やナーペー方面に逃走したフランス兵の討伐に出かけた

ただ

逃走兵の情報を得ても

す でに逃亡した後であることもあった53)

ビンとタケクの中間地点にあるナーペーには

長以下

7

名の小隊

12

中隊

が敗戦まで駐屯した54)

ビンから逃走兵を追ってきた部隊が

フランス兵を連行してタケ クに到着したこともあり55)

武力処理後の日本軍にとって

タケクの町は掌握したとはいえ

郊外の森の 中に逃走したフランス兵の動向を把握することは治安維持にとって重要な問題であった

タケクから逃れたタベルニエ中尉らはタケクやサワンナケート郊外でゲリラ活動をしており56)

戦後も

すぐにタケクの町を掌握しようとゲリラ活動を開始していたことが

OSS

によって報告されている57)

3. 2.  第 38 軍司令部移転計画

インドシナの武力処理が成功した後の作戦として

38

軍はタケクへの司令部の移転を考えていた

。 6

月上旬に策定した作戦計画では

その指導要領の八が

、 「

タケク付近に軍司令部位置を設定すると ともに複郭陣地を準備す

58)

となっている

土橋が

回想録のなかで

 仏印軍の武装解除後に於ける私の仕事で一番大事なことは作戦準備であるから5月 には陣地の構築 軍需資材の分散と奥地移転作戦路の整備などを命じ 軍司令部も

Thakhek

(タケック の東北方の岩石地帯に設備を始めさせた59)

と述べているように

この作戦計画に先んじてタケクへの移転準備は始めていたようで

戦後に書かれ た第

38

軍参謀の記憶による

仏領印度支那方面作戦記録

においても

、 「

軍の作戦計画は

6

月上 旬に至り確定せるも之が準備は

4

月以降軍の企図に基き各兵団毎に逐次実施せり

軍司令部はタケツ クに位置すべく6月以降之が施設を増強せり

。」

60)と記録されている

土橋は

連合国軍がインドシナの海岸線から上陸し

中国軍が北から押し寄せれば

にわか造りの 複郭などは一たまりもなく崩壊するが

陣地が構築されていればゲリラ戦を展開し多少は持ちこたえるこ とができると考えていた61)

タケクへの司令部移転及び陣地の構築は

38

軍が最後の籠城地の中 心としてタケクを選択したことを意味しており

戦況の打開や好転を目指したものではなかった

戦争が 終わるまでは戦争を続けなければならない状況のなかで選択されたことであった

タケクへの物資集積のために開設されたタケク出張所は

武力処理後

食料や物資の集積業務が 本格化した

タケク出張所長の回想録によると

出張所では

食料

物資の集積の他

稲や豆など の発芽試験や現地住民への宣撫指導

現地で入手できる材料を使ってのアルコールや調味料の製造 などを行った

雑穀類に関しては

現地人耕作班を編成し

収穫の

2

分の

1

は自家消費あるいは販 売を認め

残りは軍に納入させるという刈分納入制度を作り

実効を上げ始めたという

こうした現地 人への指導は

軍に協力的なラオス人があたった62)

米に関しては

現地住民の持米の半年分を残し徴発し集積に努めた

サイゴンやハノイへの連合国

(9)

軍からの空襲が激しくなると

特にサイゴンからの物資の輸送が難しくなり

早期に作戦目標を達成する のは困難になっていた

将来

タケクにも空襲があることを想定して

タケクの町に近いメコン川岸のジ ャングルの中に倉庫を建設することにした

倉庫の建設には

ラオス人を雇った63)

出張所長の回想録からは

タケクに司令部を移転するために

食料や物資を集積していた様子がう かがわれる

回想録には

タケクに次第に日本兵が増え

、 1

万人に達したため

ベトナム人の慰安婦 を連れてきて慰安所を開設したことも述べられている64)

先に述べた刈分納入制度や米の徴用なども 同様に

この回想録にしか記述がなく

実態が不明である

当時

、 8000

人程度の人口のタケクに

、 1

万人もの日本兵がいたとしたら

シンカポや

T

氏が記憶していても良いような気がするが

両氏はタケ クの人口を上回るほどの日本兵がいたことは記憶していない

タケク出張所は

4

月に第

38

軍野戦貨物 廠タケク支廠と編成を強化されているため

タケクへの司令部移転へ向けて兵站拠点とするための準備 が進められていたことは確かであると考えられる

そして

そうした準備には現地の人々

ラオス人だけ ではなく

タケクの人口の

8

割を占める越僑

の協力がなければ不可能であったであろう

しかし

回 想録に記載されている事柄も含め

現地の人々にどのような働きかけがなされ

食料や物資の調達は 具体的にどのように行われ

成果はあったのか否か

現地の人々の反応はいかなるものであったのか 等は確かめる術がない

司令部移転の計画が策定された

6

月には

同盟の記者が

軍だけではなくインドシナ在住の邦人全 体がラオスへ撤退する計画が進んでいたと記述している65)ように

全く現実味のない計画ではなかった のであろうが

結局

司令部はタケクに移転されることなく敗戦を迎えた

3. 3.  日本によるタケク支配

タケクの武力処理後

日本軍は町の治安維持を図り

司令部建設のための準備を進めていったので あるが

タケクの住民にとっては

日本軍の存在はいかなるものであったであろうか

前述のラオス語の書籍によると

日本兵がフランスに取って代わったことにより

タケクの町の状況は以 前よりもひどくなり

緊張が生じたと記されている

日本兵は町の至る所を捜索し

日本兵に協力的では ない人を取り除こうとした

日本は

フランスの分割統治を引き継ぎ

ラオス人同士やラオス人と越僑の 連帯を阻もうとし

越僑を国に帰らせようとした

日本はタケクをラオス統治のための基地にしようとしてい た

日本は秘密組織が活動していないか密偵を放ち

日本の憲兵は協力的な越僑に頼って越僑の動 向を掌握した

このような状況の中

ラオス人の愛国青年の組織

越僑の組織

ベトミンの末端組織 は秘密裡に存在していたが

まだ小さな組織で影響力もそれほど大きくはなく

目立たないようにしていた

ラオス人

越僑の愛国青年の組織は活動ができなかったため

演劇を通して愛国心を訴えたり

定期

市で情報交換をしたりした66)

この書籍はラオス独立のために戦ったシンカポを含むタケクの3人の英雄についての書籍であるため

(10)

日本の支配下におけるラオスの愛国組織についての記述が主であるが

ここからは

日本がタケク支配 にあたり

人口の

8

割強を占める越僑の組織に協力を求めていたこと

日本はルアンパバーン王国を

独 立

させたとはいえ

タケクにおいては独立を承認する気はなく

日本に協力的ではない組織は活動が やりにくくなっていたことがうかがわれる

英雄の活動を強調している部分はあると思われるが

タケクに おいて

日本はフランスと同じようにラオスの独立を阻む支配者であった

ただ

1

日本軍がラオスの 独立に対してなしえたことがあるとすれば

ラオス側への武器の供与であろう

前述の書籍では

、 8

16

シンカポが日本の憲兵に会いに行って

日本軍の武器をラオス人に譲ってほしいと頼むと

憲兵 隊長は

、 「

ラオス人に武器を渡して日本兵は手ぶらで帰国する

と言い

武器の供与に賛成してくれた ことが記述されている67)

T

氏は

日本兵はとにかく恐ろしかったと語り

日本兵が来てから

シンカポの学校が閉鎖され学校 に通えなくなってしまったこと

日本兵はタケクの北

4

キロのところにあるジャングルに倉庫を建てていたら しいが

そこにはラオス人は近づけなかったため

実際

何があったのかはわからないということを記憶 していた68)

日本軍によるタケク支配について確認できるその他のラオス側の史資料は

現時点ではない

  おわりに

本稿では主として日本側の回想録を用いて

、 1945

3

月の武力処理及びその後のタケクの状況をま とめた

タケクは日本軍にとって

ベトナムとのアクセスが良く

38

軍司令部の移転先

インドシナに

おける最終的な籠城地の中心として兵站上

重要な地であった

タケクには武力処理前から昭通が事業を開始しており

司令部の移転前に兵站基地としての準備は 進んでいた

結局

司令部の移転が現実となる前に

敗戦によって日本軍はタケクから引揚げることに なったが

日本軍にとって重要な地であったために

タケクでは内政を現地住民に任せるのではなく

日本に協力的な越僑組織を使用して支配したと考えられる

史資料の制約から推測に頼る部分が多いことは否めないが

史資料の調査を続け

ラオス各地の 状況を一つ一つ明らかにしていくことが

この時期のラオスの全体像を描くことにつながると考える

謝辞:本稿執筆にあたっては、史資料を提供していただき、お話をうかがわせていただいた川島瑞枝様、北山俊男様、立 川京一様、インタヴューに応じて下さったラオスの方々、ラオスでの調査にご協力いただいたブンタウィー・ソーサムパン先生

(Dr.  Bounthavy  Sosamphanh)に大変お世話になりました。ここにお礼申し上げます。なお本稿は日本学術振興会科 学研究費基盤研究(A)課題番号 25243007 平成 25~29 年度「第二次世界大戦期日本・仏印・ベトナム関係研 究の集大成と新たな地平」(代表:白石昌也早稲田大学教授(現名誉教授))の研究成果の一部です。

(11)

注 1) 菊池 2019a:100-117

2) 菊池 2019a:100-101 3) 菊池 2019b:48-62

4) スチュアート‐フォックス 2010:52

5) Martin Stuart-Fox 2008:408 民族別統計であるので、ラオス人ではなくラオ人とした方が適切であるかもしれな いが本稿ではラオス人をラオス国民という意味ではなくタイ系ラオ人の意味で使用する

6) 防衛庁防衛研究所戦史室 1969:593 7) ibid.:595

8) 明号作戦準備のために、 19451月末にタケクに到着した歩兵第83連隊第12中隊員の回想によると土橋の

タケク到着は2月6日となっている。 (緒方 1982:509)

9) 防衛庁防衛研究所戦史室 1969:603 10) 柴田 2004:1,11

11) ibid.:14

12) 昭通については、 資料的な発掘が遅れており実態の解明がなされていない柴田 2004:1)ためラオスにお

ける事業について言及した資料や研究は現時点ではないわずかな回想録等によってその存在が確かめら れるという程度にすぎない

13) Fonds DEUVE:G14-16 Laos 199

14) 緒方 1982:508-509 筆者は、 20158この地図に記載されている昭通の場所に行ってみたが昭通の

痕跡は見つからなかった現在の周辺住民は他地域から移住してきた人々がほとんどで居住地域の当時の 状況を知る人に出会うことはできなかった

15) 19445月に南方軍野戦貨物廠から改称された。 19454月には第38軍隷下に入り38軍野戦貨物廠に

編成改正された。 (JACAR:Ref.C12122456200)

16) 會澤 1984:147

17) ビエンチャンについては、 (浜田 1995:21)、 ルアンパバーンについては北山俊男氏の記憶 (20158月29 のインタヴュー石川県能美市による

18) JACAR:Ref.C12122456000 タケクの兵器支廠開設に関しては、これ以外に記録がないため詳細は不明である

19) 菊池 2019b:52

20) 防衛庁防衛研究所戦史室 1969:593 21) 緒方 1982:509

22) 會澤 1984:132-135 23) ibid.:138

24) 大島 1979:202-203 南方軍第一憲兵隊隊員名簿によるとタケク分遣隊員は19名掲載されている大島 1979

24-44)。 編成時から敗戦までの間に隊員の異動があったと考えられるまた隊員の回想録によると明号作戦

時にタケクに到着していた憲兵隊員は11名中の8名であったようである大島 1979:202-203)。

25) 會澤 1984:138によると3月8日。 26) 川島 1986:201-209

(12)

27) 大島 1979:203 28) 會澤1984:140 29) ibid.

30) 川島 1986:210

31) このフランス側兵力の認識に大きな違いが出たのは、 戦後の回想というだけではなく武力処理後のフランス人殺

害が影響を与えている可能性も考えられる

32) 會澤1984:139 北端が正規軍、 南部は保安隊とされている連隊史掲載の地図にも北端兵舎は仏印軍

南部の兵舎は保安隊と記されており緒方 1982:508)、 川島もフランスの兵舎は2か所と記載している川島 1986:210)。タケクに関する日本側の回想録の主なものは歩兵第83連隊史タケク出張所長の回想録 島自伝であるが細部に違いはあるものの一致する事柄情報も多い戦後個別に書かれた回想録におい て一致している内容はかなりの程度で事実を反映していると考えられる。 2か所のフランスの兵舎に関しては れぞれの回想録によって呼称は異なるが記載されている場所や規模から同じ兵舎であると考えられるしたがって本稿では北端兵舎南部兵舎で統一して記載する

33) 川島 1986:210

34) 會澤1984:134-135 ラオス側とは、ラオス人の省長で副省長はフランス人と記載されているが省長とはカムムア

ン県の知事のことなのかタケクの町の行政的指導者のことであるのかはっきりしない当時のタケクで誰と交渉し たのかは不明である

35) ibid.:135 現地の人とは、 現地人兵補を含むと記載されているが仏印武力処理以前のフランス主権の下で

日本軍が現地の人々を兵補として採用できたのか採用していたのかは不明である現時点で筆者が収集した史 資料の中にはこの回想録以外にラオスにおける兵補について記述されているものはない

36) ibid.:132-135

37) 川島 1986:209 によると3月9日

38) 會澤1984:138 この記述は川島自伝と内容がほぼ一致している。

39) ibid.:139 40) 緒方1982:509-510

41) 川島は東の兵舎と呼んでいるが連隊史の記述および連隊史に記載されている地図を参考にすると北にある

方 1982:508)。

42) 川島 1986;209-214 43) 會澤 1984:141-144

44) 大島 1979:202-203 憲兵隊史によると、19503月29日タケク分遣隊員2名に無期の判決が出ている。 (ibid.:

392)

45) 川島 1986:214-215 46) 會澤 1984:145-146

47) 筆者もシンカポから日本兵によるフランス人殺害の話を聞いたことがある。 (19951月 ビエンチャン

48) Duangsay 1993:10-12

49) T氏へのインタヴューより。 T氏は1931タケク近郊の村生まれで1944年からシンカポの下でフランス語を勉強し

ていた。 (20198月 タケク) 50) Fonds DEUVE:G14-16 Laos 197

(13)

51) Singkapo 1991:12 52) T氏へのインタヴューより 53) 緒方 1982:510 54) 八三会 1988:88 55) 緒方 1982:513-514

56) Fonds DEUVE:G14-1 Laos 2 57) Fonds DEUVE:G14-16 Laos 197 58) 防衛庁防衛研究所戦史室 1969:668 59) 土橋:64

60) 仏領印度支那方面作戦記録:60

61) 防衛庁防衛研究所戦史室 1969:670 62) 會澤 1984:146-149

63) ibid.:149-162 64) ibid.:167-168 65) 前田 1963:2 66) Duangsay 1993:12-16 67) ibid. :20-21

68) T氏へのインタヴュー(20198月 タケク

参考文献

會澤蛭風. 1984. 『椰子と南十字星と学徒兵或る農学徒の大東亜戦参戦回想録)』 東邦印刷株式会社

防衛庁防衛研究所戦史室. 1969. 『戦史叢書 シッタン明号作戦朝雲新聞社

Duangsay Luangphasi. 1993. 3bouroudlek haengmuangThakhek hongphimhaenglad Vientiane (タケクの3英雄八三会金沢大会記念誌編集委員会. 1988. 『鏃痕——歩兵第八十三連隊創設五十周年記念誌——』 菱光社 浜田喜久穂. 1995. 「ラオスビエンチャン終戦秘話」. 21師団歩兵83聯隊将校団 南幹候スマラン会回想録

36. pp.16-27 (私家版

川島順平. 1986. 『八十年間世界一周 ——思い出の記』 (非売品

菊池陽子.2019a. 「日本軍のルアンパバーン進駐」.東京外国語大学東南アジア地域ユニット東京外大  東南アジア学

No.24. pp.100-117

菊池陽子. 2019b. 「日本軍のラオス南部進駐——仏印武力処理後のパクセを中心に——」. 東京外国語大学東南アジア

地域ユニット東京外大東南アジア学』No.25. pp.48-62

前田雄二. 1963. 「集中営からコレラ船へ ハノイからの引揚げ波多博ら報道報国の旗の下に 下 同盟通信の 思い出新聞通信調査会

Mar tin Stuar t-Fox. 2008. Historical Dictionary of Laos The Scarecrow Press,Inc. Lanham, Mar yland・ Toronto・Plymouth, UK

マーチンスチュアート‐フォックス菊池陽子 訳. 2010. 『ラオス史めこん

(14)

緒方廣業編. 1982. 『追想 歩兵第八十三聯隊』 (非売品

大島親光発行責任. 1979. 『南方軍第一憲兵隊史南一憲会非売品

柴田善雅. 2004. 「陸軍軍命商社の活動——昭和通商株式会社覚書——」. 社団法人中国研究所中国研究月報

58巻第5. pp.1-19

Singkapo Sikhotchounnamaly. 1991. Sivit lae Viakgaan Vientiane. (人生と成し遂げてきたこと

(未公刊史料)

防衛省防衛研究所戦史室 

南西−泰仏印−42 「仏領印度支那方面作戦記録土橋勇逸中将回想録8(昭和20.2~20.12.5)

Fonds DEUVE. Série G(Avant Guerre-Après Guerre)14.

Mémorial de Caen. Service des Archives et de la Documentation

JACAR(アジア歴史資料センター)

Ref.C12122456000 (タイ仏印方面部隊略歴防衛省防衛研究所

Ref.C12122456200 (タイ仏印方面部隊略歴防衛省防衛研究所

参照

関連したドキュメント

The Mathematical Society of Japan (MSJ) inaugurated the Takagi Lectures as prestigious research survey lectures.. The Takagi Lectures are the first series of the MSJ official

I give a proof of the theorem over any separably closed field F using ℓ-adic perverse sheaves.. My proof is different from the one of Mirkovi´c

Keywords: continuous time random walk, Brownian motion, collision time, skew Young tableaux, tandem queue.. AMS 2000 Subject Classification: Primary:

Maria Cecilia Zanardi, São Paulo State University (UNESP), Guaratinguetá, 12516-410 São Paulo,

We construct a sequence of a Newton-linearized problems and we show that the sequence of weak solutions converges towards the solution of the nonlinear one in a quadratic way.. In

This paper presents an investigation into the mechanics of this specific problem and develops an analytical approach that accounts for the effects of geometrical and material data on

II Midisuperspace models in loop quantum gravity 29 5 Hybrid quantization of the polarized Gowdy T 3 model 31 5.1 Classical description of the Gowdy T 3

The object of this paper is the uniqueness for a d -dimensional Fokker-Planck type equation with inhomogeneous (possibly degenerated) measurable not necessarily bounded