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平城京・ 京内寺院の調査

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(1)

平城京・ 京内寺院の調査

図32 1991年 度平城京・ 京内寺院調査位置図 (1/25000)

(2)

調査次数 227 228 231 232

223‑1 223‑2 223‑3

*223‑4

*223‑5

*223‑6

*223‑8 223‑9 223‑11

*223‑12 223‑13 223‑14

*223‑15 223‑17 223‑18 223‑‑19 223‑20 223‑21

6BSR, 6AGR 6BSR 6AF」

6BZT 6BSD 6ASA 6BYS 6AGR 6AGF 6ASA 6ASA 6AFF 6BSD 6ASB 6AFF 6AAN 6ASA 6BYS 6BKA 6AGA 6AFM 6BSR

500 700 2,600 15 110 30 200 56 7 48 15 80 472 3 80 8 6 270 60 200 425 236 西隆寺 旧境内

西隆寺旧境内 左京三条一坊七坪 頭塔

西大寺旧境内 宮北方 薬師寺宝積院 右京北辺三坊 右京三条一坊十坪 宮北方

宮北方 東院南方遺跡 西大寺境内 宮北方 左京二条二坊 市庭古墳東辺 宮北方 薬師寺西面大垣 海龍王寺旧境 内 右京一条二坊八坪 田村第推定地 西隆寺 旧境内

7. 1‑ 7.31 10 18‑11  7 1.8〜 3.31 2.15‑ 4.15 4. 9〜  4,15 4.23‑ 4.28

5。23‑ 6.29 6.13‑ 6.14 6.18 7.  1‑ 7. 3 7.29‑ 7.30 8.6ん 9.5

9。17ハV10. 7 10,3 10. 7‑10.16 10.22‑10.22

.7

11.20‑12. 5 12. 6‑12.20 12. 9‑12.18 1.10‑ 2.22 1. 6‑ 2. 6

玉田

 

芳英 森本

  

晋 松本

 

修 自 杉山

  

高瀬

 

要一 本中

  

真 館野

 

和 巳 毛利光俊彦 島田

 

敏男 島田

 

敏男 森本

  

晋 上野

 

邦一 小沢

  

毅 金子

 

裕之 巽

 

淳一郎 寺崎

 

保広 金子

 

裕之 巽

 

淳一郎 寺崎

 

保広 松本

 

修 自 金子

 

裕之 渡辺

 

晃宏 浅川

 

滋男

奈良市都市計画道路 奈良市都市計画道路 積水美術館 奈良県整備 永井宏 昌宅 城本幸一宅 塔頭施設

筆壱郭き識環乾山確認) 中川寿夫(中世沼)

山中茂宅(地山確認)

米沢アキ子宅(地山確認)

小川又次宅 新塔予定地 奈良市下水道(地山確認)

岸本設計 宮前義夫宅 藤田裕太郎宅(近世沼)

墨運堂 塚本忠一宅 西里 ビル 大橋 ビル

奈良市都市計画道路 表7 1991年度平城京・ 京内寺院発掘調査一覧  (*は末収録)

調査次数 調 査 地 区 地 区 名 面積lrl 調査期間 調査担当者   法隆寺境内

法隆寺境内

6BHU 6BHR

600 2,800

4. 2‑ 6.28 6.11〜

小沢

 

毅他 島田敏男他

若草伽藍跡 百済観音堂 表8 1991年度法隆寺発掘調査一覧

―‑ 55 ‑―

(3)

東院南方遺跡 の調査   

223‑9次

は じめ に

駐 車 場 の造 成 に伴 い、左 京二 条 二坊 五 坪 の北 端付近 で、事 前 の発掘調査 を実 施 した。調 査地 は東 院南方遺跡 にあた るが、 この周辺 は、近年 のデパ ー ト建 設 お よ び駐 車 場造 成 な ど、開発 と調査 の進展 が著 しい地域 で あ る。今 回 の調査 区 の北 東 の隣接地 にお いて も、1989年 に第202‑9次調査 を行 って い る (注 1)。

調 査 に さい して は、重機 で耕土 e床土 を除去 したが、 そ の直下 にお いて奈 良 時 代 の遺 構 を検 出 した ので、以下 は人 力 掘 削 に よ った。 遺 構 面 は3面 にお よ び、 い ず れ も奈 良 時代 で あ る。 そ の た め、逐次各遺構面 にお け る精査 と遺構掘削 を繰 り 返 す こ と とな った。平 城 京 の宅地 と して は、遺構 を層位 的 に把握 し、調査 しえ た

とい う点 で、稀有 な例 に属 す る。

  

調 査 区 の基 本 的 な層 序 は、水 田耕 土・ 床 土 の下 に多 量 の遺 物 を含 む厚 さ5〜15

clllの灰 褐色 砂 質 土 (遺物包 含 層

)が

あ り、 そ の下 に第1〜第 3遺 構 面 が あ る。 第

(―

図33 第223‑9次 調査位置図 (1/5000)

(4)

H=61,00m Y‑17,858

+ 調査区北壁

調査区東壁(南)

H=61.00m X‑145,905 X‑145,908

1灰黒色砂質i(耕)      0暗 灰 偶色砂質二十砂礫+炭(S K 5601埋 ■)  16 1tIX色砂質 上十黄灰色粘 i(S B 5600柱 棚形)  a ltt白色微砂 (地 山)

2決灰累色砂質上 (旧 耕 土)         10茶 灰色粘質■       1711f茶 鶴色砂 質■+黄灰 色tl上 (S B 5600柱 抜凛穴)b貫灰色粧 ■ (地 山)

3燈褐色砂質土      H茶 灰 色砂質上       IS暗 灰 色粘質■■賛灰色構 土(S A55つ3柱 棚形)  C浜 黄灰 色細砂 (地 ぼ1)

4灰絹色砂質上 遺物 多 じ       12灰 貰鶴色枯■質      le暗 灰色粘質上十女灰色績■ (S A 5503'掘 形)  d医 白色枯 上 (地 山)

5灰褐色粘質■      i3時 4・褥 色砂rFli+少工の資灰色枯■     20灰 黒と粘質と(S A 5Se3柱 抜取大)       e灰 黒色粘,(地)

6灰色砂 (S D S596理 ■)       プ ロ ンク(整 地■)       21貨 灰 色構二十暗茶掛色砂質 i(S A 5592柱 掘形) f緑 灰色混砂粘I(地) 7晴灰稲色砂質■ (S D 5596理 主)      14灰 色砂      22暗 tfl色砂 質二十灰 米色粘TFl上(柱堀形)    g灰 色│IN(地 山)

8灰質偶色砂質■■蛍灰色枯■ (S K5601理 ■)15晴灰色砂Iti+獄灰色枯i(S D 5598理 ■) 23責 灰ヒ格二十囃灰 色猫賓■(柱 朗杉)

図34 第223‑9次 調査三分土層図 (1/50)

3遺構面 は、灰 白〜黄 白色微砂 な い し黄灰 色 粘 上 の地 山面 で あ る。 この上 に は、

少量 の黄灰色粘土 ブロ ックを含 む厚 さ20om前後 の暗茶褐色砂質土 (整地上

)が

置 かれ る。その上面 が第2遺構面 で あ る。柱掘形 には、第2遺構 面 と第3遺構 面 か ら それぞれ掘 り込 まれた ものがあ り、層位的に区別 す る ことが で きる。第2遺 構面 の上 には、あわせて厚 さ10cm内外 の茶灰色砂質土 。茶灰色粘質土・ 灰黄褐色 粘 質 上 が認 め られ るが、 いずれ も調査区全体 には及 ばない。数層 に分 れ ることと、 こ の上面 (第1遺構面

)に

お ける遺構が稀薄であることを勘 案 す れ ば、造営 にか か わ る整地上で はない可能性 が高 い。遺構面 の標高 は、第1遺構 面 が約60.5m、2 遺構面 が約60.35m、 第3遺構面 (地山面

)が

60.15m前 後 であ る。

SB5600 

調査 区南部 で検 出 した、一辺 1.5mに お よぶ大 型 の柱 掘 形 を もつ建 物 。 坪 の中軸線上 に位 置す る。柱間 は10尺等 間で、東西・ 南北 と も2間以上 で あ るが、

西南 の柱掘形 は他 に比 べて小振 りで浅 い。そ こで これを妻 柱 とみて、坪 の中軸 線 を軸 に折 り返 した2間の東西棟 を想定 してお く。柱 は全 て抜 き取 られて お り、

いずれの抜取穴 の中に も、薄 や平瓦 が遺棄 されて いた。 なお断 ち割 りを行 った

―‑ 57 ‑―

(5)

Y‑17,850

▲ 員

223‑9次調査 1遺構面

YT,翌

堵 縄 逢召亀

S B 5591 S A 5594

X‑145,900 SD

S B 5590

0       5m

S A 5593

X‑145,910

S A 5592

図35 第223‑9次調査遺構図 (1/200)

Y‑17,859

H    5二

A淡灰 色41■+灰累色格Fti+黄灰色格■ (S B 5600柱掘 形)

B暗質出色4歯質二 十暗灰色油土 (S B 5000柱 抜凛 穴)

C灰黒色4古+灰黒色砂質■+淡灰色格i(S B 5600柱抜取穴)

D灰黒色砂 質■ (S B 5590柱 妍形)

E暗灰色粘質■ (S B55つ O柱 抜取 六) a〜 fは 回イ参llH) 0

36 SB5600柱穴 。礎板実測図 (1/50)

X‑145,890

= 陥 卜 F

︐ 等 触

S X 5603 S D 5596

X‑145,905

(6)

3柱穴 において は、 いずれ も角材 (転用材

)の

礎 板 の使 用 を確 認 した。 柱 径 も大 き く、抜取穴下部 の収束状況か ら推定 され る直径 は30cmに近 い。柱掘形・ 抜 取 穴 ともに第2遺構面 か ら掘 りこまれて い る。

SB5590 

西南部 で検 出 した南北3間の建物。東西 は1間のみの検 出であるが、3× 2 間の南北棟 で あろ う。柱 間 は7尺等 間であ る。柱 は全 て抜 き取 られ て い る。 柱 径 約24cm。 柱掘形 は第2遺構面 か ら掘 られてお り、SB5600を 切 る。

SB5591 西北部 の東西棟建物。身舎東 南 隅 の柱 とそれ に対 応 す る南 廂 の柱 を検 出 した。廂 の出 は8尺で あ る。身舎柱 は抜 き取 られて お り、柱径 は24cm前 後 で あ

る。廂柱 の径 は14cm前後。第3遺構面 か ら掘 り込 まれて い る。

SA5592 

東壁沿 いで検 出 した南北方 向の柱 列。3間分 を確認 した。 柱 間 は9尺 等 間、柱径 は約17cmであ る。建物 となる可能性 もあるが、北東 に隣接す る第

202‑9

次調査区で は対応す る柱 が認 め られない。坪 の ほぼ中軸線 の位置 に該 当す ること とあわせて、坪 を東西 に2分す る塀 と考 え るのが妥 当だ ろ う。第2遺構面 の遺構。

SA5593 SA5592の東 を並行 す る南北方 向の柱列。同様 の理 由か ら塀 と考 えて お く。第3遺構面 の遺構 で、SA5592に 先 行 す る類 似 の施 設 で あ ろ う。2間分 を確 認 した。柱間 は7尺等間で あ る。SB5600の 柱掘形 によ って切 られ る。

SA5594 

西北部 で検 出 した東西方 向の住列。柱間 は7尺で、柱位 置 がSB5590と 対 応す る ことか ら、それ と関係 す る もので あろ う。第2遺構面 の遺構。

SA5595 

中央部東寄 りで検 出 した東西塀。東側 の柱穴 は東壁 にかか る。 柱 間 は8 尺 で、 ち ょうど中軸線 を また ぐ形 で設 け られてい る。第2遺構面 の遺構。

SD5596 

西壁沿 いの南北溝。第1遺構面 か ら掘 りこまれて い る。

SD5597 SD5596の西側 の南北溝。SB5600の 柱掘形 によ り切 られ る。第3遺構面。

SD5598 

東北部 で検 出 した南北溝 で、SA5598よ り新 しい。第2遺構面 の遺構。

SD5599 

中央部 で検 出 した東西溝。第2遺構面 の遺構 であ る。SB5600の 北 側 柱 列 の北1.5m(5尺

)を

並行 してお り、雨落溝 と考 え られ る。

SK5601 

北半 の中央 にあ る土坑。南北7.lm以 上、東西2.2mの 規 模 を有 す る。 深 さは20〜25cmであ る。第1遺構面 か ら掘 り込 まれ て お り、 埋 土 は大 き く上層・ 下

一‑ 59 ‑―

(7)

層 に分 れ る。下 層 か らは木炭 を交 えて多量 の須恵 器・ 土 師器 が 出土 した。

SX5602・

SX5603 

東 北 お よ び東 南部 で検 出 した焼 け穴 。 径 13〜20cmの くぼ み に 多量 の木 炭 が詰 ま る。検 出面 か らの深 さは4cmで あ る。 周 囲 に は径 30〜40cmにわ た り、火 熱 に よ る赤変 が認 め られ る。第1遺構 面 の遺 構 で あ るが、時期 は不 明。

遺 構 変 遷

 

奈良 時代 の初 頭 に朔 る遺 構 は、第3遺構 面 か ら掘 り込 ま れ たSB5591 お よびSA5593と SD5597であ ろ う。SA5593は坪 の中軸線 に ほぼ合 致 す るが 、 坪 を 東 西 の宅地 に分割 す る施 設 で はな く、宅地 内 の区画施設 と考 えて お きたい。

層 位 や重 複 関係 の上 か ら、 これ らに後続 す る時期 と想 定 され る の が 、 第 2遺 構 面 のSB5600 0 SD5599で あ る。柱位 置 は対 応 しな いが、SA5595も併 存 を想 定 し う

る。 中軸線 上 に位 置 す る点 か ら、・

少 な くと も坪 の東 西 に関 して は一 体 と して使 用 され た こ とが確 実 で あ る。1町また はそれ以上 の宅地 で あ ろ う。 大 が か りな整 地 を行 った うえ に造 営 されてお り、前代 に くらべて大規模 な区画 の改変 が あ った こ とは間違 いな い。廃絶年代 につ いて は、SA5595の 柱 抜 取 穴 か ら曲線 顎 Ⅱの軒 平 瓦6663Cが出土 した こ とか ら、奈 良 時代 後半 とみ られ る。

これ らに後 出す るのがSB5590。 SA5594であ り、SA5592・ SD5598も この 時期 に お くこ とが で き る。 いず れ も第2遺構 面 の遺構 で、 層 位 的 に は前 代 の もの と区 別 で きな い。 中軸線上 の建 物 は廃 されて塀 に変 わ り、奈良 時代 初頭 と近 い様相 を示 す。SB5590。 SA5594を切 る土坑SK5601と SD5596は 、 第1遺構 面 か ら掘 り込 ま れ

図37 第223‑9次 調査出土軒瓦

(1/4)

(8)

て いるが、奈良時代 の末 に属す るものであろ う。なお、 この他 にまとま りをつか みえない柱穴がい くつかあ り、時期区分 の数 はさ らにふえ る可能性 が高 い。

3遺  

奈良時代 の遺物が ほとん どで、包 含 層 お よびSK5601か らの 出上 が多 い。軒 丸 瓦 は6316Dが2点、軒平瓦 は6663 C l点、6685A2点、

6754B(新

)1点

の ほか、

型式不明の新種1点があ る。丸瓦319点25。lkg。 平瓦1143点115。2kgと、 軒 瓦以 外 の 出土量 も多 く、 また埓が22点 (33.3kg)出 上 して い るのが 目を引 く。 瓦 の数 量 が 多 いの は、調査 区のす ぐ北側 に想定 され る門や築地 との関係 によるものであろう。

須恵器・ 土 師器 は、 あわせて5箱が出土 している。

左京二条二坊五坪周囲の条坊復原

今 回調査 した五坪 は、南 が二条大路、北 が二条条 間南小路 に面 し、西 を東 二 坊 坊間西小路、東 を東二坊坊間路 によ って画 され る。 これ らの条坊道路 は、 いず れ も過去 に発掘調査が行われてお り、その成果か ら当該坪 の四至 を復元 してお きた い。同時 に、作業 の過程で生 じた問題点 につ いて も述べ ることとす る。

二条大路

 

二条大路 につ いて は、平城宮南面大垣 か ら70大(84尺

)南

に条坊計 画線 があ り、その35大尺 (42尺

)北

に北側溝心、70大尺南 に南側 溝 心 が置 か れ た ことが明 らかにされている (注2)。 つ ま り条坊計画線 は、側溝心 々間距離 を北 か ら1:2に内分 す る位置 にあた る。当該坪 の南 において も、南北両側溝 (I・ Ⅱ)

を検 出 しているが、北側溝 は数回 にわた る改修が行 われてお り、複雑 な様相 を示 す。そのため当初 の北側溝心 につ いて は確定 しがたい部分 があ るが、側溝心 々間 距離 で ほぼ38.25mと 計測す ることがで きる。 これ は壬 生 門付 近 の道 路 遺 構 か ら 復元 された37.31m(lo5大尺=126尺

)に

くらべ ると若干大 きい。側溝幅が狭 くと

られて いる ことに関連す ると考え られ るが、 この点 について は後述す る。

三条大路 の条坊計画線 は、 この距離 を北 か ら1:2に 内分す る点 (口

)と

、朱 雀 大路路心 の延長 線 上 で、 朱 雀 門心 (X‑145,994.49、 Y‑18,586.31)か ら70大尺 (24.86m)南の点 (イ )と を結んだ線 に求 めることがで きる。 国土座標系 に対 す る振れ は、7′ 01〃 で あ る。

‑61‑

(9)

図38 関連条坊図

(10)

条 坊 道 路  丹」

X座

標 Y  文 献 座標値 の典拠

I 二条大路 北側溝心 46,00500 7802 00 1 実測図

南側溝心 46.04325 7,802 00 1 実測図

東二坊坊間西小路 路心交点 46,150 15 791990 1 実測図

西側溝心 47.94000 7,91439 2 文献2

V 二条条間南小路 北側溝心 (― 45,87940) (― 744000) 文献 3の 図

(北側溝心) 45,87420 7,27600 文献 4の 図

東二条坊間路 西側溝心 4593800 779290 実測図

46,254563 7,791 583 文献6

4673600 7789 34 7 文献7

X 東側溝心 46,67500 7.77985 文献8

西側溝心 4572871 779883 実測図

条 坊 道 路  

 

座 標 座 標 値 の 典 拠

二条大路 条坊計画線 ‑146,01935 8,58620 朱雀F聯ぷよ り算 出

‑146,01775 7,80200 IとⅡの中点 東二坊坊間西小路 ‑147,94000 791084 Ⅳ の東355m

二条条間南小路 (‑145,877226) (― 7,257787) 文献 4の 推定

東二坊坊間路 ‑146,675 00 778473 Ⅶ ―Ⅸ とXの中点

‑146,254563 7,786637 文献6

‑145,93800 778802 の東488m

条坊計画線 ‑145,72871 7,78640 XIの東1243m

‑145,72871 7 78895 ホ〜 卜の延長

関連条坊座標一覧表

 

1 本中

 

真「道路 と敷地」(奈良国立文化財研究所編『平城京長屋王邸宅 と木簡』吉川弘文館)1991年

森下恵介「平城京左京六条二坊三坪発掘調査報告」 (奈良市教育委員会『 奈良市埋蔵文化財調 査報 告 書

 

昭和56年度』)1982年

奈良国立文化財研究所「左京二条三坊三坪 の調査

 

第156‑18次 」 (『昭和59年度平城宮跡発掘調 査 部発掘調査概報』)1985年

浅川滋男「左京二条三坊六坪の調査

 

215‑1次(奈良国立文化財研究所『1990年度平城宮跡発 掘 調査部発掘調査概報』)1991年

寺障保広「左京二条二坊五坪調査 (2)第223‑13次(本書所収)1992年

奈良国立文化財研究所「左京三条二坊七坪 の調査 (第118‑23次)」 (『昭和54年度平城宮跡発掘 調 査部発掘調査概報』)1980年

立石堅志「平城京左京四条二坊七坪の調査」 (奈良市教育委員会『奈良市埋蔵文化財調査報告書

 

昭 和59年度』)1985年

鐘方正織「平城京左京四条二坊々間路の調査

 

133次(奈良市教育委員会『奈良市埋蔵文 化財 調 査概要報告書

 

昭和62年度』)1988年

阿部義平「第44次調査」 (『奈良国立文化財研究所年報1968』 )1968年

―‑ 63 ‑一

(11)

対 してかな り北 に偏 して いる。か りに、東二坊坊間西小路 の推定路心上 で

Aの

北 133.2mの 位置 に二条条間南小路 の路心

(B)を

想 定 す る と、両 者 を結 ぶ 直線 の 振 れ は39′ 12〃 と過大 となる。第215‑1次調 査 で北側溝 とされ た溝

(SD03)は

、 東三坊坊 間路西側溝 に接続 せず その手前 で とぎれてお り、築地 の西雨落溝 にあて

うる南北溝 (SD05)と

L字

形 に接続 す るな ど、道 路側 溝 と して は不 自然 な点 が あ る。調査区の南端 における検 出で、以南 の状況 が不明であることを考 えあわせ れば、築地 の北雨落溝 である可能性 も想定 されよ う。よ って、 これを三条条 間南 小路 の北側溝 と確定す るには慎重 にな らざ るをえない。

ちなみ に、道路側溝 の内側 に並行 し、築地雨落溝 にあて うる溝 を検 出 した例 は い くつかある。 これ らの溝 と道路側溝 との心 々間距離 は、左京四条二坊七坪 で は

3.6〜3.9m(13尺

)(注

3)、 左京八条三坊十一坪 (東市推定地

)で 3.9m(注

4)、

左京六条二坊十坪 の例 で

3.2m(注

5)、 左京 (外

)三

条 五 坊 四坪 が4.4mで ぁ る (注 6)。 そ こで、第215‑1次調査 のSD03の南3.9mに側 溝心 、 そ こか ら10大 尺 (3.55m)南に路心 を仮定す ると、 これ と先述 のBを結 ぶ 直線 の振 れ は、16′

44″ とな る。 この値 は、朱雀大路 の振 れ (15/41″

)を

は じめ東二坊 坊 間路 や後 述 の東二坊坊間路西側溝 の振れに近 く、上記 の想定 が無理 でない ことを示す もの

とみ られ る。

以上 のよ うに、二条条間南小路 の位置 と振 れについて は資料 的 に問題 が あ り、

確定 しが たい。そ こで、 ここで は先述 の推定路心

(B)を

基点 と して、二 条大 路 条坊計画線 の振 れ と同 じ振 れを想定 してお く。幅員 につ いて は、側溝心 々間距 離 で20大尺 (24尺)と みてお きたい。

東二坊坊 間路

 

西側溝・ 東側溝 ともに検 出例 があ るが、二条条間南小路 を境 に幅 員 が変更 されてい るとみ られ、複雑 な様相 を呈す る。

まず二条条間南小路以南で は、今回の調査地である左 京 二条二 坊五 坪 を含 み、

かな りの長 さにわた って西側溝 が検 出 されて いる (Ⅶ・ Ⅷ・ Ⅸ)。 この振 れ は、

15′ 20〃 前後 の安定 した数値 を示す。また左京四条二坊 で は東側溝 を検 出 して お り(X)、 これに近 い西側溝検 出例 (Ⅸ

)か

ら、当該部分 における路心 (ホ

)を

(12)

定す る ことがで きる。 この場合、西側溝 の振 れを用 いて修正 した幅員 (側溝 心 々 間距離

)は

、9.76mと な る。 これ は、25大(30尺

)と

復 元 しうる可 能 性 が あ る が、厳密 には大尺・ 小尺 のいずれによって も完好 な値 とな らない。 しか し、三条 大路 を隔てた左京三条二坊 の調査地 において、東二坊坊 間西・ 東小路路心 の中点 か ら求 めた東二坊坊間路 の推定路心 (へ

)と

西側溝心 (Ⅷ

)の

間隔 は

4.9m(文

献 6)と されて いる。つ ま り、左京三条二坊・ 四条二坊 の いず れ にお いて も、東二 坊坊 間路 の幅員 は約9.8mで ぁ ることにな る。 そ こで、二 条 条 間南 小路 以 南 の道 路幅員 は一定 で あ った とみて、Ⅶ の東4.88mに 路心 (卜

)を

想定 してお く。 また、

ホー トを結ぶ直線 と二条大路条坊計画線 の交点 をD、 Bを基点 とす る三条条間南 小路推定路心 との交点 をCとす る。

一方、平城宮東院東面大垣 に接す る部分 で は、第44次調査 によ り西側溝 が検 出 されて い る。側溝心 (

)は

、東面大垣隅心 (X‑145,728.71、 Y‑17,811.13)の 12.30m東 にある。 この距離 は35大尺 (42尺、復 元 値 は12.43m)と み られ るが、

東院東面大垣心 は、東二坊坊 間路 の条坊計画線 か ら70尺大 尺 西 と想 定 され る(注

7)の

で、西側溝心 の東35大尺 の位置 に条坊計画線 を求 め ることがで きる (チ)。

なお西側溝 は、二条条間大路 を横切 って南へ貫流 しているが、交差点以南 にお い て もそのまま延 びているので、少 な くともこの部分で は幅員 は広 いままで あ る。

二条二坊五坪 で は西側溝が東へ寄 るが、その幅員 の変更 はおそ らく二条条間南小 路 との交差点 で なされてい るのであろ う。

ところで、 このよ うに平城宮周辺で推定 した東二坊坊間路条坊計画線 (チ)と、 二条大路 の南で得 られた路心 (ホ

)を

結 ぶ直線 は、6′ 04″ の振 れ を もつ。 この 値 は、発掘 で得 られた西側溝 の振 れ (15ア 20″

)に

くらべてか な り小 さい。 そ の ため これを条坊計画線 とす ると、東二坊坊間路 の幅員 は、二条条間南小路以 南 に おいて も、北へ行 くに したが って広が っていることにな る。一方、幅員 を一定 と して西側溝 のデータか ら求 めた推定路心 を北 に延伸す ると、東院東南で は条坊計 画線 か ら西 に2.55mの ずれを生 じる (り )。 したが って、上記 の復元 に は、座 標 値 を含 めて どこか に問題 が あ るもの と思 われ る。 しか し、東二坊坊 間路 の幅員 が

‑65‑

(13)

I■

=Ⅲ1:■,と■I:

彗章苺韓=毎4:

―――――B

1甲

靱下︱ ︱ 誼 ︱

r l l l ド

193次 B198次C

X        Y C ‑145,884.52 ‑17,77826 D ‑146,01772 ‑17,787.66

X        Y A ‑146,017,99 ‑17,920.57 B ‑145,884.79 ‑17,921.24

図39 左京二条二坊五坪四周の条坊復原 (1/2000)斜体大尺 ( )打

漸 次 広 が って い る とは考 え が た く、 ここで は発 掘 で得 られ た側 溝 の位 置 と幅員 に 関 す る直接 的 な知 見 を尊 重 し、前記 の キ ーケを結 ぶ 直線 を条坊計画線 と見てお く。

以上 の作 業 に よ り復 原 され た左 京二 条 二 坊 五坪 の四至 を図39に示 す。二 条 大 路 と二 条 条 間南小 路 の条 坊 計 画線 間 の距離 は133.20mと仮 定 したが、 東 二 坊 坊 間 西 小 路 と東二 坊 坊 間路 の間隔 は、坪 の北 辺 で132.98m、 南 辺 で132.91mと 近 似 した 値 を示 す。 なお、対辺 側溝 心 々間距 離 は、 北 辺 が124.55m、 南 辺 が124.48mと な

り、東 辺 と西辺 は これ に比 べ116.90mと短 い。

(話

(14)

二 条大 路 の幅員 につ いて

三 条大 路 の幅員 につ いて は、平城宮南面 にお け る第32次・ 第 122次 調 査 な どの 成 果 によ り、側 溝 間心 々間距離 で105大 尺 (復原 値37.31m)と さ れ て い る。 と こ ろが前節 で述 べ た よ うに、左 京 二条 二坊五坪南辺 で は側溝 の幅 自体 がやや狭 くな っ て お り、心 々間距 離 も38.25m前後 で あ る。 この場 所 で は と くに北 側 溝 が何 回 か 掘 り直 され て い るが、新 しい時期 の北 側溝 は南岸 が北 に寄 って い るた め、心 々 間 距 離 はさ らに広 が り、39,Omほ ど とな る。 したが って、実 際 に は これ らを す べ て 105大 尺 と見 るの は難 しい と思 われ る。

一 方、東 二 坊 坊 間路 の東 側 で は、二 条 大 路 の両 側 溝 は と もに幅が広 が ってお り、

路 面 幅 お よ び心 々間 距離 は狭 くな る (注 8)。 後 者 につ いて は、90大 尺 (108尺)

とみ る見解 が示 され て い る (注 9)。

しか しなが ら、前 記 の事 例 とあわせ て別 の視 点 か らみ る と、二 条大 路 の北 側 溝 の北 肩 (岸

)と

南 側 溝 の南 肩 (岸

)は

、 それ ぞれ東 西 に揃 って い る こ とが 注 目 さ れ る。 これ は、北 側 溝 で は何度 か の掘 り直 しを通 じて認 め られ る特徴 で あ る。 ま た南 側溝 は、東 二 坊 坊 間路 以 西 で は調 査地 点 に よ り幅員 が一 定 しないが、 この場 合 も南肩 は ほぼ一 直線 に通 って い る。 したが って、側 溝 心 々間距 離 で は場 所 に よ り異 な った数 値 を示 す もの の、北 側溝 北 肩 と南 側 溝 南 肩 の 間隔 は、 約41.Omと ほ ぼ一 定 して い る。 そ して こ う した状況 は、東 二 坊 坊 間路 を隔 て た東側 にお い て も 変 わ らな い。 つ ま り、二 条 大 路 の北 側 溝 は当初 の 幅6.Om以上 、 南 側 溝 は幅8.7m

と広 くな って い るが、北 側 溝 の北肩 と南側 溝 の南 肩 は、 そ れ ぞれ東二 坊 坊 間 路 以 西 と一 直線 に通 って い る。

以 上 の点 か らみ る と、 当該地 付近 にお け る二 条 大 路 の側 溝 の位 置 は、北 側 溝 北 肩・ 南側 溝 南 肩 を東 西 に一 直線 に通 す か た ちで決 め られ た可能 性 が高 い と思 われ る。 これ は、条 坊 設 定 の基 準 が心 々間距離 で はなか った こ とを意 味す る もの で は な い。少 な くと も平 城宮 南辺 において は、前記 の よ うに大 尺 を用 いた心 々間距 離 に よ る設 定 が行 わ れ て い るが、 それを延 伸 す る場 合 は側 溝 の肩 を延長 す る とい う 方 法 が と られ た場 合 が あ った ことが想 像 され るので あ る。

―‑ 67 ‑―

(15)

また、道 路 側 溝 が実 際 に都 市 の排 水体 系 と して機 能 した以 上 、交 差点 を境 と し て側 溝 が拡 幅・ 縮 小 され る ことは当然 あ りえ た。 その際 に、側溝 の肩 は計画 心 か

ら両 側 に振 り分 け るの で はな く、宅地 側 の肩 はそ の ま ま延 長 して、路面 側 の肩 の 位 置 を変 え る こ とに よ り側 溝 幅 を変 更 した可 能 性 が あ る。東 二 坊 坊 間路 を境 と し て三 条大路 の幅員 が変 化 す るの も、 これ に相 当す る もので あ ろ う。つ ま り、 坊 間 路 以 東 で心 々間距 離 が まず 105大 尺 か ら90大 尺 に減 じ られ 、 そ れ に応 じて 側 溝 が 設 定 され た ので はなか ろ う。

な お この よ うな想 定 は、大量 の木簡 を出土 した二 条 大路 路面 上 の大溝SD5100・

SD5300・ SD5310の あ り方 につ い て も示 唆 を与 え る。 少 な く と も これ らの溝 は、

東 二 坊坊 間路 以 東 の二 条 大 路 両 側 溝 の幅 の中 にお さ ま って お り、 それ との比 較 の 上 で は、路 面上 に張 り出す もので はなか った ので あ る。

一 般 に条坊 の設 定 は、施 工 は別 とす れ ば、複 数 の基 点 にお け る距離 測 定 一位 置 決 定 と、 そ の延 長 とい う二 つ の工程 か らな る と考 え られ る。 この両 者 は本 来 区 別 され る性 質 の もので あ ろ う。 そ して、後 者 が側 溝 の肩 の延 長 とい う形 で な され る 場 合 が あ った とす れ ば、側 溝 幅 の変 更 に よ り、心 々間 距 離 も変化 す ることにな る。

道 路 幅員 が側 溝 心 々間距 離 で完好 な数値 とな らな い事 例 は、 この表 れで はな い だ ろ うか。 もち ろん、 こ う した具体 的 な復 元 を行 うた め に も、今 後 の資料 的 蓄 積 と よ り厳密 な検 討 が不 可 欠 で あ る ことは言 うまで もな い。 (小沢

 

)

(1)浅川滋男「左京二条二坊五坪北辺の調査

 

第202‑9次 」 (奈良国立文化財研究所『1989年度平城 宮跡発掘調査部発掘調査概報』)1990年 。

井上和人「古代都城制地割再考」 (『研究論集Ⅶ』)1985年 。

奈良美穂・ 篠原豊―「平城京左京四条二坊七坪 の調査」 (奈良市教育委員会『 奈良市埋蔵文化財 調査報告書

 

昭和58年度』)1984年 および文献7。

奈良市教育委員会『平城京東市跡推定地の調査 Ⅱ

 

4次発掘調査概報』1984年

篠原豊―「平城京左京六条二坊九・ 十坪の調査」 (奈良市教育委員会『 奈良市埋蔵文化財調査報 告書

 

昭和58年度』)1984年

西崎卓哉「平城京左京 (外京)三条五坊四坪 の調査J(奈良市教育委員会 『 奈良市埋蔵文化財調 査報告書

 

昭和59年度』)1985年

(7)註(2)に同 じ。

(8)奈良市教育委員会『平城京左京二条二坊十二坪

 

奈良市水道局庁舎建設地発掘調査概要報告』

1984年

(9)井上和人「都城の定型化」 (『季刊考古学』第22号)1988年

(16)

左京二条二坊 々間路西側溝 の調査   

223‑13次

店 舗 建設 に伴 い実 施 した もので、左 京二 条 二 坊 五 坪 の東 辺 を限 る東 二 坊 坊 間 路 西 側 溝 の調 査 で あ る。 これ まで に行 われ た同溝 の調 査 は、五 坪 東 辺 に限 って い え ば、北 か ら第 123‑27次,202‑13次,198次―B調査 の三 ケ所 で あ る。 今 回 の発 掘 区 は第 123‑27次 と重 複 し、 同発 掘 区 を含 め全 長19mにわ た つて溝 の 部 分 を対 象 と し、 溝 の状況 の確認 と遺 物 の取 り上 げを行 った。発掘面積 は約80r、 で あ る。

基 本 的 な層 序 は上 か ら耕 土 (40cm)、 木 土

(25cm)の

下 に黄 褐 土 と暗 灰 粘 土 の2層の遺 物包含 層 が約20cmずつ あ り、その下 が遺構面 とな る。

検 出 した遺 構 は東 二 坊 坊 間路 西 側溝SD5021と 、 これ に西 か ら流 入 す る2条

東 西 溝 (SD5608,SD5609)で あ る。SD5021は溝 幅3m、 深 さが70cmで 、 そ の土 層 は上 か ら① 暗褐 粘 質 土 、② 灰 色 砂 土 、③ 砂混 り暗灰 粘 質 土 、④砂 混 り暗灰 土 、 ⑤ 暗灰 粘上 の5層に分 か れ る。最 上 層 ① が埋 土 で、 そ の下 の4層が堆積 土 と判 断 し た。SD5021の堆 積 土 は これ まで3層に大 別 され て い るが 、 そ れ に対 応 させ る と す れ ば、② と③ を上 層 、④ を中層 、⑤ を下 層 と見 て お く。発 掘 区 中央 付 近 の溝 西 岸 に杭 が五 本残 って お り、護 岸 に用 い たので あ ろ う。

東 西溝SD5608は、溝 幅1.2m、 深 さ0.6mで、sD5021へ の流 入部付近 に2本の杭 が残 って い る。SD5609は 幅0.5m、 深 さ

04mで

ぁ る。 この2条の東西 溝 がSD5021 の どの層 と対 応 す るのか は、判 然 と しな い。

遺 物 と して は、木 簡 49点 の ほか に、15点が 目立 ち、 軒 瓦 7点 、 破 片 で あ るが 緑 釉 戻 斗 瓦 と三彩 平 瓦 な どが あ る。年代 を示 す もの と して木 簡 を三 点掲 げ る。

1(表)薄 鰻升「四斤 調 物

(裏)宝 亀 □ □[四年 力]料

       149・

23・1031

2安

房 国安 房 郡 廣 淵 郷 沙 田里神麻 部

[ ]     (172)。

22・

6039 3伊

予 郡 石 田里 □ □ □[薗部 臣 力]□

         123・

21・

3033

1は上層 か ら出上 し、2は郷 里 制 の 時 期 (715‑740年 )、 3は里 制 の 時 期 (701‑

715年

)の

もので と もに下 層 か ら出上 した。

       (寺

崎保広)

―‑ 69 ‑―

(17)

S D5608

S D5609

第123‑27次 発堀 区

‑   950

I

図49第223‑20次遺構図 (1/15の

図41 発掘区北壁断面図 (1ノ/40)

H=59.50

(18)

8  田村第推定地 の調査

223‑20次

図42 田村第推定地近辺の調査

は じめ に

この調査 は、 ビル建設 に伴 う事 前 調 査 で あ る。調 査 地 は、藤原 仲 麻 呂 の邸宅 田村第 の故地 と推 定 されて い る左 京 四条二坊 九 〜十 六 坪 の八 つ の 坪 の うち、北東 隅 の十 六 坪 の南 端 中 央部 にあた る。

 

田村 第推 定 地 で は これ まで数 回 にわ た って発 掘調 査 が 行 われ て お り、同 じ十六 坪 の南 西 部 (今回 の調 査 地 の西 に接 す る水 田) で は密度 の高 い遺構 を、 また十 六 坪 北 端 で も小規 模 な建 物 、井 戸 な ど を 検 出 して い る。一 方 十 五坪 にお け る 調 査 で は、大 規 模 な礎 石 建 物 を検 出 して お り、既 に報 告書 が刊 行 され て い る (『平 城 京 左 京 四条 二 坊 十 五 坪

1 奈良市教育委員会、1987年調査(第133次)(『奈良市埋蔵文化財調査概要報告書』昭和62年度、1988年)

奈良市教育委員会、1984年調査 (『奈良市埋蔵文化財調査報告書』昭和59年度、1985年)

奈良市教育委員会、1984年調査 (『奈良市埋蔵文化財調査報告書』昭和58年度、1984年)

奈良市教育委員会、1983年調査 (『奈良市埋蔵文化財調査報告書』昭和58年度、1984年)

橿原考古学研究所、1975年調査 (『平城京左京三条二坊十三坪』、1975年)

奈良市教育委員会、1987年調査(第136次)(『奈良市埋蔵文化財調査概要報告書』昭和62年度、1988年)

奈良市教育委員会、1983年 (『奈良市埋蔵文化財調査報告書』昭和58年度、1984年)

奈良国立文化財研究所、1977年調査(第105次 X『昭和52年度平城宮跡発掘調査部発掘調査概判 、1987年)

奈良国立文化財研究所、1982年調査 (第145次 (『平城京左京四条二坊十五坪発掘報告 ―藤原仲麻 呂 田村第推定地の調査』、1985年)

10 奈良国立文化財研究所、1984年調査 (第193‑6次)(昭和63年度平城宮跡発掘調査部発掘調査概報』 、 1989年)

11 奈良国立文化財研究所、1984年調査 (第1568次)(平城京左京四条二坊十五坪発掘報告 ―藤原仲麻 呂

 

田村第推定地の調査』、1985年)

12 奈良国立文化財研究所、1980年調査 (第123̲6次)

‑71‑

(19)

発掘報告 ―藤原仲麻 呂 田村第推定地 の調査』、1985年。以下、『田村第』と略記)。

田村第推定地 の南半 は、既 に未調査 のまま住宅団地 と化 してお り、北半 も開発 の 及 んで いない地域 は限 られて い る。今回の調査地 は、その中で水 田 と して残 され て きたわずかな場所 の一つである。

調査 は1992年1月10日 に開始 し、2月 20日 に終了 した。調査面 積 は北調査 区約

400nf、 及 び十五・ 十六坪坪境 の四条条間小路北側溝 の検 出を 目的 と した南調 査 区約25nfであ る。以下、単 に調査区 といえば北調査区を指す もの とす る。

基本層序

調査地 の基本 的な層序 は次 の通 りである。上 か ら順 に、黒色腐植土層 (水田耕 土)20〜30cm、 青灰色粘質土層 (床土

)10〜

20cm、 青灰 色 砂 質 粘 土 層10〜200m、

灰褐色微砂層約10cm、 灰褐色粘土層10〜20cm、 灰色粘土層 (室町時代 の上 器 を含 む)20〜30cmと 続 き、現地表面 か ら80〜100cmで 奈良 時代 の整地層 で あ る茶褐色 粘質土層 (調査区西半 に広が る。厚 さ約10cm。 前述 の奈良市 の調査 で も確認 して いる)、 または地山の黄灰色粘土層 ない し灰色砂層 (砂層 は南調査 区で顕 著

)に

至 る。なお、調査区西半南部 には、茶褐色粘質土層 を切 る形 で土師器や炭 を含 む 茶灰褐色砂質粘土 による深 さ10〜20cmの整地 がみ られ る。

奈良時代 の遺構面 の直上 には室町時代 の遺物 を含む地層 が広 が り、奈良時代 の 遺物包含層 はほとん ど存在 しない。 また残存す る柱穴 の深 さか らみて も、奈良 時 代 の遺構 は東を南流す る佐保川 の決水 によ りやや削平 を受 けているもの と考え ら れ る。なお、遺構 は基本的 には整地土 を取 り除 いた地 山面で検 出 した。地 山面 の 標高 は概 ね58.9〜59,Omで ある。

遺構

遺構 は調査 区東部 と北西隅 に集中す る。換言すれば、十六坪 の東西中軸線 を挟 んで対称 の位置 に遺構が密 に分布 し、坪 の南辺中央部 は遺構が疎であるといえる。

検 出 した主 な遺構 は、建物14棟以上、塀3条、溝4条、井戸1基、土 坑5基、 石組 暗 渠1基な どである。一方南調査区で は、予想通 り四条条 間北小路北側溝 な どを検 出 した。

(20)

調 査 区 内 で完結 す る遺 構 が少 な く、遺 構 が集 中す る部分 が分 か れ るた め、 遺 構 相 互 の関係 を捉 え に く く、 また後 述 の よ うに遺 物 が少 な く時期 を お さえ に くい の で 、 まず遺 構 ごとに概要 を述 べ、次 節 で 時期変 遷 を簡 単 に整理 す る こ とにす る。

SB01 

調 査 区東 端部 で検 出 した掘 立 柱 南 北 棟 建 物 。 桁 行 4間 以 上 、 柱 間 約2.85m

(9.5尺

)等

間。梁 間2間、柱 間 は西 か ら約2.7m(9尺)、 約3.3m(11尺)。 さ ら に 調 査 区 の南 に延 び、南 妻 は未 検 出 で あ る。柱掘 形 は一辺70〜80cmの隅 丸 方 形 で 、 東 側 柱 の掘 形 はや や大 きい。現 存 深 さ は20〜40cmであ る。 東 側 柱 の北 か ら2番め

の柱穴 の底 か ら平 瓦 が数枚重 な った状 態 で 出土 し、礎盤 と して の機能 を果 た した もの と考 え られ る。 また、西 側 柱 の北 か ら2番め の柱 穴 掘 形 か ら平 城 宮 土 器 編 年 I〜Ⅱ (以下 、平 城 I〜Iのよ うに略記

)の

土 師器 高 杯 が 出土 した。SB02よ り古 い。

SB02 

調査 区東部 で検 出 した西庇付 掘立柱南北棟建物。桁行4間以上、柱 間約2.0

m(7尺 )等

間。梁間2間、柱間 は

2.Om(7尺 )等

間。庇 の出 は約

2.2m(7尺

5寸)。

さ らに調査区の北へ延 び、北妻 は未検 出であ る。建物 の軸が北でやや西 に触れ る。

柱掘形 は一辺40〜50cmの隅丸方形 で、現存深 さは30〜40cmであ る。SB01よ り新 し く、SB05・ SK09よ りもいヽ。

SB03 

調査 区南東端 で北妻 のみ検 出 した掘立柱建物。梁間2間で東 庇付 の南 北 棟 建物 と考 え られ る。柱間 は約

2.lm(7尺 )等

間。 庇 の 出 は約

1.8m(6尺

)。 柱 掘 形 は一辺40〜 50cmの隅丸方形 で あ るが、庇 の柱掘形 は一辺30〜 40cmと や や小 振 り で あ る。現存深 さは20〜 30cmと 浅 く、 柱 痕 跡 の残 る ものが多 い。SA06よ り新 し ヽヽ。

SB04 

調査 区南東端で一部 を検 出 した掘立柱建物。2間×3間の東西棟、 ない し梁 間2間で東 か西 に庇が付 く南北棟か と考 え られ る。柱間 は約2.Om等 間 (7尺 )。 柱 掘形 は一辺40〜50cmの隅丸方形 な い し矩形 でやや不揃 いである。現存深 さ は30〜

40cmで 、柱痕跡 を残す もの もあ る。

SB05 

調査 区北東端で3間分検 出 した掘立柱建物。SB02よ り新 しい。 東 西 棟 か 南 北棟 か は不 明。柱間 は約

2.4m(8尺 )等

間。柱掘形 は、南 北約80cm、 東 西 約 60cm

―‑ 73 ‑―

(21)

SB¶ S Btt S O司

S Bl S Bll S B14

︱︱ ミト 11

1技 14醐0

S X25

▲ 凩

X‑146,675

43 

9       ,       lPm

(22)

程度 の大 型 の隅丸 矩 形 で、現 存 深 さ は約 30cmで あ る。SB02よ り新 しい。

SA06 

調 査 区東 部 で検 出 した掘立 柱 南北 塀 。SB03よ り古 い。 柱 間 は約

2.65m(9

)等

間。柱 掘 形 は一 辺 40〜 50cmの 隅丸方 形 で、深 さ は20〜50cm、 柱 痕 跡 を残 す もの もあ る。 十 六 坪 の東 西 幅 を ほぼ7:5に内分 す る位 置 に相 当 し、 坪 内 を分 割 す る区画塀 の可 能 性 が あ る。十 六 坪 北 端 の奈 良 市 1987年 の調 査 区 まで は延 びな い。

SB07 

調 査 区東 端 で柱 穴 2基 を検 出 した掘立 柱 遺 構 。建 物 の南 西 隅 部 分 で 、 さ ら に調 査 区 の東 と北 へ延 び る もの と考 え られ る。柱 間 は約

3m(lo尺

)、 柱 掘 形 は 一 辺 約40cmの 隅丸 方 形 で、現 存 深 さは約 30cmで あ る。

SA08 

調 査 区北 端 で4間分 を検 出 した掘立 柱塀 。建 物 の南 側柱 列 の可 能 性 も残 る。

柱 間 は約

3m(lo尺 )等

間。掘形 は東 西50〜60om、 南北40om程度 の矩 形 を呈 す る。

現存 深 さ は30〜 50cmで 、柱 痕 跡 を残 す もの もあ る。本調 査 区 の中 で は掘 形 の大 き さの割 に はや や深 い。 なお、西 か ら2番め の柱穴 掘 形 か ら、 平 城 Ⅲ

(?)の

須 恵 器 の蓋 が 出上 した。

SK09 

調 査 区東 部 に広 が る不 整形 の上坑 。 深 さ は10〜20cmで、 埋 土 は青 灰 褐 色 砂質 粘 土 。平 城 Ⅳ を主 体 とす る土 器 が 出上 し、短 期 間 に埋 め られ た様 相 を呈 す。

主 な もの に土 師器 の皿・ 高 杯 。椀 2点 な どが あ る。SB02よ り新 し く、 埋 土 を 除 去 した土坑 の底 でSB02の柱穴 を検 出 して い る。

SB10 

調 査 区 中央 部 で検 出 した掘立 柱 南北 棟 建 物 。 桁 行 3間 、 柱 間 は約

1.7m(6

尺 弱

)等

間、総 長5.lm。 梁 間2間、柱 間 は約

1.8m(6尺 )等

間、総 長3.65m。 柱 掘 形 は一 辺 50〜60cm程度 の隅丸 方形 。北 妻 の柱 穴3基は現 存 深 さ約 50cmと 深 く、 直 径約12om(4寸

)の

腐 食 した柱 根 を残 す。 これ らの柱穴 3基 はいず れ も柱 が掘 形 の 隅 に位 置 す る特 徴 が あ る。他 の柱穴 は比 較 的浅 く、南妻 の柱 穴 は現存 深 さ約 20cm で あ る。 なお、東 側 柱列南 端 の柱穴 は、 性 格 不 明 の上 坑SK20によ り完 全 に壊 さ れ て お り、 ま た西 側 柱列 南 端及 び南 か ら2番め の柱穴 は、SX21の 底 で か ろ う じて 検 出で きた程 度 で あ る。

SBll 

調査 区北 西 端 で柱 穴2基を検 出 した掘立 柱 遺 構 。建 物 の南 東 隅 部 分 と考 え られ る。柱 間 は3〜3.3m(lo〜11尺)、 掘 形 は一 辺 60〜80cmの隅 丸 方 形 で、 本 調

‑75‑

(23)

査 区内の柱穴 と して は最 も大 きい。現存深 さは20〜40cmで 大 きさの割にやや浅い。

調査 区北西端 で重複 す る建物 の中で は最 も古 い。

SB12 

調査 区西端 で、東妻 のみを検 出 した と考 え られ る掘立 柱建物。 梁 間1.8m (6尺

)等

間、総長3.6m。 さ らに調査区の西へ延 び るが、西側 の奈良市 の調査区ま で は延 びない。掘形 は一辺40〜 60cmの隅丸矩形 でやや不定形、灰色粘上 の埋 土 を 特徴 とす る。現存深 さは20〜 30cmで、柱痕跡 を残 す。

SA13 

調査 区西部 で検 出 した掘立柱南北塀。柱 間 は約

1.8m(6尺 )等

間 で、3間 分検 出 したが、 さ らに調査 区の北へ延 びると考 え られ る。 SB12の 東妻 か ら約

33 m(11尺 )の

位置 に柱筋 を揃 えて建 て られてい る。SB12に 伴 う塀か。柱掘形 は一 辺40〜 60cmの隅丸矩形 でやや不定形。現存深 さは20〜 30cmと やや浅 く、灰 色粘土

を埋土 とす る点 もSB12の 柱穴 と共通す る。

SB14 

調査 区北西端 で検 出 した掘立柱遺構で、建物 の南東隅部分 と考 え られ る。

柱間 は桁行・ 梁 間 と も1.8m(6尺

)等

間 に復原 で きる。 柱 掘 形 は一 辺40〜 50cmの 方形 でやや不定形、柱痕跡 を残 す もの もあ る。現存深 さは20〜30cmo SBllよ り新

しく、SB15 0 16・ 17よ り古 い。

SB15 

調査 区北西端 で検 出 した掘立柱建物。桁行 は4間分、梁 間 は1間分確認 した が、桁行5間以上 で柱 間約

1.8m(6尺 )等

間、 梁 間2間以 上 で柱 間約

1.8m(6尺

)

等 間 の東西棟 と考 え られ る。柱掘形 は東西約70cm、 南北約60cm程 度 のや や東 西 に 長 い隅丸矩形 で、柱痕跡 を残 す ものが多 いが、南東隅の柱穴 は柱 を抜 き取 って い る。現存深 さは50〜 60cmと今回の調査区の中で は深 い。西 か ら3つ めの柱穴 に は、

残 りは悪 い ものの長 さ30cm、 幅15cm、 厚 さ10cm程度 の木製 の礎盤 が用 い られ て い た。 また、南側柱東 か ら2番めの柱穴掘形か ら、平城 Ⅲの須恵器 の蓋が出土 した。

SBll、 SB14よ り新 しく、SB16、 8B17よ り古 い。

SB16 

調査 区北西端 で柱穴2基を検 出 した掘立柱遺構で、建 物 の南東隅部 分 と考 え られ る。柱間3〜3.3m(lo〜11尺)、 柱掘形 は一 辺50〜60cmの 隅丸方形 で、現 存深 さは30〜40cm、 西側 の柱穴 には柱痕跡 が あ る。SBll、 SB14、 SB15よ り新 し

く、 S B17よ りも古 い。

(24)

SB17 

調査 区北西端 で柱穴2基を検 出 した掘立柱遺構 で、建物 の南東 隅部分 と考 え られ る。柱間 は約1.95m(6尺5寸)。 西側 の柱穴 は現存 深 さ約 30cmで 、 柱痕 跡 が残 る。東側 は現存深 さ約50cmで、長 さ約50cm、 直径約 12 cm(4寸

)の

柱 根 が残

る。SB18よ りは古 いが、調査区北西端 の他 のどの建物 よ りも新 しい。

SB18 

調査 区北西隅 の北排水溝 内、及 び調査 区北壁 で確認 した柱穴2基よ りなる。

これよ りは東 には続 かず、建物 の南東 隅部分 を検 出 したので あ ろ う。柱 間 は約

2.4m(8尺

)。 現存深 さは60〜70cmで、今回 の調査 区 の中 で は最 も深 い。 柱 穴 は 茶灰褐粘質上 の整地土 の上面 か ら掘 られて いる。

SA19 

調査 区西 よ りで検 出 した柱 間3間の掘立柱東西塀。柱 間 は約

1.8m(6尺

)

等間、総長5.4m。 柱掘形 は一辺約30cm程 度 の方形 だが、 現存 深 さ は掘形 が小 さ い割 に30〜 40cmと やや深 い。

SK20 

調査 区中央部南端 で検 出 した性格不 明の方形 の上装 。 東 西 約2.4m、 南 北 2.2m以 上で、 さ らに調査区の南 に延 びる。深 さは約70om。 遺 物 は含 まない。

SX

2と、SK22よ り古 い。

SX21 

調査 区南西部 に広 が る不整形 の くばみ。東西約15m南北 幅最大

4mに

及ぶ。

深 さは10〜20cm。 土師器・ 炭 を含 む茶灰褐色砂質粘土 で埋 め られて い る。底 で

SB10の 柱穴を確認 してお り、SB10よ りも新 しい。 また、SE24よ り古 い。平城 Ⅲ を主体 とす る土師器 を多 く含み、主 な ものに、平城 Ⅲの高杯2個体 、 Ⅱ〜 Ⅲ の須 恵器杯B、 Ⅲない しⅣ の上師器皿

Aが

あ る。

SK22 

調査 区中央部南端 で検 出 した東西 に長 い溝 状 の土 装 。 性格 不 明。東 西約

6.8m、 南北 1.3m以 上 で、 さ らに調査 区の南 に延 び る。深 さは約30cmo SK20、

SX

21よ り新 しく、奈良時代末 か ら平安時代初 めにか けての土器 を含 む。

SK23 

調査 区西端 でSX21の 底 で検 出 した土墳。埋土 は青灰粘土。深 さ30〜40om。

上部 はSX21と 同 じ土師器・ 炭 を含む茶灰褐色砂質粘土で整地 されている。

SE24 

調査 区西部 で検 出 した井戸。掘形 は東西径約150cm、 南北径約160cmの ほぼ 円形 を呈す る。掘形 の埋土 は暗灰褐色粘土。検 出面 か ら約50cmの ところで直径 が 約120cmに狭 ま り段 がつ く。井戸枠 は竪板12枚組 、上 端 は腐 食 して い るが、 現存

―‑ 77 ‑―

(25)

最大長230cm、25cm、 厚 さ8cm、 下端 か ら約95cmの位置 に一箇所 ほぞ を設 けて い る。井戸枠内の埋土 は上 か ら青灰褐色粘質土、暗青灰色粘土、暗灰色粘土 と続 き、

検 出面 か ら130〜160cm付近、暗灰色粘上 の層 の途 中 に骨 を多 く含 む部分 が あ り、

この下 の検 出面 か ら190cm付近 までの間で瓦が数点 出土 した。竪 板下 端 の深 さか ら径約70cm、 高 さ約50cmの曲物 が据 えてあ り、 そ の下 部 の検 出面 か ら約 260cmで 灰色砂 の湧水層 に達 す る。遺物 と して は、検 出面近 くの井戸枠 内の青灰褐色 粘 質 土 か ら9世紀 中頃か ら後半 にか けて の上 師器 の杯 、掘 形 か ら奈 良 時代 末 の上 器 、 曲物 内の下部 よ り平城Ⅳ〜

Vの

須恵器 の皿・ 漆 の付着 した須恵器 の壺 を初 め とす

る奈良時代末 の上器、曲物底板、斎串、鉄製刀子 な どが出上 して い る。8世紀後 半 か ら9世紀 中葉 まで存続 した と考 え られよ う。

SX25 

調査区東南隅で検 出 した石組 暗渠。 時代 を特 定 で きな いが、 検 出面 が や や高 く、平安時代以降の もの と考 え られ る。2条の溝SD26・ 27に伴 う もので あ る。

SD26・

27 

石組暗渠SX25に 伴 う2条の東西溝で、間隔 は心 々で約2.2mo sD26噂約

■.5m分、8D27は 約13m分検 出 した。SD26は さ らに調査 区 の東 に延 び るが、

SD

27は石組 暗渠SX25南端部 で南 に折 れ曲が り、 さ らに調 査 区 の南 に延 び る。 いず H〓59.4耐

暗灰掲粘土

黄灰 粘 土 暗青灰褐粘 質

灰 白色 粘 質 土

 

灰 色砂 質 土

青 灰 粘 質 土 暗 灰 粘 質 土 灰 色 粘 質 上

青灰 粘 質土 灰 色粘 質土 灰 粘 質 土

― ‐― ― =― 灰 色砂一ツ 図44 井戸SE24断 面図

暗灰 粘 質 土

(26)

れ も幅 は20〜30cm。 深 さは約10cm。

SD28・

29 

調査 区東部北端 で検 出 した

L字

型 に連続す る溝。東西 溝SD28を約13.5

m分

、その西端 に接続 す る南北溝SD29を約3.5m分 検 出 した。 と もに幅30〜40cm、

深 さ約20cmo SB05な どに伴 う区画溝 か。

SK30南

調査 区北端で検 出 した東西溝状 の上 坑 。 南 端 のみ約

3m分

を検 出 した。

下層 の暗灰色砂質粘上、上層 の茶灰褐色砂質粘土 (土師器 や炭 を多 く含 む

)に

分 かれ る。上層 は北調査区のSX21と 同質 の埋土 で あ り、 同様 の性格 の くば み を同 時 に整地 した ものであろ う。上層 か ら平城 Ⅲの須恵器 の蓋 が出土 して い る。

SD31 

南調査 区南端で約

3m分

検 出 した東西溝。位置 か ら考 えて、 既 に左 京 四条 二坊九・ 十坪間の四条条間北小路 (九・ 十坪坪境小路

)で

検 出 されて い る (奈良 市第133次調査。『昭和62年度奈良市埋蔵文化 財調 査概 要 報 告 書 』

)同

小 路 北 側

溝 の東延長部分 と考 え られ る。但 し、 これ までの推定位置 (『田村第』 参 照

)か

らはややずれ る。南端 を検 出 していないので正確 な溝幅 は不詳 なが ら、溝底 か ら の立 ち上 が りか ら推す と、幅 は約2.5mと な ろ う。深 さは約50cm、 埋 土 は下 層 の 暗灰色砂土 (約30cm)、 上層 の茶灰褐粘質砂土 (約20cm)の2層 に分 か れ る。 下 層 は流 れ に伴 う堆積土、上層 は土 師器 や炭 を多 く含 む埋 立 の土 で あ る。 上 層 は SK30、 SX21の 埋土 と同質 であ り、 これ らは同時期 の一連 の整地 に伴 う もの と考

え られ る。清心 の座標 は、X=‑146,677.800、 Y=‑17,608.000であ る。

SX32 SD31の

北側で検 出 した柱穴1基。掘形 は一辺80〜90cmの隅丸方形 で 、 現 存 深 さは約30cmと浅 い。十六坪 南辺 の東西塀 の一部 か。

  

今 回 の調査区で は、遺構検 出面 の直上 に室町時代 の遺 物 を含 む地 層 が 広 が る。

従 って奈良時代 の遺物包含層 はほ とん どな く、整地層 の茶褐色粘質土 あ るい は地 山の黄灰色粘土上面 に瓦 や土器 の小 片 が散布す るのみであ った。遺構 に伴 って 出 土 した遺物 は少 ない。

まず、瓦で は、軒丸瓦2点、軒平瓦6点が出土 した。内訳 は、軒丸瓦 は型 式 不 明 の もの2点で、調査区中央北端 の遺物包含層、及 び南調査区のSD31よ り出土 した。

―‑ 79 ‑―

(27)

軒 平 瓦 は、6663F、 4点 が調 査 区 中央 か ら西 部 にか けて の遺 物包含 層 、及 び耕 作 溝 か ら出土 し、6721、 1点がSK09上面 の遺 物 包 含 層 よ り 出土 した。 この他 、重 圏文 軒 平 瓦 (型式不 明)

1点が調 査 区北 西 端 の遺 物 包 含 層 よ り出土 し て い る。十五 坪 で行 った調 査 で の軒 瓦 の 出土 は1∬あ た り0.02点(『田村 第』)、 今 回 の 1∬あ た り0,019点 と大 差 は な い。な お 、 丸 瓦

は113点12.3kg、 平 瓦 は980点95.6kgが 出土 し 図45 須恵器長胴甕

(1/4)

た。軒平 瓦6663F、 6721は 十 五 坪 の調 査 で も出土 して いた もので (『田村 第 』 )、

今 回 の時期 変 遷 で はC〜

D期

に相 当 す る時期 の遺 物 で あ る。

土 器 で は、SB01の柱穴 か ら平 城 I〜Ⅱの土 師器 高 杯 、SK09か ら同 Ⅳ の 上 師 器 皿・ 高 杯・ 椀 2点 、SX21の整 地 土 か ら同 Ⅲ の土 師 器 高 杯 2個 体・ 同 Ⅱ〜 Ⅲ の 須 恵 器 杯B・ Ⅲ な い しⅣ の上 師器皿A、 SE24か ら同 Ⅳ 〜

Vの

須 恵 器 杯・ 壺 な ど が 出 土 した。 そ の他 、遺 物包含 層 か ら須 恵 器 長 胴 甕 が 出上 して い る (図45)。

木 製 品 で は、SE24か ら出土 した竪 板 組 の井 戸 枠12枚、 曲物 、 曲 物 底 板 、 斎 串2 点 な どが あ る。金属 製 品 と して は、井 戸 曲物 内 か ら出上 した鉄 製 刀子 が あ る。

時期 区分

調 査 区東 部 で は、重複 関係 か ら3時 期 、 また併 存 の可 能 性 の有 無 を考 慮 す る と、

最 低 5時 期 の遺 構 の変 遷 が あ る。一 方 北 西 端 で は、重 複 関係 か ら最低 6時 期 の 遺 構 の変遷 が あ る。坪 内を区画 す る施 設 と して は、SA06があ るの み で、 他 に は坪 を 分 割 して利 用 して いた痕 跡 は見 あ た らな い。 なお、SD26・ 27は、SX25と と も に何 らか の区画施 設 (築地 な ど

)に

伴 う もので あ ろ うが、前述 の よ うに時 期 的 に 奈 良 時代 よ りは下 る もの と判 断 され る。

重 複 関係 、併 存 の可能 性 の有 無 、 出土 遺 物 の年 代 を考慮 す る と、時期 変 遷 は概 ね次 の よ うに理 解 で きる。

A期

(奈良 時代 初 期

)SA06、

8B10な どが この時 期 に あ た る。 坪 内 を分 割 して

図 38  関連条坊図

参照

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平成元年4月 東京電力株式会社入社 平成22年7月 同社茨城支店竜ヶ崎支社長 平成25年6月