﹃栄花物語﹄における源重信像
川田康幸
一㌧はじめに
十世紀後半、天徳四年(九六〇)から長徳元年(九九五)まで、足掛三十六年の長さに亘って公卿としてその名を留
めた六条左大臣源重信について考察を加えた。源重信は村上天皇の御代の後半から'一条天皇の御代の前半まで、五代
の帝に任えたことになる。兄源重雅信の方も三十二歳の天暦五年(九五一)から、正暦四年(九九三)まで足掛四十三
年間もの期間'公卿として名を留め、従一位左大臣に至っている。十世紀の後半'摂関家以外の人々の中で'特に源氏
の中で左大臣に至ったのは四名おり'その職安を全うし左大臣で尭去したのは二名のみ。左大臣源高明は安和の変(九
六九年)により大牢府へ左降。源兼明は貞元二年(九七七)に左大臣の職を停め二品親王に棚上げされた。醍醐天皇を
父に持つこの二名は左大臣の職務を全うすることができず'途中で降りざるを得なかったといえる。一万㌧重信と雅信
の二名は、途中で失脚したり左降される事もなく'最後まで左大臣の職責を全うできた事は注目に値しよう。
重信と雅信の二人は'宇多天皇と胤子の間に誕生Lt醍醐天皇と同腹の兄弟である敦実親王を父とLt左大臣時平の
女を母とする宇多源氏である。本論ではこの兄弟の内、弟の重信に焦点をあて、﹃栄花物語﹄の中での描写のされ方'
造形のされ方をみた。F栄花物語﹄の中では'兄雅信に比較すると'重信は記事の内容も分量もはるかに少ない。雅信
と比較した場合'ほとんど無に等しいと言えるのではないか。雅信の付属品の如き取りあっかわれ方である。また重信
の記事を﹃栄花物語」とr大鏡﹄で比較した場合には'記事の質的内容や数的分量は﹃大鏡﹄の方が圧倒的に多い。
この原因はF栄花物語﹄の作者の周囲に'重信について資料を有していた人々がいなかった点にあるのではないか.
重信についての資料の存在を知ってはいても、﹃栄花物語﹄の作者にとっては披見する為に積極的になれる要因が存在
しなかったのではないか。以上の点につき論を進めてゆきたい。、二㌧﹃栄花物語﹄における概略
重信に関して﹃栄花物語﹄で言及するのは'巻第四「みはてぬゆめ」に数箇所披見できる。一つは右大臣への昇進'
二つは莞去の記事である。右大臣への昇進は正暦二年(九九l)の円融院の法事の後を受け記す.為光重信︹雅信︺さてその年のうちに'右の大臣太政大臣になり給ひぬ。右大臣には'六条の大納言になり給ひぬ。土御門左大臣
の御はらからなりけり.(僻露娼喝Srrは帆詔電撃閣J
この記事は重信について記す﹃栄花物語﹄の最初の部分である。時の右大臣為光が太政大臣になったので、その空白と
なった右大臣の席に重信が就任したと、その事実関係を淡淡と記す。次に重信の出自に言及し、左大臣雅信の兄弟であ註‑る事を記す。簡潔で要を得た記述であり'有国や惟仲の加階に言及し「この度も加階していみじうめでたし」等と嵯嘆
する如き叙述態度とは、大き‑掛け離れた叙述態度である。この叙述態度は重信の舞去について記す箇所でも同様であ
る。
重信の尭去については'長徳元年(九九五)の栗田関白道兼の病膏旨に入り、関白の宣旨は下ったものの大混乱して
いる情景を詳しく、事細かに記した後に十やはりその事実関係について簡潔に記すのみ。重信保光五月八日のつとめて聞けば、六条の左大臣・桃園源中納言・清胤僧都といふ人などうせぬとののしれば'「あな︹道兼︺かま。かかる事は忌むわざなり。殿にな聞かせ奉りそ」と'誰もさかしういひ恩ひつれども'同じ日の未の時ばか
りにあさましうならせ給ひぬ。あな凶凶し。殿の内の有様恩ひやるべし。(酢・tdt)
誠に簡潔である.この記事の視点の置き所は'あ‑までも道兼の尭去であり、重信の責去ではない.F栄花物語」の作
者は'道兼の死に関しては「あさましうならせ給ひぬ」と'最大限の敬意を払っている。だが重信の死には、「といふ
人などうせぬ」と伝聞の記事として記すのみ。関白の死に対しては「あな凶凶し」と嘆‑が'重信の死に対しては世間
で人々が「ののし」っている事を記すのみである。左大臣という高貴な人物の死であれば'作者はその叙述の中で尊敬
語の一つを使ってせめて「といふ人などうせたまひぬ」等と表現しても不自然とは言えないのではないか。しかし敬語
表現は使用していない。平淡な事実の描写と言えよう。中心はあ‑までも道兼であり'重信はほんの脇役といった態で
記されているに過ぎない。
この重信の死についての記事は「大鏡﹄の中にも同様に記されている。だがその内容は﹃栄花物語﹄とは少し違う。﹃大鏡﹄の中で重信の死が記されるのは'第五巻「太政大臣道長」伝の冒頭部である。﹃大鏡﹄では道長の父母の出自等
についての説明が記された後'道長が如何にして内覧の宣旨を得ていったのかを記す。その過程で朝光道隆まづそのとしうせたまへる殿ばらの御かず'閑院の大納言'三月升八日。申関白殿'四月十日。これはよのえに重信はおはしまさず'たゞおなじおりのさしあはせたりしことなり。小一条左大将済時卿は、四月升三日。六条左大臣道兼道柏殿・栗田右大臣殿・挑園中納言保光卿'この三人は五月八日一度にうせたまふ。山井大納言殿'六月十一日ぞかし。
叉あらじ'あがりてのよに、かく大臣・公卿七八人二三月の中にかきはらひたまふこと。希有なりしわざなり。それ
道長もたゞ、この入道殿の御さいはひの、上をきはめたまふにこそ侍めれ。かのとのばら次第のま〜にひさし‑たもち
たまはましかば、いとかくしもやはおはしまさまし.(謹和議詔か確報撃)
と'まず死亡した月日で整理をLt同日の場合は太政官の官職の順で整理をしている。またこの長徳元年に死亡したこ
れ等の公卿には、「うせたまふ」あるいは「かきはらひたまふ」と敬語表現を使用している。
重信等の多‑の公卿達の死に関しては﹃栄花物語﹄も﹃大鏡﹄もtだだ平淡にその事実を記しているといった点では
同様な叙述態度であると言える。また'重信の死亡記事が叙述の中心ではな‑、あくまでも中心人物は他に存在すると
いう点も'両書に共通した点であると言える。だが、﹃栄花物語﹄では重信には敬語表現は用いられていないが'﹃大鏡﹄
では「たまふ」とその舞去に対し尊敬語を加えている。この点は大きく異なるのではないか。
また重信に直接言及している記事ではないが、重信に関連する記事として'重信の住居に関するものと'彼の孫・経
長の記事がある。重信の住居に関するものは'重信莞去と同じ・道兼関連記事の中に記されている。それは道兼が転地
療養先とした。出雲の前司相知の邸宅に言及している記事の中に記されている。それは、︹道隆︺栗田殿四月つごもりにはかへ渡らせ給ふ。それは出雲の前司相如といひける人の、年来かうののしらせ給ふ関白︻道兼︼︹重信︺殿にも参らで'ただこの殿をいみじきものに頼みきこえさせつるものの家なり。中河に左大臣殿近さ所なりけり。︹道兼︺父の内蔵頑助信の朝臣といひける人の造りて住みける'池・通水・山などありて、いとをかしう造りたてて'殿の
御方達所といひ思ひたりける家なりけり。(即諾ilJ
と'出雲の前司相知の邸宅が、中河にあり'重信の屋敷に近い所にあると記す。この叙述のいわんとする点は'周知の
場所(名所・旧蹟等)ここでは左大臣邸を記すことで、人々のほとんどが未知であったろう道兼の転地先を示したと言
えるのではないか。ある未知な地点を読者に印象付けたい場合、周知の著名な場所を挙げて'それに関連させて説明し
た場合と、そうで無い場合とでは比較するまでもない。当然、周知の著名な場所を挙げて未知の場所を指示した方がよ
い。出雲の前司相如の屋敷の如く、著名とも思われない場所のおよその見当・目安をつける場合'重信邸を記すことは
好都合であったのではないか。この重信邸を記した記述の目的は'あくまでも道兼の転居先の見当をつける為である。
重信邸は便宜的に用いられたものであり'第一義的な目的ではない。
巻第三十一「殿上の花見」の記事も同様である。そこでは斎院・馨子内親王の長官となった蔵人弁経長の出自を語る註二のに「六条左大臣殿の御孫なり」と'重信を記すのみで'重信に主眼を置いた叙述ではない。
この外に重信にまつわる記事は'帥中納言隆家の若年時の結婚について記した箇所に記されている。重信は女の婿と
して隆家を迎えており'この時の結婚は﹃大鏡﹄の中でも言及している。
三へ重信の女と隆家の結婚
隆家が重信の女に婿取られている点はF栄花物語﹄・﹃大鏡﹄共に記しているが'その叙述態度・視点の置き所は微
妙に異なる。隆家がいつ重信の女のもとに婿取られたのかは不明である。﹃大鏡﹄の叙述のされ方からすれば、隆家と
重信の女の結婚は摂政太政大臣兼家の生存していた永詐二年(九九〇)とも、頼忠が生存していた永延三年(九八九)
六月以前の事も言えるのではないか。隆家は永延三年正月七日に冷泉院御給を受け'従五位下に叙され、同日昇殿が許鑑三されている。時に十一歳。﹃栄花物語﹄では正暦四年(九九三)か翌正暦五年頃の事であり'隆家は十五・六歳である。琵四この時代男子の結婚年齢は'次第に早婚となり'不自然なまでに年齢は低下したとすれば'いづれにも決め難い。ただ
し隆家にとっては最初の結婚であったといえるのではないだろうか。「栄花物語﹄では隆家と重信の女との結婚については、二ヶ所で言及する。その一つは巻第四「みはてぬゆめ」の中