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学校慣習法分析の基礎理論〔二〕―法社会学的分析の課題と方法―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

学校慣習法分析の基礎理論〔二〕―法社会学的分析 の課題と方法―

著者 高野 桂一

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 15

号 1

ページ 87‑113

発行年 1967‑02‑28

その他のタイトル THE FUNDAMENTAL THEORY FOR ANALYSIS OF THE

SCHOOL CUSTOMARY LAW [II] ―THE THEMES AND THE

ANALYTICAL METHODS OF THE SCHOOL CUSTOMARY LAW

FROM THE STANDPOINT OF THE SOCIOLOGY OF LAW

URL http://hdl.handle.net/10105/3344

(2)

学校慣習法分析の基礎理論〔二〕

‑法社会学的分析の課題 と 方法‑

南   野   桂 (教育学教室)

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第‑章 学校慣習法の法社会学的分析方法

二、学校慣習法の法社会学的分析の課題と方法一本研究方法論の摘出過柱(承前)

〔一つ その法社会学的アプローチの理論的・実践的役割 1.法解釈学的偏向の補足と是正

教育法とくに学校経営に関するこれまでの法的問題解決は、そのほとんどが教育・学校に関す る国家法・制定法の解釈という実践的作用をめぐって展開されてきた、といっても過言ではな い。しかし、教育法の解釈をめぐって展開される‑とくに有権解釈といわれるものにおいて一法 的諸問題が、法解釈という実践的性格のふくみもつ、また、おかしやすい偏向や誤謬によって生 起していることは、とくに今日の問題点といわなければならない。そして、このことは法解釈の みならず、法解釈学についてもいわれうることである。

第二次大戦後の日本において、 「法の権力に対する優位が承認されることと、権力による、法 の名における法の破壊が行なわれること」とが相互に必然的な結びつきをもち、そしてそのよう な矛盾の背後に「権力の担い手と国民大衆との間の深刻な政治的な利害の対立」をはらむ法的問題 状況‑とくに法解釈学上の一(1)は、また教育法・学校経営管理法においても例外ではなかったO

たとえば、その一つとして、教員勤務評定の法律解釈をはじめとする概念法学的・形式論理的な 一連の解釈論の窓意性が問題にされたのも、この意味においてであった(2)。そして、そのような ことは、もともと法解釈という人間行動が「一つの法実践」であって「事実の確定行為」ではな いということ、 「もともと法解釈学が微視的な学問である」ために、個々の具体的解釈に究極的

・根本的な秩序形成の巨視的志向を欠きやすいことに原因していた。それは、日本の社会構造や 全法秩序に対する認識とか、その将来への見通しという巨視的観点をもたずに、当面の法技術的 処理に埋没し、当面の矛盾を一時的に救済するという傾向をもっていたo また、それは、その解釈 がその都度主義や便宜主義に立っていることに原因していた。いいかえれば、それは法現象の歴 史社会的現実に対する経験科学的認識を欠くことにもとづくものであった。そして、このような 法解釈をめぐる問題発生の原因は、法解釈の本来的性格と考えられるもののなかにひそみ、その 本質の誤解とすりかえにもとづくものであった。

このような問題意識にふれて、 T・パーソンズも、 M.ウェーバ‑がいわゆる法の合理性を本 質的というよりもいわゆる形式的なものとすることに注目し、 「しばしばその形式的正当化過程 (due process)が本質的公正の問題を不問に付して、真の法的矯正力をもちえない」 (3)と指摘 する。そこに法と法意識のずれ、 Sanctionの構造的弱化を兄い出している。

また、江守氏も「生ける法」の重要性を強調する観点から、法解釈学的演縛的マジックについ

(3)

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学校慣習法分析の基礎理論〔二〕 (高野)

て、次のようにいうO

法規は、なるほど社会関係を規律し、秩序づけるという点で、現実‑働きかける力を有して いる。しかし、法規が現実の社会関係を規制するのは、原則的には社会関係において裁判紛争 が生じた際に限られる。ノーマルな社会関係のもとでは法規は社会への規制力を現実に行使す るものではない。一一一一そこでは生ける社会生活規範が現実の社会関係の秩序維持の機能を演じ ているのである。 ‑・‑その法に強制的な力を賦与するものは、その法を成立させ、効力あるも のとして存立させている現実の社会関係一一である。この事実を誤認し、あたかも法規そのも ののなかに社会関係をつくりだす魔術的な力が潜んでいるかのごとくみるというのは、実証主 義的法律学において‑一法の社会的・政治的側面についての認識が拒否され、法規という大前 提から現実の具体的事実に対して演禅的に結論がみちびき出されるという法思考の方式の不可 避的な結果であるW。

宗像氏も、これまで(とくに第二次大戦前)の教育行政法規の解釈学が官僚のための教育法規 の学となり、その考察が「現実の教育問題からでなくて、いつも教育法規から出発」し、そして また、 「教育法規に帰着するものであった」とする。その法娩解説の態度が「葺好子法虎を正当化 しようとする意図のもとにのみなされ」 、有権解釈の絶対性や「論理的整合性を見出す」ことの みが目ぎされた。 「もし事実と法とが違っているとすれば、そのときまちがっているのは勿論事 実の方であって、法の方ではない。」そこには、 「少くとも社会的要因と法の正しさを秤にかけて みて場合によっては法に無理や誤謬を認めるというような、拘束されない思惟の方法はなかっ た」、とされるW。

さて、ここで少しく法解釈の本質に立ちかえって考えてみるとしよう。その本質の第一は、法 の解釈という人間行動の性質が「何が法であるかという客観的事実を確定する行為なのではな

く、何を法たらしむるべきであるかを主張する実践行為」であることにあるo それは認識領域の 問題ではなく、何を現実の法として是認すべきかを問う実践債域の問題なのである。法の解釈は 客観的にあるものの発見ではなく、あるべきものの選択であり、 「ほかならぬ法の創造」なので ある。法解釈という行動は、 「法秩序形成への実践的参加の行動である点において根本的に立法 という行動と同じもの」なのである。

第二に、法解釈の複数性がその本質として考えられなければならない。法解釈が解釈者個人の 主体的実践行動である以上、解釈者の実践的立場がちがえば、解釈はそれぞれちがってくる。

「同一の法規をめぐって、複数の解釈が成立しうるということ、いな現に成立しているというこ と‑‑・このことは‑筒の経験的事実として、好むと好まざるとにかかわらず承認しなければなら ない。」

その第三の本質は、法解釈の正しさの問題である。法解釈の正しさということは、解釈者の価 値基準からみた正しさである。それゆえにまた、価値判断の基準がちがうならば、正しさの具体 的意味内容も異なるといわざるをえない。したがって、解釈者にとってある解釈が正しいかいな かは、根本的にその解釈の結果が、解釈者の価値基準からみて、満足すべきものであるかいなか にかかってくる。その結論に至る論理的プロセスは第二義的な意味しかもちえない。この場合、

正しさとは、論理としていずれが説得力をもちうるか、あるいは他の規定における論理と整合的

でありうるかという点にもあろうO しかし、解釈の論理構成とは、 「一定の事実に一定の価値判

断を結びつける技術」である。それは形式論理的統一ではなく、 「事実と価値判断とのこの対応

関係を、より具体的に論理的に保証できるかどうかによって判断」すべきものなのである。

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学校慣習法分析の基礎理論〔二〕 (高野)

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その本質の第四は、解釈の根拠いかんの問題にある。法解釈の正しさが根本的に解釈者個人の 価値判断にかかっているとするならば、解釈の正否をめぐる争いもまた、価値判断の正否の争い として展開されることになろう。しかし、このことは、法解釈の争いが必ずしも水掛論や見解の 相違となることを意味しない。解釈者は一定の価値判断とそれにもとづく解釈的結論を選択する にあたって、その選択の根拠を示さなければならないのである。また、その根拠をめぐって正否 が争われることになるわけである(6)。

法が社会的諸価値の均衡物であると考えるT.パ‑ソンズの立場‑これについてはすでに慣 行に関するE.ェ‑ルT)ッヒの見解、生ける法をめぐる渡辺洋三氏の見解を明らかにした‑にお いては、それなるがゆえに、法が最も理想的に機能する社会を次のように構想する。

法が最も理想的に機能する類型社会は、複数の自由な価値が認められ、しかもそのような社 会的価値葛藤のあまりに鋭くなく、同時に、強制性のあまりはげしくない社会である。最も基 礎的な社会的価値の問題が一般的に論議をまき起こすようなことのない社会においてこそ、法 は十全に機能する。あまり価値葛藤がはげしいと法は見捨てられるO法を伝統的にインフォ‑

マルに支える力がある場合にこそ、法は生きて働くことができる(7)。

ところが、以上のような法解釈の本質性は、現実には、法の根本問題であるところの法の客観 性と主観性のわい曲、すりかえによって侵害されることが多いのである。法においては、前述の ように価値‑主観が論理‑客観としてのみ表現されねばならないことは、法であるかぎりさけが たい。また、 「法の客観性とは価値判断そのものの客観性なのではなく、それが定着されたとこ ろの論理の客観性」なのである。いわゆるこの場合の客観性とは、正否とか真否とかいわれるこ

° ° ° ° ° ° ° °

とと無関係であり、通用性とでもいうべきものであるO しかし、ここで価値判断の通用性と論理 の通用性とを混同してはならないであろう。 「あい異なる価値判断は、価値判断そのものとして は相互に通用しないiCかかわらず、論理としては価値判断のちがいをこえて通用するものがある ことを認めなければならない」のである。

このようにして、立法者や解釈者は、その社会で広く一般的に承認され通用されている論理形 式を通して、その価値判断を客観的に定着させるのである。そして、この場合、客観化のための 論理的道具が法の技術といわれるものである。このようなことから出てくる法の技術とは、 「一 定の歴史的実在として人間の具体的価値判断を、その歴史的社会で承認され且通用される論理と して定着するためのもろもろの操作」にはかならない。それは歴史性をもつ技術であって、自然 科学上の技術や単なる形式論理上の技術とは異なるものである。

それが、これまでの概念法学・法解釈学の影響のもとでは、解釈技術は価値判断(主観)の客 観化のための技術としては自覚されず、論理と論理との問を結びつける論理的一貫性を保持する ための技術であるかのように考えられてきた。いわゆる概念法学・法解釈学においては、価値と 論理をひきはなすことによって、かえって形式論理のなかにどのような自由な価値判断をもりこ むことも可能な形式論理的前提をつくり出してしまったのである。そこでは、形式論理的操作に よって、抽象的法規から自己の欲するどんな自由な具体的結果をもやすやすと導き出すことがで きたのである。

また、近代法においては、利害の相違、立場の相違、判断の相違は必然的なものとして前提さ

れている。そして、そこで対立し合う諸利益・諸価値はいずれも優劣なき平等のものとして評価

されるゆえにこそ、紛争の発生と、その法による解釈が必然とされるのである。このように対立

する諸利益・諸価値の自己主張は、法の主観性の問題となってたち現われる。法が価値判断の論

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理であり、対立的価値の調整の論理であり、したがって多かれ少なかれ対立する複数の価値をそ のなかにふくむものである以上、法の主観性は近代法にとって必然的な歴史現象なのである。わ れわれはその意味で、またそのかぎりで、法の主観性をためらうことなく承認することができ

° ° °

る。また、この必然的な法の主観性は、しばしば法の窓意性とすりかえられる。主観性は、法そ

° ° °

のもののなかに複数の価値を前提とするが、慈意性は、はじめからそれを認めようとしないo そ のような窓意性は、権力の価値判断の選択が、それが選択自体の正当性におかれず、その選択に よって、自らの地位を維持するためのより高度の政治的判断によってなされる場合に、現われる のである(8)。

このようにして、 「法解釈は歴史社会の現実に対する認識とそれに対する解釈者の価値判断を めぐって争われる」ものと考えられる。結局、多くの法解釈の対立は法制度の趣旨と社会的目的 をどう理解するかのちがいにかかわっているのであり、したがって解釈の正否もまた、それらの 趣旨や目的の社会的実質的根拠の認識の度合にかかわってくることになる。が、法解釈及び法解 釈学の現実は、往々にしてそれをゆがんだ姿やすりかえにおいて現出する可能性をふくんでいる。

江守氏によれば、伝統的な解釈学者は、 「生ける法が国家法・制定法秩序の基層を形成してい るという事実をあくまで拒否し、せいぜい制定法規を補充する必要のある場合にのみ生ける法を 法として認めようとする。」がしかし、 「裁判官をはじめ法律実務家でさえ法規を具体的事実に通 用するとき、その法の解釈や通用における判断の基準として『社会通念』、 『公序良俗』、 『衡平』、

『条理』、 『事物の理』Natur der Sache、 『信義誠実の原則』をかかげるが、それらはいずれも現実 社会における生ける法に他ならない。それらを制定法規の適用の指導理念として認めるときに は、生ける法が事実上法規を改廃しているのである。」そして、さらに具体的裁判にあたって、

° ° 一

慣習法(生ける法)に制定法規の変更力を承認する場合も稀ではない。このことを解釈学者は客 視しているといわねばならない(91、とする。

また、これについてR. R.ハミルトンらは、とくに教育法の側面から「伝統的にみて法制度

蝣 ・ ・ a ・

は教育の発展よりおくれている」とし、それゆえ真の教育の進歩は、法廷が教育の目的や目標を どれだけ理解し、共感をもつかにかかっている(10)、とする。法解釈それ自体が、いかに教育の論 理や社会的事実を、それ自体としてまずとりあげねばならないかにふれたものであるO

法解釈の正否が、このような教育的事実の実質的性格を根拠として争われねばならないとすれ ば、それなるがゆえに、その悉意性や論弁性への危険をはらむ法解釈学の是正が必要となる。そ の実質的根拠を提供するものとして、教育法の法社会学的方法が用いられなければならないので ある。ここに、現実の社会関係とくに教育社会・学校社会の関係のなかにひそむ、生ける法(学 校慣習法など)の分析や実証が課題となる。そして、その手続きや方法は、一にかかって経験科 学や社会科学の力をかりることによって、社会科学としての法律科学と教育科学の真の意味での 確立と接近過程において期待されなくてはならない(この点については、昭和初期にすでに河野 通保によって、教育学と法律学との科学的関連の問題として提唱されたが,それはむしろファシ ズム教育の合理化・正当化の限界をもち、しょせん教育科学と法律科学の科学的接近を問題にし たのではなかった。この点は、後に具体的分析で明らかにしたい。)(ll)

このようなところに、教育法の正当化の根拠・基準を科学的に提供する「教育法の科学」とし

ての法解釈学も成立するということができる。また、すぐれて経験科学の領域に属する法社会学

的アプロ‑チが、本来実践そのものであり、教育法場面において、イデオロギーの領域に属する

法解釈に対して寄与をなしうるのである(12)c学校慣習法の解釈もー このような根本的法社会学的

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認識に立ってこそ、法解釈学的に正当な位置づけをうることができるのである。

端的に、法社会学の考察の対象となる法規範は、国家法・制定法それ自体よりも、それを支え るところの現実の社会関係に内在する、根元的な法の存根在形態としての生ける法に重点づけら れる(13)。これからして、ともすれば制定法解釈にのみ偏向しやすい現実の学校教育法制を、その ような生ける法としての学校慣習法の法社会学的分析によって是正することは、今後の重要な課 題となるのである。教育法の法社会学的立場においては、司法過程・学校行政過程・学校経営過 程における「法創造過程」を重要な対象と考えなければならない。それゆえにこそ、学校慣習法 の生成・発展・消滅過程は、すぐれて学校法の法社会学的アプローチの対象となるのである。

2.教育法をめぐる法社会学的方法の実践的役割

教育法をめぐる法社会学的方法の実践的役割については、なお後述の具体的実証過程における 作業仮説にかかわり、また実証の結果をまって、はじめて確定されるものであろう。ここでは、

すでに序説以降述べてきた問題意識を、仮説設定の前提として、とくに法社会学的方法のもつ実 践的役割という角度から整理してみるにとどまる。

(1)学校経営管理における教師の法意識の向上

以下に具体的に証明しなければならないことであるが、明治以降の日本の教育体制・学校経営 体制の歴史的過程において、教師は自己の教育的労働の場の法的規制を、単に国家権力の上から

の規制として観念してきたのではないだろうか。そこにおいては、法律的あるいは法的現象は、

教育現象に先行するものと意識されてきたうらみはなかったであろうか。

もしそう考えるならば、教師の教育法意識におけるアパシイが一般的であったことは当然で あるといっていいであろうO絶対主義的教育体制・学校経営体制における諦命観がそうさせた

ということもあろう。しかし、それは、またそれ以上に、法というものが教育活動・学校経営活 動の自律的法則の投影であり、表現であるということについての認識の欠如にももとづいていた のではなかったか。教育法を教育や学校の社会現象として、広く見渡す眼をもたなかったことに 起因するものではなかったか。法現象といえば、有権解釈である教育法解釈と、学校教育上の事 故をめぐる裁判(司法)現象としてのみ教師の眼に映じていた、といわれないか。また、それ は、伝統的な師範学校の学校管理教科書の無批判な法律遵奉主義によって、形成されたものかも

しれないcH)。

ところで、そのことは単にわが国絶対主義体制下の教師の問題としてのみならず、第二次大戦 後の教師においても、何ほどかの質的差異はあれ、問題として残されているのではないか。それ は一面において、歴史過程の連続性からとらえることもできよう。が、しかし、そこには、戦前・

戦中の「上からの法」 ‑の反動的嫌悪をもってする別のアパシイも生まれつつあるのではない

か。戦後の教育が一般行政や教育行政からの何ほどかの民主的解放を日ざしたとすれば、この法

の廃止とそれからの解放という方向を著しくとらざるをえなかったのは、事実上やむをえない面

をもっていた。しかし、そこでは教育や学校の場から法という機能を必要な側面においてまで放

棄し、真の意味での教育法意識の形成を阻止してしまうことはなかったかどうか。正しい意味で

の法的理解と、法的規範秩序の形成のエネルギーまでも放棄してしまわなかったかどうか。法と

いうものをあまりに国家法・制定法の解釈上の問題と観念するために、真に教師が内面的自律立

法や自律規制というものの存在に気づかされなかったということはなかったか。

(7)

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学校慣習法分析の基礎理論〔二〕 (高野)

また、つい昨今の教育立法や教育行政の動向には、制定法・国家法の整備という名目のもと に、教師の学校教育活動を著しく上からの立法規制として構成し、教育法の本質をゆがめること が全くない、といいきれないものがある。あるいは、このようなことが何らかの教師の法意識を かきたてたと考えられないこともないであろう。が、その反面、それによって、また何らかのア パシイが形態をかえて生まれているといえないであろうか。教師は、教育行政管理の法的発想に 対して、ただ単に教育や学校経営の事実そのものを対決させるだけにとどまり、教育と法とを単 に水と油のように引き離してしまっていることはないか。それが真に科学としての教育法という 統一された論理において問題にされず、法であればすべてが悪しきものとする意識や無前提のア パシイも発生しているのではないかO教育や学校経営の事実行為のなかにある生ける法的行為‑

狭義の法律行為ではない‑‑‑に一歩ふみこみ、はりさげて、教育・学校機能と法機能とを積極的に 相互浸透させる努力に、なお欠けたものがあるのではないか。

このような教師の法意識におけるアパシイの分析は後述の具体的証明に待つはかないが、すで に述べた法社会学的アプローチの学的性格からして、それが教師の法意識を今後とくに向上させ うるものであることは、十分仮説されるところである。とくに、これまで学校経営において具体 的に生きて働いてきたはずの規範秩序を、く生ける法>の角度から再検討しようとする法社会学 的アプローチは、いずれにしても、法を学校の場における教師を中心とする成員のものにするに ちがいない。

この意味において、自己の脚下にある学校慣習法をく生ける法>として体系化し、社会規範現 象として再認識することは、まさに今日、教師の法的教養でなければならないであろう。また、

後述するように、それをもって、実証的に下からの自主立法として、逆に国家法・制定法への働 きかけ・反映・浸透をはかるべきものであろうO学校慣習法の法社会学的アプローチは、その意 味で教師の法的アパシイや教師の法解釈上の誤謬を建てなおし、教師に積極的な「法創造」を促 すものと推論されるO それは教師をして、真の意味での学校慣習法の担い手(Trager)たらしめ るゆえんである。そして、そのことは、また、おのづから教師をして、父母・国民の教育法認識 におけるリーダーたらしめることになるものとおもわれる。

(2)学校経営体の相対的独自性の法的確立

学校経営体が、教育行政管理から相対的に独立した経営管理をいとなみえなければならないこ と、また、それがすぐれて他の企業体よりもその独自性・自治自律性が高くなければ、教育本来 の創造性や自由性を発揮しえないことについては、後に詳述する。

しかし、そのことは、学校経営体が単に事実行為において自治自律性をもつということだけで はなく、法的・法律的にもそれが尊重され、証明されなければ、論理的に薄弱となることをまぬ がれない。これからして、いわゆる学校内部(慣習)法の自由裁量的幅の広さと自治立法性(法 創造性)を認識し、尊重し、具体的に検討し、確立することが必要なのである。いいかえれば、

それは学校内部に慣行的に行なわれているものの積極的な民主化・合理化に立った、く生ける法

>としての体系整備の問題である。端的にいって、学校慣習法の存在意義を具体的に明確にし、

その法的位置づけを確立することにある。それは、とくに今日の教育法のように国家法・制定法 の不備な場合には、その面において‑そう要求されるのである。

真に教師を中心とする学校集団が担い手となる法体系は、学校慣習法の生ける姿やプロセスを

法社会学的に分析することによって、整備されるであろう。学校慣習法が教育法科学体系として

(8)

学校慣習法分析の基礎理論〔二つ(高野)

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厳存するときには、ゆがんだ行政的窓意や解釈は入りこむ余地がないはずである。なぜならば、

学校慣習法の社会科学的・教育科学的体系は、教育の制定法・国家法に対しても、形式的ではな く、実質的に合理的関係あるいは関連構造をもちうるはずだからである。そのアプローチは、学 校教育の歴史社会的法則性を、国家法・制定法としての教育法を頂点とする全法体系の底辺にお

いて、貫かせていなければならないからである。

学校慣習法の法社会学的アプローチは、学校経営体の相対的独自性を、その経営法的な論理構 造においてのみならず、むしろその法的社会構造において明らかにしてくれるであろう。

(3)教育法の立法政策への影響・寄与

学校慣習法という生ける法体系の法社会学的研究が、すぐれて法創造的活動であるとするなら ば、それは国家法の新立法や法修正に大きく影響するものでなくてはならないであろう。それ は、教育法の法解釈学的偏向の是正にとどまらず、さきに示した国家法と生ける法との法社会学 的関連構造のように、学校慣習法が教育制定法に上昇し吸収される場合、あるいは積極的に慣習 法的承認のなされる場合などを期待してもいいはずである。また、それは、教育制定法が学校慣 習法と矛盾的構造を生起せしめた場合には、学校慣習法の生きた姿(法則性)が民主的・合理的 であるかぎり、法修正の論理として適用さるべきである。

そして、これはとくに学校慣習法のトレ‑ガ‑としての教師集団の意志の反映、あるいは立法 への運動として考えられなければならない問題である。

〔二〕学校経営法規範の法社会学的方法と経営学的方法の相互浸透‑学校慣習法の社会的 構造と論理的構造との関係‑

学校経営の内部法すなわち生ける法としての学校慣習法の法的形態そのものは、いうまでもな

° ° ° ° ° ° ° ° ° °

く学校経営の論理の法的体系である。それは、あくまで学校経営の民主化と合理化を要求する技 術体系の法的表現形態としてみることができる。なせならば、学校経営の論理(学校経営方式)

は、その経営の民主化と合理化の二つの原理をふくみ、それを統一的に定着させる働きとしてつ るかまれるからである。

しかし、ひるがえって、他方、学校経営法規範すなわち学校慣習法は、それ自体の性質におい

° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °

て、学校経営という社会現象における法的現象の‑局面をさすものである。前述したことから考 えても、学校経営法(学校慣習法)をふくむ法規範一般は、そこにおける一定の社会的人間関係 を前提とし、かつ、それに規定されながら、そのような社会関係に対応する価値判断の論理技術 的表現の定着として、自己を実現する。それゆえ、一定の社会関係を土台としてつくられた法規 範は一定の法的価値を目ざし、また、その論理技術形態をとおして現実の学校社会を規制し、こ れを動かしていくのである(15)。したがって、学校経営の法的現象は、教育制定法と学校教育現実 の社会関係との、そのような一定の相互作用・反作用の諸過程を通じて実現される、社会現象の 総体を意味することになる。

学校経営の法的分析は、このような客観的全体構造に注目するものでなければ片手落ちとな

る。学校経営の法的研究は、この経営の法論理的構造と法社会的構造との相互作用・反作用の総

体を対象としなければならない。学校経営法規範を社会関係からきりはなしてそれを論理的次元

にのみ限定する結果、その法的考察を形式論理的なものにしてしまってはならない。あるいは逆

に、学校経営法規範を諭理からきりはなして社会関係一粒にのみ眼をむける箪私埠的考琴を杜

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学校慣習法分析の基礎理論〔二〕 (高野)

全学一般のなかに解消してしまってはならないのである。

このようにして、学校経営法規範(学校慣習法)の研究は、学校経営の経営学的あるいは経営 論理的(論理構造的)方法と、法社会学的(社会構造的)方法との相互浸透のもとになされなけ ればならないのである。しかし、ことわっておきたいことは、ここでは、法社会学的方法と経営 学的方法とが同一平面に並列してあるというのではなく、法社会学的方法・体系のなかにおいて 法論理的構造(規範秩序的客観的側面)をあつかい、そこに経営学の論理が位置づき、浸透する ものというとりあつかいをしていることである。

〔三〕学校慣習法の法社会学的問題領域

さて、学校慣習法の法社会学的研究の問題領域をどう考えたらよいであろうか。それは、まづ 次のように大きく分けて考えることができよう。

① 学校経営の場におけるある具体的社会関係において、教師を中核とする学校成員の社会的 行動を決定する規範(Norm)とは何であるか。その内容、性格、構造等をその客観的側面

‑学校経営の規範秩序と、主観的側面‑学校成員とくに教師の規範意識との統一におい て兄い出すこと。

⑧ そのような学校経営の規範秩序及びそれに対する学校成員とくに教師の規範意識を維持す る現実的強制力(Sanction)、いいかえれば権利義務関係の構造がいかなる性格のものであ り、いかなる仕組みによって自己を貫徹しているかを分析すること。

⑧ 学校経営の社会関係のなかで、現実の成員とくに教師の社会行動を決定する内部規範が、

教育制定法とどのような内的関連構造をもっているかを追求すること。

④ 国家法・制定法としての教育法と、学校社会の行為規範の総体としてのこれらの法規範関 係の一定の歴史的形態が、どのような政治的・社会的・教育的あるいはその基礎に横たわる 経済的諸条件(基本的下部構造)によって、必然的に生み出され、かつ規定されているか。

また、その逆関係など、その相互関係の法則性を明らかにすること。

⑤ さらに、そのような学校経営の法的関係が教育史的発展の法則に照して、どのように評価 され、かつ変革されなければならないか。また、変革されうるかを明らかにすること。

上記①及び⑧の領域は、とくに生ける法としての学校慣習法(学校経営法)の社会関係の分析 そのものである。しかし、これら五つの問題領域は現実において分ちがたく結合しており、方法 論的には、何らかの意味で関連的にとり扱われるものである。そして、また本稿の重点は、究極 的には①と⑧の領域におかれるが、 ⑧、 ④、 ⑤にもできるかぎり関連的分析をしなければならな いものと考える。

〔四〕学校慣習法の法社会学的分析方法とその重点

ところで、上述の生ける法としての学校慣習法の法社会学的問題鶴城に対して、研究方法論的 角度から、やや一般的考察をなし、とくに本稿の方法的重点あるいは位置づけを明らかにしてお

く必要があろう。

学校慣習法の法的研究手続きは、一般的に大きく分けて法論理的研究方法・法歴史的研究方法

・法比較的研究方法の三領域とすることができるであろう。法論理的研究方法においては、いわ

ゆる学校経営の法論理構造を一応現在的な時点あるいは技術論理的次元において、慣習規範の分

析としてとり出すことが考えられる。これには、現在時点における学校慣習法の法規範秩序や法

(10)

学校慣習法分析の基礎理論〔二〕 (高野)

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意識の観察調査というような方法が主なものとしてふくまれよう。法歴史的研究においては、そ の学校経営の法論理構造的なものを社会的歴史的な構造関係に還元して検討してみることが目ざ

される。(この方法が、法の動態分析に重点づけられる法社会学的方法の中心をなすことは、前に もふれた)。法比較的研究は、それを現実の学校経営条件や学校の社会的条件との対応において、

総合的法類型設定を目ざして、分析をすすめる方法分野と考えられよう。そして、この法類型の

° ° °

設定は、法歴史的な構造を基底にすえながら、法論理構造を最も問題解決的に打ち出す実践的枠 組であり、役割を負った分析であるといえよう。

W.M.エバンは、法制度の法社会学的類型化の示唆として、まず民主的法制度と非民主的法制 度、あるいは公法制度と私法制度の類型設定を行なう。そして、 ① the separation of powers,

⑧ procedual due processes of law, ⑧ the concept of the governedの三つの民主的法制度 の属性によって、非民主的法制度を識別するメルクマールとする。また、公法・私法制度の関係

について、その法社会学的方法視点を、次のようにあげている。

① 公法及び私法制度において、若干の重要な構造的・機能的類似性あるいは非類似性とは何 か。

⑧ 公法制度と私法制度との相互関係とは何か。

⑧ 公法制度相互間の関係はどうか。

④ 私法制度相互間の関係はどうか。

⑤ 公法・私法いずれの場合にも、法制度はどのような条件のもとで、非民主的なタイプから 民主的なタイプに、また、その逆の方向に転移するのであるか。

⑥ どのような条件のもとで、民主的あるいは非民主的法制度は公法制度から私法制度に、あ るいはその逆の方向に転移するのであるか(16)。

これを学校慣習法の分析からすると、学校経営における社会関係の民主化が、どのようなプロ セスで慣習法化されるのかという問題であるOそして、それは前記の学校公法億域における私法 領域の現代的拡大化の方向と民主化との関連の問題であり、また、生ける法慣習法への注目の問 題でもある。しかし、この点は、前述の検討からしても学校内部法(慣習法)としての私法領域 の認識の仕方にはまことに様々なものがあり、具体的帰納的分析の問題として残されたのであっ m

そして、さらにW.M.エバンによれば、上記の諸論点を比較法制度的見地に立って、 M・ウ ェ‑バーの四つの法類型的分類とかみ合わせて考察するo M.ウユ‑バ‑は、相異なる公法制 度の比較歴史的分析のために、法創造(lav‑making)と法発見(law‑finding)とに関し、四つ の規範過程の分類を、形式的一実質的、合理的一非合理的の組み合わせとして、 ①形式合理的

(formal‑rational)、 ⑧形式非合理的(formal‑irrational)、 ⑧実質合理的(substantive‑ratio‑

nal)、 ④実質非合理的(substantive‑irrational)として考えた W.M.ェバンは、これによって形式 合理的・実質合理的(formally rational or substantively rational)なものを民主的法体系とし、

形式非合理的・実質非合理的(formally irrational or substantively irrational)なものを非民主的

法体系として考えている。そして、このような類型設定から工場運営組織と大学運営組織との比

較研究を行なう。その両者が法組織において著しい差をもち、前者は非民主的法体系、後者は民

主的法体系に類似する、という。それは、前者が商品生産に重点づけられるのに対し、後者が知

識の創造と分散(伝播)という組織目的をもち、高度の専門的職業構造をもつからであるとす

る。さらに、また、その観点から法制度に対する規範意識・規範受容の程度・従属関係などをと

(11)

96

学校慣習法分析の基礎理論C二〕 (高野)

りあげようとする(17)。

このようなことは、学校慣習法の類型設定にあたり、当然考えなければならない視点である。

ただ、ここで留意すべきは、民主化の概念と合理化の概念とを学校経営の場でどのように位置づ け、関係的にとらえるかによって、その類型の内容的理解が異なるであろうということである。

W.M.ェバンが民主的法的性格を形式的・実質的合理性と等しいものとおく考え方には一応納得 できる。しかし、その実質的合理性は法の社会的構造あるいは学校経営の社会的構造に関係する ものであるという考えに立てば、民主化はすぐれてそこに関係する概念である。また、その形式 的合理性は、法の論理的構造あるいは学校経営の経営技術的論理構造にかかわるものである。そ れをただ形式的・実質的合理性の、平板的並列的民主化過程‑の包含としてとらえることには、

いささか疑問なしとしない。

学校経営法・学校慣習法の民主化と合理化は、より立体的に焦点づけて考えるならば、学校経 営の社会的構造の民主化と、技術的構造の合理化という面でとらえるべきであろう。いいかえれ ば、それは学校経営の社会的構造の実質的合理化(民主化)と、技術的構造の形式的合理化(合 理化)との関連としてつかまれるべきであろう(18)。

また、法社会学的方法の重点は、学校経営法・学校慣習法の社会的構造の実質的合理化(‑氏 主化)に向けられていることはいうまでもない。それによってこそ、真に法の論理的構造(経営の 技術規範的論理構造)の合理化が期待できるのである。なぜならば、学校慣習法の法社会学的分 析対象としての法規範の社会的構造とは、法規範によって表現されるところの、あるいは法の適 用、執行を通じて現われるところの、現実の学校社会関係をいうからである。また、その論理的

° t ° ° ° ▼ ° ° °

構造とは、その現実の学校社会関係についての、立法者の意志を媒介とした価値判断作用の論理 的定着にはかならないからである。いずれにしても、それが学校の社会関係の実質的合理化(氏 主化)を要求する規範分析の科学であることにちがいはないからである。

本稿の方法論は、このような認識のもとに、現実の法論理的な問題意識を仮説とし、それを法 歴史的方法に重点をおいて証明していこうとする。また、法比較的方法を歴史的類型の設定を中 心にすすめる。その意味では、法論理的アプローチとしての現実の規範調査や、空間的比較研究 にもとづく類型設定へのアプローチは、なお専門的領域として残されているo

C五〕本研究における学校慣習法の分析視点と作業仮説 1.学校慣習法の分析視点

生ける法としての現実の学校慣習法の法社会学的分析の具体的視点は、以下のように考えるこ とができよう。

① 国家法・制定法(とくに教育法を中心とする)と学校慣習法の一致及び矛盾関係の展開過 程の分析。これには前記両者の関連構造の諸類型が分析のメルクマールとなろう。

⑧ 学校慣習法の規範秩序(客観的構造)と教師の規範意識(主観的構造)との相関過程の分 m

⑧ 学校慣習法とその担い手(Trager)教師の階級性との関連過程の分析。

④ 学校慣習法と学校紛争・法的紛争との関連過程の分析。

⑤ 学校慣習法とその他の社会規範(ここではとくに倫理規範)との識別と関連の分析。

⑥ 学校経営条件の相違と学校慣習法との対応関係過程の分析。

⑦ 学校慣習法の担い手としての学校成員とくに教師及び教師集団の、法規範をめぐる権利義

(12)

学校慣習法分析の基礎理論C二〕 (高野)

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務関係(Sanctionの構造)の展開過程の分析。その第‑の側面は、学校慣習法をめぐる権力 支配体制の分析であり、第二の側面は、個々の学校の具体的場における集団的力関係の分析 である。

⑧ 学校慣習法の論理的構造と社会的構造の相互作用・反作用の運動過程の分析。このこと は、また、学校慣習法・学校経営規範の合理化と民主化の過程分析の関連として、とらえら れるべきことを意味する。

学校慣習法の生成・発展・消滅の諸過程の法則性を探究するために、上記のような具体的視点 が考えられる。がしかし、これらの視点は、ただ単に同一平面に並存しているわけではない。そ れは、立体的に相禍遵してからみ合っているものであるo まず第一に、 ⑧の視点が他の視点と異 なるところは、後の仮説設定場面で吟味するように、それが大きな分析のメド(枠組)を提示す るものであり、また他の諸視点を立体的に総合する枠組をなすことにある。なぜならば,そもそ も本稿の基本課題は、学校慣習法の法的論理技術形態と一定の社会関係との相互作用・反作用の 過程を通じて、その規範がいかに生成・発展・消滅していくか、またそれと対応して、その社会 関係がいかに変化・発展していくかの、法的社会現象の運動法則をみることにあるからである。

また、第二に、 ⑦の視点は、上記⑧の論理的構造と社会的構造の関係過程の分析視点が基本的

° °

枠組を提示するのに対して、その基本的内容をなし、軸を与え、焦点づけるものである。なぜ ならば、学校慣習法規範の基本的性格は、結局、その担い手とくに教師の権利義務関係(San‑

ctionの構造)のいかんによって、決定されるからである。したがって、また、 ⑧をのぞくその 他の視点は、 (参の法規範の権利義務関係に帰納し、 (釦こ集約するための、具体的諸側面の分析・

展開過程としてみることができる。

2.学校慣習法分析のための作業仮説

さて、上記の諸視点に対応して、作業仮説としてどのような内容が想定されるべきか。やや基 本的考察(説明)をも加えながら、それを考えてみることにしよう。

(彰 国家法・制定法としての教育法と学校慣習法との関連過程について

<仮説1> わが国教育法における制定法主義の著しい形式的先行現象(市民法性の欠如(19) は、真の意味での学校慣習法を成立させ、育成することを遅らせたであろう。したがって、そこ における学校内部法(校則・校規等)は、制定法の単なる形式的延長という消極的補充的意味し かもたなかったであろう。それは第二次大戦前・戦中の基本的状況ではなかったか。

<説明> わが国近代学校の発生は、市民社会的な教育の成立基盤をもたずしてなされ、著し く制定法主義によって出発した。そこには近代学校の生ける法としての学校慣行及び慣習法を欠 き、それとの関係をもたず、欧米学校制度が移入され、上から教育法規範を与える形でなされ た。したがって、近代学校慣行が成立するのは制定法施行以後の問題であり、それ以前に存在し た学校慣行が重視され、また、制定法に吸収されるという過程はあまりみられなかったであろ う。

く仮説2> そのような第二次大戦終結までの著しい制定法先行・遵奉主義が、学校内部法の 慣習法としての「進取的補充性」 ( 「現代的積極的補充性」)を育成しなかった原因は、いわゆる

° ▼ e ° ° ▼ ° ° °

絶対主義的教育体制の性格に求められよう。

<説明> 「体制社会の歴史的発展の方向からみれば、近代社会の法原理としては慣習法の制

限の方向をとり、自覚法としての制定法主義をとる」(20)ことは考えられる。しかし、そのことは、

(13)

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学校慣習法分析の基礎理論〔二〕 (高野)

慣習法が全く過去の法的形骸であることを意味しない。 「制定法が固結し、ようやく保守性を帯 びて社会の現実との間にギャップを生ずるに至るとき、慣習法の補充的効力または破壊的効力を

° ° ° ° ° e ° °

通して進取的な規範内容がその具現をみいだす」 (21)ことが考えられるのである。現代的動的社会 における慣習法は、むしろ制定法との「共存的均衡」(22)の問題としてとらえられなくてはならな い。そして、また現代慣習法は支配者のものではなく、被支配階級大衆の規範意識の表現形態な のである。それは、市民法から社会法への必然的過程において立ち現われるものなのである(23)c

教育制定法との共存のもとに学校慣習法を生ける法として用い、学校経営管理の自主自律性を 強謝することは、教育的ビェロークラシイの悪弊の是正に必要なことなのである.しかし、この

° ° ° ° e ° ° ° ° ° t

ような現代的学校慣習法の積極的意義は、戦前・戦中の絶対主義的教育体制下では育たなかった であろう。したがって、そこでは学校慣習法が教育制定法と消極的一致関係しか保ちえず、制定 法によるきびしい制約をうけ、慣習法を稀薄にしてしまうことになったであろう。

⑧ 学校慣習法の規範秩序と規範意識との関連について

く仮説3> 学校慣習法の規範秩序と学校成員とくに教師の規範意識との間には、何らかの意 味で垂離が予想されよう。そして、それは規範意識における規範秩序‑の、顕在的あるいは潜在 的アパシイという形をとって、現われよう。そして、午のことは何ほどかの程度において第二次 大戦後も継承されようが、それは基本的には、解消されつつあるであろう。

く説明> それを少し具体的にみるならば、これまで学校の規範秩序は、学校経営・学校管理 のための内規とか運営規則とかいう形をとって規定されてきたとおもわれる。そして、そこでは 何らかの意味で、学校における成員とくに教師の教育慣行とされるものが、教師の関心のもとに 規則化されたと考えられる。絶対主義的戦前・戦中の教育体制下においても、学校内部法が教師 の意識と全然無関係に構成されたとは考えられない。とくに教育作業的側面においてそういえよ う。学校運営規範のすべてがはじめから全く校長の職務命令としてのみ存在し、それによっての み形成されたということは、絶対主義体制下においても全面的に肯定できるとはいわれないであ ろう。教育的内面性は、そこまで完全に外部的に律しきれるものではないであろう。その意味 で、 「校規」という戦前・戦中の内部法を、完全に校長の職務命令という形式でのみとらえる兼 子仁説には、ややきめの荒さがあるのではないか(24)。

しかし,そうとはいえ、結局はその学校内部法の実質的役割機能からすれば、教師をはじめと する成員の規範意識は、第二次大戦終結まではミニマムに圧縮され、霧散させられてしまったに ちがいない。教師や教師集団の意識を、行政や校長の著しく非合理性非民主性をおびた職務命令 の枠内におしこめ、その枠内でのひそかな諦命と自慰に追いこんだであろう。そして、またそれ は、学校教育・経営活動における成員の自主自律的規範意識を育てなかったであろう。

<仮説4> 日本の学校法は明治以降長い間著しく公法的な観念‑とくに古典的営造物論によ って独占されてきたとおもわれる。すなわち、著しく教育行政法的強制的観念によっていろどら れてきたとおもわれる。そのために、公法的性格のもつ上部構造性が私法的下部構造的なより切 実な生存権の要求に支えられていなかった戦前の学埠とくに教師の規範(権利)意識状況のもと

では、教師の職場における慣習法的規範意識を高めえない場合が多かったのではあるまいか。

く説明> 一般法則としては、とくに人間の生存的要求にかかわる私法的側面においては、国

家法・制定法と矛盾する生ける法としての慣習法は、しばしば民衆の規範意識によって強く支え

られる。がしかし、他方、国家法・制定法の浸透によって、それに対応する意識が成長してくる

と考えられている。たとえば、私的所有権において、農民の入会権をうばうような国家権力の政

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学校慣密接分析の基礎理論〔二〕 (高野)

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策が、逆に農民の入会権意識を強化させる場合のように、生ける法としての慣行を解体させよう とする国家権力の政策が、それみずからの過程のなかに逆にそれを支持するような諸矛盾をみせ ることがある(25)。

このような意味における学校慣習法の要求は、教師の意識のなかにはほとんど生ずることがな かったのではないか。また、教育そのものが生存権的基本権的な権利として意識されることのな かった戦前・戦中においては、子どもの教育を受ける権利(学習権)や教師の教育権限やが不明 確であり、それらを確保するという切実な要求が低かったとおもわれる。教職の場や学習の場の 具体的な条件の保障が、自己の基本権にかかわる重要なことがらとして意識されないことが多か ったのではないか。だから、教師が自己の学校や職場をゆがめられたり、無視されたりするよう な国家法の制定や欠如があっても、それに自律的に対応するという規範意識は育たなかったであ ろう。少くともそれが出てくるのは戦後のことであろう。

戦前・戦中においても、教師たちが自己の生活権の権利要求を全くし射、わけではなかった。

しかし、それはいわゆる「聖職意識」の犠牲とされ、真の「市民権」の獲得という意味において ではなかったとおもわれる。それは市民法(私法)意識に十分に支えられていたとはいえなかっ た。むしろ、公立学校教師としての公法的権力作用下の「下賜」的なミニマムな要求というもの ではなかったろうか。したがって、そのような本来私法的市民的要求であるところの、生活権の 要求さえ十分な権利意識に支えられていなかったのであるから、それが公法的権力作用下の職場 の勤務条件や教育活動条件の要求にまで発展し、浸透することはまず考えられないことであった とおもわれるO そこでは、たとえ俸給の値あげという私権の要求がなされた場合でも、それと学 校の職場条件の要求とは何の関係もなく、全くきりはなされたものとしてとらえられていたので はないか。そこでは私法性がミニマムに圧縮されてしまい、公法場面に真の意味で浸透するとい うような柔軟な意識はまことに乏しかったであろう。教師の下部構造的生活の権利要求は、学校 教育の公法的上部構造性と何ら対応し、交流するものではなく、むしろ生活権の要求を悪と考え

るような「聖職意識」の上部構造性によって、規範意識のすべてがおおわれていたであろう。

そのようなことが、学校慣習法をみずからの手で発見し、創造しようとする規範秩序形成の意 識と行動を育てなかったのは、いうまでもないことと考えられよう。

く仮説5> 戦前・戦中においても、少数ではあるが、生活権(市民権)にめざめ、教育権 (子どもの受教育権利と教師の教育権限)の自覚に立った教師が存在した(とくに大正期から昭 和期にかけて)。しかし、それも制定法体系のせまい枠内やその樫桔のもとでは、教師は教育作業 意識のなかにのみ逃避し、そこに真の意味での規範意識(権利義務意識)を育てえず、規範軽視 という形でのアパシイを招いたにすぎなかったのではないか。とくに大正期に行なわれた規範秩 序‑の抵抗も、法規範意識と教育事実意識とを車離させる役割しか果さなかったのではないか。

したがって、教師の教育制定法・学校内部法に対する率離意識はただ潜在的に内攻過程をたど り、真の矛盾意識にまで高まらず、それ以上拡散することなく、不徹底に終ったのではないか。

<説明> とくに大正期の教師の教育法規範軽視は、表面的には法規範へのアパシイというポ ーズをとり、内面的にはそれに対する漠然たる抵抗意識に終ったのではないか。したがって、そ こでは、真の意味での権利意識に支えられた法規範意識にまでの高まりがなかったであろう。ま た、昭和ファシズム期の反体制教師にしても、結局は法娩範体制の枠内でのわずかな間際に逃避 するにとどまり(たとえば綴方教育運動のように)、積極的な学校内部慣習規範形成のエネルギ

ーたりえなかったのではないかO

(15)

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学校慣習法分析の基礎理論C二〕 (高野)

そして、そのいずれもが法規範に対する規範意識をもってではなく、単に教育事実意識を対抗 させるにすぎなかったのではないか。そのことは、結局、法規範現象への無理解、法認識の低さ を意味するものであろう。そこには、法規範への奉離意識はあっても、それを根本的にたてなお そうとする矛盾意識にまでの深まりが不足ではなかったか。そのことが、結局、当時の教師の法 規範に対する一般的盲従性を克服するだけの、拡散と浸透をとげえなかった原因であったのでは ないかO戦後においては、そのようなことが皆無とはいえないが、少くとも何ほどかの転質をと げたと考えられないか。

<仮説6> このようなことは、また教師養成過程における法的教養の浅さや、学校経営管理 や教育行政的教養の浅さなどにもとづいたものではなかったか。

⑧ 学校慣習法とその担い手(Trager)の階級性との関連過程について

<仮説7> 学校教育・経営においても、その部分社会内において、体制の階級性は必ずしも そのままの形で反映するとはかぎらず、法の本質及び公教育の本質に根ざす妥協性のゆえに、学 校慣習法の外見的超階級性を濃厚にするであろう。がしかし、また、それは現実的には複雑な屈 折形態をとって、体制の優越する階級的性格を反映する場合もあろう。(現実的には、階級性が自 覚されないなどの形をとって。)そして、そのような傾向は、絶対主義的戦前・戦中の体制下では

比較的著しくみられるのではないか。

く説明> 学校慣習法の担い手を広く解すれば、地域の住民をふくむ学校内外の集団というこ とになろう。そして、また狭くは学校内部集団とすることができる。しかし、最も妥当な意味に おいては、それは教職員集団とくにその基幹たる教師集団とすべきである(26)。

法はその本質において、現実社会の諸階級の妥協の産物であり、超階級的なものでなければな らないとされているO一般に相対立する階級が社会の内面を横断している場合には、 「同一の法 的規範またはそれによって維持される法律制度の評価に関して相異なる意見の対立をきたす可能 性」が存在する。また、階級的分裂はおのづから法の形成過程に影響し、比較的優勢な階級が自 己の要求を規範形成のうちにもちこむことは考えられるところである。しかし、それにしても、

それは相括抗する利害の妥協のうえに成立するものであり、その利害のいずれかがすべてを満足 させることはありえない。法は「均衡状態の表示」であり、 「平和的秩序」である。純粋な階級 的法は存在せず、 「多かれ少なかれ弱められた」体制社会の法として出現する(27)。

それゆえに、法のトレーガ‑の性格を単純に資本と労働の二分割法によってとらえることは、

社会の複雑な発展段階には即応しない。きわめて多様なニュアンスをもった階級性が、個々の利 害関係において複雑な組み合わせをもって対抗し、錯綜しているとみなければならない。ある種 の法規範において対立する個人・集団も、他の法規範において利害関係を一にすることが存在す る(28)。一般に、慣習法についても、 「法は階級性をその本質とするものではなく、却って超階級 性または共同社会性を本質とする」 (29)といいえよう。

しかし、そのようなことは、あくまで法のあるいは慣習法の本質的理想的形態におし、、てであっ

て、現実的には、それは「多分に回顧的な観念的・楽観的態度たることを免れない。」 「慣習法も

畢竜階級的性格から全くは解放され」えないのである。むしろ「制定法に比して慣習法がその階

級的性格において濃厚なる場合すら生じうる」 (301とされる。制定法にくらべて「社会的現実への

より緊密なる契合性」をもてばこそ、そのような性格がより表面化する場合もあろう。慣習法が

時の支配階級の道具となりうることは現実にありがちなことなのである(31)。そして、また「近代

市民法の外見的超階級性は、近代法秩序のもとでの国家法と生ける法との率離を分析する場合の

(16)

学校慣習法分析の基礎理論〔二〕 (高野)

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もっとも基本的な指標をなすもの」 (32)である。それゆえ、制定法・国家法の実質的形骸化、保守 化、生ける法との車離こそ、また慣習法の積極的効力や補充性を生むことになる。前記とは逆 に、それは被支配階級による法修正の用具ともなりうるのである。 「しばしば院習法はその事実 上の効力において制定法よりも強力」な場合があり、したがって、そこに被支配階級性の貫徹の 強さをみることもできるし、あるいは支配階級の強力なる用具と堕することにもなるのである。

このようにして、事実作用性の濃い学校教育・経営の場においては、そこに密着した慣習法の強 力な効力をより‑そう期待しうる。が、その階級的性格は、まさに個々の学校慣習法の担い手た る学校集団・教師集団の階級性によって、いろどられることになろう。

<仮説8> 上記をとくにわが国教師(集団)の歴史社会的性格からみるとき、その中間層 的、セミ・インテリ的性格や消費文化的不毛性が資本主義的志向において彼らのエネルギーを消 耗し、それゆえに学校慣習法の現代的「進取(積極)的補充性」を保障しえない場合があるであ ろう。そして、戦前・戦中においてその傾向は著しく、何らかの変化をとげたとおもわれる戦後 においても、それは何らかの形をとり継承されているのではないか。

く説明> 戦後について補足するならば、 「教員組合による教育法規研究がわが国はじめての 非政府的立場の教育法規研究として組織性をもって発生した」 (33)とされている。また、その影響 のもとに、組織的教育法制闘争も頻発している.しかし、それは単に制定法批判のフューズにの みむけられ、職場の慣習法という具体的脚下の規範のトレーガ‑としての自覚に、なお不十分な ものを内蔵しているといえないであろうかO そして、そのことは、戦後教員組合が一部上層の階 級的意識の強いものと、そうでない底辺の層とに分かれて、浮動した性格をもっていることとも 何らかの関連をもっているのではないか。また、その浮動性は教師の中間層的性格やセミ・イン テリ的性抑こ根ざしているのではないか。それゆえに、戦後、教育制定法レベルの強い法制闘争 が展開されているにもかかわらず、職場の慣習法性を積極的具体的に、幅広く構想していくェネ ルギ一になお不十分なものがあるといえないか。

④ 学校慣習法と学校紛争・法的紛争との関連過程について

く仮説9> 戦前・戦中の教育紛争における制定法フェーズの法解釈は、学校慣習法や学校慣 行を、時の体制の支配権力にのみ有効な形で用いてきたのではないか。

く説明> 戦前・戦中においても、学校教育をめぐる事故や紛争が法廷問題になった例は多 い。ただ、その特長をみると、教育裁判といわれるものの大半は国家制定法解釈をめぐってなさ れ、それ以外の法系統を問題にしたものはほとんどなかったとおもわれる。しかし、その解釈 は、結局は学校教育・経営の具体的場の慣行の解釈を全くぬきにして行なわれたのではなかった

とおもわれる。

く仮説10> 学校慣習法は、戦前・戦中において、ある意味で学校紛争や学校事故や教育法紛 争の生起や発展をくいとめる安全弁の役割を果していたであろうし、また逆に、それが学校成員 の栓桔となる場合には、紛争のきっかけとなったであろう。

く仮説11> わが国において、学校内部慣習法がその必要度をこえて内面規制(定)にまで及

び強化されるのは、戦前・戦中のような絶対主義教育の体制強化のときであろう。そして、それ

は、学校集団の体制秩序が弱まり、紛争への発展の可能性が高まるとき、一そう反動的に強化さ

れたであろう(たとえば、明治後半期のそれ、大正期の反動としての昭和ファシズム期のそれな

どほそういえないか)。その意味で、戦前・戦中の学校慣習法は真の意味での慣習法ではなく、消

極的制定法従属の慣習法であったといえないか。

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