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大 野 彰 1

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(1)

共同揚返を行う製糸結社が日本の 生糸輸出において果たした役割について

大 野 彰 1

は じ め に

フリュッゲによれば,アメリカ絹工業 の特徴は,不熟練労働者が機械を使って 規格化ないし標準化された製品,即ち定 番品を作ることにあった(

1

)。かかるアメリ カ絹工業の諸特徴がうまく発揮されるた めには,定番品の原料となる生糸もまた 不熟練労働者でも取り扱いが可能なよう に規格化・標準化されていなければなら ない。この点についても,フリュッゲは,

アメリカ絹工業が繭の改良と生糸を枠に 巻き取る方法

(Haspelmethoden)

の改良を 通じて生糸の標準化

(Standardisierung der Rohseide)

に直接的な影響を与えたので,

第一次世界大戦前に既に日本の原料生産 とアメリカの消費の間に確固たる関係が できていたと指摘している(

2

)。この指摘に 登場する⽛枠⽜

(Haspel)

には,繰糸工程 で生糸を巻き取る小枠と揚返工程で生糸 を巻き取る大枠の両方が含まれると考え

(出所) The American Silk Journal, Vol.

21

. No.

6

., June,

1902

, P.

38

.

図 1 ẫ

(2)

てよい。というのは,別の箇所でフリュッゲは,ヒューバーの著作を引用 しつつ,アメリカの需要は完全に等質の生糸を要求したので,輸出向けの 日本産生糸はアメリカの需要に合致するように作られた大枠に揚げ返され 不均質性が除去されると述べているからである(

3

)。しかし,フリュッゲは,

アメリカの需要に合致するように作られた大枠とはどのような大枠だった のかについては,何も述べていない。この点を解明することが,本稿の課 題の一つである。

大枠との関連で,ẫについて考察することも本稿の課題である。ẫとは,

大枠に巻き取った生糸を結束して外したものを指し

(図 1 )

,この状態にな って初めて生糸は商品として完成する。絹織物の原料としてアメリカに輸 入された生糸はẫの形で輸入されていたのだから,フリュッゲのいう⽛生 糸の標準化⽜

(Standardisierung der Rohseide)

とは,何よりもまずẫの規格化

・標準化でなければならない。それでは,アメリカの不熟練労働者でも取 り扱いが容易なように規格化・標準化されたẫとは,どのようなẫだった のであろうか。

2

ẫ の 標 準 化

A 繰返し工程の意義

アメリカを含む欧米各国に輸入された生糸のẫは,浸漬

(ソーキング /soaking)

工程を経た後に繰返し

(winding)

工程に投入された。浸漬工程とは,

生糸の固着を緩めて加工しやすくするための工程で,生糸をẫのまま石᷽

・牛脚油・水を混合した乳状の液に漬けてから引き揚げ,一昼夜乾かす工 程を指す。単に混合液に浸けてから引き揚げるだけであるから,不熟練労 働者でも浸漬工程をこなすことは難しくはなかった。問題は次の繰返し工 程にあった。繰返し工程を処理するためには繰返し機

(winding machine/

winding frame)

と呼ばれる専用の機械が使用された。図

2

に示した繰返し 機には

2

つの六角形の枠が取り付けられているが,これをフワリ

(swift)

(3)

いう。繰返し工程を担当する労働者は,フワリに図

1

で示した生糸のẫを 掛け,ẫから

1

條の生糸を引き出してボビンに巻き取っていく。繰返し工 程でボビンに巻き取られた生糸は,経糸として用いるのであれば整経

(ワーピング /warping)

工程に,緯糸として用いるのであれば管巻

(キリング /quilling)

工程に回された。

アメリカで繰返し工程を担当していたのは年齢が

16

歳以上の女性で,そ の仕事は繰り終わったẫを補充したり糸が一杯になったボビンを取り替え たりすることと作業の途中で切れた糸を᷷ぐことであった(

4

)

1

人の労働者 がなるべく多くのフワリを担当できれば生産性が向上するのだが,この繰 返し工程を担当していた工女もまた不熟練労働者だったという点に問題が あった。そこで,アメリカでは不熟練労働者であっても取り扱いやすいよ うな形にẫが規格化・標準化されていることが求められたのである。

アメリカ政府関税委員会は繰返し工程の意義を説明して,⽛緯糸と経糸

(出所) The American Silk Journal, Vol.

1

, No.

7

, July

1882

, p.

110

.

図 2 繰返し機

(4)

の両方を準備することは織布工場の最初の工程であるが,それは生糸を,

撚った生糸であれ無撚の生糸であれ,ẫからボビンに巻き取ることなので ある(

5

)⽜と説明している。従って,繰返し工程はアメリカに輸入された生糸 がくぐり抜けるべき第一関門になっていた。しかし,この繰返し工程を過 ぎさえすれば,後に続く諸工程で問題が起きることは少なかった。従って,

生糸がアメリカ市場で受け入れられるためには,そのẫが繰返し工程に掛 けやすい形に標準化されていることが望ましかった。

ところが,かつてアメリカを含む欧米各国に輸入されたẫの形状はまち まちで統一がなく,品質面でも繰返し工程に掛けるのに難渋するものが 多々あった。そのような生糸のẫでもヨーロッパの熟練工であれば対応で きたが,アメリカの不熟練工には手に負えなかったという点に大きな問題 があった。

B 固着の除去

生糸を繰返し工程に掛けやすい形に仕立てるためには,まず生糸に固着 の無いことが大前提となる。固着とは,生糸に含まれるセリシンのために 生糸同士が膠着する現象を指す。ẫから生糸を引き出す際に生糸に膠着が あると,そこで生糸が切れて繰返し工程が中断してしまう。繰返し工程で 生糸が切れると,繰返し工女は生糸の切れ端

(緒)

を探し出して᷷がなけれ ばならない。すると,時間を浪費するので,労働生産性が低下する。しか も,切れた生糸を᷷ぐ際に,どうしても屑糸になる部分が出てくるので,

原料生産性まで低下してしまう。従って,繰返し工程で生糸が切断すると 二重の浪費が生じるので,切れやすい生糸は嫌われた。固着は生糸の切断 を引き起こすので繰返し工程にとって大敵で,特に賃金の高かったアメリ カでは,労働生産性の低下につながる固着はあってはならない欠陥とされ た。

この点でイタリアやフランスは有利であった。固着は乾燥が行き届かな い繭を原料として使用した場合にできやすいが,乾燥した風土のイタリア

(5)

やフランスでは繭を乾燥させることは容易だったからである。これに対し て湿潤な風土をもつ中国や日本では繭を乾燥させることは難しかったから,

生糸に固着ができやすかった。しかし,生糸に再繰ないし揚返を施せば固 着を取り除くことができた。そこで,労働の節約を重視するアメリカの製 造業者は,中国産生糸や日本産生糸に対して再繰ないし揚返を施すよう求 めた。その上でẫをアメリカの不熟練労働者でも取り扱い容易なように仕 立てることが求められた。

C 標準ẫの仕様

熟練度の低いアメリカの繰返し工女でも取り扱いが容易で,繰返し工程 で作業が捗るように生糸のẫを標準化するためには,どうすればよかった のか。米国絹業協会は

1902

年に日本・中国・イタリア・フランスの生糸生 産者に対して勧告を行い,ẫの造り方を改めるよう勧告した(

6

)。さらに,

1909

年には中国の広東の生糸生産者に対して改めて勧告を行い,やはりẫ の造り方を改めるように勧告した。ところが,この

2

つの勧告で米国絹業 協会が模範として示した標準ẫ

(米国絹業協会はそれをアメリカ標準ẫと称し た)

は,実は日本の生糸生産者が早くも

1870

年代後半から

1880

年代前半に かけて使用するようになったẫの一部を改変したものであった。つまり,

表 1 標準ẫの原型

条 件 邦文文献上の初出

大枠には六角枠を用いる。

大枠の周長(従ってẫの長さ)を 1 メートル 50 セ ンチにする。

大枠の枠角を 2 分 5 厘幅の弧とする。

ẫ幅を 6 センチとする。

1 ẫの量目を 9 匁ないし 10 匁とし, 2 ẫを重ね 揚にする。

揚返の際に姫綾を振る。

力糸を向かい合わせに結び,ẫを三つ編みか五 つ編みにする。

円中( 1875 ) 円中( 1875 ) 森田( 1885 ) 円中( 1875 ) 碓氷精糸社( 1879 ) 円中( 1875 )

清水( 1885 ),星野他( 1885 )

(6)

標準ẫの原型は日本で誕生したもので,それを構成する要素の幾つかは日 本人が考案したものであった。標準ẫの原型を表

1

として示した。

1

に掲げた

7

項目の要素には次のような意義があった。

Ⅰ 大枠には六角枠を用いる。

生糸を巻き取る大枠の形は,かつては生糸生産者によってまちまちで,

四角枠・六角枠・八角枠などがあった。この中で最も望ましいのは八角枠 であったのかもしれないが,製作には手間と費用が掛かったであろう。製 作に要した手間や費用と効果を比べれば,六角枠で足りたものと思われる。

六角枠であれば大枠の枠角が生糸を傷めることが少なく,繰返し工程で生 糸が切れるのを減らす効果を期待できたからである。これに対して四角枠 には製作が容易で費用が掛からないという長所があったけれども,枠角で 生糸が直角に折れ曲がることになるから,生糸が傷んで切れやすくなる虞 があった。米国絹業協会が

1902

年の勧告で示した六角枠は見易いので,こ れを図

3

として示した。図

3

の大枠には生糸を巻き取るための枠手ないし 腕木

(arm)

6

本あり,その断面が六角形を呈するので

(後掲図 4 参照)

,こ

(出所) Silk, Vol.

2

No.

6

, April

1909

, p.

23

.

図 3 揚返用大枠

(六角枠)

(7)

れを六角枠と称する。

Ⅱ 揚返用大枠の周長(従ってẫの長さ)を 1 メートル50センチにする。

先に述べたように,繰返し工程ではフワリに生糸のẫを掛け,そこから 引き出した

1

條の生糸をボビンに巻き取る。そのẫの長さ

(短縮してẫ長と 称される)

を決めるのは,大枠の周囲の長さ

(周長)

であった。大枠に巻き取 った生糸を結束して外しẫに仕立てるのであるから,大枠の周長とẫ長が 一致するのは当然である。今日の大枠とそこから取り出されるẫの長さの 関係を図

4

として示した。

問題は,大枠の周長

(従って,ẫ長)

が,国により,また一国内でも地方 により,あるいは生糸生産者により,まちまちだったことにあった。かつ ては生糸生産者の間に大枠の周長に関する申し合わせなどあろうはずもな

綛長×

½

=75cm

綛幅

枠手 5

枠手 6

枠手

4

枠手

1

枠手

3

枠手

2 75 4

3

2 6 5 4

1 1

25

mm

cm

(出所) 鈴木(

1965

)

100

頁に掲載された図の一部を改変。

図 4 大枠の周長とẫ長の関係

(8)

く,様々な周長の大枠が乱立していたからである。日本・中国・イタリア

・フランス・オスマン帝国・サファヴィー朝などの生糸生産国では自然に 産地が形成され,一つの産地の中では大枠の周長

(従って,ẫ長)

がだいた い一定の値に収斂する傾向があったけれども,同一の産地内でもẫ長が揃 うとは限らなかった。欧米の生糸消費国では様々な国の生糸を使用してい たから,様々なẫ長の生糸に対応しなければならなかった。そこで,欧米 の撚糸業者は生糸を繰返し工程に掛けるために様々な周長のフワリを用意 しておき,使用する生糸に合わせてフワリを交換し調整することを余儀な くされていた。しかし,様々な周長のフワリを用意するのは無駄だし,フ ワリを交換して調整するのにも追加の労働と経費が掛かってしまう。特に 後者の費用はアメリカで ldantingz と呼ばれ(

7

),問題視された。アメリカの 製造業者は高価な労働を節約するのに躍起になっていたから,フワリの交 換と調整に追加の労働と経費を費やすことに我慢ならなかったのである。

1927

年にスイスのシュヴァイター社

(Schweiter S.A.)

が伸縮可能な枠手を備 えたフワリを考案して特許を取得しフワリ交換の手間を省いたが(

8

),それで もフワリの枠手を調整するのに追加の労働と経費がかかることに変わりは なかった。しかし,生糸のẫ長を最適な長さに統一しさえすれば,特定の 周長のフワリを連続して使うことができるから,大幅なコストダウンにつ ながる。さらにフワリの周長を特定の大きさにするのであれば,最適なサ イズを選ぶに越したことはない。かくして選ばれたフワリの周長は,

1

メートル

50

センチであった。この周長であれば,最も速くフワリを回転さ せることができたからである。フワリを交換する手間を省くために周長が

1

メートル

50

センチのフワリだけを使おうとすれば,生糸のẫの長さも

1

メートル

50

センチに統一しなければならず,延いては大枠の周長を

1

メー トル

50

センチに揃える必要があった。

Ⅲ 大枠の枠角を 2 分 5 厘幅の弧とする。

生糸を大枠に巻き取る際には,大枠の枠手ないし腕木で角になっている 部分,即ち枠角が生糸と直接接触する。図

5

のように枠角が広き

(9)

に失すると生糸と枠角が接触する面が過 大になって生糸に粘着をきたし,固着が できてしまう。その反対に,図の

のように枠角が狭きに過ぎて尖っている と生糸を傷めてしまい,生糸が切れやす くなる。そこで,図の

のように,

2

5

厘の弧を描くように枠角を丸めるのが よいとされた(

9

)

米国絹業協会の

1909

年の勧告もこうし た考え方を踏襲し,図

6

の右側に示した ように枠角を

1

/

2

インチの弧とするよう 求めた。これに対して左側では枠角が

1

/

8

インチの弧になっており,これでは 狭きに失するとされた。図

6

の右側が図

5

に酷似していることは,一目瞭然 であろう。

(出所) 農務局・工務局(

1885

)

図 5 大枠の枠角の例

(

1885

年)

(出所) Silk, Vol.

2

No.

6

, April

1909

, p.

24

.

図 6 米国絹業協会が推奨した枠角

(

1909

年)

(10)

Ⅳ ẫ幅を 6 センチとする。

固着の防止という観点からすると,ẫ幅は広い方がよい。その方が生糸 の重なり具合が薄く,生糸が乾きやすいので固着ができにくくなるからで ある。しかし,通常は一つの大枠に

4

ẫを揚げ返していたから,ẫ幅があ まりに広いと大枠上でẫとẫの間の間隔が狭くなって生糸が交叉してしま う。大枠の枠手の長さにもよるが,円中はẫ幅は

6

センチでよいと考えて いた。碓氷社では,試行錯誤の末にẫ幅を

2

2

(約 6サ67 センチ)

ないし

2

3

(約 6サ97 センチ)

にすることに落ち着いたという(

10

)。これに対して米 国絹業協会は,

1902

年の勧告でも

1909

年の勧告でもẫ幅を

3

インチ

(約 7サ62 センチ)

とするよう求めていた。

Ⅴ 1 ẫの量目を 9 匁ないし10匁とし, 2 ẫを重ね揚にする。

円中の弟子であった森田は,

1

ẫの重さ

(量目)

が多すぎるとフワリの回 転が自由でなくなり切れやすくなると

1885

年に述べている(

11

)。やはり円中の 弟子であった吉田は,その理を詳しく説明している。吉田によれば,繰返 し工程でフワリに掛けた生糸をボビンに巻き取るに際して,フワリが既に 回転し始めていれば慣性で回転が続いていくものである。しかし,フワリ が回転を始める時には,一縷の生糸が引くことによって回転が始まる。ẫ の量目が

10

( 37サ5 グラム)

であれば,生糸はこの重みに耐えてフワリを回 転させることができるが,

20

匁だと重すぎて生糸が切れることがよくある という(

12

)。吉田がこのように説明した

1890

年の段階では,日本産生糸の糸質 はまだ弱く強伸力に乏しかったので,

1

ẫの量目を

10

匁に止めた方が無難 だったのである。碓氷社々則

( 1879 年)

の第

144

條に⽛一枠糸量凡十匁ヲ度 トス(

13

)⽜とあるのも,日本産生糸の糸質がまだ弱かった時代としては適切だ ったのであろう。

1

ẫの量目が

9

匁ないし

10

匁であった段階では,捻造にする際に

2

ẫを 重ねる合揚にしていた。

1906

年には調査工場の

80

% が合揚にしており,

多数派を占めていた。しかし,合揚では一度に巻き取る糸の量が少ないの で大枠を頻繁に取り替える必要があった上に多くの予備の大枠を用意しな

(11)

ければならなかった(

14

)。アメリカ側でも

1

ẫの量目が

10

(約 37サ5 グラム)

だ と繰返し工程でẫを頻繁に補充しなければならないので,その手間を省く ためであろう,

1902

年の勧告で

1

ẫの量目を

2

½オンス

(約 70

875 グラム)

いし

3

オンス

(約 85サ05 グラム)

とするよう求めてきた。そこで,日本側では

1

ẫの量目を

18

匁ないし

20

匁とした上で単揚にするようになった。日本側 では単揚にすると生糸に含まれる水分の散逸が不十分になって固着ができ るのではないかと心配したが,結局,単揚への転換が進み,

1906

年には単 揚にしていたのは調査工場の

6

% だけであったが,

1915

年には

87

% が単 揚を採用していた。なお,生糸を

9

匁ほど巻き取ったところで大枠を停止 して緒留と力糸を施した後に,その上にさらに

9

匁内外の生糸を巻き取っ てこれにまた緒留と力糸を施す重ね揚と称する方法もあったが,その比率 は元から低く

1910

年代に入るとごく僅かになった(

15

)

Ⅵ 揚返の際に姫綾を振る。

揚返の際に回転する大枠の上に生糸がなるべく均等に巻き取られるよう に生糸を左右に振りながら巻き取ることを綾振という。綾を振るのは,生 糸の乾燥を促進して固着を防ぐと共に繰返し工程で生糸が切れても緒

(切 れ端)

を容易に見つけて᷷ぐことができるようにするためである。日本の 在来製糸法では綾振が不十分であったため,ヨーロッパから姫綾を振る技 術を導入された。綾を振るには,往復運動をする絡交槓に付けた蕨手に生 糸を通し生糸を左右に振りながら回転運動する大枠

(揚返枠)

に巻き取ると よい。その結果,ẫの表面には網目模様ができる

(図 7 )

。図

4

の左側にあ るẫの表面にも網目模様があるのも綾を振ったからである。姫綾を振るに は,絡交槓の

1

往復に対して大枠が

1サ05

回だけ回るように調整する(

16

)。その ためには,

4

つの歯車を組み合わせる絡交装置が必要であったため,

1870

年代の段階では姫綾を正確に振ることは容易なことではなかった。筆者は,

円中文助がイタリアから持ち帰った姫綾を振る技術が,速水堅曹や森田眞,

中野健治郎

(吉田建次郎)

などの円中の弟子たちを介して群馬県の座繰糸生 産者や長野県の器械糸生産者の間に広まったと考えている。

(12)

その後,

1880

年代にアメリカのチニー兄弟社で鬼綾

(網綾,ダイヤモンド 綾)

が考案された。これは絡交槓が

33

往復する間に大枠が

50

回転すること によって得られる(

17

)。鬼綾を振ると,繰返し工程で生糸が切れた時にその切 れ端

(断緒)

を見つけるのが容易であったから,米国絹業協会は

1902

年の勧 告でその採用を求めるに至った。

Ⅶ 力糸を向かい合わせに結び,ẫを三つ編みか五つ編みにする。

ẫを三つ編みにした上で力糸を向かい合わせに結べば運搬の際に振動で 綛幅

回転運動

生糸 生糸

綛長 ×

大枠の枠手 6 本あるうち の 1 本

( )

大枠の枠手 6 本あるうち の 1 本

( )

絡交桿

鈎 蕨 

わらび

往復運動

図 7

(13)

綾が乱れるのを防ぐことができる

(図 8 )

。後にはẫを五 つ編みにする場合もあった。

D 標準ẫの由来

周長が

1

メートル

50

センチの大枠

(揚返枠)

を用いて生 糸を揚げ返すことによってẫの長さを

1

メートル

50

セン チに統一することは,標準ẫの重要な特徴の一つである。

ここで鍵となるのは,

1

メートル

50

センチという数値を 割り出すことであった。筆者は,その数値を割り出した のは円中文助であったと考える。その根拠は,彼が著し た⽝製糸傳習録⽞

( 1875 年)

に大枠の周長を

1

メートル

50

センチにするようにとの記述が見えることにある。

それでは,彼は,どのようにしてその数値に辿り着い たのであろうか。円中はイタリアに滞在して製糸と撚糸 の技術を学んでいた折に,現地で提糸のẫ長が不揃いだ ったので再繰を施すのに難渋しているのを実見した(

18

)。再 繰工程と繰返し工程は,生糸を枠に掛けてボビンないし ロケーに巻き取るという点でよく似た工程である。従っ

て,ẫ長を一定の数値に揃えれば,生糸を繰返し工程に掛ける際にも作業 が捗ることが円中にはよくわかっていたはずである。

問題は,どの数値に揃えるかにあった。日本ではẫ長は地方によって,

あるいは生糸生産者によってばらついていたが,事情はイタリアでも同じ であった。イタリアでもやはりẫ長はばらばらで,統一されていなかった。

従って,ẫ長を一定の数値に統一するとしても,最適な数値が何かは円中 にもわかっていなかったであろう。

そこへ,米国絹業協会が日本産生糸の品質を検査した結果が届いた。検 査結果を神鞭知常が翻訳し,

1875

9

月に勧業寮に届けたのである(

19

)。その 時に円中は勧業寮に在籍していたから,円中には神鞭訳を見る機会があっ

(出所) 農務局・

工務局 (

1885

)

図 8

(14)

たはずである。神鞭の翻訳は不完全であったが,イタリアで提糸に再繰を 施している様子を見たことがあった円中には,米国絹業協会の言いたかっ たことが理解できたに違いない。むしろ,神鞭訳を真に理解できる人物は,

当時の日本では円中しかいなかったであろう。機械化された再繰工程ない し繰返し工程を欧米で直に見たことがある日本人は,

1875

年の段階では円 中だけだったと思われるからである。神鞭訳には繰返し工程で様々なẫ長 の生糸に対応できるようにフワリを交換する手間を省くためにẫ長を統一 することが望ましく,そのために最適なのは日本産生糸の見本の中でも第

75

と第

76

の生糸だという意味の記述があった。

史料

1

-

1 (原文)

糸ノ丈ケヲ一様ニ揃フルタメ需用□□ト云モノ有リ之ヲ屢〻変スルコ トヲ防クタメニ揚枠ノ大キサヲ揃フル様勧メ度モノナリ則七十六[,]

七十五号ノ如キハ亜米利加□□ニ至極適当ナル大キサナリ

(農林省 ( 1955 ) 1008 頁)

□□には繰返し機で生糸を掛けるのに用いるフワリ

(swift)

が入るものと 思われるが,神鞭には適切な訳語が思い浮かばなかったのであろう。そこ で,□□にフワリを補充して現代語訳すれば,下記のようになるであろう。

史料

1

-

2 (筆者試訳)

ẫ長を一様に揃えるのに用いるフワリというものがあるが,これをた びたび変更することを防ぐために揚返枠

(大枠)

の周長を統一するよう 勧告したいものである。則ち[生糸見本の]

76

号と

75

号の如きは,ア メリカのフワリに至極適した大きさ[のẫ]である。

なお,米国絹業協会が寄せた日本産生糸の検査結果については,神鞭訳 とは別に次田なる人物による翻訳がある。次田訳の原文と筆者の現代語訳 を以下に掲げる。

史料

2

-

1 (原文)

我々ノ輅車スウイフトヲ屢次𥅃〔変〕ナルヲ防カンカ為メニ大サヲ一様ニ為スハ 長サヲ変スルノ現今ノ估〔法〕ニ𩹸〔於〕テ緊要ナルコトナリ七十四

(15)

号及七十五号ハ米国輅車ノ為メニẫノ適当ナル長サノ見本ナリ

(⽛一千 八百七十五年第五月 / 日本絹糸ニ係ル米国絹糸会社報告⽜群馬県立文書館 H 18 - 1 - 1 近現 82 / 496 。振り仮名は原文のまま。)

史料

2

-

2 (筆者試訳)

我々のフワリをしばしば変更するのを防ぐために[揚返枠ないしẫ の]大きさを一様にすることは,[フワリの周囲の]長さを変更して いる現今に於ては緊要のことである。

74

号と

75

号[の生糸見本]はア メリカのフワリのためにẫの適当な長さの見本である。

次田訳に登場する⽛輅車⽜とは,中国で繰返しを行うのに用いた道具で,

王禎の⽝農書⽞にも出てくる。すると,次田なる人物は英語を解した上に 漢籍にも通じていたわけで,相当の教養人であったことが窺える。次田が

⽛輅車⽜に⽛スウイフト⽜と振り仮名を振ってくれたおかげで,⽛輅車⽜

がフワリ

(swift)

の意味であることがわかるし,神鞭が空白にした個所に入 るのがフワリであることもわかる。次田訳によれば,

74

号と

75

号は西條製 糸場

( 1878 年に六工社と称す)

が秋蚕の繭から製した生糸であった。すると,

神鞭訳では生糸見本の番号に混乱があったことになる。円中には次田訳を 見る機会は無く,神鞭訳だけを見たと思われるが,生糸見本を番号順に追 っていけば米国絹業協会がẫをアメリカのフワリにとって適切な長さに仕 立てていると評価したのが西條製糸場のẫであることはわかったのではな いか。そのẫ長を直接知ることはできないが,

1

メートル

50

センチだった と筆者は推定する。勧業寮に在籍していた円中は西條製糸場の製造した生 糸のẫ長が

1

メートル

50

センチだったことを知り,ẫ長を

1

メートル

50

セ ンチに統一すればよいと判断したのだと考えられるからである。イタリア 産生糸のẫ長は

2

メートル以上であることが多く,それに比べれば

1

メー トル

50

センチのẫ長はやや短い。しかし,イタリアの撚糸工場では様々な ẫ長に対応していたのだから,ẫ長をアメリカ絹工業にとって最適な

1

メートル

50

センチに統一した生糸をイタリアに輸出しても差し支えないは ずだと円中は考えたのかもしれない。いずれにせよ,円中は神鞭訳から最

(16)

適なẫ長を割り出し,それを実現するために大枠の周長も

1

メートル

50

セ ンチに統一すべきだと考えたので,その数値を⽝製糸傳習録⽞に盛り込ん だのであろう。

⽝製糸傳習録⽞は,円中がイタリアで製糸と撚糸を学んだ成果をまとめ たものだが,そこには大枠の周長として

1

メートル

50

センチだけが記され ている。イタリアでは大枠の周長は統一されていなかったから,円中が大 枠の周長として様々な数値を挙げてもおかしくはなかった。然るに,円中 が

1

メートル

50

センチとだけ記した理由もこれで説明が付く。望ましいẫ の長さが

1

メートル

50

センチとメートル法で表記されていることからも,

その数値を割り出したのが円中であったことを示唆する。

1870

年代半ばの 日本ではほぼ全ての人が尺貫法に馴染んでおり,メートル法に馴染んでい た人物はざらにはいなかったはずである。しかし,イタリアで暮らした経 験のある円中であればヨーロッパ大陸で普及していたメートル法に馴染ん でいたと思われるから,

1

メートル

50

センチとメートル法で表記してもお かしくはない。さらに,望ましいẫ長

(従って,大枠の周長)

がメートル法で 表記されていることは,それを割り出したのが米国絹業協会ではないこと を示唆する。米国絹業協会が割り出したのであれば,アメリカで一般に使 用されていたヤード・ポンド法で

58

インチと表記したはずだからである。

3

ẫの標準化に向けて行われた取り組み

A 1870年代のアメリカ市場

アメリカ絹工業の歴史は,絹縫い糸の生産から始まった。その原料とし てアメリカの製造業者が目を付けたのは,安価な中国産在来糸であった。

ヨーロッパ産生糸は品質は高かったが,高価すぎて絹縫い糸のような比較 的簡単で安価な製品の原料には適していなかったからである。ところが,

中国産在来糸は雑駁で,そのままでは使いにくかった。比較的低い賃金で も働く熟練工を擁していたヨーロッパでは,中国産在来糸に再繰を施して

(17)

使いやすい形に整理していた(

20

)。再繰とは,ẫの形になって販売できる状態 の生糸を別のẫに巻き直す作業を指す。再繰すれば加工の妨げになる固着 や大中節が生糸にあっても取り除くことができるし,その過程で繊度別に 仕分けることもできるからである。しかし,歴史の浅いアメリカでは熟練 工が不足していた上に,不熟練工でも賃金は高かったから費用が掛かり過 ぎて自国内で再繰を施すことはできなかった。そこで,アメリカの製造業 者は中国側に働きかけて中国国内で在来糸に再繰を施させた後にアメリカ に輸入するようになった。アメリカ側には再繰を重視する特別な理由もあ った。日本や中国のように湿度の高い国で生産された生糸には固着ができ やすかったが,生糸に固着があると繰返し

(winding)

の際に糸切れが頻発 して作業が中断してしまう。賃金の高いアメリカでは作業が中断して労働 を空費することを極端に嫌ったから,在来糸には再繰を施して固着を取り 除いておかなければ受け入れなかった。その上に再繰の過程でアメリカの 不熟練工でも使いやすい形のẫに仕立ててあれば好都合であったから,ア メリカ側は様々な指図を行い,中国側を誘導した。こうして誕生した中国 産再繰在来糸は絹縫い糸の原料として使用され,アメリカ市場で高いシェ アを占めた。

1860

年代にアメリカで絹織物の生産が始まった時にも原料と して使用されたのは中国産再繰在来糸であった。

1870

年代に入ってもアメ リカ市場では中国産再繰在来糸が高いシェアを占め続けた(

21

)

そこへ提糸を中心とする日本の在来糸が進出しても,中国産再繰在来糸 の牙城を崩すことはできなかった。横浜居留地にいた外商は,⽛アメリカ では,我々の知らない理由のために日本産生糸は贔ひいにされず,中国産生 糸が際立って好まれているようだ(

22

)⽜と

1875

年に指摘している。アメリカで 提糸が嫌われたのは,特に繰返し工程に掛けにくい生糸だったことが大き く影響したためであろう。速水堅曹の残した記録が,その証拠となる。速 水はアメリカでリチャードソンに提糸を繰返し工程に掛けるところを見せ られた折の様子を次のように描写している。

史料

3

(18)

1876

年]七月二十四日リチャルドソン氏に逢ひ生糸並繰返し器械を 一見す生糸は皆日本の分提糸にして其粗製を悪にくむ伊佛の糸[筆者注;

イタリア産・フランス産の生糸の意]を繰返す間に比すれば五分の一 なり[アメリカは]人給高価の国なれば其糸[筆者注;日本の提糸を 指す]に対して高価を拂ふ能はざるや当然なりと云ふ。

(⽛速水堅曹翁 の自傳二⽜⽝蚕業新報⽞第 241 号, 1913 年 4 月, 63 - 64 頁。)

一定の時間に繰返すことができた量を比較すると,提糸はイタリア産生 糸やフランス産生糸の

1

/

5

しかなかった。その理由を速水は⽛其粗製を悪にく む⽜としか説明していないが,アメリカの繰返し工女にとって提造の生糸 は扱いにくくフワリに掛けるのに苦労した上にいざ繰返し工程が始まると 糸切れが頻発して作業がたびたび中断したせいだと考えられる。一定の時 間内に処理できる量が⅕しかなければ労働を空費することになるから,賃 金の高かったアメリカでは日本産生糸を使うことは割が合わないことにな る。だから提糸に対して高い価格を払うことができないのは当然だとリチ ャードソンは述べたのである。

しかも,繰返し

(winding)

の難易の点で,日本の提糸は中国産再繰在来 糸よりも劣っていた可能性が高い。というのは,アメリカの工場で提糸を 繰返し工程に掛けるよう命じられた工女が辞めるとまで言い出したことが あったとの報告が

1879

5

月に寄せられているからである(

23

)。この報告は,

ニューヨークにいた福井信と山田修[脩]らが外務省商務局長であった河 瀬秀治に寄せたものだとされるが(

24

),実際は新井領一郎が書いたものであっ

(

25

)

。この報告にあるようにアメリカの工女が提糸を繰返し工程に掛けるの を拒否したのは,出来高払いで賃金を受け取っていたからだと考えられる。

極端に繰返し不良の提糸をあてがわれたのでは作業が捗らず賃金の手取り 額が少なくなるので,それなら辞めると主張した,というわけである。工 女がかかる主張をしたのは,当時のアメリカで主に使用されていた中国産 再繰在来糸との比較が念頭にあったためだと思われる。中国産再繰在来糸 であればどうにか繰返すことができるので我慢もするが,どうにも繰返し

(19)

にくい提糸は御免だ,ということなのだったのであろう。

先に述べたように,

1870

年代のアメリカでは専ら中国産再繰在来糸が使 われており日本の提糸は嫌われていた理由を横浜の外商は理解できなかっ た。それは,彼らがヨーロッパの出だったからであろう。ヨーロッパでは 熟練工が繰返し不良の生糸でも使いこなしたし,彼らの賃金は比較的安か ったから繰返しが不良だったために労働を多く消費することになっても痛 みは小さく感じられた。しかし,アメリカでは熟練工は不足していたし,

不熟練工でもその賃金は高かったから生糸の繰返しが不良だったために労 働を多く投入することの痛みは経営者にとって大きく感じられた。たとえ 出来高払い賃金にして労賃の支出を抑えても,手取り額が減ることに不満 をもった工女は辞めてしまうから,やはり経営者にとって良いことはなか った。その結果,繰返しが極端に劣っていた日本の提糸は忌避された。

1870

年代のアメリカ市場で日本産生糸が中国産再繰在来糸に対抗しつつ売 り上げを伸ばすには,繰返し工程に掛けやすいように改良することが欠か せなかった。日本の在来糸は輸出先を単にヨーロッパからアメリカに転換 するだけで存続できたと説く見解があるが,かかる見解は実態からかけ離 れた謬見と言わざるを得ない。

B 佐野理八の試み

ẫの標準化において先駆者となったのは,佐野理八

(利八)

であった。彼 は,

1872

年に外村家を辞して小野組に入り,奥羽総支配人として福島に来 たが,

1874

年に小野組が閉店すると

1875

年に福島に一店を開き,蚕種を選 んで養蚕法を改良し⽛揚返機を幾千組となく分ち貸し与へ⽜製糸の改良を 図ったといわれる。

1875

年に娘印の商標を付して彼が出荷した生糸は,横 浜で好評を博したといわれる(

26

)。もっとも,横浜で発行されていた英字新聞 に

1874

9

5

日に掲載された通商情報欄には la few parcels of fine Kakeda, bought at from $

550

to $

570

z との文言が見えるから(

27

),佐野が初め て掛田折返糸を横浜に出荷したのは

1874

年のことだったと考えられる。費

(20)

用がかかるにも拘らず佐野が揚返機を無償で生糸生産者に配布して揚返を 行わせたのは,

2

つの理由があったからだと考えられる。第一に,佐野は 生糸の品質を統一しなければならないと考えていたが,多数の生糸生産者 に自分の指示を守らせるのは難しいこともわかっていたので,同じ仕様の 揚返機を配布して使用させることにしたのであろう。第二に,生糸生産者 の抵抗を無くすことを狙ったのだと思われる。揚返機を無償で配布すると いうのであれば,生糸生産者は受け取るであろう。その揚返機を使って作 ったẫを買い取るといえば,代金と引き換えだから生糸生産者は喜んで生 糸を手放すであろう。佐野がわざわざ手間と費用をかけて⽛揚返機を幾千 組となく分ち貸し与へ⽜たのは,生糸生産者が疑心暗鬼に陥り自分の思い 通りに動いてくれないことを予想していたからで,揚返機を自ら製作して 無償で配布し出来上がったẫを買い取ることによって生糸生産者の不安を

(出所) 志間(

1998

)

519

頁。

図 9 娘印商標に描かれた揚返機

(21)

払拭したのだと考えられる。

その娘印商標

(図 9 )

に描かれている揚返機は,佐野の配布した揚返機と 同じものであった可能性が高い。大枠は四角枠で,左の方に見える歯車の 組み合わせによって絡交槓を左右に振っていたように見える。佐野が⽛幾 千組となく分ち貸し与へ⽜た揚返機はどれも同じ仕様だったはずだから,

佐野が出荷した娘印商標の掛田折返糸はẫ長や綾の振り方がどれも同じで,

その意味でẫの標準化を実現した最初の生糸だったと評価される。

米国絹業協会の⽝第

4

回年次報告書⽞で生糸輸入商のウィリアム=ライ ルは,

1875

-

76

生糸年度を回顧して,次のように述べている。

史料

4

過去何年も非常に多くの不平を漏らしてきた後で,今期に日本から受 け取った少量の生糸の品質が良く,その中には我々の求めに特によく 適しているものがあったと報告するのは非常に喜ばしいことである。

繰返しの点でその生糸は全てのヨーロッパ産生糸に匹敵し,

2

子糸の オルガンジンにすると繊度開差が

4

デニールを超えないほど等質であ ることがわかった。かかる品質の生糸は,価格が手頃であれば,我々 の[アメリカ]市場ですぐに良く売れ,

14

デニールから

24

デニールま でのどの太さでも使用可能であろう。しかしながら,

18

デニールから

24

デニールまでの太さであれば,[中国産の]太い再繰 Cumchucks や再繰七里糸と競争できる[安い]価格で供給されなければならない。

(The Fourth Annual Report of the Silk Association of America, April 26 , 1876 , p.

31 . 下線は筆者が付した。)

1876

年にアメリカでこのように絶賛された日本産生糸とは佐野が出荷し た掛田折返糸だったと考えられる。それが繰返しの点で全てのヨーロッパ 産生糸に匹敵したのは,ẫが標準化されていたからであろう。

アメリカ政府関税委員会が,アメリカ絹織業の発展をもたらした

3

つの 要因のうちの一つに数えた

1875

年に始まる日本の生糸生産の拡張と改善も ẫの標準化に向けた佐野の取り組みを指しているものと考えられる。佐野

(22)

が掛田折返糸の輸出を始めたのは

1874

年であるから南北戦争終結からほぼ

10

年後で,下記のアメリカ政府関税委員会の指摘とも概ね合っているから である。

史料

5

南北戦争の間に[

1861

-

65

年],[アメリカで外国製絹織物に課される]

関税が

60

パーセントに引き上げられただけではなく,広幅絹織物用力 織機が首尾よくスイスとフランスに導入された。その

10

年後[

1875

年]に日本の生糸生産の拡張と改善が始まった。これら

3

つのことが,

[アメリカ国内における]絹織物に対する大きな需要の高まりと相俟 って,アメリカにおける広幅絹織物製造の急速な成長を可能にした。

(United States Tariff Commission( 1926 )p. 28 . 下線は筆者が付した。)

もっとも,粗悪な模造品が出回ったために,アメリカ市場における掛田 折返糸に対する評価は短期間の内にḾ落した。商標の管理がうまくいかな かったからである。

C 新井領一郎と星野長太郎の試み

新井はニューヨークに着いて日本産生糸を売り込もうとした時に初めて 中国産再繰在来糸が既にアメリカ市場を押さえていることを知った。つま り,事前に綿密な市場調査を行った上でアメリカ市場は有望だと判断した からニューヨークに乗り込んだわけではない。おそらくはただ漠然とアメ リカでも生糸は売れるだろうといった程度の認識で,新井はアメリカに渡 ったのだと思われる。

しかし,新井はアメリカに着くとすぐに中国産再繰在来糸に対抗する方 法を思いついた。中国産再繰在来糸がアメリカ市場を押さえているのであ れば,それを模倣して似た製品を売り込めばよいというわけである。そこ で,新井は中国産再繰在来糸をお手本にして日本の座繰糸を改良すること にした。うまい具合に日本では以前から座繰糸に揚返を施していたから,

中国産在来糸に再繰を施してアメリカに輸出していたのと同じように座繰

(23)

糸に揚返を施せば,アメリカ市場で売れる生糸に仕立てることができるは ずであった。座繰糸の改良については阪田氏による先行研究がある。

かくして中国産再繰在来糸を真似る形で座繰糸の改良が始まった。新井 はアメリカの顧客の間を回って彼らが生糸に対して望んでいたことを聞き 取り,どのように座繰糸を改良すればよいかを日本にいた星野に書き送っ た。かくして新井が中国産再繰在来糸を真似て座繰糸の改良に乗り出した ことから,ẫの標準化に向けた新たな取り組みが始まった。新井が星野に 宛てて送った座繰糸改良の構想は次の通りであった。

史料

6

-

1

従来之市中糸当地ハ素より頃合不向キナリ欧州と雖モ彼ノ粗悪之品

ニ 而

ハ後来引続キ高価ニ売捌ク之利ナシ乍併枠之者ヲシテ不残器械糸ヲ 制[筆者注;製の誤記]セシムルハ素より難シ然ルトキハ実地ニシテ 担任致サル可キ者ニ委任シ又ハ金子貸渡し生糸相場相立候市中

出張 シ上等之糸ハ相場より何程か高直ニ買上ケ下等之分ハ眼前

ニ 而

操返 し[筆者注;繰返しの誤記]見せ上等のものヘハ少〻之償ヲ与ヘ⽛尤 も右糸ハ先ツ米国

向ケ候積リ

ニ 而

糸細太之加減及ヒ蛹之付ケ加減

操返し[筆者注;繰返しの誤記]方等前以テ坪ノものヘ教ヘ置キ

大ワク

移ス時ハ成丈ケアジ之掛ル程よろし⽜

(新井領一郎書簡,新井 系作・星野長太郎宛て, 1876 年 8 月 23 日付け,加藤・阪田・秋谷( 1987 ) 237 頁。

下線は筆者が付した。)

この書簡については阪田氏による現代語訳があるが(

28

),幾つかの点で誤り がある。例えば,新井の書簡に出てくる⽛蛹⽜とは,繭の意味である。従 って,⽛蛹之付ケ加減⽜とは,繭の粒数を指し,

1

本の生糸を作るために 合わせるべき繭糸の本数を意味している。従って,⽛糸細太之加減及ヒ蛹 之付ケ加減⽜とは,生糸の繊度を揃えるように注意せよという指示だと解 される。また書簡中の⽛坪⽜とは,養蚕と製糸を行っていた農家を指す。

さらに⽛アジ⽜とは,揚返の際に生糸に振る綾を指すと考えられる。ẫの 標準化の始まりを考える上で新井の書簡は極めて重要なので,筆者の現代

(24)

語訳を掲げる。

史料

6

-

2

従来市中に出回っていた生糸は,当地[筆者注;アメリカを指す]で はもちろん適当ではありません。ヨーロッパに[向けて輸出したと]

しても,あのような粗悪の品では将来高価に売り捌いて利益を得るこ とはできないでしょう。とはいえ,[手回しの]枠に生糸を取ってい る者全てに器械糸を製造させることももちろん難しいでしょう。そう であれば実地に担任できる者に委任し,または金銭を貸し渡して生糸 相場が立っている市中に出張させて上等の糸は相場よりも何程か高値 に買い上げ,下等の分は眼前で揚げ返してみせ上等のものへは割増 金を少々与え,⽛もっとも,上述の生糸はまずアメリカ向けのつもり なので生糸の太さの加減,繭の粒付けの加減,揚返の方法等を前も って養蚕農家の者に教えておき[生糸を小枠から]大枠に移す時に はなるべく綾がよく掛かっている方がよろしい⽜

下線部

から新井は個々の農家に揚返の施し方を教えることによっ てアメリカ市場に適したẫを造らせるつもりだったことがわかる。つまり,

書簡の日付にある

1876

8

23

日の段階では共同揚返の構想はまだ存在せ ず,個別揚返をきちんと行わせることによって座繰糸の改良を図るつもり だったのである。下線部

で新井が揚返の際に注意すべきこととして綾の 振り方を挙げていることは,注目に値する。ẫの標準化に向けた取り組み が始まった時,実行が最も困難だったのは多数の生糸生産者に正確な綾の 振り方を守らせることだったからである。新井にもそれがわかっていたの で,下線部

にあるように眼前で示すことによって揚返の正しい施し方を 理解させ,良いẫに仕立てることができた場合には多少の割増金

(プレミア ム)

を払うことを提案したのだと思われる。

新井の提案を受けて星野が座繰糸の改良を試みたいとの構想を新井に伝 えたのは

1877

2

23

日付の書簡であり,それが具体的な形を取り始めた のは

1877

3

8

日付け書簡においてであったといわれる(

29

)。座繰糸を改良

(25)

する上で技術面の要となったのが絡交装置付き揚返枠であった。石井氏に よれば,それを星野に教えたのは速水堅曹であった(

30

)。星野は,⽛速水堅曹 ニ質シテ揚返枠絡交装置ヲナスノ説ヲ得大イニ其適切ナルヲ感ジ⽜たとい われる。この点は史料による裏付けもあり(

31

),まず動かないと見られるが,

不可解な面が残っている。絡交装置付き揚返枠を実際に運営するためには 製糸結社を結成して共同揚返を行わなければならないからである。絡交装 置付き揚返枠を使って揚返を行うためには小枠に巻いた状態の生糸を集め てこなければならない。従来の座繰製糸では,農家が自家製の繭を原料に して座繰器を使って繰り取った生糸を小枠に巻き取り,それを自家の揚返 機に掛けて揚げ返してẫに仕立ててから,商人に売っていた。つまり,従 来は農家が養蚕・繰糸・揚返を自家で行い,ẫの形になった生糸を商人に 売っていた。ẫの形になれば商品として完成しているから農家はそれを商 人に渡し,引き換えに代金を受け取ることができるので,農家としては納 得しやすかった。しかし,戸毎に繰糸と揚返を行ったのでは,生糸の品質 も戸毎に異なることになる。そこで,揚返だけでも共同で行うこととし,

多くの農家が自家で繰糸した生糸を持ち寄って絡交装置付き揚返枠に掛け れば,綾の振り方などが揃ったẫに仕立てることができる。つまり,共同 揚返を行えばẫの標準化を実現することができるわけで,ここに共同揚返 の最大のメリットがあった。

ところが,絡交装置付き揚返枠を用いて共同揚返を実施するためには,

製糸結社の結成が不可欠であった。絡交装置付き揚返枠に掛ける生糸は小 枠に巻いた状態で集めなければならないが,小枠に巻いた状態では商品と してまだ完成していないから価格を確定して小枠の持ち主

(座繰製糸行って

いる農家)

に代金を払うことはできない。そこで,代金未払いのまま小枠に 巻いた生糸を出してもらい,絡交装置付き揚返枠に掛けてẫに仕立ててか ら販売し,売上金を分配することになる。つまり,絡交装置付き揚返枠を 用いるためには損益計算を共同で行う必要があり,それを担う組織として 製糸結社を結成することが必要になる。言い換えると,共同揚返の経済的

(26)

な要は損益計算を共同で行う製糸結社の結成にあった。

新井領一郎宛て

1877

2

23

日付け星野長太郎書簡には⽛今春ハ揚返し 良く匁[筆者注;揚返枠=大枠の周長の意]二メートルニ手搗[筆者注;

絡交装置の意]ヲ附ケ座操ママ取細糸ヲ精製セシメ一〻検査ヲ遂ケ細太ヲ揃ヘ 糸ノ送リ方ハ折返しニ仕立

(中略)

差送り売捌度存候(

32

)⽜との記述があり,共 同揚返によってẫの標準化を図る方向に彼が一歩を踏み出したことが読み 取れる。また,新井領一郎宛て

1877

3

8

日付け星野長太郎書簡には

⽛会社ニ精密ノ綾取ヲ成シ得ル大サ[筆者注;揚返枠=大枠の周長の意]

二メートル之揚篗ヲ備置各製糸家񥣱ハ水篗[筆者注;小枠の意]之儘会社

取集メ此揚篗ニ操ママ返シ転〻テトロ[筆者注;繊度の意]ヲ様シ成的一様 ナラシメ(

33

)⽜との記述がある。ここに出てくる⽛会社⽜とは,共同揚返を行 う製糸結社を指し,組織面でも構想が整ったことが読み取れる。

問題は共同揚返の構想が,いつ,どのようにして生まれたのかにある。

史料

6

-

1

で引用した座繰糸の改良を唱える新井の書簡では,新井の構想は まだ個別揚返に留まっていた。新井の書簡の日付は

1876

8

23

日になっ ているが,新井がいたニューヨークから星野がいた群馬県勢多郡に書簡が 着くまで約

40

日かかったと思われるから,星野がこの書簡を読んだのは

1876

9

月初め頃であったと推定される。速水が星野に絡交装置付き揚返 枠を教えたのは,新井の書簡を読んだ星野が新井の提案を具体化する方法 を速水に相談したためだったと思われるから,共同揚返の構想が生まれた のは

1876

9

月初めよりも後のことだったはずである。ところが,速水も また

1876

10

月に⽛戸毎に揚籰を糺し⽜と述べており,この時まで個別揚 返の段階に留まっていた。すると,共同揚返の構想が生まれたのは,

1876

10

月から星野が共同揚返の構想を伝えるために新井に送った書簡の日付 である

1877

2

23

日までの間だったことになる。すると,なぜこの半年 ほどの間に絡交装置付き揚返枠とそれを実際に運営するために必要な製糸 結社の構想が突如として現れたのであろうか。というのも,個別揚返と共 同揚返の間には,飛び越えるべき心理的障害が横たわっているからである。

(27)

先にも述べたように,個別揚返ではẫの形になって商品として完成した生 糸を商人に引き渡す代わりにその場で代金を受け取るのだから,生糸生産 者にとっては納得しやすい。ところが,共同揚返は,生糸生産者が小枠に 巻いた状態で生糸を結社に差し出すことを前提としている。小枠に巻いた 状態では商品として完成していないから価格は定まらず,生糸生産者は代 金を受け取っていない内に生糸を渡さなければならない。生糸生産者がこ れに抵抗を感じたことを窺わせる記録がある。史料は,星野が日本で最初 の共同揚返を行う製糸結社となった亘瀬組の結成を呼び掛けた時のことを 次のように伝えている。

史料

7

かくて君[筆者注;星野長太郎を指す]は村民を会して座繰糸改良の 急を説き,品質統一の必要を論じよつて以つて収め得べき利の確実に して且つ大なるを諭して大に直輸出の道を謀りしが,当時の民心多く は君が説を容るゝ雅量なく,白赤何れを擁して勝を誇るべきかを知ら ず,之れに賛せしもの寥々四十名,乃ち党を結んで亘瀬組を興し,専 ら改良座繰精糸直輸に力を致して君之れが社長となりて嚮導誘掖の任 に当れり,之れ實に本邦座繰製糸改良の出発点なりとす

(⽝大日本蚕糸 会報⽞第 183 号, 1907 年 8 月 20 日, 26 頁。)

星野が共同揚返の利益を説いても農民は狐疑逡巡してなかなか結社に加 わろうとはしなかった。今日の目から見れば,共同揚返を行う製糸結社に 参加した方が有利なのは自明のことのように思われるかもしれないが,そ れは我々が結果を知っているからである。星野が,⽛収め得べき利の確実 にして且つ大なるを諭して⽜も

(そして後に本当にそうなったのだが)

,それ を初めて聞いた農民がそううまくはいくものかと思ったとしても不思議で はない。あるいは,村民の中には生糸をだまし取られるのではないかと疑 った者もいたかもしれない。個別揚返から共同揚返への転換は,言わばコ ペルニクス的転換だったのである。このような大転換を速水はどのように して思いついたのであろうか。結局,星野は一部の村民

( 40 名)

を説得して

(28)

最初の共同揚返を行う製糸結社である亘瀬組を結成したのだが,星野の説 得に応じる者がいたのは星野家が村の有力者だったからであろう。星野は 辛うじて反対を押し切ったのだが,たとえ師と仰いでいた速水の教えに基 づくとはいえ,なぜ星野は成功を確信していたのであろうか。

もう一人の当事者である速水は,この辺りの事情について口をつぐみ,

何の記録も残していない。不可解である。速水が普段から記録をあまり残 さない人物だったのであれば,記録が欠けていても不思議ではないのかも しれない。ところが,速水は,多くの記録を残しており,それをまとめた 一書が存在するほどである(

34

)。然るに絡交装置付き揚返枠を考案した経緯に ついて速水は何も述べておらず,触れられるのを嫌がっているようにすら 見える。速水が絡交装置付き揚返枠を考案し,それを星野に教えたのであ れば,考案の経緯を本人が得意満面で説明してもおかしくはないのに,そ の形跡は見当たらない。ところが,速水が星野に絡交装置付き揚返枠を教 えたと思われる

1877

年春までの時期を過ぎると,速水は急に絡交装置付き 揚返枠について語り始める。例えば,速水堅曹手記によれば,

1877

8

29

日に長野県庁で楢崎県令に会った時のことだとして⽛揚枠改良スヘシト 図ヲ以テ示ス(

35

)⽜と記している。また

1877

9

2

日に田中村の器械を一見 した時のことだとして⽛揚枠ニ綾ナク自ラ奸策ニ似タリ故ニ其非ヲ説得

(

36

)

⽜と述べている。

9

7

日には下浅間上原七左衛門の器械

( 60 人繰)

⽛糸ノ綾取不整ナリ(

37

)⽜と評している。同じ日に筑摩郡の村井器械所

( 25 人

繰)

を訪問した時のことだとして⽛手振[筆者注;絡交装置の意]ヲ過ツ 故ニ之ヲ教示ス(

38

)⽜と述べている。このように

1877

8

月から速水は方々で 揚返枠

(大枠)

ないし絡交装置の不備を次々に指摘していたのだが,その際 に⽛完璧な絡交装置付き揚返枠を考案したのは自分で,それを見習え⽜と なぜ言わなかったのであろうか。確かに星野は速水から絡交装置付き揚返 枠を教わったと述べているのだが,なぜ速水はそれについて口をつぐんで いるのか。しかも,速水から教わった時期について星野が何も書き記して いないことも不自然である。星野も何か感じるものがあって,速水から教

(29)

わった時期をぼかしているような印象を受ける。さらに,そもそも速水は 揚返を施すことについて否定的であった。速水は,星野宛て

1874

1

8

日付け書簡で,⽛ネシリ糸ニ限リ御揚返しハ極愚之至也⽜と述べていた。

⽛ネシリ糸⽜とはヨーロッパ風に捻造にした生糸という意味で,器械糸を 指す。つまり,器械糸に限ってのことだが,速水は揚返を施すのは極愚の 至りだと述べていたのである(

39

)。すると,座繰糸に揚返を施すことについて は否定していないではないか,との反論が寄せられるかもしれない。しか し,速水は士族の出だったから,農民の生業であった座繰製糸に携わった ことはなかった。従って,座繰製糸で行われていた揚返については知識が なかったのに,完璧な絡交装置付き揚返枠を彼が考案したというのは不自 然である。

いずれにせよ,速水本人が口をつぐんでいるので,どのような経緯で彼 が絡交装置付き揚返枠を考案したのかは不明で,考察は行き詰ったかに見 える。ところが,ここでデウスエクスマキナが現れる。それは円中文助で ある。円中は,かつて彼が勤務していた内藤新宿試験場の功績として,次 の点を挙げている。

史料

8

手振[筆者注;絡交装置の意]ヲ改良シテ絡交ヲ完全ナラシメ生糸ノ 紊乱ヲ未発ニ防ギ箴角両端ノ粘着ヲ避ケ揚箴ノ寸法ヲ一定ニシ

(一 メートル半)

糸ẫノ緒留ト力糸ヲ充分ニシ生糸ハ總テ捻造リニ改良シ括 造ヲ改正シ同一手段ノ方法ヲ以テ古来ノ弊風ヲ矯正シテ大ニ需用者ノ 便利ナル方法ヲ得タルハ其効少ト謂フベカラス

其外共同殺蛹所及同揚返所ヲ設置シ小製糸家ヲ合同シ荷数ヲ纏束シ テ売買上ノ便利ヲ謀ル等改良ノ点枚挙ニ遑アラズ是等ノコト今日ニ於 テハ普通ノ慣例トナリ幼童モ亦之ヲ嘖々セリ然レトモ明治八九年

1875

-

76

年]ノ時代ニアリテハ實ニ最大至難ノ業務トス何トナレハ 之ガ改良ヲ督促スルモ自家ニ経験ナクシテ旧法ヲ墨守シ孰レモ疑惑 心ヲ以テ古例ヲḣ脱スル能ハサリシガ故ニ速ニ改良セシムルハ容易ノ

(30)

事業ニアラザルヲ深ク覚知セリ

(円中( 1897 ) 88 頁。下線は筆者が付した。)

上記史料の前段は,実はẫの標準化そのものを指している。つまり,ẫ の標準化に最初に取り組んだのは円中文助であった。後段の下線部

は,

小規模な生糸生産者を糾合して共同揚返を実施した,という意味である。

すると,なぜ内藤新宿試験場で共同揚返を実施することができたのか,と の問いが寄せられるであろう。内藤新宿試験場では教師となるべき人物を 養成するために養蚕と製糸を教えており,円中は製糸を担当していた。し かも,内藤新宿試験場には座繰器もあったらしい。そこで,円中は実習の 一環として場内で養蚕と製糸に携わっていた生徒を養蚕と座繰製糸を行っ ていた農民に見立て,彼らを指揮して共同揚返を行わせたのであろう。円 中はイタリアで製糸と撚糸を学んだ際に現地で日本の提糸に再繰を施して いる様子を実見したことがあったから(

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),絡交装置付き揚返枠を製作させて 揚返に充てていたと思われる。つまり,共同揚返を行う製糸結社の萌芽的 形態は,円中によって内藤新宿試験場で生み出されたのである。筆者が,

共同揚返を行う製糸結社の⽛萌芽的形態⽜と断ったのは,内藤新宿試験場 では損益計算は行われていなかったと思われ,経済的面で持続的な発展を 遂げるには至っていなかったと考えられるからである。

円中がその時期を

1875

年から

1876

年のことだとしていることも重要であ る。星野が亘瀬組を結成する

1

年前ないし

2

年前に当たるからである。し かし,共同揚返を行う製糸結社を内藤新宿試験場の外で設立することは難 しいということは円中にもわかっていた。史料の下線部

は,共同揚返の 実施を星野が呼びかけたのに対して村人が示した拒絶反応を髣髴とさせる ものがある。結局,星野が村の有力者の立場を利用して一部の農民を説得 し,亘瀬組の結成に漕ぎ付けたのだが,それでは円中が内藤新宿試験場で 行っていた共同揚返の萌芽的形態をだれが星野に伝えたのか。速水だと筆 者は考える。内藤新宿試験場の開場式が

1876

12

22

日に行われたが,速 水はこれに出席していたからである(

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)。開場式では,単に完成した設備を参 観者に見せただけではなく,その設備を実際に動かして見せるものである。

図 2 繰返し機
図 3 揚返用大枠 (六角枠)
図 6 米国絹業協会が推奨した枠角 ( 1909 年)

参照

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